第4話


 誰かのために



       ※


「いってきまーす」

 胸に赤いリボンのある白シャツに茶色のスカート、肩口に揃えられた髪の上に紺色のベレー帽を被り、森北小学校指定の茶色いランドセルを背中に、紫浦美砂里は家を出た。

 朝。登校。

 今日は空一面に雲が覆っていて、昼から雨が降るということで、美砂里は赤い傘を手にしている。

(咲さんに、尚琉さん)

 ただその名前を思い描いただけで、美砂里の口元が緩んでしまう。通学路を進む足取りは軽かった。

 昨日美砂里は近くにある森北病院を訪れた。目的は301号室にいくためだったが、病院に入ってすぐに全身銀色の幼女、ギンナンと合流する。その時はもう胸焼けのような気持ち悪さを感じていたので、301号室でなく、気持ち悪さに引っ張られるようにして同じフロアーの305号室へ。『やはり』という感じで気喰と遭遇した。

 美砂里は迷うことなくトリガーを引き、真っ白な神衣を纏って戦おうとした矢先、一ノ瀬咲と寅町尚琉に出逢った。

 突然現れた二人は、気喰を倒すため、神人になることを選択する。美砂里はこれまで一人で戦ってきたので、ずっと不安がつきまとっていたが、心強い仲間が二人もできた。それも年上のおねえさんとおにいさん。しかも、二人とも神人になったばかりなのにとても強く、美砂里は神人としては先輩なのに、助けられてばかり。

 神人について、美砂里はこれまで誰にも打ち明けることができなかった。人の絶望の種を増幅して人間から生きる力を奪う怪物と戦っているなどと、信じてもらえるわけがないから。美砂里だってあのトリガーを引く前なら、きっと信じはしなかっただろう。

 それが、昨日仲間ができた。これで、ずっと自身で抱え込んでいた神人の苦労を分かち合うことができる。しかも、二人とも年上だし美砂里よりも断然強いから、頼ることができた。そういう存在がいること、張っていた肩から力が抜けるというか、気楽になれた気がする。誰にも共感できない孤独と決別することができたこと、美砂里は嬉しくて仕方なかった。

(大ちゃん)

 加えて、このスキップせんばかりの体の軽さ、美砂里の胸を強くときめかせている要因が、まだある。

 それは、同級生の梨森大助について。

「おはようございまーす」

 家から徒歩五分の住宅。小さな門を入っていって、インターホンを押すことなく玄関の扉を開けた。扉を開けたすぐに階段があり、壁には大きな鏡がある。その横の廊下は奥のキッチンにつながっていること、美砂里はよく知っていた。この家には何度も遊びにきて

いたから。

「大ちゃーん、学校いくよー」

 手を口に当て、階段の上の方に向かって声をかけた。

 昨日、四月に交通事故に遭って入院していた大助が退院。美砂里が昨日病院を訪れたのは、そのためである。しかし、気喰と遭遇したために退院する大助と会うことはできなかったが。

「早くしないと遅刻しちゃうよー」

「……あー、眠いなー」

 階段の上から、森北小学校の制服である白シャツに身を包んだ大助が現れた。入院中に少しだけ伸びた髪の上にベレー帽を被ることなく、いつものように左手に握っている。茶色いランドセルを背負っていて、玄関で立ったまま靴に足を突っ込んでいき、とんとんっと手を使うことなく器用に靴を履いた。

「あー……」

「あんまり寝れてないの? 久し振りの学校で緊張しちゃう?」

「病院のベッドに慣れてたから、寝つけなかっただけだよ。家帰ってきて、『あれ? 部屋ってこんなだっけ?』って思ったから」

「ふーん……ほら、大ちゃん」

 扉を開けている美砂里の横を抜けるようにして大助が玄関を後にする。

 美砂里は先に出ていった大助を追い抜き、今度は門を開ける。

「どうぞ」

「さんきゅー」

「どういたしまして」

 作ったものでないにこやかな笑みが、美砂里の顔に溢れていた。

(…………)

 先に道路へ出ていった大助の背中を見つめる。左腕は前後に揺れているが、右腕はだらーんっと垂れ下がっていた。それが歩いていく振動によって揺れているだけで、大助が動かしているわけではない。

 残念ながら、右腕は元通りにはならなかった。

(……ようやく、だね)

 春に交通事故に遭って以来、大助は右腕を失い、同時に野球を失って、ずっと塞ぎ込んでいた。日常生活すら儘ならないぐらいに。

(やっと)

 病院のベッドの上、大助はひどく塞ぎ込み、いつしか生きていく希望を失い、絶望の種を生み出した。あの気喰を呼んだのである。寄生された気喰によって、大助は徐々に生きる活力を奪われ、病院の屋上から命を投げ出そうとさえした。

 けれど、それを美砂里が止めたのだ。大助のことを助けたい一心でトリガーを受け取り、神人の力によって気喰を撃破。あれから美砂里は、なんとか大助に希望を持ってもらうように努力する。

 いつも、いつまでも、その隣に立っていたいから。

 大助に希望を持ってもらうこと、具体的にはどうすればいいか分からないが、とにかく美砂里は毎日病院に通った。ベッドに横たわる大助に、学校のことも。大助には聞きたくない話だったかもしれないが、野球に美砂里が懸命に打ち込んでいること、すべてをありのままに大助に話していったのである。

 暫くすると、また気喰が現れた。大助が再び絶望の種を生み出したから。しかし、美砂里はそれを撃退。何度だって、何百回だって、美砂里は大助のために戦う。どんなに気喰に寄生されようとも、必ず美砂里が撃退してみせる。

 覆われた黒い霧は晴れ、そしてまた、美砂里はベッドの上の大助に、いろんなことを話していく。話題はなんだっていい、大助の傍にいて、大助と一緒にいられるのなら。もしかしたら、そんなことでは大助を救うことにならないかもしれない。美砂里のやっていることは自己満足でしかなく、逆効果だったかもしれない。

 けれど、美砂里はそうしたいし、それが大助のためになると信じていた。その信じる道を真っ直ぐ突き進んでいきたい。決して顔を逸らすことなく、正面から、堂々と、未来に向かって。

 そうした美砂里の努力が実ったかは定かでないが……徐々に大助に表情が戻っていった。ずっと病室で俯くばかりだったのに、いつしか笑顔も浮かべられるようになったのである。横になることしかできなかったベッドから起き出し、病室から外に出て、中庭で散歩もできるようになった。

(やっとだよ)

 そうして昨日、大助は病院を退院。事故に遭って深く塞ぎ込んでいたときからは考えられないぐらい、大助は自分の足で立っていた。

 そして今日から、六年生に進級してからまだ一度も登校していない小学校に復学する。

(大ちゃん)

 きっと今日は久し振りの学校で、いろいろと不便を感じることだろう。なんたって二か月間も入院していたのだから。美砂里は大助の傍で、ずっと大助のことを見守っていこうと決めていた。

「大ちゃん、今日は大ちゃん、幸運デーなんだよ。もうこれでもかっ! ってぐらい、大ちゃんデーになるんだから」

「テレビの占い?」

「ううん、今のは占いじゃなくって、これはわたしの願望だよ」

「……そりゃ、是非とも縋りたいものですな」

「うんうん。遠慮はいらないよ、縋っちゃってくださいな」

 二人は歩いていく。いつもの通学路を、いつものように歩いていく。ようやく『いつも』を取り戻したかのように。

 六月四日、月曜日。

 これが六年生になって初めての二人並んだ登校日。


 普段の教室と比べれば、遙かに慌ただしくて、遙かに賑やかで、遙かに騒々しくて、それでいて、とても温かな空気に包まれていた。少なくとも、美砂里にはそう感じたのである。六月四日の森北小学校の教室。

 大助が訪れた六年一組の教室。

「どう? ちょっと疲れちゃった? そりゃそうだよね」

 あっという間に六時間目の授業が終わり、帰りのホームルームを経て、下校時間。ランドセルを背負った美砂里は、少しだけ呼吸が乱れている大助とともに校舎一階にある下駄箱を後にする。

「みんな、親切にしてくれたね」

「……ああ」

 元気なさそうに視線を下げている大助。

「…………」

「やっぱり大ちゃん、ちょっと疲れちゃったよね?」

 美砂里は小さく首を傾けた。

 二人は校舎南に広がるグラウンドを右手に歩き、校舎前の道を東門に向かう。帰りのホームルームが終わってすぐ教室を後にしたので、周囲には美砂里たちと同じこれから下校する児童で溢れていた。まだ部活の時間でなく、グラウンドでは制服姿の男の子たちがサッカーボールを追いかけたり、鉄棒で遊んでいたりする。

 見上げた空、そこには今朝同様に分厚い雲が覆っているが、まだ雨粒は落ちてきていない。天気予報では昼過ぎから降るということだったが、どうやら遅れているようである。

「さようならー」

 東門にYシャツにネクタイを締めた先生が立っていた。美砂里はその見送りをしている先生に挨拶。北方に歩を進め、いつもの通学路を歩いていく。すぐに真っ赤な郵便ポストがある。珍しく集荷しているポストと同じ色の車を見ることができた。その意味も根拠もないが、ちょっとラッキーな気分。

 その後、坂の上の交差点、着いたときに赤となった。アンラッキー。

「…………」

 周囲で信号待ちをしているのは美砂里たち二人だけ。信号の向こう側には歩いていく茶色いランドセルが見え、振り返ると、遠くの方に児童の姿が見える。

 美砂里はまた大助の横顔を見た。

「ねぇ、大ちゃん、やっぱりちょっと疲れてる? さっきから元気ないみたい」

「……必要、かな……」

「んっ?」

 うまく聞き取れなかった。

「何って言ったの?」

「……おれ、さ……クラスに必要かな?」

「うん。そりゃ、クラスメートだからね」

「おれ、いない方がいいんじゃないかな……」

「ど、どうしちゃったの?」

「あ、うん……」

 今日一日、大助はみんなに助けてもらってばかりだった。階段で四階の教室にいくのにも、情けないことに息が切れてしまう。授業中、動かない右腕ではノートすら押さえることができず、左手で鉛筆を持たなくてはいけなくなり、慣れないせいでなかなか字が書けない。そのせいで授業の進行を妨げていた。体育の授業はグラウンドの隅っこで見学するのみで、楽しそうに走り回るみんなの輪から一人だけ外れた状態。やけにその時間は長く感じるものだった。給食もやはり箸を左手に持ち、病院でもやっていたことだが、慣れることがない。掃除の時間も使って、ようやく食べおえることができた。給食当番を随分と待たせたこと、申し訳なく思う。

「おれさ、みんなの足、引っ張ってるような気がする……」

「そ、そんなことないよ」

 美砂里は慌てた感じで両手を振る。

「そりゃ、みんなにとっては普通の日だったかもしれないけど、大ちゃんにとって久し振りの学校で、ちょっと不慣れなところがあったかもしれないけど、そんなのすぐ慣れるよ。うん、大ちゃんなら大丈夫。なんたって、大ちゃんだもん」

「……今日さ、改めて実感したよ……おれ、もうみんなとは違うんだなって……」

 普通でなくなっていた。

 右腕を動かすことができない。指一本すらも。そうやって荷物のようにただ右肩にぶら下がっているだけで。

 右腕が動かせないこと、そのせいで大助はそれまでの生活を失った。クラスを引っ張っていくような中心的な存在だったのに、今ではみんなに迷惑をかけてばかり。運動もろくにできず、夢だった甲子園も目指すことができなくなった。

「今の、おれって……」

 ずっと描いていた将来に向かって歩むことができないばかりか、これから誰かの手を借りなくては生活すらできない弱い存在。

 これでは、事故に遭う前の大助の残りかすでしかない。

「…………」

「大ちゃん、元気出してよ。ほら、信号青になったよ」

 美砂里の横、大助は頭を上げることがなくなった。動かしていく足元のすぐ先しか見ておらず、そのまま一度も口を開けることなく通学路を歩いていく。

(大ちゃん……)

 現状に対して悔しい思いが強く、気がつくと美砂里は小さく下唇を噛みしめている。

 美砂里にとって、大助は憧れだった。いつも元気で運動神経もよくて、クラスではリーダーのような存在で、休みの日の少年野球チームではエースで四番。とても輝いているように見えたし、できることなら自分も大助のように輝きたいとさえ思った。だからこそ、美砂里はずっと大助のことを見ていたのかもしれない。そこに少しでも近づきたくて。

 しかし、その大助が、あの輝きすべてを失った……今や、顔をろくに上げるすらなく、弱々しく歩くことしかできなくなっている。

 とても信じられなかった。たった二か月の間に、人がこうも変わるなんて。

 あの大助が、こんな……。

(……っ!?)

 突然背中に氷を入れられたのかと思った。それぐらいの驚きが待っていた。

(そんな!?)

 黒い霧が見えたのである。黒い霧は、大助の顔を覆う。

 しかし、それは一瞬のこと。たった一度の瞬きにより、もう見えなくなった。

(…………)

 もしかしたら錯覚だったかもしれない。しかし、美砂里の胸にじわじわと不安の色が広がっていく。すでにその鼓動が不規則なものとなった。

(…………)

 大助同様に、美砂里も無言のまま歩いていく。せっかく今日から大助が学校に戻ってきたのに、今日からまた楽しいことがたくさん待っていると思っていたのに、現実はとても寂しくて心が痛くなるものでしかない。

 と同時に、美砂里には不安が募る。『また』を恐れ、怯えるしかない。また大助が絶望の種を生み出し、気喰に寄生されるのではないかと。

 自ら命を絶とうとするのではないかと。

「あ、じゃ、じゃあね、大ちゃん、また明日ね」

 家の前、手を振ってみたが、大助は美砂里のことを振り返ることもなく黙って玄関に消えていった。

(大ちゃん……)

 美砂里は、胸の奥の方がずしりっ! と重たい。これからいやなことしか待っていないこと、なんとなく分かってしまう。


 六月四日から梨森大助は小学校に戻ってきた。しかし、通えば通うほど、自分と他のクラスメートの違いを痛感するばかり。それがどんどん自分を孤独に追い詰め、塞ぎ込んでいく。

 日々を過ごしていくだけで段々その顔から笑顔が減り、ただ呆然と窓の外を見つめることが多くなる。休み時間も誰とも話すことなく、席に座って、机にできた傷を見つめるのみ。

 それは決してクラスでいじめに遭っているわけではない。そればかりか、みんなは障害者となった大助のためによくしてくれている。しかし、それこそが大助には辛いものでしかない。そうやって自分だけ特別扱いを受けていることが。

 口数はみるみると減っていき、食欲もなく給食はほとんど残すようになった。学校に登校してもすぐ保健室に足を運ぶようになり、いつしか休みがちになる。

 そうして六月の最終週、大助はとうとう学校にこなくなった。


       ※


 七月一日、月曜日。

 放課後。

「…………」

 赤いリボンのある白シャツ、頭には紺色のベレー帽を被り、学校指定の茶色いランドセルを背にした紫浦美砂里は、落ち込むように俯きながら通学路を下校していた。

 まだ梅雨は明けていないが、見上げる空には真っ青な空が広がっている。しかし、美砂里の心はどんよりと厚い雲に覆われているみたい。

 今日も大助は学校を休んでいた。先週は一週間ずっと休み。その前も休みがちで、今週こそはと思ったが、やはり今日も休み。

 美砂里は大助が今日休んだこと、『やはり』と思ってしまっている。

「…………」

 昨日は川原のグラウンドで少年野球の練習があった。まだチーム員だが、学校を休んでいる大助がそんな所にやって来ることはない。それ以前に、あの事故以来、一度としてグラウンドに顔を出していなかった。しかし、美砂里は練習に参加する。チームの柱であったエースで四番がいなくなったからといって、チームが終わりになるものではない。大助がいない分、みんなで少しずつカバーしていけば、全国大会だって夢でないはず。大助が抜けたことで、どれだけチームの士気は下がっていても、監督である父親とともにチームを引っ張っていくはずだった。

 しかし、昨日の練習で、美砂里はミスを連発させる。考えまいとしても、やはりその頭は大助のことを考えてしまうのだ。

 交通事故に遭い、右腕を失い、絶望の種を生み出した。その際に寄生した気喰はなんとか美砂里が撃退でき、その影響からか、大助は少しだけ前向きになれた気がした。閉じ籠っていた病室からも出るようになり、退院する。そうして学校に戻るも……一か月もしないうちに、大助は登校をやめてしまった。

「…………」

『このままでは駄目だ』そう思う。このままでは、また大助は絶望の種を生み出すだろう。気喰に寄生され、生きる気力を失う。

 誰よりも練習に明け暮れ、本気で甲子園を目指していた大助が右腕を失い、野球はおろか日常生活も儘ならない状態。そんな大助に対して、美砂里はいったい何をすればいい? どういった声をかければいい? まったく分からない。

 分からない分からない分からない分からない。

 自身の未熟さを痛感する。大助が今にも絶望に覆われるかもしれないのに、何もすることができない。美砂里は小学六年生でありながら神人となり、大人にもできないことができるようになった。けれど、大助という人間に生きる力を与えてあげることができない。

「…………」

 いろいろと考えては、徐々に視線が下がっていく。たくさん悩んでは、その口から深い溜め息が漏れていって……元気なく通学路を下校していき、足取りが重たかった美砂里は大助の家に到着した。これから担任から頼まれていたプリントを届けなければならない。

 大助には一日も早く立ち直ってもらいたい。しかし、できることなら、今は大助に会いたくない気持ちがある。また元気になってほしいと願っているのに。

 今の大助のこと、見たくはないから。

 気が重い。

「……っ!?」

 インターホンを押すことはなかった。それはいつものこと。しかし、扉を開けたそこは、いつもの玄関ではなく、非日常的な空間が広がっていた。

 闇。

 闇。闇。闇。闇。

「そんな!?」

 まったくそんな気配、感じられなかった。いや、感じられなかったというより、美砂里の神経や感覚が鈍っていたのかもしれない。

 闇には、闇に蠢く赤い炎。それが大きな羽を広げるようにして宙を移動する。まるで巨大な蝶のような容姿だが、けれど、蝶にあのような鋭く長い尻尾はない。自身が燃える炎を空間にぼとぼとっと落としながらゆっくりと旋回している。

 気喰。

(大ちゃん!)

 その存在を意識した瞬間、その手にはアルファベットの『P』の形をしたトリガーが現れた。迷うことなんかない、一気に引き金を引く。

 刹那、美砂里の全身は、真っ白な神衣によって覆われた。

 飛炎。

「大ちゃんのこと、わたしが守るから」

 右手を向けた。その腕にではなく、手の先にある空間に向けて力を入れた瞬間、そこから真っ白な炎の柱が放たれる。それは小さく分かれて無数の小鳥となり、一斉に宙を浮遊する巨大な気喰に襲いかかっていく。

 しかし、接近する白色に対して、気喰は大きな羽を強く羽ばたかせたではないか。すると、発生した強烈な風圧によって白い小鳥はすべて吹き飛ばされていく。闇の地面に次々と叩きつけられるように衝突し、小さく翼を動かすことしかできなくなった。もう飛び立つことができない。そのまま白い霧となり、消える。

「そんな!?」

 愕然とする美砂里の視界、そこには徐々に大きくなってくる気喰の姿がある。これまでは遠い空を旋回していた気喰が今、美砂里に向かって突っ込んできた。

「きゃっ!」

 スピードがとても速い。危険を察して躱そうと思った。全力で右方へと駆けるのだが、気喰の体は美砂里の十倍以上大きく、羽ばたかせるその巨大な羽ごと突っ込んできたため、真っ正面から体当たりを食らってしまった。美砂里は十メートル以上後方に飛ばされていく。闇へと背中を強打し、呼吸困難に陥った。

(駄目! 駄目! 駄目! 駄目!)

 動かない。体が動かない。さきほどの衝撃で、全身の感覚を麻痺させるほどの激痛に見舞われている。とても体を起こすができず、横たわったまま表情を歪めることしかできない。

(駄目! 駄目! 駄目! 駄目!)

 ぼんやりする視界。そこに巨大な赤い気喰。気喰は今、美砂里の上空を旋回していた。変わらずにその体からは炎の固まりをぼとぼとっ落として。

(くっ!)

 炎の固まりが、美砂里の体へと降ってきた。身に纏っている神衣に当たった瞬間、肌が焼けただれていく。高温の鉄板を押しつけられるように、全身の皮膚が黒く焦げていく感覚が脳天から足元へと駆け抜けていった。

(これ、じゃ……)

 まだ吹き飛ばされたときのダメージが回復しない。加えて、こうも容赦ない攻撃を受けては、身動きすることすら困難となる。体を起こそうにも自由にできず、やれることといえば、せいぜい仰向けの状態から体を捻るぐらい。

 その間も、上空からは無数の炎の固まりが降ってくる。激痛とともに、右腕の感覚がなくなっていく。

(これ……)

 刹那、激しく焼けるような痛みとともに、右腕を失った気がした。痛みを通り越した先にある麻痺状態に陥ったのである。神経がやられたかもしれない。

(ああ、これが……)

 気喰を前にして、ろくに立ち上がることもできない大ピンチにあるのに、美砂里はおかしなことを考えていた。

(これが、大ちゃんなんだ……)

 右腕を失った感覚、大助のそれを共有できた気がする。腕は荷物のようにただ肩につながっているだけで、動かすどころか力を入れることもできない。分かっていたことだが、想像よりも不便なもので、こうなってしまえば邪魔でしかない。

 そう、動かない右腕は、邪魔なものとしか思えない。

 これなら、大助が絶望の種を生み出しても、不思議でない気がした。

(でも……だったとしても)

 今も上空の気喰より容赦なく降り注ぐ炎の固まり。それを全身に浴びながら、焼けただれていく感覚に幾度となく意識をもっていかれそうになりながらも、美砂里は気を張り、全身に力を入れる。左腕で闇の地面から自身の体を押し上げ、膝をつき、背中が焦げる感覚に表情を歪めながら、立ち上がった。

「このっ!」

 上空を睨みつける。降り注ぐ大粒の赤い雪のようなものの向こう側に羽を大きく広げた気喰の姿がある。上空に向かって、動かない右腕でなく、左腕を掲げた。赤い雪の延長にある気喰を破壊させる強く攻撃的なイメージで力を込めて、白い炎を発する。

 すると、白い炎は今までのように小鳥の群れとなるのではなく、一羽の巨大な鳥となった。そのまま赤い雪を呑み込みながら上空の気喰へと突っ込んでいく。

 ぶつかった瞬間、赤と白の光が爆発。衝撃波が発生した。それが美砂里の体を十メートルほど後方に吹き飛ばす。

(……そんな!?)

 意識はまだ保てている。重たくなった瞼をかろうじて開けることができた。そこには、巨大な白い鳥に気喰の長い尻尾が突き刺さる光景がある。

 巨大な鳥は悶えるように小さく翼を動かしたと思うと、白い霧となって闇の世界へと散っていく。

(駄目、なの!?)

 両肩を落として脱力しながら、呆然とするしかない。

 今のは美砂里のありったけの力を込めた。けれど、気喰には通用しない。これではもう手がない。

(わたしじゃ、大ちゃんを、助けてあげられない……)

 横たわる闇空間において、上空を大きく羽ばたかせている気喰を見つめることしかできない。光が失われつつある小さな瞳で。

(大ちゃん……)

 仰向けの状態のまま、上空をゆったりと旋回する気喰を通り越して、大助の存在を思い浮かべる。

 ずっと一緒に野球をやってきた大助。学校に戻って教室で一人机にいる大助。いつも元気でみんなのリーダーだった大助。動かない右腕に俯きばかりとなった大助。誰よりも努力していた大助。登校すら拒絶してしまった大助。ずっと見つめていた大助。もう見ていられない大助。

 さまざまな大助の姿が、美砂里の瞼の裏に投影される。その姿を見ているだけで胸が大きくときめきながらも、しかし、漠然とした強力な力によって潰されそう。

(大ちゃん、ごめん……)

 今も降り注ぐ赤い雪。うまく焦点が合せられない美砂里の視界。しかし、なぜだか眼前にある真っ赤な炎は鮮明と焼きつく。巨大な気喰。それが一気に美砂里へと迫る。

 美砂里は動くことができない。避けることができない。もうすでに抗うことを放棄してしまっている。

 上空を旋回していた気喰は羽を閉じ、まるで一本の矢になかったように真っ直ぐ美砂里目がけて突っ込んでくる。

 けれど、やはり、美砂里は動くことができない。もはや思考することも困難なものに。

(ごめんね……)

 長時間プールで遊んだときのように、全身が鉛のように重たく、言い表せないような疲労感。両の瞼は徐々に閉じて、見えている世界が段々狭くなる。

 気喰は、物凄い勢いで上空から一直線に美砂里に迫っていた。

(…………)

 閉じられた瞳。もう世界からは赤色すら見えなくなった。

(…………)


「あらら。ったくさ、あんたが絶望してどうすんの!?」

(……っ)

 追い詰められた絶体絶命の状況で……声がした。鼓膜を振動させた声。体を動かすことはできないが、瞼を上げることはできる。

(……誰?)

 真っ白な神衣が見えた。

 と同時に、美砂里は全身にこれまでにない熱を得る。温もりというやつかもしれない。見てみると、美砂里は誰かに抱えられていた。

(あなた、は……?)

「戦えるんだったら、戦わないと。まだエナジー残ってんだろ」

「ぁ……」

 美砂里はろくに返事できないほど傷心しきっている。しかし、足元が覚束ないものの、それでも自らの足で立った。

 前方を見ると、気喰が前方の闇に羽ばたいている。とても低い位置。刹那、そのまま抵抗飛行でこちらに迫ってくるではないか。

「あ、ああ……」

「ほら、おろおろしない。いい、あんたは力溜めとき。あたいがなんとか時間稼いでみるから」

 そう美砂里に言い残して気喰に向かって飛び出していった女性は、眩いばかりの見事な黄色い髪をしていた。腰まであるとても長い髪を左側に一本、右側に二本と、後ろで三つに縛っている。

 走りながら、女性は髪の毛を抜く。するとその手に長い槍が現れた。

 女性は闇を蹴ってジャンプする。それはとても人とは思えない超人的なもの、マンションの十階の高さまで飛び上がったと思うと、低空飛行している気喰の上を取った。

 上空の女性、手にした槍を投げ込む。槍は大きく翼を羽ばたかせている気喰へと突き刺さる。その姿、まるで標本の蝶のよう。

 女性の手には、新たな槍が握られている。それをまた投げ込み、見事に気喰に突き刺さった。投げ込んでいく。投げ込んでいく。投げ込んでいく。すべてが巨大な気喰に突き刺さった。

「あんた、今だよ」

「はい!」

 気喰の向こう側へと着地した女性からの声に、今度はしっかり返事できた。蓄積されたダメージで重たい両腕を気力だけで前に突き出していく。

「みんな、お願い!」

 気喰に向ける両腕に力を込める。刹那、二本の白き炎の柱が生まれる。

 一方は巨大な鳥としての形となり、気喰に真っ正面からぶつかっていく。

 一方は無数の小鳥となり、串刺しになっている気喰を覆う。

 そうして赤い炎は、美砂里に手より放たれた白色によって色を失うのだった。

「……やった」

 美砂里の視界から、赤色が消滅していく。不気味に燃える赤色を殲滅する白き鳥によって、気喰の存在は霧と化す。そうして空間に大量の赤い霧が生まれるのと同時に、白色の鳥は夕方になって巣に帰るように次々と美砂里の神衣へと戻ってきた。

「やった、やったよ……」

「ほら、ちゃんとやれるじゃんか」

「あ、はい!」

 目の前に派手な黄色い髪の女性。一緒に神人をやっている高校生の一ノ瀬咲よりもさらに年上のようで、随分と余裕というか、落ち着いた印象がある。

「なら、回収しよか」

「あ、はい」

 二人ともアルファベットの『P』の形をしたトリガーを掲げると、闇に飛散していた赤い霧を吸収していった。

 そして闇は晴れていく。


       ※


「あたいの力は『変換』なんよ」

「変換?」

 ランドセルを膝に、美砂里が小さく首を傾ける。

「変換ですか?」

「エナジーをいろんなもんへ変換できるんよ」

 二人はベンチに座っている。近所の猿壁さるかべ公園。住宅四つ分ぐらいの大きさで、中央にジャングルジムがあり、その周辺を囲むように鉄棒と砂場と滑り台とブランコがあった。そのブランコ横に設置されるベンチに並んで腰かけている。公園には、美砂里たち以外は誰もいなかった。

 大助の家で気喰を撃退した後、学校で頼まれたプリントを大助の母親に渡してきた。そして、今回の戦いで新たに出逢うことができた神人と話したくて、こうして公園に寄ったのである。

「さっきな、エナジーを脚力に変換したんよ。だからあんなに高くジャンプできた」

 蝶のような気喰を串刺しにしたあの槍も、自らの髪の毛を槍に変換したもの。

「うまくすりゃ宙に浮くことができんよ。けど、そんなことしたら、エナジーの消費が半端じゃないかんね」

 黄色い長い髪、それがかかっている背中には黄色のリュックサックを背負っている。それら以外は黒。黒のシャツに黒のズボン。表情はとても豊かで、今は歯を出して笑っている。大人のようでいて、けど、子供っぽさも残っている感じ。

 三倉みくら示苑しおん

「示苑さんは、どうして大ちゃん家にきてくれたんですか?」

「はははっ。大ちゃん家ってわけじゃないけど、気喰の気配がして、飛び込んでいったんよ。そしたらあんたがいた。はははっ、大ピンチだったね」

「はい、助けていただいて、ありがとうございます」

「礼なんて、いいっていいって。困ったときはお互いさまよ」

 示苑は空を見上げる。茜色にそれに、西の方から暗闇が迫りつつある。

「気喰は人を闇へと引きずり込んでいくかんね、絶対に許すわけにはいかん。同じ神人として、頑張っていこな」

「はい」

「うん、いい返事」

 風が吹く。三本に縛られた示苑の髪が小さく浮いた。

「にしても、あんたそんなに小さいのに、神人とはね」

「あ、あの、示苑さんは、いつから神人をやってるんですか?」

「うーん……あたいはあんたよりは大きかったなー」

 示苑はどこでもない虚空を見つめる。

「両親が会社経営してたんだけどな、不景気ってやつのせいか、破産しちまって。両親ともに絶望の種を生み出して、自殺しようとしてたんよ」

 それは、示苑と妹の目の前で……姉妹を道連れにしようとして。

「両親がおかしくなっちまった。でもって、このままだとあたいたちも一緒に死ななあかん。だから、必死に逃げようとしてな。とにかく氷のような両親の冷たい目が怖くてな、けど、逃げようにも体が恐怖に震えちまって、うまくいかなかったんよ」

 両親は車に示苑と妹を乗せ、崖から海へと突っ込んでいく。

「生きたかった。まだまだしたいことがあったし、ってより、死ぬのが怖かった。生きて生きて生きて生きて、あたいは両親なくても生きていたくて」

 そして願った。絶望としか思えない現状を打破する力を。

「神人ってのは、気喰を撃退する唯一の存在じゃん? その力を手に入れたんだから、やっぱその使命を果たさなきゃいけないわけじゃん。だからあたい、生き延びることができた人生を、この力を使うことに費やしていこうと思ってな」

「凄いです、とても立派ですね」

「そうか? あんま大したことはできてない思うけど」

 示苑の頬が僅かに紅色に染まるが、すぐ元通り。

「まっ、あの時は気喰を倒して車はなんとか崖の手前で止まってくれた。おかげか、母親は立ち直ってくれたんよ。けどな……けど、結局さ、父親は死んじまった」

 気喰を倒したときはどうにか自殺を踏みとどまった。しかし、二か月後、マンションから飛び下りて絶命。

「あたいじゃ、本当に救うことはできんかったよ」

 辛い話であるはずなのに、示苑はなんてことないように淡々を喋っていた。もう過ぎたことだと割り切るように。

「なことより、あんた、あの家の誰が絶望の種を生み出したんか、知ってるん?」

「あ、はい……」

 問われた内容に、美砂里は思わず俯いてしまう……しかし、いつまでも黙ってるわけにもいかず、かつ、相手は自分を助けてくれた恩人、とても頼り甲斐がありそう。向こうが自分の過去を打ち明けたのだから、美砂里も大助について話さなければならない。

「大ちゃんは交通事故で、右腕をなくしたんです」

 美砂里は四月から今日までのことを順番に話していく。

 大助が交通事故に遭い、右腕を失ったこと。病院で絶望の種を生み出したこと。気喰に寄生されたこと。大助を救いたくて、力を欲して神人になったこと。気喰を撃退するも、大助は再び気喰に寄生されたこと。美砂里が懸命に大助のために努力してきたこと。ようやく大助が退院できたこと。大助が学校に復学できたこと。けれど、大助は自身を惨めに感じ、足手まといだと思っていること。クラスメートから孤立したこと。徐々に学校を休みがちになったこと。とうとう投稿しなくなったこと。そして今日、三度気喰に寄生されたこと。

「大ちゃん、右腕がっていうか、そういう、その、障害者になったこと、随分気にしてるみたいで……」

「交通事故で右腕をね……そりゃ、絶望の種を生み出しちゃうかもね。その大助って子さ、ずっと甲子園目指して練習してきたんだろ? チームの練習以外も。最近の子にしては珍しく、明確な夢を持ってすでに自分の目標にできてる子なんね」

 本気で目指すべきものがあった男の子が、突然目標を奪われた。それも、挑戦して夢破れたわけではなく、そのスタートラインにすら立てずに。

 だとすると、この男の子にとってこの世界は、残酷なものでしかない。

「ところで、あんた、その大助って子のこと、好きなん?」

「へっ……!? あ、ああああ」

 いきなり変な質問をされてしまった。一瞬、口を閉じられずに表情が固まり、それから俯いてしまう美砂里だったが……けれど、小さく頷いた。

 それが素直な心。

「……はい」

 否定するとか、隠すなんてことはしなかった。今日会ったばかりなのに、示苑は親身になってこちらの話を聞いてくれる。だから、照れるとか恥ずかしいとか、そんなこと気にせずに、自然と心をさらけ出していた。

「家が近所で、野球チームも一緒で……だからって、もちろん最初はなんとも思いませんでしたよ。最初はね、わたしの方が野球うまかったですし。大ちゃんなんて口ばっかで、バット振ってもまともにボールが当たらなくて。それが相当悔しかったみたいで、わたしに負けないように毎日練習して、どんどんうまくなっていって……そういった姿見てるから。大ちゃんの頑張ってること、知ってるから」

 美砂里は自然と大助のことを目で追うようになり、大助のことを考えるようになって、そして春の事故を迎えてしまう。

「事故の連絡を受けたとき、もう頭がパニックでした。事故に遭ったってだけで驚いたのに、右腕が使えなくなっちゃうなんて……自分のことのようにショックでした。目の前が闇に閉ざされた気分でしたから」

「そっか。そんなにその子のこと、好きなんだね」

「……はい」

「じゃあね、その王子様」

 満面の笑みを浮かべる示苑は、長く黄色の髪を大きく揺らした。その眼差しはとても深い色を携えている。

「条件次第で、あたいがなんとかしてあげよっか?」

「っ……?」

 今の塞ぎ込んだ大助に対して、いったい何ができるというのか? 美砂里には見当もつかない。

「どういうことです?」

「ふふーん。あたいに任しとけば大丈夫だから」

「大丈夫、ですか……」

 それから示苑の話を聞いてみて、『もしかしたら』と思った。『もしかしたら、輝いていた頃の大助を取り戻せるかもしれない』と。

 示苑に対して、美砂里は大きく頷く。何度も何度も。目の端にいっぱいの涙を溜めながら。

 そうして美砂里は、真の笑顔を浮かべられるようになる。


       ※


 今年の夏は『酷暑』と呼ばれるとても暑い日々がつづいていき、毎日うんざりするような暑さだった。

 そんな夏休み、小学六年生である紫浦美砂里は、父親が監督をやっている少年野球チーム、紫浦シャイニングのレギュラーとして、太陽が照りつけるグラウンドで懸命に汗を流し、いよいよ全国大会がかかる県予選に挑む。

 紫浦シャイニング、去年の大会では三回戦負けだったが、今年は全員の試合に取り組む姿勢が充実したものとなっていた。特にピッチャーに恵まれ、その結果、順調にトーナメントを勝ち抜くことができた。そしてなんと、チーム創立初の決勝戦に進出することができたのである。

 決勝戦、近所の人の応援のなか、美砂里もヒットを二本打つことができ、決勝戦はとてもいい試合にできたと思う。けれど、残念ながら敗退した。2対3の僅差。こちらが先取点と追加点で二点取ったが、エラー絡みで三点を取られてしまい、そのまま逆転できなかった。

 美砂里にとって、最後の夏が終わった。父親や兄の影響ではじめた野球。毎日日が暮れるまでキャッチボールをやっていたのが、やけに強く思い返される。しかし、それも今年で最後と決めていた。事実、もう男子に混ざってプレーしているのも限界を感じている。だから最後の大会、目指していた全国大会にいけなかったのは残念だったが、とても充実したものとなった。

 敗退と同時に、チームのみんなともお別れ。中学校に進学してからも野球をつづける者、他の道を選ぶ者、さまざまだろうが、しかし、もうこのメンバーで野球をやることはない。去年美砂里たちが上級生を送り出したように、今年は美砂里たちが送り出される番である。

 そんななか、県大会が過ぎても紫浦シャイニングの練習に参加しつづける者が一名いた。県大会の活躍により、チームで唯一地区選抜に選ばれて、今年いっぱいそちらで野球することになったのである。県大会以降は、集合がかかるまでは紫浦シャイニングの練習に混ざって練習をつづけるという。それは、チームのエースで四番の、梨森大助であった。

 まさに『奇跡』と持て囃された、大助の右腕が動くようになったのは。その事実、担当医師も目を剥いて仰天したほど。なぜ突然動くようになったのか、まったく解明できていない。ともあれ、大助は事故で失った右腕を取り戻し、交通事故に遭う前の生活を取り戻していた。

 もう二度と動くことがないとされた大助の右腕が奇跡的に治ったこと、大助の周辺にいるみんなが喜んだことだが、しかし、唯一美砂里だけはそれが『奇跡』でないことを知っている。もちろんそれを誰にも話すつもりはない。

 大助に笑顔が戻ったこと、美砂里は心の底から嬉しかった。


       ※


 九月七日、金曜日。

「ねぇねぇ、美砂里ちゃん美砂里ちゃん」

「んっ?」

 放課後の教室。声をかけられたので美砂里が振り返る。そこには同じクラスメートの野中のなか智美ともみがいた。

 白いシャツと茶色いスカートは美砂里と同じもの。クラスで一番背の高い女子で、髪は真っ直ぐ背中まで届いていた。瞳は大きく、真っ直ぐこちらを見つめてくる。運動神経もよく、勉強もできて、一学期はクラスの学級委員をしていた。

「智ちゃん、どうかしたの?」

 美砂里は帰るところだった。帰りのホームルームが終わり、学校指定の茶色いランドセルに教科書とノートをしまって、席を立ったところ。

 それは智美も同様らしく、すでにランドセルを背負って、紺色のベレー帽を頭に被っている。

「何かあったっけ?」

「美砂里ちゃん美砂里ちゃん、今日、一緒に帰ろ」

「んっ……?」

 美砂里の頭に疑問が浮かぶ。これまで一緒に帰ったことなどなかった。そもそも家の方向が違う。美砂里の家は学校から北方だが、智美の家は東方。

 しかし、せっかくの誘いを無下に断る理由もない。一緒に帰るといっても、せいぜい東門を出るまでだろう。

「うん。いいけど……」

「わーい」

「いこ」

 智美は心の底から嬉しそうに、人懐っこい笑みを浮かべた。

 そういった笑顔を浮かべられること、『ああ、みんなに人気があるところなんだなー』そう美砂里は感心した。同時に、とても自分には無理だと思う。

 二人並んで教室を出る。廊下を歩いていって階段へ。

「どうしたの、今日は?」

「美砂里ちゃんって、大助君と一緒に野球やってるんだよね?」

「あ、うん。でも、『やってた』だけどね。わたし、夏に引退しちゃったから。でも大ちゃんは練習つづけてるよ。地区選抜に選ばれたみたいで、その練習のために」

「それって、どこでやってるの?」

「練習のこと? 川原だよ」

 四階から一階の下駄箱を到着。履き替えて、下校する多くの児童に交じって東門を目指す。

「別にグラウンドじゃなくても、その辺、ランニングしてるときもあるよ。大ちゃん、いつも一所懸命だから。あれ……? でも、どうしてそんなこと?」

「あのね、美砂里ちゃん」

 その口調に一切の淀みはなく、とても堂々としていた。そう言うことが、智美にとって正義であるように。

「智美ね、大助君のことが好きなの」

「…………」

 美砂里は智美のことが好きだった。自分のことを名前の『智美』と呼ぶことには若干の抵抗があったが、けれど、みんなから人気があるように、美砂里も智美のことが好きだった。

 今の今までは。

「……そう、なんだ」

「美砂里ちゃんって大助君と家も近いんだよね? 一緒に野球やってたから、仲もいいんでしょ?」

「……あ」

「だからね、美砂里ちゃん、力になってくれないかな?」

「智ちゃん……?」

 いきなり両手を握られた。少女漫画のようにきらきらっするような目で真っ直ぐ見つめられていること、いやでも美砂里の口元が引きつく。

「あの、ね……」

「智美ね、本当に大助君のことが大好きなの。よかったって思ってるよ、また大助君が学校に戻ってきてくれて。ずっと心配してたもん。大助君のこと考えてると、もう毎日心が痛くって」

 智美は胸を押さえている。

「一学期は最後ちょっとだけだったけど、二学期になって、学校にきてくれた。とても嬉しかったわ。それでね、智美、もう我慢できそうになくって、この気持ちを伝えたいって思ったの。大助君のこと、誰よりも大好きだから」

「あ、あの……」

「だからね、美砂里ちゃん、智美の力になってくれるよね?」

「あ……」

 東門に到着。どの学年かは分からない先生が見送っている。挨拶をして、学校の外に出た。

 通学路の違いにより、すぐに別れなければならない二人。

「……わたし」

「それとも、美砂里ちゃんも大助君のことが好きなの?」

「へっ……? あ、いや、そんな、全然……」

「そっかー、よかったー。じゃあ、力になってくれるよね? 美砂里ちゃんの応援があれば百人力」

「…………」

 笑顔で手を振って、智美は顔を仄かに染めながら、足取り軽く跳ねるように歩いていった。

 残った美砂里の心は落ち着きなく、強風に揺れる竹林のようにざわついている。

「…………」

 智美の後ろ姿を見送る美砂里。胸の鼓動を意識しながら、通学路を下校する。

 やけに視線が下を向く。

(智ちゃんが、大ちゃんのこと……)

 まさしく青天の霹靂というしかなく、急に目の前が真っ暗になった気がした。 智美は、クラスの誰からも慕われていて、かわいいし、背も高いし、学校の成績だっていい。

 美砂里は、ただ大助と夏休みまで野球をやっていただけで、それだけ。

 差は歴然。

(……大ちゃんの、こと……)

 智美は恥ずかしげもなく、ああも堂々と『好き』という言葉を口にした。対して、美砂里は口にすることができないでいる。

(…………)

 ずっしり! と極めて重たいものが頭と両肩に伸しかかるような、気の重さを得る。


「そりゃ、大変だね。恋敵ってやつじゃん」

「うー……」

 唇を尖らせながら、美砂里は吹いてくる風に肩口までの髪を揺らしていく。九月に入った影響からか、風にはこれまでにない涼しさが含まれるようになっていた。

 金曜日の夕方、美砂里は黄色い髪が特徴的な三倉示苑とともに商店街を歩いている。それは巡回のため。

 動かなくなった大助の右腕について、それを『変換』の力を使って回復させるために提示した条件が、『美砂里がパートナーになる』だった。これから神人として気喰を撃退していくために、示苑が美砂里と手を組むことを条件としたのである。

 美砂里はすぐに承諾。一人で戦うことは不安であるし、それに、そんなことで大助の右腕が治るのなら、迷うことはない。

 大助は右腕を取り戻したが、美砂里にその理屈はよく分からない。人間にはない、神人の力であることは間違いないのだが。

 神人は傷を自身の持つエナジーによって回復させる。だから美砂里が串刺し状態という致命的な状況になろうが、どれほど全身が焼けただれようとも、エナジーによって元通り。

 示苑には、その応用であると説明された。示苑の能力は『変換』であり、自身を治療する力を変換させ、それを大助の右腕に当てたという。

 理屈はどうあれ、大助は右腕を取り戻した。事故以前の生活を取り戻したのである。

 そしてその日以来、美砂里は時間を見つけては示苑と合流し、こうして一緒にパトロールをするようになった。近くに気喰がいれば、その気配を感覚として得ることができる。それを二人で力を合わせて、撃退するために。

 まさしくパートナー。

「智ちゃんはね、みんなに人気があって、とってもいい子なんです」

 サマーセーターに身を包んだ美砂里は、少しだけ唇を尖らせながら、人通りの多い商店街を歩いていく。

「学級委員だってやってたし、頭だっていいし」

「でも、その智ちゃんとやらが、恋敵になっちまうんだろ?」

 相変わらずの見事な黄色い髪。右側で二本、左側で一本に縛っていて、それが腰まで達している。今日も上下黒い格好で、棒つきのキャンディーを銜えていた。

「言ってやんな。『大ちゃんはわたしのもんだ』って」

「そ、そんな、言えるわけないですよー」

「きゃはははっ。そんなこと悠長な言ってたら、大ちゃん、ほんとに取られちゃうよー」

「うー……」

 幟のあるクリーニング店の隣に、たいやき屋がある。以前白いたいやきというのを示苑にご馳走してもらったことがある。生地がふわふわっしていて、中の白クリームがとっても甘くて、また食べたいなと思った。

「でも、もしかしたら、大ちゃんが智ちゃんのこと、好きかもしれないし。智ちゃんって、ホントに人気あるから」

「あんたさ、そんなんでいいのぉ!?」

 少しだけ語尾の上がる示苑。その目は鋭くなる。

「あんたの気持ちって、そんなもんなの!? だとしたら、びっくりだわ!?」

「どうしてですか?」

「あんたが大ちゃんのことを好きだから、これまで必死になって守ってきたんでしょ?」

 美砂里は神人となり、人知の及ぶことのない気喰に立ち向かっていったのは、すべて大助のため。

「そんな曖昧な気持ちだったら、大ちゃんのこと、助けたりしてないと思うけど」

「そ、そりゃ、わたしは大ちゃんのこと、好きです」

 それは示苑相手だからこそ、正直に言える言葉。

「好きですけど、智ちゃんだって好きなら、その……」

「譲っちゃうわけ?」

「そんな、つもりは……」

「いい?」

 示苑は腰を屈め、美砂里の顔を覗き込む。

「そんな気持ちなら、大ちゃん、取られちゃうよ。その智ちゃんっていうの、真剣なんでしょ!? あんたがそんなだと、大ちゃん、絶対取られちゃう」

「…………」

「はっきりさせな。結論を出すのは勇気のいることかもしれないけど、今はそうすべきなんよ。でないと、きっと後悔する。そんなんでいいの? 大ちゃん取られちゃって平気? ただ陰から見守っているだけって、それで本当にいいの? 母親じゃないんだから」

「…………」

 どうにも返答することができずに、どうすればいいか分からずに俯いてしまう美砂里。

 その胸では、智美のことを思い返すだけで、ざわざわっと蠢くものを感じる。それは断じて気持ちのいいものではなく、不快でしかない。

(……大ちゃん、のこと……)

 取られたくないに決まっている。いつも一番近くにいるのは自分でいたい。そのためにこれまで懸命になって戦ってきたのだ。大助のこと、気喰という怪異のものから守ってきた。右腕が動くようになったのだって、美砂里が示苑にお願いしたから。また学校にこれるようになった。野球ができるようになった。地区選抜に選ばれた。それらすべては美砂里がいたからできたこと。

 そんなこと、本人はこれっぽっちも知りはしないことだが。

「……わたし、智ちゃんと仲良くしたいです」

「そりゃ、あんたがどっち選ぶかによるわな。友情を選ぶのか? 恋愛を選ぶのか? あたいが口出しすることじゃなくて、それはあんたが選ぶこと」

 冷たい言い方だが、しかし、示苑はそこからも言葉をつづける。

「けどね、あんたが神人になった理由を考えてみると、どう考えても友情を選ぶ必要はないと思うけどねー」

「うー……」

 美砂里には、言われていること、その通りとしか思えない。けれど、言葉は詰まってしまう。

「……っ!?」

 瞬間、肌が凍えるような気配がした。美砂里の表情が一気に緊張の色を帯びていく。

「……あっちです」

「みたいね」

「気をつけましょう」

 二人は商店街の途中にある小さな路地を曲がっていく。そこにある古びた住宅を目にする。全身を痺れさすような感覚は、その家から発せられていた。

(しっかりしなきゃ!)

 出さなければならない答えを後回しにすることになるが、しかし、今は大助や智美のことなど二の次。これから美砂里は、神人としての使命を果たすために気喰と戦わなければならないのだから。

 そうして美砂里は、また漆黒の闇に覆われることとなる。そこに巣くう気喰を討伐するために。

 美砂里はトリガーを引いた。


       ※


 九月二十一日、金曜日。

 朝。登校。

「ほら、大ちゃん、急いで。そんなんじゃ遅刻しちゃうよ」

「別に慌てることないってば」

「もー。なんでそうものんびりしていられるのか、疑問でしかないよ」

 美砂里はいつものように胸に赤いリボンのある白シャツに茶色いスカート、頭に紺色のベレー帽を被り、背中には学校指定の茶色いランドセル。近所の大助を迎えにきて、これから一緒に登校。

「ほらほら、大ちゃん、後ろ、ちょっと寝癖になってる」

「ホントか!? どこだよ!?」

 指摘に対して、大助は慌てた様子で乱雑に手櫛しながら、撥ねている箇所を手で押さえて、あまり普段は被ろうとしないベレー帽を被った。そうして帽子の上からも、髪の毛を意識する大助。

 そんな仕草、大助には珍しいこと。これまでなら多少の寝癖ぐらい、気にしなかったのに。

「なぁ、美砂里……お前さ、野中と仲いいっけ?」

「智ちゃんのこと……?」

 夏休み前まではそんなことなかったのに、大助の口からクラスメートの野中智美の名前が出たこと、美砂里には胸が刺激される。

 最近、気がつくと大助の横に智美がいた。教室で楽しそうに喋っていたり、音楽の時間に一緒に音楽室に移動していたり。教室にあるその光景、今では違和感がなくなりつつある。

「あいつさ、好きなもんとかあるかな?」

「智ちゃんの、好きなもの……?」

 まだ肝心な部分は何も伝えられていないのに、美砂里の心が、どーんっと重たくなる。頭ではまったく別のことを考えているのだが、質問された内容に対して考えているような素振りをして、小さく首を振った。

「智ちゃんとは、そこまで仲いいわけじゃないから……」

「そうか……じゃあさ、女の子が好きなもんとか?」

 そう言って、大助は美砂里のことをちらちらっ目にしながら、暫く逡巡するように前方を見つめる。どうすべきか考えて、最終的な『まっ、いいか』と開き直った表情を浮かべた。

「これはみんなには内緒だぞ。美砂里だから話すんだからな」

「う、うん……」

 頷きはしたものの、できることなら聞きたくなかった。いつも二人で歩いているときはこんなこと思わないが、今は誰だっていい、自分たちのやり取りを邪魔してほしい。

「…………」

「今度さ、野中と動物園に遊びにいくことになったんだよね」

 はにかむような笑みを零しつつ、大助は実に幸せそう。

「でさ、あいつ、誕生日だっていうから、何かプレゼントでもしてやろうかなって」

『へへへっ』小さく笑いながら、大助は鼻の下を擦っている。その視線は前を向いたまま、隣人に声を届かせるために唇を上下させていく。

「なあ、だから頼むよ。女の子がほしいプレゼントって、何か教えてくれよ。美砂里だったらさ、女の子がもらって嬉しいもんぐらい、ぱっぱって思いつくだろ」

「……あ、う、うん……」

 美砂里は小さく頷く。今はそうやって頷くことしかできない。

「…………」

 直面した状況と、自身の複雑な心境に、笑みが濁る。

「えーと、智ちゃんにプレゼントをあげるんだとしたら、何がいいかなー……」

 本来なら、美砂里はその表情を見ていたいはずなのに、今は大助が嬉しそうな表情を浮かべれば浮かべるほど、胸の奥でどす黒い気持ちが溢れてくる。

 そんな錯覚を得る自分を意識して、嫌悪感は増すばかり。


 森北小学校六年一組の梨森大助と野中智美は、夏休みが明けてから、急速に仲を深めていっていた。休みの日に大助がやっている川原の練習にも、智美は顔を出すようになったほど。

 美男美女というほど大層でないが、しかし、それでもクラスの人気者同士が一緒になること、からかう声もある。あるのだが、最近ではすっかり落ち着いた様子。納まるところに納まったというか、それはクラス全員が公認するぐらい。

 そんな様子、美砂里は蚊帳の外で見ていることしかできない。

 美砂里には悔しい思いがある。気がつくと、鼻の頭が熱くなってきて、手がふるふるっと震えてくる。

『大ちゃんは、わたしがずっと守ってきたのに』

『わたしが示苑さんにお願いしたから、大ちゃんの右腕が元通りになったのに』

『わたしがいなかったが、大ちゃんなんて病院の屋上から飛び下りて死んでいたのに』

『わたしのおかげで、大ちゃんはこうして生きていられるのに』

 なのに、大助の横に美砂里はいない。大助の横には智美がいる。

 美砂里の心は荒れていく。水面が激しく波打っていく。

 二人のこと、とても見ていられない。

 智美について、いやな感情しか湧いてこない。

 ここにいることがいやになってくる。

 美砂里は、日々を過ごすことが、とても苦しくて堪らない。

 今すぐにでも、眼前にある世界がぶち壊したいと願う。

 破壊してしまいたい。

 もうなにもかも。


「ちょっとちょっと、どうしちゃったっていうの、あんな無理しちゃって」

「はぁはぁはぁはぁ……無理なんかしてないですよ……」

「さっき、強引に突っ込んでったじゃん」

「はぁはぁはぁはぁ……強引とは思ってません……」

「わっ。ささくれちゃってる」

 真っ暗な闇の世界、真っ白な神衣を身に纏った三倉示苑が、額に大粒の汗を浮かべる。黄色の髪を大きく揺らしていった。

「あんな戦い方してたら、身がもたんよ。さっきのあんた、特攻隊みたいだった」

「はぁはぁはぁはぁ……いいんですよ、ちゃんと倒せたわけですから」

 示苑同様に全身をすっぽりと包む大きな神衣に身を包んだ美砂里は、肩で大きく息をしながら、トリガーを掲げる。前方の闇に漂う赤い霧を吸収した。

「はぁはぁはぁはぁ……もう今日は帰りますね」

「あ、ちょっと待ちなってば」

 示苑は美砂里の腕を掴む。

「あんな無茶してたら、命がいくつあっても足りんよ」

「無茶なんか、してません」

「ったく、頑固な……あんた、いい加減にしとき」

 ぱーんっ……色を取り戻した世界に乾いた音が響く。示苑が美砂里の頬を叩いた音。

「何があったか知らんけど、もっと命を、自分を大事にしないかんよ。あたいらが神人なんよ。他の誰でもない、あたいらが気喰と戦ってかないかんのよ」

「…………」

「だいたい、あんな戦い方してたらね、あんただけじゃなくて、こっちまで危なくなっちゃうじゃない」

「……だったら」

 美砂里は、じんじんっと痛む叩かれた頬を押さえることもなく、示苑の顔を見ることもなく、くるりっと背中を向けた。

「もういいです。わたし、これから一人で戦います。示苑さん、今までありがとうございました」

「あ、ちょっと。待ちい」

「さようなら」

「ちょっとちょっと、待ちなってば」

「…………」

 背中から示苑の声が聞こえてくる。しかし、美砂里の足は止まらない。

 美砂里は商店街から外れて川原沿いにある堤防の道を歩いていき、夜の静かな虫の音を耳にする。澄ましてみると、川を流れる水の音が聞こえるが、今の美砂里は悠長に気持ちを傾けているゆとりがなかった。

(…………)

 噛みしめる噛みしめる噛みしめる噛みしめる。ぐっと強く下唇を噛みしめる。うっすらと血が滲んだ。思いはとても苦しいものだった。

(……もういいや)

 渦巻いている胸のもやもやを抱え、平穏とはかけ離れた現状において、暴走する思いが止められない。

(もうどうだっていいんだから)

 脳裏には、楽しそうに顔を見つめ合う二人のクラスメートの姿が浮かぶ。その一人は、ずっと美砂里が追いかけてきた大助の笑顔。その度に、全身に必要のない力が入り、苦々しい思いが心の泉に溜まっていく。

(もう!)

 見上げる夜空には星々がきらめいていた。茂る草むらからは夏になかった秋の涼しげな虫の声。

 けれど、美砂里の心は落ち着いた季節を過ごすには似つかわしくないぐらい、荒々しい炎が燃え上がる激情と、氷のように冷えきった冷淡な部分が同居していた。

 とても不安定な心。すぐにでも砕けそうな思い。こんなことでは、まともな思考などできるはずもなく、美砂里はずっと情緒不安定な日々に苛まれていく。

 それはやはり、大助の隣に立てなくなったことが大きな要因を占めていた。

 当たり前だったそれを失った日々は、ただただ自分の存在意義を問う時間でしかない。


       ※


 十月十四日、日曜日。

 本日、森北小学校では晴天の空の下、運動会が行われた。

 六年生の美砂里にとっては小学校最後の運動会。とすると、いい思い出になるように精一杯頑張らなければならない。クラス一丸となって、優勝を目指す。

 美砂里のいる六年一組は、クラスの中心的な二人、梨森大助と野中智美の活躍により、見事に総合優勝を果たした。クラス中が盛大に盛り上がり、担任の里倉さとくら先生はご機嫌で、全員にジュースをご馳走したほど。

 そんななか、美砂里は一日中、やはり蚊帳の外にいるような思いに駆られていた。

 みんなの中心にいるあの二人が嬉しそうにすればするほど、輝いていればいるほど、孤独感が増していく一方。割って入っていくことができず、ただ遠くで見ているだけ。

 大助のことを見ていると、胸が痛くなる。

 智美のことを見ていると、心が苦しくなる。

 二人のことを見ていると、存在そのものが潰れそうになる。

 念願の総合優勝を果してどの顔にも笑顔が溢れるクラスで、美砂里だけが温度なく静観し、運動会に参加している感じがなかった。

 目の前で大助と智美がハイタッチしている。美砂里の大切なものが砕けていく。


 学校帰り。美砂里は漆黒の闇に覆われていた。

 純白の神衣を纏い、真紅の炎へと立ち向かっていく。

 飛炎。

「なんでよぉ!?」

 右腕から白い炎が放たれる。すぐにそれは無数の白い小鳥となり、炎のように赤色が燃えたぎる巨大な魚へと突っ込んでいく。

「なんでわたしが大ちゃんの横じゃないのぉ!?」

 大助の隣には、智美がいる。春までは、そこは美砂里の場所だったのに、気がつくと、美砂里の場所でなくなった。

 大助の笑顔、それが美砂里にでなく、智美に向けられている。

「わたしが大ちゃんのこと、ずっと守ってきたんだからねぇ!」

 気喰の容姿は縦長の楕円のようで、まるで巨大魚。しかし、魚としては、背びれがとてつもなく長い。今は全身を横に揺らしながら、白い小鳥の群れへと突っ込んでくる。

「わたしがいたから、大ちゃんは生きてられるんだからねぇ!」

 美砂里が発した小鳥の群れと、真っ赤な巨大魚が正面から激突。

「わたしが大ちゃんのこと、誰よりも好きなんだからぁ!」

 衝突は一瞬のこと。

 美砂里の瞬きの間に、小鳥の群れは散り散りとなって吹き飛んでいった。そして、巨大魚はそのまま猪突猛進で突進してくる。

 美砂里に向けて!

「がぁ!」

 高速道路を走る乗用車のような凄まじいスピードで、一陣の風のように突進してくる気喰を躱すことができなかった。猛スピードで迫ってきた車に撥ねられるように、大きく後方に飛ばされてしまう。勢いのままに地面に激しく叩きつけられて、言葉にならない呻き声を上げた。強く肩を打ちつけており、さらに足を捻ったらしく、体の捩れと足の向きが釣り合っていない。

(なんでよぉ!?)

 それは痛みによるものなのか……目の端にたくさんの涙を浮かべて、美砂里の全身が震える。それは止めようとして止められるものではない。

(なんで大ちゃんは!?)

 人が生み出す絶望の種を増殖させ、人から生きる気力を奪っていく気喰と対峙している。にもかかわらず、美砂里の脳裏に浮かぶのは大助の笑顔。

 自分に向けられるものではない、眩しい笑顔。

(そんなに幸せそうに笑ってるよのぉ!?)

 智美と向き合い、楽しそうに笑顔を浮かべる大助の姿、もう珍しいものでなくなった。まるで両親がリビングで楽しく笑っているように、あの二人が一緒にいることが当たり前になっている。

(わたしが)

 よろよろっと危うい状態でありながらも、立ち上がる。全身の痛みを堪え、精一杯気力を振り絞って。今の状況、これまでの美砂里であれば、負った深い傷のため、とても立ち上がれなかっただろう。けれど、今は精神的におかしい。つながっていなければならない線が五、六本ぶち切れた状態にある。であれば、その身に降りかかる痛みなど、関係ない。

 立ち上がる。

(今日までどれだけ苦労して)

 容赦なく、またもや突っ込んでくる気喰に向けて、今度は左腕を向けた。

(大ちゃんのこと助けてきたと思ってるのよぉ!)

 一気に力を込める。左手から太い柱のような白い炎が放たれた。すぐに巨大な鳥と化し、向かってくる気喰と激突。

(わたしが大ちゃんのこと、一番好きなんだから!)

 気喰の突進が止まった。互いに燃えるような白色と赤色を発しながら、ばちばちっと見えない火花が出るみたいに互角の力でぶつかり合っていく。

「舐めんじゃないわよぉ!」

 さらに右腕に力を込める。飛び立っていく無数の白い小鳥が、ぶつかり合って停止している気喰の全身を覆い尽くしていく。視界から赤色がどんどん見えなくなり、光景が白色で満たされていった。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 覆われる白色によって赤色はその色を失う。

「はぁはぁはぁはぁ!」

 肩で大きく息をする美砂里の視線が外れた。勝利を確信したからこそ、張っていた気を緩めて、荒れる息を整えることに専念する。

 視界から赤色が消えた。いつもであれば、このまま気喰は赤い霧と化していくはず。もう視界に赤色はない。すべてが白色に染められたから。

 けれど、違った。

 今回は、違った。

 赤!

「はぁはぁはぁはぁ……っ!?」

 気喰を包み込んでいた小鳥の群れが、一羽、また一羽と、剥ぎ取られるように弾かれていく。そう認識した瞬間には、小鳥の群れが四方八方へと吹き飛ばされていた。まるで爆発でも起きたみたいに。

「……な、に」

 見えているものが理解できない。荒い息のまま、眼前にあるものを把握しようと目を細め……それを認識した。

 気喰が、高速回転をしていたのである。長い背びれが、ミキサーみたいに。

「……そんな!?」

 瞬間、鍔迫り合いのようにぶつかり合っていた赤と白の均衡が崩れた。

 真っ白な翼を広げる巨大な鳥がミンチにされるみたいに、ばらばらっに刻まれ、空間に飛び散っていく。

「そんな、こと……」

 眼前に展開されている光景に、今の美砂里にできることは、こうして瞳を見開くことしかない。

(…………)

 これまでの気喰なら、小鳥の群れが全身を覆えば勝ちだった。小鳥たちが赤色を食いつまんでいくことで、少しずつその色を消していく。そうして気喰は赤い霧と化していくのだ。だから、覆い尽くすことさえできれば、それだけで勝負がついていた。

 だというのに、目の前の気喰にはその必殺の戦法が、簡単に破られたのである。

(…………)

 唖然というよりは、今の美砂里にはショックのあまり、それ以外のことができない。腕の動かし方すら忘れた状態にあるかもしれない。荒くなった呼吸を認識することもできず、ただただその場で立ち尽くす美砂里。猛烈な速度で迫る気喰に対し、構えることも次への行動を起こすこともなく、思考すらまともに働かない。

 一度勝利を確信しただけに、置かれた現状は容易には受け入れられなかった。

(…………)

 美砂里が無力となっているその間も、気喰は白色を蹴散らしていき、ついには美砂里へと迫ってきたではないか!

(…………)

 視界にはしっかり気喰の存在を捉えられている。頭の片隅で『このままじゃ駄目だ! 早くしないと! 早く次の行動に移らないと!』そう思うだけの隙間は生まれているが、避けようとする気力が湧いてこない。ただそこに立つことだけで、そこに存在していることだけで精一杯。

 もうどうこうすることはできない。

 その場で立っているままに。

 最後を、迎える。

 迎えてしまう。

「…………」

「あんたぁ、ぼさっとしてんじゃねーってのぉ!」

「っ……!?」

 美砂里は、前方からの凄まじい風圧と毒々しい勢威を感じている状態で、迫ってくる気喰にでなく、真横からぶつかってきたものに飛ばされた。

 その直後、美砂里の脇を激しく暴虐的な渦が突き抜けていく。気喰が竜巻のように空間を破壊しながら突き抜けていったのだ。

「いぃ……」

 飛ばされた先で強かに左肩を打ちつけ、痺れるような激痛が顔を歪める。しかし、そうして美砂里はその身に痛みを感じることができた。

 まだ終わりではない。

(……示苑さん!?)

 さきほどまで美砂里が立っていた場所、そこには美砂里同様に白い神衣に身を包んだ三倉示苑がいた。今日も眩いばかりの黄色い髪だが、しかし、そこに戦慄の赤が混ざっている。

 流血。

 そのまま糸が切れた人形のように倒れていった。

「示苑さん!」

 美砂里には目の前の光景が信じられるものでなく、驚愕のままに全身に鞭打って示苑に歩み寄っていく。

 ぐったりと横たわっている示苑。その右肩から先がなくなっていた。表現上のことでなく、文字通り右腕がなくなっていたのだ。

 どくどくっと溢れる血液が、髪も頬も真っ白な神衣も染めていく。

「示苑さん! 示苑さん、しっかりしてください!」

「ちっ……持ってかれちまったか……」

 示苑の顔には、尋常のものとは思えないほど大量の脂汗が浮かんでいる。真っ青となった苦悶の表情のまま、しかし、示苑は砕けそうなその身でありながら、立ち上がる。

 その足で、その場に立ち上がっていく。

「くそったれがぁ……」

「示苑さん!?」

 止まることのない大量の出血が今も流れつづける現状で、示苑がそうして立っているだけで屈強な精神力を宿していることは、美砂里にだって分かる。傍にいてその鬼気迫る迫力、いやでも痛感した。美砂里の覚悟なんて比にならならいぐらい、示苑は神人と化している。それこそが正真正銘の神人であるかのごとく。

「だ、大丈夫ですか!?」

「そう見えんなら、あんたきっと、はははっ、節穴だね……くっ」

 呻き声とともに、ばたりっと膝から崩れていく。右腕を肩から先を失って、止血もできていない状態で、まだ気喰に立ち向かっていくなどと、正気の沙汰ではない。

「まいったね、こりゃ」

「今は傷の回復に専念してください! でないと本当に死んじゃいますよ!?」

「死ぬわけにゃ、いかんのよ……けど、寝てるわけにも、いかんくて、ね……」

「示苑さん! もう動かないで!」

「あんね……あんたがそんな状態なんだから……なら、あたいが悠長にしてるわけないっしょ……」

 刹那、気喰は激しい風圧を出しながら二人に襲いかかってきた。

 真っ直ぐ突っ込んでくる気喰に対して、二人とも躱す術がない。正面からまともに攻撃を受けてしまう。

 二人は離れ離れになるように、左右それぞれに吹き飛ばされていった。

(……示苑さん!?)

 打ちつけた背中に駆け抜けていったものは激痛どころの騒ぎでなく、全身の神経という神経すべてが悲鳴を上げている。このままではすぐにでも美砂里の体が細切れのようにばらばらっに分裂しそう。

 美砂里は、吹き飛ばされた衝撃のまま、美砂里はすぐにでも白濁されそうな薄い神経をしっかりと力強く握りしめ、どうにかつなぎ止めていく。

(わたしのせいだぁ!)

 美砂里が足を引っ張った。美砂里が不甲斐ないばかりに、示苑にあのような大怪我を。

(わたしがぁ!)

 震える。心が震える。全身が震える。存在が震える。美砂里そのものが震える。

 震える。震える。震える。震える。

 見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、それらすべてが震えていく。

 がくがくがくがくがくがくがくがくっ! 恐れだろうと、脅威だろうと、嫌悪も絶望も、あらゆるすべてが震えていく。

(わたし!)

 もう立ち直れそうにないぐらい心が動揺していて、

(わたし!)

 もう元通りにならないほどに全身が壊れていって、

(わたし!)

 もう保っていられないほどに存在が崩れていって、

(わたし!)

 もう生きていけないぐらい命の炎を燃やしていく。

 命そのものを燃やし尽くす!

(わたしがああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」

 突如として躍動する力。地面から泉が湧くかのごとく、みるみると溢れんばかりに全身から力が漲ってきた。

 すでに立ち上がっている美砂里。その美砂里そのものが白き炎を宿し、今は業火のように燃え上がっていく。燃える燃える燃える燃える。白き炎がこの闇の世界を眩いばかりに照らしていた。

「わたしが守ってみせるからぁ!」

 傷ついた示苑のことを。

 大好きな大助のことを。

 この世界に暮らすすべての人間のことを。

 守ってみせる!

 必ず守ってみせるから!

 だから!

「があああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 高速回転しながら迫ってくる気喰に対し、美砂里という存在が白き一本の矢となって突っ込んでいく。

 気喰の中心に、赤い炎にぽっかりと大きな穴が存在した。それはまるで気喰の口であるように。

「があああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 構わない。どうあろうとも、一切構うことはない。美砂里は全身全霊の力を宿して突っ込んでいく。人類を破滅へ誘う気喰に向けてその全身で突っ込んでいく。両腕を真っ直ぐ伸ばし、気喰を貫くようにして。

 正面衝突!

 赤い炎。白い炎。火花が散るように互いの色を散らしていき、徐々に双方の色を削って……だがしかし、その均衡があっさりと崩れることに。

 先に消えたのは、白色の方だった。

 それからどっぷりと赤色に呑み込まれていく。

(…………)

 宿していた白き炎を失い、その小さな体は力なく宙を舞う。その姿、実に無防備に。

(……──)

 湧いてこない。その身からこれっぽっちも力が湧いてこない。

(────)

 もはや思想することも困難な状態にある。存在はまるで燃え尽きた灰のように、もう火を点けることもできやしない。

(  ──)

 消えていく。消えていってしまう。紫浦美砂里という存在そのものが空間から消滅していってしまう。

(    )

 もはや大好きな人のことも思い浮かべることはできなかった。

 その人の顔を描くことも叶わない。

 存在が、消えた。

 無。


「そんなの駄目だかんね」

 示苑が美砂里を抱える。両腕にある灯を消さないために。

「あたい、あんたを救ってみせる」

 変換の能力を全開に、今は失われつつある女の子に向けて。

 同時に、迫る赤色の脅威に、その身を投げ出した。

『お姉ちゃん』

 示苑の心に声がした。それは大切な声であり、すでに失われた声。

 意識の奥底に常に存在する、大事な大事な妹の声。

『お姉ちゃん、大好きだよ』

 失った妹。

 気喰に取り込まれた妹。

 殺された妹。

 その面影を有した紫浦美砂里。なら、今度こそ助けなければ。

 その身が失われようとも。

 魂に力を込める。


 強大な赤と白の激突により、随分と小さくなった気喰だったが、その口は無防備となった示苑の体を呑み込んでいった。そうして閉じていく。もう示苑の姿はどこにもない。

 なくなった。

「どうしてぇ……」

 刹那、無数の巨大な白い鳥が気喰の全身を覆い、液体が蒸発でもするように赤い霧と化していく。

 気喰は討伐され、闇には赤い霧のみが残された。

 そこに、黄色い髪の毛の一本すら残されることなく。

「どうしてわたしなんかのために……」

 左手には、主を失った『P』が握られている。気喰に呑み込まれる前に渡されたもの。

「示苑さん……」

 心は張り裂けてしまいそう。


 この空間……いつからか、そこに銀色が存在していた。

【うーん、おしいですね、示苑は神人としての素質があったのですが】

 ギンナンの声がこの漆黒の闇へと響きわたる

【これも不安定な人間という生き物だからでしょうか?】

 ギンナンは小さく小首を傾げた。

 一人の神人の終焉を、その円らな瞳は、ただ見つめていただけ。

 そして今、銀色はもう一人の神人の元へと駆けていった。


       ※


 午前六時三十分。

 太陽が東の空に顔を出し、一度暗黒空間に支配された世界に、再び太陽の光が戻ってくる。

「…………」

 上下赤と白のジャージに身を包んでいるが、少し肌寒さも感じている。しかし、吐き出す息はまだ白くならなかった。

「…………」

 川原のグラウンド。金網のバックネット、練習の度にベースはすべて持ちかえられているが、地面には痕跡を確認できた。

 ここは、ずっと梨森大助が野球の練習をしていた大切な場所。

「…………」

 ちぃちぃちぃちぃっ、小刻みなリズムでなく小鳥の声が聞こえる。川からは水が流れる音が空間を渡ってくる。昼間よりもひんやりとした空気に身を包み、大助はその場で立ち尽くしていた。

 瞼を閉じれば、そこに過ぎ去った練習風景を見つけられるかもしれない。しかし、現実世界には誰の姿も見当たらない。

 この静かな空気に立っていると、まるで自分たちがチームとして作り上げたあの活気が、本当はありもしない幻だった気さえする。

「…………」

 大助は、今日もこのグラウンドを訪れていた。

「…………」

 ここにいる理由、それはいつもの習慣のため。最初はトレーニングのつもりだったが、今ではこの時間になると自然と目が覚めるようになっている。

(……あいつ)

 大助にはずっと追いつきたい相手がいた。

(…………)

 同い年で、大助よりも断然野球がうまくて……単純に悔しかった。大助にできないことを簡単にやってのけるあいつのことが。

 だから大助は、自主的にトレーニングをはじめた。少しでも早く目標に近づきたくて。追いつきたくて。

(…………)

 そうしてずっと追いかけていたつもりだった。それは今も……けど、気がついたら、見失っていた。

 いつの間にか、目標がなくなっていたのである。どこを見ても、見当たらない。

 いなくなってしまった。

(…………)

 あいつ、急にいなくなった。そのせいで、監督も元気がなくなり、チームも練習ができなくなって……。

(…………)

 ぷっぷーっと、遠くの方から車のクラクションが響いてきた。それが風に流されて遠い空へと消えていく。

(…………)

 紛れもなく、大切な人だった。

 あいつのおかげで、野球ができた。

 あいつのおかげで、毎日がとても楽しかった。

 あいつのおかげで、一所懸命になることができた。

 あいつのおかげで、今の大助がここにある。

 すべて、あいつのおかげ。

(おれは……)

 けれど、もうあいつはいない。

 いなくなってしまった。

(……見つけるよ)

 口元が小さく上がる。

(絶対、見つけてみせる)

 あいつのこと、見つけてみせる。なぜなら、あいつはおれの目標だから、どこにいたって絶対に見つけてやる。

 ぼんやりしていた目に、鮮やかな色が宿っていった。

(またあいつと一緒に野球やりたいからな)

 またあいつの隣に立ちたいから。

 いつまでもそこに立ちつづけていたいから。

 ずっとずっと。

 一生、ずっと。

(…………)

 今日も学校がある。早くしないと遅刻してしまう。

(どこにいっちまったんだよ、美砂里……)

 駆けていく。土手を上がって堤防の上。

 そこは、練習帰りによく二人で歩いた道。

 大助は駆けていく。

(…………)

 思う。思った。これから先、どれだけ大助にとって好きな人ができようとも、その思いは大助にとって特別なもので、かけがえのないもので、いつまでも心の奥底にありつづけるものだ。

 大助は前を向き、地面を蹴って力いっぱい駆けていく。

 朝の澄んだ空気のなかを、見つめている目標に向かって。

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