第18話 修学旅行 後編 フレンチ
笑い合った後、先生からお弁当とペットボトルに入ったお茶を受け取ると、長テーブルの間スペースを探して向かい合って座り、「いただきまーす」とキチンと挨拶をしてから食べ始めた。
ここで一応お弁当の中身に触れると、錦糸卵のまぶした、ふわふわの穴子に甘辛いタレのバランスが絶妙な広島名産の”穴子飯”に、これまた穴子の天ぷら、そしてエビ天、鶏の照り焼きが主菜、後は切れ目ウインナー、ちくわの磯辺揚げ、パスタ、焼き豚、プチトマト、ポテトサラダ、肉団子、デザート代わりのフルーツ缶が副菜として添えられていた。
…とまぁ、中々にボリュームのあるお弁当だったのだが、何気に歩き回ったし、それに自分で言うのも何だが食べ盛りの私達としては、お喋りしたりワイワイしている間にペロリと完食してしまうのだった。
因みに、何故会場が船のターミナル内かというと、理由は単純で、ただ科学館内には食べるスペースが元々無かったかららしい。では何故昼食がお弁当かというのにも答えると…これはまぁ、旅行を主催する学園側の都合だと思うので、そこまでは私も分からない。だがまぁ、お弁当だからといって、こうしてこの地に来て初めて、お弁当という形とはいえ広島の名産品の一つを食べれたというので、私もそうだが、他の生徒たちも何の疑問も不満も持たないのだった。
食べてる間は流石に食べるのをメインに集中していたが、食べ終えて配られたペットボトルのお茶を飲みながら一息入れ始めると、何も言わずとも麻里が率先してカメラを取り出し、テーブルの真ん中辺りに置いて、早速ついさっき撮った私と律の”恋人風写真”を液晶モニターに表示させて見せてくれた。
そこには、十枚以上の二人の写真が収められていた。最初の一、二枚は二人揃ってぎこちないというか、いかにも無理してる風な苦笑いを浮かべつつ、体勢も控えめというか腰を屈めた猫背気味になってるのが目立っていたが、順々に画像が進んでいくたびに背筋がしゃんと伸びてる写真が増えていき、徐々に慣れてきているのが客観的に分かった。最後の方の数枚の時点では、私も律も、これも控えめではあったのだが、しかし自然体な微笑みを顔一杯に湛えていた。
この感想は律含む他のみんなも同じだった様で、その事についていつもの様にからかい冷やかし気味に突っ込まれたりしつつ盛り上がるのだった。
この時、一緒に行動した他の班のみんなも見ていたのだが、あまりにも私達が騒いでいたせいか、何事かとクラスメイト達もワラワラと私達の周りに集まって来てしまい、私と律を肴に益々盛り上がってしまった。
こんな様子に、私と律は顔を見合わせて益々苦笑いを浮かべ合う他に無かったのだが、その時、前方の方で安野先生たちが昼食を終える旨を合図したので、私達の周囲から皆が一斉にはけていき、ここでようやくホッと息がつけたのだった。
中身が空になった弁当箱を、すでに用意されていた幾つかの大きいゴミ袋にキチンと分別して捨てると、先生たちの声かけの通りに一旦ターミナルから外に出て、後処理を他の先生たちに任せた安野先生の先導の元、ここ呉の地に足を着けてからずっと気になっていた、潜水艦の実物が屋外に展示されている、海上自衛隊呉史料館、愛称”てつのくじら館”へと向かった。
この史料館は所有する資料の展示、保存を通して、隊員教育、広く国民一般等への広報活動等を目的として今世紀に入って開館したものだ。一つ前に見学した科学館の外壁と同じ茶色の建物で、ついさっきも触れた潜水艦が徐々に目の前に近づいてくると、駐車場で見た時よりも当然ではあるのだがその大きさインパクトに圧倒された。まさに、陸揚げされた”くじら”といった風情を見せていた。
この史料館は無料開放というので、特にこれといった集合前の確認だとかは無く、着いた順に班毎に建物内に入って行った。
まず一階部分では、この史料館の名の通りに、まず”海上自衛隊とは?”というので、鎮守府が置かれた地として発展してきた呉を軸に、現在までの海上自衛隊の歴史を紹介した映像やパネルを見て回った。
二階に上がると、そこは”自衛隊の掃海艇の活躍”というテーマで、戦後、機雷によって恐怖の海と化した日本の海をどう掃海して航路を啓開していったのかの歴史展示、掃海の具体的な方法、機雷についてなどなど、まさに掃海にフォーカスを当てたフロアとなっていた。それらはそれなりに楽しく見て回っていたのだが、あるところで前から関心があったパネルがあったので、ついつい足を止めて見てしまった。
それは、いわゆる国際貢献と銘打たれたもので、”湾岸の夜明け作戦”の名で知られるペルシャ湾での掃海活動に従事した海上自衛隊の姿について、当時の様子を捉えた数々の写真や説明が書かれていた。
湾岸戦争後に自衛隊が派遣されたわけだが、自衛隊にとってこれが初の海外実任務だった。
無駄な…というのは、例によって義一を始めとするオーソドックスの面々の言葉だが、そんな無駄な法律で自衛隊をがんじがらめにし続けてきた法をアレコレと解釈がなされた後で出来た行動だった。
…まぁ、細かいことは抜きにして、それこそ当時の自衛隊派遣については今だにアレコレと議論の起こる議題ではあるのだが、それはさておき、義一たち、それに加えて、ただ話を聞いて納得したってだけの私ではあるのだが同じ意見として、取り敢えず一般的…でも無いだろうが、言われてる程にはこの掃海作戦について私達に反対意見などはこれっぽっちも無い事だけは述べておこう。
…ただ、この展示を”国際貢献”と、「貢献したんだ俺たちは」と自分で堂々と胸を張ってみせるというのは、何だか所謂”日本教”の精神に外れている気がして、その言葉に対して面映ゆい事この上なく、ついつい鼻で笑ってしまったという事実だけは付け加えさせて頂こう。
とまぁ、それは置いといて、その前の部分で何故敢えてこの様な発言をしたのかは、まぁ察する人だけが察して頂ければ良い類のものなので、当時の日本に対する戦争当事国の反応、それが載った記事がどこまで本当だったか、もしくはその記事内容が当事国の本来の意図に沿ったものだったか、などなど…とだけ言い残して終える事にする。話を戻そう。
客観的に見ても結構じっくりとパネルに目を通してしまった気がして、またニヤニヤと見られてるのではないかと恐る恐る周囲を見渡すと、裕美たちも何だかんだで私ほどではないにしても、それなりに興味深げに写真を中心に眺めていた。
…ふふ、自分を棚にあげる様だが、何気に裕美たちを始めとする学園の生徒諸君は真面目だというのが、ここでも証明されているだろう。…まぁ、どこの学校の生徒もそうかも知れないけれど。
それから私達は三階に上がると、ようやくというかそこは潜水艦に特化したフロアだった。
潜水艦とは何かから始まり、機能について、艦内生活の紹介、これまでの潜水艦の変遷などなど、まさに潜水艦尽くしの展示エリアだったのだが、それらを見て回った最後に、とうとう実物の潜水艦の内部に入る事になった。
そう、外で見た潜水艦の中だ。
まるで乗り物好きの男子の様に…って、別に男子に限らないだろう、私達のような”お嬢様校”の女子学生たちですらも(?)内心ワクワクしつつ乗艦した。
艦内は照明が天井からいくつも下げられている割には薄暗かった。その天井や、また壁には機材やパイプがむき出しになっているのが見えており、通路も、これは想像はしていたのだがそれよりも狭く、私達のような女子中学生ですらすれ違うのが困難に思えた。この中で乗組員が七十五名も任務に当たっていたという話を聞きつつ、その光景を想像しながら、その乗組員の寝室として使われていた三段ベッド、トイレやシャワー、そして機長室を見学した。
そのまま一番奥に進むと、発令所にたどり着いた。ここには操舵席や、潜水艦といえばまず思い浮かべるであろう潜望鏡があった。
私達は早速操舵席に座ってみたり、潜望鏡を覗いてみたりして、乗務員の疑似体験をした。
その後は、潜水艦は夜間も活動するというので、昼夜の感覚を保つ意味でも変えているというので、実際に照明を、昼用の白色灯、夜間用の赤色灯と切り替えて見せて貰い、そして最後に、一時四十五分で止まった艦内時計を見て、その経緯を教えてもらった後は、どこか物悲しい感情を覚えつつ私達は退艦した。
それから私達は史料館を後にして、道を挟んですぐ向かいの、再集合場所である駐車場へと戻ってきた。その途中、道を渡った辺りが丁度潜水艦の全体が収まるというので、先に出ていた生徒たちがしているのを倣って、私達も同じように潜水艦をバックに写真を何枚か撮るのだった。
撮り終えて駐車場に入ると、私達のバスは朝のそのままの位置に停車しており、乗車口に安野先生とガイドさんが談笑しているのが見えた。
と、こちらが声を掛けるが先か、向こうが気づいたが先かはともかく、早速一言二言言葉を交わした後で、いつものように紫が代表して見学を恙無く終えた旨を伝えると、先生は何やらメモを取りつつ、バスに乗車するように言われたので、指示に従った。
車内に入ると、既に何組かの生徒が席に着いていた。お互いに挨拶を交わして席に着き色々整理を済ませた。
全員が戻ってきたらしく、これも例によって前方から先生とガイドさんが指差し確認で人数を数えて、それを終えると前置きなくバスはゆっくりとした動きで駐車場を後にした。
ガイドさんがテンプレなのだろう、見学を堪能したかと質問を投げかけてきたので、藤花などのムードメイカー達を中心に返答を返している間、バスは科学館、昼食会場だった会場の前を通過して、そのまま道なりを進んで行った。
次の目的地は江田島という所にあり、実は今通り過ぎたターミナルから定期便のフェリーが出ているのだが、昼の二時を少し回った辺りの時間だと、港で三、四十分ほど待つこととなる。島まで渡るまでの所要時間は約二十分と、合計すれば一時間くらいの移動時間となる訳だが、その江田島まで橋が架かっているお陰で車でも渡れて、しかも所要時間も大体四十分ちょっとという、合計すればバス移動の方が若干早めに着けるとの事で、”今回ばかりは”船はお預けとなる…と、これも学園内で事前に知らされた内容だった。
これを聞いた、特に裕美が大げさにガッカリして見せたのは言うまでもない。
…だが、ガイドさんと私達の間でおしゃべりが盛り上がる中、バスは呉市内を暫く走っていたのだが、気づくと進行方向右手、つまり私と裕美が座る側から海を長い間見渡せる道に入った。
先ほどまで、一瞬とはいえ名残惜しそうに後方に流れていくターミナルを見ていた裕美だったが、海が見えた瞬間に満面の笑顔を浮かべて、それ以降も、時折私達の会話に混じりつつも、ほとんどの時間を周囲をそっちのけに窓の向こうの瀬戸内海に飽きる事なく釘付けとなっていた。その姿を微笑みつつ、私も裕美越しに眺めていた。
そんな感じでバスが幾つか海に架かる橋を渡り終えてから暫く行くと、ようやく次の目的地、修学地へと辿り着いた。結果としては予定通り、五十分弱のドライブだった。
バスが施設の正門あたりで停まると、警衛所付近から純白の制服に身を包んだ”如何にもな”格好をした守衛が近づいてきて、運転手とガイドさんと二言三言会話を交わした。その後は難なく通された後、すぐ近くにあったらしい駐車場内に入り停車した。
完全に停まった後で、先生の号令のもと降りる準備を始めた時にチラッと腕時計を見ると、時刻は丁度三時になる所だった。
バスから降り、何の変哲も無いと言ってはなんだが駐車場を出て少し歩くと、先生達の引率の元、赤レンガと、白というのか淡いグレーとでも言うのか、大理石なのか御影石なのか淡い灰色の石とで組み合わされた、シンプルだが綺麗にまとまった外壁をした建物に入って行った。入る直前、弱いながらも陽光に当てられてその煉瓦の赤と石の白が強く強調されてとても印象的だった。
赤煉瓦の部分に木製の名称看板が掛けられており、そこには”江田島クラブ”と縦書きに書かれていた。
建物内部は外観とは違い、先ほどの昼食会場であった船のターミナル内と似通っていた。建物中央が吹き抜けになっている点もそうだ。ただ、内部の見渡せる限りの範囲内で見かけた柱が全てステンレス張りになっているのに気づいた。そして、そのどれもが綺麗に磨かれており、まるで鏡の役割を果たしており、私たち含む周囲の景色を映し出していた。
と、そんな風に辺りを見渡しながらズラッと椅子が整然と並べられているスペースに着くと、ここで座って待っているようにと命令が下った。
それから私達は、座りながら屋内を見渡したり、これから見学する内容についてお喋りをし合うのだった。
…っと、そろそろここで、私達が来た場所がどこか明かす時がきたようだ。…って、こんな出し惜しみする意味は無かったのだけれど…。
…コホン。ここは江田島にある海上自衛隊第一術科学校、旧海軍兵学校跡地だ。現在は、先ほど通った正門横に出ていた内容をそのまま読み上げると、海上自衛隊幹部候補生学校 第一術科学校、そして江田島警務分遣隊が設けられている旨も一緒に出ていた。
戦前ここ江田島といえば海軍兵学校と認知されており、実際に意味していたらしい。元は東京の築地にあったのだが、日に日に華やかになっていく東京では厳しい教育を行いづらいと言う理由から、明治二十一年に江田島に移転したとのこと。当時の江田島は本当に何も無く、漁村がある程度だったそうだ。
海軍兵学校とは簡単に言えば、帝國海軍の将校たる士官の育成を目的とした教育機関で、要はエリート養成校だった。それとは別に、機関科に属する士官を養成するための海軍機関学校、庶務、会計、被服、糧食を受け持つ主計科要員育成を目的とした海軍経理学校の二校を合わせて”生徒三校”と呼ばれている中の一校であった。
この海軍兵学校は、イギリスはダートマスにある王立海軍兵学校、アメリカはアナポリスにある合衆国海軍兵学校と共に、世界三大士官学校の一つに数えられており、敗戦と共に廃止されたが、今も他の国の兵学校との連携は密にあり、お互いの国の軍の中から連絡官として数名を派遣し合っている。
そして海上自衛隊幹部候補生学校として毎年多くの幹部候補生を輩出している…との場所だ。
…ふふ、とまぁこうして例によって例の如く学園内での事前学習の成果を発表したところで、話に戻るとしよう。
今触れたような紹介などを含めた広報ビデオを見たりしつつ座って五分ほど待っていると、着座する私たちの前に三名の男性達が現れた。
元々、この場に漂うある種の雰囲気のせいなのか、先ほど私達がお喋りをしていたとは言ったものの、実際は小声でひそひそとするのに留めていたのだったが、彼らの姿を認めるとピタッと止めた。
そんな私たちに対して、粛々と自己紹介が行われた。それによると、彼らは海上自衛隊OBの説明員との事だった。
そのような簡単な紹介が終わると、早速私達は組ごとにこの構内を見学するためにクラブを後にした。
昨日のような雲一つないぴーかん照りとが違い、朝からその気配は出ていたのだが、曇天とまではいかないまでも、空には雲の面積が増える一方だった。
ただまぁ朝ホテルで裕美と見ていた番組内の天気予報によれば、降水確率はゼロだと出ていたので、その予報をどこまで信用して良いかは別にして、さほど心配も生じず、むしろ曇り空が大好きな私としては、気分的には晴れやかだった。
説明員の後について行き、まず辿り着いたのはクラブの目の前にある大講堂だった。花崗岩で覆われた重厚感のある荘重な建物で、大正六年に建築されたらしい。敗戦後米軍に接収されていたのをその後返還されたのだが、流石に傷みを見せていたというので大改修工事が行われ、御影石の美しい品のある真っ白な姿を取り戻せたという話を聞いた。
説明員さんは私達を引き連れつつ、話しながらこの建物の周囲を回っていたのだが、裏側に着くと、目の前にある建築物について付け加えた。そこには屋根と鞍馬寄せ付きの入り口があったのだが、なんでもここは通称”高貴門”と呼ばれているらしく、入校式や卒業式で皇室の方々が来賓として来られた時だけに使うとの事だった。
「この後で私達が入る表側の門は平民門と呼ばれております。今日はこの中に、皇室ゆかりの方はおられますか?」
とここにきてふと表情を緩めて冗談めかして聞いてきたので、こちらからもただ笑顔で返そうとしたその時、クスクスと私の周囲だけに小さな笑みが漏れた。
私が周りを見渡すと、私以外の班員全員がこちらに顔を向けており、その全員の顔には十人十色ではあったがどの顔にも悪戯っぽい、何か言いたげな意味ありげな微笑を湛えていた。
説明員のおじさんを始めとする他の同級生達は何事かと興味津々にこちらを見てきていたが、「な、なんでも無いです…」と私は説明員さんに苦笑まじりに声をかけた後で、照れ隠しにほっぺを掻いて見せた。
その後は「いませーん」と数人が答えた事で無事通過となり、私の周囲で笑顔が溢れた件について何も追及される事なく予定通りまた講堂の正面に向かった。
その途中で、裕美に小声で話しかけられた。ニヤケ面だ。
「…ふふ、この度は申し訳ありません、お姫様。本来あなた様の様に高貴なお方は高貴門から入るのが本当なのですが…今回ばかりは辛抱頂いて、我々に合わせて一緒に平民門から入る事をお許しください」
と最後に頭を大きく下げたのを見て、私以外の皆はまたもや吹き出しつつ笑顔を浮かべた。
よくもまぁアドリブでツラツラと…。この無駄に芝居掛かった事をしつつ揶揄ってくるところとか…ますます絵里さんに似てきたわね…
と呆れつつ、「あのねぇ…」と私一人で、頭を元の位置に戻した裕美、それに他のみんなにジト目を向けたのだが、場所が場所だけに、場の雰囲気を壊したくない…というか、さっきの様に一瞬でもまた注目が集まるのが嫌だった私は、「まったく…」と大きくため息を吐きつつ呟くと、「ふふ」と小さく一人で苦笑を漏らすのだった。
私へのからかいはともかく、いくら都内…いや、全国的に見ても屈指のお嬢様校である我が学園生の中でも、全員が喜ばしい事に平民だったらしく、私達は揃って仲良く石畳の上を歩きつつ表側へ向かった。
着くと、まずここで集合写真をクラス毎にパチリと一枚撮ってから、特徴的なイオニア式の列柱の合間にある大きな玄関をくぐり中に入った。
入ると、この言い方が相応しいかは分からないが、ガランと広々とした空間が広がっていた。
その印象は、柱といえば二階部分とでもいうのか、講堂内を上から見渡せる貴賓用観覧席を支える、イオニア式とは違いシンプルさが特徴のドーリア式風な柱があるくらいなせいかも知れない。照明といえば天井からいくつもぶら下がる、舵輪の形をした六つの電灯が柔らかな光を放っていたのだが、それよりも、アーチ型と長方形型の大きめな窓がズラッと壁に並んでおり、そこから入る自然光が御影石のプレートが敷き詰められた床に光の影を作り出していた。自然光がシンプル且つ清楚な真っ白な壁を照らし、講堂の奥にある真っ赤な絨毯が敷かれた、国旗と自衛隊旗が斜めに掲げられた飴色の木目が綺麗な演台、もしくは式台などなど、それら合わせた総合的な屋内の光景からは、さながら大正ロマンな雰囲気が醸成されて辺りに充満し、私個人の感想を述べれば、この凜とした研ぎ澄まされた様な空気がとても心地良かった。
この講堂は整列すると約2千人ほど収容でき、幹部候補生となるエリート達の卒業式がこの講堂で執り行われると説明を聞いた。確かに舞台の木の床の部分を見てみると、もう何度踏まれたのかその証の様に、靴の踵が作った傷が白く残っていた。
自分の実体験を交えつつその時の事を話しつつ歩く説明員…という事は、この説明員さんも幹部候補生だったという事だが、その事実に失礼かもしれないが驚きつつ後をついて内部を見て回る中、「なんでこんなに講堂内は声が響くのかな?」と友達同士で話し合う声が後ろの方で聞こえた。その雑談風な声が彼にも聞こえたらしく、「それは天井に貼られた和紙に秘密があるんですよ」と、見学開始当時から感じていた事だったが、自衛隊上がりらしいハキハキとした口調にして音量も大きく、そう答える説明員さんの声が反響して聞こえるのが印象的だった。
そんな話が終わると、私達は講堂を出て次の見学場所へと向かった。
そこは、ここ江田島第一術科学校の象徴とも言える幹部候補生学校庁舎だった。戦前は海軍士官候補生が、今現在は海上自衛隊幹部候補生達が寝起きする研鑽の場だ。
この建物も煉瓦造りなのだが、このレンガは一つ一つを油紙で包装されてイギリスから取り寄せたという曰く付きで、手の込んだ焼成法によって出来上がった高級レンガは、明治二十六年の建築以来一度も洗いをかけていないのにも関わらず、百年以上経過した今も綺麗な煉瓦色を帯びていた。
そんな煉瓦が特徴的な、シンメトリーの校舎の前でまた写真を撮ってから、外観の見学を始めた。
校舎の正面玄関上部にある、桜と錨のマークが入った海軍印、建物の側面に回り、全長百四十メートルの校舎を左右に貫く廊下など、これらを私含めて生徒たちは説明をもちろん聞きつつではあったが、写真を撮るのに夢中になるのだった。
ここを後にし次に向かったのは、シンプルにして荘厳なドーリス式の円柱が並ぶギリシャ神殿風の正面を持つ教育参考館だ。見学の順路としては、まず正面玄関から入ってすぐの大階段で二階へ上り、上がってすぐのところにある東郷平八郎、山本五十六、そしてアメリカからはネルソンの遺髪室を見学した。遺髪室見学の後は、旧海軍の創設から始まり、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争、そして終戦へと至るまでの、主に士官の手記や書画や愛用の品などの資料、そして海自の発足に至るまでの資料が年代順に展示されている、旧日本海軍の栄光と凋落の近代史と、そこから繋がる海上自衛隊の現代史を見て回った。
その中に珍しいもので勝海舟の書など興味深い代物が展示されていたのだが、これらの数多な資料の中でまたしても私の気に一番止まったのは、特攻隊員たちの遺書だった。
先ほども触れたが、義一たちに影響を受けたのが最初だったが、それ以降、一つ具体例を挙げれば私の比較的好きな文学者の一人、坂口安吾の随筆、敗戦直後にGHQの検閲により発禁削除されて戦後も暫く陽の目を見なかった『特攻隊に捧ぐ』を読んで感銘を受けて、ますます当時に思いを馳せていた私だったので、またもやここで周囲の目を忘れて、私たちと同じ歳とはとても思えない様な、どれもこれも達筆にして、内容も変に悲壮感を滲ませるのでもなく、ただただ自分がいなくなった後の残される人々への想いが綴られた、ある種の気持ち良いほどに潔い大和男児の姿を眺めていた。
…と、ここで余計な一言を述べるが、何も私…義一達を含めた私達は何も、戦前の日本人が今の私達よりも色んな面で、少なくとも精神性で優れていただなんていう、そんな典型的な右翼の言説を述べたい訳でもないし、実は賛成もしていない。
戦前の日本も、現代と同じで西洋にかぶれた、モダンガール、モダンボーイの略語である”モガ””モボ”といった標語が流行るくらいに、明治に入って以来薄っぺらい軟弱な人間が巷に溢れていて、その当時ですら、私達日本人が維新以来どう変化し、どこが進歩し、どこが退化頽廃してしまったのか、そんな一般向けでない、小難しい葛藤などしたくない、そんな事に想いなど馳せない軽薄な人間が大多数だったのは間違いない。
しかし、ここで私も同意見というか、これも例によってキッカケは義一から借りて感銘を受けた訳だったのだが、先ほど持ち出した安吾の随筆の中にある好きな言説の一つにこんな言葉がある。
『強要させられたる結果とは云え、凡人も亦かかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか』というものだ。
おそらく特攻隊関連の話は、これ以降の物語の中で詳しく重点的に触れられる箇所が出るであろうからこの辺で留めておくが、何故今この箇所を引用したかというと、もしこの様な、菊水作戦という名称で有名な作戦に従事した特攻隊の青年たちというのは、もし特攻…に限らず戦争が無かったならば、戦後の日本人たち、今の私たちと全く変わらない程度の低い薄っぺらな人間として生きていたであろうと、特攻隊が好きだと書いて憚らない安吾が冷静な視線で書いているからだ。
なので、別に戦前の日本、暮らしていた日本人、そして日本の軍人たちを無闇に手放しに賛美する気など微塵も無く、寧ろ明治以来の日本の在り方、過ごし方についてはかなり懐疑的だという事だけ述べておきたい。
…と、すごく中途半端な引用、話題を振り撒いて終えてしまうのを名残惜しく思いつつ、話を戻すことにしよう。
それらの遺書などを周囲を忘れて見ていたと言ったが、ふと我に帰り周りを見てみると、裕美たちや他の生徒達も私ほどでは無いにしろ神妙な面持ちで展示物を眺めていたので、変に目立っていなかったみたいで良かったと一人ホッと胸を撫で下ろしていた。
ここで約四十五分ほどかけて見て回った後で教育参考館から出ると、取り敢えずこれにて見学ツアーは終了との旨を説明員から聞かされ、クラブに戻る道すがら少し遠回りではあるのだが、ここ第一術科学校の正式な玄関である、卒業式を終えた幹部候補生達がここから沖合に浮かぶ練習艦に乗り込んで練習航海に旅立つ表桟橋、その隣にある戦艦陸奥から引き揚げられた、隣接する二階建ての建物よりも背の高い第四砲塔を見て行った。
全行程を合計して約一時間半ばかりのツアーは、クラブに戻って説明員さんに皆で声を揃える様にお礼を言ったところでお開きとなった。
バスに乗り込み荷物や身の回りを整理する流れの中でふと前方にある車内備え付けのデジタル時計が目に入った。それによると、時刻は夕方の四時半になろうかと言うところだった。
ふとこの時、何となく裕美越しに車外に目を向けると、結局は空を雲が半分ほど占める形が続いて日中が終わろうとしていたが、それでも朝の予報通りに雨が降るどころか曇天模様にすらならず、今も雲間からしっかりと、若干オレンジめいた陽の光が降り注がれてくるのが見えていた。
…ふふ、でもやっぱり、西日本のせいかこの時間帯でも結構明るいわね…
などという、昨日にも持った感想を心の中で呟く中、バスはゆったりとした動きでノソノソと海軍兵学校跡を後にした。
動き出してすぐに、いつもの様にバスガイドさんが進行方向とは反対に顔と身体を向けて立ちながら、見学の感想などを聞いてきたので、こちらからも適当な返しをしていく中、体感的にはすぐに思える程の頃合いに、バスはどこかの駅前にある様なロータリー風の所に停車した。
「くれぐれも貴重品は置いていかない様に気を付けなさいね?暫くはバスに戻りませんから」
と停車してすぐに先生からこの様な御達しが下ったので、その訳を当然事前に知っていた私たちは、今日一番に念を押して確認してから、順々にバスを降りて行った。
少しネタバラシをすると、先ほど先生が言った意味は、これからどこかまた見学に行くので暫く戻らないという意味ではなく、ここから少しの間バスと別行動となる意味だった。
下車した瞬間、湿り気を含んだ風が体全体にそよそよと吹き当たる感覚に包まれた。
そのままふと周囲を見渡すと、一つ道を挟んだ、平屋の建物がポツンっと一軒あるのが見えた。
皆が全員降りたのを確認すると、それぞれのクラス毎にお世話になった運転手さんとガイドさんに一時的なお別れの挨拶を済ませると、そそくさと揃って平屋の中に入って行った。入る直前に玄関上にあった看板を見つけたのだが、そこには旅客ターミナルと出ていた。
…そう、要はここは船着場だった。この後の予定としては、ここから十分後に出航する高速船に乗り、約三十分かけて広島港に戻るというものだった。
この港にはフェリーも来ているので、バスも一緒に乗れば良いとは思うのだが、しかしまぁ別にそれに対して流石の私も一々疑問に思い噛み付くほどには頭に暇がないので、そのままそっくり受け入れた次第だった。
まぁ考えうる一番の理由としては、たまたま高速船の時刻割と予定がちょうど合ったという合理的な判断なのだろうと察しは付いている。…って、無駄に大げさに生意気に無意味なことをグダグダ言ってないで、さっさと話に戻ろう。
中に入ると、待合室に設置されてる椅子に早速座る者がいたり、立ったままスマホなどで撮った写真を見せ合ってお喋りに講じる者がいたりと、皆は船の時刻まで思い思いに過ごしていたが、私たちはというと、勿論同じ様には過ごしていたのだが、そうしつつも船の到着する側、つまり海が展望できるガラス張りに我先にと近寄り、海軍兵学校を出てから少ししか経っていないにも関わらず、すっかりオレンジ色の強まった陽光をテラテラと反射する湾内の風景を、細かい話だが背の高い私と律が後ろに立ち、その前を私から見て左から紫、麻里、藤花、そして裕美の順に横並びに立ち眺めていた。
運動バカ…というと本人には怒られるだろうが、そんな裕美ですら流石に朝の様に海を見ただけで騒ぐほどの体力、そしてテンションの源である精神力が弱まっていたらしく、”若干”大人しめに、まるで幼子の様にガラスに両手を付けながら眺める様子を、後ろから私は微笑んで見ていた。
若干といったのは、それでもやはりこの船に乗るという内容を、修学旅行の打ち合わせをし始めた時からずっと楽しみにしていたというのもあって、疲れが出ている割にはやはり顔には明るい笑顔が絶えることは無かった。
時間になり、ぞろぞろと待合室から桟橋に出て、目の前に既に停泊している高速船に皆で乗り込んだ。
…ふふ、ここでもう私達がどう行動したのか大体の予想がついているだろうが、そう、桟橋に出て船を見た時からではあったが、すっかり朝と同じテンションに戻った裕美にまたもや手を引っ張られる私という二人を先頭に、早速私たちは船内の客席エリアを素通りし、屋根付きではあるが屋外である船尾のデッキへと一直線に向かった。
私達が一足早かったのか、展望デッキにはまだまばらにしか他の生徒たちの姿が見えなかったので、早速待合室と同じフォーメーションを組んだ。
その後は班全員や、それぞれ何人かで組んでの写真撮影を行ったり、それを終えると少しの間港とその向こうに見える市内を眺めていたのだが、アナウンスと汽笛が聞こえたかと思うと、次の瞬間には大きなエンジン音と共に船尾に白い水しぶきを上げながら船がゆっくりと動き出した。
まだ出航したばかりの時は徐行していた船だったが、ものの数分で高速船の名に恥じない速度で海面を滑る様に走り出した。
初めのうちは、何とか声を張って各々が各々の持った感想を述べあったりとお喋りしていたのだが、けたたましく鳴り響くエンジン音と風切り音に対して、裕美含む私たち全員が次第に抵抗するのに疲れてくると、後部の展望デッキから、夕映えの江田島市が徐々に遠のいていく様子を眺めたり、船尾から生まれては扇形に広がっていく真っ白な航跡波に目を落としたり、そしてたまたま雲のない所に今まさに沈まんとする夕陽が、瀬戸内海に浮かぶ大小の島々を逆光によって真っ黒なシルエットを作り出し存在感を増加させて、その神秘的な姿に思わず瞬きを忘れるほどに一つ一つを見つめていた。目を奪われていたので実際に確認したわけでは無いが、恐らく他の五人も私と同じ様にしていたことだろう。
瀬戸内海などの内海に浮かぶ、小さな島々が連なる様子を日本の先人たちは『多島美」と表現した様だが、如何にも数々の世界に誇れる、和歌などの文学作品を沢山生み出してきた、私を含む精神が痩せ細ってしまった今生きる我々と先人達とを同じ地に生まれたというだけで安易に同一視するのは個人的には気がひける…というか納得がいかないのだが、まぁそれはともかく、そんな情緒的な言葉にまさに相応しい光景だった。
流れていく島々を眺めている間、目的地の港まで約三十分ほどの船旅ではあったが、後になってこの間は無心に近い状態になれていたのに気付いた。
何かと目についたり耳に入ったりと意識を刺激してくる物事に対して、物心がついた頃からではあったのだが、義一と再会して以降のここ数年間、その気が増すばかりで”考えない”という事が一切無かったこの私ですらだ。
終いには、先ほど触れた様にお喋りを中断させるほどに喧しかったエンジン音と風切り音が、目に入って来る映像と溶け合い煩わしさが薄れて、身体に当たる潮風が柔らかな毛布に身を包まれるに近いような感触を呼び起こさせられたお陰で、全体的にフワフワと身軽になる様な、そんな心地良い感覚に意識を沈めつつ残りの船旅を楽しむのだった。
船が港に入り桟橋に近づくに連れて、速度と同時にエンジン音も弱まり、風切り音が聞こえなくなって来るのと比例して、何だかようやく現実に戻ってきたかのような錯覚を覚えた。
それは他のみんなも同じだったようで、私たちだけではなくデッキに出ていた他の生徒達もまたザワザワとお喋りを始めだした。
船が岸壁脇に到着すると、早速私たちは順序よく下船したのだが、そのまま港を出る事なく左に広島港の旅客ターミナルを見つつ素通りして、先に少し行った所にある桟橋に停船していた別の船に乗り込んで行った。
私たちがほとんど間をおく事なく乗り換えたのは、所謂レストラン船だった。要は、出航地と帰港地が同じで、洋上の眺望を得ながらレストランでの食事やお茶を楽しむという目的に特化した客船の事だ。
これだけでもうお分かりだと思うが、そう、私たちはこの船内で夕食を摂る予定となっていた。
船に乗り込む前にチラッと上を見上げると、空は茜色から、微かに紅がかった淡い空色へと変化を見せていて、もうすぐそこまで夜が来ているのが分かった。
腕時計に目を落とすと夕方の五時半、夕食時と思うか如何かは人それぞれになるが、お腹の空き具合からして頃合いだった。
船首からマストを通して船尾まで架かる、満船飾か電飾がチカチカ瞬いているのを目にしつつ船内に入ると、んー…こう言ってはなんだが、結果的に失礼に当たらないと判断して敢えて言うと、パッと見ではどこにでもあるような普通の船としか見えない外観からは予想つかない程に絢爛としていた。
エントランスを通り入った一階フロアの天井には、黒地に小さな照明が数え切れないほどに取り付けられており、さながら星空のようだった。
厚めの絨毯の上が敷かれた通路をそのまま先に進むと、その先には中央階段があり、二階に上がるとそこはそのまま夕食会場に直結していた。
内装は白を基調としながらも、柔らかなオレンジ色の明かりが、天井からと壁に掛けれられた間接照明から照らされていた。大きな窓が開放感を演出し、一番奥の階段でいう一段分ほど高い舞台部分にはピアノが一台置かれており、四人がけと六人がけの二種類からなるテーブル席が幾つもセッティングされていた。その全てのテーブルの上には白のテーブルクロスの上に、真紅のテーブルクロスを座り位置から見て菱形に見えるように被せられていた。
比べるのもおかしいと思うが、昨日の泊まったホテル内の夕食会場とは当然規模が小さかったが、しかしそれでも雰囲気は似通っているように思えた。
「あ、琴音ー、ピアノあるよー」
と大体予測はついていたが、案の定目敏く見つけたらしい裕美が早速ニヤケつつ声をかけてきた。
「えぇ…ふふ、そうね」
と私は苦笑まじりに返すと、それからは班員全員に同じ類の言葉を投げかけられた。
「琴音ー、せっかくだから弾いてみてよー」
とまぁ、この手の感じではありがちの言葉も貰ったが、「良いよ別にー…。それに、勝手に出しゃばって弾いたりして良い訳ないでしょ?」と返しつつ、早速決められた六人がけのテーブル席に着いた。
ここでも奇しくもと言うのか、例の喫茶店での座り位置と全く一緒になったのは言うまでもない。
テーブルには各席の前に既に食器類がセッティングされていた。人によってはこの時点で今回の夕食がフルコースだとすぐに察せられるだろう。それを証明するかのように、テーブルの中央部分に一枚のメニューが置かれており、そこにはオードブルからデセールまでの料理の数々が書かれていた。
そう、オードブルやデセール…ってこれはあまり一般には聞き慣れない単語だろうが、これらから、今から私たちが戴く料理がフレンチだというのが分かるだろう。
どうでも良い補足を入れれば、オードブルにしても、英語ではデザートと発音するデセールにしても、この二つはフランス語だからだ。
…ふふ、この時点で『流石なんだかんだ言っても巷ではお嬢様校と名高いだけあって、修学旅行にフレンチのフルコースを食べるとは…』と感想を頂かれる方も居られるかもしれない。
んー…まぁ当たらずも遠からずなのだが、これにも学園側の意図による訳があった。結論から言ってしまうと、この夕食時も実は”修学”の一つなのだ。
どういう意味かというと、今回こうしてフルコースを頂きつつ、同時にテーブルマナーを学ぼうという趣旨が含まれていた。
…普通の他の中学校がどうかは知らないが、まぁ確かに、修学旅行でテーブルマナーを学ばせようとするのは、いかにもお嬢様校っぽいといえばポイのかも知れない。
ここでまた役に立ちそうで役に立たないかもしれない豆知識を補足的に入れると、元々はイタリアン料理が実はフルコースの元祖なのだが、テーブルマナー発祥はフランスというので、それでフレンチ料理が今回出されるらしい…と、これも事前に聞かされていた。
席に着いてからも、裕美達のようにピアノを見つけた同級生達が、勿論全員って訳では無かったが、側を通り過ぎる度に私に”それ関係”の話題を振ってきた。
この流れはクラスメイトに止まらず、昨夜と同様に一組から私達の三組までの同じ会場だったのもあり、中学二年時の同級生達からも声をかけられる始末だった。その中には、コンクール本選時に出場していた私をたまたま見かけたらしいあの子の姿もあった。
裕美達への遠慮ない笑顔とは違った種類の笑みを振りまきつつ対応していたが、
…ふふ、もうコンクールの決勝のあった八月末から半年を優に超える月日が経つというのに、今だにこうしてふとした事で蒸し返されるのね…はぁ、やっぱり学園祭の時のも含めて、悪目立ちはするものじゃないわ…
と、話しかけてきた最後の一組に対応して、挨拶して立ち去るその後ろ姿を眺めつつ、大きく深く息を吐きながらそんな感想を持ったのだった。
当然そんなずっと苦笑しっぱなしの私の姿を、他の五人が微笑ましげに見てきていたのは言うまでもない。
そんな流れがようやく終わると、何も区別化を図らなくても良いのだが、私と違って他の生徒、少なくとも私たちの班のみんなは、料理を楽しみにしているのと同時にこの夕食会の本来の目的が頭にあったらしく、自分の目の前の食器類を興味深げに眺めたり、メニューを眺めたりなどしつつ、口々に感想を言い合うのだった。
と、しばらくそうしていると”パンっ”と舞台の方で手を叩く音が聞こえた。途端にお喋りは止み皆して舞台に視線を集中させると、そこには毎度の如く安野先生がそこに立っていた。その両脇には志保ちゃんをはじめとする他の先生達も立っている。
私たちが静かになったのを確認し終えると、先生はニコッと人懐っこい柔らかな笑みを浮かべると口を開いた。
「…さて、出港後に始まる夕食まで時間がありますから、予定時刻までこのまま会場内にいるなり、船内を散策するなり、景色を眺めにデッキに出るなり、自由に過ごして良いですよー」
「はーい」
と先生の言葉に一斉に声を揃えるように返事を返すと、ガタガタと音を立てながら席を立ち上がるという動きを皆が見せたので、先生の挨拶前よりもざわつきが大きくなった。
さて私たちも…と、席を立ち会場を出ると、もう今日何度目になるか知らないが、「琴音ー、早くデッキに行こ!行こー!」とまたもや裕美に手をグイグイ引かれるままの私という構図の二人を先頭に、皆で同じ二階の後方にあるデッキへと向かった。
このレストラン船は普段は週に五日、昼と夜と一日に二度の定期運行をしているらしかったが、今回は私たち学園生の貸切となっていた。
なので、先生が船内を好きに出歩いて良いといった話をしていたのだった。
「琴音ー、海、海ー!」
とデッキに出るなり手すりに駆け寄ると、ここでようやく私から手を離して両手で手すりにつかまりつつ、顔を正面に言うので「はいはい…」と私は苦笑を漏らしつつも、裕美の真横に立ち、同じように手すりに手を添えながら返した。
目の前には低めの旅客ターミナルの一部が見えていたが、建物の向こうに広島市内が覗いていた。
ふとまた空を見上げると、顔を正面にした方角が北なせいか、西、つまり左からの夕日の光がまだ滲む形で残っていたが、しかし瞑色の度合いが強まっており、チラチラと柔い光を放つ星の姿が見え始めていた。
私たち二人のすぐ後で、他の四人も勢いよく両脇に横並びに立った。左から律、藤花、私、裕美、麻里、紫の順だ。
…そう、昨日のお好み焼き屋さんでの並びと同じだ。
「おー!」と私たちの後方からの夕日に照らし出された市内の様子に、藤花に始まり他の皆が声を上げていたが、
「…ふふ、もーう」
と私は”敢えて”空気を読まずに、まず裕美に話しかけた。
「本当にあなたは、この手の事になると周囲が見えなくなってはしゃいじゃうんだから…」
「えー?」
と裕美は不満そうな声を漏らしつつこちらに顔を向けたが、満面の笑顔だった。
「ふふ」とその表情を見て自然な笑みを零したが、しかしすぐに「まったく…」とため息交じりに続けた。
「今日はもう何回もあなたに手を思いっきり掴まれて引っ張り回されて…ふふ、手が痛くなっちゃったわよ」
と言いつつ両手をブラブラと揺らして見せた。
すると、笑顔だった裕美は途端に何かに気づいた様子でハッとして見せたかと思うと、「…ごめん」と笑みの度合いを弱めつつ、声のトーンも落として謝ってくるので、急に予期していなかった態度を取られた私は、「な、なんで…」と空気に釣られてオドオドと口を開いた。
「なんで謝るの?」
「…だって」
と裕美は、表情を変えないままに視線を手すりに戻していた私の両手に目を落としつつ続けて言った。
「…アンタはピアノを弾くんで、手を大切にしてる…じゃない?だからその…」
「あ…」
と私も自分の手だと言うのに、まるで違う物を眺めるかの様にしげしげと見つめた。
…確かに、藤花ほど徹底してはいない…というか、別に藤花も同年代相手だと律と私にしか喉のケアなどの態度は露骨には見せていなかったが、私もそれなりに普段から手、それに手首に常日頃から神経を光らせていた。
まぁこれは…こう言うのは気がひけるのだが、恐らく師匠の件が深く関わっているのだろう…と、自分の事なのにそこまでまだ分析が出来ていないので、こうして他人事風な言い方になってしまうが、多分そうだ。
何せこのストレッチを、練習など以外でも日常的に師匠がしていたのだし。
事故により両手が自身で納得いくレベルの様には動かなくなってしまい、それによってピアニストを引退してしまった師匠、その師匠から実質マンツーマンの真摯な教授、その尽力によって身に付いた数々の技術や教えを、無碍にする訳にはいかない…と、やけに大袈裟に聞こえるかもだが、師匠には当然言わずとも私としてはそういった想いを抱きつつ日々を過ごしていた。
技術の上達なり、口幅ったい言い方だが”深み”を実感するたびに、この想いは強まる一方で、次いでというかその他のキッカケも述べておけば、それらに加えて益々油をそそぐ事になったのは例の、コンクールを観に来てくれた京子がフランスに戻るというので空港まで師匠と見送りに行ったあの日の一件があったのは言うまでもないだろう。
…とまぁ、思わず何だか急にわれ知らずに熱が入ってしまったが、そんなわけで常日頃から手首のストレッチ、指のストレッチなどなどを思いつく限りにおいてだが、頻繁にやる様になっていた。
そんな私の普段の行動を、師匠のことまでは私が話していないので知る由も無いが、それ以外の何故そうしているのかその理由を含めて、裕美は勿論のこと、他のみんなも今この時点において知っていた…その事に触れたいが為に、微妙に長めの脱線をしてみた。そろそろ話を戻そう。
「…ふふ」
と、急にわれに返ってそんな気遣いをしてきた事に対して、ここまで気にしてくれて有難いと素直に思ったのと同時に、『何で急に…?』という思いもやはり拭えず、こうして自然と微笑んでしまった。
そんな私に対して、裕美はほんの微量の怪訝な表情を顔に浮かべていたが、それに構わず微笑のまま言った。
「もーう、冗談よ冗談!急にしんみりしないでよー?」
と最後に目をぎゅっと瞑ってみせると、「なーんだ」と裕美も顔の緊張を緩めると、
「アンタは普通の女子と違うから、てっきりマジな方だと思ったよー」
と途端に悪戯っぽい笑顔を浮かべながら続けて返した。
「何よー?私だって冗談くらい…」
と私も裕美と同じ種類の笑顔を作って軽口を返そうとしたその時、ふとさっきから私たち以外に誰も音を立てていないのに気づいた。
私は途中で口を止めて、取り敢えずまず裕美の向こうに視線を飛ばすと、そこには、思いっきりニヤニヤと笑う藤花の顔と、普段通りに相変わらず静かだったが、とても微笑ましげな視線をこちらに飛ばしてくる律の顔があった。
二人のその顔に気づいた瞬間、ハッと察した私が素早く反対の方にも顔ごと向けると、そこには紫と麻里が、やはりというか藤花と同じ類の表情でこちらを見て来ていた。
…普段はすぐに軽口を飛ばしてからかってくるというのに、今回は私だけではなく裕美も含まれるせいなのか、何も言わずにただ眺めて…というか、観察してくるのみだった。
裕美はそんな他の皆の様子に気づいているのかどうなのか、悪戯っ子の笑みを浮かべたまま変化をさせないので、何だか結局私だけが居心地悪い思いをし始めていた。
なので、この空気をどうにか変えたいな…と考えを巡らせたその時、ふとある事を思いついたので早速それを口に出す事にした。
「まったく…裕美、あなたの海好きにも困ったものねぇ…ふふ、私は別に構わないのだけれど、他の皆は初めて乗るこの船の内部でも探索したかったんじゃない?」
「…あ、あぁー…」
と裕美もここにきてようやく真顔に戻ると、さっきの私の様に周囲に顔を回した。
すると、他の皆も同じ様に真顔…というよりキョトン顔を浮かべて、その後で今度は皆で顔を見合わせていたが、誰からともなくクスッと笑ったかと思うと、全員を代表して紫が口を開いた。
「別に良いってー、私たちだって中にいるより外に出て景色を見たほうがいいもん」
「そうそう」
と麻里が同調すると、それからは藤花や律も同じ意味内容で返してきた。
「そーう?」
と私と裕美がほぼ同時に声に出すと、その事に気づいてお互いにまた顔を見合わせた。
そしてその直後にどちらからともなくクスクスと笑い合った次の瞬間、
ボーーーっ
とお腹に響く様な船の汽笛が鳴ったかと思うと、それと同時にゆっくりと船は岸壁を離れて行くのだった。
ついさっき乗った高速船とは、言うまでもないが同じ船という乗り物のジャンル内であっても違う雰囲気を味わいつつ、動き出してもずっと同じペースでゆっくりと遠退く港を眺めていたのだが、その時、ふと船内アナウンスで夕食の時刻を告げれた私たちは、早速また船内の夕食会場へと向かった。
会場に着くと、いったい今までどこに居たのか、乗船してから見かけたことの無かった、老若男女…と、若いと言っても当然私たちよりかは断然年上なのだが…って、そんな分かりきったことはともかく、タキシードの人、ベスト姿の人、ソムリエスタイル、白いジャケットなどなどと様々な格好をした面々が舞台前に横並びに背筋を伸ばして立っていた。結構な大人数で、きちんと数えたわけではないのだが、ザッと見ても総勢で二十名以上はいそうだった。
私たちが入る前に先に入っていた生徒達が席に着かずにイスの左側に立って待っていたので、おそらく先生たちに言われたからなのだろう、私たちも自分たちのテーブルまで行くと、座らずにそれに倣って立って待っていた。
その推測は当たっていた様で、タイミング的に私たちにはかけられなかったが、先生が待つ様に後から入ってくる生徒達に声をかけていた。
全員が帰ってきたのを確認すると、舞台袖に立っていた安野先生が見知らぬ制服姿達に視線を向けて頷いた。
すると、横並びの真ん中に立っていた、真っ黒なタキシード・スーツを身に付けた、この中では一番年配の男性が一歩前に出てきて自己紹介を始めた。
彼が名前の後で言った肩書きは、”メートル・ドテル”だった。メートル・ドテルというのは、フランス語の原義では”ホテルの主人”といった意味らしいが、転じてレストランの給仕係の長を指すようになっているらしい…と、その名の由来まで教えてくれた。
その次に自己紹介を始めた、その言葉遣いなどから察するに、いかにも経験を積んでる風な十数名かいる中から一人が一歩前に出て、メートル・ドテルに倣った形で名前の後で肩書きを付け加えた。それによると、”シェフ・ド・ラン”という名の役職で、主にテーブルの配膳を担当するとのことだ。その他の諸々のサービスも、彼らが中心になってするとのことだ。
彼は自分の話を終えると、そのまま自分たちより少し後ろに立っていた、この中では比較的に若い男女数名に顔を向けつつ紹介を始めた。
真っ白なモンキージャケットを身に付けた彼らは、”コミ・ド・ラン”と呼ばれる人達で、先に出たメートル・ド・テルとシェフ・ド・ランの補佐役を勤めるらしい。平たく言うとサービス見習いってところのようだ。
普段は営業前やアイドルタイムの店内清掃、テーブルセッティング等のスタンバイ業務に始まり、営業中はキッチンから料理をダイニングのサービス担当のもとまで運んだり、バッシングスペースに下げられた皿を洗い場へ運んだり、パンが足りなければ用意し、食後のカフェの準備などなどひたすらこれらを繰り返す…と、ふとこの紹介を聞いたときに妙に印象に残ったので、こうして少し踏み込んで具体的に述べてみた。
基本的にゲストに接することはない…という説明を聞きながら、ふと親近感が湧いたせいかも知れない。
というのも、要は彼らは見習いということで、今は修行中の身ということ。それは…ふふ、まさに今の私と全く同じだと思えたからだった。
言うまでもなく修行の具体的な内容などはまったく違うし、これは私の帰属するジャンルでも珍しいことではあるが、師匠一人に弟子が一人という、ワンツーマン体制の私達と、彼らとはそこの所からくる違いは大きいように思える。だが、繰り返しになるが、やはりお互いに修行中の身ということで、紹介されてる間、それなりに自然には見えていたが、それでもどこかまだベテラン勢と比べるとぎこちない笑みを浮かべている彼らに熱い視線を向けるのだった。
スタッフさん全員の紹介が終わると、早速夕食会を兼ねたテーブルマナー講座が始まった。
その前に予めテーブルマナー講座用のテキストが付録として付いているしおりを取り出し、受講の準備をしていたのだが、済ませてまた顔を上げると、舞台前にスタッフ達が横並びに立っていたので気付けなかったが、いつの間にやら舞台上に一組のテーブルと椅子がセッティングされており、その側に学園長、安野先生、志保ちゃん、そしてもう一人の違う組の先生が立っていた。
何故このようにしているのかと言うと、まぁ予想通りというか、口だけの説明では理解し得ない部分も出てくるというので、お手本を見せる目的で、実際に先生達が実践して見せてくれるという流れだった。
今この場における最高責任者であるメートルが舞台脇に立つと話し始めた。
まずは座る前の立ち位置。「着席時も離席時も原則として左側から出入りします。これはかつて男性が食事をする席でも帯剣をしていた時の名残でして、西洋では右上位、左下位になるからでもあります」という説明を聞いている中、それぞれのテーブル席に、先ほど紹介のあったシェフ・ド・ランとコミ・ド・ランを合わせた数名が側に付いた。
「えー…っと、あ、そうそう。その立ち位置の前に…今日は既に皆さんに入店して頂いている所からになってしまったので、話が前後してしまいましたが、実際にお店の中に入った後に、テーブルマナーで気を付けなければならない事があります。それは…どこに座るかです。席には必ず、その日もてなしを受けるゲストが座る”上席”というものが存在します。この時に、もてなす側の人間が上席に座るのは、テーブルマナーに反します。一般的にはお店の出口から見て、より遠い席が上席になります」
「おー」
とメートルの説明の途中ではあったが、そこかしこから声が上がった。それは私たちのテーブルも例外ではない。
「おー、私が上座だー」
と、この会場内でいうと舞台側で一番奥の窓際に座っていた藤花が、天真爛漫な笑みを零しつつ、自分の姿を見渡しながら言ったので、「本当だー」といったような相槌を、藤花の裏のまるでない明るい調子につられるようにして他の皆で笑いながら返した。
「ふふ、じゃあ今晩は私たちが藤花をゲストとして迎えるってわけね」
と私が悪戯っぽく笑いつつ言うと、「あはは、よろしくー」と藤花も同じ様に笑って返してきた。
そんな私たちのやり取りというか、熱が冷めてきたのを見計らってから、またメートルの講座が始まった。
「…が、しかしお店の構造によっては、区別が付きづらいような場合もありますよね。このような場合には、お店の方が最初に椅子を引いた席が上席となります」
と途中から話しながら舞台に上がると、学園長の側に立ち、椅子に手をかけた。
「ここでもレディーファーストなので、上席には必ず女性が座ります。女性が座ったのを確認してから、男性が座るようにしましょう。…まぁ、皆さんの中には男性はいらっしゃらないようですが」
「あはは」
「ふふ…あ、ちなみに男性が女性より先に座るのは、非常に失礼な行為なのでしてはいけません。細い説明は抜きにしますが、簡単に言えば”レディーファースト”ってことですね」
とメートルが説明しつつ、学園長に始まり先生達の椅子を引いて席に着かせるタイミングで、早速それぞれのテーブルについていたスタッフ達が同じように私たちに施し始めた。
「係の者が引いた椅子が膝裏に触れたら、そっと腰を下ろしてください。椅子には深く腰掛け、体とテーブルの間はコブシ二つ分ほど開けておきましょう」
との話を聞いて、私含む全員が、座るなりお腹の前に拳を持ってきて測った。
「座ったら次に気にするのが、カバンなどの持ち物の置き場所なり置き方だと思います。…ふふ、実際にプライベートでお店に行く時にはですね、席に持っていけるような布製で小ぶりなものを用意してください。椅子に座った際、椅子の背もたれと腰の間に置くと邪魔になりませんので、そこに置ける程度の大きさがベストです。よくあるパターンですが、もしテーブルの近くに専用置場があればそこに置きましょう。また…ふふ、今回の皆さんのように、修学旅行中だというので、大きなカバンを持って来られている方が大半だと思いますが、そのような場合は、入店した際にクロークに預けるのを忘れずに」
とほどほどの品の良い笑みをこぼしつつメートルが言うのを聞いた私たちは、足元に無造作に置いたリュック類に目を落とした。
その時、「あ、預けてないや」と誰かが思わずといった感じで声を漏らしていたが、それが聞こえたらしいメートルはニコッと一度微笑んでから続けて言った。
「続きですが、もし大きなバッグしか持ってきていない場合は、そのバッグを持ち込んでもよいか店に相談すると置き場所を確保してくれるでしょう。ですが、大きなバッグは店や他のお客さまにあたる可能性があるので、食事の邪魔にならないようスマートに振る舞うためにも、サブバックがあると安心です。なお、お祝いの席では殺生を想起させる爬虫類系の革や毛皮のバッグは控えたほうが無難です。でですね…」
とここで一度話を区切ると、一旦私たちをぐるっと見渡してから少しだけ笑みを強めつつ言った。
「…ふふ、そうは言ってきましたが、今回のような場合、つまり、大きな荷物というほどでも無いし、かといってそこそこかさばる荷物を持って来店した場合は置き場所をどうすれば良いのか…これは当然の疑問ですね。その時も分からない時には遠慮なくお店の方に相談されれば良いとは思います。ですが、一々聞くのも億劫だと思われる方もいると思います。ですので、マナー以内でスマートにどうすれば良いのか、正解が一つしか無いって物でもないので、一つの提案として聞いて頂ければと思います」
「はーい」
「ふふ。…おそらく皆さんが座る時、左側から座られたところで察しておられる生徒さんもおられるかも知れませんが、カバンなども必ず自分の左側に置くようにしましょう。椅子の左から入って左から出るという事は、自分の右側に荷物を置くと隣の人の迷惑になるという事になります。ですから手荷物は、必ず自分の左側の床下に置くようにしましょう」
「なるほど…」
と私たちは納得の声を漏らしながら、カバンを自分の左側に置いた。
そうしてガサゴソと音が鳴る中、メートルはハッとした表情を出したかと思うと、また穏やかな笑みを浮かべつつ雑談調で言った。
「…あ、そうですね。また順序が前後してしまったかも知れませんが、これもよく聞かれる事なので話して置きましょう。それは、このようなフルコースが出されるお店に行く時に、どんな格好をしていけば良いのかというものです」
「あー」
「まず髪型ですが、これはこれといって無いんですが、食事をする際に髪の毛が邪魔にならないようまとめておきましょう。食事中に髪の毛を手で触るのは控えたい行為ですからね」
「はーい」
と皆で返す中、自分たちの髪を撫でたり触ったりして確認を取っていた。
「ふふ、私たちは大丈夫ね。特に…裕美と律は」
と私が声を掛けると、裕美と律は顔を見合わせた後で、「ふふ、でしょー?この時のために合わせてきたからね!」と裕美は笑顔を浮かべつつ律に笑顔を向けた。それを受けた律は苦笑いを浮かべていたが、しかし楽しげだ。
「ふふ、裕美ったら、何をとぼけたことを言ってるのよ?」
と呆れ口調ではあったが明るい笑みを浮かべつつ私は二人に突っ込んだのだが、なんとなく皆の視線が私の頭に集中し、一人残らずニヤける直前の表情を浮かべ始めたので、何か言われる前にと制服のポケットからヘアゴムを取り出し、別に今のままでも大丈夫なのは知っていたのだが、昨日と同じくらいの高めの位置で念の為纏めた。
そうしている間にも、メートルの講座は続けられていた。「服装ですが…服装は店の雰囲気や食事の時間帯に合ったものを選びましょう。皆さんのように女性でしたら、昼に食事へ行くのであれば、肌の露出が少ないワンピースやドレスがおすすめです。夜であれば背中や腕を出した光沢のあるワンピースやドレスでも良いでしょう。それでももし不安な場合は、事前に店へ電話して、ドレスコードを確認すると良いと思います。ただ…よくお見かけする失敗というのがあります。それはアクセサリー系についてです。アクセサリーなどは、テーブルや食器に傷をつけないものを選ぶようにしましょう。ロングネックレスやブレスレットは特に避けた方が良いです。テーブルなどを傷つけるだけでなく、物に触れることで鳴るカタカタという音も相手が不快に感じる場合があります。やはり、食事もそうですが、私どもとしましては、それだけではなく同時にお店の雰囲気も楽しんで頂きたいと思っていますし、また、そのような私どもの考えを持って頂けてる他のお客様もおられるので、お店側の価値観を押し付けたいのではなく、そのような空間をお客様含めた全員で作り上げて大事にしていこうと思っている、そのような空間が”ここ”なのだと、そう理解して頂ければと思います」
「んー…なるほど」
と私は思わず呟いたのだが、それは私だけではなく他の生徒達も同様な反応を示していた。
そしてその後で「はーい」と生徒達の中から誰からともなく返事を返すと、メートルはまたニコッと笑い、どこから取り出したのか、おもむろに右手にナイフを、左手にフォークを持って見せてから口を開いた。
「さて、話は次に移りまして、ナイフとフォークの持ち方などについて話したいと思います。ナイフやフォーク、それにスプーンなどを纏めて”カトラリー”と呼びます。また、フォークのまるく盛り上がっている側を”背”、くぼんでいる側を”ハラ”と呼びます。外側から内側に使っていくわけですが、もし間違って使ってしまっても、店員さんが新しいものを持って来てくれますので安心して下さい」
「はーい」
「さて、右利きの場合、基本的にナイフは右手、フォークは背を上にして左手に持ち、上から人差し指で押さえます。ただし柔らかい魚料理を食べるときのナイフの持ち方は、上から人差し指で押さえずに、親指と人差し指、中指、薬指でつまんで持ちましょう。スプーンの表面を上に向け、人差し指と中指の第二関節あたりに柄をのせ、親指で上から軽く押さえます」
「…」
とメートルの話を聞きつつ、時折先生達の動作を参考にしながら、私たちはそれぞれ顔を見合わせつつ、実際に手に持って見せ合っていた。
「食事中に飲みものを飲むときや、ナプキンで口を拭うときなどは、手に持っているカトラリーをいったん置くわけですが、この置き方にも一応作法というものがございまして、大まかに分けて、イギリス式、フランス式、アメリカ式といくつかのスタイルがあります。日本ではフランス式で食べるのが一般的ですが、店や相手のスタイルに合わせて適宜使い分けましょう。詳しくはこの後解説しますが、では皆さんの用意されたしおりの写真をご覧ください」
と言うので、私たちは言われた通りにしおりに目を落とした。
「そこに出ています一つ目のは、食事休みのサインです。イギリス式ではナイフの上にフォークをクロスさせます。これには意味がありまして、『私はあなたをナイフで傷つけることはしません』という気持ちを表したものです」
「へぇー」
「フランス式では、フォークの背を上にして、お皿の中でハの字になるように置きます。持ち手の柄の部分は、テーブルに置かないようにしましょう。アメリカ式も、フォークの背を上にして、お皿の中でハの字になるように置くまでは同じですが、フランス式と違いましてカトラリーの持ち手の端は、テーブルに置きます」
とここまでずっとしおりに目を落としていたので気付かなかったが、ふと顔を上げると、メートルの手にはいつの間にかカトラリーが消えてしまい、代わりに私たちのと全く同じしおりが手にされていた。
「さて、次に載っている食事終了のサインです。イギリス式ですと、フォークのハラを上に向け、ナイフとともに時計の六時の位置に置きます。中央に置くことで、店の人が左右どちらからでも下げやすいといった配慮からなる型です。フランス式ではフォークのハラを上に向け、時計の四時の位置に置き、アメリカ式では時計の三時の位置に置きます」
「ほうほう…」
と私たちが何となしに相槌を打っていると、ふとここでメートルが言葉を止めたので、私たちは一斉にと言ってもいい程に同時に顔を上げた。
その視線の先には、柔和な笑みを浮かべるメートルの姿があった。
「…ふふ、とまぁまだ途中ですが、ここまで食事を食べる前に色んなマナーに関する事を長々と述べてきまして、今日この一日、この限られた時間内で全てを身に付けるというのは、とてもじゃないですが大変だし無理だなぁ…と思われたんじゃないでしょうか。聞いての通り、かなり細々とした約束事もたくさんありますしね?でですね…」
とメートルはここで一旦間を開けてから先を続けた。
「皆さんはとても興味深そうに私の話を聞いて下さりましたが、中にはこう思われる方もおられると思います。『何でたかだか食事をするのに、これだけ無駄に色んな事に気を使ったりしなくちゃいけないんだ』と」
「…」
とここで生徒達は互いに顔を見合わせたり、舞台上の先生達に顔を向けたりしていた。
そんな気まずい風な私たちを他所に、メートルは柔い笑みを絶やすことなく先を続けた。
「…ふふ、確かにたかが食事、個人個人が好き勝手に自由に食べればいいじゃないか…と思うのは、自然な反応だとは思います。ただ…私はこう思うのです」
とメートルは、ここにきて益々柔らかい表情を浮かべつつ続けて言った。
「もしも皆さんの元に海外からの方々が来られて、一緒に食事をしたとします。それが和食だとしまして、その時にふと海外の方を見た時に、彼らが私たちの文化を尊重するかのように、綺麗に箸を使ったりなどなど、私たち日本人がほぼ無意識に身に付けている和食式のテーブルマナーを守って実践してくれているのを見た時、私たちはおそらく…とても嬉しい気持ちになると思うんです」
「…あー」
と私を含む、会場内の色んな所から気付きの声が漏れていた。
そんな反応にメートルは目を細めてから続けて言った。
「ですから、私たちだけではなく、これに関しては他の国々の人々も同じ感覚な訳です。…今は日本にも沢山の海外からのお客様がこられるようになっています。それに伴い、他文化への尊重という言葉が良いとして溢れてもいますが、なかなか口にするのは簡単でも実行、実践するのは難しい…ですよね?ですが、そんな難しい中でもまだ比較的簡単な、他者への、他国の人へ尊重しているという意思表示が、私どもの職種という点から贔屓目があるのは否めませんが、それがテーブルマナーを含むこのような作法だと思うのですね。…と、長々と偉そうに申し上げてしまいましたが、そんな事をほんの少しでも頭の片隅に置いといて頂けたなら、とても嬉しく思います」
「はーい」
と、先生なり誰なりが促したわけでもないのに、私含む生徒たちが一斉に快く返事で返した。それを受けてメートルは少し恥ずかしげにただ微笑んでいた。
事前での打ち合わせやしおりを眺めた限りでは、ただの形式的な、杓子定規なテーブルマナー講座かと思っていたのだが、何やら中の人の心構えというか、心情の吐露を聞けて、この手の話が大好きな私としては、何と言えばいいのか…この予想外の出来事に、一口に言えばとても満足感に心が満たされるのを感じるのだった。
「では講座を続けさせていただきます」とメートルは仕切り直しといった調子でまた話を続けた。
「…さて、話を戻しまして、後食事をする前に気になる事といえば、ナプキンですよね。これはよく質問される事なのですが、基本的に最初の料理が運ばれた時がベストなタイミングです。しかし、それ以前でも勿論大丈夫です」
と説明するその後ろで、先程来そうだったが、先生たちがメートルの言葉に続くようにテーブルマナーを実践してくれていた。今は丁度、ナプキンを手に取る所だ。
「しかし最も早くても、全員が着席したのを見計らってから膝の上に置くようにしましょう。因みに、ナプキンがあるのにティッシュなどを出して使うのは、マナー上失礼に当たりますので気をつけましょう。…あ、そうでした。先ほど言い忘れていましたが、一応念のために付け加えますと、カバン代わりの小さなポーチなどをテーブルの上に置くのもマナー違反ですので気を付けてください。…さて、話を戻しまして、ナプキンはですね、二つ折りにするのが一般的ですが、折り目を自分に向けるのも忘れないでください。というのも、ナプキンの折り目が手前に来ていた方が、実際に口などを拭く際に便利だからです。またナプキンを落としてしまった時ですが…これは先ほどのカトラリーもそうですが、自分では拾わずに遠慮せずに店員さんを呼んで拾ってもらいましょう。後はナプキンで言いますと…はい、基本的に食事中の中座はマナー違反なのですが、そうは言っても仕方ない場合が当然ありますので、止むを得ず中座する場合には、ナプキンを軽くたたみ、椅子の上に置くか椅子の背にかけて置けば、『戻ってくる』という合図になりますので、そうしましょう。後ひとつ、これは皆さんお客様側の意思表示ができるという意味で、ちょっとした表現方法をお教えしましょう。それは、食事後にどうナプキンを置くかです。それによってレストランに対する評価を表現することが出来ます。基本の置き場所はテーブルの左側ですが、その時に、もし食事などに自分が満足できたら、ナプキンを適当にたたんで置きましょう。『ナプキンをたたむのを忘れるくらい料理が美味しかった』という意味として、綺麗にたたまずに端と端をずらして置くと、お店側としても分かりやすいです」
「へぇー」
と、別に今取っていいと言われていた私たちは、既に腿の上にナプキンを敷いていたのだが、一旦持ち上げると、自分の前の左端に試しに置いてみたりした。
「ふふ…ちなみに、逆に満足できなかったら、ナプキンをキレイにたたんで置きましょう。意味は…分かりますね?」
と最後にニコッとメートルが笑ったので、私たちの方でも自然と笑みが零れた。
「あはは」
「ふふ…さて、どうしてもマナーが多すぎて、なかなか本番である食事の段階まで辿り着きませんが、後少しなので辛抱下さいね?…さて、これは皆さんのしおりにも書いてあることですが、おさらいとしてフレンチをスマートに食べるポイントに触れておきたいと思います。一つ目は基本的に音を立てないようにする。二つ目、カトラリーは外側から取っていく…これは軽く説明しましたね。三つ目、洋食器は持ち上げない。ただし、取っ手が付いたカップ型のスープ皿ならば、持ち上げても構いません。四つ目は、料理は左側から、ナイフとフォークを使い、一度に全部カットしてしまわずに、一口ほどの大きさに切りつつ食べましょう。とまぁ…今はこの辺りで良いでしょう!」
と最後に語尾を強めたかと思うと、講座の間中ずっとスタンバイしていた他のスタッフたちに目配せをした。
それを受けた彼らは一度コクっと頷くと、何やら忙しなく動き回り始めた。
それを確認したメートルは、また私たちに顔を戻すと、柔和な笑みを浮かべつつ言い放った。
「さて、ではようやくお待ちかねのお食事と参りましょう」
メートルの掛け声の後、迅速かつスマートな動きを見せつつ、それぞれのテーブルを担当しているシェフ・ド・ランが配膳していった。
目の前に置かれていく間メニューを確認すると、一番上にオードブルと書かれた欄があり、その下に『広島産若鶏のテリーヌ』とあった。
各テーブルで配膳がなされていく中、メートルの解説が始まった。
「オードブルとはフルコースでスープの前に出される最初の料理を意味します。直訳すれば”作品の外”でありまして、原義は番外料理、献立外料理の意味です。食欲をそそることが目的であるため、量が少なく、塩分や酸味がやや強めのことが多いです。英語圏においてもオードブルとよばれておりまして、皆さんに分かりやすく例えますならば、”お通し”のようなものと受け取って頂いても、私個人としては良いと思います。さて、今晩のオードブルの内容ですが、地産地消ということで、広島産の若鶏を使ったテリーヌを提供させて頂きました。”テリーヌ”と申しますのは、フレンチで使います、本来、陶器製や琺瑯引きの鋳鉄製の容器のことでして、現在ではステンレス製などもあり、長方形の形をした型のことをテリーヌ型と呼ぶのが一般的です。なのでご覧の通り、どれも型通りの長方形の形をしているのがお分かりになられると思います」
見ると確かに四角い形の中に、鶏肉の色と思われる淡い褐色の他に、野菜と思しき赤や黄色が混じっていて、それが目にとても華やかだった。
「さて、ではいつまでも私がお話ししてお邪魔しても仕方ないので、他の説明は後にさせて頂くとして…」
とここで、全てのテーブルにおいて配膳が済んだのを確認すると、メートルは背後の先生席に視線を向けた。
すると安野先生がスクッと立ち上がると、私たちの方を向いて挨拶を述べた。
中身は色々と講座をしてくれたメートルに対しての感謝に始まり、辞令的な内容が少しだけ続いた後で、「ではいただきます」と”普通”の挨拶を言ったので、「いただきまーす」と私たちも元気よく後に続いた。
挨拶した後、早速私たちはテリーヌに”取り掛かる”事にした。…ふふ、というのも先ほどまでの講座を思い出しながらなので、少しおっかなびっくりといった調子だったのだ。
私は…とここで別に自分だけ区別する必要は無いのだが、まぁ事実として、そんな中で自然と振る舞っていた。
…良くも悪くも、この慣れは両親のお陰であったのは間違いない。最近ではお父さんだけではなくお母さんとも一緒に、ドレスアップして参加する”社交”の場に出席する事で、益々慣れてしまったのはそうなのだが、それ以前から、私が物心がつく頃から、極たまにではあったにしても、フルコースを味わうようなお店に出入りしていた。
その時に、記憶ではこれといったマナーを手解きされた覚えは無いのだが、恐らく両親、特にお母さんの見様見真似で身に付けたスキルなのだろう。それがこんなひょんな事で役に立っていた。
…と、そんな私のどうでも良い身の上話は置いといて、話を戻そう。
いくらお嬢様校とはいえ全員が全員このような場を含めて慣れている訳ではないらしく、同じ班のみんなだけではなく大半の生徒たちも、口数も少な目に隣前後の人の行動を見よう見まねで辿々しく振舞っていた。
そんな様子を微笑ましげに見ていたスタッフ達だったが、ふとここでメートルが微笑交じりに口を開いた。
「…ふふ、皆さん、勿論テーブルマナーを大切にして作法を守るように気を使って頂けるのは、とても嬉しい限りですが…自分でアレコレと説明してきておいてなんですが、フレンチのテーブルマナーでは適度に会話する事も”ひっじょーうに”大切です。私たち日本人にとって、食事中に会話することは、どちらかと言うとマナーに反する行為ですが、しかし欧米人にとって食事は楽しみながらするものなので、食事中に適度に会話を挟むのが、むしろ正しいテーブルマナーとなります」
「ははは」
と、メートルが少し戯けて見せたので、私たちの方でも自然と笑みが零れつつ、空気中に漂う緊張がほぐれていくのが分かった。
「それに…」
とメートルは続ける。
「これはテーブルマナーに直接関係するわけではありませんが、料理を楽しむ際には男性女性に関わらず、微笑みを忘れないことも非常に大切です。相手が仏頂面だと、せっかくの料理もおいしさが半減してしまいますよね?どんなに腹の立つ事があったり、イライラしていても、それらを顔に直接出すような事をしてはいけません。…今までテーブルマナーについて話を聞いてきて、もう察している生徒さん達もおられるでしょうが、事細やかに色々と申し上げてきましたが、『自分がどうすれば、相手が楽しく料理を食べられるか』を考える、この事ことが、テーブルマナーの基本なんです。要は、自分の行動によって他人がどう思うのか、周囲に気遣い気を配るのが大事でありまして、その上での行動であれば、それ自体がテーブルマナーとなるんです。ですので…皆さん、勿論今までの話は頭の片隅に置きつつも、食事だけではなく友人同士との会話も楽しみつつ過ごしてください」
「はーい」
と私たちはまた明るく返事を返すと、徐々に各テーブルからザワザワと音がで始めたかと思うと、そのすぐ後には昨夜の夕食会場と同じくらいのざわめきが会場内を満たした。
かといって、きちんと今のメートルからの話を踏まえたレベルには留めていた。
他のみんなが戸惑いつつだった為か、班の中では私が一番にオードブルを食べ終え、先ほどメートルが言ったように空いたお皿の上にカトラリーを時計でいう四時の位置に置いて、ナプキンで一度軽く口を拭き、その拭いた跡が見えないようにしながらナプキンを元の位置に戻し、それからグラスに入った水をチビっと飲んでいると、ふと視線を感じたので見渡した。すると、なんと…と言うか、他の五人が繁々と興味深げに眺めてきていた。
…もうこの時点で、この後の流れは”当然”すぐに察する事が出来ていたのだが、それでも黙っているのも何なので、「な、なに?」と口に出した。
すると、まさに予想通りの反応といったもので、私の言葉の直後、皆は互いに目を配りあい和かに笑い合ったかと思うと、その全員の意思を代表するかのように、私の真向かいに座る裕美がニヤケながら声をかけてきた。
「…ふふ、あー、いやぁ…流石深窓の令嬢、今まで何度かアンタの母さんとかと一緒にお店に行って食事したことあっても、この手のお店には行ったこと無かったから気付けなかったけど…やっぱ、こういった場所での振る舞い方みたいなのを、しっかりと自然に出来るくらいに身につけてんだねぇ」
「ちょ、ちょっとー…」
と私が苦笑まじりに声を漏らすと、反論の隙を与えまいとするかの如く、それからは銘銘から裕美と似たような言葉を投げつけられた。
…ふふ、自分勝手だが、内容が内容だけに恥ずかしいので、その中身については割愛させていただこう。
そんな私へのからかいで盛り上がりつつも、それぞれが手を休めることなく食事を進めていたので、それなりにすんなり全てのお皿が空になった。最後に食べ終えたのは麻里だったが、麻里もメートルの講座通りにカトラリーを置いて少しすると、スタッフ達が空きのお皿を下げるのとほぼ同じにして、各々の前にスープを置いていった。そして全てに行き渡ると、テーブルの中央にパンがいくつも入ったバスケットを置いて下がって行った。
スープは、白いんげん豆のポタージュだった。パッと見ではホワイトシチューにも見える乳白色をしていて、具も玉ねぎとクルトンが浮かんでいるのが見える程度のシンプルなものだった。
「フレンチにおいてスープは、飲むというより食べる感覚に近いのが特徴です。ですから、音をたててスープを飲んではいけません。またテーブルマナーでは、スープの飲み方も重要です。これもイギリス式とアメリカ式とで違いがありますが、フランス式ではスープは奥から手前側へとスプーンを運びます」
とまたメートルの講座が聞こえてきたので、生徒達はそれに倣ってスプーンを運んだ。
「…ふふ、それとですね、先ほどはお皿を浮かせたりしてはいけませんと申し上げたかと思いますが…こと、スープの量が少なくなったら、皿の奥側を少し浮かせて飲むのも、フランス料理のテーブルマナーに於いてはオッケーです」
「あ、そうなんだー」
メートルのセリフの直後、『なーんだ』と言いたげな声が各テーブルで上がった。私たちのテーブルでは、藤花と麻里が中心だ。
そんな反応を楽しむかのように笑った後で、メートルは先を続けた。
「スープの温度が熱いので少し冷ましたいからといって、息をかけて覚ましてはいけません。スプーンで音を鳴らさないことを大前提にスープをかき混ぜたり、スープ表面をスプーンでなでるなどして冷やすのが、正しいテーブルマナーです。後…ただいま皆さんの元に、スープと一緒にパンが来たかと思いますので、ついでと言っては何ですが、パンについても触れておきたいと思います。フレンチにおいてパンは、空腹を満たすというよりはむしろ、料理同士の味が混じってしまわないために食べるものです。ですから、パンだけをパクパク食べるのではなく、料理のインターバルとして口に入れるのがテーブルマナーです。お口直しって訳ですね。パンは一口大にちぎって、一口で食べます。パン屑が落ちても、自分で寄せ集めてはいけません。それも遠慮せずに店の人に任せましょう。このとき大切なことは…」
とここで一旦区切ると、メートルは目を細めるように笑顔を浮かべてから続けた。
「…こうして微笑みながら『ありがとうございます』とスタッフに伝えることです。先ほどもチラッと、食事だけではなくこの空間自体を楽しむものだと申し上げましたが、我々のようなレストランでの食事では、店の人とのコミュニケーションがとても大切です。ですので、その場の空気、雰囲気を壊さない程度に、しかし変に畏ったり肩が凝るような緊張はせずに、ほどほどにフランクに親しげに店員さんとのやり取りを楽しみましょう」
「はーい」
と返事を返すと、何となく側にいたスタッフ達に顔を向けた。その瞬間向こうから笑みを向けてきたのでこちらからも返すというやり取りが彼方此方でなされた後で、また目の前の食事に舌鼓を打つのだった。
それが終わると次に出てきたのは、メインディッシュの一つ、”鮮魚のグリエ ドライトマトとオリーブのソース和え”…とスタッフが出しながら教えてくれた。真っ白なお皿の真ん中に、なるべくバラけないように纏められた白身魚のグリルの上や周りに、ドライトマトだけではなくオクラ、カボチャ、ズッキーニなどが綺麗に盛り付けられていた。
早速「ありがとうございます」と配膳についての言葉を掛けてから、魚用のカトラリーを手に持つと、頭の中で講座を復唱しながら食事を始めた。口に入れた瞬間、グリル特有の香ばしい魚の香りとオリーブ油の香り、その後から来る若干の青臭さと共に、それがむしろサッパリとした味わいを口の中に広げる役割を果たしているトマトの後味を味わっている中、ふとメニューに目を落とすと、今食べている料理名の上に”ポアソン”と出ていた。この間もメートルが説明してくれていたが、それによるとフランス語で魚、もしくは魚肉という意味らしい。それに関連して、「ポアソンを使った言葉に、ポアソン‐ダブリルというのがあります。直訳すれば四月の魚という意味ですが、これはフランスでのエイプリールフールの事です。この日には魚の形の菓子を食べたり、魚の形の紙をこっそり相手の背中に貼るいたずらをしたりします」といった興味深いトリビアを肴に聞きつつ、私たちはワイワイと和かに会話を楽しみながら時を過ごした。
食べ終えて、スタッフにお皿を下げてもらってからしばらくは、お口直しにと皆でパンを一口ずつ千切りながら食べつつ、次の料理を待っていた。
今までの間隔と比べると少しだけ間が空いたが、次に運ばれて来たのは、牛フィレステーキだった。その上にデミグラスソースと思われる濃い褐色ソースと、それに加えてバジルの風味が漂うバターソースらしきものもかかっていた。バジルの匂いの後から、何やらレモンの爽やかな匂いも仄かにしてくる。
「はい、どうぞー」とスタッフは笑顔で配膳してくれている中、微かに悪戯っぽい笑みを浮かべていたのだが、この後に説明される前に、既にメニューを見ていた私達はその理由を察していた。そのメニューは『ヴィヤンドゥ』という名前の下に書かれていたのだが、それを証明するかのように、今までと同じ様にスタッフが料理名を口にした。
「牛フィレステーキ ”メートル・ド・テル”・ソースがけで御座います」
これは当然、私たちのテーブルだけではなく他のテーブルでも名前を読み上げられた訳だが、次の瞬間、私たち生徒は顔に興味津々加減を隠す事なく浮かべつつ、舞台へと視線を向けた。
その舞台前には、そんな私たちの反応なんぞハナから分かりきっていたと言わんばかりに、メートルもスタッフ達と同じ様に無邪気な笑みを小さく浮かべながら口を開いた。
「…はい、その通りです。と、その前にですね、一応説明をしておきますと、メニューに書かれているヴィヤンドゥというのは、フランス語で肉料理、お肉を意味します。でですね…今皆様にお出ししました牛フィレステーキには、焦げ茶色のデミグラスソースの他に、私めの役職名が冠されております、メートル・ド・テル・ソースがかかっております。このソースは、パセリとレモン果汁を加えたバターソースでして、今回のフィレ肉の様に、比較的に脂身の少ない肉料理に合うというので、定番のソースとなっております。…」
などなどと、自分の役職名が何故このソースに冠されているのか、その理由を説明してくれはしなかったが、しかし我ながら食い意地が張ってると笑ってしまうが、ここまででソコソコの品数の料理を食べて来たというのに、出された瞬間に匂いで察したし、それにメートルの紹介によってハッキリとしたが、バジルにレモン、バターの香りにお腹を掴まれてしまい、まだ話の途中ではあったのだが、私だけではなく他のみんなと一緒に肉にかぶりつくのだった。
…あ、もしかしたら…ふふ、食べるのに夢中で、名前の由来を聞き逃していただけかも知れない。
まぁそれは置いとくのを許して頂くとして、かぶりついたとは言ったものの、勿論それなりに”お上品に”頂いた後、毎度の如くカトラリーを空のお皿の上に置くと、スタッフに慣れた手つきで下げられていったのだが、そのタイミングで「何を飲まれますか?」と聞かれた。
「えぇっと…」
と私たちは、マナー的にどうか…とは恐らくこの場の皆が同時に思っただろうが、それでも全員が中腰になり、テーブルの真ん中に置かれたメニューに目を落とした。そこにはコーヒーと紅茶の二種類が書かれており、ホットかアイスも表記されていた。結局はいつもの溜まり場である喫茶店でと同じ風になった。
私と律がアイスコーヒーで、その他のみんなは揃ってアイスティーだった。
注文を受けたスタッフは、一旦テーブルを離れたかと思うと、ものの数分で食後のデザートと一緒に飲み物を持って来た。デザートはシンプルに柚子のシャーベットだった。
ここにきて最後に馴染み深い庶民的なメニューが来たわけだったが、今晩はコレだけの趣向の凝らされた料理を堪能してきただけに、慣れ親しんだ味わいにホッと息の付ける心持ちがした。これは後で雑談の中で直接聞いた話だが、皆も同じだったらしい。
…とまぁ、私個人として、良くも悪くも幼い頃からそれなりにこの様な場には出てはいたにも関わらず、大変興味深かっただけに、長々と講座の中身を中心に話してきた訳だが、私以外の他のみんなも、メートルの温和な話ぶりもあり、もっと堅っ苦しく講座を受けさせられると思っていた私達としては、それなりに普段経験してないだけに面白く、料理の数々と共に楽しく堪能したのだった。
そろそろ終わりだというので、フランスは挨拶を大事にする文化などなどを、今まで受講して勉強してきたというのが頭にあった”らしい”私は、ここでふと我知らずに、これまで色々と世話をしてきてくれたシェフ・ド・ランに「有難うございました」と思わずお礼の挨拶を”してしまった”。
してしまった…という理由は、本来ならこの手の事ではまず先生から促されて、それから生徒側である私達がするという流れがある…と思ったからだ。勿論、講座を受けてきたのもあって、その内容から自然とお礼を述べる生徒もいてもおかしくはない…とは思うのだが、この時何が悪いって、お礼を言ったのが私以外にいなかったという点だった。ついついお父さんやお母さんが、この様なお店に行った時に、帰り際だけではなく食後にも店員に声を掛けていたのをよく見ていたせいで、ついつい口走ってしまった。
顔をスタッフに向けつつ挨拶をした私だったが、見なくても自分に視線が集まっているのをヒシヒシと感じ取っていた。
「あ…」
と声を小さく漏らしつつ、恐る恐る顔をまずテーブル内に向けると、そこには思った通りニヤニヤ顔の皆の表情があった。
この時、実際には一秒も無かった様なのだが、『しまった…』と、私自身最も控えたい事の内の一つである、妙に悪目立ちしてしまった事への自責の念に駆られていたのだが、この時ばかりは何故か無事通過となった。
というのも、私がお礼を述べたほんの数秒後には、裕美を筆頭に、私と同じ様にスタッフにお礼を述べ始めたからだった。
そんな様子に私がキョトンとただ眺めていると、それからはまるで当初から予定していたかの様にすぐ隣のテーブル、そのまた隣と、その波が順々に広がっていき、最終的には全てのテーブルで担当してくれたスタッフ達に生徒達が自らお礼を述べるに至った。
最終的には、別に全く狙ったわけでもないのに、ひょんな事から私の軽率な行動をキッカケにして、和やかな空気が会場内を充満しだした。
その空気のお陰か、裕美達がほとんど間を置く事なく私に続いてくれたお陰か、すっかり誰が発端となったのか誰も気にしない様子なのを見て、結果論として何とか悪目立ちをしないで済んで私は心からホッとするのだった。
しかしそれでも、挨拶を終えた後で裕美達は無言でまたニヤケてきていたが、これはまぁ…嫌な慣れだが慣れっこだったので、それはスルーして、「そういえば…」と、例の修行中の身である新米のコミ・ド・レストランを探した。だが、こんな中でも彼らはキッチリと裏方に徹しており、挨拶する隙が見当たらなかった。
そんな私達の一連の自発的な行動を舞台上から先生達は微笑みつつ眺めていたのだが、そんなやり取りも一通り終わったのを見計らったか、まず安野先生が立ち上がり、今晩の一連のテーブルマナー講座についての軽い反省を述べてから、メートルに話を振った。
講座内とは違い、この時ばかりは所謂よくありがちな辞令的挨拶に終始していたが、料理の感想を聞いてきたので、満足した旨をそれぞれのテーブルから返すと、それを聞いたメートルは小さな笑みを零していた。
そのやり取りが終わると、今度は志保ちゃんがスクッと立ち上がり、「では改めて挨拶をしましょう…ご馳走様でした!」と、正直店の雰囲気を壊しかねない程に、体育会系的な元気でハキハキとした声を上げたが、それに対してこの場にいる誰もが突っ込むこともなく、「ご馳走様でした!」と私たちも同じノリで後に続いた。
そんな私達全員学園側の様子を、メートルを始めとするスタッフ一同に微笑まれつつ、食後の挨拶をもってテーブルマナー講座はお開きとなった。
スタッフ達がお辞儀しつつ会場内からはけた後、安野先生から今後の予定についての話になった。
「…はい、では下船まで、まだまだしばらく時間があります。この船はまだ港には帰らずに、瀬戸内海内をゆったりとクルーズしていきます…ので、港に着くまでの間、暫くまた自由時間としましょう」
「やったー」
と、先ほどまでの”お嬢様ぶり”は何処へやら、大多数の生徒達が一斉に喜びの声を上げた。
…まぁ、空気を読まずに水を差す様なことを補足すれば、この自由時間も予定の内だった。
「まだこの会場自体は開放していますけれど、出て行くのなら荷物はこの会場内に残すんじゃありませんよー?あと、貸切とは言っても、船員さんなどの仕事中のスタッフさん達がいらっしゃるんだから、あまり迷惑をかけるんじゃありませんよー」
と言う志保ちゃんの声を背に、他の生徒達に倣って私達の班も会場を後にした。
…ふふ、本当に今日はこの流れが多過ぎるが、二日目の修学旅行も最終盤に差し掛かろうとしているというのに、些細な事とはいえ乗船直後にあんな事があったのにも関わらず、相変わらず裕美にグイグイと手を引かれる私を先頭に、他の四人が付いてくる形となった。
先ほどは会場と同じ二階になるデッキに出たのだが、今回は、そんなテンション高い中でもそれなりに機転を利かしたのだろう、裕美は今回は三階のデッキを選んだ。
案の定と言うか狙い通りとでも言うのか、裕美の予想通り、大体の生徒達は広くて会場から近い二階デッキに行ってしまい、わざわざ三階の階段を上がる生徒は比べるとだいぶ少なかった。
実際に着いてみると、二階に比べて小ぢんまりとしていて生徒も疎らだった。まだ二階の天井には、それなりに強めの光源がぶら下がっていて明るかったが、三階の照明は数自体が少なく、それ故に人影が少ないのと一緒に寂しげな雰囲気を演出するのを助けていた。
外はすっかり夜の帳が下りきってしまっており、三階デッキから見下ろすと眼下には、船内から漏れるほんの少しばかりの照明を反射する、瀬戸内海の小さな揺らめきがチラッと見えるだけだった。下を見るついでに腕時計が目に入ったのだが、この時時刻は六時半を十五分ばかり過ぎたあたりだった。
顔をスッと上げると、その先には、乗船した港のターミナルと広島市内の夜景が、そこそこ遠くにあるせいか、それらが全て纏まって見え、パッと見では細い光の線になっていた。
…と、ここまで話してきて大体妙だと思われた方もおられるだろう。そう、今この船は航行せずに海の真ん中で停泊していた。これも事前に知らされていた事だったが、今まで催されていた食事前の講座の間は普通に航行し、いざ食事、実戦に入ろうとした頃合いに一旦こうして他の船舶の邪魔にならない位置で停泊する予定だった。実際ご覧の通りだ。
デッキから見える大きな灯りは、先ほども触れた市内からくらいなもので、その他は海沿いを走る高速道路か何かのオレンジに灯る淡い灯りが走るのが見える程度で、それ以外は姿形がハッキリと見えない程の、真っ暗闇に支配されていた。
そんな陽がまだあった夕景とはガラッと趣きの違う夜景を、時折強く吹きつけてくる、舐めなくても肌で塩っぽくベタつく感じ取れる”濃い”海風に、高い位置でポニーテールにしたとはいえそれでも髪を遊ばれつつ、講座や食事の感想を楽しくワイワイと皆で話し合っていた。
そうしていると途中から、昨日に引き続き今日もよく一緒に過ごした他の班の子達も合流してきた。
着いて早々、やはりというかテーブルもすぐ隣だったのもあって、先ほどの私の失態もキチンと見聞きしており、その件も冗談からかい風味に交えつつ、私を中心に尚一層の盛り上がりを見せるのだった。
実際は数分だっただろうが、そんなこんなで思い思い、気の向くままに過ごしていると、前置きなくボーーーッと汽笛が鳴らされた。そしてその直後には、そろそろ航行を再開する旨が船内アナウンスでなされて、と同時にエンジン音が響き渡り、眼下に見える船の後方部分から白い泡を立たせながら、ゆっくりと船が動き始めた。
船が動き出してからも続けてなされたアナウンスによると、今まで停泊していた場所は、広島港と、港に近い似島という島、そしてかの有名な日本三景の一つである宮島のちょうど中間地点だったらしい。
その情報を聞いて、夜闇の中で一際影の濃さが目立つ右斜め向かいのそれが似島ではないかと、誰も正解を知らない中推測を言い合ったりして楽しんでいた。
時間を忘れるほどにお喋りに夢中になっていると、程なくしてふとまたアナウンスが流れた。
内容は、宮島沖に着いたというのと、ここで五分少々停泊する旨だった。
確かにアナウンス通り船足は徐々に遅くなり、船尾に流れ出ていた白い泡も量が少なくなっていた。
宮島に着いたとはいっても、相も変わらず周囲はほとんど夜闇に支配されていて、どれがどれだか分からない感じだったが、ふと船がグルっとゆっくりと旋回を始めたかと思うと、突然右手側に、そんな暗闇の中にボーッとあぶり出される様に浮かぶ朱色の鳥居が姿を現した。
そう、宮島の厳島神社、そのシンボルとも言える大鳥居だった。
船はちょうど後方デッキから正面に見える位置で停止した。とはいっても、今私たちが乗船している船がそこそこのサイズだったためか、少し遠目で見ることになってしまったが、それでも感動するには十分な距離だった。
周囲には辺りを際立たせる程の灯りは無かったが、そのお陰で余計に鳥居の朱色が際立って映えていた。その後方に見える同じ色合いの本殿もそうだ。
また、普段からそうらしいが、特に今夜は波の立たない凪の日だった様で、漆黒の海面が鏡の役割を果たし、鳥居の姿をそのまま線対称に映し出していた。さながら、逆さ富士ならぬ”逆さ鳥居”といった味わいだった。
早速私たちは、どの程度映るか分からないなりに、複数枚写真を撮りあった。
その間に、麻里が例のごとく別に写真を撮りまくっていたのは言うまでもない。
そうこう過ごしていると、五分などあっという間に過ぎ去ってしまい、船は今度は汽笛を短く鳴らすと出発のアナウンスが流れた。
船はまた通常通り航行を再開したが、しばらく私たちは、二言三言話しただけで、徐々に遠のいていく厳島神社のライトアップを、柔く淡い赤く光る点が見えなくなるまで眺めていた。
その後船は、元来た道を戻って行った。湾岸沿いに強烈な照明によって浮かび上がる工場、国際コンテナターミナル、小さいながらも周囲に他にこれといった建物がないお陰で目立つ観覧車、出航したターミナルを素通りして、呉に行く途中で通過した特徴的な海上ジャンクションのすぐ近くまで寄った。
「あっ」と私は昼の光景を思い出し思わず声を上げてしまったが、他の皆も同様に声を漏らしたところを見るに気づいた様で、ここで一度一斉にテンションが上がり、昼間の内容について各々が口にしつつ、船もここに来てスピードを緩めたのもあって、ここでまた皆で写真を撮りあった。
だが、それを終えて船もジャンクションを離れて行くと、徐々に私たちの間から口数も減り、動きなども落ち着いて静かになった。
とはいっても、特にそれによって気まずい雰囲気も流れずに、あくまで自然体に、私だけではなく他の皆も同じ感想を持ったと信じているが、そんな落ち着いた、断続的に快調な事を示すかの様な船のエンジン音、身体を包み込みつつ音を立てながら通り過ぎて行く、少し肌寒い程度の海風、誰が狙って演出したわけでもないのに自然と生じた私たちの間に充満する空気…などなど、それら全て引っ括めてとても心地良く感じられ、そんな夢心地にどっぷりと浸かりながら、港までの残りの時間を過ごすのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます