第24話 変化 絵里編 下
「…っと、えぇっと…どこまで話したかな?」
と笑いも収まり始めた頃、見るからに我に返って見せた絵里が口を開いた。
「んー…っと、あ、そうだそうだ。ま、まぁそれでね、んー…ふふ、まぁその時の映像なりは置いとくとして、話を戻すとね」
と、場に充満していた空気を何とか変えようとする意図の元に、語気を強めに潑剌として見せつつ続けた。
「まぁでも…そうは言っても、先輩はそう言ってくれたけれどね、もう少し艶っぽく踊れなかったかなぁ…っていうのが、今だに小学生時代を振り返ると心残りだったねぇ…。…あ、でもね!」
とここで不意に何かを思い出したのか、絵里はアルバムのページを一枚捲ると、「えぇっと…あ、あったあった!」と一枚の写真に目を落として、聞くからに声の調子を上げつつ、気持ち嬉しそうに口を開いた。
「日舞の演目の中に、長唄で『雨の五郎』っていう、仇討ちをテーマにしたものがあるんだけどね、その一部に『藪の鶯』って曲があって、『藪の鶯気ままに鳴いて…』で始まるからそう呼んでるんだけど、そもそもね、雨の五郎って演目が、いわゆる男踊りってものでね、これも…ふふ、本当は女の子には中々男踊りは出来ないから、女用にアレンジしたのを振り付けて貰うのが普通なんだけど、私のお父さんは何を思ったのか、まぁ子供用にはしてあったんだけど、それでも男踊りで稽古をつけてきたの。まぁ…当時の私は、そんなのツユ程も知らないからさ、またなかなか出来ないからってんで、何度も怒られたりしながら練習をしたんだよ。で、それが身を結んだって言うか、その初舞台の写真がこれね」
と絵里が指先で軽くトントンと叩いた先の写真を見てみると、確かに、写真の絵里は、真っ黒な着物姿に、手にはこれまた真っ黒な踊り傘を持っており、股を大きく開いた姿なりが収められている所を見るだけで、その他の写真と趣が違うのが分かった。
「これみたいに、両足を力士みたいに勇ましく開いたりとか、んー…あ、そうそう、これなんか、歌舞伎みたいに締めの段階で大きく首を回して見栄を切っているでしょー?んー…ふふ、さっき言った通りさ」
とここで不意に絵里が顔を上げたので、私もアルバムから顔を外して見てみると、その顔には、どこか誇らしげな、しかしきちんと控えめでもある小さな満足げな笑みを見せていた。
「色気とか艶とかは、まぁ…ふふ、それ自体は今でもかなり難しいし、日舞をやっていく上で至上の課題でもあるわけだけど…ふふ、でもね、私のお父さんというか師匠は、今時ではかなり珍しい古風な”オヤジ”タイプでさ、ちょっとやそっとじゃ、特に芸に於いて中々褒めてくれる事が無かったんだけど…ふふ、この当時に、それなりに大きな舞台で舞ったんだけど、この時は両手を上げて喜んでくれたんだぁ…」
と何度も話しながら途中途中で微笑を漏らす所を見ても、思い出しているその当時が余程絵里の中で自慢の出来るいっ時だったというのが感じられて、ただ聞いてる私としてもその空気が伝播してきたせいか、
「ふふ…そうなんだ」と、相変わらずのボキャブラリーの少ない合いの手を入れつつも、一緒になって嬉しい気持ちになるのを覚えるのだった。
「えぇ、そうなの…っと、あ…そっか…」
と絵里はアルバムのページを一つ捲った所だったが、そこで動きを止めると、一人シミジミと声を漏らした。
「え?なに?」
と私もまた少し前のめりになって覗き込むと、やはりそこには数多くの舞台なり”道場”での写真で占められていたのだが、その他というか、それまでの写真とは異質と思われる一枚の写真がそこにあった。
というのも、他の写真群とは違い、これだけはどこか屋外で撮られたものらしく、背後には鬱蒼と茂る竹林のようなものが映り込んでおり、その前に微動なくシャンと並んで立つ、男女三人の写真だったからだ。
…ふふ、こう言っては何だが、パッと見だと、これこそ七五三か何かと見紛ってしまいそうな構図で撮られていたのだが、しかし、それも一瞬の印象で、次の瞬間には、そんな感想は吹き飛んでしまった。
これまで別の時に何度か自身に見せてもらった部活動などの写真ですっかり見慣れてしまった、先ほどまでよりも成長した絵里と思しき少女が立っていたのだが、シャンと立ち、仄かな笑みを浮かべる着物姿の絵里を真ん中に挟み、その左右には、片方には絵里と同じくらいの背丈をした着物姿の妙齢な女性が、絵里によく似た笑みを顔にほんのりと浮かべて立っていた。
そしてもう片方には、二人とは打って変わってとまでは言わないまでも、それでも写真からは無表情としか見えない程に澄ました表情を見せる、元からなのだろうが、頑固そうな印象を受け手に持たせる”への字”の口元が特徴的な、絵里よりも少しだけ背の高い着物姿の男性が写っていた。
「この写真は…?」
と私が写真に目を向けたまま聞くと、「んーー…」と絵里も覗き込みつつ中々返事を返そうとしてくれなかったが、しかしそれもある程度で終わると、いかにも言いにくそうにゆっくりと口を開いた。
「…ふふ、私とこんな風に写ってる時点で分かると思うけど…そう、ここに写ってる二人が私の両親だよ」
「へ、へぇ…」
と、確かに絵里が言ったように、それはすぐに察しがついてはいたのだが、それでもこうして当人から直接言われると、当然の事ながら初めて見るのもあって、さっきよりもまた尚一層マジマジと眺めるのだった。
…まぁそれまで見てきた中に、絵里の両親の姿は幾つもチラッと写り込んでいたり、ドンと真ん中に堂々と写っていたりしていたので、目立っていたのもあり、関係者なのは何となく知れたのだが、絵里と同時に近くで写っているのが少なかったのもあり、つい前に察しがついていたとは言ったものの、実際には三人がどの程度のつながりがある間柄なのかまではわからないでいた。
それが今こうして事実が明るみに出たというわけだ。
私がそう口にした直後、またもやそれまで静かだった他の三人がこぞって、初めてでも無いだろうに口々に感想を言い合っていた。
それに対して、これまた絵里がアタフタと対応していたが、何だかキリが無さそうだったので、無理に話を戻そうとまでの意気込みは無かったが、まだ盛り上がる中、横から絵里に話しかけた。
「…で?絵里さん、なんか急にここにきて家族三人が並んだ写真が出てきたけど…これは何か理由があってのものなんでしょ?何の写真なの?」
「…」
と絵里は、それまでの様子から一変して、スッと真顔に近い表情でこちらを見てきていたが、しかしすぐに、今度は企み顔でニヤッと笑ったかと思うと、そのままの顔つきで返してきた。
「…ふふ、さっすがの琴音ちゃん、”こんな内容だったら”すぐに察する能力を持ってるんだからなぁ」
とおちゃらけ気味に言うので、「もーう、良いからそれは…」私がわざとらしく声の感情を殺しつつピシャッと返した。
そんな私の態度は、過去にもう数え切れないほどに立ち会っている絵里だったので、これもすぐに冗談だと分かっているはずなのだが、しかしここでニヤケ顔を引っ込めると、今度は何だかまた懐かしげな笑みを浮かべつつ写真に目を落とした。
「…ふふ、この写真の場所はね、私の実家の道場裏というか、小さい庭なんだけど、そこで撮ったものなの。でね、その琴音ちゃんの質問に対する答えなんだけど…」
と絵里は、ここでまた余程恥ずかしいのか一度言い澱んでいたが、側からも分かるほどに生唾を飲んでから先を続けて言った。
「…ふふ、この写真はね、私がお父さんの前で舞って、それで合格貰って名取になったその直後に撮ったものなの」
「へぇー、この時が」
と私は、自分でも言った通り何か特別な写真なのだと思ってはいたものの、まさか名取になった記念の物とは流石に思いがよらなかった。
「へぇ…って」
と私は『へぇ、へぇ』と先ほどからこれしか口にしていなかったのだが、しかしここでふと、ごく単純すぎることに気付いたので、そのまま聞いてみる事にした。
「絵里さんが名取なのは勿論知ってたけど…ふふ、こんな若い時にもう、名取になってたとは思っても見なかったよ」
と私が心から感心してるのを隠そうとしないで素直に口にしたのを聞いた絵里は、「あ、い、いやぁ…」と、これまた思いっきり照れて見せた。
「ま、まぁ…ふふ、うん、早いは早いよね…」
と絵里は歯切れ悪くそう口にすると、照れた顔を誤魔化すかのように顔をまたアルバムに落としつつ続けて言った。
「んー…これを自分で話すのは、あまりにも恥ずかしいんだけど…まぁ、いっか。あのね、さっきもチラッと言ったけど、日舞って流派だけで二百以上あるんだけど、その昇段というか、名取だとかになる条件も多種多様なのね?だから一般的にって話すのは難しいんだけど、私の流派で言うとね、一応年齢制限というか、名取の試験を受けるには何歳になってからって基準が一応設定されてるの」
「ふんふん」
「…ふふ、でね、ウチの流派の場合は十三歳が下限なんだけど…ね?んー…ふふ、まぁこの写真を見れば分かると思うけど、この私はかなりまだ幼いでしょ?それで、その…」
と絵里はまたしつこくと言っては何だが、またここで一旦言葉を止めた。
こんな調子を普段見せられたら、すぐにでも口を挟んで先を促すなり何なりする所なのだが、この時の私は絵里のペースに自分を合わせる事にした。
絵里はというと、また一度生唾を飲むと、照れが行き過ぎた故なのか、苦笑いを浮かべつつ口を開いた。
「この時の私は中学二年に上がったばかりだったんだけど…うん、それで名取になってね?なんか…流派が出来て以来の最年少記録に今もなってるの」
「…え?へ、へぇー!」
と、こう絵里が話す前からそれくらいの年頃だろう事は想像がついていたのだが、それがまた最年少記録と聞くと話は別で、我ながらつまらないリアクションだと思うが、しかし、またもや心底から感心した声を漏らし、気持ちもう少し前のめりになって写真を覗き見るのだった。
「絵里さんって、”何気に”凄いんだねぇ」
と私は、顔はアルバムに落としたままだったので、結果的に上目遣いになりながら、少し悪戯っぽく含み笑いをしつつ言うと、「あ、いや、うん…」と絵里は片方の眉毛だけを上げつつホッペを掻いて見せた。
「んー…ふふ、そう勘違いされるだろうから、こんな話も含めて、恥ずかしくて今まで琴音ちゃん、特にあなたには話せなかったんだよ…。んーっとねぇ…いや、ただ単にね、今少し話してきたけど、また言えば、私のお父さん、師匠はまぁ、それはそれは娘の私相手にも容赦が無かったんだけどさぁ…ふふ、私自身としてはね、そんなお父さんも結局は親バカというか、自分の娘だっていうんで、それで甘く試験を見てくれたんだと、本来はあってはいけない事だとは思うんだけど、それでもまぁ親心としては、そう判断してくれたんだと、そう思ってるのよ」
「…いやいやぁ」
と、そんな長々と、何に対しての言い訳なのか絵里が視線を泳がしつつ話し終えた直後、私と同じ様にアルバムを眺めていた有希が、テーブルに肘をついて手に顎を乗せつつ、ニヤニヤしながら口を開いた。
「当時にも聞かされたけどさぁ?ふふ、琴音ちゃん、今のこのアルバムはね、さっき話したけど、例の絵里の昔の舞台映像を見せてもらった後でね、ちょうどあれは…ふふ、私が中学三年生で、ということは絵里、あなたは中学二年生の時って事になるわよね?」
「へ?あ、あぁ、はい…ふふ、そうなりますね」
と、そんなの聞くまでも無いだろうと言いたげに、呆れ笑いを浮かべつつ絵里は返した。
有希は続ける。
「ふふ、って事は…そう、この子が名取になったばかりの時期に私が遊びに行ったって事になるわけだけど…ふふ、琴音ちゃん、今なんで私がこんな話をしてるかって言うとね、さっきの二人のやり取りを見て、その当時のことを思い出したからなんだよ」
「へぇー、それってどんな事なんですか?」
と、純粋に興味が湧いてきた私が先を促すと、「先輩ー?」と、その横から絵里が訝しげな声を挟んだ。
「何かまた余計な話をする気じゃないですよねぇ?」
と言う絵里の言葉に対して、有希はなにも返さずに、ただニコッと、わざとらしいくらいに無邪気な笑顔で応えると、また私に顔を戻し続きを話した。
「それはね、今みたいに、この時は絵里のお母さん…ってか、今は私の踊りの師匠だから、師匠って言わなくちゃか…って、それはともかく、まぁ師匠が意気揚々って感じでアルバムまで持ってきてね?…ふふ、絵里は当然当時からそんな自分の母親の態度に対してブーブー言ってたけど、それにはお構いなしって感じで、今の絵里が君に色々と話してたように、写真を見せながら当時の私にも細かく教えてくれたの。でね、その流れで、つい最近に名取になった事を師匠が話した直後にさ?…ふふ、この子ったら、私たち二人の会話に無理に割り込んできて、今とほとんど同じような事を言って反論してきたんだよ」
「へぇ」
と私は漏らしつつ視線だけ横に向けると、絵里は黙ってひとり居心地が悪そうな笑みを浮かべていた。
「でもね」
と有希は続ける。
「その時におばさんは、そんな絵里の態度に苦笑いをしながらね、私に話してくれたの。…『この子はこんな風に自分で言ってますけど、私の夫はそんな我が子だからと手を緩めるような、そんなタマでは無いですからねぇ…ふふ、この子がきちんとそれに見合うと思うから、試験を通したと言うのに、この子ったら今だに聞かないんですよ?』ってね」
「…ふふ」
と私は、有希の話を聞きながら、思わず笑みを溢してしまった。
有希の話す内容についてもそうだったが、何よりも、まるで何処かの誰かさんみたいに、話をする上で、まだ私は絵里のお母さんに会った事がないから断言は出来ないが、有希がこうして声色を変えて物真似をして見せてくれたからでもあった。
「へぇー、そんな話があったのねぇ」
とここまで静かだった美保子が、どうやらお初だったらしく、そう合いの手を入れたのだがその時、
「…だから、私はそれを信じてないんですってばぁ」
と絵里が何故か不満げな調子で、しかし笑みは絶やさずに口を挟んだ。
そしてそのまま、絵里は私に顔を戻すと話を続けた。
「まぁ…うん、そうして私は中学二年で名取になっちゃったわけだけど…ふふ、今先輩がチラッと言ったし、私もほら…琴音ちゃん、覚えてるかな?んー…私が学園内の廊下を歩いていたら、急に先輩が話しかけてきて、いきなり演劇部に入らないかって誘ってきたって話をしたのを?」
「そうそう!さっきも言ったけど、お嬢様校の生徒の中でも、立ち居振る舞いの所作が綺麗で目立っていたからねぇ」
とコンマ数秒も間を空けずに有希が相槌を打ち、「また先輩は大袈裟な…」と絵里が苦笑で返すというやり取りが交わされたので、タイミングとしては遅れてしまったが、「ふふ、えぇ勿論覚えているよ」と、私は笑みを浮かべつつ返した。
それに対して、一旦薄目を有希に向けてから絵里は話を続けた。
「でね、まぁそんな風に先輩に唆されて…ふふ、すっかり演劇に私自身ものめり込んでいく事になっていったんだけど、勿論その間も、キチンとというか、他の人から見てどう思うのかはともかく、私なりに日舞の練習もなるべく欠かさないでしていたの。それをね、んー…これも私が言うのはなんだけど、他の流派の人とかにも面と向かって褒めて貰えるようになってきてね、それはそれで勿論認められだしたというので、嬉しくないって言ったら嘘になるけど…うん、ほら、さっきも言ったけど、小学生時代の舞に関して心残りがあるって言ったじゃない?それはでもね、中学二年生になって名取になった時でも変わんなくてさ、練習の時は動画に撮って、それを後で見返して反省点を探すっていうのが、まぁ自主練の方法だったんだけど、何度試しても、徐々に進歩らしきものは我ながら客観的に見て微かでも感じられてたから、それなりに努力が続けられたんだけど…うん、それでも一向に自分の舞に自信が持てないというか、本人がいないから言えるんだけど、まだまだお父さんの方が比べ物にならないくらいに、男だというのに女の色気とか艶が出てるのを見ると、ちょっとね…ふふ、今思えばというか、名取になったばかりのひよっこである私が、流派のトップである家元と自分を比べるの自体が時期尚早にしておこがましい事この上ないと思わないでも無いんだけど…さ?まぁ、そんな感情があったから、こんな私が名取でも良いのかなって思ったりしてたんだよ」
「なるほど…」
身の回りで自身もその世界に身を置いてる人で、ここまで一つの芸事について熱く語ってくれるのは、勿論美保子や百合子、そして最近では、私の事を少しはそういう意味で認め始めてくれたのだろう師匠以外では新しかったので、とても興味深くその心情の吐露を含めて私は聞き入っていた。
他の皆も言葉を発せずとも、時折小さく頷いて見せたりしていたので、細かくは違っても面白く聞いていたのは間違い無いだろう。
「ふふ、だからね…」
と絵里はここで徐にアルバムのページを捲っていった。
「それから高校に入って、それから大学に入って…ふふ、そう、これなんかは大体ギーさんと出逢ったくらいの頃かなぁ?」
「んー?…あ、ふふ」
と私は、絵里が指差した先の写真を見て笑みを零してしまった。
何故なら、その写真の絵里は、もう既に今と変わらない顔つきをしていたのだが、ただ唯一違っていた点があったからだ。
それは…ふふ、そう、この時の絵里の髪型が、例のオカッパ頭、裕美の表現を借りればキノコ頭をしていたのだ。
私は笑みを保ちつつ、視線だけを上げて絵里の頭を眺めた。
以前にも軽く触れたが、今の絵里は既にこのキノコ頭では無くなっていた。代わりにというか、有希が何気なく提案したのが活きた結果となったが、今は眉毛が隠れるかどうかってくらいの前髪をパッツンにしており、わざと自ら寄せていってるのか、他の箇所の毛先も真横に切られているせいで余計に市松人形の髪型になっていた。
普通の女性がしたらおかしく見えるだろうが、不思議と絵里には似合って見えた。本人は認めたがらないが、有希も良く言うように、美人ならどんな髪型でも似合うって事だろう。私も素直にそう思う。
初めは勿論、キノコ頭と同様に思いつきというか冗談で始めたのだが、それでも実際にして見ると、なんだか時間が経つにつれて、そんな髪型の自分が好きになってきた…というのは絵里本人の弁だ。
…ふふ、さて、何でか絵里の髪型について話がどんどん逸れていってしまったので、本線に戻すとしよう。
そんな私の視線に気付いた絵里は、「ほらね?この頃からキノコ頭だったでしょ?」と目をぎゅっと瞑りながら悪戯っぽく微笑んだので、「えぇ」と私も同じ類の笑みで返すと、絵里は満足げに一度頷くとまた話し始めた。
「んー…あ、でね、この髪型にして暫く経ったある日にさ、急に前触れもなくお父さんに呼び出されてね?…その時にね、師範試験を受けてみないかって提案されたの」
「…え?あ、もうその時になの?」
と私が口を挟むと、絵里はなんだかバツが悪そうな笑みを浮かべつつ返した。
「ふふ、うん、まぁ…ね。でも…ふふ、まぁ見ての通りというか、今までの私を見れば分かると思うけど…うん、断ったんだよ」
「…えー?なんでまた…せっかくだし受け…あっ」
と自分でそう言いつつも、途中で今まで聞いてきた話の内容から察した私は、ふとここで、これ以上口にしようか迷った結果、口を噤んでしまったのだが、良いのかどうかは分からないまでも、しかしこれも持ったが病でというので、そのまま無理やり質問を続ける事にした。
「…いや、うん、せっかくだし受けてみれば良かったのに」
「…」
と、そんな私の妙に途切れ途切れな言葉を静かに聞いていた絵里だったが、私が言い終えた瞬間、そんな私の心の葛藤が見えたせいなのか、クスッと一人微笑みを漏らしたかと思うと、その笑みを保ちつつ口を開いた。
「んー…ふふ、まぁ…ねぇ…。あ、いや、今さっきは言わなかったけど、勿論お父さんにそう提案された時は、驚きで一瞬頭が真っ白になりつつも、それでもすぐに嬉しかったというか、その嬉しさの感情がムラムラと込み上がってきたのよ?…うん、まぁ、私がついさっき言ったけれど、自分の流派の最年少名取記録を自分の娘に更新させちゃうとか、お父さんにはそんな親バカな所があったはあったけど…ふふ、それでもやっぱり、芸において、そう易々と手を緩めない所は、変な言い方かもだけど、信用していた…し、今も信用しているからね」
と絵里は、途中でチラッと、もう何度目になるか額縁に視線を向けつつ話していた。
「だったら…」
と私は、”なんとなく”と言うと真摯に話してくれてる絵里に対して悪いかもだが、しかし会話の潤滑油として、これくらいの合いの手くらいはあった方が良いだろうという、どっかの誰かさん由来の合理的判断が働いて口を挟むと、
「んー…でもね?」とそれを受けた絵里は、何に対しての苦笑なのか浮かべながら話を続けた。
「まぁその前にさ、ほら…自分が流派で名取の最年少記録を、その…取っちゃったでしょ?それには今も納得いってないんだけど、まぁそれからね、幸か不幸か自分の流派ってどんな道を辿ってきたのか興味を持ってさ、昔の記録とかも調べ始めたの。それと同時にさ、それまで自分の流派にしかというか、流派がどうとか興味がなかったんだけどね?でも名取になって、これもさっきチラッと、他の流派の人も褒めてくれるようになった的な話をしたと思うけど、その他の流派との繋がりが増えたことで、実際に踊っている内容の違いに気付いたりして、それでますます興味が湧いてきて、最終的には自分の流派だけじゃなく他の流派も色々と調べたんだ。…」
と、一遍に話したせいで少し喉が渇いたのか、一旦ここでそろそろ冷え始めた紅茶で唇を濡らすと、また話を続けた。
「…っと、あ、それでね、んー…そのおかげで何となく知れたんだけど、この事でも流派によって違ったんだけどね、それでも早くとも大体名取になってから、みんな大体十年くらいしてから師範の試験を受けてるのが分かったの。でもさ…ふふ、私が当時初めて師範試験を受けてみないかって聞かれたのは、大学一年生を半分過ぎたあたりだったんだけど…それってさ、単純計算すると、中学二年からたったの五年くらいしか経ってない事になるでしょ?…ふふ、初めはね、それを知ってたから、それでその…ふふ、断ってたの」
と絵里はここで力無げに小さく笑った。
と、ここまで私は好奇心から来る欲求を抑えて聞いていたのだが、ふと合いの手の意味合いを込めつつ口を挟んだ。
「初めはってことは…その大学一年の後も、話は何度かあったんだね?」
と私が聞くと、「んー…うん、まぁね」と絵里は今度は目を軽く瞑りながらではあったが、苦笑気味に答えた。
「それからも、お父さんから何度か打診があったんだけど、それと同時にというか、徐々に今度はさっきチラッと話した他の流派の師匠たちからも『受ければいいじゃない?』って言ってもらったりなんかしてね?んー…勿論、もう何度も繰り返してるけど、その度に嬉しくて恐縮してたんだけどさ…ふふ」
と話の途中でふと思い出し笑いをしたかと思うと、絵里はトントンと一枚の写真に写っている、自分の頭を軽く何度か叩きつつ言った。
「まぁ…今ここには先輩含む他の皆さんもいるけど、これは…ふふ、琴音ちゃん相手でもあるからっていうか、だからこそ少し恥ずかしい話も話せるんだけど…」
と自分で言ってるくせに、それでも少し恥ずかしくなったのか、こんな調子でゴニョゴニョと、独り言と聞いてる方としては勘違いしそうになるような様子で呟いた後で、また続けた。
「…ほら、いつだったか琴音ちゃん、あなたに何でコレみたいな髪型にしたのか話したことあったでしょ?…うん、でさ、こんな事話すのはアレなんだけど…まだね、その時にも話したと思うけど、そうは言ってもまだこの時期はね、それなりにまだ”落ちてた”時だったの。…だからね、これはこうして思い返して思うんだけど、この時の私はそういった気持ちの面でも、素直に周囲の言葉に耳を貸せない状態でもあったと…ふふ、思うのね?それもあって、そうやって嬉しい事を皆が言ってくれるたびに…うん、逆になんだか自信が無い時期だったのもあって、それで塞ぎ込んでいっていたの」
とここまで話すと、絵里はふと寂しげな笑みを浮かべつつ続ける。
「んー…これも自分で言うのはダサすぎるんだけど…さ?ほら…一般的には日舞って何だかよく分かられてないじゃない?ふふ、勿論、私は覚えてるけど、今この場にはいないけど裕美ちゃんなんかは、日舞を大人の女性って感じの趣味だなんて言ってくれて、とても興味を持ってくれてたみたいで、聞いてて私は嬉しかったんだけど…さ?それでもまぁやっぱり知名度は少ないし…って事も当然当時から私も知ってたからね、まぁ元々このキノコ頭にする前の友達たちなんかは、んー…ふふ、普通なら誤解を招く言い方をすればさ、みんな派手な子ばかりだったから、どうせ相談しなかったんだろうけど…さ、それでも、そうじゃなくても、師範試験の話を受けるべきかどうかなんて、急にそんな話をされても、普通は皆キョトンとしちゃうでしょ?」
と絵里は実際にキョトン顔をして見せた。
私はそれには言葉にはしなかったが、まぁそうだろうなと同意の意味を込めて、絵里に合わせて苦笑いしながら頷いた。
「ふふ、まぁそれでね、当時は私と同年代の日舞の子も知り合いがいなかったから、それでますますこの件については塞ぎがちになっていったんだけど…んー…」
とここで、絵里は口を閉じて長めに唸ったかと思うと、苦笑いは苦笑いなのだが、それまでとは違い、なんと表現すれば良いのだろうか…ふふ、まぁ後に絵里が話す内容から逆算するに、要するに照れを織り交ぜたような、そんな笑顔を浮かべた。
そしてその笑みのまま、絵里は何だか躊躇いがちに口を開いた。
「これこそ妙な誤解を招きそうなんだけど…んー…まぁ、それでも事実として言えばね、そんな感じで過ごしていたある日にさ?今まで普通の雑談をしてたっていうのに、そのー…ふふ、突然ね、『なんかあった?』って、不意に理性の怪物君に話しかけられたんだ」
「…へぇー?」
と、案の定…って自分のことを言うのはおかしいが、絵里が予想していた通りに、直後に私はニタァっと笑いながら相槌を打った。
「…ほらねぇー?」
と、そんな私の反応を見た瞬間、絵里は今までの真剣味を含んだ顔つきをガラッと一変させて、心底うんざりして見せながら呆れ笑いを浮かべた。
「絶対そんな反応するだろうって分かってたから、言おうかどうしようか迷ったんだよぉ」
「ふふ、それは知らないよ。絵里さんが勝手に自分で話したんだから」
「…ねぇ、理性の怪物君って?」
と、ここまで絵里の話を私と同じように、静かな顔つきで聞き入っていた有希が、そんな私と絵里の様子に釣られたか、いくらか表情を緩めながら聞いてきた。
「え、えぇっと…」
とそう聞かれた直後、別に示し合わせた訳でも無いのに、同時に私と絵里で顔を見合わせた。二人揃ってなんでかニヤケ顔だ。
と、それほど時間は取っていなかったはずだが、それでも客観的には焦ったかったのか、見かねた美保子が私たちの代わりに、何故義一が理性の怪物と称されてるのか説明を買って出た。
「あー…あはは!色男の事だったのねー?」
と美保子から説明を聞いた後で、こうして笑みを浮かべつつ口にしていた有希に対して、「は、はぁ…まぁ…はい、そうですね」と絵里は眉間にシワを寄せつつも笑顔という器用に表情を作って返した。
「ま、まぁ、話を戻すと…って、別にアヤツの話をするつもりは無かったんだけど…まぁ、それはともかく、それで訳を聞かれたからさ、それで…そのー…うん、まぁその時点でまだ知り合ってから間も無かったんだけど、それでもギーさんが普通の…ふふ、マトモな同年代の人間じゃ無いってことは分かってたし、それに…ふふ、だからこそと言うか、普段の会話で伝統的なものを始めとする芸事全般が大好きだって事はよーく知ってたしさ?…うん、それで物は試しにって感じで、んー…まぁそれでもやっぱり躊躇いがちにだったけど、自分が日舞の家庭に生まれて、それで私も名取だって説明したのよ。そしたらさ…ふふ」
と絵里は、さっきから恐らく自分で気づいてないのだろう、一人ニヤケつつ話していたのだが、ここでまた一段と顔を緩めて話を続けた。
「案の定てか、ギーさんは私が説明する前から名取自体は知っててさ、それからはまぁ…ふふ、琴音ちゃん、あなたなら大体想像がつくでしょ?…そう、あの理性の怪物君はそれから好奇心に任せてアレコレと質問攻めにしてきたんだよ。…ふふ、初めはなんか私の様子に違和を覚えて聞いてきたはずなのに、ギーさんったら…ふふ、何だか私のそんな日舞来歴について興味が移っちゃったみたいでさ?ホント…実は、そんなギーさんの奇癖を見たのがその時が初めてだったから、そりゃあもう…ふふ、答えながら相手するのが疲れちゃってたよ」
と不満を漏らす絵里の顔には、不満が微塵も見られない。
「んー…まぁでもね、そう、それで本来の質問を忘れたかのように思えたんだけど、私が粗方説明というか質問に答え終えたらさ、そしたらギーさんは、急に顔を初期状態に戻してさ、それで改めて理由を聞いてきたの。…ふふ、その脈絡のなさというか、そのマイペースぶりに私は呆れる他に無かったんだけどさ?でも…ふふ、悔しいけど、そんな前のギーさんとの会話でね、何だか自分でも知らないうちにリラックスというか出来てたみたいでさ?それで…うん、その時が初めて、私が日舞をしてるって話したばっかの相手であるはずのギーさん相手に、師範試験を受けた方が良いかどうかって、…うん、相談…しちゃったんだよ」
と、それまでは意気揚々と…と言うと、絵里は多分慌てながら否定してくるだろうが、そう楽しげに話していたというのに、ここでようやくというか、自分を客観的に見ることが出来たらしく、急に辿々しくなりながらではあったが、絵里はそれでも最後までしっかりと話し終えた。
それを含めて今までずっと一部始終を”見聞き”していた私たちだったのだが、まぁ私個人で言うと、聞いての通り、絵里は当時の義一との思い出話を話していたのだが、それを話す時の絵里の表情が自然と愉快げになっていき、口調も楽しそうに話すのが印象的だった。
こんな絵里の態度は、本来なら”からかい案件”でもあったはずなのだが、しかしこの時の私は不思議とそんな気は起きずに、勿論話の内容にしっかりと耳を傾けてはいたのだが、そんな絵里の様子がとても微笑ましく、その感情のままに頬を緩めて聞いていた。
この時チラッと他にも視線を配ってみたのだが、私以外の三人も同様の表情を浮かべていたので、感想も同じだっただろう。
それから我に帰った絵里は、そのまま言いにくそうにしながらも、それでも相談の内容を担い摘んで話してくれたのだが、実際に義一がそれに対してどう答えたのか訊いても、それには絵里はただ苦笑いでケセラセラと曖昧にしか答えてくれなかった。
「…『絵里が自分で思った通りで良いと思うよ』っていう、まぁ…ふふ、ツマラナイ言葉しかくれなかったけどね?」
てな具合にだ。しかし、それなりに付き合いの長い私には、実際にはあの義一のこと、理性の怪物の名に恥じない理屈を述べつつ、私からしたら言うまでもなく恐らく面白いと思える返しをしてくれただろう事は、そう言う絵里の態度から分かった。
だが、それと同時に何度も食い下がったとしても、同じ反応しか返してくれないだろう事も分かっていたので、まぁこれは二人だけの大事な内容なのだろうと、私としては大人になって、大人しく引き下がる事にした。
それは他の皆も同様だったらしく、いや、もしかしたら今までの話を総合してみるに、既にこの話を絵里から一度聞いた事があったせいかも知れないが、まぁそんな細かい事はともかく、同じように詳しくせがむような事はしなかった。
それに変わってというのか、絵里が不意に、これまた照れながら言いにくそうに、日舞の話をしてからは、まぁ大体想像がつくが、義一が仕切りに絵里の舞台を見に行きたがった話をしてくれた。
初めのうちは何度も頑なに拒否していたらしい。…って、ふふ、これは勿論絵里からだけの情報だから、後で義一にも証言を貰わなきゃと、私は心に誓いながら聞いていたのだが、まぁ絵里の話を総合するに、それでも余りのしつこさに根負けしてしまったらしく、一度観に来る事を許したらしいが、それからというものの、絵里が舞うという話を聞いた時は、欠かさずに何度も足を運んでくるようになったとの事だ。
んー…ふふ、これもまぁ大方予想がつくだろうが、口調では心底ウザがりつつ話してはいたものの、徐々にまたその顔つきには当時を思い出すのと同時に、晴れ晴れとしていっていく心の動きが、目に見えるようだった。
なので…うん、ふふ、これも私以外の他の四人も同じだっただろうが、当然普段なら直後にからかう流れが出来るはずだったのだが、これに関してもただ皆で揃って自然と笑顔が溢れるのを自分でも感じつつ、絵里の”愚痴”を楽しく拝聴するのだった。
と、そのような義一とのエピソードを聞いていたのだが、それもたけなわに成り掛けたその時、不意に有希が何かを思い出した風な声を上げると、途端に納得のいかない様子を顔全面に見せながら口を開いた。
「…って、あれー?そういえば、私はそんな相談をされた事ないけどー?」
と有希が一々一言一言の語尾を間延び気味にしながら、見るからに大袈裟に拗ねて見せた。
「なーんで長い間付き合ってきた先輩である私には相談しないで、まぁ理由は納得出来たけど、それでも、そんな大学入って知り合ったばかりの色男には相談するのかなー?それまでの付き合いで、私が日舞に関心があった事くらい知ってたはずなのにさぁ…ふふ、この薄情者ー」
と、つらつら言葉を紡ぎつつ愚痴る有希の様子を見た他の私たち三人は、その態度に対して笑みを零していたのだが、絵里一人は有希のそんな反応に対して、瞬時に思いっきりジト目を向けつつ返した。
「…ふふ、もーう、センパーイ?自分の事なのに忘れちゃったんですかー?先輩は私が大学生になった直後くらいの、あれは確か…あ、そうそう、ゴールデンウィーク辺りで二人で会った時に、呑気に二人していつも通りに雑談してた時にですね、先輩はー…ふふ、その今までの雑談の軽いノリのまま、言い放ったじゃないですかぁー?…んんっ、『私さぁ…演劇に本格的にのめり込む為にさ、今の大学を辞めようと思うんだ』って」
「へ?」
と、絵里が渾身の物真似まで披露しつつ話した内容に対して、キョトン顔で力の抜けた声を有希が漏らしたが、「あ、あぁ…確か、そんな事もあった…ねぇー?」と有希はあからさまにバツ悪そうな表情を浮かべると、絵里から視線を逸らし、そして何故か私の方にチラチラと目を泳がせてきた。
向けられたその瞬間に、私は私で、その有希が意図とするところが分かったので、何も声を掛けはしなかったが、その話はしっかりと知っている旨を伝える意味でも、ニコッと明るい笑顔で返した。
それでおそらく伝わったのだろう、「んー…」と軽く唸りながら有希は視線をまた絵里に戻すと、待ってましたとばかりに絵里は続けて言った。
「『そんな事もあったねぇー?』…じゃないですよぉ?そんな前触れもなく聞かされた私は、当然その後で何度も質問をしたと思うんですけど、それには先輩…ふふ、何も答えないで、ただヘラヘラと交わしてただけなんですから」
「えぇー、ヘラヘラって酷くなーい?」
とまたここで普段の調子に戻った有希が”ヘラヘラ”を実践して見せながら返すと、絵里は大きく溜息を吐いてから、今度は有希だけにではなく、私に向けて話を続けた。
「もーう…ふふ、まぁてなわけでね、ここにいる先輩は、それを最後に音信不通になってさ?」
「すんませんでした」
と有希がニヤケ顔で平謝りを合いの手代わりに入れた。
それに対して「はいはい」と絵里は苦笑交じりに軽くいなすと続けて言った。
「まぁ…ふふ、そこんとこは何度か話したことがあっただろうから端折るけど、まだね、さっきも言った通り、私はまだその時は、お父さんから師範試験の打診は受けてなかったから、そもそもまだ相談って時点でもなかったのね」
「あ、そうだったんだ」
「はい。…ってか先輩、話が進まないんで…ふふ、一々口を挟まないでくれます?」
「えー、ひっどーい!…ふふ、あはは!あぁ、ごめんごめん!お口にチャックしておくわ」
「…ふふ、なんですかそれ?…って、あ、ごめんね、琴音ちゃん?えぇっと…あ、それでさ、話をググッと戻すと、まぁ…こんな言い方は我ながらシャクなんだけどさぁ…?ふふ、何か話が色んな方向に飛び過ぎて、脈絡が無くなってきちゃってるけど、それでもまぁ話すね?その会話の中でね、なんで断ったのに何度もお父さん含む皆が試験試験って言ってくるのかなって何気なく口にしてみたんだけど、その疑問に対してさ、『それは君がしっかりと、なんで断るのかって理由を言わないからじゃない?』ってね、ギーさんがボソッと答えたんだよ」
「へぇー…え?」
と、確かに何だか脈絡が合ってるような、合ってないような、そんな微妙な感想を聞きながら持ってはいたのだが、それでも義一が関係してるというので、それだけで小さな疑問が吹っ飛ぶほどにワクワクする私がいた。
まぁ…何年も変わらない、いつもの私という事だ。
そんな私の反応には特に触れずに、絵里は話を続けた。
「これもね、聞いた瞬間は、『いやいや、キチンと説明してるから』って返したんだけど…ね?でもよくよく考えてみたらさ、んー…うん、きちんと確かにハッキリと言葉にして言わないで、ただ曖昧に答えていたかもって思い出してきたんだよ。だからね、そのー…ふふ、これがだから、シャクなところなんだけどさ?ギーさんに言われてすぐくらいにね、勢いが大事だろうって思った私は、道場にいたお父さんを捕まえてさ、それでつらつらと、さっきあなたに話してきたみたいな理由を話したんだ」
「へぇ…で、聞いたお父さんは?」
「うん…んー…ふふ、私の話を聞いている時は目を瞑ってさ、こうして腕なんか組んじゃって、目を瞑って聞いてたんだけどね?」
と絵里は、恐らく物真似なのだろう、実際に実演して見せながら話していたが、ふとここでカッと目を見開いたかと思うと、そのまま続けた。
「私が話し終えてからも、しばらくは微動だにしなかったんだけど…ふふ、こんな風に急に目を見開いたかと思ったらさ、本当に何つうか…もうね、何年かぶりかなってくらいの笑顔を見せて返してきたの。簡単に言えばね、要は何度も師範試験の話を振ったのは、勿論自分としてはその資格があるからと思っての事ではあったけど、それと同時に、そのー…ふふ、私が中学高校と演劇部に熱中していたのも知ってたっていうんで、もしかしたら日舞への興味が薄れていってしまって、そうだというのに私たちに気を使って無理して舞っているのではないかとチラッと思ったりしてたって言うんだよ」
「あはは、それもすんません」
と有希が、言葉通りとは思えないほどにニヤケつつ口を挟む。
絵里はそれに対しては、ジト目ではなく朗らかに笑うのみで、また顔を私に戻して先を続けた。
「『私が日舞に興味を失くすとか…ふふ、そんなの、あり得るわけ無いじゃない?』って私は、しつこい様だけど久々に見たお父さんの笑みを見たってのもあったせいか、緊張も薄れてそう突っ込んだんだけど、そしたらお父さんはね、笑顔は笑顔のままだったんだけど、少し何というかマジっぽい色も混ぜてきながら続けて言ったんだよ。んー…うん、理由はどうであれ、日舞を続けるのかどうするのかも含めて、しっかりと私自身の思う言葉を聞きたかったってね。それだけだったって」
「あー…」
と私が思わずそう声を漏らすと、絵里はニコッとしながらコクっと一度だけ頷いて見せたのだが、不意にここでハッとした表情を浮かべると、一度ぐるっと周囲を見渡してから、思いっきり苦々しく笑いながら口を開いた。
「…って、何だか長々と余計な話をしちゃったみたいだけど、まぁそんなわけでね、それで私が誰かさんが嗾けてくれたくれたお陰ってか、そのせいでね?…ふふ、それからはね、自分でそれでも師範試験を受ける気が起きた時が来たのなら、しっかりと誤魔化さずに、まず自分に相談してくれって言うお父さんと約束をして綺麗に収まったんだよ。…ふふ、勿論、私が受けたいって思っても、その時に私の技量が落ちてたりしたら、今度はこっちが願い下げだからと釘を刺されたけどね?」
と話す絵里は、何処か晴れやかな顔つきでいたので、私も同じように相槌を打つのだった。
「ふふ、そうだったんだね」
「うん…でまぁ、それからはね琴音ちゃん、あなたも知っての通りというかさ、ギーさんとの繋がりもますます変に濃くなっちゃったっていう被害があったけど…」
「ふふふ」
「ふふ、それに加えてね、これは私の勝手な解釈かも知れないけど、本音で話し合ったお陰か、お父さんに許されたと我ながら思えたみたいでね、同時に変に肩の荷が降りたみたいにも感じたり、それに…ふふ、ほら、これも前に何度か話した事あったと思うけど、以前の離れていった派手な友達と変わってというか、お父さんと話して少し後くらいで、別に新しく友達が出来たという事もあったりしてね…」
「あー…ウンウン」
と私は絵里から聞いた、義一の”悪行”の一つを思い出していた。絵里は続ける。
「そんな良い事が立て続けに起き始めた頃でもあったから、前向きな気持ちになれてね、その勢いで色んなことに手を出してみようって気になったんだけど…あ」
と絵里はここでふと紅茶に口をつけようとした所だったが、すぐにカップから口を離すと、チラッと他の皆のカップの中を覗き込んでから聞いてきた。
「あ、あのー…、そろそろ新しい紅茶を淹れ直そうと思うんですけど、皆さんはお代わりいります?」
「え?えぇっと…」
と私たちは同時に自分の分のカップの中を眺めたのだが、それもほんの一瞬の事で、皆がほぼ口を揃えてお代わりをねだるのだった。
「はーい、では少し待ってて下さいねぇ」
と絵里は言葉を残すと台所に立った。
「いやぁ…」
と、ポットに茶葉を入れた後でお湯を入れている間に、絵里はふと苦し紛れな声を漏らした。
その声からは、本人はこちらに背を向けているので実際には見えないというのに、それでも顔いっぱいに苦笑いを浮かべているのが見えるかのようだった。
「本当にすみませんねぇー?…ふふ、琴音ちゃんを言い訳に使って悪いけど、昔から変わらずに、真剣に人の話、私の話を聞いてくれるものだから、ついつい周りを忘れて話し込み過ぎちゃうんですよねぇ…」
「…ふふ」
と私は絵里の言葉を聞いて、途中で何気なく部屋の壁にかかっている時計を見たのだが、確かに絵里が話し始めてから四十五分が経つところだった。
私や他の皆が合間合間に口を挟んだとはいえ、このLadies’ dayの中では、絵里の話す最長記録を更新していた。
他の三人も私と同じように時計を眺めると、「あー」といった声を上げていたのだが、私はというと、それらの事実を踏まえた上で一人ニヤケながら後ろ姿に声をかけた。
「何よー?私のせいなのー?…って、まぁ否定はしないけれど」
「あはは!…っと」
と絵里は明るく笑ったかと思うと、淹れたての紅茶の入ったティーポットを持って戻ってきた。
そして、皆の空いたカップの中に紅茶を注ぎ終えると、また席に座り、思い出したように乾杯を一度してから各々がズズッと紅茶を啜った。
それも終わると、誰も言葉を発しないのに気付いた絵里は、恐らくさっきも台所でしていたのだろう、照れ笑いを浮かべつつ口を開いた。
「…っと、えぇ…っと、どこまで話したか…って、あぁ、そうそう。そんなある時にね、大学の受ける授業を決めるって時期になって、何にしようか迷っていたんだけど…ふとここでね、目に止まったのが…」
と絵里は意味ありげに、ここで一旦言葉を止めてニコッと小さく笑ってから続けて言った。
「…ふふ、昔にも言ったと思うけど、それがその…学校の先生になるための授業ってやつだったの」
「…あー、そうだったんだ」
と私がつい懐かしくて合いの手を入れた。
そう、絵里が自分で話したが、絵里が実は教育実習の段階まで進んでいた事は、既に過去に聞いていた。
裕美と受験の時期にここに来た時に、勉強を絵里に教えて貰っていた流れで聞いた内容だった。
絵里本人は結局は、実習先での教諭の一人と反りが合わなく、それで本人の言葉をそのまま借りれば”逃げてしまった”せいで、それ以降は他の学校への実習も辞退し、結局は”仮免”先生止まりに終わっていた。
んー…ふふ、これは初めて触れる事だろうが、その後の雑談で、「あーあ…私は、本当はもうちょっと常識的な人間だったはずなのに、こんなとこでもギーさんに影響されちゃったんだよなぁ…」と、チラッと愚痴っていたという事実を付け加えさせて頂こう。
ふふ…っと、さて、そんな話はこの辺でおいとくとして、話を戻すとしよう。
とまぁ、今こうして当時の事を振り返って見たわけだが、実際に私が合いの手を入れた後で、絵里は私や裕美に話してくれた内容を、ほぼそのままに私以外に向けて簡単に話した。
「へぇー、絵里ちゃん、あなた教師を目指していたのね?」
と美保子が興味深いと目を爛々にしながら問い掛けた。
「あ、いや、まぁ…目指してたというか、その…そんな大層なものでは無いですよ」
と絵里はこれまた渋い笑みを見せながら返していた。
ふふ、この件については、美保子さんや百合子さんには話したことが無かったのね
と、美保子以外にも百合子からの質問にも一々対応する絵里の横顔を見ながら思っていると、ここでふと一つの疑問が、これは我ながら今更感を同時に覚えたのだが、しかし臆することなく素直にぶつけてみることにした。
「…あ、そういえば絵里さん。私とかに話してくれた時には、そこはあまり掘り下げなかったけれど…」
と私は、まだアタフタと美保子と百合子に対応している絵里の注意がこちらに来るのを待つ意味で一旦止めた。
「あ、うん、何?」
と絵里がようやくというか、落ち着きを取り戻して聞き返すのを聞いた私は、質問を続けることにした。
「あ、うん、そのー…ね、まぁ単純な興味なんだけど、今更なんだけどさぁ…絵里さんは自分で、今も子供が好きだったからって言ってたけれど、その理由というか、キッカケみたいのはあったの?」
「え?ん、んー…」
と私に聞かれてすぐは、一人で何かを思い出そうとしてる風を見せていた絵里だったが、ハッとした表情を浮かべるのと同時に口を開いた。
「…あ、あぁー、そっか。まだ話したことなかったんだねぇ?んー…ふふ、うっかりしてたなぁ…っと」
と絵里は途中からボソボソと言いながら、ふとここでアルバムに手を伸ばすと、おもむろにページを捲り始めた。
それまでとは逆方向にだ。要は過去に遡る形だった。
「えぇっと…まだ琴音ちゃん、あなたとか裕美ちゃんにも、これは話したことが無かったんだねぇ…ってかまぁ、これもそんなに自分から話す事でも無いとは思うけど…」
と捲る間も独り言は続いていたが、ふとあるページに差し掛かると、「あ、これだこれだ」と見開きにしつつ声に出した。
そして、「これなんだけどねぇ…?」と言いながら、絵里が一つの写真に指を当てて見せた。
それに合わせて私が見てみると、そこには、今の私くらいの髪の長さをした、高校時代の絵里の姿と、その周りに小さな子供たちの姿があった。
どれも和装ではあったのだが、絵里を含む皆が、どちらかと言うと着物というよりも浴衣姿に見える格好をしており、どれも同じような木造の床なり壁を背景に撮られていた。そう、これが絵里の言う道場の内部だった。
「これって?」
と私が一度顔を上げて聞くと、絵里はニコッと子供ぽく笑い、顔を下に向けてから答えた。
「ふふ、これはね?高校生くらいから…だったかな?勿論ね、今まで長々と話してきたけど、その通りで、まだ名取だったし、しかもなってまだ二、三年っていう未熟も良いとこだったし、本来は…うん、教えれないんだけどさ?それでも、まぁこれはお父さんとお母さんに言われたんだけどね?私が高校生になったくらいから、なんか子供に日舞を習わせたいっていう親が増えたみたいでさ、一応来るもの拒まずというか一々入門させてたらしいんだけど、そろそろ二人では手一杯になってきたっていうんでね、それで私に白羽の矢が立ったの。…手伝ってくれないかって」
「へぇー、で、引き受けて、その時の様子がコレなわけね?」
と私が身を気持ち余計に乗り出しながら写真を眺めつつ言うと、絵里は「うん、まぁね」と、声も明るく軽い調子で続けて言った。
「道場には以前から、私もそこで育ったって感じなんだけど、幼稚園から小学生までのクラスみたいのがあるんだけどさ、ここではお母さんが主に教えてたんだけど、そこで講師というか、その補助役をし始めたの。そしたらさ…」
とここで不意に区切ったので、私が自然と顔を上げてみると、絵里はどこか遠い視線をしつつ、表情も柔らかく言った。
「…ふふ、まぁ今さっき講師とか何とか言ったけど、ただ単に少し思い返してもさ、ただ生徒の子供たちと一緒になって遊んでいただけな気もするんだけど…ね?ふふ、まぁ貴重な体験っていうかさ、今時でも当然そうだろうけど、私の時だって、高校生の時点で、そんな他所様の小さな大勢の子供たちと一緒に長い事接する事って、そうはないじゃない?」
「ふふ、うん、そうだね」
「でしょー?…でさ、まぁそれなりに自分の腕が未熟ながらもというか、私なりにはそれを自覚したつもりで、それでも、今一緒に遊んでただけと言っちゃったけど…ふふ、でも実際にはさ、男女関係なくね、まぁ子供だから仕方ないといえば仕方ないんだけど、幼い頃って変に騒いだり、妙に集中力が無かったりするから、それに対しては、ついついね…ふふ、怒鳴っちゃったりしちゃってたんだ。それはまぁ…今も変わらないんだけどね?」
と絵里がウィンクをしながら悪戯っぽく言い終えると、「ふふ、そうなんだ」と私が相槌を打ったその時、「まったく見えないわねぇ」と、これまでニコニコしながら絵里の話を聞いていた美保子が口を挟んだ。
「怒鳴るようなタイプには見えないけど」
「ふふ、そうですかー?」
と絵里が少し照れ臭そうに返すのを聞いていた私は、ふとここで悪戯心が湧き上がってしまい、それをそのまま口にしてしまった。
「…ふふ、別に意外でも無いよねぇ?だって…ふふ、しょっちゅう義一さんに対して怒っているもの」
「へ?あ、いや、琴音ちゃ…」
と絵里が咄嗟に反論を試みようとしていたが、それはすぐ近くの”先輩”の笑い声にかき消されてしまった。
「あはは!あー、色男にねー?」
「ふふ…、義一君には素を晒してるってわけね?」
と有希の言葉の後に、百合子がボソッと加勢するかの如く後に続いて言った。顔は、わざとかと思うほどの柔和な笑みだった。
「あ、いや、その…琴音ちゃーん?」
と絵里が目を思いっきり恨めしげに細めつつ声をかけてきたので、「ふふ、ごめんごめん」と満面の笑みで返した。
それを見た絵里は、「もーう…」と良い歳こいて…って、これは散々な言い草だが、ほっぺを膨らませて非難めいた視線を飛ばしてきたが、それに対しても私が相変わらずニコニコしているので、もう無駄だと諦めたらしい絵里は、区切りをつけるように一度ため息を吐いてから話に戻った。
「あー…何の話をしてたか忘れちゃったよぉ…ふふ。あ、そっか、でね、そうやってまぁ口幅ったい言い方すればさ、んー…そうやって子供達と一緒に過ごしていく内にね?…うん、私って、そうやって子供たちに何かを教えたりするのが好きなんだなぁ…って、ふふ、それに気付いたのが…」
「あ、あぁ、それで絵里さんは、先生になれるっていう授業を受けることにしたってわけね?」
と、今思い返せばすぐに分かるが、まだ話の途中だったというのに、良い所だと当時はそう思って口を挟むと、
「ふふ、うん、そういう訳だね」
と絵里は、話の腰を折られたというのにも関わらず、何も気にしない様子で笑顔で返してくれた。
…って、まぁ…ふふ、私に話を折られるのが、別に珍しくも何ともないと言いたげだったと今にしては思うけど。
「そう、今琴音ちゃんが言ってくれたけどさ、先生になるのも良いなって思い始めたんだけど、それと同時にね、『我ながら呑気なものだなぁ…もっと早く自覚してたら、今の大学じゃなくて、せっかくなら小学校の先生になるために、教育学部のある大学に入ったのに…』ってね、ふふ、思っちゃったわけ。それでさ、まぁ…うん、これも何となくは琴音ちゃん達にも話したと思うけど、初めてね、そんな話をギーさんにしたら…ふふ、『それは違いないね』って返されちゃった」
と自嘲気味に笑って言う絵里の話を聞きながら、見ずとも、その時の情景がくっきりと想像出来た私は、ただクスッと笑って返した。
だが次の瞬間、ここでふと、一瞬にしてある一つの疑問が”閃いてしまった”私は、早速それをまた遠慮なく口にしてみることにした。
「…あ、でもさ、絵里さん…?」
「え?なに?」
と聞き返された私は、個人的には内容が内容なだけに、少し慎重を要したので、一旦一呼吸を置いてから質問をぶつけた。
「絵里さんは今…いや、前にも先生を目指してたって言ってたと思うけれど、それってさ…今までの話を総合してみるのは難しいんだけど…それって要は、その…日舞の師範試験というか、それ自体を…もう止そうかなって思ってのことだったの?」
「…え?」
と絵里は、咄嗟には何を聞かれたのか分からない様子だったのだが、しかしほんの数秒ほど空けた後で、「…あ、あー」と一人納得いった様子を見せた。
「あはは、いやいや、違うよ琴音ちゃん」
と言いながら、絵里は顔の前で大きく右手を左右に振って見せていたが、それを終えると、フッと静かな、しかしそれでいて柔らかい笑みを浮かべつつ、ゆっくりと口を開いた。
「…ふふ、今まで話してきたでしょ?私はむしろさ、やればやる程、私の場合は日舞だけど、一つの舞が出来始めてきたなって実感してきた次の瞬間には、新たな課題というか問題が出てくるみたいな、分かってくるどころか分からないことが次々に出てくるばかりでさ、それで毎度毎度参っちゃうんだけど…ふふ、それ以上に、そんな次々と新しい顔を見せてくる日舞って芸能に対してさ、面白く思えちゃうんだよ。…ふふ、これは琴音ちゃんが良く私に話してくれる、あなたにとってのピアノと同じじゃない?」
「…」
と私は、馬鹿正直にというか、絵里が言った言葉通りに、過去にし合った会話の内容を思い返していた。
…とまぁそんな大袈裟なことをしなくても、実際はすぐに会話の内容を思い出していたのだが、それと同時に、大分前に触れたと思うが、小学生の頃に読んで以来、今だに大好きで、いや、当時以上にますます尊敬の度合いを強めている詩人のゲーテの言葉も同時に思い出していた。
『一つのことを漸く知れたと思ったら、その直後には新たに数段把握するのが難しい分からないものが眼前に現れてくる…』
それをまた探究しなくてはいけない事自体は大変は大変であっても、それだけ次から次へと掘っても掘っても掘り出し物が出てくるというだけで、取り組んでいるそれ自体が、それほどまでに内容が深いという証左であり、一生かけるだけの価値があるものと確信を持てるのと同時に、だからこそ”面白い”…という、中学三年時の私の個人的なゲーテの言葉の解釈を述べてみたのだが、繰り返せば、今だに本当に好きな言葉なのだった。
…と、ここでついでにというか、毎度毎度ゲーテばかりだと芸が無いので、たまには付け加える形で、もう一人、同じような事を言っていた、誰もが知る有名な理論物理科学者の言葉を引用して話を戻すとしよう。
『学べば学ぶほど、私は何も知らない事が分かる。自分が無知だと知れば知る程、私は学びたくなる』ーアルバート・アインシュタインー
「ふふ、まぁ、そう…かな?」
と、そう思いはしたのだが、『まぁそうだね』と返そうとしたものの、絵里じゃないが自分でそう言うのは憚れてしまった結果、こうした何だかハッキリとしない受け答えとなってしまった。
そんな私の返答に対して、すっかり私の習性など分かりきっている絵里は、聞いた直後は意地悪げな笑みを見せていたのだが、しかし次の瞬間には満足そうに一度目をスッと細めて見せてから話を続けた。
「…ふふ、だからね、私も自分でも不思議だけど、習い始めた子供の頃よりも、これに関してだけは自信を持って言えるくらいに、日舞への興味が引くどころか増してく一方だったの。んー…だけどね?」
とここで絵里は一度口を止めると、今度は顔中に渋みを帯びせて見せた。
そしてそれに後から笑みが加わったので、結局はいつもの苦笑いになったのだが、ふとここでこちらに向かって、遠慮風な色を瞳に表しつつ見てきたので、その瞬間に私は当然不思議に思ったのだが、その件について声をかける前に、絵里は口元もさも重たげな様子でゆっくりと言った。
「これはー…ふふ、琴音ちゃん、あなたもアヤツと同じで、この手の話が苦手なのは分かるけど…まぁいきなり変な話をする様だけど、それでも事実を言えばね、下世話な話だけど…うん、日舞ってね、正直ね…今の世の中で、それだけで食っていく事は中々大変なんだよ」
「あ…」
と、単刀直入にそう絵里が口にしたのを受けて、本人が言った通りにというのか、それに対してこれと言った適切と思われる返答の語彙を持っていなかった私は、ただそう声を漏らすしか無かった。
だが、そう話す絵里の表情なり声の抑揚なりから、すぐに察せられたと言うのは、知ったかぶりの様で悪いとは思うのだが、内容的には大体予想をつけていただけに、ショックの度合いは少なかった。
…いや、それでも実際に、それも当事者の口から聞いたせいか、それなりにズシンと胸に重りが置かれた様な心持ちにさせられたのだった。
絵里は、そう声を漏らした私に小さく笑みを零してから先を続けた。
「と言うのもね、んー…うん、理由については、まぁまだ半人前というのもあって、これは私の口からはちょっと言いにくいっていうか…言いたくないって方が正しいんだけど…」
と、絵里は今日一番と思えるほどに苦々しく、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべつつ話した。
「ふふ、少し話がズレちゃうちゃうかも知れないけど、少しだけ我慢して聞いてくれる?…ふふ、ありがとう。というのはね、まぁさっきも言った通りに、私が言うのは何だから、代わりにね、この手の話になった時に、私の師匠たちがどう思っているのかって内容を話したいなって思ったの」
「うん、良いよ。…って、あれ?師匠…たち?」
と私が首を傾げつつそう聞くと、絵里はここでほんの少しだけ顔を明るくしながら答えた。
「んー…ふふ、そうだよ。まぁ正直…って、これまでも大分長々と私の来歴とか日舞についての話をし過ぎてる感があるし、ここまで深く話す気までは無かったんだけど…まぁ、いっか。…琴音ちゃん相手だし」
と最後にボソッと言うのが聞こえた私は、ただ一人でクスッと笑ったのみで、話の続きを待った。
「…あ、でね、これは私の流派だけでは無いらしいけど、それでもまぁウチの流派って事で話せばね?代々日舞をやるに当たって、舞うだけじゃなくて、それ以外の芸能にも触れなくちゃって考えらしくてね」
と絵里は話の途中から、またアルバムをパラパラ捲っていたが、ある場所で手を止めると、そこの部分だけまた見開きにした。
見てみると、そこには様々な楽器類を手にしている絵里の姿があり、年齢は子供の頃から、今現在に至るまでが載っていたが、どれも地味な柄の浴衣姿だった。
「ふふ、肩に小さな太鼓を乗せているのは小鼓、それとこれは…ふふ、清元なんかも琴音ちゃんは知ってるよね?…中学生女子にあるまじく」
「うるさいなぁ…うん、まぁ…知ってるよ。いや、勿論、知識でって意味でだけど」
と私は膨れて見せつつも口元を緩めながら答える。
「あれだよね?三味線を伴奏楽器に使う浄瑠璃の一種というか…ってふふ、まぁこの写真を見ただけでも分かるんだけれど」
と私は、三味線を弾く、やはり浴衣姿の絵里の写真に目を落としつつ答えたのだが、言い終えると顔を上げて、何となく挑戦するかの様なニヤけ面を向けた。
絵里はその顔を見てニコッと笑うと先を続けた。
「ふふ、そうそう。それでね、この清元の師匠には同時に長唄も習ったりと今現時点まで続けてきていてさ、まぁ…ふふ、こうしてね、日舞の師匠は勿論お父さんなんだけど、それ以外に二人の師匠が私にはいるって事なの」
「へぇー…そうだったんだ」
と私は、自分では心底興味を持ってる風を出しているつもりなのだが、こうして振り返ってみても、何だか生返事にしか”見えない”のが歯痒く思う。
…っと、そんな事はともかく、そう返しつつ見開きのアルバムの写真群を眺めていたのだが、ふとある事に気づいた。
「…てか絵里さん、絵里さんって小鼓も三味線も弾けるって事だよね?なーんで今まで教えてくれなかったの?」
と私が非難めいた言葉を投げつける様に言うと、「あはは、まぁまぁ…っと、話を戻すとね」と絵里に苦笑まじりに流されてしまった。
私も勿論冗談ではあったので、そのまま絵里の話を聞いた。
「えぇっと…うん、まぁそれでね、この師匠三人とは、稽古が終わった後の打ち上げというか、良くね誘ってもらって食事に行ったりするんだけど、その時にね、さっき話した様な内容についても聞いたりするんだよ。…ふふ、師匠たちの言葉をそのまま言えば、『自分達みたいなそこそこな立場にいる人間ならまだしも、それ以外の人たちは大変な時代だな…』ってね、よく聞かされるんだ」
「…」
「でね、勿論というか、そのー…ふふ、別に、理性の怪物くんとか、それに…ふふ、琴音ちゃんなんかに影響された訳では無いんだけど、当然理由が気になるから、その場ですぐに質問をするんだけどね?師匠たちは、そんな私の質問に対して、嫌がるどころか、待ってましたとばかりに答えてくれたんだけど、それが面白いことにっていうか…いや、内容的には面白くは無いんだけど…うん、それでもね、勿論具体的にはそれぞれ違ったんだけど…うん、根っこの部分ではかなり共通していたから…さ、それが面白かったんだよ」
「…その共通点って?」
と私が合いの手を入れると、さっきから徐々にまた表情を暗くしつつ話していた絵里だったのだが、私の問い掛けに対して力無く笑みを浮かべながら答えた。
「うん…そのね、繰り返しになっちゃうけど、その三人の師匠が共通して言ってたのはね、もう端的に言ってさ?んー…ふふ、もうね、日舞もそうだし、他のよく言われるところの伝統芸能もそうだけど…うん、いわゆる日本文化の廃れというのがまず大きいって言うのね」
「あ…」
と、絵里の表情も相乗効果を生み出していたせいか、絵里は何気ないって調子で軽く言って見せたのだが、しかし実際の受け手である私の胸には、先ほど以上に胸がきゅっとなるのを感じるのだった。絵里は弱々しい笑顔のまま続ける。
「…ふふ、まぁさ、私みたいな若輩が言うのは生意気だし、なにを偉そうにって言われるだろうけど…うん、私の師匠たちみたいに、お父さんも含めて、それぞれの芸能の流派で家元を担っているくらいの方々が言うのなら…って、ふふ、思うよね?…うん、それにさ?これまた下世話な話で悪いけど、実際問題としてね?日舞に限って言っても、その…ふふ、日舞っていうのは、それはもうね、かなりのお金というか費用がかかるの」
「あー…んー」
と、これと言った言葉を発しはしなかったのだが、有希がふとシミジミとした声音で声を漏らすと、それを見た絵里は苦笑まじりに、しかしこの一瞬だけでも表情がぱっと明るくなった。
だが、それもすぐに元に戻して先を続けた。
「そんなに費用がかかるって時点で、そのー…うん、ギーさんの本じゃないけどさ、今…っていうか、少なく見積もっても過去二十年以上デフレってやつを続けてるせいで、ずっと不景気で、普通の人たちの財布事情がどんどん悪くなる一方でしょ?んー…ふふ、これも何かこの場で持ち出すのは気が引けるんだけど…よくね、まぁ今に始まった事じゃないんだけど…さ、師匠たちの話を初めて聞いた時が確か…まだ大学生だったはずだけど、その後でギーさんとね、こんな話を師匠に聞いたんだって言った時に、この不景気が云々って話をしてくれたの」
「…」
と、絵里の予想とは違い、私含む他の四人はただ黙って話の続きを待った。
因みに、不景気が続いて実質所得が延々と減り続けているというのは、経済に疎い私ですら、義一の処女作や、これは少し先走りというか、ネタバレというか先回り気味に触れると、この六月に入ってすぐ、そう、この日は土曜日な訳だが、昨日の時点で発売となった義一の最新刊である、国のあるべき姿を自分が嫌いだと言って憚らない経済の視点から、”らしく”古今東西の例を引っ張ってきて分析した大著『国力・経済論』というのと、同時発売になる、お金、貨幣とはそもそも何かについて書かれた、義一曰く、もう一つの本の補足的な役割を担っている『貨幣について』という、この二つの書籍内にも、軽くだが経済、お金の視点から芸能に関しても語られており、内容としては今絵里が触れた問題も当然として書かれていた。
恐らくからかわれると思って間を空けていたのだろうが、しかし誰も言葉を発しないのに気づいた絵里は、クスッと小さく表情を緩めてから話を続けた。
「…うん、まぁ流石は理性の怪物くんというか、まさにそれも大きな理由だなって思って…。うん、だってさ、日本文化の衰退っていうか、その衰退は、勿論演じ側である私たちの方の責任も当然あるんだろうけど、これはギーさんが言ってくれたから私も言いやすいんだけど…さ?受け手側である観客の方に、そもそも戦後というか、伝統芸能…に限らずってギーさんは言ってたけど、取り敢えず伝統芸能に限って言っても、もう全然、ほとんどの日本人は何の興味もないっていうか、見向きもしなく…うん、なっちゃったじゃない?」
と口籠もりつつ話す絵里の諦め笑いがとても印象的だった。
「…」
「うん…それに加えて、また言っちゃうけど、それでも辛うじて興味が少しでも仮に湧いたとしても、体験で見学にきた時に、私とかが色々と費用についてとか話したりするとさ、勿論全員だなんて言わないけど…うん、その後で実際にリピーターというか、なってくれる人はその半分以下になっちゃうんだよ。その大きな理由の一つというのが、まぁ…うん、今の日本人の寂しいお財布事情って事になるんだね…って、あー、いやいや!」
とここで急にハタと何かに気づいた様子を見せると、絵里は私から順に皆の顔を見渡して、終わった直後には思いっきりバツが悪そうな笑みを浮かべた。
「な、なんかすみません…ふふ、ただの愚痴になってしまってましたね?」
と絵里が言うのに対して、私たちは一旦顔を見合わせると、力を抜くのと同時に笑みを浮かべ合いつつ、その表情のまま絵里に『気にしないで』と声をかけた。
しかしそう言われても、一向に絵里の顔から苦笑いは消えなかったが、それでもコホンと一度咳払いをすると、少し落ち着きを取り戻した様子で話に戻った。
「ふふ、ありがとうございます。で、ですね?んー…あ、うん、だからさ琴音ちゃん、何が言いたかったのかというとね、今もそんな状態下でも、一応毎年色んな流派から、名取なり師範なりが誕生してるんだけど…ふふ、中々ね、そんな理由もあってさ?私の家みたいにお父さんが家元だったら、それなりに安泰なんだけど…名取とか、師範程度では、その…うん、いくら好きで、私以上に熱心に日舞に取り組んでいた、もしくは取り組みたいって思ったりしても、街の舞踏家はそれだけで食べていけない…っていうのが実情なの」
「…なるほど」
と私がボソッと呟くと、絵里はここでようやく先ほどまでの明るさを顔に取り戻しつつ続けて言った。
「うん、だからね、まぁ…ふふ、今さっき、私の家みたいな家元だったら、一応舞だけでも食べていけるみたいな話はしたけどさ?これもしつこい様だけど言えば、私自身はまず、ずっと名取ですらどうかと思ってたのに、師範、それに加えて家元だなんて、自分とは縁が無いって思ってた人間だったし、それに、師匠たちに聞いたって話を今ずっと話してはきたけど、街で教室を開くというのは大変だという話自体は、それ以前から知ってたからね?だから…ふふ、ようやく話を戻すとね、勿論私は自分の本業は日本舞踊家だと思っているけど、それだけじゃ食っていける自信というか、資格というか…まぁ無いと思っていたからさ、それで折角なら、前に話した通り、子供が好きだったし、それはずっと変わらなかったから、ならまぁ教師になるのが良いかなぁ?…って、そう思ったのよ」
「あー、なるほどねぇ」
と、絵里が普段の調子に戻ったのに釣られる様に、自分でも分かる程に表情も朗らかに返したのだが、ふとここで、絵里の口にした『話を戻すと』という単語を聞いた瞬間に、今まで自分が何を元々質問していたのかを思い出した。
まぁ…ふふ、絵里は何度も『話を戻すと』と口にしていたのだが、ここで漸く思い出せた私は、そんな呑気な自分を棚に上げて、わざと生意気な感じを出しつつニヤケながら口を開いた。
「…あ、そういえば…ふふ、話を戻すと言えばさ?まだきちんと説明をしてくれてないね?その…そんな絵里さんだというのに、何で今急に師範試験を受ける気になったのかって理由…をさ?」
「あ…」
と絵里は私の言葉を聞いた瞬間、思いっきり目を大きく開いて見せつつ声を漏らした。
…のだが、長い付き合いのお陰で、これが絵里の大袈裟な芋臭い演技だというのは当然分かっていた私は、そんな反応を見せる絵里に対して思いっきり薄目を流した。
その間、「あー、そういや、そんな話だったねぇー」と有希が呑気な声を上げると、「あはは、そうだった」とすぐに美保子が続けて反応を示していた。
相変わらず百合子は品よく微笑むだけ…いや、やはり薄っすらと、私ほどでは無いにしろ、不敵な笑みを浮かべつつ絵里の方をじっと眺めていた。
「あはは、そうでした、そうでした…コホン」
と、そう突っ込んできた有希に対して返すと、一度咳払いをして、それからはまた仄かな笑みを顔に湛えて見せながら私に視線を向けつつ口を開いた。
「んー…私もどっかの誰かさんを言えないくらいに、前置きが長くなったけど…ふふ、まぁ今までの話からの流れのまま話した方が分かりやすい…っていうか、私が整理しやすいから、そうさせてもらうね?…まぁ結局はあなたも知っての通り、私はこうして先生にはならなかった…いや、なれなかったんだけど…ふふ、こうしてさ、図書館司書に無事になれて、それで、何の因果かギーさんのいるこの区内の区立図書館に勤める事になったでしょ?それからの毎日というのは…ふふ、もしかしたら、これを私以外の司書をしてる人がいたら怒るかも知れないけど、でもね、結構余裕を持って仕事が出来るというか、私みたいに、他に本業がある様な人でも、負担にならずに済んだの。これは正直、両立は実際にはキツイかなって覚悟してただけに、怪我の功名…って、ふふ、これは違うか。本当にバランス良くね、日舞にもしっかりと、自分なりにだけど手を抜かずに稽古を続ける事が出来た…ふふ、これはとても有難いと思いながら仕事を今もしてるの。それに、勿論学校の先生と比べられないくらいの程度しか接する機会が無いと言えば無いけど、でもね、それでも…ふふ、人数こそ少ないけどさ?一つの学校に勤めるのとは違って、図書館周辺に通う、上は幼稚園から小学生、上は大学生に至るまでさ…ふふ、こんな幅広い”子供達”とね、またウチの図書館自体が凄くフレンドリーな雰囲気じゃない?そのお陰もあって、普通の先生になってたら無理な付き合い方が出来て、これもとてもある意味…うん、アヤツのことは本当に褒めたくないんだけど…その提案のお陰で、今の私があるわけだねぇ」
途中までは快活に話していたのが、最後辺りでは徐々に”何故か”口にするのも穢らわしい…っていうのは大袈裟すぎるが、まぁニュアンスは分かって頂けるだろう、そんな様子を分かりやすく見せながら話す絵里を見て、私はまた自然と笑顔になるのだった。
…ふふ、突然だが、今こうして振り返ってみると、何で急に絵里が、日舞とは一見関係なさそうな、そんな現状の自分について語り始めたのか、不思議に思わないでも無いのだが、当時の私、それに他に聞いていた皆、それと勿論当人も、これといった違和感は一切覚えないままに過ごしていたのだった。
「…ふふ、それに…」
「…え?」
と絵里が前触れもなく、だらしなくテーブルの上に投げ出していた私の片方の手の上に、自らの手をそっと乗せてきたので、思わず声を小さく上げてしまった。
だが、そんな様子にはお構いなしに、絵里はフッと柔和な笑みを一瞬見せたのだが、その直後には、絵里調のニヤケ顔を浮かべながら言った。
「…ふふ、琴音ちゃんみたいな、見た目が正にお人形さんみたい…何だけど、中身が凄く変わってて面白い女の子とも知り合えたし、その繋がりで裕美ちゃん、ヒロ君、またその後で学園の子達とも出会えたしね?」
「うるさいなぁ…ふふ」
とジト目で冷たい視線をぶつけて言ったのだが、しかしそれも長くは保てず、自分で思わず吹き出してしまった。
「あー、お人形さんって分かるー」
とここで不意に美保子が話に入ってきた。意味ありげな微笑だ。
「ちょ、ちょっと」
と私がツッコミを入れようとしたのも束の間、
「ふふ…そうね」
と百合子も瞬時に美保子に反応し、先ほど絵里に向けたのと同じ笑みを今度は私に向けてきた。
「ゆ、百合子さんまでぇ…」
と私が目を細めつつブー垂れて見せる中、この流れを終始眺めながら有希は一人明るい笑い声をあげていた。
そう…というか、これは絵里が悪いのだが…ふふ、このLadies’ dayが始まってすぐくらいの頃に、何故か絵里がこの場の皆に、意気揚々と過去に撮った私の写真を見せた事があった。…というか、一度ならず何度も繰り返し見せていた。
中身としては、中学生になってからのもあったが、私以外の皆の要望もあり、私の小学生時代のものが多かった。
まぁ…ここで私が話すのは馬鹿馬鹿しいのだが、美保子や百合子、それに有希の言葉を借りれば、理由としては私の小学生姿が想像出来そうで出来ないから…との事だ。
感想としては…絵里のせいで悪ノリしてきた結果、すっかり”お人形さん”で定着してしまった。
この話を聞いた裕美が、「アンタは中身がそんななのに、お姫様だとか、お人形さんだとか、あだ名だけが妙に乙女チックなのばかりなんだよなぁ」と思いっきりニヤケて見せつつ言うので、「あなたがそれ言うの?」とため息混じりに突っ込んだのは言うまでもない。
…っと、コホン。なので…ふふ、こうして不意に、絵里が余計な一言を行ったお陰で、皆して私をからかう流れが無駄に出来上がってしまったのだった。
まぁしかし、これをいなすのも妙に慣れてしまっていた私が、四方八方から来る口撃を交わしていると、ようやく収まった辺りで、絵里はふとまた明るい笑顔だった顔のトーンを大分落ち着けつつ口を開いた。
「まぁ…さ、ここで漸くというか、琴音ちゃん、あなたの質問に答える段階にきたけど…」
と絵里は、ここで最初に見せていたのと同じ、眉をヒッソリと顰めながら続けて言った。
「まぁ今も…ふふ、当時の琴音ちゃんの事で盛り上がったけど…って、あはは、そんな顔をしないでよぉ?…ふふ、でさ、まずね…うん、あなたと裕美ちゃん…んーん、琴音ちゃん、あなたに特に、何で私が師範試験を受けようと決意した事とか、実際に受けて受かった後も、自分から中々言い出せなかったのはね?んー…ふふ、まぁこれに関しては、開き直るわけじゃ無いんだけど…あなたなら分かってくれると思うよ?だって…」
と絵里はここで悪戯っぽく笑ったかと思うと続けて言った。
「ふふ、あなたと同じでさ、そのー…うん、中々恥ずくて言い出せなかったんだもの」
「あ、ん、んー…」
と私は、絵里がそう話した直後にすぐに思い当たり、こうして苦笑混じりに声を漏らした。
まぁ…ふふ、これはまぁ流石にこの手のことに鈍い私ですら、最初も最初、絵里が自分で師範試験に合格したという話をした時点で、直後に察していた内容ではあったので、意外性は無かった。
「…ふふ、まぁ…ね」と私がそう拙げに返すと、少し満足そうな笑顔を浮かべた絵里は、その直後にまた笑顔を元の柔和な笑みに戻して続きを話した。
「でしょ?…ふふ、まぁ私の場合は、あなたがピアノのコンクールに中々出なかったというか、それとは理由が全く違ったりとするんだけど…ね。私はただ単純にというか…さ、ほら、さっきも話したけど、あなたは昔から、本当に昔から私が司書として勤めている図書館に足繁く通ってくれてたでしょ?でー…ふふ、まぁ、そんな私のキャラを知っていたあなた相手だったから…こそ、自分がそもそも日舞の名取だったって事実も何だか気恥ずかしくて話せなかったの。でも、だからこそっていうか…ふふ、この場の皆さんには、先輩なんかは別だけど、昔の私を知らないだけに、抵抗なく師範試験の事とかも話せたんだよ」
と絵里が後半部分から、一同に視線を配っていたが、話し終えた瞬間、「まぁねぇー」と美保子が、これまた私をからかっていた時とは打って変わって、今の絵里と同じ類の笑顔で合いの手を入れた。
「そもそもさ、絵里ちゃんが日舞をしているって事を、私と百合子が知ったきっかけというのもさ?…ふふ、琴音ちゃんが数奇屋で絵里ちゃんをそう紹介したからだったから…ね?」
と美保子が問いかけると、「えぇ」と百合子も短く返しつつ、私に微笑を向けてきた。
「あー…うん、まぁね」
と、別にその事に関して何の気負いもなかった私は、素直に二人の言葉に同意を示した。
その間、有希はどうしていたかというと、珍しく…と言っては何だが、静観していたのだが、しかし顔には笑みが広がっていた。
「ふふ、だからまぁ…そんな感じの理由ではあったんだけど…」
と絵里は相変わらず笑顔ではいたのだが、しかし途中からその表情の中に”真面目成分”を滲ませていっていたが、ここで一旦区切ると、ペコっと小さく頭を下げて続けて言った。
「…ふふ、でも、さっきも言ったけど…結果が決まった後の発表になって…ごめんね?」
「…」
と私は、そう頭を下げられた時、市松人形ヘアーの両サイドの髪が、だらっと絵里の顔の輪郭にかかる様子を何となく興味深げに眺めていた。
…ふふ、こんなことをされている時に、そんな些細な事に目が行く時点で、この時の私の心境もお分かりになるだろう。
恐らく頭を下げられて二、三秒足らずだと思うが、頭を下げている絵里にも分かるような笑みをクスッと漏らすと、それに合わせて口調も軽く返した。
「…ふふ、うん、こんなに真摯に今まで話してくれたんだし、そもそもそこまで謝られる謂れも無いよ」
「琴音ちゃん…」
と絵里がゆっくりと顔を上げてこちらを見つめてきたので、私はここでニヤッと今日一のニヤケ顔を浮かべて見せながら言った。
「…ふふ、絵里さんが言うように、私も他人のことを言えたもんじゃないしね?」
私がそう言った直後、美保子が高らかに笑ったのを合図に、他の皆も一斉に笑顔を浮かべあった。
私も笑顔を継続していたのだが、ふとチラッと視線を向けてみると、絵里の方でもこちらに視線を飛ばしてきており、結果としてまた目が合うと、どちらからともなく笑顔を強めるのだった。
と、そんな和やかな雰囲気が場に充満し始めたのだが、不意に、まだ一つの大きな問題が片付いていない事実に気付いてしまった。
せっかくこんな良い雰囲気の中で、また質問をするのもどうかと思いこそしたが、しかしこれも、私自身と関わっているだけに、そのままほっといて流すわけにもいかずに、そのまま疑問を口にする事にした。
「…そういえば絵里さん、まだ一つ聞けてない事があるんだけど」
「ん?何かな?」
「えぇっと…ねぇ…」
と私は、内容が内容だけに、スラスラと自分の口から出すのは憚られたのだが、しかしそれでも言わないと先に行けないと言うので、絞り出すように続けて言った。
「うん…そのー…さ、絵里さん、始めも始めに言っていたよね?んー…そのー…今まで話してくれたような理由で、師範試験を受けるのを先延ばしにしてきたのに、今回こうして受けようって決意した、その…キッカケが、んー…確か私だって言っていた気がするんだけど…」
「…うん」
と絵里は、表情も静かに、しかしどこか良い加減に力が抜けた笑みを浮かべて相槌を打った。
それを受けて私は続ける。
「う、うん…だったと思うんだけど…さ?それを聞いた直後も、そして今もこうして話しながら過去の自分を思い返していたんだけど、そのー…いくら考えても、私がキッカケなんか作った気がしないん…だけど…?」
『それって何なの?』と続けて本当は聞こうと思ったのだが、話しながらふと、周囲が妙に静まり返っているのに気付いてしまい、何だか口が止まってしまったのが原因だった。
場はいつの間にか、先ほどまでの程よいざわつきが消え失せており、気付けば他の皆も私語をせずに私たち二人の会話に注目していた。
とはいっても、一人残らず、先ほど相槌を打った絵里と同じ種類の笑顔を浮かべていたのだが。
「…んー」
と、絵里は中途半端に終わった私の質問に対して、すぐには答えなかったが、私がその間他の皆の様子を眺めていたその時、ふと声を漏らしたので顔を元の位置に戻すと、そこには、苦笑いではないのだが、何と表現すれば良いのか…心情としては全く違うはずなのに、表に出ている顔は納得がいっていない風の呆れ笑いだった。
と、絵里はそんな顔つきのまま唸っていたのだが、しかしそれも一瞬のことで、すぐにニコッと朗らかな笑顔を浮かべると口を開いた。
「…あはは、いやいや、琴音ちゃん、一番初めに言った通り、今回私が師範試験を受けようって決意したきっかけは…ふふ、あなただったよ」
「え?でもそれって…」
と私がまた何かを返そうとしたのだが、それを遮るかのように、しかし柔らかい口調で絵里は続けた。
「まぁねぇ…ふふ、今まで本当に今日は何だか思いっきり話しちゃったけどさぁ…うん、ほら、私って去年…琴音ちゃん、あなたのコンクール決勝を見させて貰ったじゃない?」
「え、あ…え、えぇ」
と、余計な事に触れるかも知れないが、この時点で咄嗟に想像がついたと言うのか、察しがついてしまった私がそう反応を返してしまったのだが、当然その中身に気付いていたであろうと思われるのに、絵里はこちらにクスッと小さく微笑みと先を続けた。
「うん…でさ、まぁ…ふふ、さっきはあなたが私と似ている的な話をしちゃったけど、勿論色々と具体的には違う中で、この場合で言うと、琴音ちゃん、まぁ私が色々としつこく聞いたからってのもあるだろうけど、初めてギーさんの所でピアノを弾いて見せてくれた辺りで、何でそんな腕を持ってるのにコンクールに出ないのかって聞いて…さ、それであなたは丁寧に説明してくれたでしょ?」
「…うん」
と、勿論昨日のことのように覚えていた私は素直に返した。
「ふふ、でさ、だからその…あまりこれは話さなかったかもだけど、だから初めてあなたの口からコンクールに出るような話を聞いた時は、その時は勿論本心から『ファイトッ!』的な言葉を言ったと思うけど…ふふ、言わなかった本心の部分としては、本当に驚いたんだ」
「…」
「あなたも…さ、そのー…ふふ、あの理性の怪物くんと一緒にするのは、あなたがどう思うかはともかく、私個人としては苦々しい事この上ないんだけど…」
「…ふふ」
「ふふ…うん、まぁそれでも素直な感想を言えば、あなたもギーさんも、本当に私みたいな普通の人から見たら、どうしたらそこまでって思えるほどに筋がしっかりしていると言うか、全くブレない…からさ」
「あ、それは私は…」
『違う』と私が訂正をすかさず入れようとしたのだが、絵里はそれを遮るように話を続けた。
「ふふ、だからその…うん、勿論そのキッカケなり何なりは聞いたけど、それを置いといても、そんな人前に出ることを心底憎むように嫌っていた琴音ちゃんが、そう自分から出て行こうとしている姿…うん、それに、ああして目の前で、あの大ホールの舞台上で照明が燦々と上から降り注がれている中、綺麗なドレス姿でピアノを孤独に、でも堂々と弾いているあなたの姿、そして勿論その後の授賞式でだとか後夜祭での姿だとか、それら全てを引っくるめて…さ?そ、その…う、うん…すっかりそのー…感化されちゃったっていうか…さ?こんな大分歳下の女の子が、これだけ頑張っているのに、私もいつまでもウジウジと、現状維持に甘んじているのは…うん、単純にね、自分が格好悪いなって思えたし、それで…ね?私も負けじと、格好良くならなきゃ、頑張らなきゃなぁ…って、思ったのよ」
「…」
と結局は、やはりというか私でもそうなるだろう、絵里は途中から心底照れ臭そうに視線を外したり、ほっぺを掻いたりと忙しない仕草をして見せていたが、その様子が聞いてるこちらにリラックス効果とでも言うのだろうか、そんな私からしたら可愛らしく思えるその様子に、すっかり緊張を解かれてしまった私は、「も、もーう…」と、とは言ってもやはり空気伝播されてしまったせいか、口にだしてみて初めて自分も照れてしまっているのに気付いたのだが、そのまま無理やりにジト目を作って返した。
「そ、そんな恥ずいセリフを長々と本人を前にして、い、言って…ふふ、絵里さんは毎度ながら大袈裟なんだから」
「ん、んー…」
と私の言葉を受けて、絵里はますます照れ臭そうにホッペをポリポリと掻いて見せていると、ここで不意に「…あはは」と、有希が明るく笑い声をあげた。
「ホントホント、それをまた見せられる私たちの身にもなってよぉー…ですよねぇー?」
と有希が顔を横に向けると、「あはは」とまた有希と同じように笑う美保子、クスッと品よく笑う百合子の姿があった。
「せ、センパーイ…それに皆さんまで」
と絵里はそう言いながら膨れて見せていたが、すぐに自分で吹き出すと、絵里は今度はこちらに顔を向けてきて、それからニコッと…いや、やはりというか、少し気まず気が残る笑顔で言った。
「あはは…まぁそんな訳なんだけど、だからね?…んー」
と絵里はここでまた言いにくそうに一旦口を止めたが、しかしそれでも、まぁ苦笑交じりではあったが、何とか絞り出すように続けて言った。
「…うん、まぁだからさ、その…ふふ、まぁこうして先輩を始めとする他の皆一緒で…って事になっちゃいはしたけどさ?…試験を受けるきっかけを作ってくれた琴音ちゃん、あなたには真っ先に、合格したって事を教えたいっていうか…うん、話したくてね?それで…うん、あなたから話を聞いた時、師範試験について話すのは”この時だ”って私の方でも、そのー…思ったって訳」
「う、うん…」
と、そんな絵里の心情の吐露に対して、もっと良い反応、良い返しがあっただろうと、今思い返してもそう思うのだが、しかし当時の私はこれが精一杯の反応だった。
しかしまぁ…こんな真摯に話してくれた絵里の態度に対して、私の胸に去来した想い自体は、まぁ…それこそ言うまでもないだろう。
「まぁ…だから…ふふ、ごめんね?」
と絵里が最後のダメ押しにと、さっきから続けている苦笑いのまま目を細めつつ謝ってきたのを聞いて、
「…ふふ」
と私は思わず笑みを零しながら返した。
「もーう、それって何に対してのゴメンなのよ?…ふふ、でもそっかぁ」
と私はそうシミジミと溜息交じり風に呟くと、特段狙ったわけでもないのだが、自然とニヤケ顔が引いた柔和な笑みで続けて言った。
「…うん、絵里さん、何で師範試験を受けたのか、その…うん、何で私…に対してだけじゃないけれど、まぁ何故話せなかったのか、その理由もそうだけれど…ふふ、それと一緒に、日舞に関してくれだけ沢山話してくれて、そのー…私こそ、色々と今日はありがとうね?」
と言い終えた瞬間、これは狙ったのだが、目をぎゅっと瞑って見せると、私が目を開けてもまだその顔にはキョトンとしたボンヤリ顔が見えていたのだが、ふと視線が合うと、「いーえー」と、絵里は普段の調子と遜色無い笑顔で返してくれたのだった。
それからは二人でクスクスと意味もなく笑い合う中、それと同時にまたこの場には和やかな空気が流れ始めた。
と、その時、
「あはは…って、琴音ちゃーん?」
と真向かいに座る有希が、意地悪げに薄目をこちらに向けてきながら話しかけてきた。
「はい?」
と私が返すと、有希はその薄目を左方向に流しながら続けて言った。
「『はい?』じゃ無いでしょー?ほら、絵里にさ、んー…ふふ、何か言い忘れた事なーい?」
「へ?先輩?」
と絵里が心底何を言ってるのかと言いたげな表情で有希に顔を向けていたが、私はというと、そう言われた瞬間に、確かにまだ大事な一言を言っていなかった事にハタと気付いた。
そして、その直後には、それをまだ言ってなかった自分に対して呆れるあまりに一人苦笑したのだが、その表情のままはあんまりだと判断した私は、すぐにその苦笑を引っ込めると、絵里に声をかけた。
「ふふ、そうですね。…絵里さん?」
「は、はい?」
と絵里は、恐らく私の雰囲気の変化に気づいたからなのだろう、そう素っ頓狂な声音で返事を返してきた。
その声に思わず自然と笑みが溢れたのだが、せっかくだしこのまま行っちゃえと、笑みを絶やさないままに続けて言った。
「いや、まだそういえば言ってなかったから…さ?…ふふ、絵里さん、師範試験合格…おめでとう」
「琴音ちゃん…」
と言われた直後は、絵里は目をまん丸にしながら私の名前を呟いたのみだったが、ふとここで絵里は何気なく顔を一同の方に向けた。
そして、私も同じようにチラッと見たので知ってるのだが、有希を始めとする美保子、そして百合子も柔らかな笑みを顔に湛えているのを見た絵里は、また少し照れた表情を浮かべたのだが、そのままこちらに顔を戻すと、その照れの延長線上にあるような満面の笑みを浮かべて言った。
「…うん!ありがとう琴音ちゃん!」
「ふふ」
と私がただ笑顔で返していると、「よし!」とここで不意に有希が声をあげた。
そして「じゃあ折角だし、皆で今もう一度、絵里の師範合格を祝って乾杯をしたいと思いまーす」
と言いながらカップを手に持ち出したのを見て、
「ちょ、ちょっと先輩ー」
と絵里はそんな有希に対してアタフタとしていたが、「あ、良いわねぇー」
とすぐに乗っかった美保子に続いて、
「ふふ、そうしましょう?」
と百合子に微笑まれながら言われた絵里は、「そ、そうです…かー?」と観念した風に力無げに笑みを零していた。
「ふふ」
と私がただ微笑みながらカップを手に持ったのを確認した有希は、また一度、絵里を含む皆がカップを持ったのを確認してから、高らかに乾杯の音頭を取った。
「では、絵里の師範合格を祝って…かんぱーい!」
「かんぱーい!」
カツーン
…それからは、今までほとんど静観に徹していた三人の中で、特に有希と美保子がここぞとばかりに、絵里に日舞関連の話を振っていた。
それに対して、その勢いに押されながらも、笑顔を絶やさないままに絵里が答えていくのを、私と百合子は時折顔を見合わせて微笑み合いながら様子を眺めていた。
そのまま話はどんどん脱線していき、ここにきて漸くというのか、いつものLadies’ dayと同様に、普段通りの雑談へと流れていった。
と、その雑談に自分も混じりながら、ふと視界の隅にオレンジ色の柔らかい光があるのに気づき、視線だけその方向に向けて見ると、さっき絵里が免状を取りに行った”日舞の部屋”の向こうから、西日の陽光が入ってくるのが見えた。
その部屋は西向きの大きな窓がある上に、ドアが開けっ放しなお陰で、この時間帯になると、大体こうした現象が起きるのがお決まりとなっていた。
普段から部屋の灯りは点けられており、今も点いてはいるのだが、個人的には薄暗い方が好みな私は、こうして日舞の部屋から漏れてくる夕陽の仄かな光が微かとは言え、今いるリビングにも反映されて、直接ではなくとも暖かな色合いに包まれるこの瞬間が、密かにとても好きだった。
会話に参加しながらも、ついついその日舞の部屋に視線を奪われつつ、土曜日の夕方を過ごすのだった。
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