第15話 修学旅行 後編 3 平和

バスが動き出してすぐに、これから二泊三日間一緒に過ごすというバスガイドさんの自己紹介を兼ねた予定が知らされた。

…こんな事を女性に言うのはアレかも知れないが、事実としてパッと見、志保ちゃん以上安野先生未満って感じの年齢に見受けられたが、

「よろしくお願いしまーす」

と元気な声で挨拶をされたので、

「はーい!」

「よろしくお願いしまーす!」

と私たちからもテンション高めに返した。

因みにというか、私たちの座席位置に軽く触れてみる事にしよう。

バスは通路を挟んで二列二列という良くある座席配置をしていた。

んー…これもまぁたまたまというか、自然とそうなってしまったのだが、私たちの中では一番にバスに乗り込んだ紫と麻里が、真っ先に前から二列目の右側に座ったので、そこから順に座っていく形となった。一列目はバスガイドさんと安野先生だ。

これも勿論決まってはいなかったはずだが、紫たち学級委員が二列目に座り出したので、その左列に窓側から私、裕美と座った。一つ前が先生だ。

そして私と裕美のすぐ後ろの三列目の席に、窓側から藤花、律と座り、その右列には、律と仲の良い子ともう一人が座った。

これもそう順番に乗車した結果ではあるのだが、少しネタバレ風な事を言えば、何だかんだこのまま”同じお好み焼きテーブルグループ”で、最終日まで何かと一緒に過ごす事になる。


バスガイドさんが今食べたばかりのお好み焼きの話に触れ出したので、みんなであーだこーだと一々口を挟んだり合いの手を入れたりしていたのだが、乗車して十分ほどしか経たないうちに、早速最初の”修学先”に着いた旨を伝えられた。

ちょうどお好み焼きの話が出たというので、まだみんなにキチンと見せていなかったなと思い出し、リュックからビニールに入れっぱなしのエプロンを取り出そうとしていた矢先だったのだが、そう聞かされたので思わず「…え?」

と声を出してしまった。リュックのチャックを少し開けて、その隙間に手を突っ込みながらだ。

しかしそれは私だけではなかったようで、ふと通路の向こうを見ると、紫も同じような動作をして、そして静止していた。

と、ここでお互いに視線が合ったのだが、それと同時に

「えーー」

と後方の方で一斉に声が上がった。不満げだ。

振り返ると、クラスメイトたちが目を一様に細めて見せて、それでどれだけ不満かをアピールしていたのだが、これまたどの顔にもニヤケ面を隠しきれていなかった。

そんなありきたりだがノリを見た私がまた視線を向けると、紫の方でもほぼ同時に私に戻して見てきたのだが、それからはどちらからともなく、初めは呆れ笑い、それから徐々にイタズラ風味を混ぜた笑みを向け合うのだった。

そんな私たちの反応は、まぁこの手のことでは毎度の事なのだろう、

「はーい、皆さーん、確かに今乗ったばかりで、しかもお腹一杯だから少し休みたいって気もあったりで、全部引っくるめて『もう降りるんかい!』ってツッコミたい気持ちは分かりますけれどねぇー、文句は言わないでくださいねぇ」

と、慣れた調子でバスガイドさんもニヤッと笑いつつ、敢えて生徒を諭す教師風な口調で言った。

それに対し、その軽いノリが心地良いと恐らく皆が思ったのだろう、その言葉に対して「はーい」とワザとらしく気怠げに返すのだった。


ガイドさんの予告通り、あっという間にバスは川に架かる橋を一つ二つと渡ったかと思うとすぐに右手に切れて、ある敷地内に入った。

そして駐車場に入り停まると、早速ガイドさんと先生から、貴重品も含めた移動用の荷物をキチンと持って降車するように指示が出たので、ワイワイ言いながら皆して一斉にバスから降りて行った。

冷房の効いていたバスから降りると、二時間ちょっと前に広島の地に来た時と変わらない、雲一つない青空の下、ぴーかん照りとまで言いたくなる程の日差しが眩しく感じた。と同時に、せっかく冷えた身体が徐々に熱を帯びていく感覚を覚えるのだった。

ここは、バス専用の駐車場だった。私たちの乗っていたバスのすぐ脇にもう一台、そしてその隣にまたもう一台のバスが停まっていた。

とても細い話だが、私たちのクラスは三組なのだが、本来は全クラス五組な中で、前にも触れたように一、二、三組と、四、五組で分かれての修学旅行だったので、私たちの組が一番最後という形となっていた。


と、そんな蛇足はともかく、「んーん」と、乗車時間は少なかったのだが、それでも気分で大きく伸びをしながらふと目の前に、これから訪れる建物がチラッと目に入った。

降りた直後はやんのやんのとざわついていたのだが、安野先生たちの引率の元、駐車場から出て敷地内の、先ほど見えていた建物の正面に出た。


バスからも事前に車窓から見えていたのだが、一気に広々と拓けた敷地内にパッと見で二棟の建築物が見えた。

その二棟共に、二階建てというそれほど高さは無いが、その分というか横に長く、そして、一階部分、地上部分が柱(構造体)を残して外部空間とした建築形式をしていた。

これまた細かい話だが、1926年に、かの建築家として有名なル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレの提唱した近代建築の五原則、『ピロティ・屋上庭園・自由な平面・自由な立面・連続水平窓』のうちの一つ、フランス語で”杭”という意味のピロティが特徴であるのが真っ先に目についた。

…ふふ、こんな事をすぐに思い浮かべるのは良くも悪くも女子中学生でも私含む少数派であるだろうが、勿論これらの知識は義一に借りた本、そしてそれに関する議論、会話に始まり、そして最近では師匠に借りた本の中にもこれらの記述があった、とまぁそんな由来があったのだった。

…って、別に知識を披瀝したかった訳ではなく、ただ単純にそう当時思い出していただけだったのだが、それにしたって長々と触れてしまった。

反省して話を戻そう。


とまぁ、もしかしたら広島の地理に詳しい方がいて、建築様式などにも造詣が深ければ、もう既に私たちが訪れた場所がどこなのか察しておられるかも知れない。

…そう、私たちの修学旅行のまず第一に訪れた場所とは、広島市中区にある、広島平和記念資料館だった。

広島に落とされた原爆の惨状を後世に伝えるための施設として開館したものだ。広島平和記念公園内に所在し、同じ敷地内に、有名な原爆ドームもある。

ついさっき触れた、重要文化財でもある西側の本館と、東側の東館からなり、東館には原爆投下までの広島市の歴史や原爆投下の歴史的背景に関する展示があり、本館では広島原爆の人的・物的被害に関する展示が行われている。


私たちは安野先生たちに引率されるまま、東館の方に着くと、待ち受けていた館直属のガイドさんに導かれるまま、そのまま館内へと足を踏み入れて行った。

初めの軽いジャブというか、雑談的に話してくれた内容では、なんでもつい最近になって改修工事が終わり、以前は東館からという展示ルートだったようだが、今は東館からなのは同じでも、途中で本館に入り、そしてまた東館に戻るというルートに変更されているとの事だ。

その理由について、ガイドさんの個人的見解という前置きの元で話すと、なんでも以前までの順番に見て行くと、東館での見学に時間を多く割かれてしまい、実際の被曝に関する事実を観る部分は、ついつい駆け足になってしまっていたとの事だ。

勿論東館での歴史的背景などの内容も重要なのだが、どちらかというと原爆を投下された八月六日の出来事、被曝の実相に重きを置きたいという理念からは今までズレていたというので、リニューアルに伴って、ルートも刷新されたとの話を聞いていた。

…確かに、本館に着く頃にはみんなの集中力も切れてただろうしなぁ…

などと、話を聞きつつ感想を思い描いている中、先に予告されていた通りに、ガイドさんの後について行き、解説を聞きながら順々に館内を周っていった。


まず始めに東館に入り三階に上がると、原爆を落とされる前と、落とされて焼け野原にされた後の広島市内の比較写真がいくつか展示されていた。

と同じ範囲内に、広島市内中心部に原爆が投下されて破壊されていく様を、上空から俯瞰して見るという試みのCGとジオラマの展示もあった。

館内には私たち以外にも、日本人、それに加えてそれ以上に海外の人の姿が目立っていた。

それから本館の方に移ると、今度は八月六日当時の、原爆の熱線、爆風、放射能が人体や建物に及ぼした影響を、当時の写真、被爆者自身の証言、被爆者の描いた絵などを展示されているのを見て回った。

亡くなった人々の遺品や生前の写真の数々、戦後も放射能などによって苦難の人生を送られた被爆者の証言なども同時に展示されていた。

こんな言い方は悪いかもだが、手が打てない死を待つばかりの全身火傷に苦しむ被爆者の写真なども修正なしで展示されていたのには、私個人で言えば思わず食い入る様に眺めてしまい、目が離せなかった。

本当に個人的な事だが、この様な写真は事前に昔に宝箱で義一に見せてもらった写真集の中に収録されていた中で見たことがあったのだが、それは当然今見ているほどに大きく鮮明な写真では無かったので、当時よりも訴えかけられる感覚が強かった。

それからはまた東館に戻ると、今度は核兵器誕生の経緯や、当時軍都だった広島の成り立ちと、戦後復興の歩みなどが展示されているのを見学して行った。

これまた個人的な感想…って、さっきからそんな事ばかり話しているが、個人的には繰り返しになるが、何度かこの手の話も義一から事前に話を聞いたり議論をしてきていたので、おそらく周りから見たら浮いてる様に見えてたかも知れないが、特に核兵器の編纂などを興味津々に眺めているのだった。

…いや、周りから見たら浮いてるとは言ったが、チラチラと他のみんなの様子を見る限り、そんなことは無かったかも知れない。

何故なら、私だけではなく、裕美たちを含む他のクラスメイト達も、ガイドさんの話に真剣に耳を傾けつつ展示を眺めていたからだ。

その真剣な表情や態度、そこから滲み出る真剣な場の空気などからは、ついさっきお好み焼き屋で和かに過ごしたのとは同じ人間とは思えないほどだった。

まぁ、この資料館というのは、広島といえばといった定番の修学旅行先なので、他の学校の生徒達もそうだと言えばそうなのだろうが、当時の私からすると、『こうしてオンとオフをしっかりとメリハリを付けて切り替えが出来るなんて、何だかんだ進学校にしてお嬢様校と世間から称されている学園の生徒っぽい…』などと、自分もそこに通う生徒だというのに、まるで他人事な感想を覚えるのだった。


あと…ふふ、まぁ元もこうも無いことを言えば、予め紛いなりにも”修学旅行”だというので、この原爆関連について、簡易ではあるがそれについてのレポートを提出する様にという課題が出ていたというのもあったのだろう。

色んな意味で真面目らしい私たち学園のクラスメイト達は、付け加えるならば真剣な面持ちで事前に渡された”それ用”のワークブックにメモを書き入れていたのだった。例に漏れずに当然私もだ。


こうして約一時間ほど展示を見て回り、内容だけではなく館内の雰囲気にも影響されてか、厳かな雰囲気らしきものが私たちの間で流れる中資料館を出た。

外は相変わらずの好天ぶりだ。お八つ時を少し過ぎたところで、なんだか益々気温が高まっている様だったが、今まで空調の効いた場所にいた為か、体感的には資料館に入る前の方が暑く思えた。

皆が出たのを確認すると、代表して安野先生から、ここからはクラス毎に固まって、ボランティアだという館内とはまた別のガイドさんに従って、広大な公園内を案内して貰うようにお達しが下った。


それからはテンポ良く流れるようにガイドさんの後をゾロゾロと、私を入れた三十名ちょうどのクラスメイト達で付いていった。

まず連れられて見せて貰ったのは、資料館からすぐ北に位置している、通称”被爆したアオギリ”だ。当時の逓信局、つまりは現在の中国郵便局だが、その庭にアオギリが三本植わっていたらしいが、原爆の熱線を受けて幹が半分焼け落ちてしまったらしい。当時は広島には七十年は草木すら生えないと言われていて、アオギリもそのまま枯れてしまうだろうと誰もが思ったらしいが、その翌年には、その三本のアオギリから新芽が出たとの事だ。

ガイドさんはその様な話をする流れで、原爆で足を失ったというある女性が、『生きる希望を失った中で、焼け焦げたアオギリから芽が出ているのを見た時に、自分ももう少し頑張ろうって思ったらしい』という逸話を付け加えた。

その後に三本ともにこの公園内に移植されたらしい。一本は枯れてしまった様だが、残りの二本は現在も生き続けており、そのうちの一本が目の前のものだという事だ。

そんな話を聞きながら見ると、今も分かるその焼けた幹肌を包み込む様に、新しい幹が出来ているのが分かった。


次に連れられたのは、通称”全損保の碑”。建立の目的としては、その名からも想像できる通り、原爆の犠牲者となった保険会社社員の慰霊のためとの事らしい。そこには碑文が書かれており、

「なぜ あの日は あった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」

とあった。

ガイドさんに言わせると、この碑が平和公園内で最も思想性が高いと言われてるという話を聞いて、私は思わず誰よりも食い入る様に碑文に目を落とした。

…だが、正直な冷ややかな感想を述べれば、そこには思想と言えるほどの気配は特に感じられなかった。

そんなことを考えている中、「この碑は、ここに書かれている様な思想を気に入らないと考えた右翼の人によって、持ち去られたこともあるんですよ」とガイドさんは話しながら次の場所へと向かった。


ガイドさんが足を止めたすぐそこには、またもや石碑が置かれていて、上部に茂る木々の葉の隙間から差し込む陽の光のまだら模様が、そのまま碑に反映されてユラユラと蠢いていた。これだけ木々があるのだから、夏場だと蝉の音で辺りが占められそうなのは容易に想像出来たが、今は若干汗ばむ程の陽気とはいえ五月の下旬、蝉が鳴くには早すぎて、たまに通り過ぎる風に促されて頭上の葉と葉がぶつかり合って鳴るサァサァ…といった音以外は何一つ音がしなかった。それがまたある種の雰囲気を醸成するのに役立っていた。

碑には、峠三吉という詩人の代表作である原爆詩集の序文、有名な詩が刻まれていた。

「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわと へいわをかえせ」

とガイドさんがボソボソと詩を神妙な面持ちで口にするのを、裕美達も影響されてか、真剣な面持ちで碑に目を向けつつ聞き入っていた。


…私はというと、その碑や書かれている詩の内容を聞いて、言ってはなんだがまたもや心の中が冷え切っていた。

その理由の一つには、何しろ内容が、ただの恨み節のそれ以上には感じられなかったからだ。感情から見れば分からなくもないが、こんな詩を残したって将来にとってどんな意味があるのかとふと思ってしまうのだ。

まぁ…客観的に見て、こんな風な冷めきった事を考えてしまうのは、あの”理性の怪物”さんの影響があるのだろう。

だが、それにしたって私は純粋に義一の、そんな義一的な一般的に言う意味での感情を排した理性的な考えの方がシックリとくる。

これは義一の受け売りだが、そもそも戦争、特に近代における戦争というのは、感情を受け入れる隙のない合理的、理性的なものの延長線上にある代物だ。これは所謂左翼に限らず、右翼もそうなのだが、すぐに感情論を持ち出す悪癖がある。右翼が分かりやすいので例として触れれば、「あの戦争には大義があった」「その戦争のお陰で欧米の植民地だった国々が独立を果たす事が出来た」などなどといった説だ。この考え自体に、義一、それに私が全面的に反対する気は無い。

…無いが、先に触れた通り、戦争というのは、作戦、戦略、戦術その他諸々の計画を綿密に立ててするという、合理的理性的なものの中でも際なものだ。一般的には言い方が悪いと評されるのだろうが、このある種のゲームに、いわゆる国の上層部にも右翼的な感情論が跋扈してたのもあって、理性的で冷静な戦略性も戦術性も敵と比べて正直に言って劣っていた日本は、当然として負けたわけだが、その負けた言い訳として、繰り返すが「結果的に植民地を解放することが出来た、旧植民地だったアジアの多くの国々から今も感謝されている」などなどと、そんな事を言っても、今の悲惨な日本の状況は何も変わらない。

戦争は嫌だ嫌だと駄々を捏ねていれば戦争をしないで済むという、左翼的なお花畑な思考は論外なのは間違いない、因みに個人的にはそこはどうでも良いのだが、一応補足を入れれば詩人の峠三吉は日本共産党員だったが、それはともかく、過去の大戦に過剰なロマン主義を持ち出して思い出に浸って、今現在の体たらくを無視して決め込んでいる右翼も、現実を直視出来ていない時点で同類なのは明らかだ。

…っと、少しここで変に興に乗ってしまって長々と義一、そして私の考えを軽く述べてしまったが、最後に一つだけ意見を述べさせて貰えれば、まずただの恨み節だけのこの詩の様な考えからはいい加減に卒業して頂きたいと思う。

その代わりに、もしこんな碑が必要だというのなら、だったら内容的には「もし次こんな戦争がまた起きてしまった時には、先の大戦の時の反省を生かして、今度は絶対に負けないぞ」という詩を誰かが書いて欲しい…というのが、他人に丸投げではあるが、これは私個人の願いと感想だ。話を戻そう。


その後、ガイドさんの後をついて行くと、急に大きくひらけた広場に出た。ふと何気なく左方向に目を向けると、先ほどまで見学していた資料館の背後が見えていた。

と、その方角に目を向けつつ足を右に向けると、目の前にこれまた何度か宝箱や、修学旅行前の事前学習で見せられたそのままの、原爆死没者慰霊碑があった。

『原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい』という趣旨によりデザインされた屋根の部分が”はにわの家型”という特徴的な見た目が目立っている。

その前に設置されている献花台には摘みたてと見られる花が添えられていた。

と、少し視線を上げると、慰霊碑の屋根の下に、かの有名な碑文の書かれた石碑が鎮座されていた。

その背後越しというのか、向こうには”平和の灯”という火台が見えていて、そのまた向こうには最も有名といっても過言では無いだろう、かの原爆ドームが見えていた。

「おー」

と私が漏らすのと同時に他のみんなもほぼ同時に声を上げた。その理由も同じ事だろう。

と、突然だがここで一つ付け加えると、やはりというか例によってというか、紫率いる私たちの班はずっとクラスの先頭を歩いていたので、必然的にガイドさんの真ん前にくる形になっていた。それは今までもそうだ。


私たち”三組”が全員揃ったのを見定めたガイドさんは、慰霊碑を背に立ちこちらに顔を向けながら、またツラツラと話を始めた。

まずは何故このようなデザインになったのかなどに触れて、そしてこの慰霊に奉納されている原爆死没者名簿の話にもなった。

それが終わるとガイドさんは、一度チラッと背後の慰霊碑に顔を向けてから、私たちに石碑を見るように言った。

促された私たちは順々に何人かずつ、まぁ普通に班毎に前に出て繁々と黙々と眺めた。

そこには有名な一文、

『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』

と三行で書かれてあった。

…後で理由を軽くでも述べようと思うが、思わず鼻で笑ってしまったのは、私からすると理由は言うまでもないが、そうしてしまった瞬間『あ、マズイ…』と辺りを見回してしまった。だが、マジメらしい裕美たちを含む我が学園の同級生たちは、真剣な面持ちで石碑を眺めていたので、そんな軽率な私の行動に気を止める者などいなかった。

ホッと思わず胸を撫で下ろしたのは本当だ。


順番に見終えるのを確認したガイドさんは、また話の続きに戻った。石碑、碑文についてだ。

内容としては、いわゆる”碑文論争”が中心になった。

そもそもの始まりは、当時の広島市長である浜井信三が、これまた有名なアメリカ、アーリントンにある国立墓地にして戦没兵士の慰霊施設である中の碑に感動し、是非広島の慰霊碑にも碑文を刻みたいと思ったところから始まったらしい。

当人曰く、「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者に詫び、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」というのを盛り込みたかったようだ。

とまぁそのような事を含めた依頼を市長が、自身も被爆者であった当時広島大学の教授をしていた雑賀忠義にして、それを受けた雑賀が提案し揮毫したものらしい。

さて、ここで碑文についてだが、その中の『過ち』とは誰が犯したものであるかについては、建立以前から議論があったようだ。

これをガイドさんの口から聞いて、この件についても細かい話だが、私が小学生の頃に既にこの件については義一と宝箱で議論し合っていたので、何だか当時を思い出しつつ、今から私たち以外の違う意見が聞けるのかとワクワクしていた。

まず事実としてガイドさんが続けるには、サンフランシスコ講和条約で漸く、私や義一、それに神谷さんを筆頭とした雑誌オーソドックスの面々からしたらあくまで”表面上の”独立を果たすこととなる訳だが、その発効後の1952年、市議会にて浜井市長は「過ちとは、戦争という人類の破壊と文明の破壊を意味している」と答弁したらしい。

その同年、地元の新聞に「碑文は原爆投下の責任を明白にしてないじゃないか」「原爆を投下したのはアメリカなのだから、名指しにしないまでも『過ちは”繰り返させませんから”』とすべきだ」との投書が掲載された。これは私としても納得のいく論理に思えるのだが、当時はすぐに複数の反論の投書があったようで、「広く人類全体の誓い」という、普段から世界市民だとかなんだとか砂上の楼閣にすぎない現実を顧みない理想にドップリと浸かっている一部の左翼にありがちな意見が寄せられたようだ。市長も、「誰のせいとか詮索はしないで、主語は人類全体とした方がいい」という、これまた論理もへったくれもない主張をし、それが今なお広島市の見解となったとガイドさんは話していた。…まぁ、途中途中で私個人のフィルターが掛かっているけれど。


と、ここでガイドさんの話は急に駆け足気味になり、所々を端折って話していたが、そんな中、またもや私は小学生当時、宝箱で義一に聞かされた内容を思い出していた。

ある意味これが、碑文論争の発火点となる。

まぁ…少しまた長くなるので、この件については興味もさほどないし、もうお腹いっぱいだという方は、次のセクションまで飛ばしても話上妨げにはならないので、どうぞ飛ばして頂こう。

…さて、これは所謂右翼には有名…いや、多分一般的にも認知されている筈であろう、義一や私自身も敬愛している、インド人法学者で、歴史上、他に類例のない程のデタラメで恥ずべき行為であった極東国際軍事裁判で判事の一人を務め、その中でただ一人、事後法を持って裁くという様な国際法に反する判決は認めない、その理由から被告人全員の無罪を主張した意見書、通称パール判決書で知られる、ラダ・ビノード・パールその人が、通訳を通して碑文を聞いた時、日本人が日本人に謝っていると判断し「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」との発言をしたのだ。

「ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落したものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、『わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ』というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」

「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常に立派な決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現を用いないのか」

「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえも出来ないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊も慰められない」

この発言を聞いた本照寺の筧義章住職はパールを訪ね、「過ちは繰り返しませぬから」に代わる碑文を要望すると、パールは「大亜細亜悲願之碑」の文章を執筆した。

中身はこうだ。

「激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思いを抱いて 死んでいった しかし 大地深く打ち込まれた 悲願は消えない 抑圧されたアジアの 解放のため その厳粛なる 誓いにいのち捧げた 魂の上に幸あれ ああ 真理よ あなたは我が心の 中に在る その啓示に従って 我は進む」

なおこれは筧住職とパールの文章が混ざっているという説があると、そこまで義一に教えてもらったが、それはともかく、今までの話を聞いた碑文作者と呼んで良いだろう雑賀は、

「広島市民であると共に世界市民である我々が、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」

とパールに抗議文を送ったとの事だ。

…ふふ、義一も苦笑いと呆れ笑いを交えつつ話していたが、世界市民だとかなんだとか、いかにも左翼風情の匂いが充満しているのが分かるだろう。


さて、ここまで飛ばされた方もいるだろうが、思い出話もこの辺りで一旦止めておこう。

とまぁそんな事を義一の様子を合わせて思い出していたので、またもや当時と同じ様に苦笑いを浮かべそうになってしまいそうになるのを何とか抑えつつ、まだ続いているガイドさんの話に耳を傾けた。

ガイドさんの話は、この石碑が、これまた右翼青年などによって何度か破壊工作をされて、その度に修復されてきたという経緯を話している所だった。

その流れで、つい二年ほど前だが、今のではなく一つ前のアメリカ大統領が辞める直前にこの場所を訪れた点について触れた。同国によって核兵器が落とされた日本の都市へ、現職の大統領が訪問するのは初めてだった。

この時のニュースは、普段全くテレビを見ない私の耳にも入ってきていた。

…いや、もっと詳しく述べれば、後で話す点から、ある意味世間一般よりも細部に渡って私は知っていた。

そう、もちろんその情報源は、義一、それに雑誌オーソドックス内の記事だった。

ガイドさんは、大統領が訪れた時に居合わせたらしく、とても好意的に熱弁を振るっていたが、私個人としては、また例によって例の如く、話を聞けば聞くほど大きく溜息を吐きたくなるのだった。

そう私の心を冷ややかにさせたのは、事前に当時のオーソドックスの記事を読んでいたからだが、もっと具体的に言うと、アメリカ在住で国際政治や国際金融に詳しい佐藤寛治が痛烈に、アメリカ大統領の偽善的で作意が見え見えの行動と、それに舞い上がった日本の大衆に批判的な評論を寄稿していた。

んー…どうしてもまた個人で思うに触れざるを得ないと思うので、この件についても話したいと思うが、ここからも少し込み入った話なので、興味無い方は次のセクションに飛ばして頂いても構わない。

…さて、そもそもこの訪問実現までには、それなりの経緯があった。大統領は就任したばかりの頃、『アメリカは世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、行動を起こす責任があるとし、核兵器のない世界の実現に向け牽引する』という演説を行った。この演説のおかげで、大統領は同年にノーベル平和賞を受賞したのだった。

とまぁ、この様な演説をぶった事もあり、事あるごとに広島へ訪問したい旨は口走っていたのだが、中々実現しない中でようやく、最後の最後で実現する流れとなった。

訪問するにあたり、大統領は原爆の子の像のモデルである少女の折り鶴に関心を示したらしく、自ら折って持参した折り鶴を披露し、被爆三世の少年少女たちにプレゼントした。

まずこの時点で、良く言って人がいい、普通に冷静に言って単純で感情に流されやすい馬鹿な日本人は大統領に感銘を受けてしまったらしく、寛治がそう紹介してるのを見た時点で、私は一人読みながら眉をひそめたのだった。

もちろんそれは、書いた寛治に対してではない。そんな反応を示した日本人に対してだった。

その偽善的なセレモニーの後で、大統領は今ガイドさんが触れた演説を二十分弱に渡って行った。これですっかり日本で右左を問わずにこの大統領にシンパシーを感じた人が一斉に激増したらしい。

…ふ、こんなの鼻で笑うしかないだろう。その理由は後で述べるにして、演説を要約すると、就任当初に行ったものと大差はなかったが、具体的な政策は提示できないまでも、それでも核兵器廃絶を指向している点は変わらないというものだった。

…そう、ここでようやく触れられるが、この大統領の発言それ自体が、私、それにオーソドックスの面々から鼻で笑われる要因だった。

理由はアレコレと述べればキリがないが、もっとも単純にして明快、分かりやすいところで言えば、この大統領の任期内での行動、施策などなどを見れば、核兵器廃絶を指向しているなどというのは全くの大嘘だというのが分かるのだ。これは寛治からの情報提供にして、実際に一応確認して見るとその通りだったのだが、要は、この大統領が就任してから、核兵器に対しての軍事予算が増えているのだ。もっと具体的に言えば、新型の核弾頭を開発したり、そのための工場を建設したり大々的にしている。この大統領の任期内に限っていっても核兵器の製造予算を三割増やしていて、今後二十五年間で、日本円にして約百兆円使う事を決定していて、それは今の大統領まで勿論受け継がれているのだ。

参考までに日本の自衛隊の予算は一年で五兆円弱、ということは、アメリカは広島に訪れた大統領が決めたプランによると、毎年自衛隊と同じ予算を核兵器の開発に注ぎ込もうとしているわけだ。

…本当はこの話から、寛治の所属する”リアリストスクール”という国際政治の一派が、どのように核兵器を戦略として考えてるのか、その点についても本当は触れたい所なのだが、流石にこれ以上話すとキリがなくなってしまうので、その話はいずれどこかで簡単に話すかも知れないからここで終えるにして、ただこれだけ聞いて頂ければ、歴史上初めてか何か知らないが、広島に訪れた大統領に対して拍手喝采している日本人に対して、冷ややかな目を向けざるを得ないのは分かっていただけると思う。

ここでまた話を戻そう。


…ふふ、そんな感じで、ガイドさんから私ほどではないにしても今日一番の長い話を聞いた後で、慰霊碑から資料館の方にほんの数歩ほど行くと、幅広い階段が何段かあったので、そこで段差に合わせてクラスメイトたちが段々に整列して並び、慰霊碑、それに遠くに見える原爆ドームをバックに修学旅行初の集合写真を撮った。

向きとしては南西方向だったので、昼から夕方にかけたこの時間帯では、日差しが顔面に直で降り注がれてしまっていたので、眩しさのあまりに皆してついついしかめっ面の様な表情を浮かべてしまうのだった。


撮り終えると、またガイドさんの後を皆揃って付いて歩いて行った。

左手に平和の池と名前の付けられてる水辺を見つつ歩いて行くと、その池の中に立つ”平和の灯”なる火台が見えた。

一応は立ち止まりはしたが、それでもほんの一、二分ほどに留まる中、説明を受けた。

手首を合わせて、手のひらを大空に広げた形をしている。火台というくらいだから、その手首を合わせた辺りでは火が燃えているのだが、これは反核と恒久的平和実現まで燃やし続けられるのだと、ガイドさんは説明をしていた。

この時の私は、一応前回の反省もあって、ここでも何とか堪えたが、

…ふふ、だったら将来日本が本格的に地上から消えて無くなるまで、延々と火が燃え続ける訳ね

と、心の中で鼻で笑うのだった。


毎年この場所では”平和の灯リレー”なるものが開催されているらしく、ここから採火して広島県の市町村をリレーで一周しているとの話を聞きつつ、次の場所へと移って行った。


平和の灯を少し行くと、車が一台ずつならすれ違える程の車道に出た。横断歩道を渡るとすぐ目の前に、先ほどチラッとガイドさんが触れた、折り鶴のエピソードでも出た『原爆の子の像』が見えた。

三脚のドーム型の台座の頂上に、金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立つという出で立ちだ。

さっきは少女と名前を出さなかったが、二歳の時に被爆し、10年後に白血病を発病して亡くなった佐々木禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちが、「原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と提案し、全国の中学校や、他国からも寄付金が集まって出来上がったという経緯があるとの事だ。

その像の下にはまた例の如く石碑があり、そこには

「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」

と刻まれていた。

しつこいようだが、私からするとこの碑文の類があまりにしつこいと逆にツッコミを入れたくなると主張したいが、まぁそれはともかく、私もこの碑文の子達と同い年くらいのはずだが、

まぁ…社会のドロドロとした負の部分を何も知らない少年少女達が、こんな夢想的な理想を語るのに目くじらをたてることもないか

と、今に始まった事ではないが上から目線な感想を覚えるのだった。


この像の説明を終えると、前触れもなくまたスタスタとガイドさんが歩いて行くので、私たちも後をついて行った。

そのまま道なりに少し行くと、そこには『平和の鐘』の前に出た。

…また『平和』か…

と心の中で飽きずにまたツッコミを入れた事はない…いや、別に内緒にする事もないだろう。

四本の柱で支えられたコンクリート製のドーム型の屋根に、梵鐘が下げられている。

ガイドさんからの説明によると、この公園内には、八月六日の式典で鳴らされる鐘、訪問客用に常設されている鐘、毎朝原爆の落とされた時刻である八時十五分に鳴らされるチャイムの三つの鐘があるとの事だが、この鐘は訪問客用の物との事だ。

この鐘は誰でも自由に打ち鳴らすことが出来るらしいが、ただし、不心得な観光客の乱打による鐘の破損を防ぐため、鐘の音が終わるまでは再び打ってはいけない決まりがあると教えてくれた。

と、そこまで話を聞いたその時、「では早速誰か代表して鐘を打ってみて下さい」とガイドさんが口にしたその時、「…はい」と静々と前に出て行った女子がいた。紫だ。

因みにというか、これも事前にクラス内で決められたことだった。というのも、これは安野先生が言っていた事だが、本来はクラス全員が鳴らすのが良いのだろうが、それだと打ち過ぎになるし、そもそも時間が掛かり過ぎるというので、毎年この公園に訪れて鐘を打つのは一クラスにつき一人となっているとの事で、その大役は学級委員が務めるしきたりがあるらしい。

その話を聞いて、クラスのうちの何人かは「えー、私も打ってみたーい」と残念がって見せていたが、いざ現地に来て、ふと彼女達の方に顔を向けて見ると、皆一様に神妙な面持ちをしてみせていた。

教室内では軽いノリでそういった態度を取ったのだろうが、どうやらここに来るまでの一連の流れから生じたらしい雰囲気に飲み込まれたようで、おそらく彼女達は自分達が鐘を打ちたがっていたことなどもう忘れてしまっていたことだろう。

と、そんな事を思ってからまた顔を正面に戻し見ると、別に今に始まった事ではないが、一層の真剣味を顔に帯せつつ、ガイドさんに誘われるがままに梵鐘に近づいて行った。

そして、小声でボソボソと説明してくるガイドさんに一々頷いてみせていたが、ガイドさんが離れると、遠目からも分かるほどに一度大きく深く息を吐いてから、恐る恐るといった調子で鐘突き棒を持ち、原子力禁止の思いを込めて原子力マークになっている”つき座”へ向かってゆっくりと突いた。

次の瞬間、少しイメージよりも高めの音程だったが、如何にも梵鐘といった風な音色が辺りにこだました。これもある種特徴的な点だが、一度鳴らすと何十秒間程はずっと音が鳴り響いていて、これは恐らく、この公園に来てからずっと、ハタから見ると嫌味ったらしい生意気な冷めた感想ばかり述べているように写っているであろう私ですら、なんだかんだ場の雰囲気に飲み込まれてか、鐘の音が鳴り続いている間、さっきまで鳥の囀りや、木々の葉の擦れる音などが聞こえていたはずのが消えてしまった感覚に襲われるのだった。


鳴り終えると、一言二言した後でまたガイドさんがさっさと足を進めてしまったので、私たちも余韻に浸りつつ後について行った。

…ふふ、これは今更だろうが、なんだか資料館に始まるこの公園内の話にかなり時間を割いて、さながら観光案内になってしまっているようだが、それは自覚していると無意味な自己弁護を述べつつ、『もう少しだけお付き合いを』とお願いしたいと思う。後もうほんの少しだ。…多分。


私たちはガイドさんの案内のもと、先ほどの車道まで戻ってくると、今度はそこは渡らずに左に切れて、元安川に架かる、その名も元安橋を渡り、気づくとなんだか公園内から出てしまったように思えた。

だが、先ほどまでの雰囲気、空気を引きずっていた私含むみんなは、誰もそれに関して口を聞かずに、しかし無言というわけではなく、当たり障りの無い雑談をしていた。

私たちはというと、鐘を突き終えて戻ってきて、移動を始めた次の瞬間から、皆で一斉に紫に感想を求めた。

「まぁ…うーん…」とそんな私たちの質問に、苦笑を交えつつ紫はこんな煮え切らない返ししかしてくれなかったが、それはまぁ然もありなんだと思った私たちは、からかうのも”ほどほどに”にしてあげて、なんだか市街地の中のような場所を道なりに歩いて行った。

これまた一、二分ほど歩くと、ガイドさんはある医院の前で足を止めた。少し顔を上げると、そこには『島外科』というシンプルな看板が出ていた。

何で医院…いや、病院の前にわざわざ来たんだろう…?と、自分の境遇にも反射的に思いを馳せつつ考えたが、すぐに、事前学習で習った話を思い出した。

そんな私の心内など知るはずのないガイドさんは、ツラツラと私たちが習った通りの話をした。

そう、この病院こそが爆心地であるという話だ。一般的には相生橋が爆心地と捉えられているが、それはあくまでもアメリカ側の考えていた投下目標であったってだけだ。実際にはこの病院の真上で炸裂したらしい。

今も変わらずに開業しており、その病院の横にはこの場所が原爆の爆心地であることを示す、当時破壊されたばかりの街並みの写真が貼られていて、その下に簡単な説明文付きのモニュメントが建てられていた。


この場は爆心地という、普通に考えれば一番の盛り上がりを見せても良さそうな場所なのではあったが、思っていたよりも住宅地風だったというのもあってか、ここに関しては説明もそこそこにガイドさんはまたスタスタと歩みだして行った。


一つ目の小さな交差点を左に曲がると、目の前に鬱蒼と茂る木々の緑がすぐに見えた。どうやら戻るようだ。

”原民喜詩碑”を左に進むと、眼前に、繰り返しの表現になってしまうが、原爆関連では一番有名であろう原爆ドームが姿を現した。

元々は広島県の様々な物産を展示するための広島県物産陳列館として開館され、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。と同時に、行政機関や物資統制組合の事務所としても使用されていたと説明を受けた。

というのも、当時の建築物としては強度がかなり高く、通常の爆撃に十分耐えられると考えられていたらしく、その為に戦時中の行政機関が使用したという経緯があったようだ。

その説明の流れで、実は平和公園内ではないという話を聞いて、本質とは関係のないどうでも良い内容ではあるのだが、何だか今だにその事実が頭に残っている。

ガイドさんの説明を聞きつつ建物をよく見てみると、中央部の丸い屋根の下の部分に構造物が多く残り、その両脇が崩れ落ちた形になっているのがよく分かった。これは、爆発が起きた時に、強烈な爆風がほぼ真上から吹いたせいで、ちょうど丸い屋根が風を上手いこと曲げて風圧が低くなり破壊されず、その代わりに爆風をモロに受けた両側の部分が破壊されたのだと説明を聞いた。

それらの説明を聞き終えると、本日二度目のクラスの集合写真を撮った。一発目の時はそれなりに生々しい話を聞いた直後だったので、皆して神妙な面持ちを見せていたが、変な言い方で恐縮だが、何だか慣れとでもいうのか、勿論底抜けの明るい笑顔では無かったが、それなりに笑みを零しつつ、原爆ドームが何とか全景収まる形で写真を撮られるのだった。


写真を撮り終えると、ガイドさんの出番はここまでと言うので、クラス全員でお礼の言葉を述べて、別れた後は安野先生を筆頭とする先生たちの後をついて行った。


元来た道を戻って着いた場所は、一番初めに訪れた平和祈念資料館だった。時間にして夕方の四時に差し掛かりそうなあたりだった。長々と話してきたが、今回私たちが回って帰ってくるまでの所要時間は約一時間ほどという計算になる。言うほど時間は経っていなかった。

それはさておき…ふふ、こうしてスタート時点に戻って来たので、ようやくここでの”修学”は終わりかと思われたかも知れないが、まだもう一つ、学校側とでもいうのか、その思惑的にはある意味最も大事だと思っていそうなイベントが残されていた。

そのことも事前に知らされて知っていた私たちは、先生にその旨を伝えられても不平を漏らす事なく、ただ淡々と後について行った。

資料館の東館に入り階段を降りて行くと、地下一階に着いたすぐそこにドアが二つあるうちの一つが開け放たれているのが見えた。

ここでも相変わらずに紫率いる私たちの班が一番前を歩いていたので、先生に言われるがままに、そのまま先頭を切って中に入った。

入るとそこは中々に広々とした空間が広がっていた。この資料館自体がリニューアルされたばかりなのだが、メモリアルホールと名付けられているこの場所も、その時に同時にされた様で、どこを見回しても新築感が滲み出ていた。

入って左を見ると、そこにはステージがあり、床に固定された同じ椅子の群れがズラッと所狭しに並んでいて、既に私たちのクラスよりも先に公園内を探索していた他クラスの生徒たちが、それらの椅子に座って雑談をしていた。

そんな様子を眺めつつ、何だかコンクールの本選の時の情景を思い出して、まだ去年の事で一年はまだ経たないくらいだったのに妙に懐かしい気持ちに浸かっていたのだが、そんな心持ちのままに、先生に案内されるがままに空いている席に前から順々に座って行った。

入った順という事で、そのままの順で六人全員が横一列に座れるというのもあって、一番前席の壁際から紫、麻里、裕美、私、藤花、律の順に座った。

お好み焼き屋でのフォーメーションの亜種だ。


席に着いて身の回りを整理していた時、ふと裕美が笑みを浮かべつつ、コンクールの本選の時の話を振ってきた。

ふふ、同じ事思ってたのね。

と我ながら単純だと思うが咄嗟に少し嬉しくなった私は、何も衒う事なく「えぇ、そうね」と微笑みつつ返した。

「あ、そうなのー?」と藤花が瞬時に合いの手を横から入れると、それをキッカケにして、この中で唯一本選を観戦した裕美と私を中心に雑談に花が開きだした。

と、その時ガサガサという音がステージ側から聞こえてきたので、ふと何処かからお年寄りの男性が目の前に設置されている演台の前に立っているのに気づいた。ほぼ全員が同時だったのだろう、私含むみんなは、ピタッとお喋りをやめた。

これも事前の打ち合わせで聞いていたので大方予想が立っていたが、私たちが黙ったのを見て安野先生が紹介するには、当時実際に被災にあった方だとの事だった。

その様に紹介された老人はペコと軽くお辞儀をすると、簡単な自己紹介をし、軽いジャブとして「ようこそ広島までおいでくださいました」の様な話に始まり、軽い世間話を始めた。

コールアンドレスポンスなどもあり、このお陰で和気藹々とした雰囲気がホールに充満したが、空気が温まってきたというところで、老人はおもむろに”被爆体験講話”という本題に入っていった。

そう、最後のメインイベントとは、被災者自身から語られる生の体験談を聞くというものだったのだ。

既に老人は自己紹介の所で軽く触れていたのだが、ここで改めて当時の話を交えつつ語り始めた。

戦時中にどんな暮らしをこの広島の地でしていたか、それに原爆投下の様子などを、ステージの後ろにパワーポイントだろうか、次々と当時の写真を映し出しつつ話を進めていっていた。

その間私たちが何をしていたかというと、資料館内の展示を見学している時にもメモを取っていたワークブックを取り出し、各々が心に留まった箇所を書いたりしていた。

私も漏れなく、この時点でもまだ”良い子ちゃん”の演技は忘れず、それどころか自分で言うのもなんだが、その演技力に磨きが掛かっていると自負しているくらいだったので、”それなりに”当たり障りのない”それっぽい”感想を書き留めていた。

…だが、今までも長々と時折感想として述べてきた様に、実際に被曝を体験した人の言葉を直に聞いているのにも関わらず、やはりと言うか、どうしても一般的に言う冷めた感想しか覚えなかった。

何しろ、この被曝体験者の口から述べられる内容が、今日この日に何度も何度も繰り返し繰り返し、あの手この手と手法はそれぞれ違えど、見聞きしたそのまんまだったからだ。

極め付けは、これも何度も触れている様に、この話は散々義一と宝箱で成されたというのも大きい。

…すぐに反論が来そうなので、それを先回りして返せば、確かに実際に体験してきた人の言葉を聞けば、当然そこにはリアリティが付随するのは当たり前で、それを肌感覚で感じられるというのは貴重な体験なのは間違いない。いくら私や義一、オーソドックスの面々と議論を交わし意見を交換しようと、今している体験には及ばないのではないかと言う人もいる事だろう。

まぁそれは一般論としては頷けない事ではない。…心情的には確かに頷けなくもないのだが、この場を借りてと今更ここまで好き勝手言ってきておきながら保険を置くことも無いとは思うが、それでもやはり、今話を聞いていても、義一たちと過去にしてきた会話、議論、雑誌内での話などから得て固まった私の考えが、覆る事は一切無かった。

むしろ、この被爆者の人が話す実体験はともかくとして、その合間合間に「平和への願いが云々カンヌン」というセリフが挟まれるたびに、今までも何度もその衝動に駆られて、実際に思わず数度はしてしまっていたが、この時も、皆が一斉にステージに顔を向けていたのもあって気が緩んだのか、それ以上に何度も鼻で笑う…うん、語弊が少しあるだろうが、ここは敢えて鼻で笑ってしまったとハッキリと臆面なく言ってしまうとしよう。

こう言うと、今までの私の反応を含めて、「被爆者の方々を侮辱するのか!?」などなどと謂われの無い批判、「戦争を実際に経験していない貴様が一体何様なんだ?」というお言葉などを、さも「自分は人々の自由、平等、人権を大事に想っているんだ」と聖人君子ぶりたい人々から批判されるだろうが、そんなのはまぁ敢えて無視させて頂いて、この時にさっきも触れた義一たちの話を思い出したと言ったが、ここでまたその内容について軽く触れようと思う。



そもそも、この敷地の名前に始まり、そこかしこに”平和””平和”と乱雑に蔓延っているわけだが、ここで、この場を借りて、何故それらに対して一々冷ややかな気持ちになったのかを説明するところから始めたいと思う。

まず率直な感想としてこう思ったのだ。

『平和、平和って連呼しているけど、この人ら…そもそも平和の意味をちゃんと理解しているのか?』と。

「偉そうに…じゃあお前はどうなんだ?」とすぐに聞き返されそうなので、予め答えておこうと思う。

この話はもう何度目になるか、そう、事あるごとにその場面はあったのだが、やはりというか、一番初めは私がまだ小学生の頃の、宝箱での会話の中で出ていた事だった。

…ふふ、当時はまだ小学生だったので、”なんでちゃん”と敢えて平仮名だけで表示しておくが、何をきっかけにしてだったか…まだその時は、八月のうちの一週間ばかりだけ何で会えなかったのか、その説明を聞かされていなかったので、今みたいな先の大戦繋がりだったのか怪しいが、取り敢えず私が何気なく義一に質問をしたのだ。

『平和って何だろうね?』と。

それを聞いた義一は、この手の内容の質問をされると毎回同じ様なリアクションを取っていて、それは今も変わらないのだが、直後は目を見開いて驚いて見せても、その次の瞬間には、心から嬉しそうな、そしてどこかイタズラっぽい子供みたいな笑みを浮かべて答えてくれるのだった。

これもすっかりお馴染み…と思われてると信じているが、義一、神谷さんを始めとする”オーソドックス方式”である、まず語源は何かから話は始まった。

「平和は国語辞典とかだと、『戦いや争いがなく穏やかな状態」とあるけど、日本で『平和』という言葉が生まれたのは、これまた例のよって明治になってから、外来語のPeaceが入ってからなんだ。」

「また翻訳なんだね?」

「そう、その通り。それまでは無かったんだけれど、まぁそれに近い言葉で使われていたのでは『天下泰平』ってのがあるね」

「ウンウン」

「この言葉は幕府によって全国が平定された状態って意味合いで使われていたんだ」

とここまで話すと、義一はこれまた毎度のごとくメモに単語を書き込んだ。見ると、そこには『PAX』と書かれていた。

「元々Peaceというのは、ラテン語のPaxを語源とする単語なんだ。琴音ちゃん、”パクス・ロマーナ”って言葉、聞いた事ない?」

と聞いてきたので、この時の私はまだ小学生というのもあって、義一の方針では中学に上がってから、それまでの文学を中心にするだけでなく歴史に関する本を貸してくれるというものだったので、まだ借りて読んでいなかった私は素直に知らないと答えた。

義一は、その知らないことに対して馬鹿にすることも、変に気を使うこともしないまま先を続けた。

「パクス・ロマーナというのはね、直訳すると『ローマによる平和』って意味で、もっと言えばローマ帝国に力による平定を意味するんだ。まぁ、当時の全盛期の大ローマ帝国を称した言葉だね。ここですぐに、琴音ちゃんみたいな聡い子ならすぐに察すると思うけど、平和というのは、戦争の無い平穏な状態を表すというよりも、強い意志と力を以って平定された状態を意味するんだ」

「なるほどぉ…。何だかみんなが思っているのとはだいぶ違って見えるね」

「ふふ、そうでしょ?実際だからローマ帝国は、自国の安全と平和のために遠征と戦争を繰り返していたんだ。この流れを汲んでね、誰が言ったか、あのチンギス・ハーンの元、モンゴル帝国だね、モンゴル帝国が当時の世界で領地を大きくしてブイブイ言わせてた時期を”パクス・モンゴリカ”、大英帝国の最盛期という意見が多い十九世紀から二十世紀に入るか入らないかくらいまでの期間の、砲艦外交と植民地支配による”パクス・ブリタニカ”と、そして第二次大戦から、これは…ある専門家に言わせれば二十世紀末には廃れてしまっていたとしているけど(今思えば、この専門家とは寛治の事だろう)、一般的には今現在まで世界の警察と嘯いて幅を利かしているアメリカが覇権を広げている状態を”パクス・アメリカーナ”と呼ばれたりしているんだ」

「へぇ」

「とまぁ、Paxを語源とする『平和』も、古来から使われていた『太平』も、力によって平定された状態を表す政治的な言葉だというのが分かるね」

「うん」

「ふふ、同意してくれてありがとう。あ、これに関連してだけれど、流石の今の君でも聞いたことはないかな?…『平和主義』って言葉は」

と聞かれたので、真面目に思い返してみたが、脳内にその単語が見つからなかったので「うん…無いかな?まぁ、字ズラだけで見た限りだと、平和の主義だって事くらいは分かるけど」と返した。

それを受けた義一は、ニコッと薄っすらと微笑を浮かべてから話を続けた。

「ふふ、まぁ内容としては、今君が言ってくれた程度のものしかないから、あながち間違ってはないね。それでも一応説明をすると、平和主義…これも勿論、平和って言葉自体が外来語の翻訳語なんだから、当然平和主義というのも例に漏れないんだけど、これは元々Pacifismって言って、まぁ平和主義そのものなんだけれど、この主義をモットーにしている、つまり平和主義者の事をPacifistと言うんだ」

「ふーん…」

と、この時点ですっかり義一の影響で”メモ魔”になっていた私が、スラスラとイニシャルの部分だけは義一に書いてもらいつつ書き込むのを見て、それが終わったのを確認してから先を続けた。

「でね、このPacifistなんだけれど、日本では一般的に『あいつは平和主義者だ』って言うのは良い事だと思われてるよね?」

「んー…うん、まぁ確かに、私はさっきも言ったけれど、そもそもこの言葉自体に馴染みがなかったからすぐには肯けないけれど、でも多分大抵そうなんだろうなってのは想像がつくよ」

と誰の影響か勿体ぶった言い回しをして返すと、義一はケラケラと軽く明るく笑い、そしてまた続けた。

「あはは。あ、それでね、んー…でもね、実はこのPacifistって言葉…欧米、いや、特に欧州の方の人たちからすると、必ずしも手放しに良い事としては受け止められてないんだ」

「へぇー、それはまたなんで?」

と、これに限らず毎度毎度、両親や教師といった一般的な凡庸な人間たちからは得られないような知識、知恵を与えてくれていた義一の物言いに、この時も変わらずに好奇心に身を委ねながら遠慮なくグイグイと詰め寄った。

そんな私の態度に既に慣れっこだった義一は、社交辞令的に私を宥めつつ先を続けた。

「うん、それはね、例えば欧州の男に『お前はPacifistだな』って言うと、気分を悪くされるか、もしくは怒られる可能性があるんだ。というのもね、これは戦後日本人が思っている平和の考えに近いところからくるからなんだ」

「ウンウン」

「戦後日本人というのは、どんな形であれ世界のどんな戦争にも関わらない、自ら他者と争いを生みそうな物事には近寄らない、無視を決め込む…そんな波風の起こらない状態を平和と称しているわけだけれど、こんな態度の人間を欧州の人たちは毛嫌いするんだ。つまりね、さっきの例文をもう少し具体的に言うとこうなる。『お前はこの間、街を歩いていて、突然暴漢に襲われたんだってな?その時に、お前ときたら、ビビっちまって一緒にいた女房と娘をほったらかして逃げたらしいじゃないか…。お前は…Pacifistだな』とね」

「…あー、なるほどぉ」

と私は一連の内容を自分なりに要約してメモしつつ、急に合点がいった気がして思わず声を漏らした。

「そっか、Pacifist…平和主義者というのは、今の文脈で言うと、表面上は争いごとを拒まないって点で一般的には”良い人”とは見られるだろうけれど、身近な人々が襲われたりとピンチな時には、臆病風に吹かされていの一番に逃げ出すような卑怯者…”クソ野郎”って事なんだね」

と最後の点々部分を敢えて語気を若干強めて言い切った。

…ふふ、私はこう見えて…って、どう見られているのか知らないが、お母さんの影響もあってか所謂汚い言葉、”F言葉”は使わないように…いや、そう意識しないでも使ってこなかったのだが、これ以上の当てはまる単語を思いつかなかったので、ただの例題だったというのにその主人公の行動にイラついたというのもあって、そう言ってしまった。

それを聞いた義一は、私が今言ったように、普段から使わないような言葉を吐いたのを聞いて、さっきとはまた別の意味で目をまん丸にしていたが、プッと一度吹き出すように笑うと明るい笑み混じりに口を開いた。

「ふふ、そう、その通り。まぁ勿論ね、今君自身がキチンと付け加えてくれたように、ケースバイケースで意味合いが変わってくるというのはあるけれど、でも、仮に日本、特に戦後日本だと、平和主義者と称した時に、そこには端的に言って”臆病者”という含みは無いよね?」

「うん、そうだね」

と私は、さっきの気持ちを引きずりつつ、この時同時に、この時点で何度も繰り返し、直接では無いが何かにつけて”戦後日本””戦後日本人”の不甲斐なさ、臆病を誤魔化すために浅いレベルの理屈をペタペタと貼り付けて、結果的に醜い、チープな金細工を作り上げてしまったといった様な話をしてきていたので、この時もそれらの話をしていた時に生じていたモヤモヤとした感情が上乗せして嫌な気分になっていたのもあり、この短い返事に惜しみなく気分を入れ込んだのだった。

勿論、こんな補足はいらないだろうが、毎回そんな話をしてくる義一に対してのものでは一切ない。むしろ、こんな話すらも小学生の私にしてくれていた義一に、その内容の何分の一程度分かって理解していたのか思い返しても怪しいが、ただ一つ、どんなに醜く耳を塞ぎたくなるような内容でも、そんな現実をキチンと話してくれることに対して感謝の念を覚えていたのは確かだった。

とまぁそんな態度を取ってしまったのだが、それも義一にとっては慣れたものだったので、ただ優しく微笑むのみだったのだが、ふと何か思い出した様な顔つきを見せたかと思うと口を開いた。

「ふふ、流石の琴音ちゃん、すぐに理解してくれてとても嬉しいよ。…ふふ、まぁまぁ、そんな怪訝な顔をしないでよ。これ以上は褒めないから。…あはは。さてと、ここでふとね、今までの話に関連して、ある人物が言った言葉を思い出したんだけれど、それも話してみても良いかい?」

「うん、勿論!」

と私が返すと、義一は「ありがとう」とお礼を言ってから話した。

「この人はねぇ…あ、まだ君に貸していなかったかな?ジャン・ジロドゥっていう、十九世紀に生まれて二十世紀前半に活躍した劇作家にして小説家、詩人だったんだけれど」

「んー…」

と私は先程と同じく毎度のごとく当時は当時なりに真面目に思い返してみたが、特に思い至らなかったので「…うん、まだみたいね」と返した。

すると義一は柔和な笑みを見せつつ、私たちの周囲に収まっている大量の本の一角に目を向けると口を開いた。

「このジロドゥって人はフランス人でね、とても非凡な芸術家だったんだけれど、それと同時にフランスの外交官にもなってた時期があるんだ」

「へぇー、”その人も”なんだ」

私はこの時点で、後々に借りるまでまだジロドゥは読んでいなかったが、それでも、それまでに借りて読んできた、読み込んできたあらゆる文学者、作家、それに限らず、作曲家、画家と、ありとあらゆるジャンルの、それも類い稀のない非凡な芸術家たちが、普段いる形而上の世界だけでなく、政治という世俗真っ只中な、そんな形而下の世界でもその才能、才覚を惜しみなく発揮していた様を知っていたので、こう返したのだった。例えを挙げようと思うと多すぎてキリがないが、私個人としてすぐに思い付くのは、今までもほんの一瞬取り上げた、やはりゲーテこの人が代表的だろう。

私がそう返すと、その時の私の心内を見抜いていた義一は特にこれについては触れずに先を続けた。

「そう、この人もなんだ。1930年代に外交官として世界一周をしてるんだけれど、1939年、第二次世界大戦の勃発と同時にね、当時フランスで首相を務めていたダラディエに乞われてね、情報局長になって、ラジオ放送でナチスに対抗したりしてたんだ」

「へぇ」

「だけれどね、君も歴史の授業だとかで知ってるだろうけれど、ナチス率いるドイツ軍がフランスに侵攻するとともに内閣は瓦解してね、それに伴って辞職した彼は、のちに占領されたパリ市内で祖国復帰のためのレジスタンスに協力したり、また戯曲を書いたりしてたんだけれど、その占領下のパリ市内の一角で、六十一歳という若さで亡くなるんだ。…って」

と、話を聞きつつ私はまた興味津々のあまりにジッと熱い視線を送っていたのだが、それのせいかなんなのか、義一ははたと一人で気付いた様子を見せると、少し照れくさげに話を続けた。

「とまぁ、そんな激動の時代を生きた芸術家なんだけど…ふふ、話をググッと戻すね?でね、そんな外交官まで務めたジロドゥは、ある新聞記者に『平和主義とはなんですか?』と聞かれた時に、正確じゃないけど彼はこう返したんだ。『平和主義とは、平和主義者とは、平和を守る為ならいつでも戦う準備のある人間の事である』」

「あー…」

と私はすぐにふと腑に落ちた心地のまま声を漏らした。

「…うん、さっき例に出た”クソ野郎”とは違って、ジロドゥが言った意味でだったら、私も平和主義に賛成だなぁ」

とまた敢えてF言葉気味のセリフを吐いて見せると、義一は今度はただニコニコと笑うのみで、そしてすぐに私に同意の意を示してくれた。

…後はまた確認のためもあって、義一は毎度の通りに前までの話を復唱気味に繰り返してくれて、それがまた理解を深めるのに貢献してくれたが、それは流石にここでは省くとしよう。

それも終わると、少し雑談気味の話に移行した。

「あ、因みにね、中国語で『平和』と書くと、読み方は”ピンポー”て発音になるんだけど、意味としては『性格がおとなしい』くらいの意味になるんだ」

「ふーん、そんな程度の意味なんだ。…ふふ、でも読み方は何だか可愛いね」

「え?…ふふ、確かに可愛げがあるねぇー。あはは!」

と、小学生の私のどうでも良い返しに心から楽しんで笑ってくれた。


…とまぁ、私の数多い悪癖の一つ、簡単に述べるはずが回想が長めになってしまうクセが出てしまったが、これで私の言いたいことが粗方でも分かっただろう。そして、何故この平和記念公園に来て以来、ずっと冷めた考えしか出来なかったわけも。

駆け足ではあったが、これでもまだ十分とは言えないまでも、それなりに誤解を生まない程度には説明したと自分勝手に思うので、これ以上は掘り下げないつもりだが、ここでついでに、今もまだ被爆者の老人が講話を続けているので、それに関連していると思う、一つ大事な物の考え方だと思われる、先ほどの義一との会話の一部分をまた懲りなく引用してみたいと思う。


「…とまぁ、平和というのは元はそう意味で、力で平定されてる状態を示すわけだけれど、確かにね、皮肉で言うんだけれど、戦後日本というのは戦争もないし、のほほんと呑気に過ごせた期間ではあるんだけれどもね、でも今まで議論してきて、それで琴音ちゃんも同意してくれたけれど、この場合の平和というのは、あくまで戦勝国のアメリカに平定されて得られた、括弧つきの平和なわけだよね。つまり、もっと露骨に言ってしまえば、過去約七十年の間、アメリカのProtectorate、つまり、プエルトリコみたいに選挙権を与えられていない保護領に過ぎない、そんな属国の立場に甘んじてきたわけだよ。んー…確かに繰り返しになるけれど、戦後の日本は”Safety &Survival”つまり”安全と生存”は、完璧とは勿論言わないまでも、他国と比べれば成し得ているとも言えないこともない…でも…」

と義一はここで一度溜めてから先を続けて言った。

「それは”奴隷”としての平和だよね。確かに、誰かの奴隷でいた方が、戦後日本人の考える意味での平和は得られるのかも知れない。たまに奴隷の主人、それがアメリカなのか、将来的に中国か他の国になるのか分からないけれど、主人にたまにイジメられたり、頭を押さえつけられたりされたとしても、それでも死ぬよりかは、滅んでしまうよりかはマシだと、自覚しているか深層心理でそう思っているのかはともかく、奴隷状態だろうと何だろうと”これで良いのだ”って、そんな考えを持っている人が大多数だと思う。でも…ふふ、毎度言うように見縊ってるつもりなどサラサラ無いけれど、琴音ちゃん…以前にも何度かしたような質問をしちゃうけど、君は…そんな状態である今の日本に生まれて、生きて日々過ごしている訳だけれど…それをどう思う?」

と最後に問われた私は、一応一旦は自分自身でどう思うかを問い直してみたが、もうこの時点で何度もこの手の話は繰り返してきたし、すればするほど私の考えは変わるどころか固まる一方だったので、

「勿論、そんな状態で怠けて甘んじている国、それに、そんな時代には…正直生きていたくないよ。だって…何のために生きているのか分からないもん」と、一呼吸置いてから、何度目になるか毎回と同じく変わらない率直な想いを述べた。

この私の今の発言…まぁ細いことを言えば当時の発言ではあるのだが、小学生の少女がこんなセリフを吐いたら、大抵の大人たちは慌てふためいて、あーだこーだと中身の無い美辞麗句を並べ立てて、必死に説得にかかるか、頭ごなしに「そんなこと言うもんじゃなりません!」と、「そんな事を言って、両親に申し訳ないと思わないの!?」と叱りつけてくるのが関の山だと思う。

だが当然…と敢えて自分の事のように誇りを持って言いたいが、義一に関していえば、そんな世間に蔓延する綺麗事とは無縁である故に、そんな偽善的な誤魔化しの不誠実な言葉を吐きかけてくることはまず無かった。それは当然、確認するまでもなく今もそうだ。

この時も、別に初めての発言でも無かったので、「ふふ…そっか」と、余計な事を言わずに、ただ柔らかい笑みを顔に湛えつつ、声のトーンも静かながらハッキリと聞こえる口調で返してくれるのみだった。私にとっては、それだけでとても何だか、”救われる”思いがしたものだった。少しクドイだろうが、この手の事も今も変わらずだ。

ついでに、小学生の頃に生じたこの想い…と言うか感想は、今も継続中…いや、日々こうして生きていき、義一やオーソドックスの面々を中心とする人々から学べば学ぶほど、ますます思いを強くしていると補足を入れさせて頂く。


とまぁチラッと言ったように、全体的に凄くクドくなってしまったが、丁度ここで被爆者の老人の話も終わったところなので、話を聞きながら思い巡らせていた内容の掲示もこの辺で終えるとしよう。


…あ、いや、やはりまぁ、私だけの一方的な話で終えるのもフェアじゃ無いとも思うので、一応この老人を立てて、なんで私がロクに話を聞かずに、今までクドクドと述べてきたような事を思い返していたのか、その理由をより鮮明にする意味でもこの講話の内容を改めて少々具体的に触れてみたいと思う。

老人は、「欲しがりません、勝つまでは」という当時流行った戦意昂揚のスローガンを持ち出して、「ご飯をあまり食べられず、贅沢も言えなかった」「だから戦争が終わってからの生活は物も増えてとても幸せになった」という話をしていた。

まぁ…ここだけ見ても、誤解を恐れずに言わせてもらえば、何度も言うように実体験された人の言葉って点では聞くに値するのだが、しかし…まぁそれだけだった。私個人としては、あまりにそこら中にありふれた、紋切り型の内容だったので、思考が”あっち”の方に向かってしまうのも仕方がないのだと自分で弁護をしたい。

それ以外には、「一人一人の力は微力だが、無力ではない」「もう二度と戦争はしてはいけない」「核兵器をゼロにする」「”平和”を守り続けなければならない」などなどと演説をぶっていたが、最後になるというので、ようやく私は頭を現在に戻した。

だが、せっかく戻ってきたのに、その時に目の前で繰り広げられた光景に、またもや辟易してしまった。

これはこの手の講話ではよくある流れなのか知らないが、何やら老人が演台から、「私たちと三つの約束をしましょう」と言い出したのだ。

まず一つは「命はただ一つなのだから、決して粗末にしない」、二つ目は「いじめをしない。差別をしない。命の重さは変わらない」、三つ目は「何か問題があったら話し合う、譲り合う、分け合う」というものだった。

こんな綺麗事のオンパレード…。この中には、厳密にはツッコミを入れたくなる内容もありはするのだが、それをさておいて全肯定するにしても、これらの内容は、一々被爆者の方に言われなくても、これらが大事だというのは、小学生ですら頭では分かっている事だ。

だが、人間というのは老若男女問わずに不完全なシロモノ。頭で分かっていてもそうは出来ないのが人間というものだ。勿論だからと言ってこれらの標語のようなものを言うなと言うつもりは無い。だが、ただそう口にする自分が聖人君子と、自覚しているか無自覚はそれは置いといて、何だかそう思い込んでいる、自分の言葉に酔っている節がありありと見えて、実際に悲惨な体験をされた被爆者の方を貶しめるつもりは再三言ってきたように無いのだが、これは誰が言ったところで私の癇に障るのは、どうしたって誤魔化しようの無い事実だった。


と、この様な思いが一気に頭の中を駆け巡ったのだが、まぁ仕方ないからしているんだと私は信じているが、両隣に座る裕美たち、それに他の学園の生徒たちは、その老人の言葉に一々了解の返事を返していた。

そんな皆の態度を見ていたその時、ふと…実はこの平和記念公園に来てからというものの、いつの間にか前触れもなく姿を現し、そして、まるでシミが徐々に広がっていくように存在感を増してきていたのに気付いていたのだが、ここにきて急に”ナニカ”の”黒さ”が一気に濃くなるのを覚えた。

慣れきっているとはいえ、流石に無視出来ないほどになっていたので、私はいつも通りに、確認するようにそっと胸元に片手を当てた。これもすっかり癖となっている一連の動作だ。

それからゆっくりと胸から手を離すと、今日に限っていっても、自分なりにはここまで一応自制してきたのだから最後までやり抜き通そうと、一応演技派を自覚している私は、小さくではあるが、皆に合わせて老人に返事を返していた。

その間、胸の奥で、クスクスと小馬鹿にしてくるような笑い声が聞こえてくる気がしたのは、気のせいでは無いだろう。

と、この場にいる全員とはまるで関係無いところで、アレコレと一人で”忙しく”していた中、このやり取りが終わると同時に、被爆者体験講話も終わった。

その後は素直なもので、徐々にナニカの気配も引いていったのだが、しかしそれでも、暫くは”居た”痕跡をしぶとく感じるのだった。

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