第16話 修学旅行 後編 4 紫
約一時間ばかりに及んだ講話が終わると、老人に皆で声を揃えてお礼の言葉をかけて、老人が先に退場したのを見てから、安野先生を筆頭とする教師たちの先導の元、今いるホール、そして記念館の東館から外に出た。
ふとこの時、何気なく腕時計に目を落とすと、時刻は五時を少し回ったあたりだった。夕方だ。
だが、やはり東日本から西日本にきたというのもあって、陽の光の強さや色、射し込む角度などから、体感的にはまだ遅くとも四時になるかどうかに感じられた。
ホール内、そして一階に上がる階段の辺りでは、講話を聞いたばかりというのもあって、おそらく私とは別の思いからだろうが全員口数が少なかったが、資料館の外に出て新鮮な空気を吸うと、また普段通りの学園生らしい雰囲気に戻っていった。
それから、そのまま私たち生徒がワイワイガヤガヤと和かにしている中、安野先生たちは時折時計に目を向けたりしつつ、何やら話し合っていたが、話がまとまったと見えて、安野先生が手を数回叩いて注目するようにアピールし、その目論見通りにピタッと一斉に私語を止めて見ると、先生はニコッと笑い、最後の訪問地へ行く旨を述べた。
…ふふ、さっきボソッと『これで最後』と予告したのに、まだ何かあるのかと思われた方もいるだろう。だが、今から行く所は、勿論今までの流れに関連してはいるのだが、しかし、どちらかというと、こう言ってはなんだが、娯楽に近い場所なので、心配には及ばない。…って、何に対しての心配か意味が分からないか。
これも事前に準備の中で予定として触れられていて、その時に写真なり何なりを見せられて、その時点で私含めてそれなりに楽しみにしていたのだった。
それを証拠にというのか、安野先生が行き先を述べた瞬間、全員が今日一番の盛り上がりを見せた。私たちの班も例外では無い。
それぞれが、それぞれの近い人と笑顔で顔を合わせるのだった。
今まで内容的にもテンションを下げざるを得なかった、その反動もあるのだろうか、お好み焼き屋にいたのとはまた別の次元でワイワイ言いながら、また公園内を、原爆ドームに向かう道を、一組から私たち三組までの全員でゾロゾロと歩いて行った。
先ほど原爆ドームに行く時に入った緑の茂る入り口を左に見つつ、そのまま道なりに歩いて行くと、右手に妙に一棟だけ今風なビルディングが現れた。道なりの向こうには交通量の多そうな通りが見えていた。
一階部分の入り口に辿り着くと、そこにはローマ字で『HIROSHIMA ORIZURU TOWER』とあった。
そう、ここはその名も”おりづるタワー”と呼ばれる複合商業施設で、以前からあったビルを改修して、それがつい最近に工事が終わったらしく、確かに見るからに真新しく見えた。如何にも今風なオシャレ感だ。
先生たちに促されるままに建物内に入ると、左右にこれまた小洒落たカフェと物産館が構えていた。
全体的に色調がブラウンに統一されていて、照明も柔らかくとても落ち着く雰囲気を作り上げていた。如何にもなオシャレ風な場に、女子生徒たちは声こそ上げなかったものの、見るからにテンションが上がっているのがヒシヒシと伝わってきた。ソワソワしている感じだ。
私の班内でも例外ではなく、事前に写真で何となく予習をしてはいたものの、裕美と紫、麻里を筆頭に顔中にワクワク感を露わにしていた。少し遅れて藤花も乗っかり、それを後ろから私と律が微笑みつつ眺めるという、まぁいつもの感じだった。
カフェと、主に物産店に目を取られつつ歩いて行くと、奥に青暗い何だか妙にSFチックな、遊園地のアトラクション入り口のような入場ゲートがあり、そこを抜けてすぐ傍にあるエレベーターへと乗り込んだ。
エレベーターを降りて、一階でも見た同じカフェを横目に見つつ行くと、目の前に数段ほどの木造階段が現れた。
それを皆でゾロゾロと上ると、まず目に飛び込んできた今だに弱まらない西日の光線だった。
ホワイトアウトならぬオレンジアウトして目が眩んでしまったが、しかしすぐに慣れると、目の前には広島の大パノラマが広がっていた。
ここは”ひろしまの丘”という名称の屋上展望台で、周囲がこの手にありがちな大きな窓で占められているのではなく、メッシュで覆われた以外は開放的なウッドデッキの展望スペースだ。
そのお陰で、木を基調とした天井があるのだが、遮るものが無いおかげで時折吹き抜けていく風が、まるでそのまま外にいるかのような開放感を与えてくれて、また何だかんだ外を長く歩いてきた事によって火照った身体を、程よく冷ましてくれて、それがとても心地よいのだった。
後にこのビルのパンフレットを読んで知ったのだが、このウッドデッキにはヒノキやスギが使用されているらしく、雨などで湿気が高い日ほど、木の香りが強まりリラックス効果を増進させるとのことだった。
まぁ私たちの場合は、今まで散々触れてきたように、また、今こうして雲一つないせいで直に夕日を受けるような晴天の一日だったのだが、それでも風が鼻に運んでくる木の匂いは十分に感じられた。
「おー」
と私を含む皆で同時に声を漏らしながら、約270度の周囲に広がるパノラマを見渡した。
そんな私たちの様子に安野先生は微笑みを向けてきていたが、ふと時計に目を向けると、
「じゃあ皆さん、ここに着いたばかりだけれど、今から下の階に行きますよー」
と今度はニヤッと含み笑いを浮かべつつ言うのを聞いた私たちは、心の底からガッカリしたリアクションを取ったが、「はーい」とそれでも気怠げではあったが返した。
そう、今いるこの展望台が、今日の”修学”の流れで言うと不適切かも知れないが、まぁ正直なところ、年頃の女子校生からすると、今日一の楽しみではあったのだが、それでも例によって、ここに来るのに何かその前にこなさなくてはならない仕事があったのを知っていた。
なので、楽しみは後にとっておくとして、従順に先生の後について、先ほど上がった階段をまた数段下りて、そしてそのまま、先にある”スパイラルスロープ”と呼ばれる緩やかな傾斜の歩道を下って行った。
着いたそこは、”おりづる広場”というワークスペースで、折り鶴に因んだ映像で遊べる様々なコンテンツや、広島の戦後の復興を再現したCG映像のコーナー、またこのフロアにも原爆爆心地を見下ろせる展望スポットがあった。
既にそこには、私たちよりも先に行っていた他の組の子達が何やら”作業”をしていた。それらを眺める志保ちゃんの姿もあった。
…そう、こうして私たちがここに連れて来られた理由は、それら目的ではない。ここで、んー…相変わらず言葉が悪くて申し訳ないが、やらされる事になっているのは、”折り鶴体験”だった。
自分たちで折り鶴を折り、その鶴をこのタワーのシンボルとも言える”おりづるの壁”と呼ばれる壁際の隙間に入れるのだ。
…ふふ、またしてもまるで私が観光協会の回し者に受け止められかねない話が続くが、今少しだけ我慢して頂こう。
…コホン。この壁は外から見るとガラスで中がよく見える仕様になっており、いわば巨大なガラスケースといった趣で、今いる十二階のフロアから地上まで吹き抜けとなっている。
この体験のコンセプトは、平和への想いや祈りを込めながら折った折り鶴をこのガラス壁の中に来た人が参加しどんどん投入して、それがどんどん底から順に積み重なっていき、いつの日かそれが全面を覆い尽くせば、その時にこそ”おりづるの壁”が完成する…らしい。
…
…とまぁ、そんなわけで、まぁ何事も体験だと言いたいのだろう、それに乗っかって、私たちも早速折り鶴を折る事にした。
折り鶴どころか、まず折り紙自体が久しかったので、初めは折れるか不安だったのだが、すぐ近くに親切に折り方を教えてくれる、デジタル媒体からフロアにいるお姉さんまでいたので、思ったよりもサクサクと作れた。
折り鶴なんて…と何処かで小馬鹿にしたような気分が、多かれ少なかれ皆にあったと思うが、何だかんだいっても折っていくうちに童心…って、まだ私たちは”童”だろうが、昔の童心が呼び出されたのか、班ごとに設置されているテーブルの上で作業をしながら、皆でああでも無いこうでも無いと言い合いつつ、しかし同時に思わず笑みを浮かべあいながら、和気藹々と折っていくのだった。
そして出来上がると、順々にその折り鶴を持って”おりづるの壁”の屋内側の窓際へ移動した。
すぐ側にいた案内のお姉さんに誘導されるままに近寄り見下ろすと、先ほど説明したように地上まで吹き抜けになっていたので、別に私は高所恐怖症では無いのだが、それでも心持ち足が竦む思いがした。今十二階にいるので、地上付近がよく見えなかったが、それでも何となく折り鶴と思われる紙製の塊が見えた。
…一応コンセプト、この趣旨がどういうものなのか分かっているつもりだったが、この鶴を投入する時、必ずしも一般に思われている意味合いでの願いを想った訳ではないのは言うまでもないだろう。
しかしまぁ、私なりの願いは込めたのだから、それで良しとして頂くとしよう。
「出来た順で揃わなくても構わないから、終わったら上の展望台で景色を楽しんできなさいね」
と予め言われていたので、班の中で何気なく一番に鶴を完成させた私は、他のみんな、裕美たちが終えるまで側で待っていた。
そして、最後は麻里になったが麻里も投入を終えると、揃ってワイワイ感想を言い合いながら、元来た道を戻って行った。
さっきも上がった数段の階段を上がると、今度はすぐにそのままの景色が目に飛び込んできた。陽の光が弱まっていたおかげだ。
下で折り鶴を折っていた時間は、長く見積もっても二十分かそこらだと思うが、この短時間内で、陽が徐々に沈んでいたようだ。
その光景の違いに思わず腕時計を見ると、夕方の六時半少し前を指し示していた。
時計を見た後でまた辺りを見渡すと、下でも見たさっきの子達が思い想いに友人達と夕陽に染められながら過ごしていた。
”丘”という名の通り、フロアは丘のような勾配があり、部分的にスロープや階段状になっていて、そこに腰掛ける生徒の姿も多く見かけた。
「おー!」とそんな風に私が見渡していると、突然藤花が声を上げて、駆け足…では無いものの、足取り軽やかにまるで踊るかのように早速空いている、ちょうど階段上がって正面の展望スペースへ歩き出した。
「ちょっと藤花ー?」
とそれにほんの少し遅れて、紫と麻里が口では文句を言いつつも、私の位置からは見えなかったが、恐らく自然な笑みを二人ともに浮かべていた事だろう。
「ふふ…もーう」
と、こういった時の、これも癖となっているが、ふと律に顔を向け始めたその時、
「ほら、琴音!」
と裕美が突然私の手を握ってきた。
「へ?」
とあまりに突然のことで、気の抜けた返事をしてしまったが、それには構わずに、裕美はグッと自分の方にそのまま引っ張ったかと思うと、「ほら、私たちも行くよ!」と言いながら、言い終えないままに勢いよく私を引っ張り、こちらに体を斜めにして笑顔を向けつつ駆け足気味に歩き出した。
その顔半分はオレンジ色の陽光に照らされていて、何だかその裕美の笑顔を印象深く、余計に際立たせるかのようだった。
「ちょ、ちょっとー」と私はその顔に不満げな声を投げつけたのだが、初めのうちは表情もそれに合わせられていたのに、すぐに表情が保てなくなり、自分でも分かるほどに微笑みを顔全体に浮かべてしまうのだった。
その先には既に着いている、逆光のために真っ黒になってしまっていた紫たちの陰が、その三人ともに、私たちに手を振っているのが見えた。
手を引っ張られながら、ふと後ろを振り返ると、律が、これまた裕美とは違って全身を西日に照らしていたのだが、その効果もあってか、こちらに向けて稀に見る満面の微笑の効果を何倍増にも膨れ上がらせていた。そして律はそのままゆったりとした足取りで、私たちの後を追うのだった。
集合すると、まずは周囲をぐるっと回ってみる事にした。
とは言っても、実際は北に位置する広島城、西側すぐ目の前…というか下の、時間のせいか少し控えめにライトアップしている原爆ドームと見て回っただけで、すぐにさっきいた場所に戻って行った。
そして着くなり、早速皆の写真を撮ろうとしたのだが、まだ陽が落ちかけとはいえ逆光なのには変わらず、まぁでもそれでも何枚か記念にと、近くにいた他の生徒を捕まえて何枚か撮ってもらった。
撮り終えると、私と律という”旧一組”の二人は、どちらから言うでもなく同時に、さっき見た生徒達のように勾配のある箇所の階段になっている所に腰を下ろした。
そのすぐ目の前に裕美、藤花、紫、麻里という”旧二組”の四人は、手すりに思い思いに掴まったり、寄りかかったり、ただ側に立つなどして、今まさに正面の名前の分からぬ山際に沈まんとする太陽を、時折小さく言葉を交わしながら眺めるのだった。私と律の位置からも、その姿は十分に見る事が出来た。
太陽が沈みきるかどうかというその時、ふと背後から安野先生と志保ちゃんを始めとする先生たちの声が聞こえてきた。
「はーい、みんなー!七時になったから、そろそろ降りますよー」
それまで、私たちだけではなく、何だかんだ他のみんなも同じように静かに景色を眺めていたのだが、号令がかかると途端にざわつきを取り戻して、ゾロゾロと今度は順番もバラバラに、出口に近い生徒から展望台を出て行った。
降りる時は三組全て一斉というのもあったのか、エレベーターではなく、さっき折り鶴折りに行くために使ったスロープを使って地上まで降りて行った。
チラッとその時にも触れたが、このスロープは階段と一体になっている構造で、タワーの東側に設けられた螺旋状に連なっており、この約450メートルほどの距離を、屋上と同じ様に木に包まれた空間の中、一階まで直通していた。
初めは勿論、何しろ屋上である十三階から一階まで徒歩で降りるなんて、どれほど大変で疲れるのかと思ったが、道中はずっと大きな窓から夜の帳に包まり始めた広島市内の夜景が見渡せ、一面に鮮やかな折り鶴が描かれた壁や広島に関する特別展などがあったりと、目に入ってくるそれらについて感想を言い合っていたりしていると、ほとんどこの長さを感じなかった。
このスロープは一つ目を引く変わっている点があり、それは、スロープの横にワンフロアごとに避難用の滑り台が設置されていた事だった。因みにこの滑り台は避難時じゃなくても誰でも滑る事が出来、勿論というか、大人も利用可能という事だ。
実際に、私たちが降りていく間も、時折すぐ側の滑り台を降りていく子供、大人の姿が見えていた。
「あーあ、スカートとか制服じゃなけりゃあなぁー…私も滑ってみたかったのに」
と藤花がボヤくと、私たち班員全員と、お好み焼き屋や記念館などで一緒に行動していた他の班の子達の笑いを誘っていた。そして笑いつつも、その後ですぐさま皆で藤花に同意するのだった。
降り切って外に出ると、すっかり空は濃紺の色と、市内の明かりから生じた薄っすらとした白身が見えていた。
私たちは先生たちの先導の元、そのまま公園内には戻らずに、タワーの前を走る大通りを渡った先にある、広島市民球場跡地の臨時駐車場へと入って行った。
そこには、昼間にほんの十分ほど乗った観光バスが私たちが来るのを待っていた。
バスの中に乗り込み、昼間に座った座席に各々が座ると、砂利を鳴らしてゆっくりとバスが動き出した。
今日の感想はどうだったかとガイドさんに聞かれるのを、クラスメイト達が思い思いに好き勝手に返していると、ものの十五分ほどで今日泊まるホテルの前にバスが停まった。
そのホテルはいわゆるシティーホテルで、広島駅から徒歩五分という好立地にあり、言い方が良いかどうか微妙だが、もっとグレードの低いのを想像していただけに、今目の前に今夜泊まるホテルを前にして、思わずあたりを見回すのだった。話を聞くところによると、このホテルは、我が学園が毎年修学旅行時の初日の宿泊施設として利用している常宿との事だった。
私だけではなく他のみんなも同様の心境の様で、しばらくはボーッと突っ立っていたが、安野先生を始めとする先生達が何度か手を叩くと、速やかにバスから自分の荷物を下ろす様に言われたので、素直に従った。
白を基調とした、簡素ながら清潔感のあるロビーに入ると、フロントから「いらっしゃいませ」と声をかけられたので、私たちは軽く会釈しながら先生達の後を追い、大宴会場の一つに入って行った。
入るとそこには既に何名かのホテルの制服に身を包んだ老若男女が背筋を伸ばして笑顔を湛えつつ待ち構えていた。
私たちがクラス毎に整列すると、まず学園長の挨拶、そして、これは正直いつの間にって思ったが、どうやら今回の修学旅行には実行委員というものがあるらしく、その委員の一人が代表して、入館式と称する挨拶を述べるのを静かに聞いていた。
因みにというか、紫や麻里もてっきりここ最近の行動を総合して考えて、学級委員なのだからその関連として実行委員もついでに入ってるのかと思った私が、入館式後に班毎に部屋割りを聞いて鍵を受け取る紫に声を掛けると、「いやいや、そこまで頑張らないよー」と妙な言い方で突っ込まれてしまった。
「ふふ、なにそれ」とそれでも私は苦笑まじりに返すと、それからは早速それぞれが割り当てられた部屋へと移動して行った。
その移動の中、エレベータに乗ってる時に不意に紫は、私と律に鍵を渡してきた。それがそれぞれの部屋のものという事だった。
…ふふ、ここで少し不思議に思う人が出るだろうが、今から説明しよう。まぁ簡単な話だ。要は今日泊まる私たちの部屋というのは、それぞれが二人部屋で、班の全員が同じ所に泊まる形式では無かったのだ。これも事前に情報を与えられていた話で、その時に既に誰が誰と部屋を同じにするのか決めていた。
…まぁ、他の班は知らないが、私たちに限って言えば決めるも何もないだろう。この話を先生から聞いた瞬間、私は裕美と、律は藤花と、そして紫は麻里と一緒の部屋になる事が即時に決まったのだった。
「えぇー、なんで琴音に渡すのー?」
と裕美が演技過剰に駄々をこねてきたので、「ふふ、別にあなたで良いわよ」と私はすぐさま受け取った鍵を裕美に快く渡した。
そんな私たちのすぐ近くで、同じ様なやり取りを、律と藤花がしていたのは言うまでもない。
そんなこんなをしていると、エレベーターが着き、ドアが開くと、部屋が両脇にズラッと並ぶといった典型的なフロアへと出た。
それからは鍵に書かれてある部屋ナンバーを見つけ出し、そして「また後でねー」と皆で互いに声を掛けつつ中に入った。部屋は私と裕美の部屋を基準に隣と、一つは真向かいだ。
早速部屋に入るとそこには、テーブルと、その上にテレビ、その下にミニ冷蔵庫、そしてベッドが二つあるだけだった。典型的なツインルームだった。ベッドの間は横歩きで通れる程の間隔だ。まぁホテルの外見からだと少し質素すぎる気がしないでも無かったが、別に寝るだけの場所でもあるし、この部屋にはユニットバスがあったので、まぁそれを含めて不満など何も無かった。
「おー!」と声を上げながら鍵を開けて先に入った裕美が声を上げたので、「ふふ」と私はただその様子を微笑みを浮かべた。
「良いねぇー…ネッ、琴音?」
「ふふ、えぇ、そうね」
「もーう、相変わらずにテンション低いんだからぁ。えぇっと…琴音、あんた、どっちのベッドが良い?」
と裕美が二つのベッドを交互に見渡しつつ聞いてきたので、「私はどっちでも良いよ」とすぐに答えると、「もーう」と裕美は途端に苦笑いを浮かべて、
「またアンタはそうやって大人ぶってぇー。本当に張り合いがないんだからー」
と、しかしどこか悪戯っぽい様子を含ませつつ返した。
「そんなこと言われてもねぇ」
「ふふ、まぁアンタらしいっちゃ、アンタらしいから構わないけれどね!じゃあ、えぇっと…」
とそんなこんなで自分たちの寝る位置が決まり、各々のベッドの上で私物を整理し、それが粗方し終えた頃、不意に部屋のインターフォンが鳴らされた。
開けるとそこには、制服姿のままの紫達班員全員が廊下に立っていた。
「琴音たち、おっそーい」
と後ろの方で藤花のぼやく声が聞こえていたが、目の前に立つ紫はそれには触れずに「もう準備はいい?」と聞いてきたので、後ろに立っていた裕美に振り返り、お互いにコクっと一度頷きあってから「えぇ、大丈夫よ」と返した。
すると、紫が何か言いかけたが、そのすぐ脇に立っていた麻里が特徴的な猫っぽい笑みを浮かべつつ明るく言い放った。
「さぁさぁ、そうと決まれば早く下に降りようよー、お腹がペコペコー」
食事の後で簡単なオリエンテーションがあるとの事で、本当は手ぶらが良かったが、手にしおりとペン一本を持って鍵を忘れずに外に出た。他の四人も同じ様だった。
私と裕美の部屋が一番班の中でエレベーターホールに近かったので、最後に寄ったとの話を聞きつつ行くと、私たちのいるフロアは同じクラスのみんなで実質貸切みたいになっていたのだが、皆同時に動き始めるために大変に混雑していた。
私たちもほんの少しばかり待ってはいたのだが、すぐ脇の階段を降りていく他の子達の姿が目に入ったその時、皆で顔を一度見合わせると、誰からともなく階段を降り始めた。
二列になって階段を降りながら、エレベータの混み具合に少し盛り上がった後で、ふと藤花がしおりに目を落としつつ別の話題をふってきた。
「…あーあ、でもなぁー…せっかくの修学旅行だってのに、二人ずつの個室に分けられちゃうなんて」
「あー、まぁ確かにねぇ」
と裕美がすぐさま相槌を打った。
「やっぱりみんなが同じ部屋で、そこでワイワイっていうのが楽しみだったのにね」
「あ、でも」
と、先頭を歩いていた紫が、藤花と同じ様に一度しおりを見てから少し顔を後ろに向けつつ答えた。
「それは今夜だけで、明日泊まる別のホテルは全員一緒の和室みたいだよ」
「さっすが委員長!」
とここで隣の麻里が悪戯っぽく笑いつつ横から入った。
「そんなことまでよく知ってるんだねぇー、偉い偉い!」
「いやいや…」
と顔を徐々に寄らせてきていた麻里の体ごと紫は片手で押しやった。
「麻里もその場にいたでしょうが…なんで他人事なの?」
とジト目を使いつつ非難めいた口調で返したが、麻里の方は何処吹く風といった感じで、「あれ?そうだったっけー?」と素っ頓狂な声音を使って返していた。
「あははは!」
とそんな二人のやり取りを裕美と藤花が明るく笑って見ていたが、その時、私と裕美の前を歩いていた律がふと後ろを振り返りこちらを見てきたので、私はすぐさま口を開きはしなかったが、ただ分かりやすく大袈裟に肩を竦めて苦笑まじりにため息を吐いて見せた。
そんな私の反応を見た律は、すぐに察したらしく、同じ様に返してくるのだった。
そうこうしているうちに、私たちは今夜の夕食会の場に到着した。そこは、先ほどの入館式を行った会場のすぐ脇の、また別の宴会場だった。
数多の照明に照らされていたにも関わらず、目が痛くない程度の程よく品の良い色合いの光で占められており、天井からは大きなシャンデリアが二つばかりぶら下げられてあった。結婚式などが行われそうな、そんな如何にもなパーティー会場といった雰囲気だった。
いくつも置かれた円形のテーブルには、先に来ていたらしい生徒たちが座って雑談しながら待っていた。
わぁ…なんだか、私たちには場違いな場所ね
と私は、自分と他のみんなの制服姿を眺めつつ思ったのと同時に、二、三ヶ月に一度というペースではあったが、お母さんと一緒に出る、お父さん達の会の場によく使われている新宿にあるホテル内の会場を思い出していた。その時の私は、既に何度か触れたが、お母さんの指導の元それなりにドレスアップして行くので、そんなものなのだろうと思い込んでいた私にしたら、場違いに思えるのも仕方のない事だった。
そんな感想を思いつつ”適当”な席に座ると、「凄いねぇ」とまず開口一番に藤花が辺りを見渡しつつ言い、「確かにー」と裕美と麻里がすぐさま同意して盛り上がっていた。そのすぐ後から紫も加わり一層の盛り上がりを見せて、そんな皆んなの様子を私と律がただ微笑ましげに眺めていた。
と、そんな雑談に花を咲かせていると、いつの間にやら舞台の前に志保ちゃんが立ち、何やら…って言うと志保ちゃんに悪いが、ありきたりな挨拶をすると、どこからか純白の制服に身を包んだホテルの給仕係が現れて、私たちの前に先附から置いていった。
その間も志保ちゃんは、軽く食事の説明、食事を摂るときのマナーについてなど、まるでお嬢様学校らしい話にも触れて、そして食事後の簡単な流れ、明日の朝の流れなどを説明し終えたその時、まるで計算したかのように生徒全員に配膳が終わった。
それを目で簡単に見渡して確認すると、「じゃあ、いただきます」と志保ちゃんが早速挨拶を述べたので、「いただきます」とすぐさま私たちも返し、そして食事に手を伸ばすのだった。
志保ちゃんの挨拶の合間に配膳された先附は、胡麻豆腐とほうれん草の白和えだった。そのまま流れるように滞りなく続けざまに来た取肴は焼魚、焼豚、出し巻き玉子、若鶏の唐揚げ、白身魚のフライ、南瓜の八方煮で、その他には茶碗蒸し、特選ロース肉鍬焼、若鶏笹身芥子粒和え、かやくご飯、お漬物、そしてりんごジュースだった。
…ふふ、と私は思わず当時も笑みを零してしまった。何故なら、つい先ほど、私たちの格好からしてこの場に似合わないと言う話をしたと思うが、こうして出された食事も、この会場の雰囲気には微妙に合ってない様に思えたからだ。
配膳された食事は見ての通りというか聞いての通り和食だった。
とても具沢山で品数も多く、味もとても良かったのだが、やはりこの思いっきり西洋風の会場内で食べる本格的な和食というのはとてもズレて感じて、しかしそのアンマッチ感がとても面白く、他のみんなは知らないが顔に出さずとも一人ウケていた。
そんな事を噯にも出さずに、皆でワイワイと今日の出来事について語り合いながら夕餉を楽しむのだった。
八時少し過ぎた辺り。遅めの食事を終えると、全員揃って「ご馳走様でした」と挨拶をした。
その後でその場に座ったまま、予定通りに今日の反省会と、明日の予定確認を安野先生から述べられるのを、私たちは予め”それ専用”に設けられているメモ欄に書き入れた。
それが終わると、ようやく解散の号令がかかったので、ぞろぞろと一斉に会場を出る時に、出口付近に立っていた志保ちゃんに声を掛けられた。
「後は就寝時刻まで、部屋で大人しくノンビリと過ごしなさいよー?」と、要は自由に過ごして良いという許可を受けたので、「はーい」とワザとらしく都合よく子供の殻に篭りながら屈託ない笑顔を作りつつ返した。
「ふふ」とそんな私たちの魂胆などハナから分かっている志保ちゃんは、すぐさま苦笑いを浮かべていたのだが、その表情を見てすぐ後で、私たちは舞台の前辺りで安野先生を中心に固まっている幾人かの集団の方を見た。その中に紫がいた。
「じゃあ紫ー」と声を掛けるのは麻里。
声を掛けられた紫がコチラを振り返るのを確認すると、「後でまたねぇー」と麻里が続けて言った。
紫は何も言わなかったが、笑顔でコチラに手を振ってきた。
なので私たちも、会場を出る順番ごとに紫に手を振り返すのだった。
事前にも知らされていたし、食事中も本人から聞かされていたが、なんでもこのまま夕食会場内で”班長会議”なるものをするらしい。…何やら仰々しい名称だが、簡単に言えば、今日の反省会と明日の予定確認を十分くらいかけてするとの事だ。
もちろん冗談風味だが、その愚痴を皆で大袈裟に同情しつつ聞いてあげた後、各々が色々と寝る前の準備が終わったら、私と裕美の部屋に集まろうという計画を練った。
というのも、私と裕美の部屋が一番エレベーターホールの側にあり、そのエレベーターホールには自販機が設置されていたりと、何かと都合が良いからだった。
当然私と裕美は自分たちの部屋を溜まり場とするのをすぐに許可した。
ホールを出たのが最後の方だったというのもあって、エレベーターが降りる時よりも空いていたので、私たち五人はエレベータに乗って、自分たちのクラスで貸切状態のフロアへと向かった。
着いてすぐ、簡単にこの後の予定の確認をしてから、それぞれの部屋へと入って行った。
私と裕美も部屋に入ると、まず初めに誰が最初に入浴するかという話になった。
「裕美からでも良いよ?」
と私が真っ先に口を開くと、「いや、良いよアンタからで」と、裕美はすぐにニヤケ面を浮かべて返してきた。想定通りと言いたげな風だ。
「だってさ、さっきはベッドを私にまず譲ってくれたじゃん?だったら次は私から返す番っしょ」
「…そーぉ?」
と私は、ベッドに目を向ける裕美の横顔に、まだ譲歩の余地を残しつつ返した。
…正直、炎天下…というとオーバーかも知れないが、それでも何だかんだ今日は好天の中を長い時間歩き回ったというのもあって、身体中がベタついてる気もして、本心では今すぐにでも体を洗いたかった。
と、そんな私の煮え切らない返答を聞くと、やれやれと言いたげな表情を浮かべて見せたが、ふと何かを思いついた様な顔つきを見せると、「それにさ、私はアンタと違って、髪がこんなに短いでしょ?だからさ、アンタが出てきて髪を乾かしている時に、私が洗えば、大体帳尻が合うと思うんだよね」と途端にまたニヤケ面に戻して言うのを聞いた私は、「ふふ」と思わず笑みを零して、「じゃあ、そういう事なら厚意に甘えるとするわ」と返した。
「ウンウン、甘えて甘えて」とペタンと自分のベッドの上に座りつつ裕美が言うのを聞いて、またクスッと笑いながら、私も自分のベッドの上に座り、その上でボストンバッグの中から必要なものだけを取り出し始めた。
その横で、裕美もゴソゴソとやり始めていたが、ふと手を止めてスマホを操作しだしたので、不意にこの時に悪戯心が起こった私は、作業を進めつつ裕美に声を掛けた。
「…ふふ、裕美」
「んー?」
と裕美はスマホに目を落としたままだったが、構わずに続けた。
「…ふふ、裕美、私が入っている間、まだみんなも私たちと同じように入浴してから来るんだし…思う存分、ヒロに今日あった事、出来事、写真なんかを、メールなり何なり送ればいいよ」
「…は?」
と裕美はすぐに何を言われたのか分かっていない様子を見せていたが、ふと私が手を休めて顔をほんの少しだけ上げて目線を合わすと、その直後に裕美は顔を若干赤らめつつ慌てふためきだした。
「…え!?あ、いや、ちょっ…ちょっとー…琴音ー?」
「あははは!」
と私はそんな可愛い反応を示す裕美の様子を心の底から微笑ましく思い明るい声で笑った。
「アンタねぇ…『あははは』じゃないよまったく…」
「ふふふ、ゴメンゴメン」と私はまったく謝る気が無いのを隠そうともしないで返し、また作業に戻った。
「何だったら…」
とまだそれでも余計なお世話を焼きたがる虫が寝なかったらしく、
「電話してても良いのよー?…ふふ、安心して?アンタがいくら会話してたって廊下まで聞こえる訳ないし、私もシャワーの音とかで聞こえないから」
とまたしてもニヤケながら今度は手元に視線を落としつつ言うと、
「もう勘弁してぇ」と裕美は弱々しげな声を上げるのだった。
今日のお昼を食べた時に付いたと思われる香ばしい香りが若干する制服を脱ぎ、お好み焼き屋からずっとハイポニーテール風に髪を纏めていたヘヤゴムを取ってシャワーだけ浴びた。
…我ながら、微塵も需要の無い誰得情報だと自覚しつつも、まぁ一応話すと、私は頭から洗う派なので、ロングヘアーの髪を洗うとまずシャワーを止めて、予め置かれていた小さめのバスタオルをターバン風に頭に巻いてから他の部位を洗い始めた。
まぁ…ここでは色んな意味での余計なことは言わないでおこう。両親と共に長期休暇期間に海外に旅行することが多い私が身につけた、自分の経験上、こうした方がタオルドライも早めに効率的に終えられるし、今夜の様に裕美が後で入っている間にもそのまま髪を傷める事なく自然乾燥が捗るのだ。
…と、まるで自分で編み出したかのように話したが、これはもちろん、この手の事においての私の師匠であるお母さんの数多くある知恵の一つだった。
自宅の様にノンビリと出来ない、また今回の様に”他人”と言うと語弊があるだろうが、家族以外との旅行となると、それなりにもっと気を使わなきゃと、”こう見えても”気遣い屋(?)な私は、裕美が出てきた後で改めてドライヤーで乾かせば、万事オッケーという寸法なのだった。
洗い終えて自宅にいる時の様にメガネを掛けて浴室を出ると、テレビを見ていたらしい裕美は、出てきた私を見ると点けたままにして、「じゃあ次は私ねー」と既に準備万端といった風体で浴室の方に歩いてきた。
すれ違いざまに「ちゃんと連絡とったー?」と声をかけると、「もーう、それは良いから」と苦笑いで返されてしまったが、入る直前にピタッと浴室の取っ手に手を掛けて動きを止めたかと思うと、お返しとばかりにニヤケつつ話しかけてきた。
「…ふふ、確かに連絡は軽く取り合ったよ。…アンタが今シャワーを浴びてた事だったりね」
「…へ?」
とベッドの上に座りかける所だった私が間抜けな声を漏らしつつ顔を向けると「じゃあねー」と裕美はこちらにヒラヒラと手を振りつつ浴室のドアを閉めた。
少しの間、口を半開きにしつつ閉められたドアを見つめていたが、
「もう、余計な事をして…ふふ、アヤツにそんなの報告して何の意味があるのよ」と苦笑まじりに独り言ちて、若干の鼓動の早まりを覚えつつも、点けっ放しにされたテレビを何気なく見つめた。
…この時点ではまだ自分でも、鼓動の変化には気づいても何故か身体が軽く火照っているのに気付かなかった。…まぁ、シャワーを浴びたばかりだし、まさかそんな理由から火照っているなどと想像だにしていなかったのだから、仕方のないことかも知れないと自分で思う。
しかしその火照りも、ホテルにありがちな良く効いている空調のお陰か徐々に収まっていく中、家から持ってきていた愛用の化粧水と乳液を顔につけたり、その次に脱いだ制服をハンガーにかけて、これまた自宅から持ってきていた気に入っている香りのする衣類用の消臭芳香剤を振りかけたりして整えたりと、明日のための軽い準備を済ませた。だがそれも、ものの数分で終わってしまったので、丁度点けられたままだし、消すことも無いだろうと何の気もなしにテレビ番組を視聴し始めた。
もう何度目なんだって話だが、普段からそもそもテレビを見ないのだが、そんな私ですら、今目の前に流れている番組が、広島とその近隣の県でしか放映されていないローカル放送なのはすぐに分かった。なので、結局はそれなりに興味深げに見るのだった。
だがふとCMに入った時に、何気なくチラッとシャワー音の漏れ聞こえる浴室の方を向いて、
「…あの子ったら、それで良いのかしらね…」
と、ボソッと思わず知らずに思ったままの事をそのまま口走った後で、胸にジンワリと、約一年前から新たに胸元に覚え始めた、”ナニカ”とはまた別の重たい気配がそこに生じるのを感じるのだった。
裕美がまだ乾ききっていない短じかい髪を照明でテラテラと輝かせつつ、歯ブラシを口に咥えながら颯爽と出てきたのを見て、「私も歯を磨こうかな」と微笑みつつ狭い廊下を、返事をする様に無言で頷く裕美とすれ違い、浴室に入ってまずドライヤーで髪を乾かしてから、同じ様に歯ブラシを口に咥えつつ部屋に戻った。
裕美は自分のベッドの上で歯を磨きながらテレビを見ていたが、ふと振り返り私のその姿を見ると、ただニコッと目を細めて笑うのだった。
それからは二人で、別のベッドだったが先に触れた様に隙間が狭かったせいで、実質横に並んで座る様な近さでテレビを眺めていた。
「…ふふ、こんな事」
と私は歯ブラシを口内から出してから言った。
「家では出来ないわ」
「あ、そうなんだ…っけ?」
と裕美も口から歯ブラシを外すと、最後に疑問系で聞いてきた。
確かに疑問風になってしまうのも仕方ないかも知れない。私と裕美はもう、私たちの年齢からすれば長い付き合いと言って差し支えないと思うが、その時間の中では、今思い返せば不思議と、裕美が私の家に泊まった事が片手で数える程しか無かった。
私たちほどの付き合いの長さの友人同士で、どれほどお互いの部屋で泊まり合ったりするのか相場を知らないが、少なくとも感覚的には、意外と少なめだなというのが素直な感想だ。
因みに、私が裕美の家に泊まった事は片手以上はありそうだった。
…あ、なら別に総合してみれば少ないという事にはならないかも。
「えぇ」と私は何度かシャカシャカっと歯ブラシを口の中で動かしてから返した。
「何か躾として言われた覚えは無いんだけれど、でももう習慣として、歯を磨く時はパウダールームの洗面台の前ジッとするのが習慣化しているもの」
「んー…うん、なるほどねぇ」
と口を一度濯いで戻って来てからまたベッドに座ると、裕美は今度は途端にニヤケ面を浮かべて続けて言った。
「流石お嬢様、しっかりと躾がなされているんですのねぇ」
「…あのねぇ」
と、ここ最近はお嬢様呼びをされた事が”裕美からは”無かったので、不本意ながら妙な新鮮さを覚えつつ、しかしまた”いつもの”って事で、目を細めつつ返した。
「だからお嬢様”も”やめてって言ってるでしょー?それに、躾由来じゃ無いって今言ったばっかなはずだけど」
「あはは!」
とただ明るく笑う裕美の声を背に、代わり番こという事で今度は私が口をゆすぎに浴室に行き、戻って来ると、それを見計らったかの様に、まだニヤケ顔を引かせないままに口を開いた。
「だってさぁ、あの洗面所…じゃないや、パウダー…ルーム、だっけ?そもそもさ、あんな高級ホテルにありそうな洗面所なんか、一般の家に無いから」
…そう。まぁ確かに、客観的に見ても自宅のパウダールームはオシャレなホテル風の趣向だった。
軽く何度か話しに出したが、コンクールの予選、本選、決勝と、私が化粧や髪のセットなどをお母さんにされたあの場所の事だ。
白を基調とした部屋で、私たち家族が横に並んでもまだ余裕がある程に幅の長い鏡の後ろから、間接照明が柔らかい光を漏らしており、その光と天井に取り付けられてる電球の明かりと同じというこだわりだ。木製の洗面台に丸みのある手洗い鉢が一つ設置されていて、手洗い鉢の無いスペースには椅子と収納スペースがあり、洗面台の前で座ってもメイクなどが出来るようになっている。
…などなどと、別にこんな事細やかには、ウチのパウダールームの説明はいらなかったかも知れないが、こうして裕美…あ、いや、話を振ったのは私だったか、それはともかく、繰り返しになるが確かに過剰なほどに、只ならぬコダワリが余す事なく伝わった事だろう。
これはまぁ想像される通り、お爺ちゃんの持っていた土地に家を建てる時に、お母さんがこだわった中の一つだった。
本人から直接は聞いていないが、まぁ恐らく、老舗の呉服問屋の一人娘というのが、こんな所でも関係してきていると勝手に推測を立てている。…これも例のごとく、他の例がどうなのかは知らないが。
とまぁ、そんな経緯も含めて話したのだが、裕美には既にこの件は何度か話しているので、新鮮味のない私の話をほったらかしにして、「はいはい、分かりましたよ、お嬢様」と何故か嗜める風に言いつつまた洗面所に行くので、「もーう…」ともう返す言葉もなく力無げに背中に声をかけるのだった。
それからは、お互いに口を水で濯ぐと、自然と中学一年時の研修旅行の話になりかけたが、すぐにどちらからともなく、私たちが小学六年生の頃に、受験勉強の合間の休みという事でお互いのお母さん達と行った、海辺の温泉地へ一泊二日の旅行に行った時の思い出話になった。
この部屋に入ってから何気なく、そんな事を頭の片隅に思い出してはいたのだが、裕美が私の事を”お嬢様”と呼び出した瞬間に、その元となったあの旅行の情景がより鮮明となったのだった。
これは話には出なかったが、恐らく普段使いの”お姫様”呼びではなく、わざわざ何だかんだ小学生以来滅多に使ってこなかった”お嬢様”という呼び方を使ったのには、そんな理由もあったのだと思う。
お互いに印象深かったのだろう。何せ、私と裕美の二人からしたら、母親が同伴していたとはいえ初の旅行だったのだから。
「私もあの時の事を思い出してたよ」と満面の笑みで言う裕美の言葉に、自然と嬉しくなってしまった私は、自分もそうだとすぐさま返した。
思い出話にキリが見えるどころか、お喋りをすればするほど盛り上がる一方だったが、ふと少し時間が気になって部屋に備え付けの時計を見ると、時刻はいつの間にか九時半少し前になっていた。
「…って、あれ?そういや、何だかみんな遅いね」
「そういえば、そうね」
と私が相槌を打ち、その事について話し合おうとしたその時、部屋のインターフォンが鳴らされた。
「はいはーい」
と口にしながら裕美が軽やかな動きでベッドから降りてドアに向かったので、私も後を追った。
玄関先に着いてすぐに裕美がドアを開けると、そこには同じ様な格好をした、手にそれぞれ自販で買ってきたらしい飲み物を携えつつ、藤花達が笑顔で立っていた。
「遅くなってごめんねー」
とまず先頭にいた藤花が言いながら部屋に入ってきたので、「もーう、心配したわよ」と私は恩義せがましく返した。
「ホントホント、もう寝ちゃったかと思ったよー…特に藤花が」
と裕美も私のノリに合わせる様に追撃すると、「まだ寝ないよぉ」と返す藤花の声は不満げだが、満面の笑みだ。
「あはは、寝ちゃったのはね…」
と次に入ってきた麻里が、まず私の顔を見て、それからチラッと開けっ放しのドアの向こうに見える廊下を眺めつつ言った。
「…ふふ、もう一人のメガネっ子である紫の方なの」
「え?」
と私も同じ様に廊下を見ると、まだ入室していない律の姿しか見えなかった。
「あれ、確かに紫がいなーい」
と裕美も私の後ろに回って肩越しに廊下を眺めて言った。
「なんかねー、十分後くらいにあの班長会議っていうのから戻ってきてね、お疲れって事で先にシャワーを譲ったんだけれど、私が次に入って出てきて見たらさ…」
と麻里は話しながら、既に藤花が座っている裕美のベッドにバタッと倒れる様に寝転ぶと、
「バタンキューって感じで、メガネしたままこう寝てたの」
とうつ伏せのまま言った。そのせいで、その声はくぐもって聞こえたが、内容はハッキリと聞こえた。
「ちょっと、麻里ー?そこは私の寝るベッドなんだから、乱暴にしないでよー」
とうつ伏せの麻里に”不満げな笑み”浮かべつつ裕美が声を掛けると、まさに猫の様な素早い動きで寝返りを打つと
「あ、ここ裕美のベッドだったんだ?良かったぁ…琴音ちゃんの方じゃなくて!賭けだったんだけれどさぁ」とイタズラっぽく笑いながら言った。
「ふふ」とそんな麻里の言葉に、意味が分からないながらも思わず笑みを零す私を他所に、「どういう意味よー?」と裕美は目を細めて視線を投げつけつつ言った。
「何で私のだったら構わないって話になるのよー?」
「あはは、だって…」
と今度は麻里は私に視線を移すと、裕美に向けた時よりも、もっとニヤケ度合いを強めつつ、笑みも強めて言った。
「…我らが令嬢の神聖なベッドを汚すわけにはいかないでしょ?」
「…は?」
と私がますます意味不明な言葉に唖然とする中、「あー、なるほどねぇ」と裕美が、そして同時に藤花までもが加わって同調し出した。
「何が『なるほど』なのよー?…麻里も、いきなり私に振ってこないでよね?」と一応は不満顔を作りつつ言ったが、最終的には毎度のように保てず、結局は苦笑まじりに終わると、「あははは!」と麻里はただ明るく笑い飛ばすのみだった。
こういう反応で返されると、言葉じゃない分これ以上は何も追及出来なくなる私は、これ以上はジリ貧だと、さっさと見切りをつけて、話の先を得ようという意図の元、若干食い気味に自ら元の話を振った。
「ふふ、そうなんだ…紫、疲れてたのねぇ」
と私がしみじみ言うと、「そうみたいだねぇ」と麻里はまたもや素早い動きで、今度は胡坐をかいて答えた。
「だからね、優しい私はメガネを外してあげて、そのまま寝かしたまま、予定通りに藤花達が迎えに来るのを待ってたってわけ」
「あー、そっか、そういやそんな話をしてたよねぇ」
と裕美は、藤花と麻里の座る自分のベッドに近づき座りながら言ったが、ふとその直後、キョトン顔を浮かべた。
「…あれ?じゃあ何でちょっと遅めに来たの?…別にお洒落をしてたわけでもないのに」
と裕美は、自分と私含む他のみんなの格好を眺めつつ言った。
そう、確かにお洒落とは程遠い格好をしていた。というのも、一応今回の修学旅行の規則として、部屋着には学園指定の体操服なりジャージを着用とあったからだ。
まぁ言っては何だが、制服に関しては確かにパッと見では地味でありつつも、特徴的な校章などがワンポイントでアクセントになっていてお洒落だと自分たちで自負していたが、いくら私たちの通う学園が世間からお嬢様校だと見られているからといって、体操服に関しては何処の学校とも何の変哲のない代物だった。紺地に白の縦線が入っている様なタイプだ。
んー…ふふ、確かに毎年の修学旅行の室内着が学校指定のジャージなり何なりでは見た目がダサいので、何かしら不満が出ても良い気がするが、それは幸いにも今までに一度も出なかったらしい。まぁそれも理由はすぐに分かった。
二つばかりあるが、まず一つは、今朝に裕美と二人で会話したり、他のみんなと会ってから話した内容からも分かると思うが、繰り返し言えば、私服よりも制服の方が楽だというのが共通認識なのだった。全員にアンケートを取った訳ではないから断定は出来ないが、表立って不満が出てきてないという事は、そういう事なのだろう。
それは部屋着にも繋がる話で、麻里をのけ者扱いする気はないが事実として、麻里を除いて数回ほど主に紫のマンションでだがお泊まり会をしていた私たちは、もう十分お互いの部屋着の傾向を知り尽くしていたので、別段不便さは無かったのだが、そんな私たちでも別に学校指定で構わないスタンスだった。
さて、あと一つはというと、これも一つ目と同じくらい大きい理由だろうが、つまりは、今回の修学旅行の時期が初夏だというのが良い作用をしていた。
というのも、学校指定の体操服、ジャージという事だったが、この初夏の、しかも最近の初夏というには生ぬるい程に気温の高い時期には、それらをキチンと着るのは若干暑かった。という訳で、指定、指定と言いつつも、結局は学校指定なのは下に履くジャージの短パンのみで、上には各々が好きなTシャツなり何なりを着合わせていて、そんな事情を理解している学園側も黙認していた。
実際、私と裕美は勿論のこと、今分かる範囲で言えば紫を除く他の三人もそんな風に着合わせており、それぞれがまた個性にあった上を着ていたのだった。話を戻そう。
裕美にそう言われた二人は、「確かにー」と、途端に顔を見合わせて笑いあっていたが、次の瞬間には二人揃って私の方…いや、その向こうにまだ突っ立ったままの律に顔を向けると、藤花がニヤケつつ口を開いた。
「遅れたのはねぇ…ふふ、律が原因なの」
「え?」
と、そろそろ自分も座ろうとベッドに行くところだったのだが、歩きながら振り返ると、私の後を付いて来る律の顔には照れ隠しの苦笑が浮かんでいた。
「んー…」
と律は笑みを絶やさぬまま小声で唸りつつ、私が座った後で同じベッドの上にゆったりとした動作で腰を下ろした。
「え?どういう事?」
と裕美が側の二人に顔を向けると、藤花と麻里はまた顔を見合わせたが、「それはねぇ」と、すぐに藤花が藤花調の笑みを浮かべつつ答えた。
「私からで良いよって律が言うからね、私から先にシャワーをしたの。でね、私が出た後でさ、律が入ったんだけれど…」
とここで、藤花の位置から見ると私の背後に、背の高い身体を少し縮めて、両膝を抱えて座っていた律の方に視線を流し、ますますニヤケ度合を強めて続けた。
「ほら…私、何度も言ってるけれど、律ってこう見えてかなりの乙女でしょー?だからさぁ、風呂も長めだし、出てからも何か肌のケアをしだしたりしてね」
とここまで話すと、またクルッと裕美たちの方を向いて、「そんな訳で、律が乙女なばかりに少し遅れちゃったんだよ!」
と明るく悪戯っぽく言った。
「あー…」
と私を含む他のみんなで、藤花に倣うようにニヤニヤしながら一斉に見ると、律は普段の静かな波のない水面のような顔つきとはまるで違う…いや、”若干”違う、それなりに本人なりには表情豊かな狼狽ぶりを見せていた。
「ちょ、ちょっと…ふふ、もーう…藤花?」
と私たちの視線から逃れるように目線を真っ先に藤花に合わせた。
「確かに私の遅風呂のせいで時間を取っちゃったっていうのはあるだろうけれど…私が乙女がどうのって…関係ないでしょ?」
と、いつも通り宝塚の男役ばりに低めの声で、ボソボソながら反論をしていたが、その直後、
「関係ありありだから!」
と私たちから総ツッコミを浴びせられた。
これも蛇足だろうが、律に対して”乙女”がどうのというのも、ある種の私たちの中での”いつもの”ってやつだった。
似たようなからかいを受ける私とは違って、律は”乙女”らしく、このノリに未だに慣れない様子だったが、それでもこれ以上ない苦笑いを浮かべつつ「まぁそれはともかく…ゴメン」と言った直後に、目を細めてニコッと笑った。相も変わらずに妙に色っぽい笑みだった。
私たちはすぐにその言葉と、その笑みに免じて許してあげたのだった。
それからは、早速軽い雑談が始まったが、ふと律が、テーブルの上に私が出しっぱなしにしたままの化粧水や乳液を見て、さっきのお返しとばかりに、それについて触れてきた。
「あ、そういえば…琴音、あなたもアレを持ってきてたんだね?」
「え?あ、あぁ…えぇ」
と律が指差した先のものを見て、急に何の話題だろうかとすぐには返せなかったが答えた。
すると、「あ、そういえば」と私の返事の直後という素早い反応速度で藤花が話に入ってきた。
「アレって、琴音も使ってるんだよねー」
「え?なになに、何がどういう事?」
とここで今度は麻里が食い気味に割って入ってきた。
その様子は、いつだかの私と律についての話題になって以来だった。
「そうそう」
とここで今度は藤花の代わりに裕美が答えた。
「麻里には何度か話した事あったけれど、ほら、ここには今いないけれど紫を入れた私たち五人でね、全員揃っては二、三回くらいだったと思うけれど、お泊まり会をしてきたんだけどさ、アレは…いつからだっけなぁ…まぁその時に、二人が揃ってね、同じ化粧水を目の前で使い出したんだよ」
と裕美は説明したそのすぐ後で、我ながら不思議とすぐに細かく思い出せた私が、クスッと一度笑みを漏らしてから、
「”みんなの前では”去年のクリスマスからね」
と意味深な前置きをわざわざ置いてから、律に視線を送りつつ補足を入れた。視線が合うと、ようやく落ち着いたらしい律は、ニコッと小さく微笑むのだった。
…そう。まぁみんなの前で二人が同じ肌のケアをしだしたのは、去年のクリスマスのお泊まり会だった。
…ふふ、さっきからあまりにも聞いてる人からしたら関係がなさ過ぎて、ツマラナイ話が続いていて飽きてきてる人もいるかも知れないが、まぁ…こう言っては何だが、中学生女子の修学旅行での、寝る前のひと時の中身など、こんなものだと諦めていただく他に無い。
省略しても良かったのだが、まぁ最近は、私たち、特に律に関連する話をあまりしていなかったというのもあって、これが良い機会だと少し触れておこうと思う。
そう、繰り返しになるが、今バレたように、私と律は同じ化粧水なり乳液なりを使っているのだが、これは偶然などではなくキチンとした理由があった。というのも、まず結論から言えば、私がそれらを入浴後に使用しているのを見た律が、彼女にしては珍しく大いに興味を持った態度を取ってきたので、その物珍しさも手伝って、快く紹介してあげたのだった。
少し具体的に話そう。さっき裕美が麻里に説明したように、詳しく言えば、中学一年のクリスマスの時に紫のマンションに皆で泊まってからの習慣だったお泊まり会だが、その一番初めの時に、私がみんなの前で今テーブルの上に鎮座する化粧品を使ったところから始まる。
以前に軽く触れたように、これもお母さん由来で、小五か小六になるかならないか辺りから、これらの化粧水などを使うように仕向けられていた。初めのうちは、そもそも他の女子と比べ物にならないほどに、私が自分の見た目というのに関心を抱けなかった点も大きかっただろうが、何よりも子供心に面倒だった。だが、慣れというのは恐ろしいもので、次第に面倒には思えなくなり、終いには入浴後にそれらをしないと、ちょっとした違和感を覚えるほどになってしまった…という事を大分前に話したと思う。
なので、そんな習慣がついてしまったせいで、家族との旅行時にもこれらの化粧品を、持って行ける範囲で携えるようになっていた。
…ますます細かい話だが、海外に持って行く時は、セキュリティ上、色々と面倒な審査を通さなければならなくなったが、まぁ仕方がない。
と、そんなどうでも良い話はともかく、そう、だから、さっきも裕美とも会話をしたが、例の小六時の小旅行時にも持って行っており、一泊二日という短期間にも限らず、私はその時に初めて、裕美や裕美のお母さんの前でして見せたのだった。
その時の反応、お母さんたち同士は何か盛り上がっていたのだけは覚えているが、特に裕美のリアクションはよく覚えていない。
という事は、裕美は当時からオマセな小学生らしく、服装などのお洒落には気を使っていたが、化粧水などにはまだ関心がなく、それ故に何か感想を述べたりもしなかったのだろう。
まぁ私個人の感想を言わせてもらえれば、まだ小学生の女子が興味を持つ方が、あまりにも早くマセ過ぎだと思う。私もお母さんにさせられなければ、興味どころか目にも入れなかっただろう。
と、そういう訳で、裕美はこの時から私がしている事自体は知っていた。
中学に入ってからだが、裕美の家に泊まった時に改めてというのか、私が使う姿を見て裕美が関心を示したので、持ってきたのを貸してあげたのだが、裕美にはどうやら合わなかったらしく、しかし興味が余計に強まったというので、それから別の日に私を引っ張り回して、自分で自分に合う化粧水なりを見つけて、それを三年になった今も使っているのだった。
だが、私みたいに習慣化はまだしていない…というか本人の弁をそのまま述べれば出来ていないらしく、今回の修学旅行にも、裕美の一連の行動を見るに、自分のを持ってきていない様子だ。
…さて、それから中学に入り、まず何度か話題に出ている研修旅行に五人全員で同じ部屋に泊まった訳だったが、この時は化粧類を持って行かなかった。後から思えば別に持って行っても規則的に問題なかっただろうが、小学生時代には感じなかった、まだ初対面に近い皆の前でパタパタと、いくら同性であっても変に女の部分を見せるようなのには抵抗があったのか、肌ケアをするのが恥ずかしく思えたのも大きかった。
なので、この研修旅行時は、初めのうちは若干の寝づらさを覚えはしていたのだったが、しかし入学直後と言って良い時期に、初めての同級生との”旅行”をしたというところからの疲れのお陰か、当時はそれでも気付けば寝付いていた。
なので、この時点でも裕美以外の五人にはまだ知られる事は無かったが、ここで前にチラッと事前に触れた通り、それに付け加える形で言えば、中一のクリスマスでのお泊まり会、そこで初めて”披露”をする事になった。
これも詳しく言えば、披露というよりもバレたと言った方が近い。というのも、皆が紫の家で風呂を借り、各々が持ってきた部屋着に身を包みおしゃべりに花を咲かせていたのだが、その合間にそっとポーチを持って部屋を抜け出し、洗面所に行って中から化粧品類を取り出したのだが、そんなコソコソとしていた私の行動を皆で見ていたらしく、急に洗面所のドアを開けられた。
それに驚いた私が振り向くと、裕美を除く皆も同じような表情を浮かべていたが、その直後には、それぞれがぞれぞれ各様の好奇心に満ちた顔をこちらに向けてきたのだった。
その後はというと、それまでの雑談とは全く関係ないにも関わらず、しばらくは質問ぜめにあった。
仕方ないと腹を括った私は、視界の端にこちらにニヤケ面を向けてくる裕美を入れつつ、使うことになった経緯を簡単に説明したのだが、徐々に、私みたいな一番女子らしくない人間の、初めて見せた唯一の女子らしい点というので、その件についてからかう流れが出来てしまった。この発端を作ったのは、もちろん裕美だ。
いつもの面倒い流れではあったが、そこには微塵も悪意が見られなかったし、この頃も勿論一般の女子と比べてかなりズレているのを自覚していたので、一々色々と突っ込まれる言葉に、苦笑いで肯定とも否定とも取れないような返答でやり過ごしていた。
…と、すぐにこうして話がクドく長くなってしまうが、ここまでが前段階で、これからようやく、何で律が同じ化粧品類を使うことになったのかの話となる。
この話は、私と律が二年時に同じクラスにならなかったら起こらなかった事だろう。
というのも、私も自ら自分のしている事を他のみんなに、しかも自分自身でもただの習慣というだけであって、これといった意識を持ってしていたわけでもない分、勧めるような性格では無いし、律も性格的に、他のみんながいる前で、いかにも乙女とからかわれそうな内容だけに、聞こうともしなかっただろうからだ。
まぁ…私と律の他に、その場に藤花だけがいたなら聞いてたかも知れないけれど。
…あ、コホン。まぁここまで長く時間を割き過ぎたので、後は少し駆け足気味に行こうと思う。
私と律は二年に上がって、初めて二人っきりの時間が増えて、親密度が一気に増したという話を以前話したと思うが、その親密度のお陰で、たった一回だけだったが、律の家に泊まらせてもらった事があった。二年のゴールデンウィークにも紫のマンションでお泊まり会が開催されたのだが、その後での話だ。
んー…こう話しつつも、何でそんな流れになったのか思い出せない。ご承知の通り、この頃はコンクールの準備やら何やらと忙しくしていたので、何でそんな暇を作る事が出来たのか、我ながらに不思議だが、事実として、一学期中に泊まったのだった。
まぁ思い出せないって事は、大した理由では無いのだろう。ただ覚えているのは、私が律の家に入ると、玄関先で部屋着姿の律と、律のお母さんが迎え入れてくれたが、律と顔だけではなく背の高さもそっくりなのにも関わらず、お淑やかと表現して良いだろう律とは正反対に、何だか底抜けの明るさを周囲に振りまく律のお母さんに、歓迎の言葉に始まり、質問なども含めた言葉を一斉に浴びせられた。
そんなお母さんの態度を見て、律は見るからに恥ずかしがって見せて、何とか抑えようとアタフタしていたが、そんな律の見た事の無かった様子に思わず微笑むと、律も恥ずかしがるのは変わらずだったが、同じように笑い返してきたのだった。
挨拶も終えるとまず早速夕食を頂く事になり、どこかの大学で物理学の教授をしているという律のお父さんは今日は帰ってこないという話を聞いて、「私のお父さんも大体仕事が忙しくて帰ってこないです」と夕食の肴になればと返すと、それから一気に話が広がり会話が尽きなかった。
食事のお礼を言ってから、以前にもチラッと触れた、薄めの桃色を基調とした、ベッドには大きめのテディベアが鎮座する律の部屋に入った。
律は口数がこの通りに少ないのだが、ふと藤花の話になると、そこから一気にお喋りの量が増えて、以前来た時にも見せて貰ったが、学園の初等部に通っていた時の、自分と藤花の写真の入ったアルバムをいくつか見せて貰い、律が説明をしてくれるのを受けつつ、私が感想を返すという、この二人だけだとケラケラと明るく笑い合うような事態には発展しないのだが、静かながらに穏やかで心地の良い時間を二人で過ごしたのだった。
…ふふ、さて、ここでようやく本題に入るが、会話にもひと段落がつくと、自分は私が来る前に済ませたという律が勧めてくれたので風呂を借りた。
浴室から出てまた律の部屋に戻ると、お風呂のお礼を言いつつ、大きめのモコモコとした赤いジュータンの上に設置されているコーヒーテーブルの前にペタンと腰を落として、何も言わずにおもむろに、テーブルの上に置かれたままの大きめの手鏡を立てて、家から持ってきた化粧水と乳液を鏡の近くに置き、家から持ってきていたタオルドライ用のターバンを頭に巻いたまま、早速作業に入ろうかと思ったその時、ふと背後から視線を感じたので思わず振り返った。
そこには、ベッドで何やら雑誌を眺めていた律が、こちらを真剣な面持ちで見つめてきていた。
それは藤花関連で時折見せる、強い意志を滲ませるかのような例の目つきだった。
それを受けた私は、自分はお風呂から出て来たばかりだったし、なので部屋に戻ってから藤花の話など微塵もまだしていなかったというのに、何でこんな反応をされたのだろうと身の覚えのない分混乱してしまったのだが、『どうしたの…?』と何となく問う事も出来ずにただ見つめ返すばかりだった。
実際はほんの数秒ほどだっただろうが、長い時間見つめあったような感想を覚えつつ、何に対してのリアクションなのか、アレコレと頭を回転させていた。
自分の事となると殊更口数が減る律なので、原因を探るのは困難を極めたが、ふとテーブルの方に視線を戻して、
…あ、もしかして、勝手に鏡を使った事に怒っているのかな?
と思い至った。
「あ、ごめんね」
と私はその思いつきの推測のままに素直に謝ろうとしたのだが、律は今度は、普段のアンニュイな薄眼とは打って変わって、「…え?」と目を大きく見開きつつ、口調も素っ頓狂な調子で返してきた。
「な、なにが?」
とそのままに続けて聞いてきたので、私も何だか推定とは違った反応に戸惑いつつも答えた。
「あ、いや、律、あなたは…私が勝手にテーブルを使って、あなたの手鏡を使い出したのにイライラしたんじゃないの?」
「…」
私の言葉を聞くと、全開だと思っていたその目を、もう一回り大きく見開いて見せていたが、今度は数秒もかからずに律の方から沈黙を破ってきた。しかも、これまたレアな満面の笑みでだ。
「…ふ、…ふふ」
と、何だか笑いが込み上げてくるのを抑えるかのような笑い方だが、これが律基準ではかなりの大笑いだ。
そんな笑顔を見せたので、先ほどからではあったが、ますます拍子抜けをした私も、「何よー?」と目を細くしつつ不満タラタラ風に返した。
すると、律は目元に指を持ってきて、まるで涙を拭うかのような仕草をしつつ口を開いた。
「…ふふ、ゴメンゴメン。急に謝ってきたから、一体なんだろうと待ち構えていたら…ふふ、そんな事だったんだもの」
「ふふ、そんなことって…」
と私も不満顔から自然な笑顔にギアチェンジをして、またテーブルを眺めつつ返した。
「…まぁ、律がそんな小さな事で怒るようなタイプだとは思ってなかったけれど」
「ふふ」
と私の言葉にまたクスクス笑ったので、私も同じように笑い返したが、ふとその笑みを止めたかと思うと、律は急にモジモジとしだした。
この日は初めてだったり珍しい姿を律が良く見せてくれていたのだが、このモジモジ具合もお初だったので、何だか興味深げに繁々と眺めてしまった。
そんな私の凝視をどう思ったか、律は顔を少し下に向けていたが、パッと顔を上げると、テーブルの上に視線を向けだした。
そして、さっき自分のお母さんに対してとはまた別種の、恥じらいを見せつつ、やっとといった風に口を開いた。
「あ、あのさ…?」
「え?」
と私が律の視線の先を同じように眺めたせいで目線がズレたのだが、それには構わずに律は続けて言った。
「い、いや、その…急に変な事を聞くようだけれど…」
「な、何よ…?」
と私がまた律に視線を戻して先を促すと、律はゆっくりとした動作で右腕を上げたかと思うと、その先の右手の人差し指をテーブルの上面に向けつつ続けた。
「琴音…あなたが使っている、そのー…化粧…水?とかをさ、…ほんの少しでいいから…試させて貰えない…かな?」
「…へ?」
と、私は思わず鼻から息が抜けていくような声を漏らしてしまった。
そして、すぐに何を聞かれたのか飲み込めなかった私は、取り敢えず間を埋める意味でもテーブルに顔ごと向けて、その上に置いたままの化粧品類を眺めた。
それからゆったりとした動作で顔を戻すと、確認のためというと大袈裟だが、そんな調子で律に問い掛けた。
「それって…今ここにある私のをって事よね?」
「う、うん…」
と律はボソボソと答える。
「…え?じゃ、じゃあ、さっき私は自分が見られていたって思ってたけれど…アレは私じゃなくて、コレを見てたって事?」
「うん」
と律は今度は素…に見える態度で答えた。
「…で、要は律、あなたは…これらに興味があるから、試しに私のを使ってみたいって言いたいのね?」
と、これは本当に確認のために聞いたのだが、また律は少しタドタドしげに見せつつも「うん…」と即答した。視線も私から逸らすことはなかった。
「…」
と私は自分でも気づかないままに口を半開きにしていたが、一度またテーブル上に顔を向けて黙っていたが、とうとう堪えきれずに吹き出してしまった。
そしてクスクスと口に手を当てつつ、自分なりには気を遣って上品ぶっていたつもりだったが、「こ、琴音…?」と訝しむ声音で律が声をかけてきたので、私は軽く呼吸を整えてから言った。
「ふふ、律、ごめんなさいね?吹き出したりして…。でも…だって…急に改まって口を開くものだから、何を言い出すのかと待ち構えていたら…ふふ、そんな事だったんだもの」
と、先ほど誰かから言われたのと同じ様な言い方で返すと、狙ってか狙わないでか分からなかったが、「…ふふ、そんな事って」と律も返してきた。
その顔に、いつもの普段通りの静かな笑みが戻ってきたのに安心した私は、すぐさま今度はイタズラっぽい笑顔に作り変えて言った。
「でもそっかー…ふふ、流石の乙女として評判高い律だわ。やっぱりこの手の事に関心があるんだね」
「お、乙女って…琴音ー?」
と律も表情は私と似ていたが、律の方は勿論不満げ風の笑顔だった。
だが、それもいつもの流れというので、それ以上に深く突っ込まずに、今度は少しまた照れを見せつつ言った。
「…まぁ、ね。関心は…あったよ。ほら、去年のいつだったか…あ、クリスマスか。紫の家に皆で泊まった時に、それらを持ってきてたでしょ?」
と途中から視線だけをテーブルに向けたので、「えぇ」と私も返事を返しつつ同じく向けた。
「うん…でね、確かに今琴音が言った通り、あの時から実は…ふふ、気になっていたんだ」
と最後に照れ隠しか、仄かに笑いつつ言った律が、これまた珍しさも相まって、普段の綺麗と称される時とはまた違って、とても可愛かった。
本当は、ついさっきまで意地の悪い私としては、もう少しこの件についてからかってみたい衝動にかられていたのだが、この可愛らしい様子を見せられたせいで、自然と私の中の毒気が抜かれてしまったらしく、「ふふ、そうだったんだ」と微笑みつつ短く返した。
それに対して「…うん」と同じ様に短く律も返してきた。すっかり普段通りだ。
すっかり元通りに戻ったのを見て自分が思う以上に安心したのだが、ここで律が「で…だけど…」とまた視線をチラッと向けだしたので、すぐに察した私は、今度は振り向くこともせずに明るく笑いながら言った。
「…ふふ、勿論、私ので良ければ是非試してみて?」
それからは律もベッドから降りて私の真隣に座ると、私に言われるがままに、若干癖のあるベリーショートの前髪をヘアピンで止めた。
「まぁ本来なら、自分に本当に合う化粧水なりを見つけて使った方が良いんだけれど…」
と自分でもよく知らない癖に、知ったかぶってお母さんから聞いた話をそのまま口にしつつ、まず初めに私がして見せて、その後で律にやらしてみた。
当然だが初めてというのもあって、ぎこちない慣れない手つきで顔に化粧水をペタペタと優しい手つきで顔に馴染ませていた。
「こ、こんな…感じ?」
「ウンウン、そんな感じ。…」
「…え?」
と、自分の作業を終えた私が思わず横顔をジッと見つめているのに気づいた律が、不思議そうに顔を少しこちらに向けてきた。
「な…なに?やっぱり…何か変?」
と律が聞いてきたので、私は目をそっと瞑りつつゆっくりと首を横に振ってから、また目を開けて返した。
「…ふふ、んーん。何も変じゃないよ。ただ…律、あなたの顔っていうか肌だったら、何もこんなの使わなくたって良いじゃない?だって…」
「…え?」
私が思わず律のほっぺに手を当ててしまったので、一瞬ビクッとしてから、律が今日二度目のキョトン顔を浮かべて声を漏らした。
だがこの時の私は不思議と自分の行動が変だというのに気付かなかったので、手をそのままに続けて言った。
「こんなにも綺麗な肌をしているんだもの」
「ちょ、ちょ、ちょっと…」
と私の言葉を受けた律は、ある意味この日一番のタジタジ具合を見せた。
「こ、こと…ね?」
と私の名前を呟きつつ、あからさまな戸惑いの表情を見せていたが、しかし律は私の手を外そうとはしなかった。代わりにというか、その表情に加えて、ほんのりと頰が薄桃色に染まっていた…ように見えた。
「…って、あ!」と律が名前を呼ぶことで漸く自分の仕出かしていた行動に気づいた私は、素早い動きで律の頰から手を離すと、自分でも分かるほどに顔を赤らめつつ俯いてしまった。
それから直後は何も口に出せなかったが、律も何も言わなかった。
だが、その沈黙がもっとキツイことに気づいた私は、「ご、ゴメン…」と照れ隠しのごまかし笑いを作りつつ声を掛けると、「い、いや…別に」返す律も、頰を染めたまま同じ類の笑みを浮かべていた。
…ふふ、ここで慌てて一応念のためというか、誤解の無い様に付け加えたいが、何も私たちには”そっちの気”は全く無い…はずだ。
…ここで断言しない時点でますます怪しいと思われそうだが、今だに初恋もなく、自他共に一般的な女子中学生から逸脱している事を認めている私だけに限って言えば、まだ不確定という点でそう言わざるを得ないのだ。だが、見ての通り律は中身が乙女なので、あちらは心配いらないだろう。…って、なんの心配だ。
と、イタイばかりのセルフツッコミは置いといて、あれから変な空気になってしまったわけだが、お互いにぎこちなく笑いあった後は、私から打開すべく、お母さんから授けられた知識をペラペラと湯水の如く垂れ流し、おそらく気持ちは同じであっただろう律は、そんな私の話をたまにクスクスと笑いつつ聞くのだった。
…とまぁ、これまた随分と長い回想…とも呼べない話を延々としてしまったが、この日が要は始まりだった。
そして、話の中からも分かるように、結局は私の使っている化粧水なり乳液が律の肌にも合ったらしく、それからはずっと私と同じ様に、ベッドに入る前にそれらをしてから寝ているとの事だ。
私と同じ様に結構早い段階で習慣化してたみたいだが、”したい”という自主的な意識から出来たものだったので、私とはある意味真逆ではあった。
まぁ、そんなこんなで妙な事があったり…って自分で仕出かしたのだが、この日を境に、泊まったのは前に言ったようにこの一度きりであっても、ますます二人の間の距離が縮まったように、少なくとも私の方では思うのだった。
まぁおそらくだが律の方でもそうだとは思う。肌感覚でしか言えないが、アレ以来何となく私に対する接し方に新たな変化が生じているように思えたからだ。
というわけで、始まりというかキッカケはこんな風だったのだが、後は最後のラストスパートといった感じで話すと、その年、つまり去年のクリスマスのお泊まり会で、ついに律も披露した…とまぁ、そういう流れがあったのだった。
…あ、当然というか敢えて補足を入れると、このクリスマスの時点で、律が私と同じ化粧品類を使っているというのは、藤花には既に知られていた事実は付け加えておこう。
…ふふ、あまりにも脱線的な話が長すぎて、本筋がどんな内容だったかお忘れかも知れないが、ここで話を戻すとしよう。
今まで紹介してきたような話を皆で麻里に紹介する体で話すと、まぁ…これはある意味想定内だったが、そんな私と律の話を聞いた麻里はテンションを見るからに上げて、新聞記者よろしくアレコレと矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。
その勢いに押されたのもあって、時折お互いに顔を見合わせつつ苦笑いを浮かべ合いながら、それでも適当に答えていった。
ようやく麻里の質問ぜめが終わると、そういえば私と裕美はまだ飲み物を買ってなかったのに気付き、部屋を出て裕美の分も一緒にエレベーター脇まで買いに行った。
裕美も同じのでいいと言うので、私と同じ、東京では見た事のない名前の緑茶を買って戻ってきた。
ドアを開けて戻って来た瞬間、皆の明るい話し声が聞こえたが、ふと私が入ってきたのに気付いた皆が、会話をピタッと止めると一斉にこちらにニヤケ顔を向けてきた。物静かな律も、微笑の中に意地悪成分を浮かび上がらせている。
あまりにも身に覚えのある雰囲気を感じ取っていたが、実際にその嫌な予感は当たっていたのだった。
「しっかし、普段は美容とかこの手の事には興味を見せないのに、やっぱり琴音ちゃんも乙女だったんだねー」という麻里の余計な一言から、いつもの流れが出来上がった。
嫌な慣れだが、裕美を筆頭に皆からの言葉に一々細かくスムーズにツッコミを入れていたその時、不意に部屋のインターフォンが鳴らされた。
何だろう…もしかして紫が起きて来たのかな?
と思った私は、それと同時にチャンスだと思い、何も言わずにベッドから降りるとドアまで歩いて行った。
「コラー、逃げるのー?」
と、そんな私の考えなど百も承知である裕美が後ろから冗談交じりに声をかけてきたので、ドアの取っ手に手をかけてから一度振り返り、何も言わずに笑顔で返した。
見ると他のみんなも、各々が似たような笑みを浮かべていた。
その顔を眺めつつ取っ手を下方向に押して部屋側に引っ張ると、そこに立っていたのは何と志保ちゃんだった。
下は学校指定の物ではあったが、私たちと違って短パンではなく、長いジャージだった。上には無地の黒Tシャツを着ている。
てっきり紫だと思っていたので、想定外の出来事に自然とは反応出来なかったが、「あれ?志保ちゃん?」と声をかけた。
「ふふ、今晩はー」
と志保ちゃんは笑顔ですぐに返してきたがその時、「志保ちゃん?」と私の後ろから声が聞こえた。
振り向くとそこには、私のベッドに乗って、上体だけ通路の方に皆が皆違う体勢で出しつつ、こちらに顔を向けている全員の姿があった。
「あれま」
と私の後頭部から志保ちゃんがそう漏らす声が聞こえたが、私の視線の先では「あ、志保ちゃーん」と口に出しつつ、誰もよりも先にスリッパを履いてこちらに歩いてくる藤花の姿があった。
「今晩は、志保ちゃん」
と、私のすぐ横に着くなり藤花が声をかけると、「うん、今晩は」と志保ちゃんもすぐさま返した。
「どうしたの志保ちゃん?」
「何か用ですか?」
といつの間に来ていたのか、私と藤花のすぐ背後から裕美と麻里が続け様に声をかけた。無言ではあったが、律もすぐそこに来ていた。
志保ちゃんは二人の言葉にはすぐに返さずに、狭い玄関先に集まった私たち五人の姿を見回すと、「あれ?」と声を上げた。
「ここにいるのはこれだけ?宮脇さんは?」
「あー、紫なら」
と志保ちゃんの質問に、麻里がすぐに答えた。
「今頃私の部屋でぐっすり寝てますよ」
「あら、そうなんだー」
と志保ちゃんは後ろを振り返り、廊下を眺めつつ言った。
だがすぐにまた顔を戻すと、今度は何故か顔に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
志保ちゃんはその表情のまま、腰に両手を当てたかと思うと、上体を少し屈めて顔を私たちの方に近づけて口を開いた。
「…ところであなた達ー?今が何時だか気付いてるかなぁー?」
「え?」
そう聞かれた私たちは、同時に皆で顔を見合わせた。
「んー…」と皆で唸っていると、志保ちゃんは左腕にしていた腕時計の文字盤をこちらに向けてきつつ言った。
「…ふふ、あなた達?今はもう十時十五分だよー?…学級委員さん、就寝時刻って何時だったっけ?」
と薄眼がちに聞かれた麻里は、すぐに答えようとはせずに、妙に勿体ぶって思い出すふりをして見せてから答えた。
「…十時だった…ですかねー?…確か」
「…ふふ。確か…じゃなくて、十時だよ」
と流石の志保ちゃんも、この返答には呆れ笑いを見せていたが、次の瞬間には自然な笑みを浮かべつつ、またこの部屋に来た時のように私たちを見渡しつつ言った。
「…ふふ、せっかくのみんなとの修学旅行、楽しくてついつい時間が経つのを忘れちゃうのも分かるけれど、明日も六時半という早めの起床時刻なんだし、疲れを残さないためにも早く自分の部屋に戻って寝なさいね?」
「はーい」
と私たち全員で良い生徒風な気持ちいい返事で返すと、「じゃあお休み」と言いつつ笑顔で志保ちゃんが部屋を出て行ったので、「おやすみなさい」とその後ろ姿に挨拶を返した。
それからの私たちは、素早く片付けを済ませると、「また明日ね。お休みー」とお互いに挨拶を交わし、私と裕美は少しだけ廊下に出て、皆が部屋に入るのを見送った。
裕美と部屋に戻ると、部屋の照明をいくつか消してからベッドの上に座り、二言三言、皆とした雑談の内容や、さっきの志保ちゃんの事などを喋りあったが、それから暫くもしないうちに横になり、その後も何か会話をしていたと思うが、気づけばスヤスヤと眠りにつくのだった。
ゴー…ゴー…
…ん?
何だか聞き慣れない音でまず意識が戻った。鼻腔を刺激する匂いも覚えが無い。それからゆっくりと目を開けると、そこには、これまた見慣れない、柔らかなオレンジ色にほんのりと染められた、元は白の天井があった。耳を刺激した音は、ホテルの空調によるものだった。
スー…スー…
仰向けだった私は、右隣から寝息が聞こえてきたので、顔だけその方向に向けると、そこには、短髪の頭が半分ばかり布団から出ているのが見えた。裕美だ。
裕美は私と反対の方向に頭を向けて、壁を前にするように寝ていた。
…そっか、私、修学旅行に来てるんだった。
と、我ながら惚けた事に改めて思い至ると、ゆっくりと起き上がった。そして座ったまま両腕を天井に向けて大きく伸ばした。
「んーん…」と、伸びをしながら今の位置から目の前に見えている外に通じた窓を見ると、カーテンが閉まってはいたが、その隙間から、弱々しい、青白いと表現したくなるような淡い光が漏れて見えていた。
今何時だろ…?
と不思議と目が冴えてしまった私は、裕美のベッドとの間に設置されていた、細めのサイドテーブルの上に置いていた自分のメガネをまず掛けてから、そのすぐ近くにある、明るいグリーンで表示されているデジタル時計を見た。
その時計は、朝の五時三分を示していた。
…なーんだ、まだ起床時刻の六時半まで一時間半くらいあるじゃないの。
と思いはしたが、やはり二度寝をする気にならなかった私は、ベッドに座ったままカーテンの閉められた窓をボーッと見つめたり、横でまだ寝息を立てている裕美のトゲトゲ頭を眺めたりしていたが、少しすると自分の喉が渇いているのに気づき、
暇だし…ちょっと外出てみようかな?
と私は思い立つと、早速スリッパを履き、小銭入れとルームキーを忘れずに持ってドアの取っ手に手をかけた。
…ふふ、本当にどーでも良い情報だろうが、私が財布と小銭入れの二つ使いなのがここから分かるだろう。
蝶番から音が出るほどに、このホテルはオンボロでは無かったのだが、なんとなくそっと音が出ないように気を付けつつ慎重にドアを引いた。
開けるとまず私は、そっと顔だけ外に出し、廊下を左右に見渡してみた。
廊下はシンと静まり返っており、何人の気配も感じなかった。天井と足元を照らすか細い灯り、右手の数メートル先のエレベータホールと、左手の遠くに見えている、ぼんやりと光を発する非常口を指し示す緑色が、何だか哀愁を胸に呼び起こさせていた。
ここが昨夜、同級生たちの往来がひっきりなしにあった場所と同じだとは思えなかった。
…流石にみんな疲れてたのか、私以外誰もまだ起きてないようね
と何だか他人事の感想を思いつつ、誰もいない事に、これから何か悪さをしようというのでもないのに、何だかホッと胸を撫で下ろしつつ、また一度左右を確認すると、部屋を出て、小銭入れを手に持ちつつエレベーターホールに向かった。
エレベーターのすぐ脇にある自販機に脇目も振らずに直行し、昨夜も買ったご当地限定であろう緑茶のペットボトルを押した。…何だかんだ美味しくて気に入ったのだ。
ガタンッ
と、静まり返ったエレベーターホールに、中身満タンのペットボトルが落下する音が鳴り響いた。
その思ったよりも大きめな音に少し気を取られつつ、出てきたお茶を手に取ろうとしたその時、不意に背後から視線を感じた。
その想定していなかった感覚に、恐る恐る手を突っ込んだまま後ろをチラッと振り向くと、何とそこには、椅子に座り無表情でコチラをじっと見つめてくる紫の姿があった。格好は、私と同じような、下は短パンに上がTシャツ姿だ。
ここで、何で私が自販機で飲み物を買うまで紫に気付かなかったのか、不思議に思われる方もいるかも知れない。
まぁ種明かしをすれば、このエレベーターホールの形のせいだった。
というのも、廊下から真正面にエレベーターが見えるのだが、エレベーターの両脇数メートルに、等間隔に横に空間が、広がっていて、細かいがエレベーターに向かって左側に自販機が設置されていた。そして、紫が座っている、ソファーと言うには見窄らしい、背もたれ付きの長椅子と言った方が合っているような椅子は、自販機を正面にして設置されており、背もたれのすぐ後ろは壁となっていた。
…まぁ、細かい話はともかく、要は、私の今までの一連の行動では、紫が座っている位置がちょうど死角となっていたので、気付かなかったという事だった。
そんなわけで、気配も、これはどういう訳かそれまで感じなかっただけに、急に人影、しかも紫という良く知る心安い人が急に現れたというので、心臓がバクバクと通常よりも早めに脈を打っていた。
内心ドキドキしているのを表情になるべく出さないようにしつつ、何だか見つめられるままに私からも見つめ返すという、無言の時間が少しばかり二人の間に流れていたが、ふと紫が表情を緩めると、「…あ、琴音じゃん。おはよう」と、ニコッと笑いながら声をかけてきた。
それを聞いた私は、ここでようやく何となくしていた緊張を緩めつつ、「えぇ、おはよう」と返し、ようやくペットボトルを取り出すと、それを手に持ちつつ、紫の座る横に座った。
私が早速キャップを開け始める中、「随分と早起きだねー」と紫が悪戯っぽく話しかけてきた。
それに対して、お茶を一口分口に含んでいた私は、それを喉の奥に流し込んでから、同じ種類の笑みを浮かべつつ返した。
「…ふふ、私よりも先にここにいた癖に、それをあなたが言うの?」
「あははは」
と紫が小さな音量ではあったが明るく笑う中、私は自分の分のペットボトルを、椅子の前にある、これまたこの手の場所にありがちな無個性のテーブルの上に置いた。
私の横には既にもう一本のペットボトルが置いてあり、それは一般に良く知られたメーカーのミルクティーだった。紫のだ。半分ほど中身が減っていた。
「まぁねー…あ」
とここで不意に何かを思い出したような声を上げると言った。
「そういえば昨日はゴメンね。何だかいつの間にか寝落ちしちゃってたわ」
「え?あ、あぁー…ふふ、お疲れだったのねぇ班長さん?」
と私が足を組んで、上に来た腿の上に肘を立てて手を顎に当てつつ返すと、
「ははは、まぁ…ね!」
と紫はおどけながら答えた。
そして、それから紫はおもむろに座りながら大きく伸びをしつつ言った。
「それに私は学級委員長様だからってんで、何でか皆よりも早めの集合だったしさぁ…ふふ、お疲れっていうか、まぁそれもあるんだけど、それよりも早起きしたのが祟ったみたいだわ」
とため息交じりに言うのを聞いて、
「それはそれは、お勤めご苦労様でした」
と私もおどけて返すと、「ははは」と紫は笑ってから言った。
「まぁだからさ、早く寝ちゃったせいか、昨日に続いてまたしても早く起きちゃったってわけ」
「なるほど、そういう事だったんだ」
「うん。…ふふ、あーあ、せっかくの修学旅行初日の夜だったんだから、麻里も私のことを叩き起こしてくれれば良かったのにー」
と大袈裟に不満そうな顔つきを作って見せたので、私はまたクスッと一度笑みをこぼしてから返した。
「ふふ、まぁそうやって起こさずに、寝かせてあげるところが、麻里の優しくて良いところじゃない」
「…ふふ、んーん!」
と私の言葉を受けた紫は、さっき伸びをしたばかりだというのに、「まーねー」と声も間延び気味に、またしても大きく伸びをして見せながら言うので、その態度が何から出てきてるのかすぐに察した私は、それには何も返さずに、ただクスクスと笑うのだった。
それからは、話の流れでというので、自分が寝てしまった間に、どんな話や出来事があったのか聞かれたので、私はそれなりに細かく説明してあげた。私の話している合間合間に、一々紫がニヤニヤしつつ横槍を入れてきた。
…ふふ、何だかその場にいなかった分、時間を置いてからかわれている感じだった。当然私は、昨夜に裕美たちにしたのと同じように、紫にも突っ込んでいったのだった。
こんなやり取りをしつつ、本当はもっと早い段階で気付いていたが、今の状況がもうずっと何度も引用している、裕美との初の旅行であった小六の夏の、泊まった旅館のでの出来事を思い出していた。
そう、その時点で裕美との友人関係は一年ほど経っていたのだが、タイミングなどが合わなく…いや、もう既に話している事だし余計な言い訳はいらないか、私個人の思いが強いばかりに、医者になりたいという夢を話してくれた裕美に対して、自分の父親が、地元では有名な総合病院の院長をしていると言えずにきてしまった中で、この時泊まった旅館の、今紫といるような自販機のある簡易な休憩所で漸く告白することが出来たのだった。
…ふふ、あの旅館の待合所みたいな彼処も、ホテルと旅館とで趣は違うけれど、ここみたいに少し神さびた所だったなぁ…
などと一人で小さく思い出し笑いをしていたが、その理由を紫から聞かれないままに、やっと私と律の”乙女話”にひと段落がついた。
かと思えば、次に、触れないのは逆に失礼だとでも言いたげに、ここにきて頻りに私のメガネ姿を褒めるように冷やかしてきたので、それもテキトーにいなす様に相手をし、その後はお互いに自分の飲み物を飲み始めた。
と一息つきながら、ふと今更ながら、軽く気になっていた事があったので、早速聞いてみることにした。
「そういえば、今更だけどさ?」
「んー?何?」
と紫がミルクティーの入ったペットボトルをテーブルに戻したのを見てから続けて聞いた。
「紫っていつからこの場所にいたの?それで、一人でこんな何もない場所で何をしていたの?」
「…出た」
と私の言葉を聞いた直後、紫は何か得体の知れないものでも見てしまったかのような表情を浮かべて言った。
「噂の”何でちゃんお化け”が」
「…ふふ」
と私は聞き慣れない思わぬ名前が飛び出してきたので、思わず鼻で笑いつつ返した。
「何よその”何でちゃんお化け”って…。ただでさえ変な名前なのに、そこから新しい名称を作らないでよー」
「あはは、だってさぁ、一応朝とはいえまだみんな寝静まっている時間じゃない?そんな時間なら、お化けが出てきてもおかしくないよ」
と、何だかさも大きな発見をしたとでも言いたげに、自慢げに言うのを聞いた私が
「…それって、説明になってる?」
と首を傾げて返すと、「あはは」と紫はただ笑うのだった。
そんな紫の様子を見て、呆れ笑いを浮かべつつも
こんな所も麻里と似てるんだなぁ…
といった感想を覚えるのだった。
笑いが収まりだした頃、
「しっかし、本当に今更な質問だねぇ」
と紫は、何か悪巧みでもしてそうな笑顔をこちらに向けつつ言った。
「そうだなぁ…いつだったっけ…」
と紫は独り言を言いつつ、ホールを見渡し始めたが、ふと壁に掛かっている時計に目を止めると答えた。
「んーっと…四時…半くらいだったかな?」
「四時半…」
と私も紫と同じ視線の先に目を向けていたが、また元に戻して言った。
「じゃあ…私が来る三、四十分くらい前からここにいたんだ?」
「そっ」
と紫は短く答えると、またミルクティーを一口飲んだ。
「それで…?」
「え?」
と紫が聞き返してきたので、一度間を開けてから改めて聞いた。
「いや、だから…ふふ、スマホも持たずに、一人でこんな所で何をしてたのかなぁってさ?」
「…」
そう、まぁ紫も例に漏れずに、私と真逆な今時の一般的な女子中学生だったので、別にこの場合に限らないが、特に一人でいる時などは、まずスマホを弄ってるのがデフォルトだった。待ち合わせをしている時などで、紫が一人で先に来ている時などは、遠くからスマホを覗き込んでいる姿を良く見かけていた。
なので、パッと見渡してみても、スマホの姿がどこにも見当たらず、ジャージのポケットに入れてる様子も見えなかったので、余計に紫が一人で何もない、エレベーターと自販機くらいしか無い、たまに自販機から鳴る機械の作動音しか物音しない殺風景な場所で、一人で三、四十分もどう過ごしていたのか気になったのだった。
「んー…」
と私が聞いた直後は、さっきまで笑顔の絶えなかった顔を、ここで私と初めて鉢会った時の様な真顔になったが、少しして苦笑いを浮かべつつ唸り始めた。
それと同時に、私とは反対側の右腕をモゾモゾと動かしていた。どうやら右手を自分の背後に伸ばしているらしい。
…うん、実はこれも紫の隣に座ってから少し気になっていた点だった。
さっきはそこまで細かく触れなかったが、ここで私と初めて顔があったその時、紫が右手に持っていた何かをササっと背後に隠したのを実は見ていた。
そして右手を戻して、私が隣に座った後、和かに会話を楽しみつつも、たまにこちらから視線を逸らして、自分の背中側に向けていたような気もしていたのだった。
椅子に座る位置も、普段の紫からすると若干浅く座っているようにも見えて、今挙げたような事に一度意識がいくと、特に私の性格上、時間が経つにつれて徐々にその訳が気になってしまっていた。
紫は今も…いや、これまで以上に、今度はあからさまに自分の背中側に視線を落としていたが、「んー…うん、まぁ少しくらい、これくらいなら話しちゃってもいいか…な?」と小声で自分に言い聞かす様に独り言ちると、ふと何かを決意するかの様にゆっくりと息を吐いて、それからすっかり静かになった表情をこちらに向けて口を開いた。
「んーっとねぇ…うん、今琴音が言った通り、確かに…ふふ、変に目敏いあなたなら、こんな何も無いところで早朝に一人いるのは変だと思うよね?」
と途中から周囲を見渡しつつ言うので
「…ふふ、変に目敏いって」
と私がすかさず苦笑まじりに返すと、「はは」と短く笑みで返してから、何やらまた背後に回した右手をモゾモゾと動かし始めた。
しかしそれはほんの少しばかりの時間の間で、「これなん…だけど…」と小さく呟きながら、おもむろに右手で何かを掴んで取り出した。
出てきたのは、有名な全国に展開している本屋の紙製のカバーが掛かった本だった。パッと見た感じでは、厚さはそこそこで縦長だったので、取り敢えず新書なのはすぐに分かった。
「…本?」
と紫の手元に目を落としつつ聞くと、「まぁ…ね」と少し照れ臭げに返してきた。
顔を上げて見ると、実際に紫の顔には照れが浮かんでいた。
それから紫は、その照れを誤魔化すかの様に、まくし立てる様に早口気味で続けて言った。
「実はさ、私も”なーんとなく”だけど、今回の修学旅行に本を持ってきてたんだぁ。もしかしたら、暇になる時もあるかもって思ってね」
「ふーん…」
と一応納得風な返答をしたが、いつもの紫を知る者としては、今の話をそっくりそのまま飲み込む事は出来なかった。
それは、偏差値を主な目安として計った女子校のランク付で、三位以内に君臨し、その中でトップを争うような、そんな進学校である私たちの学園の、二百人いる一学年内で毎回の定期テストで総合点数三位の位置を維持している秀才タイプの紫といっても、…ふふ、こんな回りくどい大袈裟な言い回しをわざわざする事も無かっただろうが、それはさておき、だからといって何せさっきも言った様に、私と違って他の今時の子みたいに、暇だからといって本を、しかもそれをわざわざ想定して家から持ってくるという、そんな文学少女な子では無いはずだからだ。
「しっかし…」
と、そんなわけで、私は早速思いっきりニヤケて見せつつ薄眼を使って紫を見つめながら口を開いた。
「いつからそんな文学少女になったわけ?…どこかの本の虫みたいに」
とからかい口調で言うと、それを聞いた途端に紫の方でもニタニタっと笑いながら、目つきも合わせて返した。
「…ふふ、あはは!本の虫は姫、あなた様でしょーがー?」
「ふふ」
と私は、この時の”姫発言”には突っ込まずにただ微笑み返すのみだった。
というのも、さっきの雑談の中で、すでに散々姫呼ばわりをされて、それに対して突っ込み疲れていたからだった。
紫もそこまで私の心情を理解していたのか知らないが、それ以上はしつこく言わずに、「まぁ確かに、私が本を勉強以外で読むなんて滅多に無い事だしねぇ…」とこちらに話しかけているのかどうなのか分かりづらい感じで、自分にでも言い聞かすかのようにしみじみ言うと、次の瞬間にはまたニヤケ面に戻して続けて言った。
「ふふ、昨日の新幹線の中で、普段通りにやっぱり小難しそうな本を持ってきていたあなたを散々からかったっていうのに、んー…なんか、そんな自分がこうして持って来てるっていうの、バレるの…恥ずいじゃない?」
と、別になんで私の姿を見てから慌てて隠したのか、その訳を質問していないのに、自分から話し始めた。
しかしまぁ、私としては当然その動機を知りたくなっていたのだが、どうせ自分から聞こうと思っていた事だったので、「ふふ、そうなんだ」と笑みを浮かべつつ相槌を打つのみに留めた。
「うん」と紫は少し落ち着きを取り戻した様子だったが、やはりというか当然というか、私としては新たに気になることが生じていたので、早速それを聞いてみる事にした。
「…でさ?」
「うん?」
と紫はこの時点で何かを察したかのように少しビクつきつつ聞き返していたが、それには特に気を止めずに「その本…」と、私と紫の間に置かれた本に指を差しつつ聞いた。
「その本って何の本なの?」
「え?えぇっと…」
と紫は視線を私から本に落としつつ呟いたが、私も視線を本に向けつつ続けた。
「…ふふ、そんな紫が旅行先にまで持ってくるようなのって、どんなのか…単純に興味があるのよ」
『どっかの誰かさん達みたいに、からかいたいって衝動からじゃ無いよ』と少し悪戯っぽく笑いながら付け足すと、紫は一瞬キョトンとしてみせたが、「ふふ」と思わずといった調子で笑みを零し、それからおもむろに本を手に取ると、ほんの数秒ほど眺めてた後で「…ん」と私に本を差し出してきた。
「え?」
と私が口にすると、紫は今度はどこか諦観が浮かんでいるような微笑を湛えつつ、
「まぁ…見てみてよ」
と言うので、「え、えぇ…」と急な態度の変化について行けない気がしつつも本を受け取った。
こうして手に実際に持ってみると、最初の推測通り、一般的なよりかは厚めではあったが、やはり新書には違いがなかった。
それから私は何気なくというか自然の流れとして、一体この本は誰の本で何という本なのかと、あの紫が自分から読もうと思って手にしたものがどんなジャンルだったりするのか、それに対する好奇心と、日頃のお返し…って事は別に無いのだが、やはりもう半分は何かしら揶揄いたいという欲求に心を踊らせつつ、表紙はカバーで覆われていたので、おもむろに一番初めのページを開いて見たのだが…その瞬間、さっき話したような好奇心なり欲求なりが一気に消し飛んでしまった。
何故なら…その一ページ目には題名が当然書かれていたのだが、そこには何と『自由貿易の罠 黒い協定』と書かれていたからだった。
…そう、これはまさしく、今年の一月下旬に発売された義一の処女作だった。それを証拠に、題名の下に『望月義一』と著者名が記されていた。
「こ…これ…って…」
と私がゆっくりと顔を上げつつ視線を向けると、紫は無表情に近い静かな顔をしていた。
「…」
と紫は黙ったままだったが、私は構わずただボソボソっとまた自分でも確認する意味でも口に出した。
「これって…義一さん…あ、いや、私の叔父さんの書いた本…よね?」
「…ふふ、うんそうだよ」
と私の言葉を聞いた紫は、不意に小さく吹き出すと笑みも小さく答えた。
「自分で買ったんだ」
一応ここで念のためというか触れれば、紫含む麻里を除いた他の四人は、もちろん義一の存在を知っていた。発端としては、とある週刊誌に、今紫が持ってきてるこの本についての、その道のプロ達が書評をして載せているのを、皆のいる場に持ってきたのに始まる。
話には触れなかったが、全国ネットの夜のニュースバラエティーに義一が出演したその次の日にも、裕美が話題提供をしたお陰で、その日の放課後は私たちの間で盛り上がったのだった。
…とまぁそんな経緯もあって、この場合はあまり普通とは言わないのだろうが、まぁ友達の叔父さんという比較的に近い親類の書いた、また女子中学生には関心を寄せられなくても世間的にもそれなりに話題になっている本だというので、中には興味を持って自分で買って読んでみるという、そういう子がいてもおかしくは無い…とこの時点でも思ってはいたのだが、不思議とこの時の私は、こんな行動…というのか、私達、少なくとも当事者に近い私に黙って義一の本を買って読んだという紫に対して、ハラハラとでも言うのか、我知らずに出所不明な不安感に近い感情を覚えていた。
もしかしたら、既に紫が何度もこの本を読んだという形跡が見つかったのが大きいのかも知れない。
というのも、題名を見た後でパラパラとページを捲って見ると、まず手の感触とでもいうのか、私ほどの読書家…っていうと恥ずかしい事この上ないが、そんな私にはすぐに、この本が何度も読まれた証拠として開きグセがあるのが分かったし、そして何よりも、チラチラ見えるページページのあちこちに、紫自身が引いたと思われる、黒いラインが幾つもあるのが見えたのだった。
だがまぁ、いつまでもウジウジしていても仕方ないので、結局は少し辿々しげになってしまったが、早速紫に質問をぶつけて見ることにした。
「な…何で、その…紫は、ぎい…あ、いや、私の叔父さんの本を買って読んでいるの?」
「…」
と紫はすぐに答えず、少しの間はジッと私の目を見つめてきた。
そうしながら、今なお何かを深く考え込んでいる思考が垣間見えるようだったが、暫くするとフッと肩の力を抜くように息を吐いて、「それはね…」と小さく微笑みつつ口を開き、静かに、そしてゆっくりとした調子で話し始めた。
「んー…ふふ、まぁ何ていうのかなぁ…いつだったか、琴音、それに裕美がなんか雑誌みたいのを持ってきた事あったっしょ?でさ、そん時に琴音、あなたが確か同じ時だったと思うけど、私物のっていうのかな、自分の叔父さんの本を持ってきてたじゃない?」
と私の手元にある本に視線を向けつつ言うので、
「えぇ」
と合の手を入れると、ここで不意に紫は悪戯っぽく笑いながら続けた。
「んー…ふふ、そん時にも言ったと思うけど、あなたの持ってきたその本が、すっごい沢山ページの端が折ってあってさ、その理由も説明してもらったと思うんだけど、その話を聞きながら、口ではからかいつつも、そのー…妙に感心してたんだ」
と紫は、いかに”お姫様”が文学少女というアダ名に違わない、相応しい行ないを実践しているか、流石の”深窓の令嬢”と普段通り…いや、ある意味普段以上にからかい調子でノリノリに話していたので、急に普段通りの様子を見せられた私は、時折薄目を使ってツッコミを返していた。
だが、そう話を聞きながらも、もう分かって頂けてるかと思うが、この手の普段あまり外に出さないような他人の心情の吐露を聞くのがとても好きな、場合によっては決して趣味が良いとは言えない性癖の持ち主である私としては、「ふふ、そうなんだ」と返しつつ、その話し方も相まって緊張の糸が少し緩んだのを感じていた。
紫は満足したのか話を一旦区切ると、微笑を零す私の様子にニコッと一度笑いかけてから先を続けた。
「…って、あ、いや、今はお姫様をからかっても仕方ないわ…ふ、あはは。でね、あの時あなたは自分ではそれ程話さなかったけれど、裕美の口ぶりを聞くにさ、相当琴音がその叔父さんに対して思い入れが強そうだって勝手に感じてね、それから何だかそこそこだけど、なーんか漠然とこの本に興味があったんだ」
「ふふ、そうだったのね」
と私が小さく微笑みつつ返すと、紫はすぐにはただ笑っただけで口にしなかったが、しかしここで若干表情の明るさを落として見せてから言った。
「んー…でもさ、それでも自分で買ってまではなぁ…とは思ってたの。だって…ふふ、お姫様みたいな奇特な子ならまだしも」
「ふふ、もーう、うるさいよ」
「あはは。でまぁ、私は一般的な女子だから、まずこの手の本は自分のお小遣いを使ってまで普通は買わないと思うんだけど…」
「…」
と紫がここでまた一旦口を止めたので、私は何も言わずにただ見守りつつ先を待った。
紫はまた何やら思案している風だったが、コクっと小さく頷くと声の調子も慎重げに先を続けた。
「まぁ…何ていうかね、”ある事”がキッカケで、そのー…とうとう自分で買ってしまったんだ」
「ある事?…それって…」
と、実は話を聞きながらずっと頭の隅に、ある情景が思い出されていて、それと同時に一つの仮説が生まれていたのだが、今の発言を聞いてそれが確信に変わったので、それをそのまま口にして見る事にした。
「…紫、あなたのお父さんに関わる事?」
「…」
と紫はすぐには答えなかったが、表情や雰囲気から見るに図星のようだった。
そんな紫の様子を見つつ、脳内には国会内で事務方を代表して答弁をしている紫のお父さんの姿が映っていた。
その情景を思い浮かべながら、紫が口を開かなかったので、先ほど浮かんだ仮説を披露した。
簡単に言えば、以前にも私だけではなく他のみんなにもだったが、国会で答弁している自分の父親のスクリーンショットを、どこか誇らしげに見せてきたくらいだったから、高級官僚である父親が事務方として責任をそれなりに負っている仕事について、具体的に関心が湧くのも自然だと私は思うという内容だった。
と同時に、そんな話を披露しつつ、これは直接は言わなかったが、ついでに触れれば今話題のFTA交渉への賛成論が世間的でも、政官財界でも圧倒的多数な中、義一や武史、ジャーナリストの島谷などの、雑誌オーソドックスに集う面々とその周辺のみが展開している反対論の本を、読んでみようと思った紫に私はとても強く感心していた。
反対論は、ごく少数派の意見というのもあって、そんな意見に寄り添うのは負け組になるのは火を見るよりも明らかだというので、中々耳を貸そうと思わないのが一般人だと思うのだが、何とか協定を締結する方向に頑張って仕事をしている自身の父親とは全く反対の意見ばかり書かれている義一の本に関心を持つというのは、感心に値すると思うのは私としては当然の事だった。
…とまぁ、”ついでに”と言いつつ、毎度の如く長々と時間を割いてしまったが、ここで話を戻すとしよう。
実際には二、三秒ほどの間だったろうが、紫は何故か何かを諦めているかの様な、物憂げな笑みを浮かべると口を開いた。
「…ふふ、琴音、流石だね…。…そう、うん、当たらずも遠からず…というか、ほとんど正解に近いよ」
「あ、そ、そう…」
と私は返しつつも、紫の様子が今朝に限って言えば此処一番に不可思議な様子を見せ始めたので、雰囲気が雰囲気だけに流石の私もどうかとは思ったのだが、しかし何でちゃんとしては思い止まろうと決意する前についつい口が先走ってしまっていた。
「当たらずも遠からず…って事は、完全な正解では無いのね?」
「…」
とまた紫は黙っているのみだったが、しかし顔には変化はなくとも笑顔には違いなかったので、このまま聞いても良いと判断した私は質問を続けた。
「もっと別の…何か決定的な、そんな理由があなたの中にあると言うのね?」
と私は、『直接その理由とは何かを教えて』とは言わないでおいたのだが、しかしこうして見返してみると、ほとんどその様に聞いているのに等しかった。
それはもちろん紫の方でもすぐに察していたらしく、その為か「んー…」とまた少しばかり俯き加減に唸ってしまった。
その様子を私はまた黙って見守っていると、不意に「…うん」とまるで自分に言い聞かせる様に呟くと、紫は顔をゆっくり上げてこちらを見た。
その顔は柔らかかったが、しかしどこか開き直りに近い様な、そんな表情が見え隠れしている様に感じられた。
少しの間こちらを見た後で、紫はおもむろに私の手から本を取り上げると、パラパラと適当にページを捲りつつ口を開いた。
「…うん、そう、さっき琴音が言ったように、私がこの本をわざわざ買った理由は、あなたの叔父さんのってのもあったけど…うん、やっぱり私のお父さんが今仕事で深く関わっているからっていうのが一番だったの。ていうのもね、…うん、さっきの話を聞いた感じだと、あなたも…まぁらしいっちゃあらしいけど、最近の国会中継を見て、それでここんところ出突っ張りのお父さんの姿も見てるんだよね?」
と途中から、若干暗めではあったが、それでも呆れてる風の笑みを小さく浮かべて言ったので、「えぇ」と私も同じくらいの強さで笑みを返した。紫は続ける。
「ふふ。でさ、…まぁ少しだけ前情報として話すとね、お父さんは今の仕事を去年の終わり辺りから任されたってんでね、力を入れて頑張ってたんだ。…まぁ、当然私には、その仕事の内容がなんなのかチンプンカンプンだったけど、でも、去年のその仕事を任されたばっかの時は、見るからにイキイキとして張り切ってるのが、それなりによく分かっていたの」
と紫が、正面に見える自販機に顔を向けつつ、私の座る真横の位置からも分かるほどに、どこか遠くを見るような目つきをしていた。
私はこれといった余計な相槌は打たずに、黙って紫の続きを待った。
「でさ、それは今年に入ってすぐくらいまでは続いていたんだけれど…ね」
とここで紫はペタンと本を閉じると、カバー越しに視線を落としつつ続けて言った。
「今年のそうだなぁ…二月に入った辺りからさ、そのー…見るからに一気に疲れを見せるようになっていったんだ」
「二月…」
と私は呟き返す中、その直前の紫の行動なり話の流れを見てすぐに、これから紫が何を言おうとしているのか察してしまったが、それでもやはりただ黙って待った。
「そう、二月。…うん、二月辺りからね、別に前々からそうではあったんだけど、ここ数ヶ月は特に父子で食事をする事は無かったのね?でもね、この二月のある晩にさ、久し振りにみんなで食事をした時に、お父さんが時々ため息を吐いてたの。それがさ…なんだか印象的だったんだぁ」
とシミジミ言う紫の横顔を眺めつつ、私が言うのもなんだが話が中々先に行かないのを見て、少し焦ったくなり、ついつい口を挟んでしまった。
「それってさ…」
とここで一旦区切ってから続けて言った。
「…義一さんの本が…遠因?」
「…」
と紫はすぐには返事をしなかったが、しかしここで今日一番の静かな感情の見えない表情を浮かべた。
それから数秒ほどお互いに見つめ合っていたが、フッと力を抜くように短く息を吐くと、表情を緩めつつ口を開いた。
「んー…うん、まぁ遠因というか…何からどう話せば良いかちょっと分からないから、纏まらない話をしちゃうけど、あのね、んー…ウチのお父さんってね、家に仕事を持ち込まないっていうか、どんなに仮に疲れてたりヤな事があってもね、仕事の愚痴とかをしないんだけど…」
「…」
と私はこの話を聞いて、ふと自分の父親もそうだと感想を重ね合わせていたのだが、しかしこの時の私としては、そんな事はどうでも良いとは言わないが、その事自体に関心を抱けなくなっていた。
幼い頃、そう、大分以前に触れたように、遅くとも小学校五年生くらいまでは、基本としてお父さんを尊敬していたというのもあって、その大前提の元に今紫が述べたようなことについても誇りに思っていたのだが、今では特に気に留めようと思う程ではなくなってしまっていた。要は、少なくともそれが尊敬の理由とはなり得なくなってしまっていたのだ。
…んー、個人的には一応補足を入れたくなるのだが、すればするほど墓穴を掘りそうだというのを自覚しつつ、それでも言えば、私のこの発言は、ごく一般的な思春期の女子が、父親に限らないだろうが大人に対しての、いわゆる反抗期からくるモノではない…とだけ言い置いておこう。
と、そんな感想を思ったので、一応会話の潤滑油がわりに『私のお父さんもそうだわ』の様な相槌を打とうと一瞬頭を靫ったが、しかしまぁ、これだけ自分の父親の事を、こんな事でも誇らしげに言う紫の話を折る様な、そんな空気をわざわざ壊す事もないだろうと、結局私はただウンウンと何も言わずに頷くのみに置いた。
紫はそんな私を見て小さく微笑んだが、ここで顔に薄っすらと陰を差し込んだかと思うと、そのままの様子で先を続けた。
「でもね…ふふ、琴音、あなたはウチの居間に大きな食卓テーブルがあるのを知ってるでしょ?もう何度も、一人でも何度かウチに来た事があったから覚えてるだろうけど」
…そう、これもいつだったか一年生の時にでも触れたと思うが、夏休みに何度か紫のマンションにお邪魔して、二人で何度か遊んだ事があったのだった。別にこれ以降も何度もあったが、この時が最初だった。
当然覚えていた私が「えぇ」と短く返すと、また紫は遠くを見る様な視線を自販機に向けつつ口を開いた。
「うん…でさ、あのテーブルって私のお父さんが家にいる時は、自分の部屋があるのに、たまにあそこに座ってさ、仕事の書類とかを眺めたりしてるんだけれど…そのため息を大きく吐いていたあの二月辺りくらいからね…」
と紫はまた手元の本に顔を向けて言った。
「…その書類の中に混じって…っていうか、その一番上に、この本が乗っかっていたんだ」
「へ、へぇ…」
とあまりにも紫が声の表情を暗く言うので、私も何だかオドオドと返してしまった。
だが紫は、そんな私の様子に構わずに、ここでふと、弱々しげではあったが、少し微笑みを作りつつ話を続けた。
「…ふふ、この本を見つけて題名と作者名を見た瞬間さー、…うん、さっきも二人で話したけど、あの時の事を思い出してさ、見つけたその日…だったかまでは覚えていなけど、お父さんが家にいた時にね、ふと思い出して、何気なく触れてみたんだ」
とここまで言うと、紫はまた表情を徐々に暗くしていきながら続けた。
「『お父さん、あそこに乗っている書類の中に見慣れない本があるね?いつもは書類の束ばかりなのに…』…”実はアレって、私の学園での友達の、その子の叔父さんが書いた本なんだ”って、続けて話そうと思ったんだけど、ここでね、急にお父さんがね、滅多に見せない様な、…怒ってはいないんだけど、何というか…静かな憤りとでもいうのかな…?そんな風にね、顔つきは穏やかではあったんだけど、目に少し力を入れた感じで口を挟んできたんだ…」
「…」
と紫はここで一旦区切った。この短い間も私は何も返さなかったが、
…ふふ、紫もこうしてよーく聞いてみると、中々に文学調な言葉遣いをするのねぇ。…あまり本を読むイメージが無いんだけれど。
と、我ながら本当に空気が読めないというか、そんな的外れな感想を覚えていた。
そんな私の馬鹿げた心境など知る由もない紫は、声のトーンも落ち着きつつまた話し始めた。
その内容は私なりに纏めると、ざっとこんな感じだった。
『…紫、今お父さんが、結構大事な仕事に就いているって事は、私から話した事はあまり無かったけれど、知ってるよね?』
『うん』
『でね、お父さんは今までに任された事が無かった様な大きな仕事だったから、私なりに張りきって、それが漸く身を結びそうな程に煮詰まってきてたんだけど…そんな中で急に世間にこの本が出てきたんだ』
『へ、へぇ…』
『それまでも、今回の仕事内容への反対意見は少数ながらチラホラと出ていたんだけど、彼らの意見は簡単に覆させる事が出来たんだ。よくある意見だったからね。でも…この本の作者の論はね、彼らとは全く違った新しい切り口からの、しかも切れ味もバッツグンな反論のせいでね、隙の見えないよく組み立てられた論理だったのもあって、こちら側の陣営としてもやすやすとはまだ切り崩せていないんだ。この本の”せい”で世間の空気も、ほんの少しだけれど、ちょっと風向きが変わってきたらしくて、まだ極一部だけれど、国会議員の中にも影響されだしたのがチラホラと出だしたんだ。その議員たちの質問というか反対意見というのか、それに中々綺麗に対抗出来なくてね…仕事の完遂まで、あと一歩ってところまで来てはいるんだけれど、その一歩が踏み超えれずにいるんだ。要はね、この本、そしてこの作者の反論を切り崩さないと、私の関わっている仕事に成功はないというんでね、それでこうしてどこか論理の飛躍が無いのか、何処かに粗が無いのか、何度も問題のこの本を読み返しているんだよ』
「…って言ってたんだ」
先ほどから同じ様に目の前の自販機に視線を飛ばしつつ紫はツラツラと、前を見れば分かる様に、結構事細やかに描写をしつつ話していた。
紫の言葉を真に受ければ、まだ直接は会ったことの無い紫のお父さんは、それなりに義一の言い分というか論理を認めている様子ではあったが、それと同時に、どこか軽度か重度かは別にして鬱憤の様なものを胸に秘めているのが伝わった。
まぁそれは、ある意味想定内ではあった。何しろ、紫が言った通り、暇を見つけては、今回のFTAに限るが国会中継の審議を見ていた中で、毎回と言っていいほどに紫のお父さんが出てきて説明をしていた訳だが、日に日に目に見えて疲れが顔だけではなく全体的に現れてきてる様に見受けられていたからだった。
「そうなんだ…」
と私もずっと話を聞きつつ、同じ様に自販機を眺めていたのだが、話が終わったのを見た私は、何気なくずっと紫の手元に持たれていた義一の本に目を落として口を開いた。
「だからあなたも、そんなお父さんを見て自分でも読んでみようって思ったって訳ね?」
と私が問いかけると、
「うん…まぁね。…さっきも言った通りさ、普段は…特に仕事に関して弱気なんか一切吐かないような、そんなお父さんだったから、余計になんかインパクトが強くてさ、それで…うん、買っちゃったんだよ」
と紫は力無げに小さく微笑みつつ、私と同じように自分の手元にある本を見つめながら小さく言った。
と、そんな紫の横顔を何となしに私は眺めていたのだが、「んーっ!」と不意に紫が明るめの声を上げつつ両腕両足を四方に伸ばしだした。その行為からは、今までの会話の中でいつのまにか生じてしまった妙に重たい空気を入れ替えたいといった意図が見え隠れしていた。
前触れのない突然の行動だったので、それなりに驚きはしたが、そんな紫らしい様子を微笑みつつ何気なく時計を見ると、時刻は五時四十五分を示していた。
まだ六時前か…まだ他のみんなは起きないだろうなぁ…
と何気なく、私の座り位置からは当然見えはしないのだが、紫越しに見える廊下の口辺りに顔を向けた。
そしてその後で、空気が軽くなったのを肌で感じつつ、また紫の姿を眺めようとしたのだが、その時、ここ最近ずっと胸につっかえていた疑問が蘇ってきた。
そして同時に、このタイミングで聞かずしていつ聞くのかという思いに強く襲われた私は、その想いのまま特に吟味することもなく思い浮かんだ言葉をそのまま口にしたのだった。
「…紫、今まで話してくれた事ってさ?」
「んー?」
とまだ伸びをしたままだった紫は、キョトン顔でこちらに振り向いた。
この時の私がどんな表情をしていたのか自分では当然知れなかったが、そのキョトン顔に向けて疑問をそのままぶつけることにした。
「…ここ最近、紫、あなたの様子が少し変…というか、元気が無かったのと、そのー…関係が、ある…の?」
「…」
と私が途中からもたつく様な言葉使いになってしまったのは、紫のキョトン顔が私の言葉を聞く中で徐々に真顔になっていったからだった。
それから私たちは、二人して何も言わずに暫く黙ったまま見つめ合った。
その間、どこから鳴るアナログ時計の時を刻む音と、絶えず動いている空調の音だけが場を支配していた。
そうしながらどれ程経っただろうか、私個人としては少なく見積もっても十分以上は経ってそうに感じていたが、実際は一分にも満たなかったらしい。
というのも、無表情に見えていた紫が途中からチラチラと、今いる休憩場の壁に掛かっている時計に視線を向けていて、それに合わせて無意識ではあったのだが、私もその度に時計を見たから分かったのだ。
最後に見た時で時刻は五時五十分を指していた。
その最後に時計を見た直後、またほんの少しの間私に無表情…というか、何か品定めでもするかの様にジロジロと顔を舐め回す様に見てきたのだが、その次の瞬間、ふぅ…と短く息を吐いたかと思うと、途端に悪戯っぽく笑いつつ声をかけてきた。
「…ふふ、まぁ…仕方ないか。…好奇心旺盛な姫様に、ここで引いてくれってお願いしても無駄だろうからね」
と最後にニコッとツリ目気味の目元をニッと細めて笑って言うので、紫のこの場合での”姫発言”の意図を何となくではあるが汲み取った私も、
「え、あ、まぁ…ねぇ」
と何となく照れて見せながら答えた。
すると紫は今の笑みを強めてギュッと目を瞑ったかと思うと、一瞬にして今度はまたさっきも見せた諦観気味の笑みを浮かべつつ、「こんな事…本当は話すつもりは無かったんだけどなぁ…」と独り言の様に呟いた後、重たげにゆっくりと口を開き話し始めた。
「んー…ふふ、これは結構私としてはかなり恥ずい…っていうか、まぁ…色んな意味で話しづらい内容なんだけど…聞く?」
「…えぇ、そのー…紫さえ良ければ」
とこの時点で今更ながら、”たまに”起こす発作からくる”暴走”をしてしまって、相手に要らない不愉快を生じさせる様な失態をしでかしてしまったのではないかと反省をし始めていた時だったので、私は自業自得とはいえ直ぐには返せずしどろもどろになってしまった。
だが、それでも視線だけは一切逸らさずに、外から見えないから断言は出来ないが、それでもジッと強く、意志があることを示そうという意図の元に見つめた。
それを紫も同様に返してきていたが、フッと肩の力を抜く様に笑ってから口を開いた。
「…うん、じゃあまぁ…話すとさ。…さっき、私言ったでしょ?私のお父さんは家には仕事を持ち込まない…ていうか、厳密には私たち家族に対して愚痴ったりしないって」
「えぇ」
「うん…まぁそうなんだけどさ、それはまぁそう…だったんだけど…ここ最近…ってか、あなたの叔父さんの書いた本が世に出てから、目に見えて疲れがドッと出てきちゃって…」
「…えぇ」
と私が合の手を入れると、紫はここで一旦区切る意味を込めてか、大きく腕を天井に向けて「んー…」と声を上げながら伸ばし始めた。
その様子をただジッと私は眺めていたが、紫は自分の上げた両腕をゆっくりと降ろすと、私にまた顔を戻して続きを話した。その顔には、先程から度々浮かべていた諦観の表情に加えて、苦笑いが表面に強く滲み出ていた。
「…まぁ、結論から言うとさ?それが今年の初めからだったわけだけど…そう、私たちが中三に上がった辺りからかなぁ…?そのー…ね、何だかその辺りから、私たちの…うん、家族の”感じ”が妙な風になっちゃってきてね、…それが今も継続中なんだ…」
と最後に言い終えると、今度は天井に向けてではなく、「うん…」と誰に言う風でもなく小さく付け加えると、両腕を前方に向けて大きく伸ばした。
それが勿論、恥ずかしさやら照れやらの誤魔化しであるのは直ぐに気付いていたのだが、流石の私もこれに関して何も突っ込まなかった。
だが、それでもせっかくこうして話してくれたのだからというので、調子に乗って…って、別にそんな気はさらさら無いのだが、そのまま私から質問をぶつけた。
「家族の…感じ?が…妙に…なったの?」
と私が聞くと、「うん、まぁ…ねぇー」と紫は、普段良く見せる、紫調の笑顔で明るい口調で答えた。
「まぁ…なんていうかさ?例えばだけど…うん、例えば家の中で一緒の空間にいるっていうのに、前と違って…空気が悪いというか…会話が少なくなっちゃったんだ」
と途中から思いっきり照れ臭そうにしながら紫は話していたが、そんな明らかに無理してる風の紫の様子も引っかかってしまったが、それよりも話の内容に頭が行った。
そして、聞いた次の瞬間にはすぐにある事に察しがついてしまい、
「そ、それって…」
と頭に浮かんだ事を、性懲りも無く言って良いものか特に精査せずにそのまま口走りそうになったその時、相も変わらずに照れ笑いを顔中に満たしている紫が口を挟んだ。
「んー…ふふ、あ、いやね、別にそのー…喧嘩…してるって訳じゃ…無いんだよ?…多分…ね」
とここで一旦切ると、紫はその照れ笑いのままニコッと笑った後で、顔を私から自販機に向けるとそのまま続けて話した。
「…うん、喧嘩では…無いと思うんだよ?だって…大声で怒鳴りあったりとか、そんな音とか形跡なんかは見えないからね?…ふふ、こう見えてもこの歳まで娘をやってるからさ、夫婦喧嘩をした時はどうなるか分かってるからさ」
と紫はまた私に一度笑顔を作って見せてから、また顔を正面に戻した。
そして両手をソファーの縁に捕まるように置くと、少し顔を上に向けつつ続けた。
「でもさ…まぁいきなりって訳じゃなくて、徐々にって感じでその予兆みたいなのはあったんだけど…さ、四月の終わり辺りからね、それが一気に噴出…とでも言うのかなぁ?…うん、何だか一気に私たち家族の雰囲気が…余所余所しくなっちゃったんだ…よ」
「え…」
「まぁ…うん、例えば、…元々口数が多くはなかったんだけど、…うん、特に最近ではさ、私の前でだけど、前よりも圧倒的にお母さんとの会話が減ってたりさ、…あまり、家の中で視線もそんなに合わせて無さそう…なんだ」
「…」
そう話す紫の口調は、何だか独り言のような、何かを思い出すように空中に視線を飛ばしつつ、思いつくままに箇条書きを読み上げるかの様だった。
こちらにではなく何だかもう一人に、自分自身に対して語りかけるような、そうして自分で自分の考えを確認するかのような、そんな口調でボソボソと力無げに話してくれるのを、私はただ黙って、紫の横顔を眺めつつ聞いていた。
「…まぁそんな感じで…さ、何だかずっとウチの家の中がギスギスしちゃってるんだよ」
と、紫はため息交じりに話し終えても、ずっと正面から顔を動かさず、そしてそれからも何も動きを見せなかったので、聞きながらも当然すぐに頭を過ぎっていたのだが、奇しくも紫が黙っていたお陰で、私は私でその過ぎった考えについて細かく調べてみることが出来た。
そして、その思い付きとも呼べるその考えが確信に変わったその時、私はゆっくりと口を開いた。
「紫…そ、それ…って…」
「…」
と私が声をかけると、紫は勿体ぶる事なく、ゆっくりとした動作ではあったがこちらに振り向いた。
その顔には、笑みではあったが今朝一番の諦めの表情が浮かんでいた。
その表情に一瞬気圧された心持ちがしたが、しかしメゲズに続けることにした。
…これだけはハッキリとさせて置きたかったからだ。
「それって…ぎ、…義一さんの」
『義一さんのせいで、紫、あなたの家族がギクシャクしてしまったの?…義一さんの、せい?』
と続けて思い切って正直にそのまま口にしようとしたのだが、ここが変に肝っ玉が小さい性格のせいなのか、結局はご覧の通りにすぐに口ごもってしまった。
そんな私の様子を、紫はほんの数秒ほど静かな視線を飛ばしてきていたのだが、ふと小さく笑みを零すと、途端にいつも通りの笑顔を浮かべて、急に私の肩に手を乗せてきてそのまま話しかけてきた。
「…ふふ、あはは!ほらぁ、やっぱりねぇー!…今の流れだと、絶対にあなたがそう捉えちゃうと思ってたよ」
「…え?」
と、その紫の突然とも言うべき豹変ぶりに驚きつつ私は声を漏らした。
そして、この紫の、ほぼ具体的な内容が無かったにも関わらず、紫の方でも私と同じ考えの元に立っているのが分かったので、「…ち、違うの?」と私は聞き返した。
すると紫は私の肩にまたポンっと一度置いてから、笑顔を変えないままに首をまた大きく横に振ってから返した。
「んーん、違う違う。…あ、いや、勿論厳密には違うとも言い切れない…とは思うけどさ、んー…まぁほら!」
とここで紫は二度ほど私の肩を小気味良く叩いてから言った。
「それとはまた別にさ、これはまぁ自分で言ってといてなんだけど…私たち家族の問題だからさ、そのー…私の話し方が悪かったからかもだけど、変にさ、責任っていうかなんていうか…うん、まぁ、そんな事を姫様は感じないで良いんだからね!」
と言い終えてから、また数度私の肩を軽く叩きながらニコッと笑った。
「姫って、あのねぇ…」
とまた”いつもの流れ”というので、パブロフの犬よろしく私がジト目を向けつつ口元はニヤケながら言うと、「あはは!」と紫は明るく笑うのだった。
…そう笑いあいつつも、当然この時の私は全く釈然としないというのか、微塵も今の紫の発言を額面そのままに受け取る気はサラサラ無かった。
それは当然だろう。これまでの会話の流れや紫の顔の表情、口調、その他諸々から、これが紫の本心だとは到底思えなかったからだ。
そして勿論、これは紫自身も、私が自分の言葉に納得したなどと思ってはいない…事にも私は気づいていた。
だって…学園の入学時から長い時間をお互いに過ごしてきたのだから。
…しかし、だからと言って、その事について、その感じた矛盾点に噛みついて本心を暴こうという気にもならなかった。
先にも触れた様に、紫が家族の中身という普通ならあまり話したくない内容であるはずのナイーブな話をし始めたその時からの、表情などから生じる全体に纏った雰囲気にすっかり気圧されてしまいっぱなしだった私としては、ハナから牙が折られた状態だったのも理由の一つではある。
…だが、こんな妙ちくりんな言い回しをしなくても、普通は話しづらいはずであるナイーブな話をしてくれた事について、言葉にするのは難しいが、一番近そうな感情を述べれば、感謝の念しか無かった。
裕美たちの言う”恥ずい”話を、しかも、直接には関係なくとも当事者に一番近いと言ってもいい私相手とはいえ、一対一のサシで真剣な胸の内の一部を吐露してくれた時点で、個人的には大満足であった。
なので、紫は口にせずとも暗に自分の家族がギクシャクし出したのは、私の叔父である義一に大きな一因があると言いたいのだろう…と私は当然として受け止めたのだが、そう受け止めつつもこの当時の私、そして振り返っている今の私としても、なんと言えばいいのか…そう、いわゆる”負の感情”は微塵も抱くことは無かったとだけ付け加えておこう。
二人で少しの間にこやかに笑い合った後、「しっかし…」
と紫は上体を屈めたかと思うと、下から私の顔を覗き見上げる様にしながら、
「まったく…ホント琴音、あなた相手、特に二人っきりの時だと、ついついこんなマジな話をしちゃうんだからなぁ…参っちゃう」
と最後にニヤッと笑ったので、裕美や他の人相手にもそうなのだが、こう言われてしまうと何て返せば良いのか今だに分からず、「あはは…」と苦笑気味に返すだけに留めた。
とそんなやり取りをしていたその時、不意にガチャっと廊下の方でドアが一つ開く音が聞こえた。
その瞬間、別に示し合わせたわけでも無いのに、二人同時に廊下の方に顔を向けた。
先ほども言った様に、私の位置からは兎も角、紫の位置からも厳密には廊下を振り返ることは出来なかったので、音の方向に視線を飛ばしつつ、ただ二人黙って耳を澄ました。
ガチャっとまた一度音がしたかと思うと、スタスタと厚めの絨毯の上を歩いてくる足音が聞こえてきた。
その音は徐々に大きくなっていき、そして数秒後にはその足音の主が姿を現した。
その人物は、私たちと同じ様に、上には一般的な普通のTシャツを着ていたが、下には見覚えがありすぎる学校指定の短パンジャージを履いていた。
そう、まぁ同じ階なのだから当然なのだが、その主は同じクラスの生徒の一人だった。
彼女は起きたばかりらしく、半分しか開いていない眠気まなこを擦っていたが、ふと私たちの存在に気づくと「あっ」と声を上げた。と同時に、顔いっぱいに困惑と驚きが混じり合うような表情を見せて、すっかり眠気まなこも姿を引っ込めていた。
「あれー?宮脇さんと望月さんじゃーん」
と彼女は明るい声を上げつつ、私たちの座るソファーのすぐ側まで来た。
「おはよー」
「お早う」
と紫と私の順に挨拶をすると、「うん、おはよー」と彼女も返してきた。
とその次の瞬間、彼女はニヤッと笑いながら口を開いた。
「…ふふ、てかさー?二人とも何時に起きたんよ?」
「え?」
と私と紫が顔を見合わせると、「今何時だと思ってるのー?」と彼女はニヤケたまま時計に顔を向けた。
それにつられる様にして私たちも視線を向けると、時計は六時十五分を指し示していた。
「別にそんなに早くないじゃなーい?」
と紫も負けずにニヤケ顔を浮かべて間延び気味に返すと、「あはは」と彼女は一度明るく笑ってから言った。
「いやさー、起床時刻って六時半だったじゃん?でもさー、なんだかついさっき起きちゃってね、それで喉が乾いちゃったから部屋を出てきたんだけど…ふふ、まさか他に起きてる人がいるなんて、思ってもみなかったから驚いちゃったよー」
と、なんだか私から見ると会話が微妙にズレてるように感じられたのだが、それ以降は少しの間だけ、紫と彼女を中心に雑談に花を咲かせた。
しばらくして、「そういえば、何か飲み物を買ってきたんじゃなかったの?」と私が悪戯っぽく笑いながら声をかけると、「あ、そうだった!」と彼女は大袈裟にハッとして見せると自販機に歩みだした。
「宮脇さんと望月さんさー?この中では何がオススメなのー?」
と自販機を眺めつつ声をかけてきたので、ふと私たちは顔をあわせると、どちらからともなく苦笑を浮かべて、まず紫がゆっくりと立ち上がった。
それを見て私も同じように立ち上がろうとしたのだが、ふとその時、紫は歩み出そうとしたその足を止めると、こちらに振り向き、そして不意に腰を屈めて、まだ座ったままの私の顔に自分の顔を近づけてきた。
「な、なに?」
と私が少し驚きつつも問いかけると、紫は一瞬またさっきまでの無表情に近い顔を見せたが、すぐに、これまたさっき見せたような諦観混じりの苦笑いを浮かべながら、まるで内緒話をする風に口元に手を添えつつボソッと言った。
「…さっきの私の話、本当に気にしないでね?出来たら…忘れて?」
「…え?」
とその話しかけられた内容に呆気にとられてしまい、咄嗟に返せなかったのだが、何か言い返そうとした時には、一度目をぎゅっと瞑るような笑みを見せてから、
「まったくー…美味しかったのはねぇー」
と口にしながら、クラスメイトの待つ自販機まで、今度は振り返ることもなく一直線に歩いて行ってしまった。
その後ろ姿を、私はほぼ無心のまま眺めていたが、「あ、ほら、望月さーん!一緒に選んでよー」と彼女が、それほど離れているのでもないのに、笑顔でこちらに大きくコイコイと手招きをしてきた。
その横で、紫も普段通りの笑みを浮かべつつ同じように手招きをしてきたので、
まぁ…いっか
と私は両膝に両手を乗せると、よっこいしょっと反動を使いながら立ち上がり、「はいはい…」と苦笑まじりに呟きつつ、二人の待つ自販機前へと向かうのだった。
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