第8話 義一 (上) 前編

「さぁ、琴音ちゃん」

と、私が靴を履いたのを確認した絵里が声をかけてきた。

「うん」

と私も立ち上がりながら返した。

「じゃあ行ってくるね」

と背後に立っていたお母さんに声をかけた。

「えぇ、行ってらっしゃい」

とすかさずお母さんも返してきた。

そして、私のすぐそばに立っている絵里に顔を向けると

「じゃあ絵里さん、よろしくお願いね?」

と笑顔で言うと「はい、瑠美さん」と絵里も同様の笑みで返すのだった。

今日はあの班決めのあった水曜日から数日後の日曜日。正午過ぎ。自宅玄関だ。

今日は前々から絵里と会う約束をしていた日だった。

今までも、絵里がわざわざお母さんに挨拶しにきたあの日から、何度か公認で会っていたのだが、こうしてわざわざ絵里が迎えに来てくれることは稀だった。

まぁしかし、これに深い意味があるわけではない。「ただなんとなく」と絵里が自分の口でイタズラっぽく言っていたので、まぁそれは本当だろう。


私たち二人は玄関先まで出てきたお母さんに見送られながら敷地内を出た。

空にはまばらに雲が浮かんでいるのが見えたが、それらが太陽を遮ることはなく、まだ四月の下旬に差し掛かろうかという時期なのに、何だか普通に歩いているだけでも汗ばんでくるような、そんな陽気だった。

私は体の線が出るタイプの白と黒のボーダーシャツに、スキニーのジーンズと、なかなか義一の事を言えない様な毎回似たような服装だ。肩には訳あって、例のホワイトデーにも使っていたトートバッグを肩に提げていた。その理由は…後で分かるだろう。

それはさておき、まぁ服装の話に戻せば、ただ近所を歩くだけなのだから、それでもいいだろうという言い分だ。

肩には訳あって、例のホワイトデーにも使っていたトートバッグを肩に提げていた。その理由は…後で分かるだろう。

だが、それも、隣を歩く絵里を見られたら、その言い分が言い訳になってないと思われるだろう。

絵里もハナから今日の予定が分かっていたはずなのだが、それでも、やはりというか、絵里はちょっとした近所歩きでも、私の目からしたらお洒落をしていた。

紺色のビッグ丈のTシャツを、フロント部分だけグレーのキュロットワイドパンツにインしていた。

絵里はそれで手ぶらだったし、まぁシンプルと言えばシンプルなのだが、やはりその背筋をスッと伸ばした立ち居振る舞いなども加わってか、繰り返すようだがやはりお洒落に見えるのだった。

それをそのまま駅の方に歩きながら話すと、絵里は少し照れて見せてから、今度は逆に私の姿を褒めちぎり出した。

まぁ、いつものってやつだ。流石にもういい加減慣れっこになっていた私は、すかさず何もお洒落してない事を理由に反撃に出た。

そんな無意味で生産性のない会話を楽しむと、駅に着いた。

駅ビル内に入ると、絵里御用達のケーキ屋さんに向かった。

着くなり絵里は、手慣れた様子で店員にアレコレとミニケーキを注文し、それを受け取り、そしてそのまま駅ビルを出るのだった。

…そう、話がだいぶ前後してしまって、無駄に意味深にしてしまったが、今日の予定は電車に乗ってどこかへ行くというものではなかった。

まぁ、服装の話をしていた時点で、それらは察していたかもしれない。

さて、私たちはそのまま軽い足取りで土手の方に向かった。

…ふふ、そう、もうお分かりだろう。今日はこのまま義一の家にお邪魔しに行く予定だったのだ。もちろんお母さんには内緒だ。

絵里と今日の予定を話していた時、義一の家に行きたい旨を話すと、すかさず渋ってきたが、やはりというか、例の、与党議員に呼ばれて参上し講演した動画を絵里も見たようで、それについての言いたい事を直接ぶつけてやりたいが為などと言いつつ、私の案に同意してきたのだった。

なので、先ほど服装を褒めながら、私がその中で義一と関係があるのか、からかい調で聞いたのは言うまでもない。

その直後、これも毎度の反応だが、絵里は私にジト目を向けつつ反論してきたが、

「それに…私の服装なんか、あやつは少しも見ちゃいないよ…」とボソッと独り言のように呟いたのが印象的だった。


とまぁ向かう途中でまた義一を絡めて色々と会話をしていると、駅から二十分ほど歩いて義一の住む、パッと見古ぼけた日本家屋に着いた。

玄関前でチラッと絵里を見たのだが、本当は持っているくせに中々合鍵を出す様子を見せなかったので、仕方なく私は財布から鍵を取り出して開けた。

ガラガラガラ…

と、相変わらずけたたましい音を立てて引き戸式の玄関が開いた。

「義一さーん、来たよー?」

とこれまたいつも通りに、姿が見えなくとも声をかけつつ、靴を脱ぎ出したその時、

ガチャっ

と廊下の奥でドアが開かれた音がした。宝箱の方角だ。

まだスリッパを履くところだったので、すぐには見れなかったが、こちらに向かって歩いてくるのが、ギシギシと音のなる廊下の音が大きくなってきたので察せられた。

顔を上げると、そこにはスーツ姿の男性が一人立っていた。見た事の無い顔だ。

どこにでもいる…と言っては失礼かもだが、まぁ街中でよく見るような、見方五十代の男性が玄関先まで歩いてきていた。

その顔は無表情だったが、私、それに絵里に姿を認めると、それでも表情に変化はなく、ただペコっと一度会釈をすると、革靴を履き、絵里の脇を通り、そして振り返る事なくそのまま出て行ってしまった。

私と絵里がその後ろ姿を眺めていたその時、「んーん…」と、聞き覚えがあり過ぎる呑気な声が背後から聞こえてきた。

振り返ると、そこには、私と同じように全く見栄えの変わらない服装格好の義一が、頭を掻きながら宝箱から出てくるところだった。ただ、薄暗い廊下の端に立つ私の位置からも分かるほどに、顔中、いや、全身から疲れが可視化して見えるようだった。

「あ、義一さん…」

と私が声を掛けると、

「あ、琴音ちゃん、よく来てくれたねぇ」

と、義一は見るからに明るい笑みを浮かべながら応えてくれた。…私の見間違いでは無いだろう。

「うん」

と私も、近づいてくる義一に微笑みつつ返すと、「ちょっとー?」と不満げな声が後ろから聞こえてきた。

言うまでもなく絵里だった。

絵里はちょうど靴を脱ぎスリッパを履き終えたところで、片手に持っていたケーキの入った箱を小さく左右に揺らして見せつつ言った。顔にはウンザリげな表情が広がっている。

「私には挨拶もないのー?こうしてわざわざ、またケーキを買ってきてやったってのに…」

「あははは!」

と途端に義一は一人明るい笑い声を上げると、そのまま何も言わずに箱を受け取ると応じた。

「いやいや、絵里、ありがとう。じゃあ僕は準備をしてくるから、二人とも先に部屋に行って待っててよ」

と言い残して、台所のある居間の中に入っていこうとするので「あ、うん…」と絵里は、なんだか拍子抜けというか、弱々しくその背中に返すのだった。

これには、絵里だけではなく、私も意外に思った。

もう少しこの二人の間で、普段通りの軽口合戦が繰り広げられると思っていたからだった。

だが、当時の私はそれと同時に、ただ単純にそれだけ疲れているのだろうと思い、それよりも、軽口が帰ってこなくて、妙に寂しそうにしている絵里に対して、敢えて何も言わずにニヤケて見るのみだった。


先ほどのすれ違った謎の男性の素性が気になってはいたが、それは後で直接聞くことにした私は、絵里を伴って宝箱の中に入った。

入ってすぐ目の先には、重厚な書斎机がデンとあり、その上には何十冊もあろうかと思われる、一つ一つが分厚い書籍群が積み重なっていた。そして、まだこの時点では本の山が邪魔して見えなかったが、雑誌や本の執筆用だろう、ノートパソコンが一台と、その周りを囲む様に数多くのメモの切れ端が散乱しているという、最近ではもうすっかり見慣れた景色だ。

…だが、一つ、これは今までに触れた事がない…というか、私自身この時に初めて見たので、その変化について、義一が来るまでの間を使って話してみようと思う。

この宝箱内の四つの壁のうち、アップライトピアノが設置されている部分などを除くと、三面全てが大量の本で埋め尽くされているのだが、その一部、書斎机の後ろ部分だけにはサッシが一つあり、裏庭に出れる唯一の出入り口となっていて、小学校の時は天気が良い日などはたまにそこから外に出て、色々な話をしたこともあった。

だが、今はそのサッシを覆い隠す様に、横に三、四メートルはあろうかというホワイトボードが置かれていた。ここ最近の事だ。

そこには、黒ペンでアレコレとメモが書かれていたり、多種多様なプリント用紙が貼られていたりしていた。中身としては、何かのグラフだったりの資料だった。

このまだ見慣れない物に真っ先に目がいった私は、無心にそのホワイトボードに書かれているメモだとか資料を眺めていると、ふと隣に気配を感じ、チラッと横を見た。

そこには、すっかりいつものテーブルの前で座っているものとばかり思っていた絵里が、私のすぐ脇で同じ様に眺めていた。

その表情は、なんだか真剣そのものって感じで、それを見た私は声を特に掛けることもなく、またそのメモ郡に目を戻すのだった。


「お待たせ…って」

と背後で声がしたので振り返ると、ちょうど義一がテーブルの上に紅茶セットを置いているところだったが、それを置き終えると、私たち二人の元に歩み寄ってきた。

「ふふ、汚くてゴメンね?」

と、ホワイトボードを眺めつつ義一が言うと、

「別に今に始まったことじゃないでしょー?」

と絵里が顔だけ義一に向くと、ニマッと笑いつつすかさず突っ込んだ。

「えぇー、酷いな…」

と義一が苦笑まじりに返しつつテーブルに向かったので、私と絵里はその後を追った。

「アレって…」

と私はすかさず、席に座りながらも顔だけホワイトボードに向けながら聞いた。

「いったいなんなの?なんか色んな資料のようだけれど…?」

「あー…アレはね?」

と義一も座りながら、同じように顔を向けつつ答えた。

「そう、資料だよー。また次回に出す予定の本のためのね?」

「…えぇー?」

とここで、この中で真っ先に座っていた絵里が、何故か不満げな、いやどちらかというと呆れている風な様子を浮かべつつ口を開いた。

「ギーさん…また本を出すの?」

私も同じ心境だったので、何も言わずに義一を見ると、義一はそんな私たち二人の視線が痛そうに見せつつ、顔をボードに固定しながら、少し照れ臭そうに答えた。

「まぁ…ねぇー。何だかさー?一冊本を書くたびにね、何故か他の出版社から執筆依頼が入ってきちゃってね、それでやむを得なくまた書いてるんだよ」

「…別にさー?」

と、そんな義一の答えが気に食わない、納得いかないと言いたげな口調で、また絵里が突っ込んだ。

「頼まれたからって、何も無理してそのまま引き受けることなんかないじゃない?」

「うーん…そうなんだけれど…」

と、なかなかに痛いところを突っ込まれたようで、ますます苦笑の度合いを強めていたが、それでもニコッと笑って見せつつ答えた。

「んー…ふふ、流石の僕だって、何でもかんでも引き受けるわけじゃないよ?ただ単に、その来る依頼内容というのが、まさに今僕が考えている問題意識と被ってたりするからさ?それで好きで引き受けてるんだよ。…ふふ、まぁ今まで怠けてきたツケが来ているだけだと思えば、安いものだしね」

と最後の方から私を横目で見つつ、優しげな、それでいて意味深な笑みを浮かべていたので、私は何も言葉を発せずに、ただ「…ふふ」とだけ微笑むのみに留めた。

というのも、今義一が発言した内容に、様々な心境が見え隠れしているのを察したからだった。

何故なら…ふふ、今話した様な本の依頼以外に、それとは関係の無いメディアへの露出、つまりはテレビへの出演依頼が引っ切り無しに舞い込んでいるというのだ。何でもその綺麗な見た目の事も理由の半分以上を占めるらしいのだが、それと同時に、世の中に対する見方なり表現の仕方が面白いという理由もあるとの事だ。

これは武史から聞いた。電話でだったが、口調から愉快だと、面白がっているのが分かった。

それを聞いて、断っている義一の様子を想像して一瞬、同じ様にニヤケてしまったが、ふと自分ならどうかと考えた瞬間、思わず苦笑いをしてしまうのだった。

この話を聞いたというのは、義一には今だに話した事がない。まぁ…話す必要もないだろう。

それを何となく同じ様に察しているであろうはずなのに、返事を聞いても、今日はなんだか不思議となかなか引き下がらない絵里が、側から見てると少しムキになっている様子で「で、でも…」と食い下がろうとしていたが、その時、「絵里…?」と今度は義一が呆れ笑いを浮かべつつ声をかけた。

そして、テーブルに置かれた、今だに手付かずの紅茶セット郡に目を一度落としてから、

「そろそろさ…ふふ、お茶にしようよ?冷えてしまう前に」

と言うので、ふとここで我に帰ったかのようにハッとして見せたかと思うと、絵里は一度私に顔を向けてから

「そ、そうね…」

と苦笑まじりに言うのだった。


「じゃあ…かんぱーい!」

「かんぱーい!」

コツン

と、白地に丁度良さげな濃淡の紺だか青だかに見える色合いで描かれた、様々の意匠を凝らされた花の模様の入ったカップを互いに優しく当てあい、無言で何口か飲んだ。

飲み終えて、三人がほぼ同時にカップを置いたのだが、ふとまた絵里が説教(?)する風な雰囲気を醸し出してきたので、それはまた後でして貰うとして、まず先に、さっきから気になって仕方ない出来事について聞くことにした。

「ところでさ…?」

と私は、開けられたままの廊下へのドアの方を見ながら口を開いた。

「ん?何だい?」

「うん、そのー…さ?さっき私と入れ違いに出て行った人…私、知らない人だったんだけれど…一体誰だったのかなって思って」

とここまで言うと、チラッと絵里の方に顔を向けた。

すると、絵里の方でも気にはなっていたようで、同じ気持ちだと言うのを示さんが為か、何も言わずにコクっと頷くと、義一に顔を向けた。

私もその先は言わずに顔を向けると、義一は「あ…うーん」と、途端に、何故だか照れ臭そうに笑いつつ、頭をポリポリと掻きながら口を開いた。

「あー…彼ねぇ…ふふ、いやぁ、変なところを見られちゃったなぁ」

「アレってさ…?」

とここで絵里が口を挟んだ。

「…出版社の編集者さんか何かなの?」

と、先ほどからだが、何だか非難めいた声色を使って絵里が聞くと、それとは対照的に、義一はまだ照れ笑いを継続

させながら答えた。

「アレって…ふふ。…あー、いやいや、彼は違うよ。まぁ、出版社の人は確かにここまでご足労願う事はあるけれどね?」

「じゃあ…」

と、今度は私が横から入った。

「一体誰なの?」

「んー…彼はねぇ」

と義一も、さっきの私のように、廊下に顔を向けつつ続けて言った。

「僕らの雑誌で寄稿してくれてる先生の一人だよ。…いや、一人だったと言うべきかな?」

「…だった?」

とすぐにその単語に引っ掛かった私がすかさず突っ込むと、義一はますます照れて見せつつ、少しバツが悪そうに続けて言った。

「うん、まぁね…。まぁズバッと簡単に言えば、今いた彼は、わざわざ僕らの雑誌のグループから抜けたいって事を言いに来てくれたんだよ。それで、僕としても了承したってわけ。だから”だった”なんだよ」

「え?それはまた何で?」

と、雑誌の中で寄稿している中の一人と言われても、こう言ってはなんだが、さっきの男性のことは見覚えが無かったので、『なんで?』と理由を聞くほどには思い入れなど全く無かったのだが、それでもやはり理由は気になったので質問を続けてみた。

絵里も、さっきから大人しく紅茶とケーキを食べたり飲んだりしているだけだったが、それでも興味を持っているのは雰囲気から分かった。

「それはね…、まぁ理由を端的に言うと、ほら、琴音ちゃん、今僕…それに、武史や島谷さん達の一部で、なんとか今のFTAの流れを止めようとしているでしょ?」

「う、うん」

「えぇ」

と、ここで私だけではなく、絵里も同時に相槌を打った。

不思議と…と言っては悪いが、その顔には真剣味が帯びているように伺えた。

絵里の相槌が意外だったのか、義一は少し目を丸くして見せつつ絵里を見てから、その後で「ふふ」と笑みを一度漏らして、それから話を続けた。

「…うん、まぁそうなんだけれど、僕らのグループの中ではね、実は、その活動について違和感…いや、もっと言えば反発を覚えている人が出てきているんだ」

「…え?なんでまた…?」

と私が心から不思議がると、義一はニコッと目を瞑るように笑ってから先を続けた。

「まぁ、なんて言うのかなぁー…今さっきまでいた彼で言うとね、彼は実は、ある大学で経済学を教えている先生なんだけれど…」

「…あ」

と、この時点で私はすぐに察してしまった。

だが、それを知ってかしらずか…いや、義一のことだから察していただろうが、そんな私には構わずに続けて言った。

「ふふ、まぁ彼だけには限らないけれど、例に漏れずに、今回のFTAには賛成の立場の様なんだね。だからさ、彼の言葉を端的に話すと、要は『そんなあからさまに、正面から全面的に自由貿易を反対するのはおかしい。もしこのまま続けるのなら、ちょっともう付いていけないから、降ろして頂きたい』とまぁ、それはそれは丁寧に言われたんだよ」

とここまで言うと、初めて一口紅茶を啜った。

「だからまぁ…僕としても去る者を追わずと言うか、そうして彼の彼なりの理屈でキチンと説明してもらったから、だったら『良いですよ、分かりました』って穏便に終わったんだ」

確かに…、無表情ではあったけど、でも憤りは感じなかったな…

と、義一の言葉を聞きながら、ふとさっきの一コマを思い返していた。

「でもさ…」

とここで、絵里が、顔中に納得いかないと無言の中でも表現しつつ口を開いた。

「ギーさん、あなたがそのー…尊敬してるっていうか、私淑している、あのー…神谷さんだっけ?あの先生の元でずっと寄稿してたんでしょ?さっきの人」

「あ、うん、そうだよ」

と、ここで呑気に義一がケーキをつつき出したので、私も倣ってケーキを一口口に入れたところだった。

すると、絵里は、おそらくワザとなのだが、行儀悪く手に持ったフォークの先を義一に向けつつ続けて言った。

「だったらさぁ…なんで今更抜けるだとか言いだしたんだろ?だって…あなたの先生だって、今回のことが無くたって、ずっとこれまで自由貿易には反対だったんでしょー?」

「…ふふ」

と、ここで、絵里のワザとらしい乱暴な振る舞いに伴って、その言葉の内容に対して思わず笑みがこぼれてしまった。

なんせ、義一が今年からこんな活動を始めだしてからも、ずっとこんな小難しい話は分からないし、もっと言えば興味が無いと言い張っていたのに、今こうして、どんな心境の変化か知らないが、義一につらつら言ってるのを見て、繰り返すが、なんだか微笑ましく思えたのだった。

そんな私に、漫画的にいえば頭の上にハテナマークを浮かべていた絵里だったが、その絵里に対して、義一も義一で意外そうにしていたが、それでもまた一度微笑んでからそれに答えた。

「んー…ふふ、まぁ…ね。確かに神谷先生はずっと過去何十年にもわたって自由貿易には反対してきたよ。そのー…今の様に、あまりに過度なのにはね?だからまぁ、それだけを知ってる人からすると、何を急に今更…って思うのも当然だと思うけど、でもね?…ふふ、まぁさっきの彼に限らず、僕たち…と敢えて言わせてもらうけど、僕たちの雑誌に集うグループには総勢で約五十名の人間が寄稿してくれてるけど、その中の十人近くはね…経済学者なんだよ」

「へぇ」

と、私と絵里はほぼ同時に声を漏らし、顔をお互いに見合わせた。

以前何かにつけて話したが、雑誌を読んでいると言っても、政策だとか経済の具体的な話だとか、所謂細かい話にはとんと興味が湧かないせいで、義一が取り組んでいるからという理由でのFTAだとか、その関連の話、後は、雑誌内で、アメリカ在住の寛治がコーナーを持っている、国際政治の変容についての話だとか、狭い専門的な内容に限っていえば、その辺りしかキチンと読み込んでいなかったので、実際に経済学者らしき人がいそうだなとは漠然と思っていたが、どれほどの人数がいるのかまでは把握しきれていなかった。

で、今義一から数字を聞いた直後に思った感想は、総勢五十名の中で十人は、意外と多いなといったものだった。

私の表情に、そんな感想が浮かんでいたのかどうか知らないが、義一はクスッと一度笑い続けて言った。

「でね、島谷さんは経済だけでは当然ないんだけれど、それでもその方面で寄稿してもらう事が多いから、敢えて経済方面にジャンル分けさせて貰えば、島谷さん以外の経済面を書いてくれてる彼らも学者の例に漏れずに、自由貿易をとても重視して、いや、重視するだけならまだしも、信奉してしまっているんだ」

「…」

義一さん、神谷さんの周りの人ですらそうなんだ…

「でもね、神谷先生自身がとても面白がってというか…ふふ、先生は自分と反対意見を持つ人を側に置きたがるという、変わった性質の持ち主でね、だからそんな自分と真反対の考えを持った人でも、それなりにブレずに芯を持っているならば、意見が違っても笑って付き合えるという特技があるんだ」

そう言う義一の顔には、無垢な笑顔が広がっていた。

「だからね、相手も何というか毒気が抜かれてというか、意見が自分と違うとわかっていたとしても、それでも今までは先生と付き合ってきたんだ」

「へぇ」

「でもね?」

と義一はここで一度溜めると、顔じゅうに苦笑いを浮かべつつ続けて言った。

「今年の初めにも話したと思うけど、僕が雑誌の編集長になるのと同時に、えぇっと…もう一昨年になるのかな?発端は前政権下で突然湧いてきた話だったわけだけど、例のFTA騒ぎが再燃したというんで、まず最初の仕事だと今まで反対してきたでしょ?」

「うん」

「でもね、まぁちょっと話がこんがらがるかもだけど、先生が引退される前は、まだ今のような具体的な話は出てきていなかったんだ。徐々にグローバル化自体は進行していってたんだけど、それでも水面下というか、ジワジワといった風で、先生としてもグローバル化反対を言い続けながらも、具体的な目に見える敵…とでもいうのかな、倒すべき目標の所在が無かったせいで、どうしてもアヤフヤな議論に終始していたんだ。だからね、そんなもんだから、グローバル化に当然賛成の論陣を張っている、さっき来てた彼みたいな人でも、神谷先生がいくら反対意見を述べても、それほどまで煙たく無かった…というのは僕の予想なんだけどね」

「…」

確かに義一が言った通り、話が前後してわかり辛い事この上無かったが、それでもそのような言い回しには慣れっこだった私は、スンナリとその意見を飲み込めて、そしてその通りだとすぐ納得し、「んー…なるほど」とだけ賛意を示した。

それを見た義一は、私にニコッと一度笑うと、ここまで黙って静かに聞いている絵里にも視線を配ってから話を進めた。

「だから、それまでは別に難なく僕らのグループと付かず離れず付き合えたんだけれど、まぁこうして、今具体的な倒すべきものが見つかって、それに向かって立ち向かっている僕らが、とうとう煙たくなってきたらしくて、それで抜けてく人が出てきたんだよ」

「…抜けてく人が出てきたって事は」

と、ここで絵里がようやくというか、一度味わうように紅茶を一口すすってから口を開いた。

「抜けたのは、さっきの彼だけじゃないのね?」

と絵里が聞くと、義一はすぐに力無い笑みを浮かべて、コクっと一度頷いてから「うん」と返した。

「まぁ現時点でだけど、十人ばかりいた中のうち、さっきの彼を合わせて八人ばかりが出て行ってしまったんだ」

「え…」

と思わず私、それに絵里も声を漏らしたが、それには触れずに義一は力無い笑みのまま続けた。

「まぁだから…島谷さんを入れて、経済学に身を置いている人は二人か三人に減ってしまったんだ。まぁ…他の人も時間の問題だと思うけれどね?」

「…それって、ぎ…」

『義一さん、あなた大丈夫なの?』とすぐに心配になり問い掛けようとしたその時、すぐに言葉を被せてきた人がいた。

言うまでもなく、それは絵里だった。

言いかけた言葉をしまい、思わず絵里の顔を見ると、そこには先程のような、またもや真剣味を帯びせた表情を浮かべていた。声のトーンも、心から心配してる風だった。

「…ギーさん、あなたそれって大丈夫なの?」

とだけ短い問いを投げかけたが、なかなかに雄弁だった。

それを受けた義一も、それだけで絵里が何を聞きたいのか察したようで、なぜか直後に意外と言いたげに目を見開いて少しばかり顔を眺めていたが、その後で、フッと力を抜くように息を吐くと、苦笑と照れを混ぜ合わせたような笑みを浮かべつつ答えた。

「…ふふ、まぁ大丈夫かどうかはともかく、この事については勿論、神谷先生を筆頭に相談はしてみたんだけど、先生は僕に呆れ笑いをしつつではあったけど、でも『まぁ私個人の考えで言えば、別に今君がやろうとしている事は、何一つとして間違っていないのだから、人に抜けられて実務的な意味で困る事はあるだろうけれど、それも織り込み済みなら、君の考える通りに好きにしなさい』って言ってくれてね、他の武史や島谷さん、それに…」

と義一はここで一度止めると、私、それに絵里に微笑を向けてから続けて言った。

「琴音ちゃん、そして絵里、君たちが実際に出会った彼らも同じように同意してくれたから、それだけで僕としては満足なんだよ。…ふふ、仮に先が大変なことが見えてたとしてもね?」

と最後に、まるで純真な子供のような満面の笑みを浮かべるのだった。

それを見た私は、おそらく同程度だと思うが、絵里と同じように心配していた気持ちが半分ほど薄らぎ、つられるようにして笑みを零した。

絵里も、私ほどすぐには反応を示さず、数瞬ほどはジッとそんな義一の笑顔を眺めていたが、「はぁ…」と一度あからさまに呆れたという表現をして見せると、クスッと笑顔を浮かべつつ義一に声をかけた。

「…ふふ、まぁー…ギーさんは昔から、何かやると決めたら周りから何を言われても引かないんだからなぁ…たとえ」

とここで不意に絵里は、顔を背けると、

「…こっちがいくら心配しても聞かないんだから」

とボソッと言い、そのまま間を置かずに紅茶をズズッと啜るのだった。

心配…ふふ。

と、そんな絵里の様子、そして、こんな間近なのだから、聞こえていないはずは無いのだが、それでも知らん顔して、絵里に倣うように続いて笑顔で黙って紅茶を啜る義一の顔を見比べた私も、ただなんとなくこの空間に一つのアクセントを加える意図もあって、クスッと一度笑ってから、黙って少し緩くなった紅茶を啜るのだった。




紅茶のお代わりを取ってくるという義一が部屋を出ていく中、私は今までの流れを一旦切る考えもあって、トートバッグの中から一冊の薄目の冊子を取り出した。

クシャクシャにならないように、背中部分に厚紙があるタイプのクリアファイルの中に入れてきたので、綺麗な姿のままだった。

絵里はケーキを一口食べながら、そんな私の様子を興味深げに眺めていた。

私はそんな絵里に一度ニコッと笑ってから、それをテーブルの空きスペースに置こうとした瞬間、義一がお代わりを乗せた紅茶セットを持って戻ってきたところだったので、一旦冊子を手に取り、義一がそれらを置くまで待った。

置くなり、義一が私、絵里、自分の順に湯気立つ淹れたての紅茶を注ぎこんでる中、「そういえばさ…」と視線を手元に落としつつ、義一、絵里に声をかけた。

「一応二人が見たいっていうから、しおりを持ってきたよ」

「おっ、ありがとう」

「ありがとー」

と義一、絵里がほぼ同時に声を返してきた。

義一が注ぎ終えたのを確認した私が、テーブルの空きスペースに置こうとするのと同時に、義一と絵里が仲良く空いた皿などを傍へと追いやった。

そのおかげで広いスペースが出来たので、結果的にはテーブルのど真ん中にしおりを大きく広げることが出来た。

…まぁさっきから何度もチラッとネタバレしているように、そうこれは、修学旅行のしおりだった。

原色に近い黄色を下地にして、黒字で表紙上部に『修学旅行イン広島』と出ていた。

…そう、ここでようやくというか、隠している、もしくは出し渋っているつもりはなかったのだが、見ての通り、私たちの修学旅行先は広島なのだった。

それ以外の空白部分には、これでもかって程に様々な絵が書かれていた。漫画調だ。

可愛らしくデフォルメされた、学園の制服を着た何人かの女学生が、限られたスペースの中で、実際に観光に行く場所場所の中を笑顔で過ごす様子が描かれていた。

ちなみに、この絵の総合演出は麻里だという話だった。

学級委員になり、それ以降ずっと忙しそうにしていたのは、この修学旅行関連のためだと触れたと思うが、麻里個人には、それとは別というか、関連して、絵が上手いことを見込まれて、学年全体向けのしおりの表紙を任される事になったらしい。それを頼んできたのは、別クラスの担任になっていた、志保ちゃんだったと教えてくれた。

それを聞いた瞬間、例の文化祭を思い出していた私は、その場にいた藤花と顔を見合わせて苦笑いを浮かべたのが言うまでもない。

まぁ総合演出と言ったように、全てを任されたという訳ではなく、表紙は麻里が描いたのだが、中身の所々に描かれている他の絵は、学園に実際にある漫画部の部員のモノらしい。それらは麻里が頼んで実現したとの事だ。

あれから何かにつけて、例えば休み時間などの空いた時などで、麻里がささっと何気無く絵を描いて見せてくれていたが、その完成品もさることながら、それが出来上がっていく様を見てるのも私は好きなのだった。

…っと、毎度のごとく話が逸れてきたので、戻すこととしよう。

このしおり…というか、修学旅行の話は事前に二人にしていたので、その会話の流れで、話の種に、私から持って行くよ的な提案をしたのだ。それで今になる。

「懐かしー!」

と表紙を見た瞬間、絵里が明るい声を上げた。

「…ふふ、それってどのくらい?」

と私が意地悪な笑みを見せつつ聞くと、

「どう意味かなぁー?」

と向かいに座る絵里は、ジト目ながらもニヤケつつ、腕を伸ばして私のほっぺを軽くツマミながら返してきた。

まぁこの手の話題が出た時の予定調和だった。

だが、そんな代わり映えのしない、散々今までも繰り返されてきたやり取りだとはいっても、何度やっても思わずこの後ではお互いに笑い合うのだった。

それを側で眺めている義一の顔にも微笑が浮かんでいるのだった。

「…ふふ、絵里にも琴音ちゃんみたいな時代があったんだねぇ」

「…ふふ」

あまりに義一がしみじみと思い深げにボソッと言うので、プッと一度吹き出してから笑ってしまった。

「もーう…ギーさんは良いんだよぉ…」

と、これまた絵里がほっぺを膨らませつつボヤいて見せたので、余計に拍車がかかるのだった。


それからは、しおりをペラペラとめくりつつ、誰と同じ班になったのかナドナド、そんな話をしていった。

すでに麻里以外の全員と顔見知りになっていた絵里には、すぐに話が通ったが、まだ裕美しか実際に見ていない義一には、まだ写真などを撮っていなかったのもあって、口先ではあったが麻里の事を紹介するのだった。

その流れでというか、班長を決める時のヒト問答にも話がおよび、だいたいその後の二人のリアクションが分かっていただけに、あまり話すのに乗り気になれなかったが、それでもまぁいいかと開き直り、紫たち…というよりも、麻里をはじめとする、まだ会った事はないが、そのほかの一部の生徒たちが、私のことをどう見て、そして、紫たちの中でどういう立ち位置にいると考えてるのかという内容を、この場で他に話す人がいないせいで、バカバカしく思いつつ恥ずかしがりながらも、事の顛末をツラツラ述べた。

そして、話し終える…いや、もう話している最中からも、義一と絵里は、徐々に顔に笑みを滲ませてきていて、いつからかいのツッコミを入れようかと待ち望んでいる風に…私には見えた。

で、それは実際に起こった。

二人は一斉に静かにだったが笑みを零して、それからまず絵里がテンション高めに口を開いた。

「あはは!やっぱりねぇー…うん、去年のコンクール決勝で、あなた達の事を観察してたけど、ウンウン、確かにそんな感じだったよ」

「…はぁ、言うと思った」

と私が大げさに肩を落としつつそう返すと、絵里は「あはは」とまた一度笑ってから続けた。

「まぁ確かにねぇ、琴音ちゃん、あなたが自分でも言ってたけど、目立つのが嫌だからってんで、そうやってワザワザ人の後ろに行くような真似をしてるんだろうけど…」

とここまで言うと、絵里は目を細めるような満面の笑みを浮かべて、続けて言った。

「琴音ちゃんみたいな美少女はさぁー…ふふ、そんな風に影に隠れようとすればするほど、逆に目立っちゃう事があるってのを、自覚した方が良いねぇ」

「…もーう、好き勝手言って」

と、私は相変わらず、ニンマリ顔の絵里に対抗して、呆れ顔を保ちつつそう返したが、何だか癪だったけど、しかし今の絵里の発言は、私のことはさておき、それなりに理が通っていそうだと思えたので、それ以上は何も返さなかった。

「まぁ、琴音ちゃん、さっき言ったのも含めて、あなたの日頃の行いにも問題があるんだよー?いかにもな、その生意気娘っぷりとか」

と、言い終えた瞬間目をギュッと瞑って見せつつ笑うので、

「何よその言い草はー」

と、一応そう返すのが筋だろうと、薄目を向けつつ、しかし口元はすっかり緩みっぱなしで返してしまうのだった。

これらの流れを見て、義一は相変わらず微笑みつつ紅茶を飲んでいた。

「あはは!ほら、生意気ー」

とニヤケつつ言う絵里に対して、ただ黙っていじけたふりを今度はしていた私に向かって、今度は急に肩の力を抜く様な動作を不意にして見せて、

「ま、良いじゃん!あなた達みんなの中でさぁ…」と絵里は底抜けの明るい声で一度声を張ると、途端に声の音量を何度も下げてから、ボソッと意味ありげに付け加えた。

「琴音ちゃんは裏番みたいな立ち位置でいれば」

「あははは」

と、絵里の言葉の直後、「裏番ねぇ」と、どこか妙にツボに入ったのか、義一が笑いながら何度も繰り返しつつそう呟くので、絵里も一緒になって笑う中、なにか恨み言を返してやろうと思ったのだが、それでも今の空気を壊すのもなんだし、実際にこれもいつも通りだが、この二人が揃った時の和やかな空気に絆されて、結局は一緒になって交じり笑うだった。



その後は、しおりを三人で覗き込みつつ、二泊三日の旅行行程が書かれているページを見つつ、絵里の在学時も同じ場所だというので、その時の覚えている範囲でのエピソード、後は義一からのちょっとした場所場所に関するミニ知識を聞いたりと、そんな風でここまでで約一時間半ほどの時間が過ぎようとしていた。



ひと段落して、しおりをトートバッグに入れようとしたその時、二冊持ってきていたノートが目に入り、

あ、そうだ…

と、カバンの中に顔を向けつつ、席から立ち、宝箱内の本棚を眺めて回っていた絵里を上目遣いで目で追った。

義一は空いたお皿の片付けのついでに、また紅茶のお代わりを取りに行っていた。

んー…

と、私はそのままの体勢で一人考え込んでいたのだが、「ん?」とここで、視線に気づいた絵里に声をかけられた。

「どうしたの琴音ちゃん?」

と聞かれた私は「あ、いやぁ…」と、何と答えたらいいのか、それに対してまた考えてしまったその時、義一がお代わりの乗った茶器一式を持って戻ってきた。

「センキュー」

と絵里が軽いノリでお礼を言いながら戻ってくる中、義一がまた紅茶をそれぞれのカップに注ぎ入れてくれた。

その注ぎ出る紅茶を眺めていた私は、絵里が席につくかどうかと同時に、口を開いた。

「…そ、そういえばー…さ?」

「え?」

と、義一と絵里が同時に私に返事をした。

私は一度バツが悪そうに絵里に視線を向けてから、注ぎ終わり席につく義一に顔を向けて続けて言った。

「私さぁ、例の義一さんの講演会を動画でそのー…見たんだけれど」

「あ、見たんだね」「えぇー、アレを見たのー?」

と、これまた二人が同時に声を発してこちらを見てきた。

と、その直後に、声が被るとはお互いに思っていなかったのか、義一は苦笑い、絵里は義一にジト目を向けつつ口を開いた。

「あの例の、見る側を人によってはヒヤヒヤさせる、義一さんの乱暴狼藉がまざまざと出ている動画を」

「…ふふ、絵里」

と、そんな絵里の発言を聞いた義一は、ますます苦笑い度を強めつつ、しかしどこか愉快だと言いたげな調子で言った。

「君は、こないだからそんな感想を言ってるけれど、乱暴狼藉は言い過ぎじゃない?」

「いやいや、ギーさん、前も言ったけど、国会議員先生相手に、あんな好き勝手言うのは狼藉者しかいないから」

と、本人は突っ込んでる風には見せていたが、よく見ると、やはりというか、口の端が上に若干向いているのが見えた。要は、結局はニヤケてしまっているという事だ。

絵里自身も非情に徹しきれず、結局は義一と同じ愉快げな心情を隠しきれていなかった。

…と、そんな二人の様子を眺めつつ、そんな絵里の様子から導き出したのだが、それよりも、こうして普段は興味無いふりをしておきながら、こうして先週の土曜日に投稿された講演会の模様をしっかり見たのみならず、すかさず義一自身に感想を述べているだろう事が、このやり取りから瞬時に察せられたのと同時に、一人「ふふ」と思わず微笑んでしまうのだった。

絵里からの、間違いなくそうだろう、説教風の感想を苦笑いで聞いている義一の様子を思い浮かべていた。



「ふふ…っと、えぇっと…で?」

とそんなやり取りを適当に済ませた義一が、私に微笑みかけてきつつ聞いてきた。

「何の話だっけ?」

「え?あ、あぁ…うん」

と、少し前までは逡巡の気持ちがあったのだが、何だか目の前のホノボノとした光景を見せられて、まぁいっかという心持になっていた私は、カバンの中にある、家から持ってきた二つのノートを上から覗き込んだ。

さて…

どうしようかと迷いはしたが、結局その内の一つだけを取り出すと、そのままテーブルの空きスペースに置いた。

その瞬間、義一と絵里は揃って、何事かと言いたげな顔つきを見せつつ、そのノートを、先ほどのしおりのように上から眺めてきた。

ちなみにこのノートとは…

「…あ、これはね」

と、トートバッグを足元に置いていたので、まだ説明していなかった私は、体勢を元に戻して、ノートを一度手に取り、ペラペラと捲りつつツラツラと言った。

「正直ねぇ…今日みたいな日に、わざわざこれを持ってきてまでするのは、そのー…流石の私もどうかと思ったんだけれど…あっ」

と、そんな独り言を言いつつ目当てのページを見つけると、それを手に持ち顔を落としつつ、しかし視線だけチラッと義一に向けながら続けて言った。

「あった、あった。…って、あのー…ね?ほら、さっきも話が出たけど、義一さんのアレ、私も見たんだけど…疑問点があって、それが解消出来なかったから、んー…ほら、最近の義一さん、例の毎年の八月の時みたいに、忙しくしているでしょ?なかなかこういった時間を作るのも大変だったし、だからこれを機会に質問しようと、そのー…その時にメモを書き入れていたノートを持ってきたの」

と、何だか辿辿しげに喋ってしまったのは、言い訳した様な内容のこともあるが、それと同時に、この場には絵里がいたのも大きかった。

というのも、案の定というか、私が話し始めてしばらくすると、絵里の顔に呆れ度合いが増していき、最終的には顔面中に苦笑いを浮かべていたのだった。

私の言葉を受けていた義一自身はというと、絵里とはまた別の意味で苦笑いだったが、それでもどこか楽しげさを滲ませていて、私が言うのもなんだが、想像通りの展開といった感じで、途中から面白げな笑みを浮かべていた。

「あー…やっぱりね」

と、私の話を聞き終えた義一は、ニコッと無邪気な笑みを浮かべながら言った。

「ふふ、今日会う約束をした時にね、何だか君の様子から、多分あの時の中身について話になるだろうとは思ってたんだよねぇ…ふふ、絵里みたいな感想を言ってくるんじゃなくてね?」

と言い終えてから絵里に向かってニヤケて見せると、それには構わず、絵里はその笑みに見合った口調で私に話しかけてきた。

「…ふふ、もーう…あ、いや、まぁ琴音ちゃんならそんな事もあるかなとは思ったけれど…ふふ、どんどんギーさん的な変人具合を強めていくんだからなぁー」

と絵里は言いながら、テーブルに肘をつき、顎に手を当てながら、薄目がちに、しかし口元はにやけながら続けた。

「まぁ…それが琴音ちゃんの面白さに貢献しているけれど。…ふふ、到底、一般の女学生が自ら提供する話題とは思えないわねぇ」

と言うので、私も少し照れ臭くなりつつも、「ふふふ、ごめんなさいね」と、わざと幼げに笑って見せつつ返すのだった。

それを合図にか、私たち三人はお互いの顔を見合わせつつ笑い合い、それが収まると、義一が早速、カップを手にして紅茶を一口飲んでから声をかけてきた。

「…さてと、じゃあさっそく琴音ちゃん、君の疑問点について、答えられるものがあるなら答えたいと思うけれど…ふふ、絵里?君は少し退屈しちゃうかもだけれど、それでも良いかな?」

と義一が笑みを浮かべつつ話しかけていたが、その中には意地悪げな、何だか相手を試すが如くな要素を滲ませていた。

それを勿論長い付き合いの絵里は敏感に感じ取ったらしく、すぐさまウンザリげな表情を義一に見せつけていたが、だが一度はぁ…っとため息をつくと、私の方に視線を向けつつ、何だか諦観交じりの声音で返した。

「はぁ…まぁね、多分話の内容自体には退屈するんだろうけれど、でも、琴音ちゃん自身が進んで聞きたいって言うなら、私はそれで構わないし、それに…」

とここで一度切ると、先ほどからずっとテーブルに肘をつくという態勢のままだったが、そのままニコッと優しげに笑って続けて言った。

「…ふふ、義一さんと話している時の琴音ちゃんの、好奇心に満ち溢れた楽しそうな表情が、私は大好きだからね。…悔しいけど」

と、最後のセリフだけ、義一からそっぽを向いてボソッと言ったが、その言葉はキチンと届いていたらしく、思わず顔を向けると、義一の方でも私に顔を向けてきていた。

当然今の絵里のセリフには、内容もさることながら、本音だというのもヒシヒシと分かるが故に、私自身もとても嬉しいのと同時に”恥ずく”なってしまったのだが、それでもその直後、義一と顔を見合わせながら笑い合うのだった。


「じゃあ、お言葉に甘えて…」

と、私はさっそく、ノートをテーブルの空いているスペースに置くと、二ページ分の箇所を大きく見開いて、その中のメモした疑問点をツラツラと口にした。

その間、チラチラっと目線だけ上げてみたのだが、義一は義一で、想像通りというか、いつも通りに、とても興味深げにノートを覗き込んできていたのだが、絵里も絵里で、向かいの席から気持ち身を乗り出すように、上体をテーブルに被せつつ、ノートを覗き込んできていた。

何だか慣れていなかったせいもあって、少し照れ臭かったのだが、自分から振ったのだし、それにこの照れは、どちらかというと嬉しいものだったので、そのまま気にせずに疑問点を口にするのだった。

内容を端的に言えば、要はお金についての根本の話だった。そこを義一は、講演内では次回に持ち越し的な話をしていたのだったが、それが今まで気になって仕方がなかったのだ。

話し終えて顔を上げると、ちょうど絵里が見えたのだが、絵里はジッと義一の方を眺めていた。言葉を待ってる風だった。

それを見てから私も義一に顔を向けると、「ふんふん…」と、まだノートに視線を落としていたが、ハッと私の視線に気づいた風な反応を示すと、照れた時のくせ、頭をポリポリと掻きつつ口を開いた。

「なるほどねぇ…ふふ、確かに僕はそこを曖昧に濁していたよね?んー…相変わらず、君って子は、わからない事をそのままにしとくのを嫌がる…ふふ、僕に言わせれば、とても素晴らしい習性を、本当に出会った頃から保ち続けてるねぇ」

「あ、いや…もーう」

と、いつもの無駄に分かりにくく、無駄に過剰な褒めように苦笑しつつ返したのだが、何気に久々というのもあって、純粋な照れも少し入っていた。

「良いからそれはぁ」

「あははは」

と義一は一つ笑い声を入れている中、絵里は何も口を挟みはしなかったが、こちらに向かってただ笑みを浮かべているのが、視界の隅に見えていた。

それがまた照れくさいのを冗長させて来ていたので、それには触れずに、ただ義一の言葉を待った。

「んー…そうだねぇ」

と、義一は何だか落ち着きなく、テーブル周り、宝箱内、書斎机の方、そしてホワイトボードと、小さく唸りつつ視線を周囲に飛ばしていた。

「んー…まぁ、いっか。琴音ちゃん?」

「え?なに?」

と私が返すと、義一は何だかバツ悪そうに書斎机の方を眺めつつ続けて言った。

「普段通りならさ、ここで何かしらメモ用紙なりを持ち出して、そこに色々と書き込みながら議論するところだけれど…」

「あ、うん、そうだね」

「うん、そうなんだけれど…ふふ」

と、義一はこの時点で、自分が思いついたアイディア自体に自ら一人苦笑している様子だったので、受け手の私からすると、なかなかにじれったい事この上なかったが、それでも軽口は挟まずに、その続きの言葉を待った。

「もしよかったら…」

とまた書斎机の方に視線を向けつつ言った。

「あのホワイトボードを使っても良いかな?」

「…へ?」

へ?と思わず声を漏らしたのは、何もその提案自体にというより、何故わざわざお伺いを立てて来たのかという点だった。

まぁでも、改めて考えてみると、前半あたりで触れたように、そこには所狭しにメモ書きなり、紙が何枚も磁石で留められていたりしていたので、まぁじゃあ…というので続けて返した。

「あ、うん、まぁ…ふふ、うん、私としては別に、何だか新鮮だから構わないんだけれど…」

とここで私は、ホワイトボードに指をさしつつ続けた。

「そこに今さ、いっぱいメモが書いてあるけれど…それは良いの?」

と聞くと、義一はそんな私の言葉には特にこれといった感想を持たなかったらしく、「あ、良いかい?」と、何だか微妙に噛み合ってない…というか、ワンテンポ遅れているような返しをしてきた。

「あ、うん…」

と、こんな所でも義一のマイペースっぷりを見せつけられて、呆れるというか普段通りで落ち着くというか、なんとも言えない気持ちに襲われていたが、「…ふふ」と、不意に向かいの席から微笑が聞こえたのでふと見ると、絵里が口に手の甲を当てつつ、何だか妙に上品に笑みを零していた。

極たまに、この様なキャラに似合わない作法をして来ることがあったので、その度に「やっぱり日舞のお嬢さまは違うね」と、自分の事はさておいて、私はついついからかってしまうのだったが、この時は、そんな絵里の様子を見て、ついつい自分も一緒になって微笑んでしまうのだった。

まぁこれは、絵里にも義一にも見られなかっただろうけれど。

というのも、義一はもう既に今は書斎机の方に向かっていて、そして、その後ろにあるホワイトボードを反転させている所だったからだ。

縦向きにぐるっと回ると、その裏からは、何も書かれていない真っ白な、まっさらな状態が姿を現した。

「さてと…」

と義一は、書斎机と一緒に使っている、本革製の中々に趣があり重厚感のある椅子に座った後、ホワイトボード用の黒ペンを手に持ったが、ふと、元の席に座ったままの私、それに絵里の方をチラッと見ると、途端にまた照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。

「…いやぁ、自分で言っといてなんだけれど…このホワイトボードを使って話すとなると、何だか…授業をするみたいで、小っ恥ずかしいねぇ…」

「…もーう、またそんな、妙な謙遜なのか卑屈なのか分からない反応して…もっと軽い調子でやってよー?」

と、思ったままをそのまま口にしてヤジを飛ばすと、「そうよー」と途端に絵里が乗っかって来た。

視線を移すと、絵里の顔には、先程までちらほら見せていた真剣味の顔つきは姿を潜めて、普段通りの、二人が軽口を言い合う時のニヤケ面を浮かべていた。

「ほら…早く琴音ちゃんの疑問を解消しないと、ノンビリと他の話が出来ないんだから!ちゃっちゃと終わらしちゃって?…ね?」

と、最後のダメ押しは、私に視線だけ流しながら言ったので、私と義一は二人同時に顔を見合わせたが、どちらからともなくクスッと笑うと、

「チャチャっと終われるかなぁ…」

と私がニヤケつつ視線を配ると、

「え?…ふふ、うん」

と義一も笑い返してくれるのだった。

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