第2話


 闇に閉ざされる



       ※


 四月一日、日曜日。

 桜が開花をはじめた。

 川原には暖かな風が吹き抜けていく。

 茶色い土のグラウンド。多くの声。そこでは元気な子供たちが懸命に白球を追いかけていた。

(大ちゃん、お願い)

 白地に赤い線のある野球のユニホーム、背番号『4』の紫浦しうら美砂里みさりは、今は無地の紺色のヘルメットを被り、セカンドベース上でバッターボックスを見つめている。

 ピッチャー越しに見るバッターボックスに、美砂里と同じユニホームを着た、背番号『1』の梨森なしもり大助だいすけが銀色の金属バットを構えていた。美砂里と同じ紫浦シャイニングのチームメートであり、エースで四番バッター。

(ここしか、ないから)

 小高いマウンドの上に立つ青色のユニホームを着たピッチャーが、美砂里の方をちらちらっと目で牽制してくる。けれど、美砂里はそんなことに臆することなく、少しずつセカンドベースから距離を取る。じりじりっ、じりじりっと、少しでもリードを取れるように。

 ピッチャーは、体を大きく横に曲げる変則的なアンダースローから投げた。ボールはバッターボックスにいる大助の胸元ぎりぎりを通過してキャッチャーミットに。直後に主審が右手を突き上げた。

 ストライク。

 美砂里は、ボールがキャッチャーミットに収まった瞬間、決してボールから目を離すことなくキャッチャーからの牽制球に備えながら、セカンドベースで帰塁する

 最終回の七回表。ツーアウトランナー二塁。0対0。大会の規定によりこの試合の延長戦は行われないため、美砂里がホームに還れなければ紫浦シャイニングの勝ちはなくなる。

 見上げた空は青色から少しずつ茜色へと染まりつつあり、川の上流の方から風が吹いてきた。美砂里はセカンドベース上でヘルメットを取って、額の汗を拭う。背中から吹いてくる風は、これほど試合が緊迫した状態であるにもかかわらず、心地よさを有していた。

(大ちゃん!)

 少し盛り上がっている茶色いマウンドでピッチャーが、グローブを胸の前で構えているのを確認し、またセカンドベースから徐々にリードを取っていく。

 ピッチャーから牽制球はない。美砂里の目の前、左足を上げると同時に、上半身を大きく倒していく独特な投球ホームで第二球目を投じる。

 バッターボックスの大助は、ゆったりと構えていた状態から素早くテークバックに入り、低めのボールに対して前足から腰の回転、バットの順でスイングしていく。それは、これまで何万回とやってきた大助のスイングだった。

 きーんっ!

 グラウンドに金属音が大きく響く。バットが弾き返した白球は凄い勢いでレフト線に飛んでいった。

(絶対勝つんだから!)

 美砂里は目で打球を追いかけることをしなかった。耳にした打球音とともにサードベース目がけて駆けていく。サードコーチャーがぐるぐるっと大きく腕を回しているのが見えた。なら、サードベースでスピードを緩めることはしない。練習通りに直線的にではなく、ベース手前から外側にカーブを描くように膨らんでいき、スピードを緩めることなくサードベースの内側手前を踏んで、ホームに突っ込んでいく。

 すぐ横にあるベンチからみんなの声が聞こえる。監督の声も聞こえた。美砂里にできることといえば、ただキャッチャーのいるホームへと全速で駆けていくこと。チームのために。勝利のために。

 相手キャッチャーは立ったまま、そのミットにまだ返球されていない。

 トップスピードのまま、美砂里はホームベースを駆け抜けていった。

 先取点。1対0。紫浦シャイニング念願の一得点である。

(やったー)

 ここまでずっとアンダースローという独特の投球をする相手ピッチャーに苦戦してきたが、最終回にしてようやく得点できた。歓喜の笑みを漏らしながら後ろを振り返ると、セカンドベース上で大助が大きく拳を突き上げている

 美砂里は近くに転がっていた大助のバットを持ってベンチに戻っていく。監督がヘルメットを叩いてくれて、みんなとハイタッチしてから、一気にベンチのムードが盛り上がっていること、もう嬉しくて胸がいっぱいになった。


 次のバッターがピッチャーゴロでアウトとなり、いよいよ七回の裏である。最終回。ここを0点で凌げば紫浦シャイニングの勝利。

(うわー、どきどきしてきちゃったー)

 緊張する。いつもの最終回よりも、今はより緊張する材料が揃っている。

 これが新しいチームになってはじめての大会であること。さらには点差が一点しかないこと。加えて、まだ相手チームが一本のヒットも打っていないこと。それらが重圧となってセカンドを守る美砂里に襲いかかってくる。

(うわー、なんたって、ノーヒットノーランだもんね)

 プレッシャーのあまり、心臓が口から飛び出してしまいそう。

 どきどきどきどきっ!

 一人目のバッターは外野フライとなった。ワンアウト。しかし、前半はあまり外野までボールが飛ばなかったので、マウンド上にいる大助の球威が落ちているのかもしれない。

 次の打者はデッドボールとなり、出塁。ワンアウト一塁。この試合はじめての死球だった。やはり大助に疲れが出ているのだろう、微妙なコントロールがうまくいっていない様子。

 次の打者はあっさりと送りバントを決められて、ツーアウト二塁。大助は慌てることなく、キャッチャーの指示通りに一塁に送球できた。その辺りはまだ冷静さを保っているようである。

 一塁ベースにカバーで入っていた美砂里は、ボールを意識して強く握り、思いを込めるようにしてピッチャーの大助に投げた。

(うわー、これでヒットが出たら同点になっちゃうよー)

 どきどきどきどきっ。美砂里の鼓動がさらに激しさを増していく。そんなに大きく心臓を脈打たせると、横にいる二塁ランナーに聞こえるかもしれない。そう考えると、変に意識してしまい、膝が震えてきた。

 次のバッターはすでにバッターボックスに入っている。

 二塁ランナーの青色のユニホームが、セカンドベースから少しずつリードを取る。しかし、リードはそれほど大きなものではない。状況が状況だけに、盗塁するつもりはないのだろう。

 美砂里は構える。重心を落として、膝を内側に絞るように少し曲げつつ、踵を少し上げた。ピッチャーの投球を目で追いながら、バッターのスイングに集中する。普段の試合ならこれほど緊張することなく、もっとリラックスできるのかもしれないが、グローブのある左腕が力んでいることに気づき、苦笑した。

 ツーアウトである。ランナーのリードはあまり大きくない。キャッチャーから牽制球のサインはない。

 バッター勝負。

 ピッチャーの大助は、顔を大きく動かすことなく視線だけでランナーを牽制し、左足を小さく上げた。秋からずっと練習してきたクイックモーション。小さなステップと同時にバックスイングに入り、腕を素早くトップの位置まで上げる。重心をきちんと前に移して腕を振り切った。

 きーんっ!

 空間に金属音が響く。投球が真ん中寄りとなり、バットがジャストミート。

(っ!?)

 なんと! 火の出るような打球が一、二塁間に飛んできたではないか!

 美砂里のすぐ左斜め前で、水面に石が跳ねるように、地面を舐めるようにしてバウンド。

(ぁ!)

 それは断じて考えてのことではない。反射的に、美砂里は地面を蹴りながらも体重を左側へ移動させた。そうしてグローブを懸命に伸ばし、体ごとボールに飛びついていく。

 一、二塁間を抜けようとした打球は、しかし、飛びついた美砂里のグローブへ。

『美砂里!』

 声がした。マウンドにいる大助のもの。認識した直後に美砂里は素早く起き上がり、その動作に連動するようにボールを手にした右腕を小さく振りかぶり、一塁へ送球。

 美砂里の手を離れたボールは、放物線というよりは直線的にファーストミットに収まる。と、ほぼ同時に、青色ユニホームのバッターランナーがファーストベースを駆け抜けていった。

 際どいタイミング。

(アウト!?)

 美砂里の目が塁審を見つめる。右手を上げてくれることを祈りながら。

 一拍あり、塁審の右手が大きく上がった。

 アウト。

 スリーアウト。試合終了。1対0で、紫浦シャイニングの勝利。

 同時に、市大会優勝。

 さらには、ノーヒットノーランが記録された瞬間であった。

(やったぁ!)

 みんながマウンドに集まっている。早くも歓喜の渦ができていた。美砂里は土のついたユニホームを手で払うこともなく、輪に加わるためにマウンドに駆けていく。


 見上げる空はすっかり茜色に染まっていた。白地に赤い線のあるユニホーム姿のまま、堤防の上を斜めにかけたスポーツバッグを肩にかけて歩いていく美砂里。

「やったね、大ちゃん。凄いよ、ノーヒットノーランなんて」

「まーな。って、それはおまけだけどな。でも、優勝できてよかったよ。監督がいつも言ってるけど、今年ならホントに全国いける気がするな」

 短髪の上に『S』のマークがある帽子を被っている大助。こちらもユニホーム姿のまま。まだ春先ではあるのだが、その顔は少し日に焼けていた。

「ってのか、それぐらい当然だよな。なんたって、紫浦シャイニングには、このおれがいるんだから」

「もー、そうやって、すぐ調子に乗るんだから」

「乗ってねーよ、別に。こんなとこで負けてる場合じゃねーだろ。おれは将来甲子園で優勝するんだから」

 毎年夏休みにはテレビに齧りついて、大助はテレビの向こう側にあるマウンドに立つ自分の姿を想像する。夏の強い太陽に照らされながら、日本国中の高校野球の頂点に立つ場所に、将来の自分がいるのだ。

「でもって、高校卒業したら、もうプロを通り越して、いきなりメジャーだぜ。アメリカンだよ、アメリカン。外人みんな三振にしてやるんだから」

「あー、はいはい。その時は是非自慢させてくださいね。そんな凄いメジャーリーガーと小さい頃に一緒にプレーしてたことがあるんですよー、って」

「サイン、じゃんじゃん書いてやるからな。遠慮するなよ」

「はーい、期待してまーす」

「おう」

 にかっと歯を出した笑み。大助の屈託のない笑顔がそこにある。

「にしても、なんだかんだいって、やっぱり助かったな。最後にさ、美砂里のファインプレーがなかったら、きっと同点になってたから」

 最後の場面。ツーアウトだったから、バットにボールが当たった瞬間、二塁ランナーはスタートを切っていた。もし、セカンドの美砂里が届かずにライトまで抜けたら、同点になっていただろう。

「ほんと、助かった」

「うんうん、いい心がけだね。そういう謙遜っていうか、謙虚さも必要よ。でもってでもって、そうだよ、そうなんだよ、感謝してほしいよね。最後さ、大ちゃん、デッドボールなんか出しちゃって、もうへろへろだったもんね。まだまだ走り込みが足りないんじゃない?」

「うるさいなー。今日は、その、なんていうのか、うーん……」

 斜め上を見つめる大助。試合の最後のシーンを思い返している。

「やっぱり、さすがに一点差だったからな、ちょっと緊張したんだ。まあ、記録のことも気にしてたけど」

「へー、大ちゃんでも緊張することあるんだね? 驚いた」

「知らなかったかもしれないけど、繊細さが売りなんだぞ、おれ」

「あー、はいはい。えーと、その繊細なエースで四番の活躍、これからも期待しておりまーす」

 美砂里の肩口までの髪、それが大きく横に揺れた。肩にかけているスポーツバッグがちょっとだけ重たく感じる。試合の興奮から解放されて、疲れが出たのかもしれない。

「全国かー、わたしたち、いけるといいねー」

 美砂里は女の子でありながら野球をやっている。それは三つ上の兄、公也こうやの影響。そもそも、父親が野球チームの監督をしていて、その影響で公也は野球をやるようになった。妹の美砂里は、練習を見学しにいって、なんとなく公也が楽しそうにしていたので、キャッチボールの相手をするようになる。そして気がつけば、父親にお願いして練習に参加させてもらうようになっていた。野球のことが好きになったのである。こんなの学校のクラスには一人もいない。女子が野球を好きだなんて。それも観戦でなく、選手として。

 けれど、女の子でありながらも、美砂里はレギュラーだった。それは父親が監督であるという贔屓なく、実力で今日も二番セカンドのスタメンを掴み取ったのだ。決勝戦を含める四試合すべてで美砂里はヒットを打っていた。

「じゃあね、大ちゃん。またね」

 川沿いにある堤防の上、試合のことを振り返りながら歩いていると、いつもの信号に辿り着いた。堤防は建物二階ほどの高さで、ここに階段がある。大助はもう少し直進するのだが、美砂里はその階段を下りていく。小さく手を振って大助に別れを告げ、すぐの道を右折。堤防を下りると、家はすぐそこ。


 家には監督である父親がすでに帰宅していた。荷物を運ぶためにグラウンドには車でいっているから。どうせ同じ家に帰るなら、助手席に乗せてほしい気持ちもあるが、そうやって自分だけが待遇してもらうというか、贔屓してもらっているようで、美砂里もみんなと一緒に帰ることにしていた。

「お父さん、ただいまー」

「おー、美砂里か。今日はよくやったな、さすが我が娘だ」

「うーん、わたしっていうか、今日は大ちゃんが凄かったね」

「大助が凄いのは誰でもよく分かってるよ。けど、お前もよくやった。特に最後はお前のファインプレーがなかったら、負けてたからな」

 そうして、父親の頬を大きく緩んでいく。

「にしてもよ、今年こそ全国が狙えるな。あのチームなら、全国どころか、日本一だって夢じゃない。うんうん」

 父親は、視線を少し斜め上に向け、口元を大きく緩めた。

 美砂里の父親の口癖は、『今年こそ全国にいくぞ』である。三つ上の兄の公也のときは叶えられなかったが、どうにか美砂里がいる今年、それを実現させたいと強く願っている。

「大ちゃんがもう少し体力がつけば、今日みたいなピッチングが最後まで持続できるんだけどな。ランニングメニューを強化するか」

「大ちゃんなら、きっと大丈夫だろうね。でも、一人じゃ無理だからね。隆弘たかひろ君にも頑張ってもらわないと」

 少年野球では一人のピッチャーが大会すべてを投げることを禁止されている。エースの大助一人では勝ち抜いていくことはできず、もう一人のピッチャー隆弘には、是が非でも成長してもらう必要があった。

「大ちゃんと一緒だったら、いよいよお父さんも念願が叶えそうだね」

 念願の全国大会。

「もちろん、わたしも頑張るけどさ」

 大会に優勝して機嫌がいい父親の笑顔を見ているだけで、美砂里は凄く心が豊かになれる気がした。


 美砂里にとってそうした日々は、これから一年間、ずっとあるものだと思っていた。

 小学校最後の一年間は、ずっと楽しいものだと。

 しかし、そうはならなかった。

 それは、その日、一本の電話が入ったことが契機。

 内容は、大助が交通事故に遭ったというもの。


       ※


 四月六日、金曜日。

 今日は紫浦美砂里が通う森北もりきた小学校で始業式が行われた。昨日入学式があり、新六年生となる美砂里は手伝いとして参加したので、新一年生とはすでに顔を合わせている。近所に住む二人の一年生を見て、『ああ、自分も五年前はああだったのかな?』などと、微笑ましかった。

 美砂里が所属するのは六年一組、クラスメートは去年と同じなので目新しさはない。始業式を済ませ、校舎四階にある新しい教室で早速大掃除を行い、昼前には帰宅。昼食のサンドイッチを食べ、長袖のシャツのジーンズ姿で家を後にした。自転車で十分、森北もりきた総合病院に到着。大きな自動ドアのある玄関を通って、エレベーターへ向かう。エレベーターはとても広く、車椅子が五台は入れそう。美砂里と一緒に二台入ったが、それでも狭く感じなかった。

 三階に到着。開いた扉から一番近い病室、301号室。扉の横には『梨森大助』とある。

(……よし)

 美砂里は扉の前で立ち止まり、気合を入れるように腹の中心にぐっと力を入れてから、ノックした。こんこんっ。中からの返答を確認し、遠慮がちにゆっくりと扉を開ける。

「こんにちはー」

 病室は個室だった。窓側にベッドがあり、真っ白なシーツが覆っている。足元の方にテレビが設置されていて、プロ野球選手が表紙の雑誌が無造作に置かれていた。窓には白いカーテンがかけられており、今は網戸になっているのだろう、小さく揺れている。白い猫がこちらを見つめるカレンダーが壁に飾られており、近くのハンガーに青いシャツがかかっていた。

「まあまあ、美砂里ちゃん、今日もお見舞いきてくれたの? ありがとね」

「すみません、今日は手ぶらで」

「いやねー、そんなこと気にしないでよー。そうだ、ちょっとスーパーに寄りたいから、暫く大助の相手お願いしてもいいかしら?」

 浮かべるのは笑顔でありながらも、隠すことのできない疲れを滲ませた大助の母親は、病室を出ていった。

「……お邪魔、します」

 美砂里はベッドの上に目を移す。白いシーツのかけ布団が盛り上がっており、枕の方に頭が見えた。大助が横になっている。

「大ちゃん、今年も一緒のクラスだったよ。って、六年生はクラス替えないから、当然だけどね」

 今まで大助の母親が腰かけていたパイプ椅子はベッド脇に置かれたまま。美砂里は少し迷ったが、そこに腰かけた。視線がベッドの高さに近くなる。

(…………)

 ベッドで仰向けになっている大助。顔から下は布団に隠れている。かろうじて出ている襟で、大助が着ているパジャマが水色であることが分かった。

「大ちゃん……」

 美砂里の声にも、大助からの返答はない。ただただ瞳を濁らせながら、顔を窓の外へと向けている。それは美砂里が入ってきたときから変わらない。

「担任も同じ、里倉さとくら先生。大ちゃんのこと、ちょっと心配してるみたいだった。ううん、ちょっとじゃなくて、無茶苦茶だね」

「…………」

「みんなも大ちゃんのこと、凄く心配してる。あのね、先生からね、あんまり大勢で押しかけたら迷惑になるからって、みんな、なかなか病院にはこれないけど……みんな、早く大ちゃんに会いたいんだよ」

「…………」

「大ちゃん、早く学校にこれるようになると、いいね」

 日曜日に事故に遭って以来、大助はずっとこの病院に入院している。退院の目処はまだついていない。

「寂しいよ、学校がはじまったのに、大ちゃんがいないなんて……」

 事故に遭った次の日、美砂里は父親とともにこの病室を訪れた。その次の日も訪れていて、今日は三日振りにこの病室にやって来たことになる。

 新しい学年となった学校のことを伝えたくて。

 いや、そんなことより、とにかく大助の傍にいたくて。

「…………」

 けれど、内側の思いとは裏腹に、病院への足取りは重たいものだった。これまでの見舞いで、こうして大助の病室を訪れても、今みたいに会話にすらならないこと、分かっていたから。

 日曜日の試合でノーヒットノーランをやって退けた男の子とは思えないほど、覇気を失った大助が、ぼんやりと窓の外に視線を彷徨わせる。どこを見つめるのでもない、ただそこにある視線。

 その存在は脱け殻のよう。

「きっと、よくなるもんね。そうだよ、よくなるんだよ。だから、また一緒にグラウンドでさ、野球したいね」

「……もういいだろ」

 大助の声。とても小さな声。しかし、冷淡さを含んだ声。

 顔を窓に向けたまま、大助は小さく口を動かす。

「もう帰れよ。どうせ笑いにきたんだろ、おれのこと」

「な、何言ってるの?」

『そんなはずないよ』と、胸の前でぶんぶんっ大きく手を振る美砂里。

「笑うわけないよ。なんでわたしが大ちゃんのこと、笑わなくちゃいけないの?」

「帰れってんだよ」

 大助の声は決して大きなものではない。けれど、その言葉は病室の隅々へと広がっていき、全体にこびりつく。

「どうせおれはもう、野球なんてできないんだから」

 甲子園を目指していた男の子が、野球を失った。もうボールを投げることはできない。バットを振ることもできない。

 大助は希望を失った。

 未来をなくした。

 挑戦すらすることができずに。

「帰れってんだよ」

「…………」

 まだこちらに顔を向けることすらしない大助に、美砂里はかける声を見つけられなかった。どんな言葉も今の大助には慰めにならない気がして。しかし、このまま黙っているわけにはいかない。なんとしてでも大助に声をかけなければ。

 でないと、もう大助の前に立てそうにない気がして。

 大助との大事な関係をなくしてしまう気がして。

「…………」

 そんなの、いやだから。

 絶対、いやだから。

「……その、腕のことは、その……残念だったけど……」

 思いがなかなか出てこない。

「その……」

 実に歯痒い。美砂里は自分の頼りなさが悔しくて仕方がない。

「……あ、でもでも、お父さんに聞いたことあるんだけどね、メジャーの人でね、片手で投げて、その手にグローブつけてプレーしたピッチャーがいるんだって。だから大ちゃんもさ、やろうと思えば大丈夫だ──」

「うっさいな!」

「っ!?」

 見開かれる瞳。ベッドから発せられた大きな声に、美砂里は全身をびくっと痙攣させ、俯きたくなる思いをぐっと堪え、小さく唇を噛みしめる。

「……ごめんなさい」

「もう帰れよ!」

「…………」

 美砂里は、腰かけていたパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。身を翻して扉に向かって歩いていく。

 そうして301号室からから出ていく美砂里。

 その間、病室に残していける言葉は、皆無。

 俯くしかない。

(……大ちゃん……)

 最後の一線は意識しているつもりだった。そこを引いたら、もう元に戻ることはできない。だから、美砂里はこのまま帰るつもりはなかった。大助の母親にも頼まれていたし、それに、もう二度と大助の前に顔を出せなくなるような気がして。

 ただ、心が潰れそうなこの雰囲気に居座るだけの勇気はとてもなかった。小さく息を吐き出しながら廊下を歩いてトイレに向かいつつも、鼻の奥の方が物凄い熱を持ってきたことを意識すると、自然と足早となる。

(…………)

 今にも激情がその身から溢れ出てしまう。

 すぐにでもその小さな胸は張り裂けそう。


 美砂里は三つ年上の兄、公也は小学四年生になると、父親が監督の少年野球チーム、紫浦シャイニングに入団した。休みの日はいつも近くの河川敷にあるグラウンドで練習である。ある日美砂里もついていって、練習しているみんなの姿が、なんだかとても楽しそうに見えた。自分でもやりたくなるぐらいに。さすがに当時は小学一年生だから、兄とともにチームの一員になれなかったが、それでも父親にグローブを買ってもらい、公也とよくキャッチボールをやるようになる。最初はうまく投げられずに下手くそだったかもしれないが、公也が練習をして段々うまくなり、いつしか遠くにボールを投げられるようになっていた。

 父親は公也ばかりでなく、娘の美砂里も野球に興味を持ったことが嬉しかったようで、特別美砂里もキャッチボール程度であれば練習に参加させた。

 そうして美砂里も少し小さなユニホームを着て、三つ、四つ年上の男の子とともに練習するようになったのである。

 少年野球は小学六年生まで。公也が中学校に入学すると、もうそのチームに公也はいない。入れ代わるように、四年生となった美砂里が入団。それはこれまでのような特別参加でなく、正式なもの。である以上、美砂里だって実力さえあれば試合に出られるようになった。やっぱり試合というものをしてみたくて、美砂里は入団当初から張り切って練習に明け暮れる。

 小学四年生であり、チームで唯一の女子である美砂里だったが、上級生の男の子ほどでないものの、少なくとも同学年の男の子より遙かに野球がうまかった。それはもちろん父親や兄とともに練習してきた賜物である。

 その年、近所に住む梨森大助も一緒に入団するも、当然初心者で、上手とはいえなかった。当時は美砂里の方がボールを遠くに投げることができたし、バッティングだって比べるまでもなく美砂里の方が上。足だって美砂里の方が速かったし、身長だって勝っていたのだ。美砂里にとって大助は同学年というよりは、弟みたいな感じがあった。それほど当時は二人の間に差があったのである。

 しかし、いつの間にかその差はなくなった。小学五年生となり、秋の大会で上級生の六年生が引退したとき、美砂里は大助に敵うところがなくなったのである。並んでみると身長も同じぐらいになっていたし、大助のような剛速球を美砂里では投げることができない。バッティングだって大助のようにホームランを打ったことなど一度もない。マラソンだって勝てなくなった。

 負け。負けていた。たった一年半の間に、美砂里はあっという間に追い抜かれて、大助に勝つところがなくなったのだ。ショックだった。薄々とは感じていたが、これが男女の差であることを痛感させられた。

 ただ、男女差といっても、美砂里は同学年の男の子よりは野球がうまい。それは父親も認めてくれている。だから、試合にも出してもらえた。

 つまり、いつの間にか大助に敵わなくなったのは男女差だけでなく、大助の努力に起因するもの。

 大助が紫浦シャイニングに入団したとき、自分と美砂里との差にショックを受け、その悔しさを糧として努力するようになっていた。それは休みの日にあるチームの練習だけではなく、毎日朝六時に起きて三十分ほどランニングするように。学校から帰ってきてすぐバットを握って素振り、雨の日は腕立て伏せといった筋肉トレーニングをずっとつづけていた。それは誰に言われたのではなく、自分からやりはじめた練習。今ではそれらが日常になっていたのである。

 そうした大助の努力が、美砂里との差をあっという間に詰め、今では美砂里と比較するどころか、チームのエースで四番となっていた。

 すべては大助の努力によるもの。

 それは、夢を叶えるためのもの。

 甲子園のマウンドに立つためのもの。

 秋に最上級生の六年生が引退して、いよいよ美砂里たちがチームを引っ張る役割となった。目標は監督の口癖である『全国大会出場』に決めている。美砂里や大助たちは練習に汗していき、冬の間は地味な練習でありながらも懸命に基礎体力を向上させ、ついに春休みに行われた市大会で優勝できた。去年までは準決勝にいけるかどうかのチームが、飛躍的なチーム力向上である。

 このままチームが順調に成長を遂げながら夏を迎えれば、きっと県大会を制して、全国大会に出場できるはずだった。はずだったのに……あの日、その夢が泡のように弾けたのである。

 それは一瞬にして。

 市大会決勝戦の帰り道、大助は交通事故に遭った。

 事故を起こしたのは、無免許で車を運転していた高校生。赤信号でもスピードを緩めることなく、交差点にいた大助を轢いたのだ。さらには、それがパトカーから逃走している最中に起きたもので、事故を起こした高校生はもちろんのこと、警察の対応についても問題視された。

 けれど、事故について、無免許の高校生や警察の対応の仕方など、被害者である大助には問題でなく、問題とすべきは、大助が右腕を失ったこと。

 大助はあの一瞬にして、目標を失った。もう手にすることはできない。目指すことはできない。どうあろうとも。

 大助が撥ねられたとき、路面に強く頭部を打ちつけた。衝撃は凄まじく、神経を大きく傷つけ、右腕の感覚を失ったのだ。指一本すら動かすことができなくなった。

 事故に遭う少し前まで、あの川原のグラウンドで剛速球をばんばんっ投げ込んでいた大助の右腕は、もうどこにもいない。

 そうして大助は夢を失う。

 今年の全国大会の夢を。

 甲子園に立つ夢を。

 なにより、野球というとても大切なものを。

 失った。

 大助は、もう、生きている意味が、ない。

 生きていく希望が詰まった右腕は、もうどこにも存在しないのだから。


       ※


 森北総合病院の三階にある女子トイレ。美砂里は個室に入っていた。震える体で力いっぱい下唇を噛み、込み上げてくる熱いものを必死になって自身に閉じ込めて……そうして二十分が経過。

(…………)

 美砂里はトイレの水を流し、個室を後に。周囲には誰の姿もなかった。手洗い場で見た鏡に映る自分の姿に目を見張ることとなる。目は虚ろで、表情はとても暗く、まるで花が萎れているみたい。

(…………)

 無理をした。無理して笑顔を。誰でも分かるぐらい、表情の強張った作り笑顔になったこと、なんとも情けない。心臓がぎゅっと縮こまっていく。

 けれど、美砂里はその表情を浮かべてみせる。無理だろうが無茶だろうが、塞ぎ込んでいる大助の前で、情けない顔などできるはずがない。

 試合で緊張するとき、ぐっと両脇を締めて気合入れる。この前の決勝戦でも、最終回のバッターボックスに入る前にやった。それと同じように、息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

(…………)

 濡れた手をジェットタオルで乾かし、トイレを後に。廊下で看護師と擦れ違う。小さく頭を下げた。それだけのことで、なんだか少し大人になれた気がするから不思議である。リノリウムの廊下を歩いていって、301号室へ戻ろうとしたとき、異変が。

(……大ちゃん?)

 大助が廊下にいたのだ。事故以来、ずっと病室のベッドの横たわる姿しか知らない大助が、今は廊下に立っていたのである。

 しかし、水色のパジャマ姿の足取りは決して軽快なものではない。全身を左右前後にふらふらっとさせた頼りなく、まるで夢遊病者のように全身を前後左右に不安定に揺らしながら、美砂里の方にやって来るではないか。

「だ、大ちゃん、どうしたの!?」

 どういった理由であれ、いい傾向かもしれない。ずっと病室に閉じ籠もっていては、心身ともに滅入ってしまう。少しでも外出し、体を動かした方がいいに決まっている。

 それを誰に言われたでもない、大助がやろうとしている。とてもいいことだと感じ、美砂里の心が温かくなった。

 今の姿、野球の練習に汗していた頃が重り、『大助はやはり大助なんだ』と心強くなる。

「……大ちゃん?」

 しかし、美砂里が笑顔になったのは一瞬のこと。

 大助は、目の前にいる美砂里のことを一瞥することすらなく、通り過ぎていく。

 しかも、美砂里が擦れ違ったとき、大助の目がとても濁っているように見えた。何も見えていないみたいに。

「大ちゃん、どこいくの?」

 声をかけたところで、大助の足が止まることはない。階段に向かっていく。

「あの、大ちゃん、わたしもついてっていいかな?」

 さっきの病室でのことがあり、大助に接することは少し気まずい。しかし、今はそんなことより、大助のことが心配だった。

 そう、心配だったのである。これまでに見たことのないあの濁った目、歩いていく弱々しい姿、とても正常の人間の姿には見えないから。

「大ちゃんってば」

 大助は階段を上がっていく。三階から四階へ。その足は止まることない、どんどん上に向かう。

「ちょっと、大ちゃんってば」

 階段を上がっていくこと、美砂里は慣れている。小学校が四階建てで、在籍する六年一組の教室は校舎四階。もちろん学校にエレベーターなどあるわけがないから階段の昇降は毎日の習慣で、決して苦とは思えない。

 しかし今は、大助に近づこうとすればするほど、なんだか段々と体が重たくなっていく不可思議な感覚に囚われる。

「大ちゃん、ちょっと、待って」

 頭が痛くなってきた。徐々に階段を上がるのにも疲労の色が濃くなる。

 けれど、大助は振り返ることもなく、どんどん上に向かっていってしまう。

「大ちゃん……」

 目に痛みが走る。その瞬間、美砂里には上方にいる大助の顔が、真っ暗なものに覆われた。

(っ!?)

 もちろんそんなこと目の錯覚でしかなく、瞬きをすれば黒色などどこにもない。

 美砂里の視界……大助は相変わらず階段を上がっていく。そうして大助は最上階である十階すら越え、屋上に。

(こんなとこにきて、どうする気?)

 風が強い。美砂里の肩口までの髪を乱暴に撫でていく。

 一面コンクリートの屋上は二メートルほどのフェンスで囲われていた。入院患者が息抜きに訪れるのか、いくつかベンチも設置されているが、今はどれも使用されていない。そればかりか、屋上には誰の姿もなかった。

 上がってきた階段の方にはたくさんの洗濯竿が設置されているが、すでに今日の分は済まされているのか、すべて未使用となっている。

 地上よりも近く感じられる空は真っ青なもの。いくつかの白い雲がぷかぷかっ浮かんでいる。

 屋上の隅には大きな給水タンク。大助は一切迷う素振りもなく、そちらに向かっていく。変わらず、足取りは不安定な状態で。

 また強い風が吹き、美砂里の髪が乱暴に乱されていく。

 なぜだか分からないが、美砂里の鼓動はとても正常とは思えず、激しい周期で脈打っていた。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ!

「大ちゃん!?」

 美砂里の目の前、驚愕が起きる。

 がしゃりっ、音がしたかと思うと、大助が給水タンク横のフェンスに手をかけ、足をかけ、なんと登りはじめたではないか!? 怪我をした右腕は動かない。左腕と両足を網目に入れて、どんどん登っていってしまう。

「大ちゃん、駄目!」

 もう必死だった。美砂里は急いで駆け寄っていくと、その勢いのまま大助の体に飛びついた。

「駄目だよ、そんな!」

 死のうとするだなんて!

 そう思った。思えてしまった。美砂里には他のことが一切頭に思い浮かばず、大助はそのままフェンスを越えて、飛び下りてしまうと。

「っ!?」

 刹那、強い力で弾かれる。しがみついた美砂里は、大助の左腕一本で撥ね飛ばされてしまった。いくら大助の力が強いとはいえ、とても尋常の力とは思えない。

(大ちゃん!)

 美砂里はコンクリートに強かに尻を打ちつけた。目から火が出るほど物凄く痛い。目の端には涙が浮かぶ。いつもなら暫く動けなくなるが、美砂里は痛みを堪えて立ち上がった。躊躇している場合ではない。目の前では、大助がフェンスを越えて死のうとしているのだ。

 なんとしても止めなくては。

「駄目だよ、大ちゃん! 大ちゃんってば!」

 階段にいたとき、一瞬見えた黒。それがまた大助の顔に見える。まるで深い闇の霧が大助に巣くうような、とても不気味なもの。

「大ちゃんってばぁ!」

 一瞬見えた不気味な霧のことなど関係ない。大助の体にしがみつく。体重を後方にかけて、フェンスの途中まで登っていた大助を強引に引きずり下ろす。

「いぃ!」

 転がるようにして大助を引っ張った際、美砂里はコンクリートに背中を打ちつけた。大助を抱えたままなので、二人分の体重がかかり、一気に痛みが脳天まで駆け抜けていく。熱い炎が一気に背中を焼いたように、受けた激痛は尋常のものでない。呼吸することすら困難になる。

 苦しさのあまり、その場でのたうち回るのだが、しかし、そんなことで引いてくれる痛みでなかった。

(大ちゃん!)

 全身をおかしくさせる厳しい痛みに表情を歪めながらも、美砂里は瞼を開ける。がしゃっと音を立てるとともに、また大助がフェンスに手をかけるのが見えた。

 その動作、まるで機械人形のように仕組まれているみたいに迷いがない。

(大ちゃん!)

 助けを呼ぼうと思った。自分だけでは限界がある。けれど、大人の人を呼ぼうにも、振り返る屋上には誰もいない。急いで下の階にいったところで、そんなことをしている間に大助はフェンスを越えるだろう。

(大ちゃん!)

 八方塞がりだった。自分では大助を止めることができず、誰かを呼びにいっている余裕もない。

 悔しいやら、情けないやら、さまざまな感情が美砂里の内側を圧迫する。力いっぱい握りしめる両拳。掌に爪が食い込んでいく。

(駄目だよ、大ちゃん)

 助けなきゃ。大助を助けることができるのは美砂里のみ。世界中でここにいる美砂里しか大助のことを救うことができない。

「くっ!」

 しかし、思いとは裏腹に、体が動いてくれない。打ちつけた背中の痛みに、せいぜい上半身を起き上がらせるのが精一杯。

 その間も、がしゃがしゃっ、がしゃがしゃっ、大助がフェンスをよじ登っていく。止まることない。もうすぐにでもフェンスを越えてしまう。

 その先には何もなく、死が待っている。

(駄目駄目!)

 そんなの駄目。

 そこを越えるなんて、駄目に決まっている。

(駄目だよ!)

 死ぬなんて、そんなの駄目。どれだけ絶望しても、生きなくちゃ。

(わたしは)

 生きてほしいよ。

 大ちゃんに生きてほしい。

 どんな姿であっても、大ちゃんには生きていてほしいよ。

(大ちゃん)

 大ちゃん!

 大ちゃん! 大ちゃん! 大ちゃん! 大ちゃん!

「大ちゃんってばぁ!」

 痛みを堪えながら、その痛みする超越する無心で体を突き動かし、美砂里は再び大助に体ごとぶつかっていく。

 フェンスが大きな音を立てた。

「きゃっ!」

 飛びついていった勢いで大助の腰にしがみつたが、一瞬にして振り払われた。

 コンクリートの床に肩からぶつかり、激痛にまともに目を開けてもいられない。

 美砂里は力なくぐったりと横たわりながら、またフェンスの音を耳にする。

 がしゃっ。がしゃっ。がしゃっ。がしゃっ。

(……駄目、だよ)

 早くしないと、大助がいなくなってしまう。

 死んでしまう。

 けれど、美砂里ではどうすることもできない。

(大ちゃん)

 意識がぼんやりとする虚ろな瞳。今はコンクリートに頬をつけ、そこから見つめることしかできない。がしゃっ。またフェンスの音が響く。がしゃっ。横たわりながら、美砂里は懸命に腕を伸ばしていって、大助のことを掴もうとするが……そんなの届くはずがない。

(大ちゃん)

 助けたい。大助のこと、守ってあげたい。

 ただ思うのは、大助のこと、守ってあげられる力がほしい。

 力が。

(大ちゃん)

 大助を救う力を欲すること、それは美砂里の存在そのものから発せられた願い。

 だからこそ、その願いは美砂里そのものとなる。

(大、ちゃん)

 力がほしい。

 大助を守ってあげられる力がほしい。

【それはあなたの命に代えるほどのものですか?】

 どこからともなく声がした。とても透き通っているようで、とても濁っているような、表現するには実に曖昧でしかない不可思議な声。美砂里には抵抗があるようでいて、しかし、すんなりと受け入れることができた。

【もしあなたがそれを欲するなら、その力を与えてあげましょう】

 声は美砂里の鼓膜を振動させるのでなく、直接脳に語りかけているみたい。

【力を得たいのでしたら、トリガーを引いてください】

(…………)

 美砂里はフェンスの大助に向けて伸ばした右手。いつの間にか何かを握っていた。

(……これ……)

 握っているもの、それは真っ白なボールペンのように細いもの。その上に半円が乗っかっている、とても奇妙な……まるでアルファベットの『P』の形。今は軸となる部分を握っており、半円の部分には人差し指をかけていた。そこが引き金。

 美砂里はそのトリガーを意識した。指がぴくりっと動く。

【あなたが力を得たいなら、トリガーを引いてください】

(大ちゃん!)

 今感じている思いに、迷いは生まれなかった。握る手に力を込めて、引き金を力いっぱい引く。

(っ!?)

 一変する。世界のすべてが黒濁した。あらゆるすべてが真っ黒に染められていき、ここにいる美砂里すら漆黒に犯されてしまいそう。

 しかし、美砂里はそこに存在する。

 そこで色を保っている。

(これ……?)

 気がつくと、美砂里は純白を身にまとっているではないか。大きなシーツに包まれるような衣が全身を包み込んだのだ。そのおかげで、美砂里は世界を包む闇に食われることはなかった。

「ひぃ!」

 刹那、目が巨大化する美砂里。

 目の前、そこに赤色が存在した。まるで燃えるような真紅のもの。不気味であり、シルエットはまるで人間が炎に包まれているよう。世界を覆う闇の黒さに、腕から頭から胸から、赤色の固まりをぼとぼとっ落としていく。

 美砂里と対峙して。

【見てください、あれが大助を狂わせていた根底です】

「っ!」

 美砂里の視界、その隅に今度は銀色の固まりがあった。それは全身銀色の幼女。銀色の髪は後ろで二つに縛られ、銀色の瞳、銀色の衣服はポンチョのように全身を包み込んでいる。年齢は、小学一年生といったところ。

【あれを倒さないと大助は元通りません】

 そうして銀色の存在は、言葉を発していた。その口を動かして。

【さあ、美砂里、早くその力を解き放ってください】

「力、を……」

 美砂里は自身を大きく包む白い衣のようなものから腕を出す。今も燃え盛るように目の前に存在する畏敬のものに、ゆっくりと掌を向けた。それは照準でも合わせるみたいに。その動作、意識してのことでなく、自然と動いていた。

「わたし……」

 真っ暗な世界。燃えるような赤い畏敬と、銀色のかわいい小さな女の子。

 身を置く世界があまりにも不可解なものでしかないのに、美砂里には自分にやれることが分かっていた。

 だからこそ、腕を伸ばす。

「大ちゃんを助けなきゃ」

 これまでにない意識が覚醒する。

 飛炎。

「大ちゃん!」

 掌から真っ白な炎が解き放たれた。それが凄い勢いで赤色の畏敬に飛んでいくと、その手前でばらばらに別れ、無数の小鳥となる。小鳥の群れは、一斉に赤い畏敬なものに襲いかかっていった。

 人間の形をした赤い畏敬は、全身を大きく揺らして自身に襲いかかる白い小鳥に、腕を振るうようにして追い払おうとするが、いかんせん多勢に無勢である。すべてを追い払うことができない。

 一匹の小鳥が赤色の畏敬へと突っ込んでいく。それを契機に、そこにある赤色を消滅させるように真っ白な小鳥たちは畏敬なものを取り囲んだ。そうして次々に頭から飛び込んでいっては、その色をついばむ。

 赤色に群がる小さな白色。畏敬のものはもうどうすることもできない。ただそこで白色に食われていく。

 そうして少しずつこの闇の世界から赤色が失われていき、人間の形をしていた畏敬のものは形を崩し、とうとう空間からきれいさっぱり消え去った。

 そこにあった赤色を消滅させると、白色の小鳥たちは根城に帰るみたいに美砂里の元へと戻ってくる。スピードを緩めて、一匹、また一匹と、美砂里を包む真っ白な衣へと吸い込まれていった。

「…………」

 白色の小鳥はもうどこにもいない。ここにあるのは闇の世界。美砂里の前には、赤い霧状のものが浮遊している。それはまさに、さきほどまでそこにいた畏敬のものの残り香。

「これで大ちゃんが助かるんだ」

 手にしているトリガーを見てみると、握っている部分に赤い線ができていた。線の長さは全体の十分の九ほど。

「よかった」

 美砂里は握っているトリガーを掲げる。考えてのことではなく、そうすべきだと分かった。浮遊していた赤い霧状のものが、強力な掃除機で多くの埃を吸い込んでいるように、トリガーへと吸収されていく。

「…………」

 覆われる闇の世界。もう目の前に赤色は存在しない。手にしているトリガーを見ると……さきほど見た赤い線は、温度計のようにぐんぐんっと伸びていって、今は縦一本の赤い線ができていた。

「…………」

【お見事でした】

 声。銀色の幼女。

【新たな神人が強力な力を有しているようで、よかったです】

 美砂里の横。全身銀色の女の子がとても嬉しそうに微笑んでいる。

【ボクの名前は、ギンナン、これからよろしくお願いします】

 そう言って、ギンナンは小さく頭を下げた。


       ※


「っ!?」

 今まで真っ暗闇が世界を覆っていた。右も左も前も後ろも、すべてが闇色。だったはずなのに、いつの間にか世界は色を取り戻している。

「…………」

 美砂里の頭、少し霧がかかっているように、ぼぉーっとしていた。

「……大ちゃん!?」

 病院の屋上。視界にある空の広さに、立っている場所を思い出す。風が強く、肩口までの髪が靡いていく。ぐるりっと高さ二メートルほどのフェンスが囲んでいて、今は給水タンクの近く。そのすぐ横に水色のパジャマを着た大助がぐったりと横たわっていた。

「大ちゃん、しっかり!?」

 抱えると、大助の呼吸を確認。どうやら意識を失っている様子。

「早くお医者さんに知らせないと」

 素人目であるが、命に別状はなさそうである。ほっと胸を撫で下ろす。

 頭上の空は、茜色で満たされていた。

 今日の風はやけに強い。横から吹いてきたものに、思わずよろけそうになる。

(大ちゃん)

 美砂里は全身に力を込めて、その身に感じる大切な存在を支えていく。

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