コーヒータイムを純喫茶で

 カフェ、と聞くとなぜだか、たいそう洒落たものの様に感じる。


 私はカフェに入らない。やむを得ない場合を除き、大抵は純喫茶に入る。


 勘違いする者も多いが、純喫茶は喫煙できて、カフェはタバコを吸えない……という事ではない。

 また、カフェは最近の流行りのなんとかフラペチーノが出てくる店で、純喫茶は古めかしい喫茶店……という括りでもない。


 純喫茶は、酒類を扱わない喫茶店の事だ。ネットで調べると、その定義がすぐにわかるだろう。


 ある程度行きつけの店もあるが、私は初めて入る純喫茶で、ランチとコーヒーを頂くのが好きだ。その店その店のこだわりが感じられるからだ。


 しかしつい先日、ランチの時間に入った純喫茶は非常に残念な店だった。

 カレーは業務用のレトルト品で、味を変えることもなく出してきた。

 コーヒーは驚くべき事に、業務用の挽き豆をコーヒーメーカーで抽出し、電気保温によって煮詰まったものが出てきた。最悪だ。サラダも妙にパサついていて、これでランチセット890円。残念でならない。立地に甘えた店舗だった。カレーもコーヒーも、私が作った方がはるかに美味い。


 そんな苦い記憶を残したまま訪れた今日の店。外観は個人経営を思わせる古風な店構えで、昭和の時代に最新デザインだったであろう、格子状の枠に窓ガラスのはまったドア。それを押し開けると、カランカラン、とベルが鳴った。まさに喫茶店といった趣だ。


 店内は古さを残しつつも清掃が行き届いており、無名画家のものと思われる絵画が飾ってある。壁は全体的に黄ばんでおり、全席喫煙であることを無言で示すかの様に、店名入りのマッチと灰皿が置かれている。

 カウンターの他にはテーブル席がいくつかあり、カフェでよく見る、10人掛けくらいの大きなテーブルは無い。


 私はあのテーブルが苦手だ。強制的に相席にさせつつも、なんの気まずさもなく、ただ黙って席に着き、食事や休憩を済ませるとサッと立ち去るだけのテーブル。

 普通のテーブルでの相席における少しの気まずさと、会釈で生まれる互いの気遣いを必要としない、効率が全てのテーブル。人と少しでも関わるのが嫌いな者が増えたのか、それとも店側の回転率の為なのか……あるいは両方か。


 私は相席時のあの気まずさが嫌いではない。一言も会話がなくとも、互いの間に流れる気遣い。まれに会話を交わすこともある。当然、一期一会なので他愛ない話しかしない。それが良いのだ。

 仕事をせねばならない時に無遠慮に話しかけてくる奥様なんかもいるが、その場合、曖昧な笑みを湛えていれば良い。そのうち飽きる。


 まあそんなわけで、私は大きなテーブルのある、チェーン店には行かない。

 また、コーヒーは落ち着いていただくものだと個人的には考えているため、客が酔って騒がしくなる恐れのある、カフェにも行きたくないのだ。


 カウンターの奥に、見慣れないものが見えた。太い針金でつくられた小さな円を、3本の針金が支えた何かの台。先端のない円錐の様な形。それがあまりにも気になったため、私はテーブルに空席があるにも関わらず、興味本位でカウンター席についた。

 店主は優しい笑みで私に「テーブル席をお使い頂けますよ」と言ったが、私はカウンターで良いと返した。


 メニューを見ると、カレーとナポリタンが無い。失敗だったかと思ったが、代わりにトーストのメニューが充実していた。コーヒーもブレンドだけでなく、シングルオリジン……単一産地のコーヒーがある。ここは当たりかもしれない。私はセットメニューではなく、「店主おすすめ、ベジチーズトースト」と「エチオピア イルガチェフェ」のコーヒーを注文した。


 店主がカウンターに立ち、布を取り出す。ネルだ。

 ネルとはコーヒードリップ用の器具の一つで、円錐状にした布に挽いたコーヒー豆を入れて、そこに湯を落としてコーヒーを抽出する、ドリッパーのひとつだ。一般的なペーパードリッパーは紙の匂いが移ったり、コーヒー豆から出る油分を全て吸収してしまうが、ネルはコーヒーの油分もある程度抽出してくれる。ところがネルは管理が非常に難しい。毎回煮沸し、洗って水に漬けて保管せねばならない。そのため、多くの喫茶店はペーパードリッパーやコーヒープレスを使う。

 かくいう私も、コーヒーはプレスで淹れている。プレスはコーヒーの油分も余すところなく抽出するが、挽いた豆に付着した微粉を取り除くことが出来ず、終盤の口当たりがザラつくという欠点がある。それでも、ネルよりは手軽であるため、そちらを選んでいるのだ。


 気になっていた針金のオブジェは、自作のドリップスタンドだったのだ。店主はそのスタンドに年季の入ったネルをセットすると、細口のやかんからチョロチョロと湯をかけ、すぐにやかんを置いて火にかけた。コーヒーには蒸らしの作業が必須で、この工程を踏むことで、多孔質であるコーヒー豆の小さな穴にも湯が届く様になり、深い味わいを引き出すことが出来る。

 豆が膨らんできた。ガスが出ているのだ。新鮮な証拠だ。この膨らみを崩さない様にそーっと湯を絶え間なく注ぐ……と、思いきや店主は膨らみが崩れるのも構わず、湯をチョロリと膨らんだ豆に落とし、またやかんを火にかけた。


 当然、コーヒー豆のドームは崩れた。何故だ。どうしてそんな淹れ方を……?


 店主はその後も、少し湯を落としてはコンロに戻すという動きを繰り返しながら、カップ1杯分のコーヒーを淹れ切った。


 提供されたコーヒーは黒琥珀色をしている。薄すぎず、濃すぎない色合い。


 私は不思議な淹れ方をしたそのコーヒーを口に運ぶ。


 美味い。私のドリップに対する常識が覆された。店主はあえてこの淹れ方をしたのだ。私は思わず店主に話しかける。


「マスター、変わった淹れ方をしていましたよね?」


「ああ、よく言われます。なんでコーヒードームを潰すんだ、って」

 店主は苦笑いで答えた。


「……ええ。ドームが潰れたのに、このコーヒーはとても美味しいです」

 私は驚きを隠せず、見開いた目で店主を見つめながら話す。


「ははは。僕もね、昔はドームを潰さない様にそぉっと淹れてたんです。でもね、そうすると……お湯が冷めるんですよ」


 そこで私はハッとした。

 コーヒーの抽出には、最適な温度がある。その温度はおおよそ88℃から96℃と言われるが、コーヒードームを崩さない様に慎重に淹れると、温度はどんどん下がる。店主は、常に最適温度の湯をコーヒーに落としていたのだ。


「なるほど……」

 私は店主が長年かけて編み出した淹れ方のコーヒーを啜りながら感心する。そのコーヒーは提供された瞬間から飲める温度になっていて、私はさらに感心した。


「お客さんも相当こだわりがあるみたいですね。お客さんには、焙煎2日目の豆を使ったんだが、古いのを使ったらバレてましたね。危ない危ない。はい、トーストです」

 店主はいたずらっぽく微笑んで、裏で店主の妻が作っていたトーストを差し出した。


 色とりどりの野菜の上にチーズを乗せ、上にクレソンを散りばめたトーストは、コーヒーのこだわりにも負けない味とボリュームだった。


 すっかり満足した私は、店主に礼を言うと店を出た。メニューの中に、パフェもあった。あの店主の作るパフェだ。間違いなく美味いだろう。また来なくては。


「あっ……」


 店を出てから、私はタバコを吸うのを忘れていた事に気づいた。


 それほどまでに、コーヒーが美味かったのだ。


「まあ、良いか……」


 人のこだわりは尽きない。ましてや、それを生業とするものが追求したこだわりならば尚更だ。


 セオリーさえ覆す、上質なこだわりに触れた私は、心に琥珀色の満足感を抱え、雑踏に紛れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る