第19話 修学旅行 後編 温泉旅館

今いる場所が後方デッキのせいで、詳らかには当然知り得なかったが、それでも進行方向右手の沿岸部に街の灯が徐々に強まっていくのが見えたお陰で、段々と港に近づいて行っているのが分かった。

この時はまた私たちの間の口数も増え出して、軽く今日一日のおさらいというのか、思い出話をし合っていた。

この間もその話の輪に混じりつつ、ただ一人、麻里だけが自身の新聞部の仕事のうちなのか、首に下げていた持参のカメラをあちこちに向けているのが視界の端に入っていた。

と、その時、

「…あっ」

と、麻里は何か私たちの真後ろにあった柱の一つを眺めつつ声を漏らした。私の位置からは死角の為か何を見つけたのかまでは具体的には見えなかったが、声を上げたかと思うと、次の瞬間には、デッキの端の手すり部分に集まっていた私たちの元に駆け寄ってきた。

「どうしたのよ?」

と紫も麻里が声を漏らしたのに気づいていた様で、早速声を掛けていたが、「ちょっとねー」と麻里はそう短く返すと、ここで不意に紫から私に視線を移して、急に手を掴んできた。

「な、なに…?」

と咄嗟のことでそう声をかける他になかった私だったが、そんな様子にはただニコッと、例の猫っぽい笑みを浮かべただけで何も答えず、その直後には流れる様に今度は律の手を掴んだ。

「…え?」

とやはり律も表情少なかったが、彼女にしては豊かな戸惑いの声と顔つきを見せていた。私の位置からは見えなかったが、恐らく私にしたのと同じ笑みを麻里は浮かべていた事だろう。

そんな麻里が始めた私たち三人の様子を、私たちの班だけではなく、一緒にいた例の他の班の子達も興味深げに眺めてきていた。

そんな視線を向けられているのにも関わらず、麻里は一顧だにしない様子で、「ちょっと二人ともいーいー?」と口にしながら、両腕をぐいっと自分の方に近づけた。

そのせいで私と律は麻里に不意に近づく形となり…そうだったが、その前に麻里は麻里で手すりから離れてデッキの中央部分に歩いて行ったせいで、間の距離は一定に保たれていた。

「面白いものを見つけたのー」

「お、面白い…もの?」

と私と律は顔を見合わせつつ同時に同じ内容の言葉を漏らした。

「えー、面白いものってなーにー?」

とそのセリフに一番に反応した藤花、「見せて、見せてー」とそれに続いて裕美、「なんだっていうのー?」と呆れ笑い調の紫が、後からついて来ようと足を踏み出そうとしていたが、麻里は不意にパッと一度足を止めて、麻里は私たち二人の手から自分の手を離し、片手を裕美達の方にぐっとまっすぐ突き出すと声を掛けた。

「ごめーん、紫達はその場に立っててくれるー?」

そう言いつつこの時、もう片方の手にはスマホが握られており、何やら打ち込んでいるようだった。

「えー?なんでー?」

と藤花と裕美がまず顔を見合わせつつブーたれて見せ、それに後から紫も加わっていたが、ふとここで紫がおもむろに自分のスマホを取り出した。そしてその中身を覗くと、「あー…」となんだか妙に何かに納得した風な声を漏らしつつ、不思議に見てくる裕美と藤花に液晶部分を見せていた。

それを見た瞬間、「あー…」と、裕美と藤花も顔を見合わせつつ紫と同じ類の声を漏らすと、「はいはーい」と三人が揃ってこちらに笑顔交じりに言い、他の班の子達と二言三言交わしたかと思うと、その後は全員でこちらの成り行きを伺っていた。

…少し若干のネタバレとなるが、もしも私の勘が鋭ければ、この後の展開はここで気付けて、なんとか予防が出来たのだろう…と、後にして思うが、それこそ後の祭りだった。


私と律はというと、そんなみんなの様子を怪訝に思う前にまた麻里に手を引かれてしまい、さっき彼女が眺めていた柱の裏に辿り着いた。

そこには、なんと柱に立てかけてある操舵輪があった。

…ふふ、『なんと』とは言ったものの、勿論この存在には気づいてはいた。なんせ、さっきまでいた後方デッキ正面に行く途中で、いやでも目につく場所にあり、また普通はありえない場所にあるその不自然さからくる面白さにより、頭の隅に印象付けられていたのだから。

と、それはともかく…

「…なに、見せたかったものって…これ?」

と、私と律から手を離すや否や、私たちの背後に身軽な身のこなしで下がった麻里に顔を向けると、麻里は”カメラを手にしつつ”ニヤッと笑った。

「そうそう、なんか二人ともさ…こういうの好きそうじゃない?」

となんだか妙にはしゃぎつつ言うのを見て、なんだかその様子がキャラに合っていた気がしたのもあり、「…ふふ、何よそれ…」と呆れ交じりながらも自然と笑みを零し隣に顔を向けると、どうやら同じ心境だったらしく、薄明かりの中、律が大人しいながらも”大人っぽい”仄かな笑みを浮かべて見せてきた。

「さっきふと見たんだけれどさー」と麻里はその笑みのまま言った。

「なかなか年代物っぽいんだよぉ。木の部分なんか飴色になっててさ、結構いい感じじゃない?触っても見たんだけれどさ、ツルツルにスベスベで触り心地が良いんだよー」

とシミジミと言うので、

「…ふふ、私たちがどうのと言う前に、その様子じゃ、あなたの方がこういうの好きな感じじゃないの?」

と、何も言わないが変わらずに微笑み続けている律に目配せをしながら口にしつつ、そう言うならと、何気なく私も目の前の操舵輪に触ってみた。

確かに、感触は今麻里が言った通りのものだった。いかにも長年、同一人物か違うかそこまでは分からないが、何度も数え切れないほどに触れられた結果としての見た目なり手触りとなっているのが良くわかった。

「確かに麻里の言ってた通りね…良い感触だわ。どう、律?」

と、私に続いて手を伸ばし触る律に声をかけると、「うん…確かにそうだね」

と、意外と面白げにウンウン頷きつつ”サワサワ”していた。


生徒達の一部から”王子”などとあだ名をつけられるような、『少女漫画かっ』とツッコミたくなるような、女性にしては高めの身長にスラッとしたスタイル、男役風な低音の効いた声などなどをしてるクセに…って、これは多分、いや、間違いなくこの言い草はすぐに裕美達から一斉に色々と私が突っ込まれそうだからここら辺にしておくとして、それなのに中身が誰よりも”乙女乙女しい”律にしては、珍しいと、一人微笑を浮かべて眺めていたが、その時、『カシャッ、カシャッ』と複数回背後から何かの作動音が聞こえてきた。と同時に、直接は見ていなかったのだが、何やらその度に強い光源が一瞬だが焚かれている様にも感じた。それらの妙な出来事を含めた色々な些細な考えが頭を過ぎったので、その中でも一番単純な疑問を口に出すことにした。

「…って、もう触っといてなんだけれど…これって触って良いものなの?」

と言いながら振り返ると、次の瞬間『カシャッ』という作動音と共に、強い光が目に飛び込んできた。

私は思わず光を避けるために片手を目の周辺に置いたのだったが、その光も一瞬のことで、すぐに辺りは元の薄暗さに戻っていた。

目もすぐに慣れたが視線の先には、カメラを顔の前で構える”カメラマン風”の麻里の姿があった。

「…え?」

と取り敢えずというのか間を埋めるためにも声を漏らすと、「え?」と律もワンテンポ遅れて私に続いて言った。

その後で律も私と同じ様に操舵輪を背に向くと、「大丈夫だよー」と麻里は胸辺りにカメラを下ろしてから笑顔で言った。

「そこに飾ってある操舵輪は、誰でも触って良いものなの。てか…」

とここで一旦溜めてから続けて言った。

「むしろ触ってもらうために設置されてるんだなぁー」

と軽い調子で自慢げに言うので「あ、そうなんだ…」とついつい釣られて返してしまったが、すぐにハッと我に返って薄眼を使って続けた。

「…って、あのねぇ…それは良いけど…なーに写真を撮ってるのよ?しかも勝手に」

と私が言うのを聞くと、「えー、だってぇー…」と麻里は両手を後ろに回してクネクネとイジらしく動いて見せたが、すぐにニパっと笑いそのまま続けて返した。

「撮っても良いか頼んだら、断られるの分かってたもん」

「…ふふ」

と私は昼間の出来事を思い出して、クスリと一度笑ってから声をかけた。

「別にただ撮る分には構わないわよ?なんか裏がなければ…ね?」

と最後に隣に顔を向けると、「ふふ…うん」と律も微笑み返してきた。

私も釣られる様に同じ種類の笑みを浮かべつつ顔を戻したのだが、そこには、なんだかバツが悪そうな麻里の表情があった。

「んー…」と麻里はその表情のまま重たげに口を開いた。

「…裏があるから頼み辛かったんだよねぇ…」

「…は?」

と私が思わず声を漏らしたその時、「あははは」と私と律の背後から複数の笑い声が聞こえた。

何事かと二人同時に振り返ると、薄明かりの中で、裕美と藤花を中心に、紫と他の班の子達を含めた全員がこちらにニヤケ面を向けてきているのが見えた。

と、私たちと視線が合ったその時、「麻里ー?」とまず紫がこちらに声をかけてきた。

「良い写真撮れたー?」

「うーん」

と麻里は明るい口調で返答しつつ、足取り軽く紫達の元へと歩み寄って行った。

「あ、ちょっ…」

と、まだ話の途中だというのに勝手に行ってしまった麻里の背中に声を投げつけたが、それは届かなかった、いや気付かなかったのか”フリ”なのか、まぁそんな細い事はどうでも良いのだが、麻里はカメラの液晶部分を他のみんなに見せていた。

それを見た子達も全員が「おー」や「良いねぇ」などと言葉を交わしていた。

そんな皆の様子を私と律は昼間と同じ様に顔を見合わせていたのだが、もうこの時点で具体的に詳しくは知らなかったにしても、それでも全員の反応から何となく察していたそれでも、ため息交じりに声を掛けずには居れなかった。

「…ちょっとみんなー?」

と私は、操舵輪の掛かっている柱を拳の甲でコンコンと軽く叩きつつ、もう片方の手は腰に当てながら、若干上体を前に倒しつつ、顔いっぱいに不満げな表情を浮かべながら口を開いた。

「…これはどういう事?」

「え?えぇっと…」

と麻里が言った直後、私の顔を皆が一斉に見てきたかと思うと、次の瞬間には全員がパタッと先ほどまでの空気を引っ込め始めた。俗な言い方をすれば”マジ”な雰囲気だ。

私は私で冗談が半分以上だったというのに、まさかこんな空気の劇的な変化は予想していなかったので、『この薄暗いデッキにいるせい…かな?』と推測を立てる他には、こちらから何も言えずに、当事者だというのに事の成り行きを静観することにした。

…いや、まぁ今そう描写したばかりなのだが、それはまだそれほど付き合いのない他の班の子達が発する若干の緊張感が見せた幻の様なものだったらしく、勿論…というか、小学校からの付き合いである裕美を除いても、もう私達時分からしたら長い付き合いになる藤花や紫などは深刻な顔など一切見せずに、変わらずにニヤケっぱなしだった。

「あのね、琴音」

と裕美が後ろから麻里の肩に両手をポンっと置きつつ、明るく笑いながら口を開いた。

「その操舵輪ってさ、ただのオブジェじゃなくて実際に世界の海を航海する時に使われてきた”モノホン”なんだって」

「え、えぇ…?」

と私としては、急に何の話かと当然の反応として戸惑いげに返したのだが、それには構わずに裕美は「でさ…」とここで、”絵里仕込み”の悪いクセ…と、ふふ、敢えてそう言わせて貰うが、妙に芝居風味を前面に打ち出しつつ先を続ける。

「波が荒れた時とか、どんなに険しい障害が現れたとしても常に目的地を目指した操舵輪…。これに恋人達が二人で鍵をかける事によって、二人の愛の航海も無事に目的に辿り着ける様に…って、願いが掛けられてるんだってさ!」

「こ、恋人…?」

と話を聞き終えた私は、そう漏らしつつ律と顔を見合わせた。相変わらず律からは何の言葉も無かったが、しかしその表情から同じ心境なのはすぐに察せられた。

…まぁ、さっきも軽く触れた様に、昼間のアレと同じ空気感だったので、”この手”のことだろう事は分かっていたのだが、それでもやはり一気に情報量が提示された為か、すぐに何から突っ込めば良いのか整理が追いつかなかった。

だがまぁ取り敢えず、真っ先に頭に浮かんだことをそのまま口にしてみる事にした。

「…ていうか裕美…」

と私はここでニヤッと一人笑ってから続けて言った。

「あなた…散々普段から私の事を”恥ずいセリフばかり吐いて”と言ってくるけれど…ふふ、今のあなたも大概恥ずい言葉を羅列してたわね」

「えー…」

と裕美が言葉を濁した様に”見えた”私は、してやったり、一本取れたと無邪気に小さく心の中で喜んでいたのだが、それも束の間、裕美はふと麻里、そして紫に視線を流しつつ、私に負けじとニヤケながら口を開いた。

「…ふふふ、普段のあんたと一緒にしないでよー?あんたは特に仕込みなくツラツラと話して見せるけど、私にはきちんと元ネタがあって、ただそれを読み上げただけなんだから」

「…は?」

と私が漏らす中、裕美、麻里、紫が顔を一度合わせて、後から藤花も混じったかと思うと、おもむろに紫がさっきから手に持ちっぱなしだったスマホの液晶画面を、何だか気持ち誇らしげにこちらに向けてきた。

…まぁ、これ見てって意味なのだろうが、それほど距離が離れていないにしても流石に中身をハッキリとは見えなかった。

メガネをしていなかったのもあり、目を細めつつ何か見定めようとしたその時、「さっきねぇ」と裕美の後を引き継いで紫がスマホをこちらに向けてきたまま口を開いた。

「ついさっきなんだけど、麻里から突然メッセージが送られてきてさ、何かと思ったら…さっき裕美が話したような事が簡単に書かれていたんだよ。それと一緒に『だから写真を撮るんで雰囲気を作りたいから、他のみんなには悪いけど写真を撮る時にカメラを意識しないで、普段通りに過ごして欲しいの』って付け加えていたの」

と紫は途中からスマホを覗き込みつつ文面を読み上げていたが、一旦区切るとスマホを制服のポケットにしまってから、笑みを浮かべつつ先を続けた。

「これ見た瞬間にさ、二人には悪いけど面白いって思ってね、すぐに裕美と藤花にも見せたら…思った通りというか、すぐに乗っかってきてさ」

紫の言葉を聞く裕美と藤花は満面の笑顔だ。

「それで他のみんなにも話してみたら…ふふ、こうしてやっぱり面白がってくれてね、それで実際に実行したってわけ」

「望月さん、ごめんねー?」

「ごめんよ、律ー」

などなどと、紫の言葉の直後、他の班の子達から苦笑い交じりに声をかけられた。

その反応に私と律は、もう今日だけで何度目になるかという呆気にとられながら顔を見合わせたのだが、

「まったく…ふふ、もう良いってば…ね?」

「ふふ…うん」

とこちらも苦笑まじりに返した。

「なんか私のせいかも知れないけれど、別にさっきのだって本気じゃ無かったんだし…」

とここで裕美達に視線を移すと、

「…この子らの、毎度の”悪だくみ”だろうって、すぐに気付いたしね」

と途端に目を細めて声もなるべく表情を殺しながら言った。

それを聞いた裕美達は愉快げに笑っていたが、ふとそんな中、裕美がまた私に話しかけてきた。

「はー…あ、でさ、それでそのメッセージにね、この船に乗船したっていう誰かのブログが添付されててさ、短い文だったんだけれど紹介が書いてあってね、それを今さっきそのまま読み上げたってわけ」

「…ふふ、なるほど」

と私は色々と頭の中で符号が一致するのを覚えつつ自然と笑みを零した。


ここで急に脱線する様だが、裕美への笑みの理由を二つばかり触れさせてもらおう。

まず一つ…さっき見てた限りでは、スマホを覗き込みながら麻里からのメッセージを読み上げていたのとは違って、そう自分で言いつつも裕美は何も見ないままセリフを吐いていたのに気付いたから…というのがあった。

一度か二度か分からないが、その文面をチラッと見ただけで、このような芝居掛かったセリフを自分の中で消化して裕美はツラツラと述べたという事になる。

これは…私はあまり使い勝手が良すぎる故に安易に世間で使われてしまっている”才能”という言葉を使いたくは無いのだが、この件ばかりではなく、裕美は水泳だけではなく、いわゆる”演劇”の才能があるのでは無いのかと、一人ひそかに考えていた。

…”才能”とは何かについての定義はここでは一旦、のちにどこかで触れることを約束しつつ保留するとして、それというのも、そう思わせられるキッカケというか理由はいくつも挙げられる。小学生時代に一緒に過ごす中で何度も急に付き合わされた恋人ごっこ…などを始めとする、昔から何かを演じるいわゆるごっこ遊びが好きなところ、これは以前、大分前になってしまうが話した事を覚えておられていたら納得して頂けると思う。

だがそれだけでは無い。実は…ふふ、これは私としては同志を一人得られた様で嬉しい事この上ないのだが、ここ最近…というか、ここ数カ月にわたり、裕美にせがまれるがままに私の本棚から小説、特に戯曲を良く借りていく様になったのだ。急に戯曲に興味を持つ…これだけでも、またもや私の説に証拠が上乗せされていると言っても過言では無いとは思うのだが、また何故急にこうした具体的な形で現れたのか、その理由も実はわかっていた。

…ふふ、ここ数カ月というとことで察する人もおられるだろうが、敢えて言えば、そう、例の池袋で観劇したあの日がキーポイントだった。

覚えておられるだろう。マサさん脚本で、百合子、彼女と一緒に名演技を披露してくれた、絵里の学園在学中に一緒に演劇部で活動していた一年先輩の有希の二人がメインを張った、イプセンの”人形の家”を観たあの日だ。

自分が好きな絵里が元演劇部だったのもあり実は演劇に興味があった事を裕美が話してくれた後で、少し渋るのを押し切って私から人形の家を貸したわけだったが、約170ページほどある文量を一晩で読み切ってしまった点からして片鱗は見えていた。

だがそれに加えて、劇を見終えて、そこで話や写真で見た事のあった絵里が学生時代に慕い、そして今までもずっと気にかけていた有希と出会い、その後も毎度では勿論なかったが、私と一緒に絵里の家に遊びに行った時に有希もたまたま遊びに来ていた時があり、その時に二人の学園生時代の話と、演劇部の話などなどを聞いていくうちに、遂には私から本を借りるまでとなっていった…という経緯だった。

…と、相変わらず少し触れるつもりが長々と話してしまったが、一つ目としては裕美の自覚しているかどうか、演劇における才能の一つであろうセリフ覚えの良さを、私個人としてはあまり良い場面では無い中ではあっても披露されて、それで思わず微笑んだ次第だった。

そして、裕美とは別に、後もう一つの笑みの理由というのは…


「…ふふ、麻里」

と私は微笑んだまま声をかけると、「え、あ…うん」と、まだ一人だけバツ悪さげに苦笑しながら応えた。

そんな何だかシュンとしてしまっている様子に「はぁ…」と長めにため息を吐くと、笑顔もそれに合わせて呆れ笑いになってしまいつつ声をかけた。

「あなた…ふふ、今この時に思いつきでやったんじゃないでしょう?」

「へ?」

と急に何を言い出すんだと言いたげな顔つきを見せていたが、構わずに続けた。

「だって…今急に思いついたっていうのでは、裕美が見たっていうブログなんか添付する時間が無いものね」

と言うと、「あ、う、うん…まぁ…」と麻里は少し照れ臭そうに返した。

「…うん」

「まったく…」

と私はまたここで一度ため息を吐いてから笑みを作りつつ言った。

「昼間といい今といい…言ったじゃないの、ちゃーんと事前に伝えてって」

「だ、だってぇ」

とここで段々と普段の調子を取り戻しつつあるのか、麻里は拗ねて見せた。

「だってもヘチマも無いわよ」

「んー…」

と麻里はここで少し一人で唸って見せていたが、パッと顔を上げると、私と律の顔をマジマジと見た後で、まるで顔色を伺うように少し不安げな様子で口を開いた。

「…琴音ちゃん、それにりっちゃん…ゴメンね?」

「…」

とそんな私たち三人の様子を、いつの間にか表情を落ち着かせつつ眺めてきている裕美達の様子が、麻里越しに見えていた。

…勝手な意見だろうが、我ながらなんでまた夕方の様なマジな空気になってしまっているのか今だに戸惑っていたのだが、それでも一因は自分にあるのだろうと自覚していた私は、キッカケ作りにまた長めに息を吐いた。

「…ふふ、まぁ確かに盗撮された私達としては良い気は勿論しないけれど…律?」

「…へ?」

と、恐らく声をかけられるとは思っていなかったのだろう、ここ最近では一番に目を大きく見開きさせつつ声を洩らした。

そんな様子には構わずに私はここで悪戯っぽく笑いながら続けて言った。

「私は許してあげても良いと思うのだけれど…ふふ、王子としてはどうなのかなって思ってね」

「ちょ、ちょっと琴音…」

と律はますます見るからにたじろいで見せた。

「お、王子って…」

「だってそうでしょう?」

と私はここで興に乗じて、半歩下がり真隣に立つと、前触れもなくいきなり律の片腕に絡みついた。

その瞬間、あからさまに律はビクッと大きく反応を示した。

そしてそれは律だけではなく、麻里をはじめとする他のみんなも、具体的には十人十色だったが大きなリアクションを見せていた。

「こ、こと…ね?」と小さく呟く律と、他のみんなをそのままに、今度はその腕から体を離すと、今度はその先にある手を両手で掴み、それを大きく揺らしながら続けた。

「だってさぁ…不本意だけれど、ごく一部とは言え”姫様”だとか、”深窓の令嬢”だとか言われている私ばかりに弁論させてさぁ…ふふ、もう一人の当事者であるはずの王子様が、いくら待っても手助けしてくれないからねぇ。…ふふ、そろそろ言葉が欲しいなって思ったのよ」

と、我ながら、自分から始めた茶番とはいえ、途中から何を目的にしているのか分からなくなりかけていたのだが、”姫様”だとか”深窓の令嬢”などは顔から火が出る思いで、それでもなんとか絞り出しつつ、なんとか最後まで役を演じきった。

この…自分で言ってしまうが中々分かりにくい私のノリに、誰もがすぐには反応を示さなかったが、やはりというかクスッとまず裕美が吹き出す様に笑みを浮かべると口を開いた。

「…ふふ、琴音ー、その茶番はなんなのー?」

「自分で言うかー?」

と紫が後に続く。紫特有の企み風の笑顔だ。

「何よー?…いつもあなた達が言ってくるくせに」

と私がツッコミを入れると、

「あははは」

と直後に藤花が透き通る特徴的な高い声で高らかに笑うと、それを起点に、私の隣にいる律を含めた他の皆の間で笑い声が広がった。

それでもただ一人麻里が置いてけぼりになってた感じだったが、それはさておく様に律が苦笑まじりにこちらに顔を向けつつ重たい口を開いた。

「…ふふ、確かに、毎度毎度…うん、特にここ一年ちょっと前からずっと、私達二人に関してこの手のノリが多かったけれど、その度に琴音、あなたが素早く反応して矢面に立ってアレコレと対応してくれちゃうから…私としてもついつい甘えちゃってたよ」

「でしょー?今気づいた?」

と私がウンザリげに、しかし満面の笑みで返したが、それにはニコッと笑って見せるだけで済まされたが、律はそのまま柔和な笑みを麻里に向けた。

「…麻里、別に許すとか許さないとか、そんな大袈裟な話ではない…はず、だよね?…どっかの誰かさんが大きく言い過ぎただけで」

「はいはい、そうですね」

と私が不貞腐れ風に合いの手を入れた。それにもただ微笑むだけで済まして先を続ける。

「でも…ふふ、うん、そのどっかの誰かさんが言ったのと同じで、まず事情…というか、説明だけはして欲しかった…な。うん…私からはそれだけ。どっかの誰かさんと違って…」

とここで一旦溜めると、私に視線だけ向けつつ、口元は緩めながら言った。

「…ふふ、私は弁が立たないしね」

「そんな弁が立つような誰かさんっていたっけ?」

と今だにキャラがぶれぶれのまま私がつっこんだが、「ふふふ」と律に品の良い笑みに打ち消されてしまい、その直後にはまた皆で笑い合うのだった。

それにはまた乗り遅れていた麻里だったが、私と律が揃ってただ笑顔を向けると、麻里も初めは戸惑い気味だったが、すぐにいつも通りに笑い返してきた。


「変な空気にしちゃったようでゴメンなさいね?」

と、律と一緒にデッキの手摺りに戻るなり、麻里、そして他のみんなに声をかけた。

「本当だよー」

とすかさずつっこんできた裕美はスルーして、麻里に話しかけた。

「まったく…今日は何だかこんなのばっかりね。…麻里が余計な事をするからよ?」

とまた蒸し返すような事をわざとぶつけてみたが、

「ゴメンってばぁ」

と麻里も戯けて返すに留めていた。もうすっかり元に戻ったようだった。

この直後、「…律、さっきはごめんね?」と、ボソッと小さく、何に関しては敢えて具体的に言わずに謝ると、一瞬だけ何事かと訝しんでいた律だったが、すぐにハッと気づいたそぶりを見せた後で、「…ふふ、んーん」と微笑みながら首を振って返してくれた。


そんなやり取りをし終えると、「まったくー、律も本当に琴音と同じで、久しぶりに長く話すかと思えば恥ずい事をヌケヌケと言うんだからなぁ」と無邪気に笑いながら言う藤花を発端に、会話に花が咲いた。

…ふふ、中々にキツイ言い方のように思えはするのだが、しかしそこは藤花と律、この二人の長い長い付き合い、そしてそれによって培われたであろう、クサい言い方をすれば絆がある証でもあるだろう。それを証拠に、そう言われている律本人は、思いっきり照れて見せていたが、それでも無理のない笑みを覗かせていた。


そのまま”王子”がいかに内面が”乙女”か、藤花をはじめとする他の班の”学園初等部組”を中心に盛り上がっていたが、それは思っていたよりもすぐに収まり、当然というか早速麻里が盗撮した写真の中身について、今この場にいる二班合わせた総勢十二名で円陣を組み、麻里のカメラの小さな液晶部分を見始めた。

数枚ほどの写真を見ると…ふふ、麻里の演技指導通りに日常を演じている裕美達を背景に、私と律が操舵輪を二人で掴みつつ言葉を交わしているという姿がそこにあった。

…ふふ、確かに、昼間の時よりも自然体な良い写真だわ。

と素直な感想を持ったが、これを言うと益々助長させるだろうと思い、心ではそう思いつつも、一枚一枚に一々難癖を付けていった。

それに対して何が面白いのか、麻里をはじめとする何故か律まで含めた他のみんながニコニコと笑い合うのだった。

とまだ笑い声が収まらないその時、突然船内アナウンスが鳴らされた。後十分ほどで到着する旨だった。


放送が終わってしばらくすると、船内に何だかザワザワとした音と共に人が大勢一斉に動き出すのが感じられた。

そんな中、私たちはというと、特にこれといって準備をするのでもなく、そんな雰囲気をよそに場所をそのままに変わらずにおしゃべりを楽しんでいた。

というのも、私たちは既に夕食会場を後にする時に、忘れ物をしないように気を付けながら、全部の荷物を持って出ていたからだ。別にこれといった準備は既に終えていた。


そんな階下から聞こえてくる慌ただしい物音、話し声に耳を何となしに傾けていたのだがその時、『パンッ』と麻里が急に手を打ったので、他の私たちで一斉に音の方に向いた。

注意が自分に集まったのを確認した麻里は、明るい笑みを浮かべつつ口を開いた。

「あ、そうだ!せっかくだし…そこに掛かっている鍵をみんなで一緒に買わない?…記念としてさ」

「え?…」

と麻里が途中から指を向けたので、その先に目を向けると、そこには操舵輪があった。

「あー」

とまず藤花が操舵輪に近寄ると、腰を屈めて顎に手を当てるという、さながら一昔前の探偵然とした格好をして見せつつ言った。

「確かに、よく見たら何だか鍵が付いてるねー」

「…?…あー」

と、初めのうちは鍵なんかあったかと不思議に思ったが、すぐに律と二人でジロジロと眺めていた時に、操舵輪の幾く本もある軸…とでも言うのか、それらの間に何本も針金が張り巡らされていて、そこにほんの数個だったが、ハート型の南京錠が掛かっていたのを思い出した。

声を漏らしつつ顔を向けると、どうやら私と同じ様に思い出したらしい律と顔を見合わせている中、

「しかも…」

と藤花の両脇に裕美と紫が近寄り立つと、藤花と同じように腰を屈めつつ言った。

「ハート型じゃん。可愛いねぇー」

「確かにー…って、麻里?」

と紫は二人をそのままに自分だけ上体を戻すと、振り返り麻里に顔を向けつつ言った。

「これって売り物なの?」

「そうだよー」

と麻里は笑みを強めつつ、今度は指先を床に向けて答えた。

「一階の売店でね売ってるらしいよー。…ふふ、なんでもね、ハート型の鍵をそこにロックする事で、カップルがお互いの想いが変らない事を誓う…って感じでかけてるみたい」

「へぇー」

と、藤花、裕美、紫だけではなく、律と私以外の全員がまた操舵輪のそばに近づいて眺めながら声を上げていた。

その様子を苦笑いを浮かべつつ一瞥してから、ニコニコしている麻里に振り返ると、またもや私はため息交じりに、しかし笑みも交えつつ声をかけた。

「まったく懲りないんだから…って、ふふ、麻里も紫のこと言えないわね。そんなに隠れて下調べしてくるなんて」

「えへへ」

と麻里が照れ笑いなのか、弱い照明下のせいでキチンとは判別出来なかったがその時、「何よー」と後ろから声をかけられたかと思うと、ガバッと後ろから腕を肩に回された。

突然のことでビクッとしてから見ると、その主は…”なんと”紫だった。

ここで二重にまた驚いてしまった。


んー…うん、いや、確かにこの紫っていう女の子は、それこそ中学一年生の時からこの様に、特に、本人は自覚してない…かも知れないが、私に対してこの様に肩を組むという行為をしょっちゅうしてきていた。その度に慣れない私は毎度一度は驚きつつ、「ちょっとー…紫、邪魔」と欝陶しげに腕を払うか、手に軽く自分の手でパシッと叩くのが毎度の流れとなっていた。こんな風にボディータッチしてくるのは、同年代で言えば、今はすっかりしてこなくなったが小学校時代のヒロ、そして裕美、それ以外には紫だけだった。まぁこんな推測を述べるのは無粋も良いところだが、恐らく紫は私への裕美の態度を見て、自分もしても良いだろうと始めたのだろう。

…ふふ、それに対しては驚く以外は何も不満など無い。

…無いのだが、今日も色んなことがあったせいで本当に同じ日かと不思議に思いつつ、今朝、早朝の例のホテルのエレベーターホール内での出来事…今日一日慌ただしく過ごしていたせいで、さすがの私も失念してしまっていたのだが、こうして急に普段通りにこられた瞬間に、逆に思い出して、自分でも驚くほどに益々体を強張らせてしまったのだった。


そんな私に気づいているのかどうか判別がつかない程に普段通りに悪戯っぽく企み顔で笑う紫は、顔があった後も続けて言った。

「悪かったわねぇー?私は誰かさん達と違って真面目ちゃんだからさ。それに…学級委員だし」

とイラズラっぽく笑いつつ言うのをみて、ここにきてようやく緊張がほぐれた私は、肩に掛けられた手をパシッと軽く叩いた。

「…ふふ、それ自分で言う?」

とニヤケながら返すと、「イッターイ」と叩かれた手をぷらぷらさせつつ、ここで私から体ごと離れた。

「大袈裟ね」

と私が明るく笑いながら言うと、それでもニヤニヤしながら手をぷらぷらさせ続けていたが、そのまま

「そのセリフ…さっきの私へのお返しー?」

とここでふとニヤッと紫も笑いながら返してきたので、その”さっき”を瞬時に思い出した私は目を細めてただ笑うと、紫も同じ様に笑い返してきた。

と、その時、「ちょっとー?」と置いてけぼりを食らう形となった麻里が不満げな表情を浮かべて漏らしたので、「ごめんごめん」と私たち二人で平謝りをした。

「もーう…」とブー垂れている麻里をよそに、この時にようやくというか、散々操舵輪を観察し尽くした他のみんなが戻ってきた。

それを見た麻里が「で、どうする?」と問いかけてきたのだが、間を置かずにポンっと隣にいた紫が私の肩を軽く叩いて言った。

「んー…じゃあ…ふふ、ここは私たちのグループのリーダーである琴音に決めてもらおう!」

「…は?何言って…」

と唐突に始まった謎のノリに戸惑う中、「あー、良いねぇ」と、何が良いと思ったのか裕美がすぐに察した様子で声を上げると、その直後には私の班員全員で意思が統合されていった。

チラッと視線を逸らすと、他の班員達は不思議そうにしていたのでそれがまだ救いだったが、「でしょー?」とそんな私達をよそに、またポンっと今度は背中を軽く叩いてきたかと思うと、紫が企み顔で言った。

「あはは。だって前も言ったっしょー?このグループは外から見ると…ふふ、姫さまがリーダーに見えるって」

「…あ、あぁー、確かにー」

とここにきて何故か急に合点がいった風な様子を見せた他の班の子達が「ぽい、ぽい」と、一斉に紫たちに加勢し出した。

「ザ・裏番って感じでしょー?」

と裕美がこちらにニヤケ面を向けてきつつ、他の班員達に話すのを聞いて、その瞬間絵里がそんな事を宝箱で言っていたのを思い出した私は、自分の事だというのについつい笑みを零してしまった。

しかしそう笑ってばかりもいられないと、急に孤立無援になった私は、それでもなんとか抵抗を試みることにした。

「ちょ、ちょっとー?『確かに」じゃないよー?…裏番でも無いし」

「えー」

と裕美は私の言葉に不満げな言葉を漏らしつつ、ただ愉快に笑ってみせるのみだったが、それには何を言っても無駄だと肩を竦めるだけに留めて、紫に顔を戻した。

「紫…そう言いながら自分で噴き出してるじゃないの」

「あははは」

「いやいや、あははじゃないし…まったくリーダーかなにか知らないけれど、それは置いといても、今はあなたが班長でしょうに」

と何とかツッコミを入れてみたが、この場に充満する雰囲気的にこれ以上の抵抗は無意味と、嫌な慣れだが察した私は、そろそろ本格的に船足が遅くなってきたのにも気づいていたというのもあって、深く息を吐くと、呆れ笑いを漏らしつつ、後ろへ流れるスピードがすっかり落ち着いてしまった市内の灯りに一度視線を流してから、ここまでずっと一人で立っていた麻里の、背後に見える階下へ続く階段で目を止めて見つめながら言った。

「はぁ…まぁいいや。じゃあ…もう時間も無いし、買うならチャッチャと行きましょう?」


「はーい、リーダー」

と私の言葉の後で元気に返事を返すと、すぐに皆が私の周りに駆け寄って来た。

…捕ってきた獲物を自分の雛に与える母鳥って、こんな感じかしら?

などと何だか我ながらズレた感想を覚えていると、裕美に笑顔でグイグイと背中を押される私を先頭に、皆で一階にあるという売店へと向かった。


歩く間、私が如何に裏番かを裕美を中心とするみんなで他の班の子達にテンション高く説明するのを、…私としては何故かとしか言いようがないのだが、そんなくだらなく面白くもないだろう内容を、他の班の子達が凄く興味深げに聞くのを呆れ笑いしつつ私が眺めていると、麻里の案内で例の売店に辿り着いた。

少し店内を探すのかと思い辺りを見回していたのだが、例の話にあった鍵は堂々と売り場の一番目立つ正面の出入り口にデンと置かれていたのですぐに見つかった。

バスケットの中にいくつも入れられており、ビニールにリボンで可愛く包装された中に、上の階で見たのと同様の、船内の照明を反射して金属特有の鈍い光を放つ、ハート形の南京錠が収まっていた。そのバスケットの後ろには、平均的な額縁サイズの看板が立てかけられており、そこには今さっき麻里が説明した様な内容が書かれていた。

「へぇ…これかぁ」

と早速試しに一つ手に持ってみると、見た目からくる想像よりかはズッシリと重みを感じた。

他のみんなもそれぞれ手に持って十人十色に弄んでいたが、ふとここで私は、このハートに触発されたのか、例の件で裕美をからかいたい衝動に襲われた。

…ふふ、例の件とは言うまでもないだろう。

「…裕美ー?」

「んー?なーにー?」

とすぐ隣で興味津々に鍵を眺めていた裕美に声をかけると、そのまま目を話す事なく返事を返してきた。

そんな様子には構わずに、特に周囲を確認する事なく、裕美の耳元に口を近づけて言った。

「…ふふ、勿論あなたは”奴”のために買っていくんでしょ?…ヒロのために」

「…っ!ちょ、ちょっとぉ…」

と私の言葉を聞いた瞬間、ガバッと素早い動きで私から離れると、目を真ん丸にしてこちらを見てきた。明らかに動揺している。

「ふふふ」

と私は逆にわざとお淑やかに演じつつ控えめな笑みを浮かべただけに止めると、「も、もーう…」と裕美は、照明だけのせいではないだろう、若干両頬を桜色に染めながら、両手の中で鍵をモジモジと触っていた。

「お土産に、奴の分まで二つ買っていけば良いじゃない?」

と私がニヤケつつ追い討ちをかけると、裕美はタジタジなのはそのままに、しかしどこか寂しげな表情を見せつつ答えた。

「そ、そんな事するわけ…てか、出来るわけないでしょ。そ、そんな事したら…」

とここで一旦区切ると、裕美は一瞬チラッとこちらに視線を流したかと思えば、また手元の鍵に戻して呟いた。

「…こっちの気持ちが…バレバレになるじゃん…」

「…ふふ」

と、そんな急に乙女乙女しくなった裕美の様子が、同棲ではありながらもとても可愛らしく思えて、また同時に、

…ふふ、バレた方があなたの為には良い気がするけれど?

と、そんな感想を覚えたためにポロっと微笑を零してしまった。

そんな私の笑みにすぐに気付いた裕美が、恨みがましげな表情を向けてくるので、

「まぁ、そういうものかもねー…ふふ、ゴメン」と、口では謝りつつも、今度はニコッと目をぎゅっと瞑りながら返した。

それでもまだ半分以上はワザとらしく膨れて見せる裕美をニヤニヤと眺めていたのだが、ふとここで「なになにー?何の話ー?」と、裕美とは反対側から急に声を掛けられた。

会話の内容が内容なだけに、裕美だけでなく私までドキッとしながらその声の方を見ると、そこには私から近い順に紫、藤花、律がいた。三人の手には例外なくハートが握られている。因みに声の主は紫だ。

律の隣には麻里がいたのだが、麻里は律とは反対側にいる他の班員達と鍵について盛り上がっていた。


「二人で何をコソコソ話してたのー?」

と続けて藤花。

「なんか誰に何かを買っていく的なのがチラッと聞こえたけど?」

と、紫を避けるために少し上体を屈めつつ私達に話しかけてきたが、その顔には何も裏に含みを持たせていないのが丸わかりな、無邪気な表情が浮かんでいた。

…ふふ、流石藤花、紫越しだから騒がしい船内というのもあって聞こえ辛いはずだけれど…やっぱり耳が良いのねぇ

と妙な事で感心してしまったが、「あ、いやぁ…」と、この時は身体ごと三人に向けていたので、位置的に顔を後ろに向けつつ私は口を開いたのだったが、「あ!いや!ち、違うの!」とアタフタと慌てつつ口を挟む裕美の姿がそこにあった。

「ほ、ほらぁー、これって南京錠っぽいのに、ハート型で可愛いじゃない?」

と裕美は手に持った鍵を顔の位置まで軽く上げて見せながら続ける。

「色合いは、ま、まぁ…ちょっと金属そのままって感じで無骨…って、いや、これは悪口…じゃないんだけど、それが何だかどっちかっていうと男っぽい感じだけどさ、それとこのハート形が良い感じでバランス取れてるっつうか、な、なんか良い感じじゃない?」

「う、うん」

と、突然裕美がベラベラと、同じ単語を繰り返したりしつつ早口で捲し立てるのを聞いて、他の三人は揃って”とりあえず”といった風な相槌を打っていた。表情は何事かと苦笑気味だ。

と、そんな合の手を聞いた裕美は、「で、でしょー?」とギアを一段階上に入れた様に益々テンションを上げつつ続けた。

「だ、だからさ?そ、そのー…あ、ほら、去年の文化祭の時にさ、私と琴音の地元の友達を呼んだ…じゃない?あの子らにさ、お、お土産…にも良いかなぁ…って、琴音と話していたところだったの…ネッ!」

と最後に少し間を置いたかと思うと、ぐっと勢いよく私の顔に自分の顔を近づけてきて話しかけてきた。

その勢いにタジタジになりながらも顔を眺めると、何だか爛々としている両目の奥に光が宿っているのが見えて、『ちゃんと話を合わせてくれるんでしょ?』と言われている様な、念をおされている様な気持ちにさせられた。

…まぁ本来は、他のみんなに裕美のことをバラしたいがためでは当然なく、ただ単に裕美個人をからかいたかったというそれだけの理由だった私は、裕美の要望通りに「え、えぇ…」とまだ勢いに押された状態のままに応えた。

「そ、そう…ふふ、それだけよ」

とそれでも結局は、何でか自分でも不思議だが、今置かれている状態に対して我知らずにどう感じたか自然と笑みを零しつつ、紫達にまた顔を向けながら付け加えた。

そんな風に対応したので、当然この時の裕美の表情は確認出来なかったが、それはともかく、どうやらそんな私の微笑がそれなりに効果を産んだらしく、「そうなんだ」と変に勘繰られたりされる事なく、無事に通過となった。


そのすぐ後で、文化祭に来た子達、具体的に言えば朋子が元気にしているかという世間話になったのだが、それに返しつつ、私の背後から深呼吸を吐く音がしたのを今も覚えている。


その会話もすぐに終わると、早速他の班員達合わせた合計十二人で一個ずつハートを持ってレジに並んだ。

私と裕美が列の最後尾に並んでいたのだが、まだ隣で動揺が引かない様子の裕美に、また耳に顔を近付けてコソコソと耳打ちした。

「まぁでも…さっき私を裏番呼ばわりした事へのお返しよ。ふふ、これで貸し借りナシね」

「…」

と裕美が、すぐには何も応えずに薄眼がちにこちらを眺めてきたので、まだ剝れている…というか、もしかしたら本気で怒っちゃったのかと少し心配になりだしたのだが、その時、

「…はぁー」と裕美は苦笑まじりにため息を吐いた。

その後でこちらに顔を向けてきたが、その顔には普段通りの裕美調の笑みが戻っていた。

「やっぱお返しだったかぁ」と言いながら中空を見上げていたが、「はぁ…でもさー?」と今度は途端に悪戯小僧風なニヤケ面を浮かべて言った。

「お返しは良いけど…ちょっとこれじゃ釣り合わない気がするんだけどなぁー?」

「えー、そうかなぁ?」

と私が惚けて見せると、それからは一瞬の間だけ二人の間で無言が流れた。だが、その沈黙も長くは続かず、どちらからともなくクスクスと笑い合うのだった。

「ふふ…あ、すみません、これ下さい」

と自分の番になったのに気付いて、手に持ったハートをレジテーブルの上に置いたその瞬間、

ボーーーッ

と不意に汽笛が外だけではなく船内にも響き渡った。港に着いた合図だった。


船がしっかりと停泊位置に着くまでの間、タラップの付く辺りで私たち全員は固まっていたのだが、その時に側にいた他の生徒達に、ずっと大事に手で持っていたハート形の南京錠についてアレコレと質問ぜめにあっていた。

皆して「可愛い」といった様な類の感想をくれたが、また同時に、「初めから知ってて、時間があれば私も買いに行ったのにー」といった風なセリフを口にするのから察するに、こういったものがある事自体も共通して知らない様だった。


船が完全に停まると、幅の狭いタラップから二列に並びつつ順々に降りて行った。

そして夕方に通った桟橋を戻り、今度は素通りせずにターミナルの中を通過した。

待合ホールや切符売り場を左に見つつ通り過ぎ外に出ると、今度は港に乗り入れている路面電車の線路に沿う様にゾロゾロと整列しながら歩いていたのだが、まだ中学生で体力が有り余っているとはいっても、無言ではないにしても口数が少なく、ドッと疲れが出ている様に見受けられた。

それは当然私たちも例外ではなかったのだが、手元のハート形南京錠のお陰か話題に欠く事は無く、他の皆と比べると格段にテンションが高めだった。


そんなこんなでしばらく歩いていると、目的地だった港の駐車場に着いた。

敷地内に入ると、そこにはこの二日間で見慣れたバスが三台停まっているのが見えた。

そう、私たちがこれまで乗ってきた観光バスだ。その乗車口の前には、日が落ちてだいぶ経ち空を暗闇が支配する下、正直人だと認識できるレベルの照明しかないこの駐車場内だというのに、大分離れた位置から私たちに気付いたガイドさんが、大きく手を振って迎え入れてくれた。

「お疲れ様でした」

と声を掛けてくれるガイドさんに、疲れている中でも各々は笑顔で返しつつ、淡い白色の灯りが点けられた車内に進み、昨日今日と座っていた自分たちの席に次々と座っていった。

ここにきてようやくというか、背中に背負っていたリュックを腿の上に置くと、手に持ったハートを仕舞い、そのついでに忘れ物がないかの確認をしつつ整理をしていると、バスは前触れもなくゆっくりと発進した。

この時私はずっと下を向いていたので気付かなかったが、おそらく毎度の如く安野先生とガイドさんが何度も全員が乗車したか確認した事だろう。

バスが駐車場を出て広島市内を走り始めた頃、早速これも恒例となっていたが、「お疲れ様でした」とまた同じ言葉に始まり、今回の”修学”についての感想を聞いてきたので、さっきまで言葉も少なく歩いていた同級生達とは思えないほどに、元気よくまた一々ガイドさんからの問いかけに各々が言葉を返していた。


…ふふ、今更だが、『本当に中学三年にもなって、ガイドの言葉に一々反応して元気に返すもんなのか?』と疑問に思っている、もしくは思ってきた方もおられる事だろう。

まぁ…正直当事者の私としても、そう思わないでもないし、実際に私は他の大勢と違ってただ笑顔を浮かべるのみだったのだが、なんと言われようと事実なのだから仕方ない。

んー…ふふ、まぁそれだけ”お嬢様校”の生徒である同級生達は、箱入り娘…とは言わないまでも、世間一般の同世代よりかは”スレて”ないという事なのだろう。

その証拠の一つに…って、証拠になるかは微妙だが、そんな私たちの中にしては”色々と”遊んでいそうな子達ですら、制服のスカートを折って短くする様な子は、少なくとも私の目に入る範囲では一人も見たことが無かった。当然この修学旅行中もそうだ。

裕美達にしてもそうで、普段の制服を着ない時、つまり普段着においてお洒落に全く無頓着な私が言うのは説得力に欠けるだろうが、あの子達は休日に会う時などは、普通の他の女子達と同様かそれ以上にお洒落を楽しむタイプなのにも関わらず、それでも制服はキチンと着崩さずに着ている。

大分前…って、それは中学一年生の頃くらいだと思うが、その日は休日で各々が自分の好きな格好で遊びに来ているのを見たその時に、ついつい疑問が湧いてしまった”何でちゃん”は質問をしてしまった事があった。

した瞬間に『しまった…」と思ったのだが、そんな女子としては変哲の無い質問を、裕美は慣れっこだろうから当然として、他の皆も特に引っかかる様子もなく答えてくれた。

それを詳らかに紹介する余地は今は無いが、聞く限りにおいては、誰一人も服装に関する校則に対して”も”不満に思っていない点では共通しているようだった。

…って、何だか思い出話風になってしまったが、要は何が言いたいのかというと、私含めても良いと思うが、そんな点でも厳しめの学園の校則には生徒達の間で、これといった不満は無い…という事だ。

何故か学園の制服事情について話すという脱線をしてしまった。話を戻そう。


ガイドさんとのコールアンドレスポンスにひと段落が付いた頃、不意にバスが止まる事なくずっと走りっぱなしなのに気付いた私がふと外を見てみると、等間隔に置かれたオレンジ色を発する照明灯が次々に後ろへと流れていくのが見えた。

どうやらバスは知らない間に高速道路に入っていたらしい。

この辺りから徐々に皆の間で会話は減っていき、それは、駐車場までおしゃべりし合っていた私たちも例外ではなく、すっかりエンジン音と、タイヤと道路との間に生ずる摩擦音、そして風切り音と、環境音以外には目立つ音は鳴りを潜めていた。

だが、他の子達は知らないが、そんな中でも少なくとも私たちは寝てしまったわけでは無かった。

チラッと時折見た限りでは、進行方向左手に座る麻里と紫も同じだったが、右手に座る私と裕美も、すぐそこの窓の外に流れる、先ほど述べた様な変化に乏しい景色を、何も言葉をかわす事なく、しかし一切飽きる事もなく、ただただ眺めているのだった。


高速道路を降りて、クネクネと一般道を暫く走ると、港脇の駐車場を出てから合計して約四十分ほどで目的地の、今晩泊まる宿へと辿り着いた。

ホテル入り口のすぐ脇に止められたバスから降りて、ずっと貨物室に入れっぱなしだった自分たちの荷物を受け取る間、ふと辺りを眺めてみた。

灯りが少なくハッキリとは見えなかったが、これから泊まらんとするそのホテルは、名前こそ”ホテル”と最後に付いていたが、ごく一般的な旅館然とした見た目をしており、ここでもまたふと似通っていたせいか、小学校六年時に裕美と行った時のことを思い出していた。


それから私たちは…まぁ流れとしては、ここでは詳細に触れることは無いだろうから、簡単にだけ触れることとしよう。何せ流れとしては初日とは大した違いが無いからだ。

夕食をすでに済ませてしまっていたので、その点だけは異なっていたが、早速ホテル内に入り、女将をはじめとするスタッフ達に笑顔で迎えられながら大広間にまず向かい、そこで入館式を行なった。

式が終わり、簡単な注意事項と明日の予定の確認を済ませると、また班長会議があるというので紫一人を残して大広間を後にした時に腕時計を見たのだが、時刻は夜の八時半を少しばかり過ぎた辺りを指し示していた。


安野先生から紫伝いに鍵を受け取った麻里を先頭に、二階にあるという部屋まで階段を使い上がって行った。

…ふふ、何故私たちの間で鍵が一つしか無いのか、もうお分かりだろう。そう、昨日の時点でも軽く触れた様に、二日目にしてようやく班全員が同じ一室に泊まるのだ。

実際道中でそんな会話をしながら盛り上がっていたのだが、部屋に辿り着いて中に入ると、ますますの盛り上がりをみせた。

これも先に軽くネタバレした内容だが、今夜泊まる私たちの部屋というのは、どの旅館でも見られる様な典型的な和室だった。

入った瞬間にまず嗅覚を刺激する畳特有の、嗅ぐと不思議と落ち着く気分にさせられるイグサの香り、十二畳ある部屋の中央部分に置かれたケヤキから作られた優しい木の色合いの座敷机に、その周りを囲む様に六人分の座椅子が置かれていた。壁には床の間もあり掛け軸が掛けられている。

部屋の奥には、今は全開になっていたが障子によって区切られた、部屋とは一段分ほど低く作られた広縁があり、そこにも、大きさは部屋にあるよりも半分程度小さい座卓と、部屋にあるのと同じ座椅子が机を挟んで向かい合う様に設置されていた。

そして、そのまた向こうには大きな窓があったのだが、生憎すっかり夜の帳が下りきってしまったせいで、外は時折数個の光の点が瞬いているのが見えるのみで、それ以外に見える物はなく、部屋に入ってきた私たちの姿を鏡の如く映し出していた。


「おー…」

と、盛り上がりを見せたとは言ったが、それはそれぞれの表情のことで、実際に物音自体は時間が時間だっただけに、皆の間でそれなりの理性が働いて、ため息交じりの声を漏らしただけだった。


早速私たちは大きな荷物と、日中に使っていたリュック類を部屋の隅に取り敢えず纏めて置いて軽く整理し始めたのだが、その時ふと私は作業の手を止めると、おもむろに広縁に行き、そのまま窓に手をかけた。

鍵がかかっていたので解錠し、何の目的も無かったのだが、試しに開けてみることにした。

実はそれほど期待していなかったのだが、思ったよりも全開に近いほどに窓は開いた。

まぁ二階という低い高さだったためかも知れないと、勝手に自分の納得いく推論を立てていると、ふとここで急にまたもや嗅覚と聴覚を刺激された。

それは潮の香りと、引っ切り無しに寄せては返す波の音だった。

そう、これは事前に知っていた事だったのだが、今夜泊まるこのホテル…というか旅館は瀬戸内海沿いに立地しており、表現過剰ではなく、本当に目と鼻の先に海があった。

…そのはずなのだが、やはり試しに目を凝らして見ても、さっきも触れた、どうやら海に浮かんでいるらしい、謎の光の点が反射することによって辛うじて分かる海面のゆらめきの他には、潮の香りと波の音によってでしか実感が”まだ”出来ないでいた。

と、窓を開けて大きく深呼吸をしていたその時、ガバッと後ろから抱きつかれてしまった。

この時は、この雰囲気に身も心も委ねていたので正直声を上げそうになるほどに驚いてしまったのだが、なんとか冷静を装いつつ後ろを振り返ると、そこには、抱きついたままの裕美がおり、顔一面に笑みを浮かべていた。

「ちょ、ちょっと裕美ー?…驚くじゃない」

と私は薄目を使って声を掛けたのだが、それに構う様子を微塵も見せずに裕美は、抱きついたまま顔を窓の外に向けると口を開いた。

「あー、良い風が吹いてくるねー。…んー、海の匂いだー」

とあまりに呑気な口調で言うので、毒気がすっかり抜かれてしまった私は、それでも最後の抵抗と、「ふふ、そうね」と、腰というかお腹周りに回された腕を振りほどきながら返した。

腕を振り解かれた裕美は、ここで一度またこちらに向かってニッコリと笑うと、顔を外に戻し、途端に横からでも分かるほどに不満げに口を尖らせつつ言った。

「あーあ、でもなぁ…海に近いって聞いてたから、オーシャンビューってのを期待してたってのに…こんな真っ暗じゃなぁ…」

「ふふ、今日あれだけ海を見たというのに、まだ見足りないの?」

「うるさいなぁ…」

と一瞬はツンと拗ねて見せたが、それも長続きせずに一秒も保たずにまた明るい笑みを零した。

それを見た私も何も言わずに微笑み返していたのだがその時、「なーにー?何を喋ってるのー?」と言うアニメ的な声が聞こえたかと思うと、藤花が私と裕美の間に割り込む様に入ってきた。

キョトンとする私たち二人をよそに、一度ニカッと笑った後で、「おー、真っ暗だー」と窓の外に向かって声を上げた。

「藤花…ふふ、声気を付けて」

と、いつの間に来ていたのか、私の左隣に律は立っていた。

「はーい」

と藤花はスンと澄ました表情を見せた直後にまたニカッと笑うと、また正面の暗闇に顔を戻した。

そんな藤花に静かに微笑みを向けた後で私とふと視線が合ったので、私からはやれやれと言いたげに笑うと、律も「ふふ」と小さく微笑み返した。

「あははは、確かに気持ち良いねぇ」

と、これまたいつの間に来ていたのか、裕美の向こうに立っていた麻里が明るく笑いつつ口にした、その時、「…あれー?」と後ろからまたもや誰かに声を掛けられた。

五人全員で振り返ると、そこには腰に両手を当てて仁王立ちする紫の姿があった。

「何してるのみんなー?全然整理してないじゃない」

と、部屋の隅に乱雑に置かれた荷物類に目を向けつつ、呆れ笑いを浮かべながら言った。

「だってー」

と藤花と麻里が咄嗟に駄々っ子よろしく返していたのだが、そのすぐ後で裕美も加わった。

「そうそう、私たちはキチンと整理しようとしたんだよ?でもさ…」

と裕美はここで急に私に視線を流すと、目は細めていたが口元を緩めつつ続けて言った。

「この姫さまが急に窓に向かって行って外の景色を見だしたからさ、私たちとしては従わなくちゃってことで、ついつい今まで一緒になって外を見てたの」

「ちょっとー?私だけの責任なのー?」

と私は、姫さま呼ばわりはこの場ではスルーしつつ反論しようとしたが、全部が嘘ではない…というか大体あっていたのもあって、「まぁ…」と私は苦笑まじりに紫に言った。

「…ふふ、大体合ってる…かな?」

と最後に悪戯のバレた子供よろしく笑うと、「もーう、しょーがないなぁ」と紫は心底呆れて見せたのだがすぐにクスッと笑うと、こちらに近づいて来て麻里の隣に立った。

そして「おー」と私たちがした様な声を一度漏らしてから、今度は小さく独り笑い、その笑みを保ったまま言った。

「…まぁ、私たちの裏番がそんな事をし出したら、賛成して同じ様にしないわけにはいかないもんねぇ」

と窓の外に向かって言うのを聞くと、

「…まだそれを言うか」

と今度は、私が紫の横顔に返しつつ心底呆れて見せた。

「ははは」とその私の言葉に紫はただ笑って見せただけだったが、他の皆は後に続く様に一斉に朗らかに笑い合うのだった。

そんな様子を見て一人大きく分かりやすく肩を竦めて見せたのだが、最終的には私も一緒になって笑った。


この一連の流れが終わると、乱雑としたまま整理が終わっていない荷物に一度目を戻してから、思わずといった風に笑いつつ紫が口を開いた。

「…さて、まぁ何にせよ取り敢えずは…荷物を片付けよっか」


紫の合図の元、私たちは広縁から出ると荷物の整理を粗方済ませ、制服もこの時に着替えて、壁に掛かっているハンガーにそれぞれがシワにならないように丁寧に掛けた。

皆がそれぞれ個性の出ている昨日と同じ部屋着姿になると、早速部屋の中央にあるケヤキの座敷椅子の周りに座ろうと皆で思い思いに座ろうとしたその時、

「さぁ…てと」

と、紫は声を洩らしつつ、不意に座りかけの私の肩に手を置くとニヤケつつ話しかけてきた。

「ちょっとちょっとー?姫さま、あなたはそんな中途半端な場所じゃないでしょ?…んっ、んっ」

「え?」

と紫が親指だけを自分の肩越しに背後に向けるので、その方向を見てみると、そこには床の間と掛け軸があった。

「なによ?」

と、本当はこの時既に何が言いたいのか察してしまっていたのだが、それを自分の口で言いたくなく敢えて惚けて見せた。

そんな私の内心などとっくに気づいている紫は手を下ろすと、ニンマリ笑いながら言った。

「『え?』じゃないでしょー?分かってるくせにぃ…ほーら、姫さまだったら上座に座らなきゃ」

「確かにー」

と紫の言葉に、あまりにも想定内すぎて意外性もヘッタクレもないのだが、裕美がニヤケつつ賛同すると「そりゃそうだ」と藤花もすぐ後に続いてきた。

私は目を細めつつ振り返るみると、そんな裕美と藤花以外に「あははは!何せ裏番だし」と明るく笑い飛ばす麻里と、口元に手を持ってきてクスクスとお上品に笑う律の姿があった。

こんな茶番が始まる前は、目に付いたところから好き勝手に座り始めていたはずだったのだが、いつの間にか中腰まできていた腰を持ち上げて、皆が揃って普通にまっすぐ立ちながら、私と紫のやり取りを笑顔で観察していた。

「まったく…ふふ、もーう、まだこの流れって続いてたのー?」

と、本当は一々皆が言った言葉を添削するつもりではあったのだが、あまりの量に途端に面倒になった私は、仕方ないと短く済ませて顔を紫の位置に戻すと、ずっとニヤケ面を保っている紫に向かって、仕返しとばかりにこちらもニヤケつつ返した。

「裏番か何か知らないけれど、そう言うんだったら学級委員長である紫、あなたこそ上座に座りなさいよ」

「え、えぇー」

と、このように反論…というか反抗されるのは想定外だったらしく、紫は少したじろいで見せた。

「ね?」

と私はそんな紫をほっといて後ろを振り返ると、これは私としては思った通りだったのだが、他の皆はすぐにニヤニヤしつつ賛同してくれた。

「それも一理なるねー」

と裕美。

「あ、そういえばそうだった!」

と藤花。

「うん」

と一言で微笑む律。そして…

「あははは、そういや紫、あなたって学級委員長様じゃない」

と笑い飛ばす麻里…と、そんな援護射撃を貰ったのだが、この直後、私はジッとまりにも紫にしたのと同じような視線を飛ばして話しかけた。

「…ふふ、いやいや…麻里、あなただって学級委員でしょ?」

「ジー…」

とワザワザ口に出したのは藤花だったが、実際に他の皆で一斉に麻里にジーッと視線を飛ばした。もちろんそれには紫も含まれている。

「あー…あははは、そうだったわ」


麻里が今初めて気づいて照れてる風な露骨すぎる演技をすると、私たちは簡単に笑い合ってから、こんな無意味な茶番をこの辺にしておくと、その後は比較的速やかに座り位置を決めた。

「あーあ、仕方ないなぁ…リーダー、今回だけだよ?」とブツブツ言いながら、結局は紫が上座に座る事になった。

「仕方ないねぇー」と次席の位置に座る事になった麻里も、動作をゆっくりと腰を下ろした。

「何言ってるのよ…ふふ」

と私は苦笑いを浮かべつつ麻里の次の席次の位置に腰を下ろした。

…そう、これで妥協してあげたんだから、むしろ褒めて欲しいくらいだったのだが、それは心の奥にしまっておく事とした。

後は単純にというのか、私の隣に裕美が座り、麻里の横に藤花、そして一番最後の席次、つまり紫と向かい合う位置に律が座るという配置に決まった。


それからは一度席を立ち、各々がカバンの中からお菓子なり飲み物なりを取り出して、ちんまりとした気持ち程度の茶菓子と急須だけ乗っていた机の上に広げ出したのだがその時、唐突に部屋のインターフォンが鳴らされた。

「はーい」

と、紫を筆頭に一人残らずそんな応対用の声を上げると、その数テンポ後にガチャっとドアを開けて入ってきたのは、部屋着姿の志保ちゃんと、二部式着物をピシッと着た旅館の仲居さんだった。

「あ、志保ちゃんだー」

と毎度のごとく真っ先に藤花が声をかけると、志保ちゃんはそれに笑顔で軽く手を振り返しつつ口を開いた。

「そろそろ前の班の入浴が終わるから、皆も準備を始めてね?」

「はーい」

と私たちが全員で声を揃えて返事をするのをニコッと笑って受けていたのだが、ふと部屋をぐるっと見回し、ピタッと机の方向で目を止めると、今度は途端に悪戯っぽい笑みを顔に浮かべて見せつつ言った。

「うん、よろしい!んー…って、ふふ、早速みんなは色々とセッティングして寛ぎ出してるようだけれど…ざんねーん!」

と最後に声に力を入れたかと思うと、今まで何も言わずに志保ちゃんの数歩後ろに下がって待っていた仲居さんの方を振り返りつつ続けて言った。

「あなた達がお風呂に行ってる間に、こちらの旅館の方が、そこの机を部屋の隅に動かして、人数分の敷布団を敷いちゃうから…ふふ、それはお預けね」

「えぇー」

と瞬時に反応した藤花に遅れて私たちも不満げな声を上げた。

「ほーら、ブーブー言わないの」

と笑顔で窘めた後、「えーっと…」と、チラッと時刻を確認すると、「じゃあみんな、もう大浴場に向かっても良い頃合いだから、早速準備をして出来たら速やかに向かいなさいねぇー」と言うと、返事を聞かずに仲居さんに目配せをした。

それを受けた仲居さんはコクっと小さく頷くと、こちらに向かって深く一度お辞儀をして部屋を出て行った。

「じゃあよろしくねー」

と志保ちゃんも部屋を出て行こうとしたのだが、その時、「…あ!」と突然一人声を上げる者がいた。

私含む皆で一斉にその声の方をみると、その主は麻里だった。

「新田さん、どうしたの?」と聞く志保ちゃんをよそに、「あ、え、えぇっと…志保ちゃん、ちょっと待ってください!」と返すと、素早い動きで自分のリュックの中を弄り出した。

その間、志保ちゃんがこちらに『一体何事なの?』と言いたげな表情を向けてきたのだが、私たちとしても麻里のこの行動は、あまりに突然すぎて理解が追いついていずに、皆で一旦顔を見合わせてから、『…さぁ?』と、各々がそれぞれの方法でジェスチャーをした。

そんなやり取りをしている間に、「…っと、あった、あった」と口にしながら取り出したのは、例のミラーレスカメラだった。

「カメラ…」

と何の気なしに私は見たまんまの言葉を漏らしたのだが、それに気付いた麻里がクスッとこちらに向けて笑ったかと思うと、それを持ってスタスタと、部屋の中に戻ってきた志保ちゃんにカメラを差し出した。

「え?それは…カメラ?」と志保ちゃんは麻里の手元を眺めつつ言うと、「ふふ、そうです」と麻里は笑いつつ応えた後、ふとここで私たちの方を振り返りつつ続けて言った。

「で、なんですけどー…志保ちゃん、初のみんなでのお泊りだってんで、これで記念に写真撮ってくれません?」

「…」

と、ふとここでまた視線が合った気がした私は、不意打ちをくらった気になり思わずドキッとしてしまったが、麻里は目を合わせたままでニコッと笑った。

「お、いいねー」

「ウンウン、良い、良い!」

「ふふ…うん」

「麻里、ナイスアイディア!ネッ、琴音」

と裕美に声をかけられた私は、また一度チラッと麻里の方を見た。そしてそのままほんの少しばかり視線を交しあっていたのだが、

「…ふふ、えぇ、そうね。良い考えだわ、麻里」

とクスッと耐えきれずに、しかし敢えて含みをもたせた笑みを零しつつ言うと、「でっしょー?」と麻里も瞬時にニコッと特徴的な猫目をぎゅっと瞑りつつ返してきた。

そんな私たちの盛り上がりに絆されたのか、

「仕方ないなぁー」

と志保ちゃんは嫌々げな声を出しつつも、しかし口元は思いっきり緩めつつカメラを受け取った。

「撮ってあげるかぁ」

と麻里の横を通って、また室内に戻ってきた。

「ありがとうございまーす」

と麻里は志保ちゃんの背中に声を掛けると、早足で横を通り過ぎ、私と紫の手を取ると、部屋の奥の大きな窓がある広縁まで引っ張って行った。

「ここが良くなーい?」

と私たち二人の手を離して言うと、「ウンウン」と裕美達もすぐに納得し、ゾロゾロと近寄ってきた。

「あ、そうだ…」

と麻里は一旦離れると、「ちょっと志保ちゃん、いーいー?」と声を掛けつつカメラを受け取った。

「えぇ」と答える志保ちゃんを背に、麻里はカメラをこちらに構えると、私たちの立ち位置を一々セッティングし出した。その様は、昼間のようにカメラマン然としていた。

あまりに真剣な様子に、私たちはからかう気も起きずに、笑顔を絶やさないままに素直に指示に従った。

「あー…うん、そうそう!琴音ちゃんとりっちゃんは背が高いから、そこに座って貰って…うん、後のみんなは二人の後ろに立って、格好は自分の好きなようで構わないから」

「はいはーい」

「あのー…新田さん?」

「はい?」

と我に返った麻里が振り向くと、どこか申し訳なさげに笑う志保ちゃんがそこに居た。

志保ちゃんは目が合うと、部屋に掛かっている時計に今度は目を向けつつ言った。

「熱心なところ悪いけれど…ふふ、私、そろそろ他の生徒のところにも行かなくちゃいけないから…」

「…あ、すみませーん」

と配置がバッチリ決まった私たちに一瞬顔を向けると、また顔を戻して謝っていた。

そんな様子を他の皆でクスッと笑っている中、「あ、じゃあ、お願いしまーす」と麻里はそそくさとカメラを渡すと、予め決めていたのか自分の立ち位置へと慌てて向かった。


「じゃあ撮るよー」

「はーい」

「はい、チーズッ」

カシャっ

という作動音と共にフラッシュが焚かれた。

「…っと、はい、新田さん、これで良い?」

と志保ちゃんは、すぐさま駆け寄ってきた麻里にカメラを手渡した。

受け取った麻里は、またもや真剣な面持ちでモニターを覗き込んでいたが、バッと勢いよく顔を上げると、「はい!」と明るく笑いつつ答えた。

「ありがとうございまーっす!」

「ふふ。じゃあ…」

と志保ちゃんは一度ニコッと笑うと、踵を返してドアの方に向かった。

そしてドアの取っ手に手を掛けて捻ると、「じゃあ本当に私は行くけど、あなた達もさっさと大浴場に行くんですよー?」と口にしつつ外に出て行こうとするので、「はーい」と皆で口を揃えて背中に声を掛けた。


「どれどれー」

と、志保ちゃんの言いつけを守る前に、早速今撮ったばかりの写真をみんなで見た。

そこには、私と律が静かな微笑みを顔に湛えつつ、肩が触れるかどうかという距離で隣り合って座るその後ろで、裕美達他の四人がそれぞれが思い思いにハッチャケたポーズを取っていた。

「良いねー」

と皆で笑いながら感想を言い合っていた中で、ふとまたここで麻里と目が合った。

この時も少しばかり見つめ合った気がするのだが、不意にクスリと笑ったかと思うと、麻里が声を掛けてきた。

「…ふふ、琴音ちゃん、そんなに心配そうな顔をしないでよー?このカメラは部活用とは言っても、元は私の物なんだし、これで写真を撮って貰ったのは、スマホのよりも画質が鮮明だっていうのと、そのー…」

とここで急に照れ臭そうな笑顔にシフトチェンジをして続けて言った。

「んー…まぁだからさ、さっきもちょろっと志保ちゃんに言ったけど、皆は何度もしてるらしいけどさ、私は今回がこのメンバーでのお泊まり会…初めてでしょ?だからそのー…せっかくなら綺麗に残したかったんだよ」

と言う麻里の言葉を聞いて、何かしらの感情が胸に芽生えたので素直に返そうと思ったのだが、これといった見合った言葉が見つからなかった私は「…うん」とただ一言を、微笑み交じりに返した。

この時、ただこうして微笑んでいたのは私だけではなかったのだが、少しすると「ちょっとー」とこの空気に耐えられなくなったのか、紫が背後から麻里に抱きついた。

「麻里ー、あなたも何だかキャラに似合わず恥ずいセリフを吐くようになったねぇー?…ふふ、すっかりこの姫様に毒されちゃったんじゃないのー?」

「ちょ、ちょっと紫ー?」

と私がふくれっ面を作りつつツッコミを入れたが、それには紫はただ笑うのみで、それが伝播していったのか、「あはは、そうかも」と麻里が付け加えた事によって、他の皆で笑うのだった。


それからは大浴場に持っていく着替えなどの準備をしつつ、『如何に琴音のそばに居るだけで、どれだけ毒されて影響をモロに受けてしまうのか』…という珍説を、本人を前に皆が口々に言い合い盛り上がる中、不意に手を止めた麻里が、私、そして律の方へと交互に視線を流した。

「どうかした?」

と視線に気づいた私が声を掛けると、ワンテンポ程間を置いた後で、リュックに入ってはいるのだが、しっかりとは収まりきっておらずに、チラ見えしているカメラに一度目を落としてから、また私たち二人に顔を戻すと、ニカッと笑いつつ言った。

「…あっ、心配しないでね?このカメラで撮ったからって、新聞部で発行する予定の今度の修学旅行特集には、”今の写真だけは”載せないから」

点々で囲った部分を大袈裟なくらいに強調しつつ言うのを聞いた私と律は、同じタイミングでお互いに顔を見合わせると、どちらからともなくクスッと小さく笑い、律が何も返さないことを知っていた私は、

「当たり前だから」

と、声の表情を殺す事には成功したのだが、しかしやはり口元の緩みは消す事が出来ずに、言い終えた後は二人分まとめた満面の笑みを浮かべた。

「だよねー」

と麻里の方でも笑顔満点に軽いノリで返すのだった。


準備が終わった私たちは荷物を抱えながら部屋を出ると、先に入っていた他の班のクラスメイト達と廊下ですれ違い様に言葉を交わしたりしつつ、違う階にある大浴場へと足を運んだ。

入り口前に辿り着くと、これまたベタベタな男湯と女湯の暖簾が掛かっている入り口前に辿り着くと、私たちは暖簾を手で軽く押し退けつつ中へと足を踏み入れた。

入って行くと、すぐと言っていいほどの位置に脱衣所があった。そこは、こう言っては何だが少し古びた外観のこの旅館からすると不思議なくらいに、とても綺麗…というよりも、新品同様な様相をしていた。

勿論脱衣所なので、脱衣した衣類を入れたカゴを仕舞っておく壁一面の大きな棚だとか、そういった典型的な物はあったのだが、それと同時に、パウダールーム…と言ってもいい様な、近代的な設備も備え付けてあり、幾つかある縦長の大きな鏡と、その前に洗面台があったり、他のアメニティも充実しているという至れり尽くせりな様子だった。

皆がまずその綺麗さ清潔さにテンションを上げる中、ふと一瞬自宅が頭を過ぎった私は、一人苦笑を漏らしたのは本当だった。


…と、そう明るい声を上げていた私たちだったのだが、ふと今いる脱衣所の端に、これまでも名前は出してこなかったが、安野先生、志保ちゃんとまた別のクラス担任である女教諭が待ち構えているのに気付いた。

詳しくはここでも述べないが、ほんの軽くだけ紹介すると、大体志保ちゃんと同い年だが、キャラは…こう言うと志保ちゃんに叱られそうだが、どちらかというとお淑やかで大人しめ、つまり安野先生寄りのタイプだった。

口調も、生徒の私たち相手だというのに、安野先生のように基本”ですます”口調の丁寧語で通していた。


「あ、来ましたね」

と私たちの姿を見るなりニコッと微笑みつつ声を掛けてきた。志保ちゃんと違って、まだ今日一日着ていた服装そのままだ。

色々と簡単にだが、一分足らずの使用にあたっての注意事項を聞き、「最後に使用時間は三十分間を目処にね」と念を押されたのを聞いて、「はーい」と返すと、先生はまたニコリと笑って脱衣所を出て行った。

三十分というのは、中々に余裕を持たせられていると思われる方もいるかも知れない。この様に一班ずつ回していくというのに、そんなに時間を与えたら、全ての生徒達が入浴終えるまで掛かり過ぎると想像されるだろうからだ。

だがまぁ結論としては上手くいく様になっていた。というのも、今夜泊まるこの旅館は、私たち学園の為に貸切となっており、他の宿泊客は当然なく、それ故に、温泉が名物とあって大浴場が男女合わせて四つあるのだが、それを纏めて同時に回すことが可能となっていたのだ。というわけで、それなりに上手く収まる様な手はずとなっていた。

…と、そんな事務的な話はこの辺りにして、私たちは先生を見送ると、早速余裕があるとはいえ限られた時間を無駄遣いしまいと、明るくお喋りをしつつも、口だけではなく身体も慌ただしく動かしながら服を脱いでいった。


「あれー?紫ー…また胸大きくなったんじゃない?」

とそんな中で、脱衣カゴにポンポンと服を脱ぎ入れていた麻里が、ふとすぐ脇で脱ぐ紫の胸元を眺めつつ言った。

「う、うるさいよ」

と、普段のキャラからは想像が出来ないほどに、意外に”この手”の事には相変わらず免疫が付いてない紫は、すぐに顔をほんのりと赤らめながらジト目を向けつつ、ササッと慌ててタオルを手に取り胸元を隠した。

「どれどれー?」

とまだ脱ぎ終えていないというのに、自分のカゴのある棚の位置から、藤花が続いて”無邪気な”笑顔を浮かべつつ近寄る。

「あ、本当だー、ずるーい」

「ず、ずるいって何よ」

「良いなー」

と、これまた中途半端にしか脱いでない裕美も紫に近寄る。

「何を食べたらそうなれるの?」

「教えてよー」

と、最終的には、半裸の麻里、藤花、裕美に囲まれて、三方向から弄られまくっていた。


…これはもしかしたら、初めてこの光景を見ると、イジメと受け取る人も中にはいるかも知れない。

だが…これは別に何の言い訳にもなってないかも知れないが、これも幾度となく催された紫の家でのお泊まり会で繰り返し繰り広げられた”流れ”なので、恐らく紫も”いつもの私”と同じように、半分…くらいは毎度のノリにウンザリしつつも、しかしまさかイジメられてるとは露ほども思ってないだろう…と、似たような体験が豊富な私の意見を一応述べておこう。


「もーう、しつこいって」

と笑顔ではいたが、そろそろ参った様子が見えてきていたので、”そんな”私は助け舟を出してあげる事にした。

「…ふふ、あなた達、そろそろその辺にしときなさいよー?」

「琴音ぇ…」

と、今だに三人に囲まれていた紫は、隙間から顔をこちらに出すと、いかにもホッとした風な表情を見せていた。

と次の瞬間、「じゃあさぁ…」と、ここまでずっと脱衣所の棚に向かって立っていた裕美は口に出すと、特に事前に打ち合わせた訳でも無いだろうに、それを合図に三人が揃ってゆっくりと同時に後ろを振り返った。

「代わりにアンタのそのスタイルを、この機にしっかりじっくり見させてもらおうかな…って、アレ?」

と、こちらを見た瞬間、裕美は呆気にとられた表情を見せた。それは同じように見てきた藤花と麻里もそうだ。

「…え?何よ?」

と私が聞くと、裕美は今度は両目を細めるのと同時に、不満を少しも隠そうとせず、こちらに指をさしてきながら口を開いた。

「…何でアンタ、もう脱ぎ終えてんのよ?」

「ふふ、何でって…」

と私が思わず笑みを零しつつ返そうとしたその時、「あー!」と藤花が声を上げた。

そして裕美と同じように私の隣に指を向けつつ、しかし明るく和かに続けて言った。

「律もだー」

「…え?…あ、うん」

と律は表情に一切の変化を与えないままに短く返した後、こちらに顔を向けてきたので、私も、ヘアゴムを解くのも含めて既に全てを脱ぎ終えてタオルを前に垂らしている、お互いの姿を眺めてから顔を合わせた。

…そう。他の四人が盛り上がっているのを笑顔を浮かべつつ眺めながらも、私と律は着々と準備を進めて済ましていたのだった。

「何で二人共もう脱いじゃったのー?」

と遅れて麻里も愚痴を言ってきたので、私たち二人はまた一度顔を見合わせると、クスッとほぼ同時に笑みを零し合ってから私が答えた。

「ふふ、何でって、それは勿論、これからお風呂に入るのだから脱いでて当たり前でしょ?…ね?」

「ふふ…うん」

と私の言いたい事をすぐに察した律が微笑み返すと、「そういう事じゃ無いでしょ!」と、裕美と麻里が何故かワザとらしく大袈裟にヒートアップし出したのを見て、

「じゃあ律、私たちは先に入ろうか?」とそれとは対照的に微笑みつつ声を掛けると、「ふふ、うん」と律も微笑みかえしてきた。

「じゃあ時間も勿体無いし…私たちは先に入ってるからねー」

と言葉を残すと、律と二人で早速、片手に最低限の持ち物を持って、スモークガラスの引き戸の取っ手に手を掛けた。

そして入る直前に、最後のダメ押しと、チラッと思わせぶりな笑みを浮かべつつ後ろを振り返ったのだが、まだ何か声を掛けてくる裕美達と、その横で、私たち二人と裕美達の方を交互に何度も見比べつつ明るく笑う藤花の姿と、その後ろで注目されていない今がチャンスだと、コソコソと服を脱ぐ紫の姿が視界に入った。

その様子が何だか微笑ましく、思わず一人頰を緩めてから最後の土産と悪戯っぽい笑みを残して、改めて取っ手を横に動かし、浴場内へと足を踏みれた。


引き戸を開けた瞬間、ムワッとした湿り気を多く含んだ暖気が脱衣室に向かって流れ込んできて、それらが私と律の体を舐めるようにしながら通り抜けていった。

それと同時に、耳元には絶えず浴槽にお湯がかけ流されているのが聞こえており、その断続的な音がとても心地良かった。

この手の浴場にありがちだが、室内を白い濃厚な湯けむりが立ち込めており、メガネの有無は関係無く、とても視界がボヤけていた。

…まぁもっとも、私は紫と違って、彼女ほどまだ視力が悪くないというのもあり、始終メガネをしてるのではなく、実際今日は今朝の一時以外は掛けていないのだが、そんなどうでも良いことはともかく、柔らかいオレンジ色の照明が湯気の中でボヤッと滲むのがとても雰囲気が良く、それら全てが見事に調和して五感に訴えてくるのをシミジミと感じ取っていた。


「おー…」とまず、辺りを見渡しつつそう声を漏らしたのだが、それは律も同じで、これまた良く音が反響する浴場内というのもあり、ボソッと言ったつもりが思ったよりも大きく響いたのを聞いて、私と律は二人同時に顔を見合わせると、どちらからともなくクスッと小さく笑い合った。


それが終わると、私はまず手桶の置かれている箇所から一つ手に取ると、大きな浴槽に近づき、おもむろに足元から徐々に上に向かってかけ湯をしていった。

それを見た律も、こちらの一挙一動をチラチラと覗き込みつつ動作を真似るのが視界の隅に見えていたのだが、それには特に突っ込まず、足が終わったら腕、次に下半身、そして上半身という順にかけ湯をしていった。

と、かけ湯を終えようとしたその時、

ガラッ

と背後の方で勢いよく扉が開けられる音が聞こえた。

その瞬間、私たちが振り返り見ると、そこには、同じ様に前にタオルを垂らして入ってきた裕美達の姿があった。

「おー!温泉だー」

とまず藤花が声を上げた瞬間、高めのよく通る声が浴場内に反響して響き渡った。普段よりも強調されてるせいか、まさに音吐朗々と表現するのに相応しいものだった。

「響くなぁ」

と自分で言ったくせに自分で感動している藤花を他所に、裕美、麻里、そして一歩後ろにいた紫も「おー」と、先ほどの私たち二人と同じリアクションを取っていた。

そう口にしながら、当然とっくに私たちの姿に気付いていた裕美達は、湯気の立ち込める薄暗い照明の中だというのに、はっきりと認識できる程にニヤケながら近づいてきた。

「もーう、二人とも…先に入っちゃうなんて酷いよー」

と口にしながら近づいて来た裕美は私の横に立つと、そのまま私と同じ様にしゃがんだ。

「そうそう」

と言いながら、律の隣に藤花もしゃがむ。

「あはは」と麻里は立ったまま笑っているだけだったが、その横に同じ様に立つ紫は…私に位置からは見えなかったが、無言だった。

まぁ…ふふ、先ほどの脱衣所でのことをまだ引きずっているのだろう。

「ずるいって言われたってねぇ…」

と私はまず苦笑いを浮かべたが、すぐにニヤニヤと笑いつつ返した。

「私と律はもう脱ぎ終わっていたんだし、あのままあなた達のことを待っていたら風邪引いちゃうじゃないの…ね?」

「え?…ふふ、うん」

と律が微笑み返してくるのを確認すると、それにニコッと私からも返してから、「ほら裕美…んっ」と今度は裕美に顔を向けると、手に持った手桶を手渡した。

「あなたも使うでしょ?」

と自然な笑みを浮かべつつ続けて言うと、裕美はなんで手桶を手渡されたのかすぐには気付いていない様子だったが、「…あ、あー、そうだね」と途端に合点がいった表情を見せると、「うん、ありがとー」と口にしつつ受け取った。

それを見た律も、「あ…そっか。藤花…はい」と自分の使っていた手桶を手渡した。

「…へ?あ…うん?」

と手渡された手桶を眺めつつ藤花は首を傾げていたが、ふと何かを思いついた顔を見せると、

「なーにー?これを片付けてきてって事ー?」

と言いながらすっと立ち上がるのを見て、

「あ、いや…ふふ、違うよ」

と律は慌てて立とうとする藤花の手を引っ張った。

「そうそう、違う違う」

と立ち上がった私は、そっとまだ座ったままの律の背後に回ると続けて言った。

「律はそんな藤花をパシらせたくて渡したんじゃなくて、ちゃんと理由があるのよ」

「え?理由ー?それって…?」

としゃがんだままの藤花がこちらを見上げてきたのを見た私は、「後は…ふふ、ここにいる裕美に聞いて」と言いながら、チラッと、手桶を渡されてから直ぐにかけ湯を始めていた裕美を見た。

「…え?」

とそんな私の言葉に裕美はいったん手を止めて声を漏らしたが、それには構わず、「じゃあ紫と麻里も、裕美に聞いてね?」と、今までずっと立ったままの二人にも声をかけた。

「あ、う、うん…?」

と二人から疑問調の返事をもらった私は、まだしゃがんだままの律の肩にそっと手を置くと、振り返り見上げてくる律に明るく言った。

「じゃあ律、済んだ私たちはさっさと体を洗いに行きましょう?」


「え、あ…うん」

と返事しながらスクッと立ち上がった律とともに、「もーう、しょーがないなぁ…」とぼやく裕美の言葉を背に、すぐそこにある洗い場へと向かった。

着くと早速私たちは、背後で聞こえる裕美達の声を耳にしながら、二人で隣り合って揃って頭を洗い出した。

案の定…というか、裕美と同じほどに髪がベリーショートな律は、私がまだ頭に泡を溜めたままだというのに、ささっと洗い流してしまうと、今度は身体を洗い始めだした。

「…ふふ、やっぱり髪が短いと早いわねぇ」

と声を掛けると、手の中でタオルに付けたボディーソープを泡だてている途中だった律は、まず視線だけを上に向けると、今度は私の頭を眺めながら返した。

「…ふふ、うん、まぁね。この中では…琴音が一番髪が長いから、洗うのも大変だよね」

とここで律はふと後ろを振り返りながら続けて言うので、私も釣られてチラッと振り返ると、そこにはちょうど裕美の”かけ湯レッスン”を終えた四人が揃って手桶を片しに行くところだった。

「あー…ふふ、そうかもね。少し前までは藤花が私の次くらいに長かったはずだけれど」

と私はまた体を元の位置に戻すと、言い残し頭を濯ぎ始めた。

「…ふふ、そうだね」

と、様子は見えなかったが、その声のトーンなり何なりから察するに、まだ顔を向けたまま微笑を湛えていた事だろう。


頭を濯ぎ終えて、それまで手首にしていた風呂用のヘアゴムで髪を纏め、身体を洗い始めた頃合いに、ようやく裕美達が合流してきた。

ちなみに洗い場は、横一列に並ぶようにそれぞれのシャワーなりが設置されていたので、それに倣って私たちも横一列に並んで座った。

座った直後、裕美達四人からまた一斉に先に入ったことをネチネチと苦笑まじりに声をかけられたのだが、それにはこちらからはただ明るい笑みで往なし、その私よりも先に洗い終えていたのにも関わらず待っていてくれていた律に、自分もようやく済んだ旨を口に出さずにただ視線だけ飛ばすと、それをすぐに察した律はコクっと頷いたので、私からも頷き返し、次の瞬間には二人同時に立ち上がり、まだ頭の上で泡を立て始めたくらいの四人に、脱衣場の時のように悪戯っぽい笑みを残しつつ、我ら先にとメインである浴槽へと向かった。


御影石で周囲が縁取られた、この手において典型的な大風呂に揃って入ると、家のお風呂とはまた数度高めに体感的に感じるお湯を掻き分けながら、足元でゴツゴツと天然の岩を模した磁器タイルを踏みしめつつ、まずは一番奥へと向かった。

着くと早速浸かろうとしたのだが、その時「あっ」と思わず声を漏らしてしまった。

「琴音…?どうしたの?」

とすでに鎖骨が見える程度まで浸かった律が声をかけてきたので、「律、ちょっと見てみてよ」と、この字面だけ見ると落ち着いているように見えるだろうが、実際のところは、声を上擦りつつ指をさした。

「え?」

と律は浸かったまま、大風呂の淵に両二の腕をかけつつ、私の指の先を見た次の瞬間、「おー…」と律も声を漏らした。

私が指したのは、…ふふ、実は、実際に近づくまでは、真っ黒の壁だと思っていたのだが、実はそれが全て大きな窓だった事にこの時初めて気づいた。

まぁ仕方ないだろう。なんせ繰り返し言ってきたように、この旅館の周囲には光を発するような民家もほとんど無く、しかも目の前は漆黒の水を讃える瀬戸内海しかないのだから、モクモクの湯気、それに窓表面を覆う曇りと水滴も手伝って一面壁にしか見えなかったのだ。

それが…実際にはまったく光源がない訳ではなく、視線を下に逸らすと、程々の間接照明に浮かび上がる階段と、その先に同じ様な柔らかな光に浮かぶ露天風呂があるのが見えたのだった。

私と律も、言葉に具体的には出さなかったが、おそらく目の前の闇に対してではなく、眼下の淡い光への嘆声なのだった。

「綺麗ね…」

と風呂の淵に腰掛けて見下ろしながら私が言うと、

「うん…」

と律はお湯に浸かったまま、風呂の淵に置いた腕に自分の顔を乗せつつ、視線だけ下に向けながらボソッと返した。

「何ー?何見てるのー?」

という声と、バシャッバシャッと音を立てるのが聞こえたので振り返ると、すっかり準備を整えた裕美達がこちらに近づいて来るのが見えた。

波を立てつつ私のすぐ脇に立った裕美は、男らしく…と言うと嫌な顔されそうだが、事実として特に前を隠そうとしないままに、結露した窓にベタッと両手をついた。

「おー…って、これって窓だったんだね」

「…ふふ、私も思った」

「いやぁー、真っ暗だなぁ…って、あれ?外に何か見えるよ?」

「えー?どこどこー?」

と律の横に着いた藤花も、裕美と同じ様に窓に手を付きつつ言った。

「ほらー、下、下」

「あ、ホントだー」

と、ここで不意に藤花と、裕美の横に着いた麻里の声が重なった。

「なんか明るいねぇー」

「あれを見てたの?」

と聞いてくる裕美に

「えぇ」

「うん」

と私と律が同時に返すと、「あれってなんだろー?」と麻里が口にしたその時、「ふぃ…」と、その麻里の横に着くなり、肩までサッと浸かりながら紫は声を漏らした。

「…ふふ、あなた達」

と浸かるなり今度は、私達の事を薄眼がちに見ながら、しかし口元はにやけつつ口を開いた。

「せっかくの温泉だってのに、なんでいつまでも浸からないの?」

「あ、それもそうだね」

と途端に麻里が浸かり、「フゥ…」と裕美、「んー…んっ」と藤花…って、これはあまりにも細い描写すぎるとは思うが、まぁそんな順に一々声に出しつつ浸かり始めた。

ついでと言ってはなんだが、麻里も藤花も紫と同じ様に肩が沈みきる様に体勢を低くしていた。

私も…と、皆より少しタイミング遅く早速浸かろうとしたその時、こちらから見て一番向こうに沈んでいた紫に声をかけられた。

「まったく…ふふ、律はすでに入ってたから良いとして、琴音ー?なんであなたはまだ浸かっていなかったのよぉ…?ふふ、あれだけ私たちを置いてけぼりに先回りしたくせに」

「あー、確かに確かに」

と案の定すぐに乗っかる裕美。

「早く入らないと風が引いちゃうとかなんとか、お得意の理屈を捏ねてたのにねぇ」

「ウンウン、言っていた、言ってた」

と、いつの間にか律と位置を入れ替わりに、私の真隣に来てから律の同じ体勢になっていた藤花も、片方の頬を腕に当てつつ、こちらを覗き込んでくる。

その後ろで律がただ小さく微笑んでいるのも見えた。

「あははは」

という麻里の笑い声が響く中、「もーう、うるさいなぁ…」とワザとらしく拗ねて見せつつ、心底参った表情を…この湯気の中でどれだけ見えるのかは微妙だったが、それでも浮かべつつ「…フゥ」とやはり声を漏らしながら温泉に浸かった。


浸かるや否や、両腕を撫で回してみると、普段入っているお風呂とは比べ物にならないくらいに、”スベスベ”する感触があるのにまず気づいた。これは、この温泉が弱アルカリ性の泉質であるところから来てる…らしい。

そう、私が浸かった直後の雑談の中で、例の如く調べに調べまくってきた紫からの情報だった。

…ふふ、こうした小まめな情報収拾を苦もなく出来てしまうところとかは、自分の父親同様に、いわゆる官僚に合った性格をしているなぁ…と、今に限らず普段から常々思っている事だったが、敢えて言わないでおく。


と、そんな話をしていると、流れというのか、必然的に、『何で私と、そして裕美までもが所謂”温泉の作法”を知っているのか?』という話題になった。

これを聞かれた瞬間は、私と裕美で顔を見合わせていたのだが、ここに来てから全部押し付けてきたツケを払ってもらおうという思惑があるのか、意味深な笑みを浮かべながら裕美が私に話を振ってきた。

その直後、当然というか他の皆が一斉にこちらを興味ありげに見てきたので、私はヤレヤレと苦笑を漏らしつつ答えた。

まぁ内容としては、まず裕美と裕美のお母さん、そして私とお母さんの四人で行った、小六の夏休みの話をするところから始めた。

これはまぁ以前にも何度か触れたし内容はここでは省略させて頂くが、他の皆にも大体折に付けて簡単に話していたので、麻里に語りかける様に話した。

その行った先が海沿いの温泉地だったというので、四人揃って今いる様な大浴場に入ったその時に、私のお母さんに色々と教えてもらった…という話をした。

…そう、ここでネタバレとなったが、私のこの時の身の振る舞い方は、言うまでもなかっただろうが、お母さん由来だった。


んー…まぁ久しぶりに触れるし良いだろう。決して”マザコン”とは捉えられないだろうと信じて、敢えてまた言ってみれば、私はこの時も、心密かに幼い頃から続く、お母さんの”姿”に憧れを秘めていた。

…突然何を話し出すのかと思われるだろうが、しばしお付き合い願おう。

幼少期から続く着物と日舞との長い付き合いが功を奏しているらしく、身のこなし、身の振る舞い方が、お父さんの方の社交界の面々や、義一の方の”オーソドックス”の面々などと、それなりに付き合っていく中で、同年代としてはかなり所謂大人に対する視野が広がっていると、恥ずかしげもなく言えば自負しているのだが、それほど肥え始めた私の目からしても、ここ数回一緒に出席している社交の場で見るお母さんは、群を抜いて洗練されているのだという事実に、改めて気付かされる今日この頃なのだった。


…と、まぁ要は話を戻しつつ何が言いたいのかを言うと、この時期も私はしっかりとお母さんのそんな諸々に対して、それなりに誇りに思っており、私のコンクール決勝の時に、全員揃って長い間お喋りをする事が出来ていた藤花達は、「あー、琴音のお母さんかぁ」と納得した風な言葉を漏らすと、まだ会った事がない麻里に向かって、私という娘を前にして、それぞれが気付いた容姿から性格から何からと、様々な面から褒めてくれ始めた。


勿論こう見えても思春期の女子であるし、そう話す皆の中で揶揄いたいが為という意図が無きにしも非ずなのは知りつつも、中々に面映い事この上なかったが、それと同時にどこか嬉しいせいか、自分でも分かるほどにニヤケそうになるのを抑えるのが大変だった。


が、何だか中々に話が引かない様子に痺れを切らした私は、無理やりさっき窓の外に見えた灯りについて話の軌道を逸らした。

そんな強引な話の持って行き方に、勿論なぜそんな事をしたのかすぐに察した皆からニヤケ面を一遍に貰ったが、それにただ苦笑いで返していると、見かねた紫が口を開いた。

「あー、確かこの旅館って、大浴場の外に別に露天風呂があるらしいよ」

「へぇー」

「あ、やっぱり露天風呂だったのね?」

と私が視線を飛ばすと、「うん」と律も短く返してきた。

「そうらしいよ。ただ…」

と律に続いて紫も返してきたが、途端に何かを思い出すような顔つきを見せて、実際に記憶を辿る様に拙い口調で続けて言った。

「確か…うん、今私たちが入っている大浴場の外のはね、露天風呂は露天風呂なんだけど、風呂の周囲を目が荒い柵に囲まれているらしくて、覗き窓があったりもするらしいんだけど、まぁ裕美が大好きなオーシャンビューってのは、それほど楽しめなさそうなんだ」

「あ、そうなんだー」

と裕美が相槌を入れると、私からはよく見えなかったが、裕美のその表情から何かを察したらしい紫は、「チッチッチッチッチー」と口に出しながら片手をお湯から出し、人差し指だけを立てると、それをリズム良く左右に揺らしながら言った。

「その楽しめなさそうってのはね、もう一つの露天と比べるとって意味なの。私はまだネットで見ただけだけど…ふふ、そりゃー綺麗だったんだから」

「えー、気になるなぁ」

と裕美と藤花が同時に声を上げると、それを聞いた紫は「でしょー?」と一人得意満面に笑うのだった。

「いやぁ、流石だわ」と、裕美達が盛り上がる中、ふと麻里が一人企み顔を見せつつ紫に声をかけた。

「流石”字引さん”、どんなことでも答えられるんだねぇ」

「何よそれー?」

とすぐに紫が不満そうに返していたが、「ふふ…」とそんなやり取りを見ていた私は思わず吹き出してしまった。

自分で言うのも何だが、裕美…というよりも、紫達学園生の前では吹き出した事があまり無かったはずの私が、急に吹き出したのを見て、二人が物珍しそうにこちらを見てくるのは必然だった。

なので、それに自覚していた私は二人の反応には構わずに、まだ一人クスクスと笑いつつ口を開いた。

「…ふふ、字引さんか…うん、ふふ、確かにそうね。これだけ細かい情報がポンポン出てくるというのは、まるで字引だわ。…ふふ、また今このご時世に字引を例えに使う所とか、麻里、良いセンスだと思うわよ」

と素直な感想をツラツラ述べられた麻里は、

「…へ?あ…うん?」

と、すぐには飲み込めない様子だったが、「あ、あぁ、うん、ありがとう」と何を思ったか、また企み混じりの笑みで返してきた。

「まったく…」と、そんな私たちの様子を見ていた紫は、一人そのまま不満げな顔を崩さずに、今度は矛先をこちらに向けつつ言った。

「このお姫様は、やーっぱ何つうかツボというのか、普通の人とはズレてるんだよなぁ…あ、だからお姫様なのか」

「…ふふ、言ってなさい」

と、温泉効果もあるのか、自分でも不思議なくらいに機嫌が良くなっていた私が笑顔のまま返すと、普段通りに乗ってこなかったせいか、呆れ笑いと同時に少し寂しげ…に私の目には映るのだった。


「なになにー、何の話をしてるのー?」

とここで私達…というか、私の吹き出しに気付いたらしい他の皆を代表して藤花が口を開いた次の瞬間、

ガラッ

と浴場の引き戸が開けられた。

皆で一斉にその方を見ると、先ほど脱衣室を出て行った先生が、柔らかな笑みを浮かべつつこちらを見てきていた。

「ふふ…、盛り上がっている所悪いですが、そろそろ交代の時間ですよ?」


「あ、はーい…」

と私たちは、また姿を消した先生のいた方向に向かって、名残惜しげな声をタラタラ漏らしていたが、実際の動作自体は機敏に、湯船からザバッと上がると、私のお母さん直伝のかけ湯をまた私と裕美がし出したのを見て、理由を特に聞かないままに他の四人も同じ様に真似て、それから揃って脱衣室に戻って行った。

脱衣室に入る前に身体の水分を拭い、私個人で言えば、家から持ってきていたタオルターバンを頭に巻いている中、他のみんな…特に、裕美と律というベリーショート組は、男の子ばりに男らしくゴシゴシと頭を拭いていた。

タオルを外すと、その下からツンツン頭の両者が出てきたのを見て、他の皆は知らないが私個人はその様子を微笑ましく見ていた。

粗方水分を拭い終えると、各々が部屋から持ってきたサラの服に着替えた。それは、部屋着ではなく、この旅館オリジナルの浴衣だった。

普段は勿論着るにしたって祭りなど以外では縁が無いし、それに旅館でという王道中の王道のシチュエーション下でのためか、身に付けた瞬間に盛り上がりを見せていた。


着替え終えた後、今度は皆で揃ってパウダールームに向かった。着くなりそれぞれ適当に座ると、裕美と律以外の私たちは、備え付けのドライヤーを使い髪を乾かした。

そして私はその後に櫛を取り出すと、それで髪をとかし始めたのだが、ふと視線が気になったので見てみると、すぐ隣でじっと待っていた裕美が、ジロジロと私の顔を見てきていた。

目が合うと、一瞬何だか恥ずかしそうにして見せていたが、すぐに自然な笑みに戻ると話しかけてきた。

「ねぇ…アンタは今日は、そのー…化粧水とかしないの?」

「え?」と櫛を持った手の動きを止めて返すと次の瞬間、「あー、律もだ」と藤花も裕美に続くように声をあげた。

見ると、確かに律は律で何もせずに、私、それにこの中では次に髪の長いカールボブを整えている紫の様子を眺めていた。

紫は紫で、私と律の顔を交互に眺めている。

私は一旦裕美に顔を戻すと、そう質問してくる表情から、何かしらの含みを見て取れなかった私は、「えぇ、まぁ…ね」と笑みを浮かべつつ返した。

「アレは普段の習慣だから、迷いはしたんだけれど…」

と、大浴場に入るというので、いつも外出する時に化粧品を入れるのに使っている、江戸紫色を下地に桜が何輪も咲き乱れているという小粋な柄の信玄袋を今この場にも持ってきていたのだが、それに視線を一度流しつつ、また裕美に戻しながら続けて言った。

「…ふふ、温泉でせっかくスベスベになったのに、何だか効果を無くしちゃうような気がして、勿体無く思ってねぇ」

と櫛を一旦テーブルの上に置き、両手で自分の頰を撫でつつ言った。

「だから一応持ってきてはいるんだけれど…うん、今日は止すことにしたのよ。…ふふ、律、あなたもそうでしょ?」

と私が話しかけると「え…?」と声をかけられると思っていなかったらしい律は声を漏らしたが、すぐに自分の目の前のテーブルに置いた、私とは違い今時の可愛らしい化粧ポーチに目を向けつつ「…ふふ、うん」と返してきた。

「なるほどねぇ」

と裕美、藤花に始まり、「確かに、美白効果がある感じだったもんなぁー」と、紫と麻里も納得の声を上げつつ、それからは事前に打ち合わせをしたわけでも無いのに、気づくと皆で揃って鏡の前で顔なり腕なりを撫でてみたりし出した。と、そんな様子にお互いがお互いに気づくと、それからは明るく笑い合うのだった。

そうしばらくしていたその時、

「ほーら、次の班が来たからそろそろ出ましょうね?」

と脱衣室のドアを少し開けて先生が最終通告をしてきたので、「はーい」と返事をした私たちは、そそくさと荷物をまとめて後にした。


ワイワイ温泉の感想を言い合いながら、途中にあった自販機で適当に飲み物を買いつつ部屋に戻ると、志保ちゃんが言っていた通り、座敷机は端に追いやられた代わりに、部屋一面に同じ見た目同じ柄の敷布団が六組二列配置で敷かれていた。お互いに顔を向け合えるように枕がセットされている。

「おー」

と誰もが声を上げると、次の瞬間には誰からともなく好き勝手に前々から決まっていたかの如くに各々が布団の上に座った。

…ふふ、まぁ座敷机の周りをどう座るのかは一悶着あったが、しかしこの時は皆の意思が共通していたせいか、自ずと完成したこのフォーメーションに誰も疑問や違和感を持つことなく綺麗に収まったのだった。

まぁ大体予想はつくだろうが、配置としては、窓際から部屋の外に向けて律、私、紫と、もう片方は藤花、裕美、麻里の順となった。

一旦配置が決まると、部屋の隅から各々が自分の荷物を持ってきて、布団の上で寝る前の準備と荷物の整理、そして明日の用意などを済ませた。

ちなみにこの時私はメガネを取り出して掛けたのだが、この時にまた無用な私へのからかいムードが沸き起こった。

…ふふ、これはもう毎度毎度大体同じな上に中身が無いので、ここでは割愛させて頂こう。

「あはは…って、そういえばさ?」

と散々私のことをからかった裕美が、満足そうな笑みを浮かべつつ紫に声を掛けた。

「んー?」

と紫は、メガネのレンズを拭いていたところだったのだが、手元を休めずに返すと、「いや、あのさぁ…」と裕美は、まだ湿り気の残るイガグリ頭をゴシゴシと掻きながら言った。

「さっき温泉で話していた、んー…露天風呂っての?それってさぁ…どんなヤツなの?」

「あ、気になるー」

と毎度の如くすぐに藤花が乗っかると、ここで丁度拭き終えたのか、メガネを掛けつつ「あー」と紫が特に意味のない声を上げた直後、不意に部屋の中を見渡し始めた。

「それねぇ…。えぇっと…確か…あ」

と紫はある一点で顔を止めると、スクッと立ち上がり徐に掛け軸の方へと歩いて行った。

そして着くなりしゃがみ込むと、何やら手に取って戻ってきた。手には、パッと見だと料理屋のメニュー表に見えるような冊子があった。

「…っしょっと」

と掛け声を上げつつ自分の布団の上に戻ると、ゴロンと寝転がり、枕の上に顎を乗せてうつ伏せになったと思ったら、その冊子をパラパラめくり始めた。

私たちもそれに倣ってゴロンとうつ伏せになって覗き込んだのだが、そこには数々の旅館内部の写真が載っていた。

どうやら、この旅館のガイド、紹介用の冊子のようだった。

それに気づいたその時、「あ、これこれ」と紫はあるページで止めると、「これだよ」と人差し指の先でトントンと、とある写真の上を叩いて見せた。

「んー?」と私と裕美含む皆で顔を寄せ合い見てみると、そこには真っ青な雲一つない空の下、その空の色を反映したかの様な濃い青の支配する瀬戸内海を望む、周囲に一切の柵が設置されていない露天風呂がそこに載っていた。

「おー」

「キレー」

…『なんで初めてこの部屋に入ってから室内を物色する時間なんか今までほとんど無かったのに、何故こんな冊子があるのを知っていたの?』などという疑問が当然の様に何でちゃんの頭の隅には湧いたのだが、そんなどうでも良いツッコミをするのが面倒になる程に、思露天風呂の紹介写真を食い入る様に見ていた。

そんな私達の事を眺めつつ、少し誇らしげに笑う紫が口を開いた。

「でしょー?これがなんかね、今さっき私たちが入ったのとは別の大浴場の外にあるらしいのよ。良いよねぇ」

と紫も皆と同じくらいに顔を寄せてきながら言った。

「ウンウン」

「良い雰囲気だなぁ」

と口々に感想を言い合っていたその時、「良いなぁ…」とこの中でも一層シミジミと声を漏らしていた裕美が、うつ伏せから起き上がり座ると、また紫に話しかけた。

「これってさぁ…」

「んー?」

「うん、そのー…今回、私たちって、どうしても…入れないのかな?」

「え?それってどういう意味?」

と紫が聞き返すと、「いやぁー、だってぇ」と裕美は浴衣姿だというのに胡坐をかきながら、大きく後ろに仰け反るような体勢を取りつつ言った。

「メチャクチャ良いじゃなーい?みんなも同じ意見みたいだし…。せっかくなのに入れないのは、んー…何かなぁって感じじゃない」

「そうだねー」

と藤花はうつ伏せのまま、両足を交互にパタパタとバタ足をするかの様に動かしつつ続いた。

「うん…」

と藤花とワンセットである律も勿論すぐ後に続く。

「そうなー」

と麻里が漏らした直後、「ふふ、確かに『何かなぁ』って感じなのは分かるわ」と笑みを浮かべつつ私も最後に加わった。

そこから少しの間意見交換をしていたのだが、それに加わらずに黙って眺めていた紫が、不意に大きく溜息をついた後で、ニヤァっと紫特有の企み笑顔を浮かべて、冊子の写真にまた指でトントンと叩きながら口を開いた。

「…ふふ、まぁー…みんながそう言うんじゃないかって思ってさ、それもちょっと前から調べてみたんだけれど…」

とここで一旦止めると、いつの間に出していたのか、修学旅行のしおりを持ち出し、それを眺めつつ続けて言った。

「私たちって確か明日の起床時間は、今日の就寝時刻が昨日よりも遅めだというんで、今朝よりも少し遅めの朝の七時…だったでしょ?…ふふ、まぁみんながそこまでキチンと把握してるとは思ってなかったけれど…っぷ、あはは!あ、でね、それで何だけれど…コホン」

と紫はワザとらしく一度咳払いすると、例の笑みを強めつつ続けて言った。

「…ふふ、だからさ、これは私からの提案なんだけど…明日は少し早めに起きてさ、皆で一緒にこの露天風呂に…行ってみない?」

「へ?」「え?」

と私たちが呆気にとられた声を漏らした次の瞬間、「えー、そんなことして良いのー?」と藤花が目をまん丸にしながら返した。

…ふふ、こんなアニメチックな態度は、少なくとも私の身の回りでは藤花にしか許されないだろう。

と、そんな感想を瞬時に覚えていた中で、紫はウンウンと何度か頷いてから笑顔で返した。

「ふ、ふ、ふー…そんな勝手な行動を取っても良いのかって、そう思うでしょー?…うん、私もそう思ったんだけどさぁ…ほら、私と麻里が学級委員になってから、すぐに仕事の一つとして、修学旅行の実行委員会の手伝いをしてたじゃない?そん時にさ、どんな所に行くのかって情報を知れたから、興味があって調べてみたら、こんな温泉があるって出てくるわけよ。だからさ…」

とここで麻里にイラズラっぽい視線を一度流してから続けて言った。

「…ふふ、ある打ち合わせが終わった後でさ、皆に隠れてそっと…ね、安野先生と、その場にいた志保ちゃんに聞いてみたんだよ。『二日目の旅館って露天風呂ありますよね?それって…もしも、私たちが起床時間よりも早めに起きれたとして、朝食時間までに余裕を持って行動出来たとしたら…朝に露天風呂に入っても良いですか?』ってね」

「おー…」

「ウンウン」

と相槌を打つ裕美と藤花を筆頭に、私を含めた他の皆で話しの続きを待った。

「そしたらさぁ…ふふ、まぁ当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、まず志保ちゃんに渋られちゃったんだ。『えー』ってな感じで。でね、その後は『ダメよ』『いや許してください』の押し問答を何度か繰り返したんだけどさ…ふふ、最後の方で志保ちゃんがね、今まで黙っていた安野先生に助けを求めようと話を振ったんだけれどね…?」

「うん」

「…ふふ、そしたらさ、先生、私と麻里の顔をじっと真顔で見てきたの」

「…え?」

とここで、本来なら別にスルーしても良かったのだろうが、持ったが病で、ついつい私は口を挟んでしまった。

「…あ、そういえば…今更だけど、その場にも麻里、あなた…いたの?」

「…へ?え、えぇっと…えへへ」

と麻里は私のツッコミにやけに照れて見せながら笑みを浮かべるのみだった。

それから他の皆にも麻里はからかわれている中、話を中断されたというのに、まぁ…私がそうするのは毎度の事だと、慣れっこだと言いたげな調子で笑みを保ちつつ先を続けた。

「そうなの。その場に麻里もいたのに、さっきから傍観者ヅラしてるんだから…。ふふ、あ、でね、いつも先生ってニコニコしてるじゃない?だからさ、その分真顔に私たち少し緊張しちゃったんだけど…ふふ、急にニコッと笑った後でさ、こう短く言ったんだ」

と紫は一旦区切ると、少し芝居掛けながら言った。

「『…有村先生、私は何も聞いてませんでしたからね?』とね」

「…ふふ」

と、他の皆がどうだったか知らないが、紫が言う先生のセリフを聞いた瞬間に察してしまった私は、一人思わずクスリと笑みを零した。

そんな私の様子を、すぐ左隣から微笑みつつ見てきていた紫だったが、顔をまた皆に向けると続けて話した。

「『…へ?それって、先生…』って志保ちゃんは見るからに動揺してたんだけど、それを無視して『それではよろしくお願いしますね?』って言い残して、安野先生は去って行っちゃったの」

「へー、なんかカッケーね」

と、どこで覚えた言葉か、裕美が私たちに無駄に馴染みが深い地元の馬鹿野郎のような言葉を吐いたのを聞いて、「ふふ」と私だけがまたもやクスリと笑ってしまった。

そんな私に対して、裕美が笑い返すのみで、他の皆は特に取り合わず、紫も構わないままに先を続けた。

「…でね、それで残された志保ちゃんは『はぁー…』ってため息ついた後でね…約束してくれたの!『じゃあ…ふふ、当日は多分、私はあなた達よりも早起きしていると思うからさ、もしも本当に露天風呂に行くのなら…一言私に声を掛けてくれる?そしたら…仕方ない、私が引率して一緒に行ってあげるよ』ってね!」

「おー」

「さっすが志保ちゃーん」

などなどと、紫の言葉を聞いた瞬間に、私や律なども含む皆で一気にテンションが上がった。

「あ、ほら、でさ…ふふ、琴音と藤花、あなた達って志保ちゃんの連絡先…知ってんだってね?」

と紫が不意にニヤニヤしながら聞いてきたので、私と藤花は顔を一度見合わせたが、くるっと顔を向けると

「え、えぇ」

「う、うん」

と同時に返した。

まぁ…ふふ、そう、私たち二人は例の去年にあった文化祭の時に、打ち合わせをする為という事で、志保ちゃんと連絡先を交換していたのだった。

文化祭が終わってからは、私の場合は本当に極たまーに事務的なやり取りをするのみだったのだが、以前にも触れた通り、あれ以来藤花の歌のファンとなってしまった志保ちゃんは、月に一度の藤花の独唱を聞きに行くついでに、頻繁に連絡を取り合っているようだった。


そんな戸惑いげな私たち二人を他所に、紫は笑みを絶やさないままに続けて言った。

「だからさ、もし行くという事になったら…二人のどちらかから、志保ちゃんにメッセージなりなんなりを送って欲しいのよ。そうすれば、部屋の前に志保ちゃんが来てくれて、そこから一緒に行ってくれるから」

「えぇ、それは構わないわよ。ね、藤花?」

「うん、もっちろーん!あ、じゃあ琴音、私からメッセージを送ってもいい?」

「え?あ…ふふ、えぇ、もちろん。そうして貰えると助かるわ」

「あはは。じゃあ、そうするー」

といった風に、簡単な打ち合わせをし合っていたその時、ふと正面を見ると、なんだか一人いきんでいる様子の裕美がいたのだが、突然前触れも無くガバッと立ち上がったかと思うと、「やったー!」と声を上げてバンザイをした。

そんな様子を見て、一瞬ばかり時が止まったかの様な静けさが広がったが、「ふふ、もーう」とそんな裕美を嗜めるように、うつ伏せになったままの私は、枕に肘をつきつつ見上げながら呆れ笑いを向けた。

それからは皆の間で、私と同様の笑みを裕美に対して向けていたが、立った勢いで着崩れしてしまった浴衣をバツ悪そうに笑いながら直す裕美を眺めた後はすぐに、裕美ほどでは無いにしろ、それぞれが喜びを表現し合った。

そんな様子を、紫と、向かい合って寝っ転がっていた麻里が顔を見合わせつつ微笑み合っていたのだが、ふと、何かを思い出した風な表情を浮かべると紫は口を開いた。

「…あ、そうそう、それでね、そんなワザワザ引率をしてくれる志保ちゃんからね…ふふ、いくつか注意事項というか、条件をもらったから、それを今から発表しまーす」

「条件ー?」

「なになにー?」

「ふふ、それはね…」

とここでスクッと紫は立ち上がると、体の正面に片手をぐいっと突き出して、人差し指をおもむろに立てつつ胸を張りながら言った。

「ひとーつ!…ふふ、まぁ今回は私たち班だけがひょんな事から特別に行ける事になったけど、それはあまりにも特別扱いして他のみんなには不公平だから…さ、今回の話は私たちだけの秘密、それは修学旅行後も一切他言無用…ってのが一つ」

「…あーー」

とすぐに合点がいった私たちは、それぞれで顔を見合わせながら声を上げた。

「…って、ふふ」

と私は不意に思い出し笑いをしつつ、また寝っ転がり出した裕美に話しかけた。

「裕美…あなた、いくら興奮したからって、そんな大声をあげちゃったら、他のみんなにバレちゃうじゃない?」

「…へ?」

と裕美は一瞬狐につままれた様な顔を見せたが、「…あっ、そ、そっかぁ…」と、すぐにまたもやバツが悪そうな表情を見せつつ口にした。

と、そんな裕美の様子を見ていた紫は、ニコッと明るく笑うと裕美に声を掛けた。

「あはは、まぁさっきのは大丈夫だと思うよ?だって、具体的な話は、私が普通よりも小さな音量で話しただけだから、他の部屋には聞こえていないだろうし、それに…」

とここで口を止めると、紫は口元に指を当てて「シーーーっ…」と言うので、私たちも黙った。

すると、両隣の壁から、他の同級生たちだろう、ゲラゲラと明るく笑う声がうっすらと聞こえてくるのが分かった。

そんな周囲の声に耳をすませている中、クスッと一度笑うと紫は言った。

「…ね?大丈夫そうでしょ?あれだけ大きな声で笑えば、まぁ少しは隣の部屋まで漏れてきたりするけど…ふふ、裕美の『やったー』は聞こえたかも知れないけど、それ以外は聞こえてなかっただろうし、特に何とも思わないと思うよ?」

「あ、あははは…うん」

と裕美が苦笑いを浮かべるのを見て、私たちは明るくまた笑いあうのだった。

「あはは。…っと、よいしょっと」

と一緒に笑いつつ、自分の布団の上に腰を下ろし始めた紫を見て、ふとある事に気付いた私が声をかけた。

「…ん?あれ?紫?」

「んー?」

と、さっき出したしおりをリュックに仕舞いながら紫は返事を返した。

「なにー?」

「えぇ…あのさ?」

と私は、今また私たちと同じ様にうつ伏せになろうとする所の紫に続けて言った。

「あなた、さっき『ひとーつ』って言ってたわよね?」

「あー、言ってた言ってた」

と裕美たちもすぐさま後に続く。

「…え?」

とすぐには私の言う意図が掴めない様子だったが、「あぁー」とすぐに察したらしい紫は、またもや企み顔で返した。

「うん、言ったねぇ」

「でしょ?でもさ、あなたまだ…一つしか理由言ってないじゃない?志保ちゃんが出した他の条件って…何なの?」

「…」

と、言葉は発しなかったが、私と同意見の様で、裕美含む他のみんなで一斉に視線を紫に集中させた。

それを受けた紫は、枕の上で器用に腕を組みつつ考える風を見せていたが、クスッと一人で何かにウケると、意地悪そうな笑みを浮かべつつ、しかしどこか子供っぽさを滲ませながら返した。

「ふふ、それはね…志保ちゃんのセリフをそのまま言えば、こんなだったわ。…『後一つはね…一緒に行ってはあげるけど、一緒に入浴はしないからね?私は引率として、脱衣室で待ってますから』」


「ふふ、そりゃそうよね」

と、紫の言葉を聞いた直後に、まず私が微笑みつつそう口にしたのだが、それからは各々が好き勝手に笑顔を強めながら口々に言い合うのだった。

「えー、何で志保ちゃん一緒に入らないのー?」

「…ふふ、藤花ったら」

「まぁまぁ、藤花、理由なら何となく分かるじゃない?」

「え?裕美、それってどういう事?」

「あはは、それはもう見れば丸分かりじゃない…?」

「…え?何で私を見てくるの?」

「…な、なに…?」

「…へ?私も?」

「そうそう、もっちろん!そりゃあねぇ…我らが班には、誰もが羨望を向けざるを得ない深窓の令嬢と、その脇に立つ王子様がいるし、…ふふ、それに…」

「な、何よ…?」

「ふ、ふ、ふー。そんな風に胸元を隠そうったって、隠しきれない立派なモノを胸に持ってる…っと、そんな三人と一緒にさ、裸になって風呂に入る気は中々起きないってもんでしょー」

「あはは。なるほどねぇー」

「そっかそっか」

「…全く黙って聞いていれば、好き勝手言ってくれちゃって…ちょっと律ー?あなたからもたまには、何か言い返しなさいよ」

「え?…ん、んー…ふふ」

「ちょっとー、私とこの二人を同列に並べないでよー?それに何?そ、その…む、胸がどう…とか…」

「あははは!相変わらず紫はこの手の話が苦手なんだから」

「ほ、ほっといてよ…ふふ」

「あはは。でさ、それに引き換え…なんか藤花と麻里を巻き込む様で悪いけど、私たち三人は、ごく普通の女子って体型してるでしょー?…って、あ、ごめん、藤花は藤花でメチャクチャお腹周りが綺麗だったわ」

「…へ?い、いやいや!なにを急に言いだすの裕美ー」

「あはは」

「もーう、急に矛先を私に向けるのやめてよぉ」

「…って、裕美ぃ…?」

「え?何よ麻里?」

「…ふふ、あなただって…」

「…?…っ!?ちょ、ちょっと麻里、くすぐったいってー」

「あはは!あなただって水泳か何か知らないけどさ、こんなに良いスタイルしといて何言ってんのよー?…ふふ、まぁこの中じゃ、少なくとも一番女子らしいのは私って事かなぁ?」

「…あー、その言い方は、なーんか引っかかるなぁ」

「ウンウン」

「そーう?あははは」


…といった具合に、そんなジャレ合いもあったりしつつ、起き上がって座ったり、うつ伏せのままだったり、仰向けなどなど色んな寝っ転がり方を披露しながら、まさに修学旅行らしく、お喋りを重ねれば重ねるほどに益々の盛り上がりを見せていくのだった。

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