第3話


 闇を経た思い



       ※


 五月三日、木曜日。

 世間はゴールデンウイーク真っ只中だが、高校生である寅町とらまち尚琉なおるにとって昨日は平日で学校があったため、本日の憲法記念日から四連休ということになる。

 しかし、休みだからといって朝寝坊していられるほど、四連休初日は甘くない。今日は尚琉が所属する泉が丘高等学校サッカー部の県大会が行われる日。

 初戦は日曜日にあった。尚琉が所属する泉が丘高校サッカー部は見事勝利。そして今日、二回戦。

「はっ……? 一ノいちのせがきてないって?」

 尚琉の目が小さく見開かれる。突如として耳にした言葉に、驚きと戸惑い、それ以上の動揺を隠しきれずにいた。

「どうして?」

「それがね、よく分からないの。ただ、さくちゃん、急用ができたとかで」

「急用……」

 夏服の制服である半袖の白シャツ姿の女子マネージャー、朝倉あさくら明美あけみはそう言い残し、忙しそうに顧問の先生のところへと駆けていった。

(一ノ瀬が、こないのか……)

 太陽は一番高い場所にある。そろそろ尚琉たちの試合がはじまる時刻。すでに青色のユニホームを着込んでおり、グラウンドの隅でアップを済ませた。あとはまだつづいている前の試合が終わるのを待つのみ。

(一ノ瀬……)

 急遽これなくなった一ノ瀬咲は、尚琉と同じ三年生の女子マネージャー。それが今日という大事な試合にこれないこと、尚琉にとっては青天の霹靂としか言い様がない。

(こりゃ、絶対負けられないな)

 尚琉たち三年生にとって、この大会はこれまでにない特別なもの。なぜなら、この大会を最後に、三年生は引退する。

 尚琉たちの通っている泉が丘高等学校は市内でも有数の進学校で、断じて部活動に力を入れているわけではない。尚琉たちの先輩は、二年生の冬の大会を最後に引退し、受験に備えたぐらいで、それはどの部活もだいたい同じだった。野球部ですら三年生の夏の大会を目指そうとはしないのである。

 だが、尚琉たちは三年生になっても残っていた。もう少し、部活をつづけたかったから。例年であれば二年の秋に引退するところを顧問に直訴し、三年の春に行われる県大会まで引退を先延ばしにしたのである。まだまだ放課後にボールが蹴りたかったし、まだまだ受験生になりたくなかった。まだまだ青春を謳歌し、精一杯汗を流したいのだ。

 冬も地味な体力トレーニングに積極的に取り組んでいって、いよいよこの最後の大会を迎えた。

 尚琉は決意していることがある。この大会、どの段階で引退となろうとも、悔いを残すことなく全力プレーして、そうして、引退となったその日、ここまで部活を支えてくれたマネージャーの一ノ瀬咲さきに告白しようと決めていた。負けたその日、引退したその日に告白して、そうすることで高校生活のけじめにしようと考えたのだ。

 しかし、あろうことか、今日が告白する日になるかもしれない今日、咲がこれなくなったなんて。

(こりゃもう、勝つっきゃないだろ)

 絶対に負けられない。咲にどんな急用ができたか知らないが、きっとどうしても抜けられない用事ができたのだろう。

「みんな、今日は絶対勝とうな!」

 背中に『泉が丘』とある青色のユニホーム、試合直前の円陣において、尚琉はこれまでにない大きな声を出して気合を入れた。この試合に懸ける強い気持ちをみんなに伝えたい。

「いくぞ!」

 青空に響いていく大きなかけ声とともに、青いユニホームがグラウンドに散っていく。この試合に挑むため、それぞれのポジションに向かって。

「…………」

 尚琉はセンターサークル内にいる。試合前のコイントスでボールの権利を得ていた。だからグラウンドの中心に立っている。

 試合前、緊張のために少し乱れつつある心臓の鼓動を意識しながら、いつものようにベンチの様子を見てみた。椅子に深々と腰かけている顧問の大岩おおいわの横にいつも座っている咲の姿はない。

(絶対勝つ!)

 ホイッスルが響く。

 尚琉はセンターサークル中央にセットされているボールを前に蹴りだす。

 先週の中頃から急激に気温が上昇していたため、今日も物凄く暑かった。観戦している人間のほとんどが半袖を着ている。青い空に浮かぶ太陽は燦々とこのグラウンドを照らしていた。

(絶対勝ってやるからな!)

 グラウンド中央から、尚琉は相手陣地へと駆けていく。

 白黒のボールを懸命に追いかけて。


 尚琉の前にボールがある。マークについている赤いユニホームが体をぶつけてきた。一瞬よろけるも、崩れる体勢のままにボールを右に出す。尚琉自身も右に流れていき、マークしていた赤色ユニホームを躱した。

 直後、視界にゴールが!

(ここ!)

 前へと流れていきそうな体を左足一本で踏ん張り、尚琉は渾身の力を込めてシュート。

 シュートに対して、相手キーパーが両腕を伸ばして懸命に飛びつこうとしているが、その手が僅かに届かない。

 ボールはゴールへと吸い込まれていくように飛んでいき……しかし、無情にもボールは僅かに右に逸れていった。鈍い音とともにゴールポストに直撃。

 跳ね返ったボールは、再び飛び込んでいったキーパーの胸でがっちりとキャッチされた。

「はぁはぁはぁはぁ」

 肩で大きく息をする尚琉。その視界では、相手キーパーが反則にならない程度に時間をかけて、力いっぱいボールを蹴り上げる。

 白黒のボールが青い空へと飛んでいく。そうして、どんどんボールが尚琉から遠ざかっていく。

「はぁはぁはぁはぁ」

 苦しい。心臓が胸から飛び出してしまいそう。けれど、決して俯くことなく、尚琉は反転してボールを追いかけようとする。

 まだ負けるわけにはいかない。

 まだ。

 直後! グラウンドにホイッスルが鳴り響いた。

 0対2。尚琉のいる泉が丘高等学校の敗戦。

 瞬間、尚琉はもうボールを追いかけることができなくなってしまった。

「はぁはぁはぁはぁ」

 この日、尚琉たち三年生はサッカー部を引退する。

「はぁはぁはぁはぁ」

 勝つことができなかった。

「はぁはぁはぁはぁ」

 とても大事な試合だったのに。

「はぁはぁはぁはぁ」

 尚琉の汗が滴り落ちていく。耳にかかる髪が汗を含んでびっしょり濡れていた。

「はぁはぁはぁはぁ」

 テレビドラマみたいに、引退試合は、試合終了の瞬間に涙がどっと溢れてくるものだと思っていた。しかし、実際は違う。息を整えるので精一杯で、それでも漠然として喪失感を胸には感じていて……ただ静かに整列し、肩を落としながら顧問の大岩に挨拶、荷物を持ってロッカールームに移動。

 みんないつもの様子と違いはなかった。

 尚琉もそんな感じだったかもしれない。早く着替えて、蒸し暑いロッカールームを後にしたい。

 試合に負けた。それはいつものこと。だから、もしかしたら、今日はいつもと変わらないのかもしれない。胸にぽっかりと空いた大きな穴以外は。

 三年生にとって最後のミーティングは翌週の連休明けの放課後ということで、その日は解散となった。

「…………」

 尚琉はもう二度と、鞄にしまった青色のユニホームを着ることはない。


       ※


 五月十四日、月曜日。

 朝、泉が丘高等学校三年A組の教室に一ノ瀬咲が登校してきた。ゴールデンウイークが明けた先週は一週間ずっと休んでいたため、二週間振り。

 E組に籍を置く寅町尚琉はその情報を耳に、急いで様子を見にいったが……咲は机に突っ伏していて話しかけられなかった。まだチャンスはあるだろうからと、尚琉はE組の教室に戻っていく。

 放課後。掃除を済ませ、尚琉は鞄を肩から斜めにかけ、まだ残っているクラスメートに声をかけてから教室を後にする。階段で二階から一階へ。階段を下りた正面にある下駄箱でスリッパから白に黒線のあるスニーカーに履き替えた。

 と、足が鈍る。

(ぁ……)

 目の前にサッカー部後輩の姿が。白シャツにチェックのズボンという夏服の制服をきた後輩は、下駄箱を出てすぐ右に曲がっていく。そちらに運動部の部室がある。

(…………)

 この下駄箱を出て右に曲がること、尚琉はこれまで億劫に感じることもあった。練習が面倒で、さぼりたいと思う日は何度だって。雨が降ってグラウンドが使えなくなったことにどれだけ歓喜したことか。しかし、今はもうそんなこと関係ない。もうそちらに曲がることがなくなったこと、切ないというか寂しいというか、言い様のない喪失感が胸を覆っていた。

 尚琉は下駄箱を出て、左に曲がる。そちらに南門を抜けるため。尚琉と同じ電車通学の人間は大抵そこを利用するのだ。

(……あっ)

 目に映った姿に、はっとした。女子の後ろ姿はみんな同じ白シャツにチェックのスカートだが、肩よりも下に届いている縛った髪、ほっそりとした輪郭は、いつも尚琉が見てきた女子のもの。

(一ノ瀬)

 すぐ前方に、泉が丘高校夏服の制服を着た一ノ瀬咲の姿があった。尚琉は頬を緩めて、少し大股で歩を進めていく。

「よっ、一ノ瀬」

「……ああ、尚琉くん」

 一ノ瀬咲。顔を動かした拍子に後ろで縛った髪が小さく揺れた。

「久し振り、だね……」

 その表情は曇っている。げっそりとまではいかないまでも、とても疲れた表情をしている。瞼は重そうだった。

「なんか、ごめんね、最後の試合にいけなくて」

「あ、いや……」

 先々週の木曜日をサッカー部最後の試合にしたのは、試合に負けた尚琉たちの責任である。わざと明るく振り舞って、咲の気持ちを和らげようとした。

「なんかさ、最後にシュートしたんだけど、ポストに嫌われちゃってさ。はははっ。やっぱ俺、トップは向いてなかったのかもな」

「そんなことないよ。前の試合で一点取ってたもん。いっぱい走ってたし。尚琉くんはフォワード向きだよ」

「そうかな? ならいいんだけど……って、もう引退しちまったんだけどな」

 尚琉は頭を掻きながら、相手に気づかれないように唇を噛みしめる。

「その、弟のこと、大変だったんだろ?」

「あ、うん……」

「どうなんだ?」

 横に並んで咲の顔を見るとき、身長差により少し見下ろすこととなる。尚琉の鼻の高さに咲の頭があった。シャンプーのものなのか、少しだけ甘い匂いが流れてきて鼻孔を刺激する。いつもより大きく息を吸った。

「まだ危ない状態なのか?」

「……うん」

 かけられた声に対して、咲は足を止めることこそないものの、元気なさそうに俯き、南門を出ていく。最寄りの多田野ただの駅までは徒歩で十五分といったところ。

「……治療して、よくなっていけばいいんだけど」

 サッカー部の最後の試合のあったのが五月三日。その前日、咲の弟が突然学校で倒れた。

 連絡を受けて咲が病院に駆けつけるも、弟は意識を取り戻すことなく、意識不明のまま翌日を迎える。その日は試合があったが、弟の容態はとても足を運べるような状況でなかった。

 医師の話によると、弟が意識を戻さないのは倒れたときの外傷というわけでないことは判明したが、しかし、詳細はまだ解明されていない。なぜ弟が倒れたのか、失った意識を取り戻さない理由は何か、一切不明だった。

 父親には仕事がある。息子が倒れたからといって、いつまでも病院にいるわけにはいかず、ゴールデンウイークも仕事があった。

 咲たちには母親がいない。弟が生まれてすぐに他界している。

 だから、咲はずっと付き添って看病した。弟が目覚めたとき、どことも分からない場所で、近くに家族がないこと、きっと心細くなるだろうから。

 その日以来、ずっと咲の看病がつづいて……心配する咲の気持ちが通じたのか、一昨日の土曜日、弟が目覚めた。もう二度と目覚めないかと心配していた咲は、大粒の涙をぽろぽろっ落としながら、ベッドの弟に抱きついたのである。

「ちゃんと意識は戻ったの。意識はね……でもね、なんか、駄目なんだって……」

 弟が意識を取り戻すまではよかったのだが、目覚めた弟は自由を失っていた。全身が麻痺し、体をうまく動かせない状態にあるという。

「だからね、今日もこれから病院なの。治療できればいいんだけどね、まだ原因が分かってないからどうしようもないみたい……おかしいよね、日本の医療って最先端いってるんじゃなかったっけ? あーあ、なんでこうなっちゃったんだろ」

「…………」

「なんで、いさむがあんなことに」

 手を当てて咲が鼻を啜る。思い出したら、急に感情が込み上げる。

「…………」

「あのさ……病院はどこなんだよ?」

「んっ……? 翼下つばさもとだよ」

 翼下駅は、ここから五つ先。尚琉の帰宅途中にある駅。

「今からいくわけなんだよな」

「うん」

「そっか……」

 そこまで深刻な事情なら、最後の試合にこれなかったとしても責められるものではない。尚琉が思いを伝えられなかったことは残念だが、けど、それは仕方ないこと。そればかりか、こんなに辛そうにしているのだ、何ができるか分からないが、少しでも力になれるように応援してあげたい。これまで咲はいつもサッカー部のために一所懸命尽くしてくれたのだから。

 けれど、何かしてあげたい気持ちはあるのに、すべきことが見つからない。かけられる言葉を見つけることもできない。この状況、なんて声をかけていいか……。

「今年、受験だっていうのにな……」

「うん……」

「…………」

 言葉が途切れる。二人はそれから暫く無言で歩いていく。

 交差点が赤信号となった。すぐ横にはコンビニエンスストア。尚琉たちと同じ制服を着た生徒の姿が見受けられた。

 この交差点から、前方にある電車の高架が見える。たった今、そこを赤い電車が左から右へと走っていった。尚琉が乗る電車はそれとは反対方向である。

「……なあ、よければなんだけど」

 尚琉は咲とクラスが違う。今までは放課後のグラウンドで会えたが、引退した以上、もう今までのように会うことはできない。ましてや咲は今大変な事情を抱えている。とすると、もしかしたら今日を最後に、会えなくなるかもしれない。

 そんなの、いやだ。

「その、あの……」

 これが最後で、時間だけがあっという間に過ぎていって、三月の卒業式を迎えるなんて……そんなのいやだ。ただでさえ今年は受験生なのだ、こうしてのんびり話していられるのも長くはない。

 だからこそ、提案する。

 今しておかないと、絶対に後悔する気がして。

「これから一緒に勉強しないか?」

「んっ? 一緒に勉強って……あ、いや、だって」

 咲には弟の看病がある。受験生とはいえ、呑気に勉強していられる状況でもない。

「あのね、尚琉くん」

「その、病院は翼下にあるんだろ? あそこってさ、確か駅の近くに大きな図書館あったじゃん」

 翼下図書館。翼下駅から徒歩五分の場所。

「だからさ、ずっとは無理かもしんないけど、看病の合間とか、学校帰りに一時間とか、そんなんでいいから」

「…………」

「なあ、一緒に勉強しようぜ。家までの途中にあるから、便利だし」

「…………」

 尚琉の提案に対して、咲から返ってくる言葉はない。相変わらず視線は下がったまま。

(……やっぱ、無理かな)

 さきほどの提案、それはただ尚琉が咲と一緒にいたいだけ。そのためだけの提案で、そんな一方的なものを咲に押しつけるわけにはいかない。口にした後にそう思った。

 困らせたこと、少し後悔した。

 胸に黒いものが広がっていくような気持ち悪さがある。

 また一つ、自分がいやな人間になった気がした。そう思うこと、年齢を重ねるごとに増えていく。

「……ああ、ごめん。ごめんな。はははっ。無理だよな、そんなのさ」

「……うーん、いいかも」

 尚琉の杞憂とは裏腹に、咲は小さくではあるが笑みを浮かべていた。ずっと俯くばかりだった視線を上げている。いつもの眩いばかりとまではいかないまでも、表情に明るさが戻っていた。

「だってさ、なんたって頭のいい尚琉くんに勉強教えてもらえるチャンスだもんね。ちょっとしかいられないかもだけど、お願いしよっかな? 大丈夫?」

「あ、ああ。うんうん」

 突然降って湧いてきた輝かしい光が尚琉の胸に溢れていく。それはもう神々しいばかりのきらめき。

「よ、よし。じゃあ、いこう。図書館で勉強だぁ」

 普段はそんなことしないのに、尚琉は元気よく右腕を空に向かって突き上げた。

 これまで自分たちを足止めしていた交差点の信号が青となる。尚琉は次の一歩にそれまでにない力を入れた。急激に体温が上昇していること、いやでも実感する。

(やったやったやったやったぁ!)

 胸には歓喜の渦ができていた。もちろん相手のことを考えれば、とても喜んでいい状況でない。しかし、尚琉は胸のときめきを抑えることができなかった。

(一ノ瀬と一緒に勉強ができる。これから一ノ瀬と一緒に勉強することができる)

 思わず絶叫したくなるほど、溢れ出る最高の気持ち。

 消えかかっていた二人の関係をかろうじてつなげることができた。それはとても細い糸であるが、尚琉にとっては尚琉にとってはかけがえのないもの。

 三年生となり、部活を引退したが、尚琉の高校生活はまだまだ残されていた。


       ※


 六月三日、日曜日。

 午後三時。

 寅町尚琉は翼下図書館一階にある自習室で受験勉強をしていた。部活を引退した五月のゴールデンウイークから受験生としての日々にどっぷり漬かり、ほぼ毎日この図書館に足を運んでいる。ここは家と学校の中間地点にあり、いつもは制服姿だが、今日は日曜日ということで半袖シャツとジーンズ。

 周囲にはたくさんの人でごった返しているが、話し声といったものは皆無に近かった。静かな環境で、シャープペンシルやボールペンを動かしていく、かつかつかつかつっ、という音だけが、この自習室を支配していた。

 尚琉は、ノートに細かい数字と記号を並べ、十行ほど羅列したことで導き出された解答に、満足そうに小さく頷く。

(よし)

「……ごめん、尚琉くん」

 隣の席から聞こえてくる小さな声。

「あたし、そろそろ」

 午後三時。今日も一ノ瀬咲は病院に向かう。入院している弟の身の回りの世話のために。

「それで、その……」

 いつもならそのまま自習室を出ていく咲だが、今日は違った。どこか遠慮しているような、なかなか次の言葉を言いだせずに、後ろ髪を弄っている。

「あ、あのね、尚琉くん。もし、というか、よかったらでいいんだけど、その……これから一緒に病院ついてきてもらえないかな?」

「病院……?」

 咲とは五月に一緒に勉強をするようになって以来、ずっとこの図書館の自習室で会うようになっていた。目的は、一緒に勉強するため。尚琉はいつも閉館時間までいるが、咲は日曜日だとだいたいこの時間には先に出ていくのだが……今日は付き添いを提案された。

「一緒に、病院?」

 尚琉は首を小さく傾げる。言語として言われた内容はもちろん理解できるが、相手の心情というか、意図が分からない。

 なぜ咲は、弟が入院する病院に尚琉のことを誘ったのか? 難易度の高い数学の問題は解けても、その問いの解答を導き出すことができなかった。

「あのさ……」

「ああ、ううん。ごめん、変なこと言っちゃったね。尚琉くんの勉強、邪魔しちゃ悪いもんね。ごめん。今の忘れて忘れて」

 小さく舌を出した咲は、ピンクの兎の人形がぶら下がっている手提げ鞄に参考書を入れて、慌てた様子で席を立った。着ている薄緑のワンピースと、今日も後ろで縛っている髪が小さく揺れる。

「またね」

「あ、ちょっと」

 尚琉はこちらにそそくさと背を向けた咲に声をかける。と同時に、参考書を鞄にしまう。

「一ノ瀬がいいっていうなら、うん、付き合うよ」

 場所がどこであれ、咲に誘われること、悪い気はしない。どころか、大歓迎である。

 尚琉は同じように勉強をしている周囲の人間に気にしながら、なるべく音を立てないように立ち上がり、待ってくれていた咲と一緒に自習室を後にした。

 日曜日ということもあり、図書館は多くの人で賑わっている。親子もいれば、なぜか休みの日だというのに制服姿の女子高生の姿も結構たくさん見られた。

 尚琉たちは貸出しカウンターを横目に、たった今この図書館に入ってきた人と擦れ違って歩いていく。出入口には盗難防止のためのゲートがある。百七十五センチの尚琉の胸の位置まであり、貸出しの手続きをしていない本が通るとブザーが鳴るようになっていた。これまでにブザーが鳴って、近くにいる警備員に呼び止められている人物を、尚琉は一度だけ見たことがある。特に興味があったわけではないので素通りしたため、あれがどうなったかは定かでない。

 巨大なガラス張りの自動ドアを抜けて、外へ……見上げた空はどんよりと曇っていた。尚琉は傘を持ってきていないし、今日一日は大丈夫だと天気予報がいっていた。それを全面的に信じ、傘は持ってない。見てみると、咲も手にしてはいなかった。もしかしたら手提げ鞄に折り畳み傘が入っているかもしれないが、いちいち確認すべきことではない。

 この色濃い灰色の空の様子を見る限り、梅雨入りは間近なのかもしれない。そう考えると、尚琉は少し憂鬱な気持ち。家から最寄り駅までは自転車に乗っているので、雨が降ると徒歩となり、いつもより十分も早く家を出なくてはいけなくなる。去年だったら、雨が降ってグラウンド状態が悪くなるため、部活が休みになってちょっとラッキーなんてことを頭のどこかで考えていたものだが、もうそんな必要はなくなった。それはそれで、ちょっと寂しい。

 図書館を出ると、肌にまとわりつく蒸し暑さ。そろそろまたあの夏を迎えるのかと思うと、やはり気が滅入ってしまう。尚琉はあまり夏が好きではなかった。順番からすると、秋が一番で、次に冬、春、そして夏が四番目に好きな季節。言い方を変えると、一番苦手な季節となる。蚊は出るし、夜は暑苦しくて眠れないし、四季で唯一『不快指数』というものが存在するし、いいところがまったく見出せない。しかし、そんな夏という季節がどこか活動的になる時期であること、認めざるを得ないのは確か。出かける頻度でいうと、夏が一番多いから。結果として、日常的に過ごすには最悪な季節であり、行楽や遊びといった非日常的な生活を過ごすには最適な季節ともいえた。けれど、そんなもの、受験生には関係なく、凄まじいまでにいやな季節になるだろうと、なんとなく六月の現段階で予感している。熱帯夜がつづくだろう八月のことを考えると、今からうんざりだった。

 先導する咲についていく。咲は図書館に隣接する緑がたくさん茂った翼下公園へと入っていた。この公園は野球場が軽く十個は入るであろうという大きな公園で、遊具や噴水はもちろんのこと、中央には古墳が存在する。緑溢れる樹木がたくさん植えられており、春にはお花見としてライトアップもされることで有名。尚琉はまだ経験したことはないが、花見ではきっと大学生やサラリーマンが桜の下で意味なくどんちゃん騒ぎをして、ごみを散らかしていくのだろう。公園を管理する側からすれば、いい迷惑だろうが、もしかしたら尚琉もその内、ごみを散らかす方になるのかもしれない。なんともいえない複雑な思いがした。

 尚琉たちは中央にある古墳を右手に、木々に囲まれた狭い通路を北方へと歩いていく。途中でランニングしている中年の夫婦らしき二人と擦れ違う。尚琉はふと、部活を引退して以来、ああして走っていないことに思い立った。ふと、体を動かすのは体育の授業だけになっていたことに気づく。尚琉は最近、なんだか体が重たく感じる気がした。

「…………」

「……あたし、不安なの」

 木々の間から道路が見えるようになる。そんなタイミングで、ここまで静かに歩いていた咲が、ぽつりっと吐き出した。

「勇のこと、とても見ていられなくて」

 入院中の咲の弟は、体調が回復の兆しがなく、日々を過ごすことによってただただ衰弱している。

「突然意識を失ったり、発作的に全身に痺れが走って動けなくなったり、顔を真っ赤にして高熱にうなされるようになったり……」

 そういった症状が日常的にありながらも、原因は解明できていない。それを懸命に突き止めようと医師が検査するも、効果は得られていなかった。

「あの子、どんどん弱っていくみたいで、そんな姿、見ていられなくて……」

「…………」

「あたし、この頃、不安で仕方ないの。このままだと、勇があたしの前からいなくなっちゃうような気がして……」

「…………」

「勇が、死んじゃうかもしれないって……」

「…………」

「怖いのよ。昨日もね、そんな夢を見たの。目覚めたとき、汗びっしょりだったわ……ベッドに横たわってる勇がね、当然動かなくなるの。それで、閉じた目を開けなくなっちゃうよ。死んじゃうの。勇が、死んじゃうのよ。まだ六年生なんだよ。それなのに……」

 咲は俯く。しかし、進めている足は決して止めることなく、ただ小さく声を吐き出す。

「物凄く、不安なの……」

「…………」

「心が、壊れちゃいそうな、ぐらい……」

「…………」

 尚流のすぐ隣にある咲の顔。そこに浮かべられるのは、陰を含んだ、そこにいるだけで辛い感情を押し殺そうとする不安定な表情。ぷっくりと柔らかそうな唇は、小さく噛まれていた。

 そんな咲を見ていると、尚琉は胸を強く締めつけられ、とても見ていられなかった。もしかしたら、もっと咲と一緒にいたいからという安易な理由で、ここまでほいほいついてきたこと、後悔したかもしれない。相手は真剣に苦しんでいるのに、気軽な気持ちで関わろうとした自分が、軽率に思える。

 このまま病院までついていけば、今まで見ることのなかった、咲の見たくないものまで目の当たりにしそうな……そんなの、世界がどう転がろうとも望みはしないのに。

「…………」

 しかし、尚琉は咲の横を離れることはない。どんなにひどい事態が待ち受けようとも、ついていく。そう決めたから。

 今年は咲と一緒に受験に挑み、卒業前には五月にすることができなかった告白をする。正面から、正々堂々と。弟のことさえなければ、今すぐにでもそうしたいところだが、こんな不安で潰されそうな咲相手に気持ちを伝えるのは、いらない負荷を与える気がして自重していた。

 告白なんて、尚琉が気持ちの整理をつけたいだけの、ただの自己満足かもしれない。だから、こちらの都合を一方的に押しつけるのでなく、咲の心が今のような落ち着かないものから脱却し、本来の咲を取り戻したとき、正面からぶつかっていこうと思った。

「…………」

 相手に合わせて尚琉も無言のままついていく。

 木々の間を抜けていき、三分もかからずに、突如として目の前に巨大な壁が現れた。壁は、十階建ての森北総合病院。横幅は優に百メートル以上、この一角すべてが敷地のようである。尚琉がいる南側は広大な駐車スペースで、ざっと見て、今は九割が埋まっていた。休日のショッピングモールみたい。

 尚琉は案内されるままに建物中央にある玄関から入っていく。自動ドアが開いた瞬間、鼻にアルコールのような薬の匂いがまとわりつく。慣れない匂いに鼻を曲げるも、だからといって指で摘むわけにもいかず、意識して深呼吸。

 玄関ロビーを抜けて、エレベーターに向かう。エレベーターは、車椅子が五台は同時に入っても問題ないだろう大きさで、看護師と数人のパジャマを着た人間と乗り込んでいく。なんともいえないエレベーター内特有の沈黙に苦笑しつつも、三階に到着。

 天井の照明が反射するリノリウムの床が奥につづいていて、一番奥には非常通路を示す黄緑色の光が見えた。廊下を直進していき、手前から五番目の305号室の扉の前に辿り着く。扉のすぐ横には『一ノ瀬勇』というプレート。

 ここが咲の弟の病室であった。プレートには名前が一つしかないため、個室なのだろう。

 前にいる咲は慣れた感じでこんこんっとノック。扉を内側に開けた。

(…………)

 病室に入っていった咲を前に、尚琉はごくりっと息を呑む。病院に入ってから、尚琉の鼓動は強まっていた。どきどきどきどきっ。咲の弟の病室ということは、もしかしたら咲の両親と鉢合わせになるかもしれない。いや、確か母親は他界しているそうなので、ばったりと確率としては父親か、または祖父母か。

 いずれにしても、そういった場合、ここにきた理由をどう説明すればいいか? いや、そんなことよりも、自分と咲との関係を問われると、返答に窮してしまう。いやいや、そんなことよりも、まず第一声をどうすればいい? 静かに入っていくべきか? 元気に挨拶して入っていくべきか? いったいどんな顔をすればいいのか? まずはちゃんと挨拶すべきなのだろうが……分からない。分からない分からない分からない分からない。

 そういったことに思春期の少年は思い悩み、鼓動の周期を乱していた。

 けれど、そんなことは杞憂となる。

(ぇ……?)

 なぜなら、それまで考えていたことが一瞬にして吹き飛んでいったから。一歩病室に入った瞬間、この世のものとは思えない驚愕に直面した。

(っ!?)

 咲につづいて入っていった尚琉の視界に、まず窓側に清潔そうなシーツのあるベッドが目に映る。南側の部屋だったので、小さく揺れるカーテンの隙間から入ってくる明かりがあり、なぜだかそれが妙に目を引いた。

 けれど、そんなものは瞬間的なことでしかない。刹那、この空間すべてを闇に塗りたくられたから。

 暗黒。

(なっ!?)

 女の子の姿が目に入った。肩口まである髪の毛の、赤いジャージ姿の女の子。ここは咲の弟の病室だから、当人ではないだろう。見た目は中学生には見えないので、きっと小学校高学年に違いない。

「これは……」

「入ってきちゃ駄目!」

 そんな女の子が仰天するように、はっと目を見開いた。大きな戸惑いと驚きが貼りついた表情のまま尚琉たちのことを振り返った瞬間、そう叫び声を上げたのである。そう、それはまさしく叫び声。それほどまでに切羽詰まった危機感のようなものがその声には含まれていた。

「早く外に!」

「なっ……」

 女の子がそう言った瞬間、視界すべてが闇に塗りたくられる。大量の墨がぶちまけられたみたいに。

 世界はもう漆黒の闇。

 前も後ろも右も左も上も下は、ありとあらゆる場所が真っ暗闇。闇。闇。闇。闇。そんな光景、尚琉はこれまで一度も体感したことがない。田舎の祖母の家にいったときだって夜は暗く感じたが、ここまで深い闇ではなかった。

(なんだ、これ!?)

 自身すらその色に染められそうなほど、黒色はとても強い圧迫感を尚琉に与えてくる。少しでも気を緩めると、周囲の闇に溶けてしまいそう。

(一ノ瀬!?)

 見えない。今の今まですぐ前に背中があったのに、咲の姿がどこにもない。

 あるのは闇。純黒の闇が世界を覆い尽くしている。

(なんだ!?)

 ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちっ。尚琉が瞬きを繰り返す。その視界に異様なものが存在していた。それを認識した瞬間、尚琉の全身のありとあらゆる箇所が激しく強張り、金縛りにあったみたいに身動きできなくなる。

(あれ、は……!?)

 尚琉の視界、そこには巨大なシルエット。複数ある手足の長い蟹や蜘蛛のようであり、全長は百七十五センチある尚琉の倍以上ある巨体。全体が炎のような真っ赤で、そこから火の固まりがぼとぼとっと落として闇に溶けていく。まるで下向きに設置されている巨大な花火のよう。

(おい……!?)

 巨大な化物の手前、そこに女の子がいた。立っているのは、さきほど病室に入ったときに一瞬だけ見えたジャージ姿の女の子に違いないが、しかし、外観がすっかり変わっている。今はジャージでなく、大きな白い布のようなもので全身が覆われていた。見た目からすると、大きな照る照る坊主みたい。

 そして女の子は、巨大な真紅の化物を警戒し、さらには対峙している。なぜかそう思った。これからあの女の子があの化物に立ち向かっていくのだと。それは女の子が、幼いながらもきりっと目を吊り上げた、勇ましくて精悍な顔つきをしていたから感じ取ることができたのかもしれない。

(危ないだろ!)

 女の子が巨大な化物に立ち向かっていくなどと、危険極まりない。警告のために声をかけようとするも、しかし、うまく言葉になってくれなかった。いきなり異空間に閉じ込められ、もうなにがなんだか分からない。思想は実に冷静な部分を有しているも、体はすっかり自由を失っている。だからこそ、ろくに声を発することもできない。

(あっ!)

 手足の長い化物が動いた。と思った次の瞬間には、前にいる女の子へと襲いかかっていったのである。高々と振り上げた手足を突き刺すように、化物は女の子に振り下ろす。そこからはもう止まることなく、次々に複数の手足が襲いかかっていく。

 しかし、女の子の動きはとても素早い。襲いかかる手足をバックステップしながら躱している。だが、躱すのみで、どんどん後退していく。相手のプレッシャーが強いためか、前進できていなかった。

 真紅の化物は間隔を空けることがなく、手足を動かしつづける。まるで疲れなんて無縁みたいに、容赦なく手足を女の子に向けて振り下ろしていく。スピードは、振り下ろす回数が増すごとにどんどん加速していき、高速の長く不気味な手足が女の子に目にも止まらぬ速さで襲いかかっていった。

 に対して、女の子は、どうにか自分に襲いかかってくる手足を躱すのだが……最初は余裕で躱すことができていた。しかし、徐々に、襲いかかる手足との距離が詰まっていく。

(おい!)

 化物の手足が、女の子の全身を覆っている真っ白な衣に掠った。しゅっ! と擦れる音が響く。

 女の子はその影響でバランスを崩し、片膝をついたせいで、次の動作が一歩遅れた。その遅れ、一秒すらないものだったが、しかし、この状況ではその僅かな時間が致命的なものになる。

 まるでリズムでも取っているかのように、しゃかしゃかっと長い手足を上下させていた化物は、一瞬動きを止めた女の子目がけて、一斉に手足を振り下ろす。

 まだ体勢を崩したままの女の子は、これまでのように躱すことができない。

(ぃ!?)

 実際にそんな音があったかは定かでないが、尚琉は『ざくっ!』という鈍い音が響いた気がした。

(なぁ!?)

 突き刺さった。

 尚琉の目の前、真っ白な衣を纏った女の子の体に、化物の細長い足が突き刺さっていたのである。さらには、その一本が女の子の体を貫通したと思った矢先、次々と別の手足が突き刺さっていく。

 ざくっ! ざくっ! ざくっ! ざくっ! ざくっ! ざくっ! ざくっ! ざくっ!

 箱に入った人間に次々に剣を突き刺していく手品のように、女の子の体はあらゆる方向から串刺しとなった。

(そんな……)

 愕然とするしかない。体中をいろんな角度から貫かれ、女の子の首ががっくりとうなだれる。両腕はぶらーんっと力なく垂れ下がっていった。

(…………)

 後から振り返ってみれば、これを目の当たりにした尚琉はよく気を失わずにいれたと思う。それほど、凄絶たる光景でしかない。しかし、すでにこれほどの闇という異常な世界に身を置いているという事実がある以上、尚琉も正常でなかったのかもしれない。だからこそ、女の子の串刺し状態を目の当たりに、決して目を逸らすことなかったのだろう。

(…………)

 何本もの手足によって小さな女の子の体が貫かれている目の前の光景、もはや悪夢としか思えなかった。四方八方から、女の子が串刺しになっていく。血が溢れ、女の子が着ている白い衣を朱色に染め上げてきた。

 さらには、化物は串刺しにした女の子を自身の上部へと持ち上げる。

 その間も、女の子はぴくりっとも動かない。

 巨大な化物はその身に真っ赤な炎を宿す。女の子の体を頭上に掲げると、体の一部にぽっかりと大きな穴ができた。それは化物の巨大な口のように。

(…………)

『食われる』そう思った。考えたものではなく、直感である。尚琉にはそうすることの意味がさっぱり分からなかったが、一つの生命として、このままでは女の子があの化物に食べられてしまうと確信した。

(…………)

 このままでは女の子があの化物の餌食となる。そんなこと、あっていいはずがない。

 しかし、尚琉にはどうすることもできない。助けるどころか、その場から動くこともできないのだから。

(…………)

 駄目だ。

 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。

 このままでは駄目だ。

 このままむざむざと女の子を見殺しになんかできない。

 どうにかして女の子を助けないと。

 助けてあげないと。

(…………)

 尚琉はまだ動かない体のまま、それでも自分にやれるべきことを探るために、ぐっと感情の深い部分に力を入れた。

 考えるに、そのまま目を閉じてしまえば楽になれるのかもしれない。そうすることで、見たくないものを見なくてよくなる。そう、目さえ閉じてしまえば、巨大な化物も串刺しの女の子のことも見えない。もしかすると、現実とは思えないこの悪夢から抜け出せるかもしれない。

 だがしかし、尚琉は瞼を下げることはない。目の前の光景から決して目を逸らすことなく、展開されている凄絶をしっかり目の当たりに、尚琉はある一つの大きな望みを頭に描いた。

 女の子を助けたい。

 その姿を目の当たりにしているのは自分だけ。なら、自分こそが助けてあげられる唯一の存在。

 助けたい。

 助けてあげたい。

 だからこそ、尚琉は欲する。

 あの女の子を助けるだけの力がほしい。

(ああぁ!)

 麻痺したように、ぴくりっとも動かない体では、女の子を助けることなどできるはずがない。化物に近づいていくことはおろか、指一本動かすことができないのだから。だというのに、尚琉は気がつくと拳を握っていた。

 その時はもう、力いっぱい両の拳を握っていたのである。

【あなたのその願い、命に代えるだけの覚悟があるものですか?】

 声がした。これまでになかった声。とても低い場所から激しく轟いてくるような、天高くから雨のように降り注いでくるような、とても不可思議な声。

 声は尚琉の心に響きわたっていく。

【あなたにとってそれだけの価値があるのでしたら、迷うことはありません。トリガーを引いてください】

(はっ……!?)

 瞬き。ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちっ。状況は目を覆いたくなるほどの壮絶なもの。しかし、その壮絶さに尚琉という存在は対峙するかのように拳を握り、尚琉の存在がしっかりこの場所に立つことを決意している……気がつくと、ごちゃごちゃしていた頭が澄みきったものとなっていた。こんな異様な空間にいるのに、そこにいることがまるで違和感なく、尚琉は自分という存在をはっきりと認識できる。

 そして気がついた。強く力を込めた拳が、何かを握っていること。

(これ……!?)

 握っているのは、先に丸いものが乗っている細いもの。大きさとしては手から少しはみ出る程度。まるで鋏の軸を外して分解し、片方だけを持っているような……鋏でいえば刃の部分を掌で握っており、人差し指を丸くなっている部分に挿入している。

【さあ、引いてください】

 それは決して響いてくるその声に従うわけではない。ただ、そうすべきだと意識以前の本能が物語っている。

 尚琉は人差し指に力を込めた。

 引き金を引く。

(いぎぎぎぎぎっ)

 一瞬、全身が燃えるようで、自身が消えそうなほどの強烈な熱を帯びる。瞬間からは、もう全身に力を帯びていた。力を感じる。尚琉の存在から稲妻のような高エネルギーが次々と漲ってくるようで、それが自身の意識を極限までに高ぶらせては精神を興奮させた。

 歪曲。

(これ!?)

 尚琉は、真っ白な衣を纏っていた。全身をすっぽりと覆っている衣は、化物に串刺しにされている女の子が身に着けているのと同じもの。巨大なシーツを頭からすっぽり被っているようですらある。

(いける!)

 なぜだか分かってしまう、自分がこれからどうすればいいか。身を置いているこの世界も、突きつけられているこの異様としか思えない状況も、止めどなく存在の奥底から溢れてくる力も、すべてが初見であり初体験であるにもかかわらず、尚琉は戸惑いも迷いも一切なく、右腕を前方に上げた。

 右手を真紅の化物に向けて。

「やらせるかよぉ!」

 その視界にあるもの、それは今まさに、長い手足によって高々と掲げられた女の子が、真っ赤な炎を纏っている化物の口へと落ちていく。

 絶体絶命。

「ここぉ!」

 その瞬間、尚琉はその女の子に向けていた右腕を、ぐいっと手前に引く。まるでそこにある紐を引っ張るようにして。

 すると、真っ直ぐ化物の巨大な口へと落ちていくはずだった女の子の体は、真横からの突風に飛ばされるように、化物の口手前で方向を変えた。下に真っ直ぐ落ちていったものが、今は尚琉の方へと真っ直ぐ向かってくる。

 尚琉は、徐々に大きくなってくる女の子の姿を視界に捉え、右腕を指揮者のように小さく動かし、空中を渡ってきた女の子のことを両腕でやさしく受け止めた。

「大丈夫か!?」

 尚流が抱えているのは、さっきまで化物の長い手足によって串刺し状態にあった女の子。しかし、不思議なことに身に纏っている白き衣に穴は見受けられない。ただの一つも。

「おい!?」

 尚流の声にも、女の子は静かに目を閉じていた。どうやら気を失っているようである。当然であろう、全身串刺し状態にあったのだから。

【その子のことなら大丈夫です。あなたは早く、あの気喰きぐいを倒してください】

 視界に銀色の幼女がいた。三つ編みの銀髪には銀色のリボンがつけられている。銀色のポンチョのような衣服で包まれた幼女は、就学しているかどうかの幼い子供。

 その幼女は、尚流の腕から地面に横たわらせた女の子の傍にしゃがむ。

【早くしないと、逃げられてしまいます。急いでください】

「んなこと言われても」

 困ってしまう。

 今も長い手足をしゃかしゃかっと動かしているあの巨大な炎の固まりを、いったいどうすれば倒すことができるのか?

「やってみるか」

 考えてみても妙案は思いつかなかった。ただ今は思うままにやってみるしかない。尚琉は自身を包んでいる白き衣から両腕を出し、真っ直ぐ前に出す。

 そうしている間も、化物はその口に入るはずだった女の子を取られたことに憤慨しているのか、これまでにないほど長い手足を高々と上げながら、尚琉に迫ってくる。その姿、人間でいえば怒り心頭に発して大股で迫ってくるみたい。

「くっ!」

 力を込める。それは腕にではなく、腕が向けられている方角に力を放つかのごとく、右腕を突き出した。

 直後、化物が上げた長い腕が大きく軌道を変え、あろうことか化物本体へと突き刺さっていくではないか。

 前に出すはずだった足がなぜか自身の体に突き刺さっていったのだ、化物の進行が止まっていた。

「こっち」

 尚琉は左腕も前に出す。やはり腕ではなく、手の先にある空間に力を込めるかのごとく、素早く左腕を突き出した。

 すると、さきほどとは反対側にある化物の長い足が、またしても本体に突き刺さっていく。

「これで、いけるか!?」

 化物は足踏みするように、その場でしゃかしゃかっと手足を動かしているだけで、それ以上近づいてこなくなった。自分で自分を突き刺した状況に困惑するように、忙しなく動かしていた手足をすべて振り下ろしていく。

「これって、チャンスっていえば、チャンスなんだけどな」

 しかし、ここから先、尚琉にできることが思いつかない。

 ふと横に視線を向ける。そこに横たわる女の子は、まだ意識を失ったまま。

「その子、大丈夫か?」

【直に目覚めると思います】

「そりゃよかったよ」

 そうこうしている間に、真っ赤な炎が燃えたぎる化物の全身に、黒い霧状のものが発生。

「なんだありゃ……?」

【まずいです。このままだと逃げられてしまいます】

「そんなこと言われてもね……今はそっちの子の方が心配だからな」

【この子のことは大丈夫です。あなたは早く、あの気喰を倒してください】

「た、倒せってさ……いきなりのことで混乱してるんだよ。状況もろくに把握できてないし。分かってることは、俺にどういった力があるか、ただそれだけだからな……」

 暫くすると……尚琉の視界、化物がすべて深い闇の霧へと包まれていき、姿を消した。

 空間に残されたのは漆黒の闇。

 刹那、闇に覆われた世界は一気に色を取り戻していく。これまで漆黒の闇でしかなかった世界が、あるべき色を取り戻していき……気がつくと尚琉は見慣れない病室に立っていた。

 危険がなくなっていたことを悟り、尚琉は張っていた気を緩め、口から長く息を吐く。それはサッカーの試合のとき、相手のシュートに体ごとぶつかり、うまくクリアーできた後にする仕草によく似ていた。

(…………)

 ここは森北総合病院、301号室、一ノ瀬勇の病室。窓側に真っ白なシーツに覆われたベッドがある。そこに男の子が横たわっていた。かけ布団を首までかけ、今は目を閉じている。

 その手前、一ノ瀬咲がいた。ぽかーんっと口を開けており、目は焦点が定まっていないみたい。

「平気か?」

「あれ、尚琉くん……? 今のって?」

「……いや、俺にもよく分かんないけど」

 遭遇した自体は、とても説明できるものではない。首を横に小さく振る。

 見てみると、さきほどまで纏っていた白い衣が消えていた。けれど、その手には鋏を半分にしたようなものは握られている。それにより、さきほどのことが、白昼夢でないことは判明した。夢であれば戸惑う気持ちを簡単に処理できたことかもしれないが。

(これ……?)

 握っているそれには、赤い線のようなものがあった。目を凝らしてみると、それはあの化物のように燃えている。しかし、決して熱いわけではない。そうして平然と握ることができているから。

「まっ、説明はこの子にしてもらった方がいいみたいだな」

 すぐ横には、ジャージ姿の女の子が横たわっていた。やはり女の子も羽織っていた白い衣はなくなっていて、その手には尚琉と同じ鋏を半分にしたようなものを握っている。瞼は閉じられているため、まだ意識を取り戻してはいないのだろう。

「とりあえず、まずは名前から訊こうか?」

 気を失っている女の子の隣、そこには銀色の髪の幼女が立っている。こちらの全身銀色ファッションは変わることがない。

【ボクの名前はギンナンです。よろしくお願いします】

 ギンナンと名乗る不思議な幼女は、目を細めて微笑んでいる。とても愛らしい表情だった。


       ※


「だったら、あたしも尚琉くんたちと同じ神人かみとにしてほしい」

 懇願。咲は奇怪な幼女である銀色のギンナンに顔を近づけ、それはもう鼻息荒くして、真剣な眼差しで頼み込む。

「だって、勇のことを狙ってるんでしょ!? だったら、あたしが守ってあげないと。だから、あたしも神人にして。お願い」

【うーん……】

 ギンナンは小さく首を傾ける。

【仮にそれが咲の命に代えて欲すべき力だったとしても、あなたの場合はやめておいた方のいいと思います】

「ど、どうして!?」

 もちろん納得いかない。弟に危険が迫っているのだ。であれば、その弟のことを守りたいと思うこと、姉である咲にはごく当然のこと。

 である以上、力は必要不可欠。

「お願いです! あたしも神人にしてください!」

【できることはできますけど……やっぱりならない方がいいと思います】

「どうして!?」

【適性です】

 にっこり。

【あなたは神人に向いていません】

「あ、あたしじゃ駄目なのぉ!? その子はよくて!?」

 咲が示す方向、そこにはパイプ椅子に座る女の子がちょこんっと座っている。名前は紫浦美砂里。小学六年生。いきなり自分に話題を振られ、びっくりしたように目を丸くしている。胸の前で手をふらふらっさせるも、会話に割り込んでくることはなかった。

 そうして咲とギンナンのやり取りに、ただおろおろする美砂里は、あの化物がいなくなって五分後に目覚めた。不思議とどこも怪我はしておらず、神人や気喰についてギンナンが説明している間、おとなしく座っている。美砂里にとって誰だか分からない勇の病室は居心地がいいものでなく、目の前にいるのが随分と年上の高校生ということで、なんとも所在なさそう。

 しかし、だからといって、病室を出ていくことはしなかった。まだ自分がここにいるべき理由があるとばかり、様子を見守っている。

 咲は、いかにも弱々しい美砂里の姿を目に、やはり納得いかない。

「なんであたしじゃ駄目なの!?」

【何回も説明しています。咲だって、別に神人になれないわけではないですよ。けど、不向きなのです】

 かわいい幼女でありながら、発言は容赦のないギンナン。

【咲に分かりやすく説明しますと……無理をして自分のレベルよりも遙かに高い学校に入ることはできますが、しかし、無理したばかりに、授業についていけなくなり、落ちこぼれて、すぐに退学することでしょう。そんな感じです】

「落ちこぼれって……でもでも、神人になれるんだよね? でもって、神人じゃないと勇のこと守ってあげられないんだよね? だったら、無理してでもなるしかないじゃん」

【本心ですか?】

 にっこり。

【咲は本当に、みんなの足を引っ張ってでも神人になりたいのですか?】

「思う」

 きっぱり。

「だいたい、足を引っ張るかどうかなんて、やってみないと分からないでしょ? 勇を守るためなら、あたしなんだってやる。化物だろうがなんだろうが、片っ端からやっつけてやるんだから」

 勇は大切な弟。亡き母親から託された、とても大事な存在。

「だから、お願い。あたしも神人にして。尚琉くんみたいに戦う力をちょうだい。この通り」

 頭を下げる。深々と下げる。そんなこと、咲は一度だってしたことがない。

「……駄目?」

【……仕方ないですね】

 根負けしたような感じではあるが、ギンナンは決して溜め息をつくようなことはしない。相変わらず黒い円らな瞳で咲のことを見つめる。

【咲がその命に代えても神人の力を欲するのでしたら、もう止めることはしません】

「うんうん」

 そうして満足そうに微笑む咲は、トリガーを手に入れた。


【作戦会議しましょう】

 ギンナンは、三人の神人の顔を順番に見回していく。一人は小学生の女の子、紫浦美砂里。一人はさきほど神人になったばかりの少年、寅町尚琉。そして最後の一人は忠告もろくに聞き入れることなく強引に神人となった少女、一ノ瀬咲。

 一気に二人も増えた神人の存在に、ギンナンは銀髪の三つ編みを揺らす。

【さきほどの気喰はまだこの病院内にいるはずです。早く退治しないと、犠牲者は増えるばかりです】

 その犠牲者には、咲の弟、勇が含まれていた。

【気喰は必ずここに戻ってくるはずですから、効率よく見つけるために、二手に別れることを推奨します】

 ここで化物である気喰を待ち伏せるメンバーと、こちらから見つけにいくメンバー。

【ボクは、一番経験のある美砂里が捜索すべきだと思います。新しい二人はここで気喰を待ち伏せることを提案します】

「二手に別れることは賛成だけど、捜索は俺がやるよ。一ノ瀬と美砂里ちゃんはここに残ってほしい」

 決して大きいとはいえない病室。扉に向かって一歩足を踏み出す尚琉。

「ここは一ノ瀬の弟の病室だし、ここが危ないなら俺たちよりは経験値の高い美砂里ちゃんに残ってもらった方がいい。だから俺がいくよ」

 扉の前。そこで一度足を止めた尚琉。その扉を開けること、まるで銃弾が飛び交う戦場に向かっていくような張り詰めた緊迫感と、全身が強張るほどの大きな緊張感がある。けれど、不安に潰されないよう、無理してでも頬を緩めた。

「まっ、でかい病院っていっても、下から順番に見ていけばなんとかなるだろ」

【では、ボクも同行することにします。新米の神人一人だと、とってもとっても心配です】

「別にいいけど……」

 自分があまり頼りにされていないことに唇を尖らせているわけでなく、ギンナンの容姿を見て、一緒に探索することを逡巡したから。

「目立つよね……」

 ここは病院。上から下まで銀色一色の幼女が闊歩しては、病院関係者の目も引くし、当然敵の目にも止まるだろう。

【大丈夫です。ボクの姿は神人にしか見ることができませんから】

 神人以外にギンナンの姿を見ることはできない。それは通常の人間が気喰を見ることができないように。

【いえ、より正確に表現しますと、神人や気喰と関わりを持った者にしか見ることができない、ですね】

 ギンナンは銀色の髪を振った。

【それでは、出発しましょう】

「ああ。二人とも、無茶しちゃ駄目だからな」

 その言葉を病室に残る二人に言い放つと、尚琉はギンナンとともに病室を後にする。逃げていった気喰を見つけるために。

 尚琉の後ろをギンナンがついてくる。とことことことこっと間隔の狭い歩幅で、健気に。

(…………)

 通路突き当たりにあるエレベーター。そこのボタンを押す。

 エレベーターがこの三階につくまでの間、常に周囲に気を配り、緊張を持続させていく。サッカーの試合ですらそんな風になったことがない。ただ、試合とあの化物と対峙することなんて、比較にもならないが。

(…………)

 僅かながら、その体に冷気のように肌を震わせる気配した。これがきっとあの異形の存在である気喰によるものだと、尚琉は直観的に理解する。


 頭上には相変わらず分厚い雲が覆っているが、しかし、雨粒が落ちてくることはない。『今日いっぱいは大丈夫』という今朝の天気予報は今のところ当たっていた。

 尚琉は高さ二メートルほどの金網に囲まれる屋上に移動している。吹きつける風が耳にかかる髪を揺らした。気持ちのいいものだろうが、感じている余裕はない。

 金網越しに外を眺めてみると……建物南側、そこには広大な面積にたくさんの緑が溢れる翼下公園が見えた。十階建ての屋上ということで、手前にある駐車場に駐車する乗用車がミニカーのようで、動いている人の姿が蟻のような黒い点。

「にしても、まだ半信半疑ってとこではあるんだけど……」

 尚琉は頬をつねることはないものの、まるで夢を見ているみたい。こうして立っていても、足は地に着いている感じがしなかった。

 これまで身を置いていて世界が、いきなり目の前からなくなり、闇の世界で炎が燃えたぎる化物、気喰と遭遇。そこにいた真っ白な衣に身を包んだ女の子が化物の長い手足によって串刺し。今にも炎に呑み込まれそうになったとき、声がした。すぐ横にいるギンナンの声。尚琉は女の子のことを救いたいと思った。このまま黙って見ているのでなく、尚琉そのものが助けてあげたいと望み、力を得えたのである。決して人にはない、神人の力。真っ白な神衣を身に纏い、襲いくる気喰を退治することまではできなかったものの、追い払うことができた。

 そんな馬鹿げた話が、つい数分前に起きたこと。

「はははっ、漫画みたいだ」

【……うーん、尚琉は緊張感が足りないみたいですね。まだ気喰はこの辺りにいるはずです。意識を集中して周囲に気を配ってください】

「分かってるよ」

 ちゃんと分かっている。あれを一度体感しているのだ、気を抜いていいわけないことぐらい重々と。

 けれど、やはり緊張感よりも不可思議さと戸惑いの方が前にきてしまう。この病院を訪れるまではただの高校生だった。それは自他ともに認めるところだろう。部活を引退して、今年は受験生であり、恋愛に少し奥手の高校三年生。それが、闇の世界であのトリガーを引くことで、気喰という化物と戦う力を得た。

 欲しいゲームソフトを買うのに小遣いを気にしていた小学生が、いきなり何億円という大金を手に入れたような、まるでこの世のものとは思えない異空間に転移された気分である。

(…………)

 ただ、どこか胸がわくわくするような気持ちもあった。こんなこと、学校の誰も知らないこと。

 なにより、尚琉の胸を高ぶらせるものは、それを咲と共感していること。同級生の誰も知らない二人だけの秘密。ただそれだけのことで、尚琉は咲にとって特別な存在になれた気がした。それは咲と一緒に図書館で勉強するようになった関係の、何百倍も深い意味合いがあると思う。

「にしてもさ、なんで咲のことを素直に神人にしてやろうとしなかったんだよ?」

 なぜギンナンは、心よく咲を神人として選ばなかったのか?

「そりゃ、覚悟がないっていうか、遊び半分ってやつならともかく、神人になって襲いくる気喰から弟を守りたいって気持ち、理解できると思うけど」

【結局押し切られる形になりましたが、今でもそうすべきではなかったとボクは思っています】

 正確には、咲があのトリガーを引いたときに神人となるが、トリガーを渡していること自体、すでに神人として存在しているとしても過言でない。

【今からでも気が変わって、神人になることを放棄してくれればいいのですが……あの様子では無理そうです。神人になっては、もう引き返すことができないのに】

「確か、一ノ瀬は神人に不向きって言ってたよな?」

 そう何回もギンナンは咲に説明していた。説得するようにして。けれど、咲は聞く耳を持たず、自分の主張を押し切るようにしてトリガーを手にしたのである。

「不向きって?」

【さっきも咲相手に説明したことですけど、これは生まれて持った素質と考えてもらえればと思います。その辺りは実際にそうなったときに話した方がいいのでしょうね。そんなことよりも、今は気喰を見つけ出すことが先決です】

「いずれ分かるってわけね……」

 少し唇を尖らせ、尚琉は周囲に目を配るが、視界には屋上を取り囲む金網が見えるだけ。網目越しには公園に溢れる緑があり、その場で体を一周させると、それぞれの方角の景色を見ることができる。遠くに山の輪郭があったり、大きなビルが見えたり。電波塔もビルとビルの間に見ることができた。

「……いないみたいだな?」

【油断しないでください。気配が消えたわけじゃありません】

「そう言われても、こんなん──っ!?」

 体というわけでなく、尚琉という存在そのものが感電したみたいに、びくっ! と痙攣。一瞬にして脈が激しく打ちはじめる。

 どくどくどくどくっ!

 びりびりっと痺れるようなに激しい冷気が足元から自身を這い上がってくる。

(下!)

 気配を感知した瞬間、駆けだしていた。

 足元からは、無数の虫が蠢くみたいに、とても気色の悪い感覚が。吐き気すら覚えるもの。

(くそったれ!)

 悔やまれる、下に二人を残してきたこと。これだったら離れずに固まっていた方がよかった。

(間に合ってくれ!)

 駆ける駆ける駆ける駆ける。

 エレベーターを待つことはしなかった。屋上から階段を駆け下りていって、三階へ。

(頼むから、無事でいてくれよ!)

 その病室に近づいていくにつれ、見えない無数の手に触れられているような、全身を這いずり回る気持ち悪さが強くなっていく。

(一ノ瀬!)

 305号室の扉。ノックなんてすることはない。勢いよく開けた。

 瞬間、世界は色を失う。漆黒の闇によってすべてが塗りたくられた。

(えっ!?)

 尚琉の視界、そこに小さな鳥の群れがある。真っ白な翼を忙しなく動かしながら、今は大きな岩のように群れていた。と思ったら、それが一斉に飛び立っていって、次々に近くにいる女の子、美砂里の神衣へと吸い込まれていく。

 暗黒の世界、さっきまで白い小鳥が群れていた場所には赤い霧が立ち込めており、どこにもあの蟹のような巨大の気喰は存在しなかった。

(……あれ?)

 気がつくと、今まで感じていた気色の悪い気配がなくなっている。

「…………」

「あれ、随分と遅かったね、尚琉くん」

 声の主は、真っ白な神衣に身を覆った咲。このような暗黒世界にいるのに、まったく危機感もなければ緊張感もない様子で、満面の笑み。

「いやー、見せてあげたかったわー、美砂里ちゃんとの絶妙なコンビネーション」

 咲と美砂里の力により、あの巨大な蟹のような気喰を倒していた。

 それは、さきほど尚琉が屋上で気配を強く感じた瞬間から、階段を駆け下りてくるまでの間に。時間にして五分もかかっていない。

「いやー、もうばっちりやっつけちゃったんだからー」

「た、倒しちまったのか……その、一ノ瀬と、美砂里ちゃんで」

「もっちろん」

 胸を張る咲。そうしてから、極めて意味深長な笑みを浮かべ、咲は尚琉の横にいる銀色の幼女に目を移す。

「どうどう? これでも駄目っていうのかしら? まったく、なーにがあたしは神人に不向きよ。あっという間に倒せちゃったじゃなーい。ねっ、美砂里ちゃん?」

「はい、凄かったです。咲さん、どんどん気喰を追い詰めていって、わたし、びっくりしました」

「ほらねー」

 勝ち誇った表情。役立たずのレッテルを自らの手で払拭したのである、咲の嬉しさは最高潮に達していた。

「ギンナンの見立ても大して当てにならないわねー」

【ううん、そんなことありません。今でもボクの考えが分かることはありませんから】

「またまたー、強がり言っちゃってー」

【改めて進言します、咲は神人には向いていません。それは、あなたたち三人のトリガーを見比べれば分かります】

「これのこと?」

 咲は首を傾げ、鋏の軸を外して半分にしたような、アルファベットの『P』のトリガーを前に出す。そこに美砂里も、尚琉も並べていく。

「これのどこが?」

【もう一目瞭然です】

 トリガーの内部には、体温計のような一本の赤い線がある。目を凝らすと、めらめらっと燃えるような線。その線、尚琉のも美砂里のもトリガーの長さに対して十分の八ほどある。しかし、咲のだけが十分の一ぐらいの長さしかなかった。

【咲が神人に向いていないのは、これです。あなたはあまりにもエナジーの変換効率が悪いのです。それは致命的なまでに】

 トリガー内部にある赤い線、それは神人の力を使うためのエネルギー残量を示すもの。神人の力を使うためにはそのエナジーを消費する必要がある。その分、赤い線は短くなっていく。

 つまりは、今の咲のエナジー残量は二人とは比べものにならないぐらい少なく、それだけエネルギー変換効率が悪いことを示していた。

【尚琉はさきほど一回の戦闘分、美砂里は二回の戦闘分で、まだそれだけ残すことができています。しかし、咲はたった一回の、それも神人二人の戦闘を経ただけで、エナジーが残り僅かになってしまいました】

 もし今の戦闘、咲が美砂里と二人でなく、一人で戦っていたとしたら、エナジーはすべて消費したに違いない。

【神人の力は、エナジーを変換することによって使うことができます。けれど、あなたでは効率が悪く、あっという間に使い果たしてしまいます。それではいくらなんでも神人をやっていく資質があるとは思えません】

「へー、そうなんだー……あのさ、ギンナンちゃん。その、エナジーがなくなっちゃったら、どうなるの?」

【その時は、神人の力を使うことができなくなります】

「へー、そうなんだ……でも、その前に倒せたから、よかったよかった」

『いやー、危なかったなー』と冷や汗を浮かべつつ、咲はトリガーを上に掲げた。

 咲同様に、美砂里も尚琉もトリガーを掲げる。

 すると、闇に浮かぶ赤い霧が一斉に三人の元へとやって来る。そのままトリガーに吸い込まれていった。

 それにより、エナジーを示す赤い線は、三人とも一番長い状態に回復。

 暫くすると、世界を覆っている漆黒の闇は消えた。周囲の異空間がなくなり、病室に戻ったのである。

【とにかく、お疲れさまです。これで勇も暫くは大丈夫だと思います】

「……暫く?」

 ワンピース姿に戻っている咲。ギンナンが発した言葉の引っかかりに、眉を潜める。

「あの気喰を倒したから、勇はもう大丈夫なんじゃないの?」

【さっき説明したと思いますが、気喰は人の絶望の種に寄生します】

 絶望の種を育てていき、人から生きる希望を失わせていく。

【あくまでも絶望の種に寄生するのであって、気喰が絶望の種を生み出しているわけではありません】

 これからも勇が絶望の種を生み出していけば、気喰はまた寄生しに現れる。そこにある絶望の種を育てるために。

 人から希望を奪うべく。

【もし咲が勇を失いたくないと思うのでしたら、勇に生きる希望を与えつづける必要があります】

 原因不明の病に犯され、ろくに体を動かすこともできなくなった勇に生きる希望を。

【気喰はいつでも狙っています。神人として致命的な欠点のある咲にできることは、寄生してくる気喰を倒すことより、失いたくない大切な人に、生きる希望を与えることです】

 そう言うと、ギンナンはたったったったっとベランダの窓へと駆けていく。そしてそのままこの三階のベランダから飛び出し……直後、空間に溶けるようにして消えた。

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