神様のいのち

@miumiumiumiu

第1話


 終焉のとき



       ※


 リストラにあった。

 そういうことが世間で起きていることは知っていたが、テレビや雑誌の話だと思っていて、自身に降りかかるなど夢にも思わなかったのに。

 雫沢しずくさわ悟史さとし、四十五歳は、会社の業績悪化に伴い、二十七年間勤めた会社からリストラとなった。

 昨日まで働いていた場所が、自分の居場所が、一瞬にして奪い去られたどころか、今では立ち入り禁止となったのだから、容易には受け入れられるものではない。

『なぜだ?』そう考えてみても結論が出ない。二十七年間会社のために尽くしてきたのに、ろくに説明されることもなく、ただ紙切れ一枚でリストラ。同期の人間はどんどん出世していき、悟史だけがずっと現場の末端として働かされ、それでも愚痴を零すことなく毎日献身的に仕事してきたのに。

 現在、この日本国中には悟史のような人間が溢れている。世界を奈落へと陥れた同時不況のために、働きたくても働けない人間が溢れ返っていた。『自分と同じ境遇の人間がたくさんいる』それは少しだけ悟史の心を落ち着かせるものだったが、だからといって自分の生活が保たれることはなく、ただ絶望の一途へ進んでいく。

 悟史には妻と息子が一人いた。息子は中学三年生で、今年受験生。いやでも金がかかる。であれば、悟史がリストラにあったこと、正直に打ち明けられなかった。

 十一月の頭に突然解雇となり、なんとか別の働き口を見つけるまでは、解雇されたことを隠すことにする。家族に心配をかけるわけにいかず、ましてや息子は受験生として大事な時期。だから悟史は、解雇されたことを相談することもできなかった。


 リストラされた以上、朝起きても会社にいくことがない。しかし、リストラを家族に隠しているため、寝坊して家でごろごろするわけにはいかなかった。いつもと同じ時間に起き、いつもの通りにパジャマから背広に着替えて、いつも通りに新聞を読みながら朝食を食べる。目覚まし時計のセットされた時間ぎりぎりに慌てて起きてきた息子の顔を見てから、いつも通りに家を出た。妻にも息子にも怪しまれることなく、『普段通り』を装えたと思う。

 ここまではいつも通り。しかし、ここからは違う。もう会社にはいけない。家を出たものの、目的地がないのだ。近所で掃除をしていた主婦に挨拶をして、一応駅に向かう。先月に半年分の定期券を購入したばかりだったのでこれまで通り改札を通ることができる。通勤ラッシュで息苦しい電車に乗って、いつもとは違う手前の駅で下車した。あまり乗っていると、会社の人間に会いそうな気がして。

 下車した駅、そこは繁華街のある賑やかな場所だった。多くの制服を着た高校生や、悟史の同じ背広を着た人間で溢れている。周囲には多くのビルが背を比べるように建ち並んでいた。まだ開店時間前のデパートもたくさんある。それらに囲まれるようにしてたくさんの緑のある大きな公園があった。

 周囲のみんなは、まるでそう流れていくことが体内に刻み込まれているかのごとく、それぞれの向かうべき方角へと歩いていく。しかし、その流れに置いていかれるように、悟史にはいくところがない。暫く逡巡して、近くのコンビニエンスストアで時間を潰すことに。ここにも多くの制服と背広の姿がある。店内に入ると、なぜか自分だけここにいる資格がないような錯覚を得て、気まずい思い。

 特に趣味といったものはなかった。ずっと仕事をしてきて、休日は家でごろごろするだけ。新婚の頃、そして息子がまだ小さかった頃は、率先していろんな場所に出かけたが、気がつけばそれもなくなっていた。

 コンビニで雑誌を立ち読みしようにも、興味のあるものがなかった。並んでいる学生服は漫画を読んでいたが、さすがに気が引ける。なんとなく顔を横にずらすと、求人誌が目に映った。『あっ』と思い、目の前に小さな光が瞬く。それこそが今の悟史にとって必要なもの。

 高校を卒業してすぐ就職したので、アルバイトというものをしたことがなかった。当然、こうして求人誌を手にするのは四十五年の人生で初めてのこと。

 求人誌にはいろんな仕事が紹介されていた。世間は不景気だという割に、どこも人を欲している。この分ならすぐ再就職ができそう。少しだけ気持ちが楽になった気がする。

 字を読む習慣がないせいか、立ち読みではうまく情報が頭に入ってこないため、やむなく求人誌を購入し、近くの大きな公園へ向かった。一緒に買った缶コーヒーを飲みながら、ベンチに座ってじっくり検討する。

 時刻はまだ九時を過ぎた頃。先週なら、会社で週のはじまりの掃除をして、作業開始となっていたはず。けれど、今はもう会社にいない。いくこともできない。

 ベンチの汚れを手で払い、座った。周囲は多くの木々で囲まれている。見渡してみると、公園には悟史と同じように背広を着たサラリーマン風の男がたくさんいた。どれも凄く疲れているように、深くベンチに座って俯いている。きっと悟史も似たような顔をしているのだろう。

 周辺は繁華街のある大きな町だが、この公園はとても静かだった。この場所だけ世間から忘れ去られているのかもしれない。だからなのだろうか、悟史がここに足を向けようとしたのは。ここなら時間に追われることがないから。

 コンビニで購入した求人誌に目を通していき、手頃だと思うページを折り曲げる。家に帰ったら、もう一度吟味して、連絡しようと思った。

 近くに設置してある時計は、あと十分で午前十時。だいたい仕事から帰るのは午後六時過ぎだから、まだ八時間も時間を潰さなければならない。気が遠くなるようで、とてつもなく憂鬱だった。同時に、巨大な嘆息が漏れていく。一刻も早く再就職を見つけなければならないと痛感した。

 仰ぐようにして空を見上げてみる。今日は真っ青な空。そんな色、暫く見ていなかった。考えて見れば、いつも自分の頭上にあるものなのに。

 近くに大きなデパートがあった。時間を潰すにはもってこいと思い、寄ってみることに。開店時間は午前十時で、もうすぐ。平日のこんな時間にもかかわらず、入口にはたくさんの人がいた。学生服を着た女子高生の姿もあったし、カップルもいればOLらしき姿もある。けれど、悟史のような背広を着た中年の姿はない。少し浮いてしまうかもしれないが、気にすることなく列に加わる。他に時間を潰す方法が思いつかなかったから。

 列に加わって五分も経っていないと思う、どこからともなくオルゴールの音色が響いてきた。開店の午前十時。周囲はざわざわしはじめて、落ち着きがなくなる。そうしてゆっくりと自動ドアが開いていった。同時に、待っていた人は我先にと競うように入っていく。

 開店時間、入口では従業員がお辞儀をしながら悟史たちを出迎えた。

 周囲の人間は足早に近くのエスカレーターへと向かっていく。悟史はどうすればいいか分からなかったが、なんとなく乗り遅れないようについていった。ただそれだけのことで、みんなの後ろをついていくだけのことで、なんとなく気持ちがわくわくした。そんな気持ち、久し振りのことだった気がする。

 エスカレーターに乗ってすぐのこと、上の方から従業員の声がした。内容は『最近人気の携帯ゲーム機の入荷が本日はない』というもの。その声に、周囲にいた全員が一斉に『ええぇーっ!』と声を上げた。みんなの目当てがそれだったのだろう。悟史はゲームのことを知らなかったし、なんだかよく分からなかったが、周囲に釣られて『ええぇーっ!』と声を上げた。楽しかった。

 その日は結局、デパートで昼まで時間を潰し、コンビニで昼食を買って公園で済ます。夕方まですることがなく、ぼぉーっとベンチに座って時間を潰していく。求人誌を購入することといい、デパートの開店前に並ぶことといい、今日は初めてがたくさんあった。

 ベンチで腕を組み、焦点をどこにも合わせることなくぼぉーっとする。本当にすることがない。自分を無視して時間がすぐ横を通り抜けていく。十一月の空気は寒かったが、コートを着ているので決して苦にならなかった。

 午後六時に家に帰宅。いつも通り夕食を食べ、テレビを観て、風呂に入って、少し早めに就寝。

 明日から就職活動である。暫くは失業保険でやっていけるかもしれないが、すぐにはもらえないし、当てにもできない。一刻も早く再就職を決めなければ。家族に解雇になったことを隠している気まずさを胸に、自分以外は昨日までと変わらない寝室で、悟史は静かに瞼を閉じた。


 どこも不景気は変わらなかった。世界中が直面している問題なのだ、悟史がいく先でそうあることは、別段おかしなことではなかったかもしれない。

 再就職をするために履歴書を書き、予約をして、会社を訪問。

 面接。そして……不採用の連絡を受ける。

 駄目だった……ショックだったが、そこで立ち止まっている場合ではない。

 また面接。不採用の連絡を受ける。

 もう一度面接。不採用の連絡を受ける。

 求人誌にはあれほどたくさん求人情報が載っていたのに、悟史はどの会社にも採用されることがない。面接にきている人間のほとんどが二十代、もしくは三十代。とするなら、四十五歳という年齢がネックになっているのかもしれない。

 しかし、めげるわけにはいかない。仕事を選べるような立場になく、とにかくどんな業種であれ、仕事に就かなければ。家族を食べさせていくためにも。

 もう片っ端から面接を繰り返していく。面接して面接して面接して面接して、そして、片っ端から断られた。

 そうしてついに、十一月の給与日を迎える。振り込まれていない給与に、会社から解雇されたことを妻に知られてしまった。

 夜、食器が並ぶテーブルで、ぎこちない口調で『今は新しい就職先を探しているところだから。少し待ってくれ。心配することないからさ』そう言った悟史の顔を見つめる妻の顔は、まるで能面のように感情がなく、家族としての温もりが一切存在しなかった。


 翌日からも悟史は面接を繰り返す。働くため、家族を養うために、面接を繰り返す。

 そうしてまた不採用通知を受け取ることに。

 慣れるということはなかった。不採用の通知を受ける度に、まるで社会から駄目な烙印を押されている気がして、少しずつ心が削られていく。できることなら、もうしたくない。不採用通知などまっぴらだ。外に出ることなく、ずっと部屋に閉じ籠っていたいが……就職しなくては家族を養っていけない。であれば、なんとしても再就職を決めなければ。

 そうして面接をして、また不採用通知を受け取る。

 不採用通知を受け、不採用通知を受けて、また不採用通知を受け、またまた不採用通知を受けて……そうした結果に、悟史は徐々に立ち向かっていこうとする勇気が持てなくなった。

 冷たい風が悟史の胸を通り抜ける。

 体がやけに重たく感じた。


 年が明けた。世間は華やかな正月ムードで一色。テレビ番組はどれも騒々しいものだが、悟史の心が晴れることはない。無職である。今年は息子が受験のため、実家への挨拶を行わないことにしたが、実際は悟史がどこにも挨拶できるような立場にない。

 惨めであり、実に情けなかった。

 新年となり、心機一転といきたいところだが、やはり世間の目が変わることはない。景気もさらに悪化していく一方で、悟史はまだ就職を決められずにいた。

 無職。

 無職のまま、食事をする。何の役に立てていない自分が、そうしてエネルギーを摂取すること、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 けれど、そうすることしか今の悟史にはできない。

 自分を必要とする場所が、どこにも見つからないのだから。


 そうして悟史は、徐々に生きていこうとする心をすり減らし、ついには凄絶たる夕闇を迎えてしまう。

 その日、悟史のこれまでの人生は失われた。


       ※


 一月二十一日、月曜日。

 もう駄目だった。体のどこを絞ろうとも、もう立ち向かっていく力が湧いてこない。もう働こうとする意欲が湧いてこない。もう何かをしようとする気力が湧いてこない。

 駄目。駄目。駄目。駄目。

 悟史は社会のどこにも必要とされなかった。ただそこにそうして存在するだけで、役に立つことができない。

 家でも、妻の態度は実に冷淡なもの。無職の悟史を罵ることすらなく、ただ冷酷に日常を過ごしていく。無力な悟史のことを気にかけることのない妻。

 息子も受験勉強が佳境である。不甲斐ない自分が、未来ある息子の邪魔するわけにはいかない。

 悟史は、自分が一所懸命働いて建てた家なのに、そこにいる間はずっと俯くことしかできなかった。

 もはや社会はおろか、家にすら居場所がなくなったのである。

 もうどこにも悟史を必要とする場所が存在しない。

 駄目だった。

 もう駄目。

「……もういい」

 いい。

 もういい。

 もうこんなのたくさんだ。

 もう、やめてしまおう。

 やめて楽になろう。

「……もう……」

 ふらふらっと力なく立ち上がる。同時に、どこからともなく真っ黒な霧が出てきて、視界を遮っていく。しかし、そんなことに動じることはない。不思議とその不可思議な霧を受け入れている悟史がいて、視界が悪くとても歩ける状況でないのに、ゆっくりと足を動かしていった。

 コートも羽織ることはなく、着込んでいるのは灰色の部屋着なので、とても外出する格好ではないのだが、そんなこと今の悟史には関係ない。

 その姿、見えないそちらに引っ張られているみたいに、悟史は歩いていく。

「…………」

 包まれる黒い霧。そこに身を委ねること、とても心地よいことのように思えた。現実世界は、実に冷酷なものでしかない。ここまで一所懸命働いてきた悟史への感謝など、微塵もありはしない。

 社会において、悟史は不要となった歯車でしかない。

 必要ない歯車など、ごみでしかない。

 なら、もういい。

 もうなくなったって構わない。

 悟史がいなくても社会は正常に動いていく。

 悟史などいらないのだ。

 だから、もういい。

 もう頑張ることをやめよう。

「…………」

 相変わらず真っ暗な霧は世界すべてを覆っている。構わない。世界がそうした異常を迎えたところで、構うことでない。悟史は歩いていく。足を動かし、そちらに向かって。


「…………」

 気がつくと、周囲に人の姿があった。どれも死んだ魚のように虚ろな目。『きっと自分も同じ目をしているんだろうな』なんて思っては……他人がどうあろうが関係ない。ここに誰がいようが、悟史はそこにいることを望んでいる。

 悟史がその場所を欲して。

「…………」

 一人、二人、三人、四人、五人、六人……気がつくと、悟史の周りに十人以上の人間がいた。悟史と同じ中年の背広姿や若い社会人、制服姿の女子高生までいた。みんな同じ覇気のない目をしている。夢遊病者よりもさらに虚ろで濁った目をしていて、それはとても生きているように見えなかった。

「…………」

 悟史の視界、そこで一人の女子高生がナイフを手にしている。そして、そのまま手首に当てた。その動きに迷いはない。当てた手首でナイフを引き、鮮血が迸る。女子高生は表情なく、その場にナイフを落として、倒れていった。

 悟史をはじめ、周囲の誰もが倒れていった女子高生に対して、どうにも反応することなく、呆然とその場に立ち尽くしている。血が流れていくのをその視界に映しながらも、そこにただ立っているだけ。

 女子高生の左手首から溢れる赤色が、地面に広がっていく。地面をどす黒い赤色で染めていく。

 背広を着た人間が女子高生に寄る。しかし、手首から血を流す足元の女子高生には見向きもしない。そこにあるナイフを拾い、自分の手首を切る。鮮血が溢れ、背広は静かに倒れていった。

 次々と。周囲にいる人間は無表情のままに、次々にナイフを拾っては手首を切っていく。そうしてその場に倒れていく。

「…………」

 真っ黒な霧。そこに落ちているナイフ。悟史にとって、とても魅力的なものに見えた。惨めで情けない現実から救い出してくれる唯一の救いだと確信し、手を伸ばしていく。

 握るナイフ。それは赤色の液体で汚れていた。

「……っ」

 不思議な瞬間があった。すべてを覆っていた黒い霧が、その瞬間だけ部分的に晴れたのである。

「ぁ」

 僅かに晴れた黒い霧。そこに見えるのは、多くの人間が横たわる光景。手首から大量の血を流して、ぴくりっとも動く気配がない。

 死んでいる。

「っ!?」

 驚きだった。なぜ大量の人間がこのような場所に倒れているのか!? それも、手首から大量の血を流した状態で!? とても悟史には理解できるものでない。

 意識して周囲を見渡してみると、近くに大きな橋があった。すでに周囲は暗くなっており、耳には水が流れる音。どうやらここは、どこかの河川敷のようである。こんな場所に足を運んだ記憶はなかった。

「おい!?」

 視界には、大勢の人間が倒れている。そこに声をかけたつもりだったが……けれど、それがすぐ見えなくなった。また黒い霧が視界すべてを覆ったから。

 そして、そうして声をかけたこと、悟史にはどうでもいいことに思えた。

 今見えるのは手にしたナイフだけ。それこそが大切なもののごとく。行為は『自動的』という言葉がぴったり。悟史は握ったナイフを左手首に当てる。

『少しは自分の力で生きてみましょう』

 声がした。女の子の声。それはとても強く、矢のように悟史の胸を貫いた気がした。

 と同時に、視界を覆っていた霧が晴れていく。もう真っ暗な霧はどこにも存在しない。これまでまるで見えていなかった星夜の下に、悟史は立っている。

 悟史の前、女の子がいた。全身は真っ白なものを覆っている。靴までも覆うシーツのような衣服に身を包んでいた。

 悟史にはまったく面識のない女の子である。

『せっかくある命なんです。誰かに使われる前に』

 女の子が大きくぐるんっと回転したかと思うと、その姿は消えていた。まるでこの空間にすっと溶けていったみたいに。

「…………」

 夜の河川敷。そこに悟史は一人佇んでいる。砂利の地面に横たわる多くの死体に囲まれながら。

「あ…………」

 悟史の目に、多くの感情が溢れてきた。それが雫となって、地面に落ちていく。

 情動が絶叫に変わる。

「がああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 分からない。分からないが、自身から激情が溢れてきた。それがそのまま言葉にならない咆哮となり、悟史の口から飛び出していく。

「がああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 冬の真夜中、虫の音すらない静寂に包まれた河川敷で、悟史の絶叫が空間を切り裂くようにどこまでも響いていった。


       ※


 五年という月日が流れた。

 悟史は小さなアパートで独り暮らしをしている。

 仕事は工場のフライス盤の穴空け作業。何の部品になるかも分からない鉄板に、ドリルをセットして所定の位置に穴を空けていく。それは、いつ契約が切れるかも分からない契約社員として。

 妻とは離婚した、それは五年前のこと。息子は妻の元にいる。数えてみると、今年二十歳になる。しかし、悟史には祝うことすらできない。自分が生きていくことで精一杯だから。

 今になっても、時々思い出すことがある。あの夜、河川敷でのこと。なぜ自分があそこにいたのか? 分からない。なぜ自分があのナイフを手にしたのか? 分からない。なぜ周囲の人間が死んでいったのか? 分からない。

 警察にあの夜のことを尋ねられたが、答えられなかった。あの場において、自分が唯一生存していた人間なのにもかかわらず。

 事件は集団自殺として処理された。しかし、悟史にはどれも知らない顔ばかり。事前の連絡などしたわけでもない。

 ただ、はっきりしているのは、あの場所で、計十三人もの人間が手首を切って死んだということ。悟史はその十四人目になってもおかしくなかった。事実、その手にナイフを握っていたのだから。

 けれど、悟史にとって、あの日が契機になる。あれからの日々、悟史は残り香のような人生しか送れなくなっていた。離婚をして家族を失い、生きていく覇気もなく、喜びもなく、ただ淡々と生きていくことしかできないのだ。

 今日もアパートに戻ってきて、スーパーで買った惣菜に箸を伸ばすだけ。部屋には洗濯物が干してある。明日はごみの日なので、朝すぐ出せるようにしておかなければ。

「……あの日……」

 現実を見て、この世界を感じて、そうして悟史は思ってしまう。

『あの日、死ななかったことは、果して自分にとっていいことだったのか?』

 生きているからこそ、今日もこうして孤独に身を包んでいる。あの日死んでいれば、こんな気持ちを味わうことはなかった。

 であれば、死んだ方がよかったのかもしれない。

『せっかくある命なんです。誰かに使われる前に』

 あの日、耳に残った言葉、今も悟史の胸にある。

「…………」

 煮物を口に入れた。そうすれば今日を生きることができる。そうやってエネルギーを摂取しているのだから。

 今のままでは駄目だけれど、もしかしたら、明日は違うかもしれない。

 輝かしい未来が待っているかもしれない。

 また妻に会うことができるかもしれない。

 息子の成人を祝うことができるかもしれない。

「…………」

 いいこと、それが本当に悟史の元に訪れるかは分からない。けれど、今は生きるしかない。

 命がここにあるのだから。

「…………」

 そうして悟史は、今日も箸を伸ばして命を食べていく。自らが生き長らえるために。

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