第6話


 捩じ曲げる



       ※


「示苑さん!?」

 闇に包まれた世界、全身を激しく燃え盛る白い炎に包みながら真っ赤な気喰に呑み込まれていった示苑。直後に美砂里が気喰を撃退し、赤い霧が空間に漂うも……気喰に呑み込まれていった示苑の姿はどこにも見当たらない。

「示苑さん……どこですか? 示苑さん?」

 闇。闇。闇。闇。見渡すすべてに闇が広がるばかりで、示苑の姿がどこにも見当たらない。

「示苑さん……示苑さんってば!?」

【はてさて、何をしているのですか? 今あなたがしようとしていることはまったくもって意味のないことですよ】

 気がつくと、真っ白な神衣を纏った美砂里の横に銀色の幼女、ギンナンがいた。

【示苑は気喰に呑み込まれてしまいました。もうどこにも存在しません】

 三倉示苑。この世から抹消された存在。この地にかけらすら残すことなく。

【示苑はとても優秀な神人でしたが、このような結末は、とても残念です】

 ギンナンの言う優秀は、その神人が持つエナジー量に比例する。優秀と呼ばれる示苑は、エナジーが誰よりも膨大だった。そして、そのエナジー量はその者の残された寿命に比例するもの。

 つまり、示苑は誰よりも長生きするはずだった。

 なのに、死。

「ねぇ、示苑さんはなんで死ななきゃいけないのぉ!?」

【うーん、死んだというより、この時空から抹消されたって感じですね。あ、でも、あなたにとっては同じことでしょうか?】

 いつだってそのにこやかな表情を変えないままに、ギンナンは小さく小首を傾げる。

【美砂里にはまだでしたが、示苑にはエナジーがその者の寿命であることは伝えていました。つまりは、君たちはその命を懸けて気喰と戦っていることになります。では、なぜあなたたち神人は戦っているのかというと、それはもちろん人類を気喰から守るためです】

 気喰は人間が生み出した絶望の種に寄生し、生きる気力を奪い取る。そんな人類に害を成す気喰を倒すため、寄生された人間を救い出すために、美砂里たちのような神人が存在するのだ。

【では、唯一気喰に対抗することができる神人がいなくなったら、世界はどうなってしまうでしょうか?】

 神人がいなくなってしまえば、気喰は次々と人間が生み出した絶望の種に寄生し、人間を死に至らしめていく。人は絶望の数だけ死ぬこととなる。

【気喰をのさばらせては、人間がどんどん死んでしまいます。それでは困ってしまいます】

 気喰によって人類が滅亡される。

 それを防ぐための神人。

「ど、どうすればこの世から気喰をなくすことができるの?」

【それは不可能なことですよ】

 気喰の全滅は、不可能なこと。

【なぜなら、気喰を生み出す根底にあるのは、あなたたち人間ですから】

「人間?」

【はい】

 にっこり。

【あなたたちが滅びでもしない限りは気喰がいなくなることはありません】

「どうして? ちゃんと分かるように説明して」

【それは美砂里にとって、知らない方がいいことなのかもしれませんよ。言うならば、摂理といっても過言ではありませんから】

 やはりギンナンのにこやかな表情は変わることがない。

【海の水は蒸発して上空で冷えることで雲となり、山に降り注いで川となり、そのまま海に流れていく、といったこの世界におけるサイクルが、本当は悪いことだと定義した場合、果してあなたに止めることができますか?】

 水が人間に害を成すものとなった場合、地球上から水をなくすことができるか?

【その水を得ることで命を保っているあなたたちには、水を消し去ることなど、とてもできません。簡単に考えようとすると、その水が気喰だと思えばいいわけです】

「思えないよ、そんなの」

 よく分からない相手の変わらぬ語調に混乱しつつ、美砂里はギンナンを見つめる。縋るようにして。

「水は人を潤してくれるけど、害にはならないから」

 この星のあらゆる生命の源、それが水である。人間が生きていけるのも水があればこそ。田畑に実りをもたらし、木々を芽吹かせ、この星に命を誕生させた。

 水はあらゆる生命を満たしてくれているのである。

「けど、気喰は人を死に追いやることしかできてないよ。そんなの、水と一緒になんて無理」

【あなたは水が必要なもので、気喰は害として認識していたとしても、結局は同じことです。いわば、水も気喰も摂理でしかないのですから。どちらもこの世界を支えている同じ理法です】

 例えば、人間にとって害と扱っている虫がいたとして、その害虫を摂取する昆虫がいて、その昆虫を食する動物がいて、その動物を食べる人間がいる。害虫がいなくなっては、回り回って人間に影響が及ぶ。

【君たちにとって害としか思えない気喰だって、この世界を形成するためには決してなくてはいけないものなのです】

「気喰がいったい何の役に立ってるっていうの?」

 苛立つような衝動を抑え、美砂里は尚も食らいつく。伝えられているのは、とても認められるものでないから。

「みんなを絶望に追いやって、死に至らせるだけの化物が、いったいこの世の何のためにあるっていうの?」

【それはもちろん、ボクのためですよ】

 これまでと変わらない口調。その言葉に含まれる意味の影響をまったく気にする様子もなく。

【気喰はボクに命を提供してくれています。だからこそ、こうしてボクは生きていることができています】

 ギンナンに浮かべられている小さな笑みは、いつだって変わることはない。


       ※


 膨大な次元に存在するさまざまな宇宙空間において、ある一つの命が存在した。

 その命は、それが命である以上、生まれた瞬間にその限りが定められている。

 しかし、その命は疑問に感じた。

『決められた寿命に対し、超えることは本当に不可能なのか?』

 研究に研究を重ね、自らの寿命が尽きてからも研究を後任に引き継がせていき……そうして気が遠くなるほどの永遠を有する時間を費やし、ついに一つの可能性を見つけ出す。

『放置された時間であれば、それを拾ってつなぎ合わせることができる』

 自らの寿命は決まっている。である以上、どうあろうとも延命させることはできない。けれど、そこに他の寿命をつなぐことができれば、その命は寿命が尽きても存在しつづけることができる。

 しかし、それには重大な問題があった。文字通り、放置された寿命を見つけ出す必要があったのである。

 その命は、捨てられた寿命を探して、膨大な宇宙空間を彷徨うこととなり……いくつもの次元を通り超えて、ついに地球に辿り着いた。

 地球には、なんと自らの命を破棄する生き物がいたのである。絶望に駆られ、自ら残された寿命を投げ出す生き物が。

 命は、その残された寿命を、投げ捨てられた多くの命を拾い上げる。導き出した可能性を証明するために、自分につなげようとするが……問題が起きた。拾った命には不純物がたくさんあり、一度濾過して不純物を取り除く工程を経なければならない。

 そうして純正な寿命を得て、命をつなげる実験は見事に成功。その命は理論通り、自らの寿命が尽きた後も存在することができたのである。

 寿命を超える延命は成功。

 さらには思わぬ副産物もあった。拾った命を濾過した際、除去した不純物が気喰となり、人々の絶望の種に寄生するようになったのである。気喰に寄生された人間は生きる気力を失い、自ら死を望んでいく。そうして自殺することは寿命を放棄したこととなり、それをまた拾うことができる。

 気喰の発生はまったくの偶然だが、そうしてこの星にやって来た命としては幸運としか思えないサイクルがはじまった。捨てられた命を拾い、濾過して命をつなぐことに使用し、除去された気喰はさらなる命に絶望を抱かせていくようになる。そうしてまた放棄された命を拾う。

 ギンナンは、これまで人間の寿命をつなぎ合わせて、悠久のときを超えていた。


       ※


【気喰という思わぬ産物を手に入れ、非常に素晴らしいサイクルが機能していたのですが、すぐに問題が発生しました】

 この星に捨てられてきた多くの命をつなぎ合わせてきたギンナンは、『問題が発生した』と口にしているにもかかわらず、しかし、少しも困ったような表情を浮かべないいつものにこやかな笑み。

【交通事故に遭ったとか、誰かに恨みを買われて殺されたとか、そういった突発的に寿命を全うできなくなった命では駄目なのです。つなぎ合わすことができる、ボクがつないでいける時間は、あくまで自殺のようにその命が自ら放棄したものでないと】

 所有する者が使えなくなったのでなく、所有すること自体を放棄したものだからこそ、命を自分のものとしてつなぎ合わせることができる。持ち主がなくなるのだから、自分の所有物にすることができるのだ。

【捨てられた命を拾って濾過し、それをつなぎ合わせ、一方で、濾過したときの不純物が気喰となって新たな死を求めていく……そうしていくと、最初は濾過する度に発生する気喰によってより多くの命が得られる素晴らしいシステムに思えました。けれど、長い目で考えてみると、それでは気喰ばかりが増えていくことになります】

 気喰が増えれば、その分多くの命が死に至り、その分また多くの気喰が誕生する。そうした日々が繰り返されていくと、すぐ世界中に気喰が溢れることとなる。

【気喰がただ一方的に増えていけば、この星からあっという間に命がなくなってしまいます。なくなっては、ボクにつなぎ合わせる命も尽きてしまい、それではとても困ってしまいます】

 その対策として、ギンナンは神人という存在を生み出していた。人々の絶望を増幅させて死に至らしめる気喰を唯一倒すことができる存在。

【あなたたちのような神人の活躍により、ようやくバランスを取れるようになりました。うーん、分かりやすく例えますと……これは実際にあったこの星のとある国の話です】

 ある国では、山に住まう狼が人里に下りてきて家畜を襲うことによる甚大な被害が出た。王は部下に狼絶滅を命じて、見事狼を絶滅させることに成功。

 ところが、狼を絶滅させたことにより、新たな問題が発生した。天敵の狼がいなくなったことで、山羊が爆発的に繁殖したのである。その結果、山羊は草原の緑を食べ尽くし、さらには普段食用としていなかった多くの木々をも蝕んでいく始末。

 そのような状態が全土へと拡大していき、国の緑はあっという間に三分の一ほどまでに減少した。このままでは国の崩壊も時間の問題。

 王はその対策として狼のとき同様に山羊の討伐を命じるも、山羊の繁殖能力は凄まじく、焼け石に水。

 沈みかかった国の情勢に頭を抱える王は、ある決断をする。

 一度絶滅させた狼を他国より輸入し、自国に解き放ったのだ。それにより、狼は国を犯そうとしていた山羊を食らい、山羊の減少とともに緑は元通りに戻っていった。

 そうしてその国は危機を乗り越えたのである。

【つまりは美砂里、君たち神人は狼なのですよ】

 草を食べる山羊。山羊を食べる狼。

 命を吸い取る気喰。気喰を撃退する神人。

【あなたたち神人がこの世界にいてくれるからこそ、この星から人間が消えることはありません。もしあなたたちの活躍がなければ、今頃絶滅していたでしょうね】

「そんなことって……」

 大きく肩を落とす美砂里。耳にした事実、これまで行ってきた神人の使命、この世界のすべて……あらゆるものが信じられず、瞼を深く落とす。

「……だったら」

 顔を上げた。同時に、トリガーを握る。

 憎しみに似た感情を滲ませて。

「これでぇ!」

 刹那、美砂里の手から放たれた白い鳥がギンナンを取り巻くが……ギンナンは悠然と立っている。

「どうして……?」

【ああ、なるほどなるほど。ボクがいなくなればすべて解決すると考えたのですね。それは無理な話です】

 にっこり。

【それはボクが与えた力です、ボクに通用するはずありません。飼い犬に手を噛まれるような間抜けなこと、するはずがありませんから。だいたい、あなたたちとボクとは同レベルで存在するものでありませんから、ボクを殺すことなど不可能です】

 変わることのない笑み。

【あなたたちのいうところの神という存在が実在するのだとすれば、それこそまさにボクのことかもしれませんね】

 であれば、人間が神に太刀打ちすることなどできるはずがない。相手は絶対的な神なのだから。

【あなたにはこれからも神人の使命を全うしてほしいです。いなくなった示苑の分も含めて】

「…………」

 睨みつける。憎しみを込めて睨みつけていく。そんなことで相手の表情に変化がないことは重々承知した上で、それでも双眸に込める力を緩めることはできない。

「自分が死にたくないからって、他人の命を貪って……この星に巣くう寄生虫なんじゃない」

【あなたはとてもおかしなことを言いますね。他人の命で延命していることをこの星に巣くう寄生虫と呼ぶのなら、それはなにもボクだけありませんよ】

 ギンナンは真っ直ぐ美砂里のことを見つめる。

【あなたも同じ寄生虫ですよ、美砂里】

「はあぁ!? なんでそんな!?」

【いいですか、あなたはボク同様に、今や他人の命をつなぎ合わせて生きています。なぜなら、あなたの命はもうとっくに使い果たしてしまいましたから。もはや他人の寿命でしか生きられないのですよ】

 神人の力を変換されるエナジーは、神人自身の寿命。

【気喰がいつも最後に赤い霧状になり、あなたはそれを回収していますね。あれは気喰が寄生した人間の寿命であって、あなたは毎回それを回収して命をつなぎ合わせて生きているわけです】

 つまりは、当初あった美砂里の寿命はすでに使い果たしており、それからの日々は他人の寿命を自分のものとして消費していることに。

【他人の寿命で生きているボクを寄生虫と呼ぶのでしたら、美砂里は自分のこともそう表現すべきですね】

 そう口にしたギンナンは、空間を覆い尽くす絶対的な闇に溶けるように消えていった。

「…………」

 直後、闇に浮かぶ赤い霧が、美砂里のトリガーへと吸収されていく。そうしてトリガーの赤い線は最高値まで補充された。

 赤い霧が吸収されるのと連動するように世界を覆い尽くしていた闇は、霧が晴れるようになくなり、さまざまな色が世界に蘇る。ここは商店街より少し外れた住宅の一室で、寝たきりの老婆がベッドで静かに寝息を立てていた。周辺にある古ぼけたタンスやテレビの上には、埃が溜まっている。

「…………」

 どうすることもできずにただただ目頭が熱くなる。

「…………」

 自分の横に示苑がいない。いなくなってしまった。

 気喰に食われたから。

 この世界から消されたから。

「…………」

 次から次に、涙が零れてくる。頬を伝わって雫となっていく。

 これほど虚しいことはない。

 これほどやり切れない思いはない。

 感情は止めどなく溢れてくるばかり。

「……ああ」

 どこにもぶつけることのできない激情が涙となり、美砂里の内側から溢れてくる。そんなこと、これまでの人生において一度たりとも経験したことのないこと。

「ああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 全身が真っ黒な憎悪に包まれた気がした。


       ※


 人間の気持ちはとても不安定で、起伏はとてつもなく激しい。昇進、離婚、進学、決別、表彰、失楽、勝利、堕落、抱擁、叱責……さまざまな状況を作りだし、さまざまな変化に応じて、喜怒哀楽といった感情を有していく。なかでも、沈み込む感情はいかなるときも人間の活動を劣化させるもので、ひどくなると絶望の種を生み出すことになる。種である間はちゃんと理性を保っていられるが、成長するともう感情の制御ができなくなり、自ら死を欲するのだ。そうして残された人生を放棄するのである。

 気喰という本来この星に存在しない存在は、そんな絶望の種を見つけ、寄生し、人間から残りの人生を放棄させるため、残された寿命を奪い取るために存在する。

 であるからには、人間を絶対的な絶望に導いて死に至らしめる気喰を倒すこと、それは間違いなく人類にとっての正義。神人の使命は、自分たち人間にはなくてはならない存在なのだ。

 けれど、その行為すらもギンナンの手で転がされているもので、ただただ利用されているに過ぎない。

 山羊に対する狼なのだから。

(…………)

 真実を知りながらも、美砂里はこれまで通り闇の世界へと身を投じていく。そうするしか、こうなった美砂里に選ぶ道がない。

(…………)

 分かっている。いくら自分が気喰を倒してところで、根本的なことは何も解決しない。こうしている間にも、世界中にいる気喰が人間に寄生し、絶望に誘っている。美砂里のように世界中にいる神人がそれに抗っているが、その行為はただ人間を絶滅させないための対策に過ぎない。ギンナンからすれば狙い通りなのだ。

 そのループ地獄をどうにか断ち切りたいが、美砂里ではどうにもすることもできない。人間が絶望の種を生み出すことをやめればいいのかもしれないが、それは不可能に近い。それほどまでに人は心が軟弱で移ろいやすい生き物なのだから。

(……どうすれば)

 操られていること、それはちゃんと分かっている。けれど、目の前の人間を見捨てるわけにはいかない。その度に神衣に身を包み、戦う。

 できることなら、ギンナンを亡き者としたい。ギンナンさえいなくなれば、人間が放置した寿命を濾過する存在がいなくなり、気喰が生まれなくなる。けれど、ギンナンは人間が立ち向かえるような存在でない。神人の力だって通用しない、全知全能のように存在を強固以上の絶対的に保っている。

 美砂里がそういった思考になったのだから、きっとこれまでの神人だって同じことを考えたに違いない。なら、勇敢にも立ち向かっていった者だっていたはずである。けれど、今もギンナンはああして存在している。無念だが、人間の力、神人の力では、とても太刀打ちできないのだろう。

 現に、美砂里は攻撃を試みてみた。吐き出されるすべて怒りをぶつけるように渾身の力を込めたが、あの銀色の毛を揺らすこともできなかった。

 弱者。

(わたし、どうしたらいいの……)

 闇の世界。気喰を撃破する。そうしてエナジーを回復する。

 他人の命で時間をつないでいく。

(わたし……)

 また気喰を撃破する。

 命をつないでいく。


 美砂里は家に帰らなくなった。自分が人でなくなった以上、家族の元に帰るなど、これまで同様の生活を送ろうなどと、世界すべてを騙しているような気がして、それではギンナンと同じことをしているみたいで、もう二度と家に帰らないと決めた。毎日マンションの屋上や橋の下など、誰もいない暗闇で一日を過ごしていく。金はなく空腹を得るも、決して死ぬことはない。すべてはエナジーが補ってくれたから。そうしてギンナンに生かされているから。

 思った。こんなことなら、神人の真の存在意義なんて知らなければよかった。知らなければ、以前のようにただ真っ直ぐ気喰に立ち向かっていけたのに。

 そういった煮え切れない悶々とした日々のなか、美砂里はとある少年と再会する。少年も神人であり、その能力はとても特殊なもの。

『きっと神人という存在も結構多くいて、能力も多彩なんだろうな』

 そう思考した瞬間、美砂里に閃きが訪れた。気喰はギンナンが吸収することのできない不純物。それを倒すために神人を生み出した。その関係性を意識したとき、閉鎖されたループを打開する、一筋の巧妙を見出した気がした。

『ギンナンは、なぜここまで神人という存在を必要としたのか?』

 美砂里は少年に自分が知るすべてを話した。いかにして自分たちが利用されているかということを。

 少年は深くショックを受けたようで、協力についてすぐに承諾を得られなかった。きっと少年も少年で自分が他人の命によって生かされていることに、深く悩み、苦しんでいるに違いない。

 美砂里は待つことにした。無理強いすることはできない、少年の方から美砂里の手を取ってくれる日がくるのを期待しながら。


 そうして美砂里は、運命の一月二十一日を迎えることとなる。

 神人としての定めに真っ向からぶつかることとなる、その日を。


       ※


 一月二十一日、月曜日。

 内側に直接突き刺す凄まじい冷気のような気配を感じている。川上の方からは冬の冷たい突風が吹きすさぶ。紫浦美砂里の後ろで三つに縛られた髪が横に流れるように揺れていた。

 世界に夕闇が迫っている。見上げたそこにある鮮やかな茜色を、西の空から暗黒の色が侵食しつつあった。

 大きな橋の上。美砂里はそこに立ち、眼下を睨みつける。

 草の生い茂る川原には、数えて十四人の人間が立っていた。ワンピースを着た少女、学校の制服を着た少年、はたまた背広を着た中年と、統一感のないさまざまな年代の人間が集まっている。

 そこで何かをやっているわけでなく、全員目は虚ろで、覇気なく立ち尽くすのみ。

 刹那、いきなりナイフを取り出した少女が、躊躇することなく自らの手首を傷つける。鮮血が溢れ、少女はその場に倒れていった。

 草むらに落ちた血が付着したナイフを拾う男性は、迷うことなく、自らの手首を切り裂いていく。血飛沫を浴びながらその場に倒れていった。

 それは次々と。まるでそう仕組まれた残酷な劇のような光景。

(…………)

 美砂里の全身には、これまでに感じたことのない強烈な圧迫感がある。全身が凍りつきそうなほどに、気喰の気配は強大なもの。

 だがしかし、そんなことで美砂里は足を止めるわけにはいかない。決めている。どんなことがあろうとも、最後の瞬間まで気喰と戦っていくと。

 橋の欄干に立つ。地面までは十メートルの高さ。気にしない。前に突き進むように足から落下。足元から激しい風圧を感じつつ、美砂里は自分の運命に口元を緩めた。なぜかこのような状況で笑うことができたのである。

 刹那、地面に落下する手前で、美砂里のいる世界は色を失い、暗黒の闇に囚われた。

(やる!)

 美砂里はトリガーを引く。全身をすっぽりと覆う神衣を身に纏った。

 飛炎。

(数が多くたって、負けないんだから)

 美砂里を取り囲むように、真紅の炎が点在している。その数は十四。どれも大きさは美砂里と同じぐらいで、首に両手両足といった、人間のシルエットをしていた。しかし、人間のそれと決定的に違うのは背中には巨大な翼があること。

 美砂里の出現で、気喰は無数の小さな虫のように、一斉に動きだす。背中の翼を羽ばたかせて上空に飛び立つものもいれば、直線的に美砂里に迫ってくるものもいる。

「負けないから」

 美砂里から白い鳥が飛び立っていく。

「いっけぇーっ!」

 迫りくる気喰に向かって、無数の純白な鳥が放たれた。

 気喰の真っ赤に燃える炎に無数の穴が空き、そのまま存在そのものが蒸発するように赤い霧となる。

 残り十三体。

「次ぃ!」

 背後から迫っていた気喰に小鳥の群れを放つ。

 気喰の胴体部分を小鳥が突き抜け、そのまま赤い霧と化す。

 これまでの気喰は美砂里の何倍もある大きさだったのに対し、今回のは美砂里とほぼ同じ大きさ。その大きさが耐久性に比例しているかは定かでないが、一度の攻撃で赤い霧と化していく。

 残り十二体。

 と、刹那!

「ぐぅ!?」

 右肩に熱された鉄を押しつけられたような激痛が走った。見ると、右肩が真っ赤に燃えているではないか。すぐさま振り払うように炎を打ち消すも、顔は痛みに歪む。

「いいいいいぃ!」

 歯を食い縛り、倒れそうな体を気力で保つ。

「次ぃ!」

 上空に飛翔する気喰。そこから炎の固まりが爆弾のように降ってきた。避けるために全力で闇を駆け抜けていくも、しかし、そこにも別の気喰が!

「ぃ!?」

 捕まってしまう。両腕でがっちりと羽交い締めされ、身動きできない。

「があああぁ!」

 真っ赤に燃える気喰に張りつかれているだけで、全身が焼けるよう。皮膚が焼けただれ、美砂里の内側にある水分すべてが蒸発せんばかりに、灼熱がその身を覆っている。そこに存在している感覚が揺らぐ。

 このままでは、すぐにでも意識を刈り取られることだろう。

「……負けないんだから」

 至近距離以上の零距離発射。気喰の両脇から小鳥を放つ。

 美砂里の体を締めつける気喰の腕が緩んだ瞬間に、美砂里は前蹴りで気喰を撥ね除け、さらに白鳥を放つ。

 気喰は、鳥に貫かれる度に体をくねらせていく。それはまさにダンスをしているようであった。軽快なタップの終焉には、燃え尽きた炎が赤い霧となって空間に漂っていく。

 残り十一体。

「くぁ!」

 息を抜く暇はない。背後から迫ってきた気喰の体当たりを食らわされ、全身が砕けるような激しい衝撃を受けながら、十メートル以上吹き飛ばされた。美砂里に襲いかかってきたのは、猛スピードで突っ込んできたダンプカーに撥ねられるような凄まじい衝撃。

「まだだぁ!」

 全身が軋むようだが、横たわっている場合ではない。

「次から次にぃ!」

 新たな白鳥が放たれ、突進するように目の前に現れた気喰を撃破。

 残り十体。

「しまっ!」

『しまった!』そんな短い言葉を最後まで口にすることができなかった。認識したときにはすでに三体の気喰に取り囲まれており、三方向から凄まじい勢いで突進されたのである。さらには、そのまま潰されるようにして身動きできないように固定された。

「がああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 焼ける焼ける焼ける焼ける。このままでは、バーベキューの牛肉のように、美砂里の全身が焼けただれ、炭となってしまう。

「がああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 苦悶が全身を駆け抜けるも、どうすることもできない。覆われる闇には、ただ美砂里の断末魔の叫び声に支配さればかり。

 気喰はまた二体やって来た。美砂里をさらに強固に取り囲む。

 上空にも二体にいる。そこから炎の固まりが落ちてくる。

「がああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 美砂里は動くことができない。外側からも内側からも無茶苦茶に壊されていく狂痛のなか、涙が溢れ、涎が垂れて、ただ全霊で泣き叫ぶことしかできない。

 そして、そのままではそうしている感覚すらも焼けただれていってしまう。

 掻き消されていく。


 駄目かもしれない。

 今日までずっと頑張ってきたのに、もうここで死んでしまうかも。

 神人として気喰に屈すること、憤りでしかない。

 結局、ギンナンの手で躍らされることしかできなかったこと、屈辱でしかない。

 けれど、もう駄目。

 しかし、考え方によっては、ここで楽になれるのかもしれない。

 これまで懸命に戦ってきた。そろそろ骨を休めるときなのかもしれない。

 抗って、戦って、そうして行き着いた最終地点。

 もう駄目。

 駄目。


『美砂里』

 声がした。それはとても大切な声であり、すでに失われた声。

 三倉示苑。

 美砂里を庇うようにして、気喰に取り込まれた示苑。

 殺された。

(……駄目だ)

 もうこれ以上犠牲を増やすわけにはいかない。自分が抱いている憤りは、ここで断ち切る。

 人間には弱い面だってある。それも含めて人間である。そんな弱い面に寄生し、気力を奪っていく気喰を野放しにできない。

 そして、それらをこっそり裏で操り、食い物としているギンナンを許すわけにはいかない。絶対に!

(……駄目)

 立たなくては。

 立ち向かっていかなくては。

 美砂里にはまだやれることはある。

 断じてまだ諦めていい状況でない。

 向かっていく。

 真っ向からぶつかってみせる。

 やってやる。

『美砂里』

 助けてくれた、あの笑顔を忘れないためにも。

 美砂里は戦いを継続する……切れそうだった感覚に、力が漲ってきた。


「いがががががががががががががががががががぁぁぁぁぁ!」

 宿す。宿してみせる。何者にも屈することのない強靱な力を。

 屈強なものに向かっていける勇気を。

「どけえええええええええええええええええええっ!」

 純白の炎に身を宿した美砂里。全身にありったけの力を込め、自身を取り囲んでいる気喰すべてを撥ね除ける。

 爆発する美砂里の力に、取り囲んでいた気喰は散り散りとなって吹き飛んでいった。

「わたしにはまだやることが残ってる」

 自身の命を燃やすような真っ白な炎に包まれた美砂里。そこから放たれた巨大な怪鳥。視界にいた一体の気喰が消滅する。

 残り九体。

「次ぃ!」

 白き怪鳥は大きく旋回。そうすることで、また一体気喰を呑み込み、消滅する。

 残り八体。

「っ!?」

 再び肩に焼けるような激痛が! 苦悶の表情。視界では、朱色のような灼熱の炎が肩を燃やしていた。

 しかし、美砂里は痛みを超越する強爆な力の限り振り払う。

「次ぃ!」

 頭上に向けての無数の小鳥を解き放つ。宙に浮かぶ気喰が消滅。

 残り七体。

「次ぃ!」

 闇を切り裂くように乱れ飛ぶ白き鳥。同時に二体の気喰が赤い霧と化す。

 残り五体。

「なっ……!?」

 気力のみで全身を突き動かしていく美砂里だったが……瞬間、胸に絶頂の衝撃が駆け抜けた。

 決して油断というものはなかったと思う。なのに、貫かれていた。その胸を、背後からの突進によって貫かれていたのである。

「がはぁ……」

 胸から霧状の血飛沫を噴出させながら、力なく膝から崩れていく美砂里。

 気喰は、その存在自体を一本の槍として、美砂里の体を貫通している。

「ぁ……」

 心臓を貫かれた。瞬間、鼓動が停止する。意識は一気に掠れていく。痛覚すら、もう感じることはできない。全身はまるで自分ものでないように、どうにも動かすことはおろか、思想も浮かべることができなくなった。

「……──」

 消えていく消えていく。美砂里のすべてが消えていってしまう。

「────」

 このままでは、もう……。

「──  」

「美砂里、踏ん張れ!」

(えっ……)

 声がした。美砂里の耳に届いた声。

 ならば、まだ音を聞くことができる。

 まだ生きることができている。

「がばぁ!」

 深く溜め込んだ息を吐き出すかのごとく、口から大量の血反吐が零れ落ちていく。しかし、さきほどまで認識できなかった痛みを感じられるようになった。消えそうだった意識が、今は鮮明なものとなる。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 荒い息。気がつくと美砂里は、上半身を大きく縦に揺らした。何の準備もなく、いきなり四百メートルを全力疾走した直後のように、胸が激しく太鼓の鉢で叩かれているみたいに苦しい。呼吸は大きく弾んでいる。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 見てみると、自分を貫いていた気喰がいない。その代わりに、美砂里を貫いていた気喰を掴む少年が立っている。

「やっぱり」

「こんなやつ、ぐちゃぐちゃに捩じ曲げてやればいいんだよ」

 気喰を掴んでいる少年は、美砂里同様に純白の神衣に身を包んでいる。その手に力を込めたかと思うと、気喰はおかしな方向にその身をぐにゃぐにゃに曲がっていき、赤い霧へと化していた。

 残り四体。

「待たせちゃったね」

 寅町尚琉。

 歪曲。

「大丈夫?」

「……遅刻ですよ」

 自分を覗き込んでくるような相手に、視線を逸らせつつも、自然と口元が緩んでいること、美砂里は自覚した。

「油断しないでください。まだ残ってます」

「ああ」

 二人の神人が背中を合わせる。そうして弾けるようにして同時に反対方向へと駆けだした。

 目標は残り四体の気喰。その力を存分に発揮し、殲滅を試みる。


       ※


 右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、すべてが闇。闇闇闇闇、闇の世界。そこに十四体分もの膨大な赤い霧が漂っていた。それらはすべて神衣を纏いし二人の神人によって倒された気喰の残り香。

【これはまた凄いですね。お二人とも、お見事でした】

 銀色の存在。人間の力を超越する神人も、異形の存在でしかない気喰さえも、その手の上で転がしている絶対的な領域に身を置く者。それはまさに人類に対して、全知全能の神。

 ギンナン。

【個々として戦うより、こうして力を合わせた方がより強い力を発揮できることができます。これで学習いただけましたか?】

 どういった状況においても、一切変化することのないにこやかな笑み。

【これからも是非とも力を合わせて気喰の討伐をしていくこと、お勧めします】

「ギンナンちゃんギンナンちゃん、『飛んで火に入る』です」

 細められた美砂里の瞳は、前方の闇に立っているギンナンを捉えている。

「今日はね、ようやくわたしたちの結束が固まった記念すべき日なの。だから、覚悟して」

【はてさて、『覚悟』というのはいったい何のことでしょうか?】

「わたしたちのこと、いいように使いまくってる罰のこと」

 美砂里は大きく息を吸い込み、ぐっと胸の中心に力を込めてから目を見開く。

「もう好きにはさせないから」

 歩み寄り、美砂里はギンナンに勢いよく白い鳥を放つ。

 しかし、届かない。攻撃はギンナンに届くことなく、まるでギンナンの周囲に透明な壁があるみたいに、寸前のところで弾かれた。

「絶対に許さないから」

【あなたは学習能力がないのですか? 以前にお伝えしたはずですよ。あなたたちの神人の力を与えたのはボクですから、ボクに反逆できるような力を君たちに与えるはずがありません】

「それはどうかなぁ?」

 不敵な笑み。美砂里は右手に握っているトリガー、でなく、左手にもう一つのトリガーを握る。それは、示苑が残したもの。

 美砂里は髪の毛を抜き、槍に変えた。振り上げると、白き槍は、燃えるような赤色と変色。そのまま目の前のギンナンに振り下ろす!

 ずぶりっ、実に鈍い音がした。

 貫通。

「ほら、思った通り」

 沼地に力いっぱい細長い棒を突き刺すような手応えに、美砂里は頬を大きく緩める。

「ギンナンちゃん、言ってたよね? 気喰は、命をつなぎ合わせるために取り除いた不純物だって」

 人間が自殺という行為によって捨てた残りの寿命。ギンナンはそれを拾い、自分につなぎ合わすことができるように不純物を取り除く。その時、取り除かれた不純物こそが、気喰という奇異の存在。

「わたし、一所懸命考えたの。悔しいけど、ギンナンちゃんから与えられた神人の能力は通用しない。けど、ギンナンちゃんが取り込むことのできない不純物だったら、通用するんじゃないかって」

 美砂里は神人としての力でなく、変換という能力で自らの力を気喰のものと同じに変化させた。ギンナンが決して取り込むことのできない燃える真紅の力。

「神人は世界中に溢れる気喰を撃退するために作くられたシステム。そりゃそうよね、気喰ばかりが増えていったら、比例するように命を捨てる人間が爆発的に増加して、あっという間にいなくなっちゃうもん」

 絶望の種を生み出す人類が気喰によって絶滅されてしまえば、ギンナンはつなぐべき命を得ることができなくなる。それでは元も子もない。

「けど、気喰が増えたなら増えたで、わざわざわたしたちのような神人なんかに頼まないで、ギンナンちゃんが手を下せばよかったんじゃない?」

 気喰が増えたら増えたで、わざわざ神人というシステムを作らなくても、ギンナンは直接手を下せば済むだけのこと。そうして制御すれば、この星から永遠に命を得ることができる。

 しかし、ギンナンはそれを選択しなかった。だからこそ、神人が存在する真の理由があるのである。

「ギンナンちゃんは増えつづける気喰を討伐するための神人を生み出した。けど、それはもしかすると、神人にその役目を押しつけたんじゃなくて、押しつけざるを得なかったんじゃないのかな?」

 自分では気喰を倒すことができなかったから。なぜなら、気喰はギンナンにとっては吸収することすらできない不純物だから。

「人間だって水分は吸収するけど、工業排水といった汚染された水なんか飲んだら、体を悪くしちゃうもんね。ギンナンちゃんにとって気喰は、触れる行為すら避けたくなる、毒のようなものだったんじゃないのかな?」

 そんな触れることすらできない毒を、自分ではなく神人に処分させていただけのこと。

「ほら、いくよ」

 エナジー変換によって、美砂里の両腕に純白の鳥がいる。刹那、それが燃えるような真っ赤に変化した。

 気喰の力。

「わたしたちの痛みを、その身で味わって」

 小鳥が気喰の力になったということは、当然反発するように美砂里の手が焼けただれていく。けれど、そんな痛みは関係ない。

 ギンナンを倒すためなら、その痛みですら快楽に思えるほど。

「きゃははははっ」

 赤く染まった鳥は、槍がまだ胴体部分に突き刺さっているギンナンの体を貫いていく。

「どうかな? あまり人間を見縊みくびるものじゃないかもね」

【これはまた、実に興味深いです】

 頭も耳も背中も、その小さな体を小鳥が貫いていったのに、ギンナンの表情に変化はなかった。携えられているのは、一切変わることのないにこやかな笑み。

【推測とはいえ、そこに思考が至ったこと、驚嘆に値します】

 ポンチョのような銀色の衣服に覆われたギンナンの体。そこにうっすらと黒い霧が立ち込める。

【はい、ボクの負けです。その敬意を表して、ここは退散することにします】

「させないよ。尚琉さん!」

「おう!」

 美砂里の声を合図に、尚琉は素早くしゃがみ込み、地面に向けた両手に力を込める。

 歪曲。

 一滴の水が水面に落ちて波紋が広がっていくように、尚琉のいる地点から一気に周囲の闇が歪んでいく。漆黒の闇が闇のままにぐにゃりっと。であれば、仮にそこにこの空間を抜け出すための出口があったとしても、飴が熱によってどろどろに溶けるように、出口という穴は塞がる。

 ギンナンの体に立ち込めていった黒い霧が、突風でも吹いたみたいに消え失せた。

「お前、逃がさないからな」

【これはこれは、本当に驚かされてばかりですよ。認めなければならないのかもしれませんね、ボクは少しあなたたちを見縊っていたことを】

 全身が穴だけという、見る側からすれば瀕死の状態なのかもしれないが、ギンナンは痛みを感じているような様子は皆無。その状況にすら慌てることも戸惑うこともなく、悠然とそこに立っている。

【変換に歪曲、これはもう見事な連携と言うしかありません】

「わたし、絶対許さないから」

 力を込める。美砂里の右手に真っ白な鞭が現れた。鞭は瞬時に真紅の色へと染まり、肩口までの髪が乱れるように激しく揺れる。

「これでもう逃げられない」

 乱れ飛ぶ真紅の鞭。その一振りごとに、銀色の存在には残忍なまでの激しい爪痕を残していく。

「きゃはははっ!」

 ギンナンの体にいつくもの痛々しい筋ができ、両腕が半分以上切り裂かれていく。鞭が襲いかかる度に、その身は裂かれて裂かれて裂かれまくっていき、異常者の手によって切り裂かれた幼女のように、無残な姿と化す。

「どう? わたしたちを甘く見るからこうなるんだよ」

 握っているトリガーのエナジー残量が僅かになる。美砂里は掲げて、空間に浮遊する真っ赤の霧を回収。すぐにエナジーは満タンになるが、しかし、空間にはまだまだ大量の赤い霧が立ち込めていた。

「わたし、ちょっとついてたみたい。今回は十四体も気喰を倒したからね、まだまだエナジーがこんなにもある。ギンナンちゃんを亡き者にするには充分だね」

 美砂里は不気味なほど不敵な笑みを浮かべ、全身を激しく切り裂かれて満身創痍というより、もはや肉片になったとしか思えないギンナンを見下す。

「ギンナンちゃん、とうとう年貢の納め時よ」

【うんうん。ボクは今、本当に驚いています】

 その身が激しく切り刻まれ、右腕が糸のような細い肉でぶら下がっている残虐的な状態なのに、それでも尚、ギンナンの表情が変わることはない。裂かれた顔面ににこやかな笑みを携えている。

【美砂里の考えた通りです。この星の命をつなげる際、捨てられた寿命を濾過し、不純物として取り込むことのできない気喰は、ボクにとっても絶望と呼ぶべきもの】

 気喰が人間の絶望だからこそ、仲間や同属を求めるようにして人間の絶望の種に寄生し、そこに新たな絶望を生み出す。

【そんなものを吸収したら、せっかく得た命を放棄してしまうかもしれませんから、どうやったってボクにつなぎ合わせることはできないのです】

 そんなもので汚れるわけにはいかず。

【である以上、その気喰にボクは触れることができないし、気喰に攻撃されれば、今あなたにされたみたいにダメージを受けます。変換する能力にそのような使い手の発想力、見事としか思えません。称賛に値します】

 ギンナンでは自身の不純物でしかない気喰に触れることすらできない。だから神人の力は無効にできても、気喰の力を無効にすることはできないのである。

 そもそも神人を生み出したこと、それはギンナンでは気喰を駆除することができないから。

【さらには空間を歪め、ボクの逃走を無効とした、というより、ボクをこの空間に閉じ込めたこと、これはもう敬服です】

 それを可能としたのは、尚琉の歪曲という特殊な能力があったから。

【さきほどからずっと、本当に驚かされてばかりです。こんなことこの星にきて初めてのことですよ……けどですね】

 にこやかな笑みは変わらない。

【美砂里、勘違いしてはいけません。ボクが驚いているのはあなたたちがここまでの発想を持ち、実際に実行できたことであって、断じてそれだけでしかありません】

 ちぎれてしまいそうな右腕を大きく揺る。

【残念ながら、あなたたちの健闘もここまでです。あなたたちはどうあったところでボクを殺すことはできません】

「それは『強がり』ってやつ?」

 美砂里にはそうとしか思えない。出口を歪めている以上、どこにも逃げ場はない。体はもうすぐにでも朽ちそうなほど、ずたぼろの状態。しかも、美砂里には攻撃を可能とするエナジーが空間にたくさん残されている。

 であれば、美砂里が攻撃を再開すれば、あっという間にギンナンは絶命することだろう。

「そろそろ念仏でも唱える頃合いだと思うな。って、仏に仕えるんじゃなくて、ギンナンちゃんそのものが神様なんだったっけ?」

【やっぱり勘違いというものはよくありません】

 ギンナンの言葉。喜怒哀楽といったものが一切ない、どんな状況下でも変わることのない平板な声。

【はてさて、これで本当にボクを閉じ込めたつもりですか?】

 空間を歪めて、出口をなくしたこと。

【ボクのこと、追い詰めたつもりですか?】

 美砂里の手によって、全身が肉片となりつつあるギンナン。

【ボクからすればこんなの、巨大な象がちっぽけな蟻に痛覚すら刺激されないほど弱く噛みつかれた感じ、ですらありませんよ】

 それは一瞬のこと。人間の瞬きすらも追いつかないほどの。

 それだけのことで、ギンナンのすべてが元通り。

【絶対的な存在である神を追い詰めた気でいるなどとは、人間というものは実に愚かな生物なのですね】

「ぁ……!?」

 目玉そのものが零れそうなほどに、美砂里の瞳が強大に見開かれることに!

 驚愕が目の前で起きた。それも瞬きの間で。

「っ!? っ!? っ!? っ!?」

 信じられない。これはもう信じられるものではない。

 一秒前には切り刻まれた肉片になっていたはずなのに、今は完全に元通りのギンナンがそこに存在する。

 完全復活。

 まるでぐちゃぐちゃとなったものが、リセットボタンを押すことによって、一瞬で以前の状態に戻ったみたいに。

「なんで……」

【あなたたちの傷はエナジーが癒してくれますよね。なら、ボクが傷を受けたところで、原理は同じです】

 これまでにこの星で拾った命によって、ギンナンのすべては保たれている。それを神人と同じエナジーとすれば、傷だって瞬時に癒えて当たり前。

【原理は同じでも、技量に関してはあなたたちより数段上ですが】

 だからこそ、全回復を一瞬で終えることができた。

【はてさて、分かってもらえましたか?】

「そ、そんなぁ!」

 信じられない。信じられるものではない。美砂里は首を大きく横に振りながら、両手から赤く染まった小鳥を放ち、打ち込んでいく。

 しかし、弾丸がギンナンの体を貫通した瞬間には、もうその穴が塞がる。次々に小鳥が貫通する直後に、その痕跡が消えていくのだ。

「そんな……」

 愕然とするしかない。ようやく有効な攻撃を見つけたのに、それすらも効果を得られないなんて。

 突きつけられた現実は望みや希望といった未来への明かる光を失った、もはや絶望と呼ぶものですらあった。へなへなっと腰砕けとなり、美砂里はその場に落ちるように沈んでいく。

「……ぁ……ぁぁ……」

【ボクはさっき、あなたたちはどうあってもボクを殺すことができないと言いました】

 それはまさしく、自身を生み出した絶対的な神に抗えない人間のように。

【愚かなあなたたちでもちゃんと分かるように、教えてあげますね。ボクとあなたたちとの絶対的な差を】

 ギンナンはやはり変わらないにこやかな笑みのまま。

【以前あなたに話した通り、あなたはもうあなたが生まれ持った寿命では生きていません】

 美砂里はとっくに自分の寿命であるエナジーを使い果たしている。今こうして生きていられるのは、気喰から回収した他人の寿命があるからこそ。この空間に漂っているもの同様に。

【元々ここには十四体の気喰がいて、さきほど君がその一体分のエナジーを回収しました】

 であれば、残りは十三体分のエナジーが、まだこの空間に残されている。

【すべてのエナジーが、人間の寿命でいうところの百年分あったとします。今のあなたが持っているエナジーとここに漂っているエナジーで、千四百年分のエナジーとなります】

 実際にはそんなことあるはずがない。気喰が得たエナジーは、人間が放棄した寿命。寿命が百年ある人間でも、放置したのが二十歳のときなら、エナジー残量は八十年分しかない。六十歳であれば、四十年分である。だからこそ、この空間に残されているのは、千四百年分よりも遙かに少ない。

【つまり、実際にはそれより少ないかもしれませんが、あなたはここにあるエナジー千四百年分でボクに攻撃することができるわけです。では、それだけの攻撃をつづければ、果してボクを消滅させることが可能でしょうか?】

 千四百年分のエナジーをすべて気喰の力へと変換し、それをギンナンにぶつければ、それはもうこの地方都市の大名希だいなき市なんてあっという間に滅ぼすことができる凄まじい破壊力になる。

【答えは、ノーです】

 ノー。

【そんなものでは、ボクに傷を残すことだってできません】

 この大名希市を壊滅することができる千四百年分のエナジーを込めた攻撃を受けたところで、ギンナンは瞬時に復活する。

 それはつまり、千四百年分のエナジーなんて簡単に撥ね除けられる膨大なエナジーをギンナンが有していることを意味していた。

【ボクのはね、ざっと四億年分です】

 その数字、人類にとっては想像を絶するものでしかない。

 気喰は絶望の種に寄生するのであって、その人間の人種、性別、年齢といったものは一切問わない。つまり、絶望して自ら死を選ぶ人間は、老若男女さまざまである。であれば、残りの寿命が六十年もあれば、数日しかない命だってある。

 仮に、気喰が奪っていく残り寿命の平均を四十年とした場合、ギンナンの四億年分は、この星の千万人分に相当する。

【この星そのものがボクの生きる源なのですよ。あなたはさっき、そんなちっぽけな存在で、全世界の命に戦いを挑もうとしていたのです。とても愚かなことでしかありませんね】

 千万人分の命に、たった十四人分の命が太刀打ちできるはずがない。相手があまりに強大過ぎる。そんなもの、素手で地球を真っ二つに割ろうとするほど馬鹿げている。

【さあ、ボクと君たちとの差をちゃんと理解できたのでしたら、馬鹿なことを考えるのはやめてください。別にボクが完全たる悪というわけではないのです。なぜなら、絶望の種は君たち人間が生み出しているもので、気喰はそれを増幅させているに過ぎないのですから】

 ギンナンや気喰が人間に絶望を与えているわけでなく、種は人間が生み出しているもの。人間は、せっかく与えられた命を捨てていく。残された命を自ら放棄するのだ。

【ボクは君たちが捨てたものをただ拾っているだけに過ぎません。それは再利用といってもいいのではないでしょうか。リサイクルとは、最近のあなたたちの流行でしたね】

「……違う」

 あまりにも強大である相手を前に、美砂里はろくに顔を上げることができない。立ち向かっていけるような気力もなく、ただ地面の闇に立ち尽くす。それでも美砂里は、途切れ途切れではあるが言葉を吐き出していく。

「ギンナンちゃんは私欲のために、この星のこと、食い物にしている」

 自らの延命のために、この星を食い尽くし、その存在を保つシステムとして利用している。

「そんなの、悪だよ……」

【うーん、この星を食い物にしていて、それが悪というなら、あなたたちだって悪ではありませんか? 同じように自らの命を長らえさせるために、家畜という名目で他の命を利用し、まさに食い物にしているのですから】

 動物を狭い小屋へと押し込め、餌を与えて太らせて、効率よく食料を確保している。ならば、ギンナンがしていることだって変わるものではない。

【自分たちがやっている家畜に正当性があり、同じようなことをやっているボクが悪だというのは、とても身勝手な考え方でしかありません。だいたい、ボクのやっていることは、あなたたちが捨てた命を拾っているだけ。大量の餌を与えて丸々と太らせ、食べてしまおうとするのとは、まったく質の違うものだと思いますが】

「うるさい……うるさいよ」

【やっぱりあなたたちは本当に身勝手な生き物でしかありません。けれど、その身勝手さ故に、自ら命を捨てるのですから、それはそれでありがたいことではあります】

「…………」

【さて、馬鹿な考えはもう終わりにしましょう。美砂里、君にはこれまで通り、神人としての使命を胸に、人類を守ってほしいのですが】

「『自分の命をつなげるために』の間違いでしょ」

【言い方はどうあれ、やることに変わりはありません。あなたは、気喰に寄生された目の前の人を助けるわけです】

「……いや」

【はてさて、とても不可解な思考ですね。美砂里は神人を放棄するのですか? その力を欲したのが自分だというのに……なんとも人間とは理解に苦しむ精神構造でしかありませんね】

「分かってもらわなくて結構。これ以上利用されるんだったら、死んだ方がまし」

【それは、あなたも残り五十二年と百二十二日という寿命を放棄するということですか?】

 命は誕生した瞬間、その寿命がすでに決定する。どんな命であれ。

【それならそれで、ボクが拾ってあげますよ。と言っても、あなたの場合は、すでに自分の寿命を使い果たして他人の命で生きているのですから、あなたからもらうというのはちょっと違いますけどね】

「この外道ぉ!」

【とても心外です】

 にこやかな笑み。その変わらない笑みのまま、ギンナンは人間でいえば嘆息するような間を空け、視線を美砂里の向こう側へ。


       ※


【はてさて、尚琉はどうしますか? 神人としての使命を全うしてもらえますか? それもと、美砂里のように、自ら死を望みますか?】

「俺、は……」

 声をかけられた尚琉は、巨大な壁に押し潰されるように小さくうずくまる美砂里と、その前で真っ直ぐ視線を向けてくるギンナンを交互に見つめながら、小さく吐息。

「俺は悪いけど、美砂里の道は選ばないよ」

 尚琉が口にした言葉により、美砂里の肩がぴくりっと小さく動いたが、気にしない。尚琉は歩を進め、ギンナンの前に立つ。両膝を地面に、腰を屈めて小さな背中に腕を回した。

 それはまるで、愛しい相手を力いっぱい抱きしめるように。

「せっかくある命を捨てるなんて、そんなことしていいことじゃないからね」

【尚琉は賢明ですね】

「賢明か……」

 闇に大きく息を吐く。そうして俯いたまま顔を上げることのない美砂里を目に映した。

「美砂里からいろんなこと聞いて、俺なりに考えてみたんだ」

 ギンナンのこと、気喰のこと、神人のこと、すでに寿命が尽きていること、今生きていられるのが他人の命であること……いろんなことがショックで、絶望と呼べるほどに目の前が闇に閉ざされた気がした。

「けどね、神人の力が及ばないって分かっていながら、それでも美砂里は戦おうとした。ましてやその方法までちゃんと突き止めていたんだから、凄いって思ったよ。こういう人はきっと他に流されることなく最後まで自分らしく生きていくんだろうなって」

 尚琉の力で空間を歪めて退路をなくし、美砂里の力でギンナンの唯一の弱点である気喰の能力を得たこと。

 絶望的な状況でも打開策を見出し、前に向かっていった美砂里の姿勢に、尚琉は背中を押されたのである。だからこそ、こうしてギンナンと戦うことを決意した。

 結果、惨敗であったとしても。

「すべて美砂里のおかげだよ。美砂里のおかげでこうしてこの場にいることができるし、美砂里のおかげで塞ぎ込むことしかできなかった日々から抜け出すことができた」

 エナジーの全消費により一ノ瀬咲を失い、もう明日を目指すことができなかったが、そんな日々から抜け出すことができた。それはすべて美砂里のおかげ。

「ここにこうして俺がいるのは、全部美砂里のおかげだよ。ありがとう」

 美砂里に礼を口にしてはいるものの、しかし、尚琉は美砂里と対峙するように向き合い、その胸にはギンナンを抱いている。

「だからね、美砂里にお願いしたいんだ。これからも神人として気喰と戦ってほしい」

「えっ……」

「お願いだよ」

「ちょ、ちょっと……」

 さっと顔を上げて、美砂里の睨みつけるような目は、しかし、一瞬にして鋭さが失われた。

「もしかして……」

 尚琉の目は、ギンナンにただ従おうというものではない。それは、必死になってギンナンに立ち向かっていこうとした美砂里がしていた目に近いもの。

 しかし、まったく同じものでもなかった。今の尚琉の目には儚さが含まれている。言語化するなら、『無理と分かっていながらも、神に一矢報いようとしていた目』であろう。

「尚琉さん……」

「可能性なんかなかったんだよ。なかったっていうのに、美砂里はギンナンに立ち向かっていく方法を見つけた。俺にそれを示してくれたんだ。ギンナンも言ってたけど、それは本当に凄いことだったと思うよ。そんな今にも切れてしまいそうな細い糸を紡いでいって、実際ギンナンまで届かたんだからね」

 それは人が神に触れた瞬間ですらあった。

「だから、俺も一つの可能性を見つることができたんだ」

 刹那、尚琉の全身が真っ白な炎に覆われた。トリガーを掲げる、空間の赤い霧が尚琉のそれへと流れていき、尚も白き炎を燃やしつづけていく。

「俺たちがこんなやつのために生きるなんて、ごめんだね」

【呆れた……まったく、君たちは本当に学習能力がないのですか?】

「おいおい、馬鹿にすんなよ。お前には神人の力は通用しないっていうんだろ?」

 今宿しているのは白き炎で、神人の力。その力を胸に抱いているギンナンにぶつけたところで、通用するものではない。

「気喰だったら別なんだろうけど」

【なるほどなるほど。美砂里に頼んで、あなた自身を気喰にでもしてもらうのですか?】

「ああ、なるほど、そんな発想があったか。けど、そうすればお前を少しでも苦しめられればいいだろうけど、それも無意味なんだったよな?」

 美砂里の力によって、唯一ギンナンに有効な気喰の力を有したところで、エナジー残量の差は歴然。あっという間に尚琉は力尽きるだろう。エナジーが尽きたとき、それは神人の死を意味する。

「だから、しない」

【はてさて、まったくもって理解できません。尚琉はいったいどうするつもりなのですか?】

「それはこれからのお楽しみさ」

 両腕でギンナンを抱きながら、尚琉はもう一度美砂里に顔を向けた。

「ごめん、美砂里。役目とか責任とか、そういうの全部押しつけちゃうようで悪いけど……神人としてこれからも気喰と戦ってくれ」

 この星から人間の弱い部分に寄生する気喰を殲滅して。

「頼む」

「尚琉さん、何をしようって……」

「さようなら」

 別れの言葉を紡ぎだした直後、尚琉を包む白き炎はさらに勢いを増していった。それが壁となり、すぐ前にいる美砂里の顔すら見えなくなる。

 尚琉はトリガーを掲げて、さらに空間に漂う赤い霧を吸収。

「なあ、ギンナン。俺たちが進んでいく時間ってのはさ、過去から未来に一直線に進んでいくんだよな?」

【そんなの当たり前のことです】

 にこやかな笑みはいつだって変わることはない。尚琉が発する強烈な白き炎に包まれていたとしても。

【そうか、尚琉は過去に戻ることができれば、ボクがこの星にやって来ることを未然に防ぐことができると考えたのですか? 馬鹿らしいです、それこそ不可能。どうしたところで過去に戻ることはできませんよ。時間というものは過去から未来へ直線的に流れるものですから】

「あっ、なるほど。そういう手もあるわけね。タイムスリップってやつ? その場合は時間の流れを逆行してかなくちゃいけないわけだよな。残念、俺には無理だ」

 そう言う尚琉の口元が小さく緩む。

「つまりだ、時間ってやつは、どうあったところで過去から未来に直線的につながるわけなんだよ」

【一瞬の一瞬という本当に僅かでしかない無数の時間の粒が、限りなく無限に真っ直ぐ並んでいき、それが時間の流れとなっています】

 それは文字と同じ。文字は一文字ずつ直線的に並んでいく。決して並ぶ文字が逆行することはない。

「けどさ、そういった流れがあるものなら、それがどんなものであれ、きっと捩じ曲げることができるんだよな」

 溝に水が流れているものを川とするならば、溝を蛇行させれば川そのものを蛇行することができる。

 真っ直ぐ伸びているレールを曲げれば、真っ直ぐにしか進めない電車は曲がることができる。

 ならば、真っ直ぐ流れている時間があるなら、その流れを曲げることだって可能なはず。

「俺の能力は歪曲だからな」

 直線的に進んでいる時間を捩じ曲げ、それにより時間の進行方向を曲げる。そうすることで、曲がった者の歩む未来と、他者の歩む未来がぶれて一致しなくなる。曲がった瞬間が分岐点となり、二度と交わることがなくなるから。

 もし地球にいる人間が進んでいる未来の向きと、ギンナンの未来の向きが捩じ曲げられて一致しなくなれば、もうギンナンは人間の命を自身につなげることが不可能となるはず。

 人間の進むべき未来が、ギンナンにはもう歩めなくなるのだから。

「どうだよ?」

【そんなこと、できるはずありません。第一、ボクには神人の力は通用しませんから、そんなこと起こせるはずがないのです】

「俺は別にお前に力を使うわけじゃない」

 神人の力をギンナンに使うのではなく、ギンナンの命が進むべき方向に使う。

「瞬間のつながりが時間なんだろ? だからそこに次の命を足すことができる。なら、そのつなぎ目をちょっと曲げるだけだ。できないはずがない」

 本のようにずっと連なっている物語というものを微分した場合、一ページとなり、一行となり、最終的には一文字となる。つまりは、その一文字の並びが一行となり、一ページとなり、一つの物語に。

 なら、常に一定のものとして定まった物語の流れを捩じ曲げようとするには、文字の流れを曲げることさえできれば、いいだけのこと。

                       こ

                       の

                       よ

                       う

                       に

                       し

                       て

                       。

 物語が一文字のつながりなら、時間は瞬間のつながりでしかない。なら、その流れもやはり文字のように変えることができる。

「もうお前にみんなの命を使わせない」

 空間に漂うすべての赤い霧を次々と吸収しながら、尚琉は白き炎を燃やしつづけた。

 それは、屈強な一本の太い柱を素手で折り曲げるようなもので、とても尚琉のような人間では不可能。しかし、尚琉はただの人間ではない。神人である。人間には使うことのできない能力が備わっている。

 歪曲。

 であれば、どれだけ太い柱でも曲げることは可能である。なぜなら、神人として尚琉に与えられた能力が、あらゆるものを捩じ曲げるから。

「いっけえええええええええええええええええぇぇぇぇぇ!」

 谺する絶叫。

 空間を切り裂き。

 どこまでも突き抜けていく。

「    」

 刹那、この暗黒の闇より白き炎が消えた。微少たりともその色を残すことなく、空間には深い闇のみが存在する。

 銀色の欠片すらなく。


       ※


 闇の世界。

 その闇に唯一残された色、

「…………」

 それは紫浦美砂里という色のみ。

 その体も、心も、激しく震えていた。

 次の瞬間、空間から闇が消えていく。世界は色を取り戻し、ここは冬の冷たい風が吹きすさぶ川原。

「…………」

 美砂里の視界……数えてみて、十三人もの人間が地面に倒れている。そこに倒れて、死んでいる。

 唯一、部屋着のような灰色の服装の中年が、どこにも焦点が合っていない目で呆然と立ち尽くしていた。しかし、その手首にはナイフが当てられている。ここに横たわっている他の連中と同様に、その命を捨ててしまいそう。

 美砂里は吐き出すように口にする。

「少しは自分の力で生きてみましょう」

 美砂里はすでに背を向けている。そこに背を向け、前に向かって歩きだしている。もう振り返ることはしない。

「せっかくある命なんです。誰かに使われる前に」

 ぐっと奥歯を噛みしめて、美砂里は夜の帳に包まれていった。


       ※


(まったく)

 今日も紫浦美砂里は闇に包まれている。純白の神衣に身を包み、そこで生きている。

(次から次に)

 この星からギンナンはいなくなった。神人の能力によって時間軸を捩じ曲げられたことで、美砂里が存在する時間軸に存在できなくなったのである。

(まっ、しょうがないか)

 正面には真っ赤な炎を燃やす気喰の姿がある。ピラミッドのような巨大な三角形を形成していた。

 気喰とは、人間の命から分裂した絶望の形。人間が生み出した絶望の種に寄生し、種を成長させることで寄生した人間を絶望させ、生きる気力を失わせる。そうしてその人間から残された寿命を奪っていく異形なのだ。

 そんな気喰の誕生は、ギンナンが回収した人間の寿命を濾過した瞬間にある。つまり、この星からギンナンがいなくなった現状、もう新たな気喰が発生することはない。増えることがなくなった以上、あとは神人が気喰の残党を片っ端から倒していくだけ。

 だがしかし、気喰を撃退する役目を背負った神人も、ギンナンからトリガーを与えられることで誕生する。ギンナンがいなくなってからは新たな神人が誕生することはない。

 つまりは、世界中に溢れる神人が気喰を殲滅するのが先か、またはた気喰をすべて殲滅できずに神人の寿命が尽きるのが先か……どちらにしろ、それぞれの存在は、これからの潰し合いによって数を減らしていくだろう。

(やってやる。皺くちゃのおばあちゃんになっても)

 ギンナン曰く、美砂里の寿命はまだ五十年以上残されているという。世界中にあとどれだけの気喰が存在するのかは不明だが、その命が尽きるまで美砂里は神人としての使命を果たすこと、心に決めていた。

 そう託されたからである、自らの存在とともにこの星をギンナンの手から救い出した少年に。

 その役目、必ず全うしてみせる。

(絶対に負けないんだから)

 肩口までの髪の毛を揺らして、美砂里は真っ赤な炎へと立ち向かっていく。


 まだまだ美砂里と気喰との戦いはつづいていく。もう学校に通うような、普通の小学生の生活に戻ることはできない。けれど、美砂里は絶対に負けない。負けるわけにはいかない。自分たちの命は自分たちで守ってみせる。

 この星に、多くの命を捨てさせないためにも。

 そして今日も、美砂里はトリガーを引く。

 真っ白な衣に覆われていく。

 その身を闇に置いた。


       ※


【まさかでしたね】

 光線のように尾を引く光が、次から次に銀色の体の横を通り抜けていく。

【進んでいく時間軸を捩じ曲げて、命のぎを無効にされるとは、その発想に実行力、尊敬にすら値します】

 ギンナンは今、一人の人間に抱かれている。十八歳の少年の腕にしっかりと固定され、容易にはそこから抜け出せそうにない。

 けれど、その少年はすでに力尽きていた。

【用心深いといいますか、執着深いといいますか、死しても尚この状態とは、まったく尚琉には恐れ入りました】

 ギンナンと、それを抱える尚琉に無数の光の渦が迫ってくる。それは迫ってくるというより、ギンナンたちが光すら追い越した速度で移動しているみたいに。

【けどね、尚琉、あなたのやったことは、いかにもあの星の生命らしいといいますか、実に自分勝手のものでしかないのですよ】

 尚琉がやったこと、それはギンナンの時間軸を曲げて、もう尚琉たち地球の命をつなぎ合わすことを不可能としたこと。

【自分にとって都合の悪い者、仇成す者を関係の場所へ押しつけようとするなどと、自分たちさえよければそれでいいのですか?】

 ギンナンはこうして存在している。ギンナンは、ただ地球の時間に存在できなくなっただけで、存在が消滅したわけではない。

【ボクもあなたたちを見習うことにします。牛を食べられなくなったなら、次は魚を食べることにしました】

 と、突然、光の渦が消えた。

 そうしてそこに、暗黒空間にぽつりっとまん丸い真っ青の星が浮かんでいる。まるでさきほどまで存在した地球のような色合いをしているが、しかし、ここは決して地球ではない。この空間は地球のあった宇宙ではなく、次元そのものが違うのだから。

 ここは、尚琉によって捩じ曲げられた時間軸の世界。

【さあ、今度はここで命をつなげていくことにしましょう。はてさて、この星にはいったいどんな命が捨てられているのでしょうか? 今からとても楽しみです】

 そうしてギンナンは新たな青い星へと向かっていく。その命をつなぎ止めるために。

 豚の家畜に失敗したからといって、断じて途方に暮れることなく、今度は魚の養殖に挑戦するかのごとく。

 幼女だった銀色の存在は、頭から足の先までどろどろの液状に変化する。まるで、存在に定まった形などないかのごとく。

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神様のいのち @miumiumiumiu

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