第23話 変化 絵里編 上
私が言い終えた次の瞬間、皆が一斉に顔を緩めると笑い声を上げた。
「あはは、いやぁ…その堅い言い方が正に琴音ちゃんって感じがして良かったよ」
とまず絵里がニヤニヤしながら声を掛けてくると、「あはは、本当にそうね」と美保子も続いた。
百合子はというと、案の定というか、その二人の会話に混じりこそしなかったが、一人でクスクスと笑みを零していた。
「ちょ、ちょっとー…からかわないでよぉ」
と私はそんな皆を一度一瞥してから腕を組み、そっぽを向きつつ膨れて見せながら言った。
「もーう…ふふ、ただの場のノリに合わせただけだってのに…」
「あはは、そういう風に一々言っちゃうところも…ふふ、琴音ちゃんらしい」
と絵里がますますニヤケながら言ってきたので、懲りずにまた私が相手をしようとしたその時、
「あはは、当日はよろしくお願いしまーす」
と間延びながらも、私の席から見てちょうど真向かいに座っていた有希が深々と頭を下げたのを見て、「ちょ…」と言葉にならないような声を漏らしてしまったが、「まぁ…はい」としか返しようの無い…といった風な言葉をその頭に向けて苦笑交じりにかけると、ガバッと急に勢いよく上げたその顔には満面の笑みが広がっていた。
有希はそれから何も口にする事なく笑顔を湛えたままだったが、それだけに済ませたのが今回の場合では正解だったらしく、それからはさっきのような声を上げての笑いではなく、私を含む各々が表情を緩めるのみで、場には和やかな雰囲気が流れるのだった。
…と、これは誰からだったか思い出せないが、それからは自然に私には感じられるような流れで修学旅行の話に戻っていった。
んー…ふふ、まぁ言うまでもないし当然だろうが、続きの二日目、その晩にあった、裕美の”告白”が皆の前でされた件については口にしなかった。
これはヒロの事を知らない、有希を入れた美保子達三人がいる事もあったが、何よりも、もしも絵里に話すとしたら、私からではなく明日ここに来る予定らしい裕美からの方が良いだろうという考えがあったからだ。
…と、因みに…って、前回から”因みに”が多いが、それでも触れさせてもらうと、実はこの時点で、私は、裕美がヒロのことを恋愛という意味あいで好きだという事実を、絵里が知っているのかどうかは知らないでいた。
というのも、去年の秋深い時期に裕美から不意に私は告白をされた訳だったが、それ以降、もう何度も絵里の部屋に一緒に来てはお喋りを楽しんでいたというのに、私の目の前でその様な会話がなされる事がなかったからだった。
私から話題を振るような事でも無いだろうと、私、裕美、絵里の三人だけという時でも、特に無理に話を誘導させたりしないでいた。
とはいえ、この仲のいい二人の事、私のいない所で話していたのかも知れない…とも考えはしたので、先ほどのような思考に至ったのだった。
なので、至って良い意味で良くある普通の旅館にありがちな和室、そして私たちの浴衣姿の写真などをチラホラと感想を貰いつつ流していき、話は三日目に入っていった。
この最終日の写真は当然のことながら宮島で埋め尽くされていた。
そのまま着いてすぐに撮った桟橋や埠頭の写真などを見ていったが、やはりというかメインは厳島神社となった。
…とは言っても、実際のところは、その手前の石の大鳥居や、社殿の入り口付近を数枚撮っただけに実は留めていた。というのも、本当は特にこれといった規定は無く、社の深部でも無い限りは、個人鑑賞用ならと写真撮影に許可も入らないようなのだが、私の場合は、変に慇懃ぶるわけでは無いのだが、何となくパシャパシャと遠慮なく写真を撮るのはどこか引けて、なのでこういった分量となってしまっていた。
…とまぁ、これも口数の少ない百合子を除く皆から質問をされたので、そう私が事情を話したのだが、
「そんな気の使いようがまた何というか…琴音ちゃんなんだよなぁ」
と何故かシミジミ風に言う絵里を取っ掛かりに、皆一斉にこちらに向かって口々にからかい交じりの感想を述べてきたのを私は流していっていた。
…と、そこまでは何とか受け流すことに成功していたのだったが、しかしその数枚の写真の後で、尚一層の口撃を受けることとなる。
…ふふ、と言うのは、当日の私の行いをご存じな方ならもうお分かりだと思うが、ついさっきに変に慇懃なセリフを吐いた者と同一人物とは思えないほどの、神社内の大量の写真が出て来たからだった。
内容はもちろん…そう、例の…私が熱中するあまりに周囲を無視して写真を撮りまくった、舞楽の舞われる高舞台の写真だ。
「へぇー、これって舞台だね?」
と初めて知るらしい美保子がまず第一声を上げると、
「えぇ、これは舞楽が舞わられる舞台なの」
と、私は単にそうとだけ述べるにとどめて、他の皆の反応を待った。
というのも、そもそも舞楽が何なのか皆が知っているのか、修学旅行に行く前にその件については確認を取っていなかったのを思い出していたからだ。
なので、もしも知らないようだったら、話の便宜として軽くでも説明しようと思っていたのだが、その必要は無かった。
「あぁ…厳島の舞楽は有名だものね」
と美保子の言葉の後で、すぐに百合子が相槌代わりにそう口を開いた。
「そうそう」
と美保子も明るい口調で返すと、それから一分ちょっとくらいのものだったが、二人してそれぞれが持つ舞楽についての知識が間違っていないか、的外れとなっていないかを確認するかのように口々に意見交換し合っていた。
それを私含む他の皆で聞いていたのだが、粗方確認が済んだらしく、美保子が最初の表情のままに声を掛けて来た。
「…って、そんな風に私と百合子ちゃんは思ってるんだけど、舞楽は今みたいな捉え方で合ってるかな?」
「…」
と私はすぐには答えなかったが、それは何か裏がある故ではなく、ただ単純に、あまりにも二人が話していた内容が、私が持っていた付け焼き刃な知識以上の深い物だった
からに他ならなかったからだ。
それ故に、むしろ何となく反射的にすぐに答えるのが、こちらの薄っぺらさがバレてしまう…いや、そんなこちらの程度など、私が心安く付き合っている皆からすればバレてるので、今更取り繕う必要など無いのだが、それでもまぁ何だか気が引けたので、このような対応となった。
だが、それもほんの数テンポ間を置いただけで「えぇ、それで間違ってないわ」と、わざと生意気調に返した。
「あー、良かった」
と美保子はそんな私の態度に対して、まずニコッと目を瞑るように笑ってから、大袈裟に胸元に手を当てつつホッとして見せていたが、その次の瞬間、今度はこの間だけ静かだった有希が口を開いた。
「へぇー、流石美保子さんと百合子さん、さっきの話を聞く限りじゃ実際にはまだ観た事が無いみたいですけど、それでも舞楽を知ってたんですねぇ」
「…ふふ、実際に観てもいないのだから、それで知ってるって言うと語弊があると思うけれどね」
と百合子がクスッと小さく微笑みながら言い終えると、紅茶をススっと一口啜った。
「いやいやぁ、実際に観たからと言って、それで知れるかというと、それは別問題じゃ無いですかー?だって…ふふ、実際私たちなんか、当時に琴音ちゃんとは違ってキッチリと観れたというか、観たというのに…ふふ、さっきの百合子さん達の話なんか一切知らない…てか、当時はもしかしたら事前学習とかで覚えてたかもですけど、今ではまったく覚えてませんでしたもん。…ね、絵里ー?」
「…へ?」
と、さっきからずっと繁々と興味深げに写真を眺めていた絵里は、急に声を掛けられて顔を勢いよく上げたのだが、浮かべたキョトン顔を一同に向かって流した直後、少し遅れて笑顔を浮かべつつ返した。
「あ、え、えぇ…ふふ、まぁそうですね。…って、まぁ実際そうなんですけど、先輩にそうハナから既定事項だという風な言われ方には少し引っかかりますけれどね?」
と、最後に薄目を使って絵里が言い終えると、有希はそれに対して特に返さずに、ただニヤニヤと悪戯っぽく笑うだけだった。
「しっかし…」
と、そんな有希の笑みを受けつつも、またスマホ画面に顔を落とした絵里は口を開いた。
「…琴音ちゃん、また随分と…この高舞台、だっけ?…ふふ、沢山撮って来たねぇ」
と言いながら、絵里はスッスッと指でスクロールをしていた。
「ふふ、まぁね」
と私も自分のスマホを覗き込みながら、同じようにスクロールさせつつ返す。
「だって…ふふ、そうは言ってもさ、絵里さん、それに他の皆だって、私だけじゃなくこんなのが好きじゃない?」
「あはは、まぁねぇ」
と美保子が咄嗟に、絵里の代わりと言うつもりは無いだろうが、やはり同じようにスクロールさせつつ口を挟む。
百合子はというと、私は視線を落としていたので実際には見ていなかったが、隣からほんの小さく聞こえた感じでは、肯定の言葉の代わりに笑みを浮かべているのが分かった。
有希はというと、「おおー、舞台の向こうに大鳥居が入っているー!良く撮れてるねぇ」と、もうその次元からは離れて、一人それぞれの写真について感想を述べてくれていた。
「ふふ、でしょー?」
と、そんな底抜けに明るく言う有希に対して、知らず知らずこちらも釣られるように笑みを零しながら返していた。
その有希に遅れて、ようやく他の皆もそれぞれが各様の感想を述べて来てくれていたその時、「…ふふ」と、これまでとは違った意味合いとすぐに分かるような笑みを漏らす者がいた。
まぁ大体予想はつくだろうが、その正体は絵里だった。
もうそれなりの長い付き合いになるので、いちいち確認しなくても分かってはいたのだが、一応というかどんな表情をしているか見てみると、案の定、呆れと苦笑、それに加えてニヤケ面を織り交ぜたような絵里調の笑みを見せていた。
「しかしまぁ…ふふ、琴音ちゃん、今さっきも話してたけど、確かに私たち向けって意味でも撮ってきたんだろうけどさ…?それで確かに私たちも面白く見させて貰ってるけれど…ふふ、女子校生が修学旅行の思い出話として見せてくる写真とは思えない内容だねぇ?」
「…もーう、うるさいなぁ、ほっといてよ…ふふ」
と私はすぐに拗ねて見せたのだが、しかしものの数秒しないうちに自分で吹き出して笑ってしまった。
「あはは、でもさぁー?」
と、絵里はそんな私の様子を愉快げに笑っていたのだが、ふとニカっと目を瞑るような無邪気な笑みに変化させてから口を開いた。
「確かに元から琴音ちゃんから、普通の女学生にありがちな諸々を見せられるとは思っても見なかったけど…ふふ、いざこうして、写真とか、さっきくれたお土産とかを見るとさぁ…うん、『これぞ琴音ちゃんだっ!』って思えて、とても面白いよ!」
「…何よそれー?…それって、褒めてるの?」
と私は思いっきりジト目を使って見せてはいたが、自分でも分かるほどに口元をニヤケさせつつ問うと、「褒めてる褒めてる!」と、絵里はますます愉快げに返すのだった。
「そうそう、まさにそれよねぇ」
「うんうん、やっぱり普通じゃないから面白いよ」
「…ふふ」
と、美保子、有希、それに百合子の三人が順々にそう言葉をこちらに向かって投げつけてきたので、まだそれ程の付き合いでは無いはずの有希の口から”普通じゃない”というワードが飛び出しても、それには何も気を止める事も無く、
「何よ…みんなまで…ふふ、そんなに好き勝手言うなら、今日持ってきたお土産を回収しちゃうよ?」
と私も負けじと意地悪げに笑いつつ一同に顔を配りながら言うと、
「あーっ、それは勘弁してぇ」
と悪戯っぽく言う有希を発端に、百合子まで含む他の皆が一斉に平謝りをしてきたので、
「んー…よろしいっ!」
と、私はまた一同の顔をぐるっと見回してから、演技臭く大仰な声音を使いつつ、胸を気持ち前に張り出しながら言うと、それからは誰からともなく一斉に声を揃えるように明るく笑い合うのだった。
んー…ふふ、こうして”当時”を思い返してみると、勿論私は良くも悪くも世間からして”少しだけ”ズレているのは重々承知し自覚し認めているところだが、それを置いといても、さっきに限らないが、何かにつけて私をそういった意味でからかってくる、絵里を含めた他の皆だって、写真を皆で見るにはどうすれば良いのかと、今見ているSNSにすぐに気づけなかった時点で同類だろう…と思う。
何せ、これは褒め言葉として言うのだが…って、ここまで長々と延々と我慢強く根気よく私の話を聞いてきてくださった方にはいらない配慮かも知れないが、私と同年代というカテゴリーの中で一般人代表である一人の裕美や紫などは、この手の事はすぐに気づいただろうと想像がつくからだ。
ふふ…っと、まぁそんなこんなで、後になって思い出すたびに、そう心の中でツッコミ入れつつ、表では一人思い出し笑いをしてしまうのだった。
「…まぁ、さ、絵里さんと有希さん以外は面識無いから言うのもなんだけれど、まぁ明日はさ?んー…”誰かさん”と違って、至って普通”寄りの”女学生である裕美がここに、私と同じ様にお土産話なんかをしに来てくれるから、それまでは我慢してね?」
と私が大袈裟に可愛い子ぶって言った直後、絵里を始めとする有希、裕美を知らない美保子と百合子からも笑いを取ったところで、また話をググッと戻すことにした。
厳島神社の写真は、最後に能舞台も撮っていたので、そこでも少しの盛り上がりがあったのだが、それも終わると、昼食後の厳島神社の大鳥居前での班写真、神さびた雰囲気の昔ながらの風情が残る町屋通りなどの写真を見ていった。
その町屋風景にもやはりというか、全員が食い付き、それぞれが感想をくれたのだが、それを見終えるとようやく、前回から続く修学旅行の思い出話にも一段落がついたのだった。
…ふふ、私が話し下手の癖に話がまた長いせいで錯覚しておられる方もいるだろうが、実際にどれほどかというと、三時にここに来て、軽くお互いに挨拶を交わし合ったくらいで、それで前回の冒頭、乾杯へと入ったのだったが、そこから今までの時間経過としては、一時間半を少し越えた程度しか経っていなかった。
さて、私の話も終わり、ひと段落の空気が場に流れ始めて、良いタイミングと絵里が紅茶のお代わりを淹れに台所に立ち、戻ってきてそれぞれの空きのカップに紅茶を注ぎ入れてくれていた中、それまでお土産話をしながらも、どこかで何かを忘れている様な気はずっとしていたのだが、ここに来てふとその疑問を思い出した私は、それをそのまま口に出してみる事にした。
「…あのさ?」
「んー?なーにー?」
と注ぎ終えて今まさに座ろうとしていた絵里が間延び気味に返してきたが、私はそれには特に応えずに絵里、有希、美保子、百合子の順に眺め回してから続けて聞いた。
「…今日のこの集まりって、元々はなんだったの?」
「…え?」
とその瞬間、絵里だけでは無く、この場の全員が似た様な反応を示したので、何か深い理由があるなと察知しつつも、そのリアクションについての理由を聞かないままに続けた。
「だって絵里さん…ふふ、私が修学旅行に行く前に、事前に帰って来た後で、絵里さん家に行っても良いかって話をしてたじゃない?私の場合はもちろん、修学旅行の話でもって理由があったけれど、あの時のやり取りじゃ、なんかそれ以前から話があったようじゃない?」
…そう、あの時の文面をチラッとお見せしたと思うが、その内容からは、ただ皆が時間があったから集まったって感じでは無く、何かそこに確かな意図なり目的がある様に思えた…し、それを絵里自身がわざと滲ませている様にも思えたからだった。
それなのに、まぁ…ふふ、私が変に長々と旅行話をし続けてしまったせいでもあっただろうが、それでも今みたいなインターバルになっても、中々誰も切り出さないので、こちらから口火を切った次第だった。
「…」
と私が言い終えても、誰もうんともすんとも口を開かないので、また一度ぐるっと見回していたのだが、その中の三人は、私と目が合うたびに、ほのかに微かに目元が特に顕著だったが顔全体を緩めたかと思うと、ある一点に向けて視線を流した。
その先が皆が全く同じなのに気づいた私も、同じ方角に視線を流して見ると、そこには、他の三人とは違って一人、顔一面に苦渋と、そして…いや、それ以上に思いっきり照れ笑いを浮かべている絵里の姿があった。
そんな絵里の皆との違う表情に軽く驚いていた私だったが、その時、「…絵里?」と話しかける者がいた。
それは有希だった。
今日殆ど浮かべていた悪戯っ子の様な表情は、この時ばかりは鳴りを潜めており、ぱっと見では苦笑いに見えるのだが、しかしどこか柔らかな、相手を労わる様な、そんな気配の滲む笑顔だった。
「絵里ちゃん…私もそろそろ聞きたいなぁ」
と、有希の次に口を開いた美保子は、テーブルに肘を突きつつ、和かな笑みを湛えながら促す。
百合子は…ふふ、こんな時でもというか、変わらずに笑みを浮かべるのみだったが、その視線は美保子と気持ちが同じだと雄弁だった。
「…そろそろ?…聞きたい…?」
と、この時の私は、何だか美保子の物言いに引っかかり、そう思わず呟いてしまったのだが、そんな言葉に反応を示した絵里は、一度、先ほどの私の様にぐるっと一同を見渡してから、最後に私の顔で視線を止めると、二、三秒も経たないほどだっただろうが、少しの間見つめてきたかと思うと、フッと不意に短く息を吐いた。
そして、「…ふふ、分かりました」と何処か自嘲気味に笑った後で、スクッと徐に席を立った。
「じゃあ…ちょっとだけ待ってて…ね?」
と、最後にタメ語で言い終えたので、これは自分に向けて言ったのだと判断した私が、「え、えぇ…」と、自分でも知らない間に声に微小の緊張を持たせつつ返した。
それを聞いた絵里は、ニコッと小さく笑ったかと思うと、そのまま周り右をして、ある一点に向かって真っ直ぐに、スタスタと歩いて行った。
そして、絵里はある一室に入って行ったのだが、そこは例の、絵里が日舞の道具なりを保管するのに利用していた部屋だった。
最近ではというか、これも触れるのは久し振りなので確認の意味を込めて話そう。
絵里のマンションの一室、日舞に特化したこの部屋というのは、私が小学生の頃、絵里のことを『山瀬さん』呼びから『絵里さん』呼びに変化した辺りからここにも遊びに来る様になっていたのだったが、その当時はいつも来るたびに部屋のドアがピシッと締め切られていたのだった。
勿論なんでなのか、一体なんのためなのか、他の寝室だとかその他の部屋はドアを開けぱなしにしていたので、余計に気になっていたのだが、それでも何でか当時の”なんでちゃん”でも聞けずにいた。
だが、中学生になり、一年生の夏休み、裕美も一緒に何かして遊ぼうという話になり、最終的には眺めの良い絵里のマンションから花火を見ようって話になった。
その時は、裕美は…ふふ、もうこの時点で気持ちに気付いても良かったのだろうがヒロを誘い、私は”絵里のことを思って”というお節介を焼いて義一を誘ったわけだったが、まぁこの話は今とは関係ないので話を戻すと、せっかくだから皆で浴衣を着ようという話になり、その流れで絵里が…まぁ後は端折って話してしまうと、こうして自分の正体を明かしたというか、それと同時に今まで閉ざしていた部屋を自ら解き放って見せてくれた…という経緯があったのだった。
それからは、この”日舞の部屋”は私たちが訪れても毎回、他の部屋と同じ様に開けっぱなしになっているのがデフォルトとなっていた。
…さて、粗方の話はこの辺りで終えるとして本筋に戻るとしよう。
部屋に入ってすぐに、姿こそ見えないながらもガサゴソと何かを探る音だけが聞こえてくるのを、私だけではなく、他の三人も同じ様に部屋の方に視線を集中させていた。
この間は誰も口を開こうとはしなかったので、そのガサゴソ音しか物音がしていなかったのだが、その時、「…っしょっと」という掛け声が聞こえたかと思うと、それから数瞬して絵里が姿を見せた。
そして、そのままこちらに戻ってくる両手には、何やら額縁の様な物があり、側から見ても絵里はそれを後生大事そうに慎重に持っているのが分かった。
と、私だけではないが皆して絵里のその手元に視線を集中させていたのだが、絵里は絵里でなにも言わずに、しかし何だか恥ずかしいのか、戻ってくる間中そうだった…いや、席を立つ前からそうだったが、今は、無理に笑みを浮かべるのを阻止しようとしているかの様な、口元を無理やり閉めようとしている風な、そんなハニカミ笑顔を見せていた。
絵里はそのまま無言で席についたのだが、持ってきた額縁の表を自分の側にしたままなので、こちらからは裏面しか見えずに、今だにそれが何だか分からなかった。
…まぁ、これも実際は全くと言って良いほどに時間は経っていなかっただろうが、何だかそんな絵里の態度が焦ったく…というよりも、別に頭の中では絵里のタイミングで良いと思ってはいたのだが、持ったが病で好奇心からくる欲求を抑えることが出来ずに、誰も口を開こうともしないのにも拍車をかけられた私は、それでも少し辿々しく、伺い調に話しかけた。
「…え、絵里さん…それは?」
「…」
と、やはり絵里はすぐには答えようとはしないでいたのだが、表情だけはますますの照れ具合を見せて、ハニカミ笑顔を強めていった。
そして、コクっと本当に小さく、じっと見ていなかったら気づかない程度に頷いたかと思うと、「えぇ…っと、ねぇ…」とボソボソ言いつつ、ゆっくりとした動作で額縁を横回転させていった。
それと同時に、私は勿論の事だったが、視界の隅に有希、そして動く気配が死角からも聞こえたので、美保子と百合子も同じだっただろう、絵里の胸元に向かって前のめり気味に視線を集中させた。
「これなんだけど…はい」
と最後に言い終え回転を止めると、そこには額縁の表面が現れていたのだが、その中に一枚の賞状と思しき紙が一枚入っているのが見えた。
「おー、それなのね?」
と、まだ私がそれが何かを確認する前に、有希が真っ先に口火を切った。
「は、はい…です」
と絵里はハニかんだまま返すと、その直後には、「おー…」と美保子は声を上げて、「へぇ…」と百合子も小さく、しかし体自体は良く見ようとしているためか、私の背中に体温を感じるほどに近寄ってきていた。
私はというと、それぞれがそんな各様の反応を示すのに、一々顔を一旦外して、何故そんなリアクションをすぐに取ったのか、取れたのかが気になってしまい、ついつい皆の顔を眺めたりしていたのだが、それにはいちいちツッコミを入れずに顔を戻すと、視線が合ってもまだ何も言わない絵里をそのままに、また改めて額縁の中身を吟味し始めた。
中には、先ほども述べた通り賞状らしきものが入っていたのだが…まず目に付いたのは、右端にデカデカと書かれた『免状』の文字だった。
「…免状?」
と私はまず目に入ったそのままに口に出してから視線を上げたのだが、相変わらず絵里は小さく照れ笑いを続けるのみに徹していたので、埒が明かないと仕方なくまた視線を額縁内に戻した。
免状の字の左隣すぐには、その字よりかは小さめに、何やら古風な名前が書かれており、その下に『門弟』の文字があった。
そして、そのまた左隣に字が書かれていたのだが、そこにはまた少し大きめの字で、右にあった古風な名前、苗字は同じだったが、下に来ていた名前も上の漢字は同じだったが、下の字だけが違っていた。
…ふふ、実は先にネタバレ風な事を言う様だが、実は私自身はこの時点で、もうこれが一体なんなのか大方察しがついていたのだが、しかし折角だからと、私はそのまま名前の左に書かれている文章をそのまま口に出して読んでみた。
「えぇ…っと、なになに…?『右ノ者 〇〇流師範ヲ 免許ス』…え?」
と、私は呆気に取られた声を漏らして顔を上げると、その先には、先ほどよりかは照れの引いた絵里の笑顔があった。
「こ、これって…まさか…?」
と、私が免状と絵里の顔を交互に何度か眺めつつ、一応は疑問調だと分かるように節を付けて聞くと、絵里はまたもや…いや、今日一…いや、もしかしたら知り合って以降で一番のハニカミ笑顔を浮かべつつ口を開いた。
「ん、んー…ふふ、まぁ…ね?まぁ見ての通りというか…そのー…うん、ここにも書いてあるけど、私、山瀬絵里は…ふふ、無事に試験に受かりまして、名取から師範となりました!」
と絵里が最後は勢いよく元気に言い切った次の瞬間、
「おめでとー!」
と爆発でもしたかの様な勢いのある有希の言葉に始まり、「おめでとう絵里ちゃん」とその直後に、有希と同じくらいのテンションで美保子、「…ふふ、おめでとう絵里ちゃん」と、字面だけでは分かり辛いと思うが、しかし声音から心の温度が高いのが傍目からも察せられるほどに熱っぽかった。
「…え?えぇ…っと…?」
と、明らかに…というか、私からしたら当然として場のノリについて行けていなかったのだが、今もまだ口々にお祝いの言葉を貰っている絵里に向かって声をかけた。
「絵里さ…んー?」
と私は、どう声を掛けたものか決まらなかったので、結局は語尾を伸ばしつつ、顔一面に苦笑と呆れ笑いと、それとニヤケ顔の三つをブレンドさせた様な表情を作る事で、何を言いたいのか伝えようとした。
この私の魂胆はすぐに絵里にも伝わったらしく、ようやくここで普段通りの笑みに戻ると、しかし今度は純粋に苦笑いを浮かべつつ返した。
「あはは、ごめんね琴音ちゃん?…ふふ、いきなりだったからびっくりしたでしょ?」
「ふふ、そりゃあビックリするわよ」
と私も単純な呆れ笑いを浮かべつつ、視線をそのまま、相変わらず大事に胸元で持ったままの免状に目を向けつつ続けた。
「だって…もーう、いつの間に師範の試験を受けてたのよ?…って、あっ」
と私は、まぁ実はこれもさっきから見ていたので気付いてはいたのだが、それをまた今自分で納得がいったことでの、大袈裟な言い方をすれば歎声を漏らしたのだった。
それは何故かと言うと、先ほど触れた免状の文章の脇に、なにやら日付が書かれていたからだ。
因みに、そのまた左、それで字が書かれているのは最後だったのだが、そこには『宗家』という文字の下に、これまた古風で、いかにも宗家に相応しげな、門外漢の私ですら感じられる程に格調高い名前が書かれていた。
と、それはともかく話を戻すと、そこに書かれている日付を見た私はすぐに気付いて、今度は目を細めつつ絵里に話しかけた。
「…ねぇ、絵里さん、もしかして、そこに書いてある日にちが、その試験があった日?」
「ん、んー…」
と絵里はまた、ただ苦笑いをするのみだったが、私は構わず、今度は口元だけ緩めながら続けて言った。
「…って、絵里さんが試験受けてた時って、最後に宝箱に一緒に行った時と、私が修学旅行に行った時の丁度中間くらい…じゃない?」
そう、そこに書かれていた日付は日曜日だったのだが、その時は丁度学園での中間試験が終わった後の休日なのだった。
…ふふ、そんな試験がどうのとまでは、仮に裕美が話してたら別だが、少なくとも私からは話していなかったので、そんな事前情報も無いのに試験がどうのと説明は不要だろうとそこは省いた。
「ん、んー…」
と私の言葉を受けて、絵里はまたもや代わり映えのない反応をして見せていたが、「宝箱?」と、ここに集う他の皆から話を聞いていなかったらしく、事情を知らない風の有希がそう呟くのに、「ほら、例の色男の家よ」と美保子が悪戯っぽく笑いつつ言い、それに合わせるかの様に百合子は何度も頷きつつ笑みを溢していた。
「なんでその色男の家が、宝箱って名前なんですか?」と、まぁある種当然とも言える疑問を有希が発していたが、それを遮るつもりは無かったのだろうが、絵里はクスッと小さく笑って見せつつ口を開いた。
「…ふふ、正解。大体それくらいの時期に、まぁ実はと言うか…うん、試験を受けたの」
と、やはりと言うか、途中から何だかバツが悪さげに絵里が言うのを聞いて、「ふーん…」と私はそう声を漏らしながら、ふとここで他の皆に視線を配り、そしてまた絵里に顔を戻してから続けて言った。
「…っていうかさぁー?今までの事を総合して考えてみると…要するに、私以外のみんなは…絵里さんが、師範試験を受けているのを知ってたって事…だよね?」
「え?ん、んー…ふふ」
と、有希と美保子が顔を見合わせて苦笑し合い、まぁ…百合子は普段と変わらない笑みを浮かべていたので、それはまぁ置いとくとして、そんな三人に一瞥をくれてから、また私は顔を絵里に戻した。
「…まったく、なーんでまた私だけに内緒にしておくかなぁー?…私にも、初めから教えておいて欲しかったなぁ…」
と、私としては、一応場の空気を乱さない様に気を使い、おちゃらけ風を装いつつ、いかにも冗談だと分かるような愚痴り方をして見せたつもりだったのだが、この直後に馬に流れ始めた空気などなどから、後からこうして思い返してもそうだが、実際には上手くは出来ずに、結構”マジな”感じになってしまった様だ。
…でもまぁしかし、一応表面上はおちゃらけて見せこそしたが、気持ちの上では本当だったので、こればかりは仕方ないと私は言う他にない。
当然すぐにこの様な空気が流れ始めたというので、この時他の三人の様子は目に入れてはいなかったのだが、恐らくは静かな表情で様子を伺っていたであろう中、絵里も私の言葉を受けて、柔らかながら真剣味のある顔つきを見せていたのだが、少しするとフッと力を抜くのと同時に表情をほんの少しばかり和らげると、柔和な笑みを見せつつ静かに口を開いた。
「…ふふ、今まで黙ってて…ごめんね?確かにね、先輩や百合子さん、それに美保子さんは知ってたんだけど…まだね、これは裕美ちゃんにも話してはいない事なの」
と、聞いてて微妙に私の本来聞きたかった事とはズレてる感じが否めはしなかったのだが、これも私の態度が大きな一因であろうことは、この時点で察してはいたので、そこで妙なツッコミは入れずに、今の絵里の言葉から思い付いた事をそのまま口に出してみる事にした。
「この事は、もしかして…義一さんも知ってるの?」
と、今この場の空気に合わせて無表情を見繕おうと頑張っては見たのだが、内容が内容だけに、最後まで持たずに結局はニヤケてしまった。
しかし、本意では当然なかったのだが、自惚れて言えばどうやら一定の効果があった様で、場の空気が軽くなるのを感じるのと同時に、絵里の顔にも普段通りの、特に会話が義一に関する時に表す絵里調の苦笑いを浮かべていた。
「え?ん、んー…まぁ…うん、誠に不本意ながらね」
「なーにが不本意ながらよ?」
と、ここの間だけ静かにしていた有希が口を挟んだ。悪戯っ子の様な笑みだ。
「そもそも、話を聞いた感じじゃ、あなたが師範試験を受けようかなって思いついた時に、まず真っ先に相談したのが、その色男って話だったじゃないのー?」
「わ、わーーーっ!」
と、有希が言い切るかどうかのところで、絵里が慌てて両腕を有希の方に目一杯伸ばして制しようとしていたが、もう既に手遅れだった。
聞いての通り…というか見ての通り、しっかりと私の耳に届いていたからだ。
「へぇー」
と私もすぐに、これは一々作らなくても自然となってしまうのだが、ニヤケつつ相槌を打つと、「そうだよー?」と有希も負けじとますますニタニタしながら返した。
「ですよねー?」
と、有希が今度は右隣と向かいに顔を向けると、
「あはは、そうだったね」
「ふふ…」
と、美保子と百合子も肯定の返しをしていた。皆して笑顔だ。
と、ここで、当然というか、何でこうしてこの場の皆が、義一に絵里が相談した事を、”まるで実際に見てきたかの様に”触れてるのか疑問を感じたが、しかし今はこの流れを止める方がとても惜しく感じられて、それはまた機会があったらと先延ばしする事を決意していた。
「ふふ、やっぱりそうだったんだねぇ」
と私が先ほどよりも表情を緩めつつ、目を細めながら視線を飛ばすと、これまたさっきからタジタジしっぱなしの絵里がふためきつつ返した。
「も、もーう、皆さーん?勘弁してくださいよぉ…。って、琴音ちゃんも…ふふ、”やっぱり”って何よ、”やっぱり”って」
「ふふふ、べっつにー?」
と私が惚けて見せつつ返すと、絵里は大きく肩を落としながらため息を吐くと、
「もーう…って、それはともかく」
と、これまで苦笑いしっぱなしだった顔を、スッと前の柔和にして静かな表情に戻すと、真っ直ぐに私に視線を向けつつ口を開いた。
「まぁ…うん、話を戻すと…さ、んー…ふふ、うん、さっきも言ったけれど、琴音ちゃん、それに裕美ちゃんにもだけど、私が日舞の名取だというのを知っていたというのに、こうして師範試験を受けて、しかも受かった事を話さなかったっていうのは…うん、悪いと勿論重々思ってたんだけど…さ?」
「…うん」
と私が合いの手を入れると、絵里はここで不意に見るからに照れて見せつつ続けて言った。
「そのー…ね、特に琴音ちゃん、あなたにはそのー…何て言うか、そのー…今回、私が試験を受けようって思えた、その背中を押すきっかけを作ってくれたのが、そのー…実は…あなただったからさ、それで尚更言い出し辛かったんだよ…ふふ、照れ臭くてね」
「…へ?」
と、今まで絵里が真面目な空気感を全身から出してきたので、それを過去の経験から慣れ親しんでいた私はすぐに察知し、どんな内容を聞かせてもらえるのか真剣に聞き入っていたのだが、ここでふと、想定外の言葉が耳に飛び込んできたので、こんな素っ頓狂な声を上げてしまったのだった。
「わ、私…?」
と、呆気に取られつつも、私は自分の顔に指を指しつつ言った。
「私が…キッカケ?その…絵里さんが師範になるための、試験を受けると…いうのが?」
「ふふ、うん」
と、ここでようやくというか、慣れたのかすっかり照れの引いた絵里が、また静かな笑みを浮かべつつ…いや、やはり照れを微かに滲ませながら笑顔で答えた。
「そ、それって…どういうこと?」
と私が、こんな単純にして短い言葉さえ慎重になりながら口から吐くと、「んー…」と絵里はふと視線を斜め上に向けつつ声を漏らしていたが、「…うん」と一人コクっと頷くと、顔をまた元に戻した。
「…琴音ちゃん、その話をする前に、ちょっとだけ時間をくれない…かな?」
「…時間?」
と私が聞き返すと、絵里は小さく頷いたかと思うと、今度は他の三人に顔を向けると声をかけた。
「そのー…良いですかね?」
「もちろんだよ」
と、間をほとんど空けずに真っ先に有希が返事をした。その顔には、さっきまでの義一の話をしていた時の様な悪戯小僧は鳴りを潜めて、とはいっても妙に真剣な表情でもなく、バランスの良い、まさに今この場に合った程々の笑みを浮かべていた。
「昔から、あなたの日舞の話を聞くのが、私にはあまりにも関係ない世界すぎて、とても面白かったからね!皆さんはどうですか?」
と、まるで絵里の代わりを務めているかの様に有希が声をかけると、「あはは、そうね」とまずやはりというか、美保子が応えた。自然な笑顔だ。
「絵里ちゃん、私は有希ちゃん程まだあなたと付き合いが、時間の長さ的に短いけど…ふふ、まぁそれでもこうして何度も会話してくれて分かってくれてる通り、私、それに百合子ちゃんなんかは、この手の話がとても大好物なんだから。…ね?」
「えぇ、その通りよ。…絵里ちゃん」
と、美保子に返した直後、百合子は仄かな笑みのまま顔を絵里に向けて言った。
「だから…ふふ、私たちにお気兼ねなんかしないで、そのまま話をしてくれる?」
「え、あ…ふふ、はい」
と、絵里は一瞬戸惑いを見せてはいたが、すぐに百合子に促されたのか同じ様な笑みで応えていた。
…ふふ、覚えておられる方がいるか知らないが、例の数奇屋に同行してきた時に分かった様に、百合子は絵里にとって憧れであり大好きな女優であったわけだったが、それ故の気遅れが、こうしてもう両手で数え切れない程に顔を合わせているというのに、こうしたふとした事で、こういう風に戸惑いに似た症状が出てきてしまうのだった。
それを見た瞬間に、私は一人その意味から笑みを溢していたのだが、絵里はその笑みをまた収めると、側から見ても程よく力の抜けた笑顔を浮かべつつ口を開いた。
「まぁ…皆さんもそう言って頂けるなら、じゃあ甘えて…ふふ、琴音ちゃん、先輩が軽くネタをバラしちゃったけど、んー…うん、少しだけ、ほんの少しだけ私の話、…ふふ、日舞の話をしても…良い、かな?」
「え?」
と私はついついそう聞き返してしまった。
いきなり何の話をされるのかと、それまで絵里が見せていた雰囲気なども含めて身構えていたのもあったが、それと同時に、今絵里が言った様に、自ら日舞の話をし始めようと振ったからだった。
これまでも触れてきた様に、絵里は私が中学一年の時に自分が日舞を営む家の娘で、自身も名取である事を教えてくれたわけだったが、それ以降は、それ以上の話をしてくれる事はほぼ無いに等しかった。
先ほど美保子が話していたが、ジャンルは違えど芸の事なので、私が関心を持たないなんて事はあり得なく、何でちゃんで質問魔の事だから何度も話をして貰おうと振ってみはしたのだが、これまでを見ての通りというか、この手の話になると、ある意味義一に関するのとはまた違った意味で口が重くなってしまうのだった。要は「私の話なんか、何の参考にもならないよ」といった風に、苦笑まじりに逃げられてしまうのが常だったのだ。
なので、繰り返すが、こんな形でとは思っても見なかったのだが、絵里が自ら進んで話す気になってくれたという事で、願ったり叶ったりだった。
私が聞き返したのをどう受け取ったのか、「聞いて…くれる?」と伺い調にまた絵里が聞いてくるので、今触れた様に私としては長らく望んでいたことが叶うというので、「えぇ…ふふ、是非」と私は笑顔を浮かべつつ返した。
この間の他の皆の反応は、私はずっと絵里のほうに熱い視線を向けていたせいで把握する事は叶わなかったのだが、絵里は私の反応を受けた瞬間、まず視線だけを逸らして一同のいる方向に流してから、また元に戻して、一瞬間が空いたが次の瞬間、クスッと小さく笑ったかと思うと、よく普段から見せる、苦笑というか呆れ笑いを浮かべるという、いつもの絵里に戻りながら口を開いた。
「ふふ、そーう?…うん、ありがとう。じゃあ、えぇっと…何から話せば良いのかな…?」
と口を開いたにも関わらず、しかも自分から話を振ったのにこの無計画ぶりと、それに対して”らしい”なと思わず小さくクスリと笑った私は、助け舟になってるか分からないが、それらしきものを出す事にした。
「ふふ、じゃあねぇ…うん、まず絵里さん、あなたの日舞遍歴から聞かせてよ」
と私が言うと、「あ、あぁー、そうね。その方が分かりやすいか」と、絵里は変に感心した風な声を漏らすと、「んー…」と周囲に顔を向け始めた。
そして、ふとある一点で顔を止めると、「ちょっと待っててね?…っと」と絵里は私に一言かけると、すくっと立ち上がり、スタスタっと今度は本棚へと向かっていった。
宝箱と比べること自体がおかしいのだが、それでも一般のアラサー女性では珍しく書籍でパンパンの本棚の一角から、迷いなくスッと一冊の大判の本を手に取ると、見た目と同じ程度に重さもあるのか、両手でしっかりと持ちながらテーブルに戻ってきた。
と、そんな絵里の様子を、私だけではなく他の三人も見守っていたのだが、絵里が手にした本を見た瞬間、有希を始めとする三人が、慣れた調子でテーブルの上を片付けるというのか、お菓子やらカップやらをテーブルの端に寄せていっていた。
ふふ、そう、慣れた調子といったが、この場では良く絵里が…今回の様に自分から進んでというのは珍しく、大概は有希にせがまれて渋々取ってくるというのが定番で、それに対して毎度毎度他の皆で置くスペースを作るというのがいつもの流れなのだった。
なので…ふふ、今絵里が何も言わずに持ってきたのも、中身が何なのか、普段を知っている私はすぐに察しがついていた。
「ふふ、しょっちゅうこの手のは見せたりしてるけど、その度に恥ずかしいんだけどさ…」
と絵里が一人でゴニョゴニョ言いながらテーブルの中央に置いたのは、察していた通り、一冊のアルバムだった。
出された瞬間、私だけでなく他の三人も一斉に前のめりになって覗き込んだのだが、まだ開かれていないその表紙は、これまで私が見たことの無かった物だったので、中身がまだというのに、この時点で興味深げに眺めてしまった。
そんな私の様子に何かを思ったか、斜め右上からクスリと微笑が溢れたのを聞いた瞬間、手がそちらの方向から伸びてきて、おもむろにアルバムの厚い表紙をカタンと開いた。
開かれた瞬間、そこにはいくつか写真が挟まれていたが、少々古めのためか若干煤けたビニールケースの中に、真紅の地の上に橙やら牡丹やら桜が描かれた、華やかな着物を着ている少女の姿がまず目に付いた。
その写真はどこか室内でのものらしいが、慣れてないせいか緊張した面持ちのその顔つきやら立ち姿などから、どこか七五三っぽいというのが第一印象だった。
だが、その緊張した面持ちの中に、どっかで見た事のある、いや、見慣れた顔のパーツパーツが散見されるを見て、そのあまりにも”変わらない変貌ぶり”に思わず笑みを溢しながら口を開いた。
「おー…って、この女の子はもしかして…絵里さん?」
と私が写真を眺めつつ聞くと、「んー…ふふ、まぁ、ね」と、顔を見ずとも分かるほどに、絵里は照れつつ答えた。
「へぇ…ふふ、可愛いね」
と私が何も衒う事なく口にポロっと漏らすと、「そ、そーう?」と”聞くからに”声色から動揺を見せながらではあったが、「あ、ありがとう」と私の言葉に対して絵里が微笑み交じりに返した。
「んー、やっぱり可愛いわねぇ」
と、そんな私たちのやり取りの直後、美保子が続く様に言う。
「えぇ、そうね」
と、美保子のそのまた後で百合子が続いた。二人とも、微笑ましげなのと、おチャラケが良い具合に混ざった様な声音をしていた。
「あ、ありがとうございます」
「あはは、絵里は本当に昔から変わらない見た目よねぇ」
「…ふふ、先輩の感想は今は良いです」
「ちょっとー、それは酷くなーい?」
「あはは」
「でも本当に何度か見せて貰ってるけど、やっぱり着物姿って良い物よねぇ」
「…ふふ、そうね」
「そうですよね…って、ふふ、美保子さんや百合子さんには、まだ一度しか見せた事無い気がするんですけど?」
「あ、そうだっけ?あはは」
「私は何度か見せて貰ってるけれどねぇ」
「…いやいや、先輩…見せて”貰ってる”じゃないですよー?…ふふ、先輩は学生の時から、私の部屋に来ては勝手に物色して見てるだけじゃないですか?」
「あれ?そうだっけ?」
「もーう…ふふ、まぁ先輩の手癖の悪さは昔からなんで、もう今更何言っても無駄だって知ってるから諦めてますけど」
「あはは、そう、そうなの。私が悪いんじゃなくて、この手が悪いのよ。…何度も言い聞かせてるんだけどねぇ」
パシンっ
と有希が自分の右手を左手で叩いて見せると、「何ですか、それは…」と絵里がすかさず呆れ口調でツッコミを入れた直後には、私含む他の三人で笑いを零すのだった。
そのすぐ後に有希も交じり、最終的には絵里も自然な笑みを溢して混じっていた。
それからは早速、絵里の説明が始まったが、それによると、どうやらこのアルバムは絵里の日舞に関連するものとして特化したものであるらしく、絵里は自分で稽古場と言わずに”道場”と説明していたが、その道場での稽古の写真や、実際に舞台に出てる写真などで占められていた。
まぁそんな風だから、普通の人が見たら若しかしたら退屈と受け止められても仕方なさそうな代物だったのだが、年齢順に丁寧に収められているその写真群に対して、私の興味は失せるどころか増すばかりだった。
その中でも大きな変化の見える写真を見つけた時は、すぐに絵里に、その写真がどんな時で、どんな場面のかを質問攻めにしたのだが、そんな私に対して、そろそろ慣れてきたらしい絵里は、私の勢いに若干苦笑を漏らしながらも一つ一つ、懇切丁寧に答えてくれた。
…ふふ、でもまぁ、幼い写真の中には、稽古で怒られたのか、泣いてる写真なども何枚かあったので、それに悪戯心から触れると、この時ばかりは顔を真っ赤にして照れて見せていた。
とまぁ、そんな話をしつつではあったが、絵里はしっかりとメインの、本筋の話をするのも忘れていなかった。
「んー…っと…まぁ私が日舞を始めたのは幼稚園に入ってすぐくらいからなんだけど…」
「へぇ、そんな早くから」
「う、うん、まぁ…ね」
と、ここでもやはりというか、自分から話始めたというのに、それでも抵抗が少なからずあるのか辿々しさが抜けないでいるので、それに気を使ったという事でも無いのだが、私はなるべく普段の調子を意識しつつ、少し生意気を含ませながら合いの手を入れて行く事にした。
「そんな早くということは、やっぱり絵里さんの師匠であるお父さんか、お母さんが仕向けたというのがあるの?」
「んー…ふふ、仕向ける、ねぇ…。あはは、いやいや、私は純粋にというか、自分からやりたいって言ったんだよ。…うん、今も言った通り、始めたのは幼稚園に入った直後くらいだったけど…ふふ、そんな幼い頃だというのにね、やりたいって思った当時の事は、今もこうしてハッキリと覚えているの。…どっかの記憶力が怪物な人でも無いのにね」
と最後に絵里が普段通りにニヤケつつ言うので、その記憶力が怪物級の例の人を同時に思い浮かべた私も、悪戯っぽく笑い返した。漏れ聞こえる他の音を聞く限り、有希を含む他の三人も同様の様だった。
「でもそっか…ふふ、私がきちんと今まで話してこなかったから、そう勘違いさせちゃったかもだけど、実際はね、私の師匠はお父さん一人なの。私のお父さんは二百以上ある日舞の流派の中でも、歴史は古いながら小さな部類の宗家なんだけどね?その流派では一番偉い立場にはいるんだけど、私のお母さんは別にね、厳密には日舞の人では無いのよ」
「え?あ、そうなの?…あれ、でもお母さんも稽古をつけてるって…」
と私は、これだけ聞くと混乱しそうだが、こう返しつつ自分の母親の話を思い出していた。
絵里が自分の正体を明かす為…というか、まぁ純粋に私と付き合っているという話をしに、コンクール決勝前にお母さんの元まで話に来てくれたわけだったが、その時の雑談時に、お母さんが指導を受けている師範というのが、どうやら絵里の母親だと判明していたし、それ以前にもその様な話を既に聞いていたから、今話を聞いていて引っ掛かったのだった。
それを私と同じ様に思い出しての『勘違い』という発言だったのだろう、絵里はそんな不思議がる私に微笑みを向けながら続きを話した。
「ふふ、うん、まぁ確かにね、今私はお母さんを日舞の人じゃないって勢い余って言っちゃったけど、当然人に教えてるくらいだから…ふふ、今の私みたいに、きちんと師範の資格は持っているわ」
と絵里はここでチラッと、他に身の回りで置き場所がないから仕方ないにしても、自分の今座っている椅子の幾つかある内の一本の脚にテキトーに立て掛けていた、自分の免状の入った額縁にチラッと視線を向けながら言った。
「でもね、私のお母さんの本業というか、本来の仕事というか、それはね…茶道なの」
「サドウ…?茶道って、あのお茶を点てるっていう、あの…」
と私が聞き返すと、「そう、その茶道だよ」と絵里は、パントマイムで空中でお茶を点てて見せた。
「茶名もあって、一応は準師範って肩書きみたい。でもね、同じ伝統芸能だからって理由なのか、まぁ…ふふ、その辺りは当人たちから聞いてないから何とも言えないけど、取り敢えず、お母さんもお父さんの前で舞ってね、それで師範の資格を取って、それからは夫婦一緒になって生徒さんたちに教え始めたらしいわ」
「へぇー」
「うん、まぁでもね、お父さんの…ふふ、さっきも言った通り、内では稽古場と言わないで道場って呼んでるけど、折角お茶が出来るんだからと、お父さんの勧めで道場の中の空いていた畳ばりの部屋を解放してね、そこで月に何回か、お母さんが別にお茶の教室も開いてる…とまぁ、私自身の話から少し外れちゃったけど、うちはまぁそんな感じなんだ」
「へぇー、なるほどねぇ…って」
と私は、まだこの話が序章にしか過ぎないことを知りつつも、かなり興味深げに聞いていたのだが、ここでふと、また私の中の悪い虫の一つというのか、その虫が起き上がってきて、ついつい揶揄いたくなってきてしまった。
「…ふふ、ただでさえ日舞、しかも、私は勿論詳しいことは知らないけれど、それでも、お母さんがよく読む雑誌とかをチラッと見た限りじゃ、絵里さんが自分で小さい流派だと謙遜してたけれど、それでも家元っていうのは格式ある家じゃない?それに母親は茶道家とか…ふふ、絵里さん、普段は微塵も見せないし感じさせないけど…やっぱりかなりのお嬢様じゃない?」
「え、あ、ちょ…」
と絵里が慌てて訂正しようと口を開いたその瞬間、「でっしょー?」という明るい声に阻まれてしまった。
その声の主は有希だった。
「私も絵里と初めて会ってから、さっきもチラッと言ったけど、その立ち居振る舞いが、どことなしに普通の女学生とは違ってたからさ?先輩特権という事で根掘り葉掘り聞いたら…ふふ、もうね、出るの何のって、今絵里が話したのと同じ内容を私も聞いてさ、それですぐに…ふふ、絵里のところの道場に押し掛けちゃった」
と最後にお茶目な笑顔を作って言うのを、それまで黙って苦笑交じりに聞いていた絵里が口を挟んだ。
「ホント…ふふ、いい迷惑でしたよ」
「あはは、そう言わないでよ先生」
「…?先生?」
と私が二人に向かって聞き返すと、絵里と有希は一度顔を見合わせて、有希がニコッとしながら頷くと、絵里は一度軽くため息を吐いてから、苦笑を保ちつつ答えた。
「…うん、そうなの。ほら、去年私たちで先輩と百合子さん達の舞台を観にいったでしょ?それから先輩ったらね、何を思ったのか…ふふ、私のところの道場に入門してさ、日舞を習い始めちゃったのよ」
「それだけじゃなく、茶道も同時にね」
と有希は、なぜか得意げにウィンクをして見せながら付け加わった。
「ふふ、そうなんだね」
「そうなんだよぉ…って、話がどんどん逸れてっちゃってるね?じゃあ少し話を戻して…って、あのぉ」
と絵里はここで不意に我に返ったという風な様子を見せると、奥の二人に顔を向けた。
「あはは…すみません。やっぱり少し私個人の話でこんなに時間を取るのは…アレですよね?」
と絵里がバツ悪そうに笑みを浮かべつつ言うと、「あはは、アレって」と途端に美保子が笑みを浮かべた。
「だから良いってばぁ。初めの方でも言ったじゃない?こんな話をしてくれるのは、むしろ聞く側の私たちにとっても願ったり叶ったりなんだって。…ね?」
「ふふ、だから絵里さん、そのまま遠慮しないで続けて?」
と百合子がダメ押しというか、そう微笑みつつ言うのを聞いた絵里は、「は、はい」とはっきりとした力強い返事ではないにしても、それでも笑顔を浮かべて返した。
と、そんな和やかな雰囲気の中、私は少し思った疑問を口にしてみる事にした。
「絵里さんはでも、今までの会話だとかの中で茶道の”さ”の字も聞いた事なかったから、それから推測するに、その小さい頃には茶道に関心いかなかったんだね?」
「え?あ、あぁー…ふふ、うん、まぁね」
と絵里はそう少し照れて見せながら答えた。
「私はまぁ昔から落ち着きないっていうか…うん、動き回るのが好きな子だったからねぇ…。ふふ、茶道はまぁ一般的なイメージ通りというか、勿論変に畏っているだけの、慇懃なだけでは無いんだけど、それでもそんな子供からしたらジッとしてるのだって大変じゃない?…今でこそ、ようやくというか、そんな茶道の楽しみ方というか、楽しさが自分なりに分かってきたんだけど、最初に言った通りさ、もっと詳しく話せば、お父さんが舞っている姿が、子供心にとても綺麗で格好良く見えちゃってさ…それでやっぱり、熱中したのは日舞だったのよ」
「ふふ、そうだったんだね」
と、普段なら、勿論本人も冗談のつもりでは言ってると思うが、いかに自分がお淑やかなのかをアピールしてくるところを、そんな子供時代の自分を振り返って見せるのを聞いた私は、自然と笑みを溢しつつ相槌を打った。
そんな私の心境を知ってか知らずか、絵里はニコッと一度微笑んでから、アルバムを何枚か捲りつつ先を続けた。
「でね、えぇ…っと…あ、そうそう。まぁこの辺りは実際に私が舞台に出始めた頃のでね?えぇっと…ふふ、この頭と両手にさ、カラフルな菊の花がついた傘を乗せたり持ったりしてるでしょ?これはね、『菊づくし』って演目でね、私の流派以外でもまぁ初心者がまず入るっていうので有名なの。だから、この時の私みたいに子供用のと、当然大人になってから日舞を始める人もいるから大人用って、まぁそれぞれ振り付けの種類もあるの。でね、当然私は子供用ので稽古をお父さん…ってか、師匠につけて貰ったんだけどさ…ふふ、後になって知ったんだけど、本当はその子供用にも難易度が色々とあってさ、それで我が師匠が私に稽古つけたのが、よりによって…ふふ、一番難しいバージョンでね、当然なかなか出来ないワケだけど…そりゃあもうね、これでもかってくらいに小さな体に雷を受けまくってたよ」
と話す絵里の声だけからは、さもウンザリと言いたげなため息交じりな口調ではあったのだが、アルバムに視線を落とすその横顔をチラッと覗き見ると、その横からでも分かるほどに、目を細めて懐かしむ穏やかな笑みが浮かんでいるのが分かった。
「…ふふ、そうだったんだ。…あ」
と、この時私は、話を聞きながら、小学校二年生になったと同時に自分は師匠の元でピアノを習い始めたのだが、その時の事を思い出したりもしていた中、ふと一つの質問が胸に沸いてきたので、そのままぶつけてみる事にした。
「…ふふ、でもさ、そんな風に言ってるけれど、それだけ雷っていうか怒られまくったワケじゃない?なのに…もう辞めたいって思ったことは無かったの?」
と聞いたわけは、そもそも私は、ただ単純に記憶力がないせいかも知れないが、師匠…というか、師弟関係が生まれる以前から、これといって怒られた、もっと言えば、怒鳴られた様な記憶が皆無だったからだ。
一応は私と同じ様に、絵里も弟子として師匠から教わってきていたはずなのだが、その内容があまりにも自分と違う様にも思えたからでもあった。
そんな私の質問を受けた瞬間は、絵里は顔を上げて私にまっすぐの視線を向けてきたのだが、しかしすぐにニコッと幼げで無邪気な笑顔を見せたかと思うと、そのまま口を開いた。
「んー…ふふ、いやぁ…それは無かったね」
「それは何で?」
と私が聞き返すと、今度は目をぎゅっと瞑って見せてから明るく言い放った。
「何でって、そりゃあ…ふふ、そんなの琴音ちゃん、あなただって分かるはずでしょ?あなたにとってのピアノと同じでさ…ふふ、私は日舞というか、舞うのがそれだけ大好きだったんだもん」
『だもん』と言い終えるその語尾を含めて、当然幼少期の絵里を私が知ってるわけがないのだが、それでもそんな絵里の言動から、当時から何も変わってない”何か”がそこから感じられて、私はまたもや自然と笑みを浮かべつつ、「そうなんだね」と短く返すのだった。
そんな私の返しを聞くと、絵里は絵里で満足げに一度大きく頷くと、また先を話し始めた。
…のだが、まぁ内容としては、細かく言えば当然全て違うのだが、大方絵里の持つ感想自体は変わってないので、少し先まで少し端折りながら触れさせて頂こう。
今絵里自身が触れた『菊づくし』以外にも、それとは違う踊り用の傘を使って舞う『絵日傘』、扇子を使うというので『さくらさくら』などなどと、アルバムの写真に指を触れながら絵里はイキイキと話していった。
この時は、他の皆も久々に見るというので、さっきまでの静観とは違い、それぞれが思い思いの感想を口にして言っていた。
その間、絵里が照れが過ぎた苦笑交じりに返事を返していたのは言うまでもないだろう。
『さくらさくら』の写真で終わったページを捲った辺りから、小学生時代へと入っていった。
…ふふ、私が言う事でもないだろうが、もう少しだけ、絵里の日舞来歴にお付き合い願いたい。
…うん、私についての場合はどうでも良いのだが、こうして私が心安い人の、恥ずかしげもなく言えば私の数少ない、堂々と好きと言える人の、こういった内容の話をするのが、ただ単純に個人的に好きなのだ。そしてこの欲求はどうしても我慢が出来ないので、チンタラ垂れ流しに近い話を続けるのを、ここはただただ御容赦願いたい…と申し上げてから話を続けよう。
絵里が話すのをそのまま言えば、小学生になると、師匠なり他の指導者に言われる事が一層理解し始める時期だというので、演目も難しい曲が増えてくるとの事だ。
振り付けも、踊る当人としては子供なりに難しかったとしても、幼稚園の時期は『可愛ければ取り敢えずオッケー』だと、勿論演じ側ではなく観てる側がそう思う事でって意味で、許されてた点もあったらしいが、しかし繰り返しになるが、小学生に上がったら、いわゆる”大人の踊り”への移行期間という見方の様だ。
ここから数年かけて、色気、艶、雰囲気のある踊りというのを身につけて行くのが肝と絵里は続けて話していた。
「…とは言ってもねぇ」
と絵里は苦笑を浮かべつつ、写真に目を落としながら言った。
「これとかね、まぁ…ふふ、日舞では有名な長唄で『藤娘』って演目があるんだけどね、その中に引用されてるので『潮来出島』っていう小唄があってさ、これがその舞の時の写真なんだけどねぇ…。この小唄はね、元は名前の通り茨城の潮来って所の地元唄でさ、利根川を行く船頭の舟唄とも言われていてね、都々逸は…ふふ、琴音ちゃんなら知ってるよね?」
とここで不意に挑戦するかの様にニヤけつつ聞いてきたので、私も調子を合わせて答えた。
「え?…ふふ、まぁね」
「あはは、だよねぇー?…って、都々逸まで分かるなんて、本当に普通の女学生とは思えないけれど…っぷ、あはは!あ、でね、その都々逸のルーツとも言われたりしてるんだけど、この潮来節ってのがね、江戸では主に、そのー…遊郭を中心に情歌として歌われてたものなの」
と最後にまた、最初の様に苦笑交じりに話すのを聞いて、すぐにピンときた私は返した。
「…あ、あぁ、それでさっき艶だとか…ふふ、”色気”だとかって言ってたのね?」
と、私は敢えて、点々で囲った部分を強調しつつ言うと、絵里の方でもその私の意図とする所をすぐに汲み取れたらしく、悪戯っぽい笑顔を浮かべつつ応えた。
「あはは、うん、まぁねぇー。だからさ…」
とここで途端に、また苦笑いというか、少し口惜しげな表情を笑顔に滲ませつつ続けた。
「これも一応は子供用に簡素化したので踊ったんだけど…ふふ、勿論当時は本人なりに一生懸命に踊りはしたんだけどさ…あ、そうそう、それとこのすぐ隣のコレ」
と絵里は不意に指を真横にスライドさせて、隣の別の写真に指先を置いた。
「これは祇園小唄って端唄なんだけど…」
「…あ、それは知ってるー」
と私が視線を落としつつではあったが、そう思わず口を滑らすと、クスッと頭の向こうから笑みが聞こえはしたが、そのまま普段通りに溜息まじりに言葉が降ってくるものと思い待ち構えていたのだが、その予想は外れて、私が顔を上げなかったのが大きかったのだろうが、そのまま微笑み交じりに話を続けた。
「…ふふ、まったく何でこの子はこんな事まで知ってるのかなって思うけど…ふふ、でもまぁそれでもついでだから話をすれば、この祇園小唄って端唄は、京都の名所とか風景だったり、京都の四季と舞妓さんの心情を歌ってる唄なのね。知っての通り、この曲は舞妓さんには必須の曲とされてて、”仕込み”っていう修行期間からお稽古して、一人前になってからもこの曲を踊らない日が無いってくらいにメジャーらしいの」
とここまで話すと、喉が渇いたのか、少し温くなった紅茶を何口分か啜ってから先を続けた。
「…でね、そのー…ふふ、この写真を見た通りなんだけどさぁ…さっき言った潮来出島も、この祇園小唄も扇子を使って舞うんだけれどさぁ…」
と絵里はどこか愚痴っぽく言った。
「んー…ふふ、今もたまーに小学生時代に舞ったのを映像で見返したりするんだけど…ね?なーんか…まぁ仕方ないんだけど、もう少し色っぽく舞えれなかったかなぁ…って、観るたびに思うのよ」
「…そうな」
『そうなんだね』と相槌を入れようとしたその時、
「いやいや、絵里、そんな事無かったでしょ?」
とここで不意に、これまでまぁ…絵里が私に話すと言う形式上、口数少なくならざるを得なかったのだが、ここで見過ごしが出来ないと言わんばかりに有希が口を挟んだ。
「え?」
と絵里が声を漏らす中、有希はそれに構わず今度は私に顔を向けると、まるで内緒話でもするかの様なポーズを取りつつ言った。
「いやぁー…ね、琴音ちゃん、絵里はこんな風に自分で言ったけれどさぁ…うん、まぁ勿論、絵里本人の判断基準と言うか、やっぱりその芸に打ち込んでる人の高い目線というのはあるんだろうけど…ふふ、でもね、まぁ私は今年に入ってからも観せて貰ったことあるんだけど…さ?初めて学園生時代に絵里の家に遊びに行った時に、その昔の映像を初めて観せて貰ったんだけど…いやぁ、本当に小学校低学年かってくらいに、色気をムンムンに周囲に振り撒いていたよ」
「…ふふ、ムンムンですか?」
と私が思わず有希の言葉に笑みを零してから、何気なく視線を絵里に向けると、絵里は絵里で顔を有希に向けながら口を開く所だった。勿論薄目を使ってだ。
「何ですかそれぇ…ふふ、もーう、本当に先輩は昔からマイペースで、これしたいって思ったら意地でも実行しちゃうんだからなぁ」
「あはは、褒めてくれてありがとう」
「別に褒めてませんよぉ」
と絵里が愚痴っぽく返すのを、有希は笑うのみだったが、ふとここで、急に何かを思い出した様な顔つきを見せると、今度は有希の方からジト目を絵里に向けた。
「…あっ、というか、絵里ー?今の話ぶりからすると、まるで私がまたあなたに頼み込んで見せて貰った様な言い方をしていたけど…実際は違うじゃなーい?」
「…え?それってどういう意味です?」
と本当に心から思い当たる節の無い様子を見せる絵里を他所に、有希は顔を絵里に向けたままだったが、しかし時折私の方に視線を流しつつ、ニヤケながら言った。
「だってさぁ…ふふ、今でも覚えてるけど、私が初めてあなたの家に遊びに行った時にさ、あなたがどんな風に私を紹介してたか知らないけど…ふふ、琴音ちゃん、私が行った時にね、玄関先で絵里のお母さんが私を迎え入れてくれたんだけど、そのまま客間として使っている和室に通されて、二言三言会話したかと思ったらさ…この子のお母さんったら、いきなり『日舞に興味があるんですってね?』って聞いてきてね、それで私は急に何だと思ったけど『はい、まぁ…』って曖昧に返事したらさ、そしたら…」
とここで一旦区切ると、有希はおもむろに、さっき絵里が指を置いていた写真の一つに自分の指を乗せると続けて言った。
「…ふふ、絵里のお母さんったら、急に『じゃあ絵里の昔のビデオでも観てみる?』だなんて聞いてきたの」
「…あっ、あぁー」
と、ここで不意に急に思い至ったのか、絵里が口を挟む様に伸ばし声を漏らした。顔は苦笑まみれだ。
「あはは、思い出した?」と有希はさも愉快げに絵里に声をかけたが、しかしそれで話を終わらせることなく先を続けた。
「いやぁー、これまたね…ふふ、今や絵里のお母さんは日舞における私の師匠でもあるから、あまり好き勝手に言うのは何だと思うんだけど、でも当時はね、これまた急に何の脈略もなく何を言い出すんだろって思ったんだけどさ…ふふ、今はこうしてまだ落ち着いてるけど、その話をしている脇でアタフタしている絵里の様子が面白くってさ?それでね、勿論日舞に興味があったのは嘘じゃなかったし、それに…ふふ、まぁそれ以前に、絵里に興味があったから、その絵里の小さかった頃が知れるんならって、快くお願いしたってわけ」
「あー、そうだったんですね」
と私も、そんな苦い表情で笑う絵里を尻目に有希に合いの手を入れてると、「あはは」とここで明るい声で美保子が笑った。
「絵里ちゃんに興味があったって、なーんかその言い方は…ふふ、何だか意味深ねぇ?」
「ふふ…」
と美保子の言葉に、この反応からは分かり辛いだろうが本人としてはウケている百合子が笑みを零すと、
「あはは、いやぁー」
と何故か有希は後頭部あたりをポリポリと掻きながら照れて見せた。
「ちょ、ちょっと先輩ー?」
と、美保子の言葉を聞いた辺りから、ますます狼狽し出した絵里が、先ほどよりもますます苦笑度合いを強めて有希に声をかけた。
「あははじゃ無しに、きちんとそこは否定してくださいよぉ」
「あははは!あ、そういえば!」
パンっ
と急に有希は快音を鳴らせて両手を打ったかと思えば、くるっと柔軟に上体だけを捻って後ろを振り返りながら言った。
「確か…あ、そうそう、絵里が言ってたその当時のビデオは、映画のDVDをしまっている棚に置いてたと思うから…琴音ちゃん、ちょっと待っててね?」
と私に向かって声をかけるのと同時に席を立ち上がろうとしたその瞬間、「せ、先輩ー?」と絵里が慌てて、有希の左手首をガシッと掴んだ。
「何よ絵里ー?痛いじゃなーい?」
と、有希は中腰のまま膨れっ面を見せつつ声をかけると、「何よ?じゃありませんよ、全く…」
と絵里は有希の手首から片手を離しつつ言った。絵里は絵里で満面の呆れ笑いだ。
「急に何をしだすのかと思えば…ふふ、なーんで先輩が私のそのDVDに焼き直したビデオの位置を知ってるんですか?」
「だって…こないだ物色してたら、たまたま見つけちゃったから」
と、何を当たり前のことを聞くんだとでも言いたげな表情で有希が答えるのを見た絵里は、先ほどのが全開だと思っていたのだが、それよりもますます呆れて見せながら返した。
「たまたま見つけちゃったって…ふふ、だから物色を勝手にしないで下さいってばぁ」
「…ふふ、あはは」
と、そんなクダラナイ…と言っては本人たちに悪いかもだが、この非生産的なやりとりをずっと眺めていた私は、一人でとうとう耐え切れなくなり吹き出して笑ってしまった。
笑い声を上げた後もクスクスと笑いが止まらない私を見た絵里と有希の二人は、一度顔を見合わせると、スタート時点は片や苦笑い、片やキョトン顔と全く違っていたが、すぐにどちらからともなく笑みを浮かべ合うのだった。
私に始まって、絵里と有希に遅れて、美保子と百合子の二人も後から加わったのは言うまでもない。
「そういえば、私と百合子ちゃんも、それはまだ見せて貰った事無かったわね」
「ふふ、そうね」
と美保子と百合子がそう話すので、「あ、そうなの?」と意外に思った私が口を挟むと、「あ、あぁー…まぁ…でしたね」と絵里がまたもや照れ笑いを浮かべつつ言った。
「あっ、じゃあさぁ…」
と私はふと、有希がチラッとヒントをくれた、絵里のDVDケースの方に目を向けつつ口を開いた。
「…絵里さん、まぁ別に今日じゃなくても良いけど…ふふ、次に来た時あたりで、私にもその当時の映像を見せてよね?」
「え、えぇー…」
と絵里が思いっきり渋って見せていたのだが、
「あはは、私たちにもお願いね」
「ふふ…絵里ちゃん、お願い」
と、美保子、百合子の両名からもダメ押しの様に頼まれてしまった絵里は、今日は特にこればかりだが、絵里はまた大きく息を吐くと、「はぁ…はい、そんなんで良ければ、分かりましたよ」と力なげに笑いながら私たちに視線を配りつつ言った。
そんな絵里の様子に、またもや有希一人が無邪気に笑うのだった。
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