第2話 夏、おじさん。

とくに目的もなく街をふらついた私は、帰り道でおじさんを拾いました。

おじさんは私の瞳がきらきらと輝いていて綺麗だ、といいました。私にはその言葉の意味が解らなくて、ただこのままでは飢えて死んでしまうだろう……それはなんだか嫌なものだな、と思っただけで、べつにおじさんがなにをしゃべろうが、私がおじさんを拾うことに変わりはなかったのだと思います。

最近の流行で人間をペットとして飼うことは当たり前のことだけど、だからといっておじさんを拾うこともないだろう、みたいにまわりからはよく言われるけど。このとき、おじさんを拾ったことに後悔はしていません。

確かに、女の子とか男の子に比べたらおじさんは不細工でした。おまけに他の人種に比べても臭いはきついし頭ははげている……他の種みたいに生産性のある芸当も皆無で、そのくせ世話をするのはやたらと大変です。おじさんを好んで飼うのは一部のマニアだけだと聞きます。富裕層は深窓の令嬢や男の娘、はたまた男装の麗人なんかを好んで飼うらしいけど、そういった珍しい人種は価格も高ければ、性格も難しい。まあ、だからお金に困らないようなお金持ちが好んで選ぶ人種なんだろうと思います。一般的な家庭だったら男か女。それが普通らしいです。

私はそんな普通っていう概念がよく理解できません。


おじさんの散歩は毎朝欠かさず私が連れて行きます。人とすれ違うと時々笑われます。でも、それは仕様がないと思っています。たまにおじさんは屁をこきます。それはそれは臭いです。なにを食べたらそんな悪臭を放てるのか知らないけど、餌を与えているのは私だ。どこかでつまみ食いをしていたら解らないけど、うちのおじさんは聞いていたようなおじさんとは少し違うようです。私の言うことはちゃんと聞いてくれます。家族の苦言も涙を流しながら頷いています。うちにきてから薄かった頭髪がさらに薄くなったような気がして不憫に感じます。きっと、お母さんとお兄ちゃんが私の見ていないところできつくいじめているのだと思います。探りを入れたことはあるのですが、おじさんはぎこちない笑みで、そんなことはない、きみもご家族もとても私によくしてくれる、と私は言葉の意味は解らなかったがおじさんの作り笑いが悲しくって、そうなんだ、と言ってやることしかできませんでした。

このまま、おじさんを家で飼い続けてもおじさんには辛いだけなのかもしれない。だから、散歩に連れて行くとき、決まって私はリードをおじさんの首にかけることはしません。もしも、その意思があるならおじさんは勝手に一人で走り去るはずだと思うからです。でも、未だにおじさんは私の後をのしのし(腹回りが苦しいんだと思います)歩きにくそうではあるけど健気に付いてくるのです。おじさんに対してこんなときほど、私の忠実なペットなんだ、と実感することありません。おじさんはとっくに私に従属する事を選んでいたのです。そう思ったら、家族に小言を言われることがそんなに苦じゃなく感じられるようになりました。

おじさんにだって感情の許せる相手がいることを知りました。それはお父さんです。おじさんがお父さんと二人でベランダの軒に並んで座っているのを見たことがあります。そのときのおじさんは、何ていうのか……本当の笑みを浮かべているように見えました。私の前では決して見せないような心からの笑みのように感じました。それはお父さんも同じで、二人とも心のそこから笑顔を浮かべて語り合っていたのが印象的でした。おじさんと二人のとき、私には見せてくれないその笑みが頭の中にわだかまって、その時はよく解らない感情でいっぱいでした。その感じたことのない感情が私を嫌な女にしました。その日、私は本気でおじさんのことを罵ってやったのです。

ありがとうございますーご主人様ー!! 私が怒鳴り声で罵るとおじさんは目を潤ませ頬を上気させました。おじさんの顔は悦んでいました。私は意味が解らなくなって更に口汚くおじさんをけなす言葉を吐きました。おう、おう、ありがとうございますー!! 言っていることの意味は解らなかったけど、明らかに私の罵りを受けておじさんは発情しました。私は獣風情が発情することを罵ってやりました。はふぅ。はああーん。あ、あ、あ、ありがとうございます!!

多分、発情期なんだと思いました。そして、私の汚い言葉は逆におじさんを煽るもののようでした。もともとは、お父さんと仲がいい雰囲気だったのが釈然としなくってそうしたわけだけど……私が拾ってきたおじさんなのに! て、気持ちが沸騰しちゃって怒りを覚えたわけで、そんなことをおじさんに向かって当り散らしたって仕様が無いのは解っていました。それだけに、意外な反応を示すおじさんに妙に愛らしさを感じてしまったのです。もう、私のいないところで何をしていようがどうでもよくなりました。私だって、おじさんの前では出来ないことや、言えないことはいくらでもあるのですから。おじさんだって生き物の端くれとは言え生きているのです。そう結論付けると気持ちが穏やかになっていきました。おじさんとお父さん。きっとどこかしら似た境遇を持つ男同士で意気投合する事だってあるのでしょう。

私はもう一言二言、きつくおじさんをなじってあげました。

おう! おう!

それに応えるようにおじさんは目じりをたれて、涙目になって上目遣いに訴えてきます。だけど、今日はもうお預け。これ以上おじさんが喜ぶ言葉を与えてはあげない。その日の夜おじさんはしばらく身を隠して何かをしていたけど、何をしていたのか私が知ることはありませんでした。次の日の朝、おじさんは全身をてらてらきらびかせていました。汗臭くって、いつにもましておじさん臭かったけど、その表情からはスッキリした印象を受けました。


友達がイケメンを飼い始めたから見に来て、というので彼女の家にお邪魔することになりました。私とあと二人の見知らぬ同級生。別のクラスの子のようです。初めて一緒になったので少し緊張します。

友達の家は立派な一戸建てでした。車のガレージがあり、慎ましやかな小庭がある。玄関の前に幾つか監視カメラを備え付けられています。門を潜ってから、石畳の上を進んで、さらに玄関がある家でした。厳しい作りの鍵が、いかにも警戒心の強さをアピールしているようでやり難さを感じました。

私以外の二人はすでに友達の家に上がっていました。私は日直の仕事があって少し遅れてしまったのです。私が居間に入ると見知らぬ二人の女の子が、さっそくイケメンと戯れているところでした。

きみ達って本当に可愛いね。ちょっとあそこの喫茶店でお話しない。イケメンは媚びるような甘ったるい声音で二人の女の子に話しかけていました。私には何を言っているのか理解できません。友達が近づいてきて耳もとで囁きます。ああやって女の子見つけると、あたり構わず求愛行動取るのよ。つまり、あの甘ったるい声は求愛行動の一部らしいのです。

イケメンが私のもとに近づいてきました。ああ、きみも可愛いね。どうかな、これからみんなでお茶をしないかい? 不愉快な気分になるしゃべり方に私は顔が引きつるのを感じました。一体全体なにを言っているのかは理解できませんが、私はイケメンを無理だと思いました。友達はそんなイケメンになれているらしく、ハウスハウス! と声をかけてイケメンを後ろに下がらせるのです。そのときのイケメンの顔がものすごく不服そうでした。そんなことには頓着する様子も無く、友達はイケメンって飼うのが大変なのよ、などと嘯くのです。

友達の飼っているイケメンは服を着ていました。きっちり綺麗な衣裳です。まあ、この娘の家は言うまでもなくお金をもっているから、多少の裕福は簡単にさせてもらえるのだと思います。人間を飼う上で服を着させることが一種のステータスとして機能しているのは知っていました。むろん、私のうちで飼っているおじさんには服を着せていないです。もともと、私のうちがあまり裕福ではないってこともあるけど……買って着せようと思えば着せられはします。だけど、人間っていうペットに対して服を着せるのは窮屈でかわいそうだと思うのです。一般的には人間にあった服というのはたくさんあり、本当は着せてあげるのが人間愛護を考えるうえでは道理だということも理解はしています。だとしても、私はおじさんに服を用意してあげようとは思わないのです。おじさんはあの小汚い身体をさらけ出してこそおじさんだと思うからです。最も自然体であるはずの裸であるべきだと思うのです。それは、なんら恥ずかしさを覚える必要のないことだと思います。責任を負うのは飼い主である私です。何かあるなら総て私に言えばいいことなのです。


しばらくの間は友達と別のクラスの二人の娘たちとお菓子を食べながら話をしていました。話題は、イケメンを飼うことでいかにイケメンが可愛らしいかとか、世話をする苦労話といったものです。その間、イケメンは遠巻きに私たちを見ていることに気がつきました。私にはその目つきが品定めをする下品な視線に感じて仕方がありません。飼い主である友達は慣れているのでしょう、得に気にした様子はありません。とはいえ、四六時中あんな風に人間に見られることに私は耐えられませんでした。私はこの場から少し離れたくなり、友達にトイレを貸してもらえるか声をかけて席をはずしました。しばらく、トイレの個室で落ち着こうと思ったからです。

あまり長くトイレに入っているのも変だと感じて私はこもっていたトイレから出ました。すると、目の前にイケメンがいたのです。近くで見ると私よりかなり大きい。おじさんみたいに四つん這いで歩いていないからより高圧的にも感じました。イケメンは私に近づきます。私は逃げようとイケメンの脇を抜けようとしました。しかし、イケメンは壁に腕を伸ばして私が逃げる道を塞いだのです。一体何を考えているの? 私はパニックになっておろおろすることしか出来ませんでした。イケメンの顔が私の目の前にある。獣臭い息がイケメンの口から吐き出されます。私は壁に背中を押し付けてできるだけ身を縮こまらせました。たしかに、より近くで見たイケメンの顔は凛々しく引き締まっていて格好いいと思いました。だけど、こんな風に私たち飼い主を襲うような気性の荒さがあるとは思いもしませんでした。イケメンはプライドの高い人間だと一般的に言われています。私はこのイケメンを傷つけるようなことをしてしまったのだろうか? 思い返してみても見当がつきません。まさか、心の中で不快に思ったことが解るわけもないでしょう。

イケメンはじりじりとにじり寄ってきます。私は泣きそうになって目を瞑ります。そして、イケメンは耳元であの甘ったるい声で囁いたのです。

ねえ、こんなつまらないところ二人で抜けちゃって、もっといいことしようよ。

私は自然と悲鳴を上げてしまいました。そもそも何を言っているのかも解らないし、こんな風に迫られるのも恐ろしかったです。なにより、このイケメンが取る行動は私にとって気持ちの悪いことばかりなのです。

やがて、私の悲鳴を聞きつけて三人がトイレの方にやってきました。何が起きたのかといぶかしむ別のクラスの二人と、何が起きたのかをすぐに察した様子の友達が見えて私はほっとした思いに胸をなでおろします。しかし、この場を目にした友達は目を吊り上げ烈火のごとく怒りを露わにしたのでした。

この薄汚い淫猥野郎!! うちのイケメンに色目使いやがったな!? 何故そんなことを言うのかが理解できません。イケメンは飼い主の剣幕に怯えてそそくさといなくなってしまいました。取り残された私はその後、散々友達に罵られたあげく二度と友達面してわたしに近づくな! とまで言われ、家を追い出されてしまいました。

悪いのはイケメンのはずなのに、理不尽に私は一方的に怒られた。友達からは怨恨のようなおぞましさすら感じられました。いや、すでに友達ですらないのでしょう……。私は影の掛かった暗い路地裏を泣きながら歩きました。こんな惨めな思いをして、人通りの多い道なんて歩けるはずがありませんでした。


友達を失った悲しみと、イケメンに襲われた恐怖とが私の心をぐちゃぐちゃにかきむしります。泣き腫らした目を家族に見られるのは嫌でした。私は放心した状態で自室に逃げるように駆け込みました。

ベットの下でうずくまって泣いていると、おじさんがくんくん鳴きながら近づいて来るのが解りました。今はおじさんと遊びたい気分ではありません。こんなぐちゃぐちゃな感情のときぐらいほっといてほしいです。しかし、おじさんは私の身体に顔を擦り付けながら甘鳴きいするのです。すると、イケメンに迫られたときの恐怖がよみがえってきて、私は思い切りおじさんを突き飛ばしてしまいました。はうああああああ、ありがとうございます~。おじさんが悲鳴を上げて転がっていきます。

おじさんは関係ないのに……イケメンと同じ人間だと思ったら反射的に拒絶してしまったのです。おじさんはショックを受けたのか、しばらく悲鳴を上げていました。

私は罪悪感を覚えて気分が悪くなってきました。そしてもしも、おじさんもイケメンと同じように私に襲い掛かることがあったら……。そう思うとゾッとしていてもたってもいられなくなりました。私はお母さんとお父さんの寝室に忍び込んで、お母さんが隠している鞭を見つけます。それを持ち出して自室に戻って、おじさんに向かっていきました。

おじさんの目はまん丸に広がっていてとても澄んだ眼差しをしています。それを確認して余計腹が立ってきました。

おじさんには調教が必要だと思いました。

私はお母さんの鞭を使ってむき出しになったおじさんの尻をしたたか打ちつけました。バチンッ!! という小気味いい音が響くとおじさんは苦悶の声を上げます。突然の刺激に身もだえます。いい気味だ、と私は思いました。人間風情が私たちに楯突くなんて、そんな可笑しな話はあってはいけないのだと思いました。私はまだまだ鞭を打ち足りないと感じて赤くなったおじさんの尻を鞭で打ちます。赤い蚯蚓腫れが広がっていくのが解ります。まだまだ、打ち付けます。おじさんの尻は皮が裂けて血がにじみ、尻頬に浮いた汗が飛び散ります。おじさんは苦悶の声を上げます。私は額に汗をにじませながら、まだまだおじさんの尻を鞭で打ちつけました。人間風情が、人間風情が、人間風情が!! すべての理不尽はこいつらのせいじゃないか、とばかりに私の悲しみはいつしか怒りに転嫁していきました。

泣きじゃくるおじさんの尻は裂け、血と汗が迸ります。私の意識はこの辺りから薄らいでいって、その後どうなったのかをよく覚えていません。おそらく、一晩中、おじさんに鞭を打ち付けていたのだと思います。朝、目が覚めるとそこには全身を赤く腫らし、所々皮が裂けて血が滴るおじさんの姿がありました。おじさんはあれだけの痛みを与えられたのにもかかわらず大量の精液を垂れ流しています。赤い血と白濁した精液とが混ざり合って、私の部屋の中は耐え難い異臭を放っていました。おじさんの表情は驚くほど恍惚としたもので、何か憑き物が落ちたような、それでいて満足げな表情で静かに寝息を立てていました。

私は自分で仕出かしてしまったことに嫌悪感を抱きました。薄汚いのは私のほうじゃないか? こんなになるまで調教をするつもりはなかった……。私は自分のことが情けなく感じ、辛くなってきました。そして、おじさんにこんな仕打ちをしてしまったことを深く反省しました。昨日あれだけ泣いたのに又涙がこみ上げてきます。私はおじさんに謝りながら身体を拭いてあげました。傷ついた肌を手当てして、毛布を掛けてあげます。思ったより傷は浅くて私はほっとしました。私はおじさんの隣に寄り添って、ごめんねごめんね、と呟きながら眠りに付きました。そのとき、また~おねがいします~お嬢様~、というおじさんの声を聞いたような気がしたけど、やっぱり何を言っているかは解りませんでした。


お昼過ぎになって私は目を覚ました。今日は学校が休みです。少しほっとしました。ふと横を見ると、すでにおじさんは毛布の中にいませんでした。きっと、お腹をすかせてお母さんに餌をねだりにでも行ったのでしょう。最近、お母さんはしぶしぶながらもおじさんに餌だけはやってくれるのです。

部屋におじさんがいないと解った私は本棚から『人間飼育大全―人との交流ガイド―』を取り出して少し調べ物をする事にしました。

気になったのは昨日起きたイケメンとのことです。私は気が動転して泣いてばかりいたけど、実際あの行動がどういった意味を持つ行為なのかを考えていませんでした。

おじさんという人間を飼っているというのに、他の人種の生態について知ろうとしていなかったのです。人間はそもそも私たちに危害を加えるような種ではないはずなのです。だとしたら、なにか別の意味が、あの壁に手を当てて私に迫ったイケメンにはあったのではないでしょうか? それを知っていたから友達はあんな怒り方をしたのではないかと思ったのです。私はそう推測してページを繰っていきます。

大体理解できました。そして、イケメンの厭らしさを知りました。それは友達も怒るでしょう。……怒るのでしょうか?

あれは『かべどん』というイケメンの求愛行動の中でも最も強い意思表示の一つらしいです。それを私にしたのかと思うと鳥肌が立つのですが、自分の飼っている人間が私に『かべどん』をやったのです。それは友達には許せないことだったのでしょう。人間を飼うもののなかには人間の造形に入れ込むものも少なくないと聞きます。とくに、イケメンを好んでペットにするようなものはその傾向が強いようです。自分ではなくほかのものに……よりにもよって、最高級の求愛行動を取られてしまったのだから彼女の自尊心は傷つき、あまつさえ美醜の判定もくだってしまったのだから、その悔しさは計り知れないだろうと思いました。

求愛行動に恐れおののいてしまった私も私だが、それを知っていたからってあの場でどんなフォローができたであろうか……。考えても出てこない答えに眩暈を覚えた私は考えることを止めました。


なんだかどうでもよくなった私はお腹がすいてきたので下に降りてお昼を食べようと思いました。そこでとんでもないことが起きていたのです。

おじさんがもだえ苦しんでいるのです。人間専用トイレは真っ赤に染まっていました。何が起きたのか訳がわからなく、どうしようもないぐらい不安になります。おろおろするばかりの私に気がついたお母さんが素早く状況を理解したようでかなり味な顔をしていました。

私たちはおじさんを人間専用のケージに入れて人間病院に行くことになりました。おじさんを飼うことが決まったとき、予防接種をしてもらって以来の病院で緊張しました。状況が状況だけに人間ドックにどのような診断を下されるか……考えただけで怖くなってきます。

お母さんは相変わらず渋い顔をしていました。

はあ、はあ、また……あの、ぶっといお注射していただけるですかー。ぶつぶつとうわごとを呟くおじさんも只ならぬ雰囲気に汗をかいています。身体の具合のせいもあると思いますが、おそらくはそれだけではないと思います。

私はおじさんが診察されている間、気が気ではなく嫌な汗が止まりませんでした。どうか大事ありませんように、と祈るばかりでした。

私の想像していたような事態にはなりませんでした。診察は滞りなく済み、人間ドックがいかにもイヌの表情で診断結果をお母さんに伝えます。私ではなくお母さんに言ったのはまずいな、と漠然と不安が募りましたが案の定……。

調教による過度な打撲と度重なる射精による疲労が主な原因ですね。体力の消費に伴って、免疫力が低下してしまい普段脅威になり得ない細菌による炎症が血尿と血便を引き起こしたのでしょう。お薬を出しておきますので、それで数日様子を見てください。収まらないようでしたら再診をお願いします。人間ドックは慣れ親しんだ定型文を読み上げるように朗々とお母さんに言います。そこまではよかったのですが、人間ドックは余計なことを言い出しました。

調教はおじさんにとってはご褒美です。ストレスの発散にも効果的です。しかし、やり過ぎてしまうのは良くないです。人間も生き物ですから……ご理解いただけますよね? お母さま? 娘さんの教育にもよくありませんので……。確かに、調教に特別な意味を感じる方々もいらっしゃいますが、こんなになるまでやってしまうと、またこういった体調を崩すようなことがあります。ですので今後、調教を施すようであるのでしたら節度を持って行ってください。余り酷いようですと虐待というケースも視野に入れなくてはいけなくなります。もちろん、虐待したつもりは飼い主さんたちにはないのでしょうが、おじさんも生き物ですからね。

あはははは、と人間ドックは笑って話を終らせました。お母さんの顔は烈火のごとく赤くなり、何かを我慢するように表情を引きつらせ、身体をふるふると振動させています。これは、大人が尊厳を保つためにとる、あらゆる羞恥にも屈しない、屈してはいけないという最後の矜持です。子どもの私が踏み込める領域ではありません。私が調教をしてしまったばかりに、お母さんにあらぬ疑いが世間に広まってしまいます。あはははは、ではすまねえだろ!? 私はこの後起こりえる惨状を想像して新たな恐怖を抱きました。診察を終えたおじさんは健やかな寝息を立てて眠っていました。


人間病院からの帰りの車内は奇妙な空気が漂っていました。私はいつお母さんに怒られるのか気にし過ぎて、挙動がおかしかったはずです。お母さんは無言の圧力で私を黙らせました。いつになく静かなお母さんが逆に恐ろしく感じました。人間ドックに注意されたお母さんは冤罪です。総ては私の犯した行為です、とはあの場で言い出すことはできませんでした。そうしていたら、お母さんが守ろうとした親としての矜持が破壊されていたでしょう。空気を読んだ結果がこの寒々しく凍った空気です。居心地の悪さに、オーディオに手を伸ばしては引っ込めるという無為な動作を繰り返します。

無言の車内は家まで続きました。おじさんは、きっと寝たふりをしていました。


帰宅して夕ご飯の準備をして、お父さんの帰りを待って、それでもお母さんは無言を貫き通しました。私が話しかけたら口を開くのでしょうが、きっとそれは破滅をもたらします。お母さんは沈黙を貫き通すことで己の矜持と戦っているのだと思います。そんな殺気すら漂う家の空気の中、おじさんは無邪気に振舞うのです。餌に混ぜ込んだ薬にも気づかずがつがつと餌をむさぼります。

やがて、お兄ちゃんが帰宅し、お父さんが帰って来て夕ご飯になりました。今日の食卓は緊張感漂うもので、まったくご飯を食べた気がしませんでした。それどころか、胃がキリキリと痛み出すほどでした。私はそんな空気に耐えられなくなって早々と自室に引きこもりました。一緒におじさんもついてきます。おじさんは今お母さんの心理状態がどうなっているかなんて想像もできないのでしょう、椅子の周りでくねくねと歩き回っていました。身体の調子もそんなに良くないはずです。そんなおじさんをあの食卓に残してくることはできませんでした。

私はしばらくおじさんの薄い頭髪を櫛付けながらぼーっとして過ごしました。残っている宿題がありますが、なんだかやる気が起きないのです。そうして過ごしていると少し心が楽になりました。鞭は? 鞭、まだですか? おあずけですかー? 頭をいじられるおじさんは気持ちよさそうに鳴きます。どれくらい時間がたったのでしょうか、お兄ちゃんがお風呂の用意ができたことを知らせにきました。私は返事をしてお風呂に向かいました。おじさんがついてこようとするのですが流石にお風呂を一緒に入りたいとは思いません。なんとか言い聞かせてやっとお風呂に入ることができました。

お風呂から上がると神妙な表情で腕を組むお父さんに呼び止められました。きっと、お母さんがお父さんに今日の出来事を言ったに違いありません。お風呂でスッキリした気分もすぐに醒め重たい気持ちになります。私の表情があまりに沈んだものだったのでしょう、お父さんは、別に怒ったりしないから……、と言います。しかし、大人はそうやって怒らないと言いながらも結局説教を始める物です。私は椅子に座ってテーブル越しにお父さんと対面します。それから、お父さんはより神妙な表情を作り、こう言いました。

どんな風に責めたんだ?

私は一瞬なにを言っているのか理解できませんでした。お父さんはなにを言っているのだろう? せめる、とは何のことでしょうか? 訳がわからないでいると、

どんな風に、おじさんを責めたんだい?

また、同じことを言います。今度は少し媚びたような、猫なで声で……。そのとき私は、あのイケメンの『かべどん』にも似た嫌悪感を覚えました。お父さんはどうしてしまったのだろう? なんでこんなに気分の悪い感じがするのだろう? せめる、という言葉の意味がものすごく汚らわしいものに感じます。

そうして、お父さんが私に顔を近づけてもう一度口を開きかけたときでした――お母さんが物凄い形相と辺りを吹き飛ばす勢いで駆けつけてきて、お父さんの頭を強かに打ち付けました。お母さんの腕があの鞭のようにしなってお父さんの頭頂部を正確に打ちつけたのです。それはそれは見事な破裂音が炸裂しました。お母さんは呆気に取られている私に構うことなくお父さんに馬鹿なことを娘に訊くんじゃない、と怒鳴りつけます。お父さんは微妙に口元が震えていて、私にはなんだか嬉しそうにしているように見えました。それがますます気持ち悪さを助長します。お母さんがあなたはさっさと上に行きなさいと私を促します。私もその方が良いと思い、そそくさとその場を後にしました。

私はベッドに飛び込んでお父さんの豹変振りを思い返して身震いします。おじさんが落ち着かない様子でウロウロしています。お父様、いいな。いいな。何事かを口にしていますが私には理解できません。なんだか今日は疲れる一日だったな、と考えている間に私は気が付くことなく眠っていました。


私は手に鞭を掴み、おじさんのお尻を強かに叩いています。泣き叫ぶおじさんと興奮も露わに頬を上気させた私がそこにいました。とてもよくしなる鞭を片手に私はおじさんを叩きます。叩いて叩いて、叩き続けるのです。迸る汗に血に、白濁した液体に、全身を汚して厭らしい笑みを浮かべる私。それは、まるで獣の所業です。私とおじさんは獣。獣。獣……。


奇妙な夢を見たような気がして、布団を払いのけて起き上がります。しかし、夢の内容を思い出すことができません。なんだかとても不思議な気分を思い起こす夢だったような気がします。辺りをうかがうとおじさんがくーくー寝息を立てって眠っていました。一体、どんな夢だったのでしょうか。それを思い出すことはできませんでした。両親の寝室の方から誰の物とも付かない絶叫のような雄叫びのような……そんな声を聞いたような気がしました。私は改めて布団を引っ張り上げて、頭まですっぽりと覆うようにして目を瞑りました。瞬く間に、まどろみ私は再び眠ることができました。眠りに落ちる直前に、おおー、という雄叫びが夜のしじまに響いたような気がしました。


翌朝、今日は登校日です。私は手早く支度を済ませて朝食の席に着きます。お父さんは締りのない表情でてらてらしていてなんだかおじさんに似ていました。昨晩なにかあったのでしょうか? お母さんはいつにもましてキリッとした目つきで、そこに油断はありません。凛としたたたずまいはどこか誇らしげですらあります。昨晩なにかあったのでしょうか? お兄ちゃんは部活の朝練ですでに家を出ていました。昨日の張り詰めた空気とは打って変わって落ち着いた弛緩した雰囲気に安心感を覚えました。やがて、お父さんは会社に向かい最後に私が家を出ました。週末のイケメンの件があったので少し気分が優れませんが、そんなことで学校を休むわけにも行かず、うつむいた姿勢で学校まで向かいました。校門を潜ったとき、おじさんに朝ごはんをあげるのを忘れていることに気が付きました。

下駄箱は特に異常はありませんでした。階段をあがって教室に向かう足取りは重いです。きっと友達は未だに怒っているのでしょう……そう考えただけで胃がキリキリとしてきます。空いた教室の扉をくぐり、小さな声でおはようの挨拶をします。近くにいた同級生達がおはようと返してくれました。なんだかそれだけで少し心が楽になりました。すくなくとも、友達はあの一件を朝から吹聴していることはなさそうです。私は自分の机に付いてからクラスを見渡します。それぞれ、一所に集まって談笑している子達や、席で黙々と宿題らしきものを片付けている子、眠たげに教室に入ってくる子などで、朝の教室風景が一目で確認できました。教室の中に友達の姿はありませんでした。まだ、登校していないのだろう、と私は思いました。いつまでもやきもきして胃を痛めるわけにもいかないと思った私は週末にやり損ねた宿題を少しでも片付けようとノートを開くことにしました。

気が付けば予鈴が鳴り、担任の先生が教室にやってきました。友達の机だけがぽっかりと空いています。ホームルームで先生が友達は体調を崩して欠席だと説明しました。それを聞いた私はほっと気が緩みました。しかし、問題が先送りされただけで何の解決にもなっていません。そう考えると、多少なりとも覚悟を決めてきた今日を逃すと二度と友達との問題を解消できないのでは無いかと不安になりました。その日一日、私はそのことばかりを考えていて胃がキリキリと痛むのでした。


それから、一週間が経過しても友達が学校に登校してくることはありませんでした。


ある日の夕方、家に帰ってくるとお兄ちゃんがおじさんと何かをしていました。また、こりずにお兄ちゃんがおじさんのことをいじめているのかと思って注意しに行くと、お兄ちゃんの下衆な笑みが見えました。やっぱりおじさんをいじめて愉しんでいるんだ、と思った私はお兄ちゃんに気が付かれない様に手を振り上げました。しかし、そこで信じがたい物を見てしまいました。

おじさんが笑顔でお兄ちゃんに向き合っていたのです。これには驚かされました。あれだけ、おじさんを馬鹿にしていたお兄ちゃんがおじさんと仲良くしているのです。私は振り上げた拳を静かに下ろしました。お兄ちゃんもおじさんと解り合える事ができるのです。こんなに嬉しいことはありません。少しずつではありますがおじさんは確実に私たちの家族として認められてきているのだと思います。

二人がじっと見つめる先には裸の女性がプリントされた雑誌が広げられていました。どのような形であれ、おじさんが家族の輪に入ることができるのは喜ばしいことです。それがたとえ、河川敷で拾ってきた卑猥な雑誌の貢物で取り入った行為だったとしても、いいのだと思います。

お兄ちゃんは私になど気づくそぶりも見せずに無様な笑みを浮かべています。そんなお兄ちゃんの愚かしい姿を見据える私の視線にいち早く気付いたのはおじさんでした。

おじさんは一瞬ばつの悪そうな笑みを見せますが、私の軽蔑する眼差しに恐れをなしたのか見なかったことにしたようです。お兄ちゃんは雑誌のグラビアに夢中です。おじさんがプルプルと震えながらお兄ちゃんに合図を送りますが、それの意味するところを理解していないようです。

まあ、どのような形であれ、おじさんと仲良くする事はいいことです。ないがしろにされがちだったおじさんに新たな居場所が増えることに異存はありません。おじさんはおじさんなりに巧いことやっているのだということが解って一つ安心することができました。何時もいつだって私はおじさんの傍にいられる訳ではないのです。姑息な手を使ってでも家族に取り入ろうとする姿勢におじさんのたくましさを見た気がしました。

その日を境に、私がお兄ちゃんと話さなくなったのは言うまでもありません。


友達が学校を休み続けて一週間が経ちました。毎朝、緊張しながら教室に入ることにもすっかり慣れてしまい。今ではあの日のことを思い出してもそんなに怖く感じなくなっていました。今日だってまた友達は休みなんだろうなと考えていました。

でもその日、教室の中心には顔に絆創膏と大きなあざをつくった友達の姿がありました。心構えができていなかった私は若干うろたえてしまいます。心臓が変なリズムで鼓動し、息がうまくできません。圧倒的な拒絶を受けたことがトラウマになっているようです。

しかしながら、友達の様子が少し変でした。暗い表情、目は真っ黒に塗りつぶされ、まるで生気を感じられません。顔にできた傷も気になりますが、クラスメートを寄せ付けない雰囲気も異常に感じられました。決して内気なタイプの子ではないのです。イケメンを飼うことからも窺えるように社交的で交友関係も広い方です。そんな子がクラスの中で拒絶のオーラをまとって一人ぽつんと机に座っています。背の曲がった姿は彼女から一切の自信を失わせていました。

私のことに気が付くこともなく、ただ、呆然と黒板を凝視する様は人間の白痴にも似ていました。異常な雰囲気にクラスのみんなも彼女に近づこうとしません。先生は、彼女は体調を崩して休んでいると言っていましたが、明らかにそうでない事がわかります。

私もどう声をかけてよいものか判然とせず、結局自分の席で彼女の背中を見つめることしか出来ませんでした。幸いにも私の席は彼女より後ろの席でした。

一体、友達の身に何が起こったのでしょうか? それを知るのはもう少し後のことでした。


調教はおじさんにとってはご褒美である、ということを言ったのは人間病院の人間ドックだったのですが、私の行った調教はかなり強烈なものだったようです。それがおじさんにとってどれほど嬉しいことだったのか……そのことをもっとよく理解していればこんなことにはならなかったのに……。

それは後に、私が後悔したことなのです……。

最近のおじさんは奇妙な行動を頻繁に取るようになりました。

私の私物を庭にうめてしまったり、決められたトイレで排泄せず部屋の中央に粗相をしたりします。テーブルの上に大便が乗っかっていたときは流石のお母さんもおじさんを外に捨ててくる、と息巻いていましたが、ママさんのお仕置き~ママさんのお仕置き~、とおじさんが抵抗するのでお母さんは変な体力を使わされて疲れ果てていました。結局、私にしっかり躾けておくよう言ってお母さんは諦めました。そのときのおじさんは、ほ、放置プレイとは、こ、高度な仕置きを、と私の言葉をまるで聞こうとしませんでした。

他にもこんなことがありました――お父さんのネクタイを勝手に身に付けたり、お兄ちゃんの部屋をひっくり返して雑誌を散乱させたり、お母さんのおもちゃを咥えて部屋中を走り回ったり、近所に住んでいる方が飼っている女の子に飴を与えようとしたり、おじさんの奇行を挙げていったらきりがありません。かといって人間相手に言い聞かせても学習するわけでもありませんから困ってしまいます。

この頃は私もあの過激な調教が原因でこのような奇行に走っているとは解っていませんでした。それさえ解っていれば対処の使用も有ったと思うのです。

そして、ある日決定的なことが起こってしまいました。

その日、私は大切に大切に取って置いたあるものをとても楽しみにしていました。学校では相変わらず友達が暗い雰囲気のまま話しかけることが出来ずにいて困っていましたが、その日の私はそれを楽しみに一日を過ごしていました。放課後はすぐに家に帰ります。それを早く食べたいが為に総てを顧みない覚悟が私にはありました。

家の扉を開くときは、それはそれは胸が弾む思いでした。鞄を部屋に置くのも構わず、すばやくリビングに行きます。冷蔵庫の中には私の大好物の『とろとろプリン』があるのです。だというのに、そこにはおじさんの姿がありました。なぜ、冷蔵庫の前にいるの? なぜ、冷蔵庫の中身を検めているの? その口の端に付着している透き通った黄色いものはなに?

私は信じられない思いでそこに膝をつきました。何のために私は今日一日を乗り越えたというのか……。私の絶望は簡単に怒りに変わりました。

流石の私も『とろとろプリン』を食べられて許せるほど聖人では有りません。激怒を通り越して最早わけが解りません。あらん限り最上級の罵り言葉をおじさんに浴びせました。うひーうひーありがとござますーお嬢様ー、お互いなにを言っているのかも定かではありません。おじさんは私に罵られるたびに雄叫びを上げます。まるで悦びを享受する姿に私の怒りは増すばかりです。

腕で、脚で、おじさんを叩き、打ち、蹴り付けます。うぃひーうぃひー、もっと、もっと、お慈悲をくださいお嬢様ー、おじさんの泣き叫ぶ様があまりにも癇に障ります。私のプリンを食べたくせに! 人間の癖に! 私の総てだったのに!!

あまりに理不尽な出来事に耐え切れず、ついに私は家を飛び出してしまいました。もっとください。もっとしてくださいー!! おじさんが大きな声で泣き叫びますが、当然ながら私には理解できない言葉でした。

がむしゃらに走り抜けた私の視界に周りの風景は映りませんでした。ただ、ぼんやりと道がにじんでふにゃふにゃにねじくれた町を走ります。私は泣いていました。おじさんは所詮おじさんでしかなくって、人間に優れた知性を求めても仕様が無いことは解ります。でも、だからってこんなのって悲しすぎます。あのプリンを私がどれほど心待ちにしていたのかをおじさんは理解していません。それが更に私をやるせない気持ちにさせます。

息が切れてきて涙で滲んだ視界で、何処にいるのかも解らず歩き続けました。それは覚束ない足取りで、傍から見れば人間の白痴化した姿に似ていたのではないでしょうか。プリンが愛おしい。だけどおじさんがプリンを食べてしまった。どうしてそんな事をしたのか理解できません。

プリン、プリン……私は今は無き『とろとろプリン』を求める亡者と化していました。どれだけそれを、こいねがおうと決して口にする事はできないと理解しているのに、私は惨めに地べたを這いずるのです。コンクリートを舐めてもプリンの味はしません。そしてまた、私の瞳からとめどなく涙が溢れるのです。

やがてどれくらいの時間が経過したのでしょうか、辺りはすっかり暗くなっていました。涙も涸れて、喉がひりひりと焼け付くような感覚が不快に感じられました。そして、ここが何処なのかもわからない事に今更ながら気が付きました。

汚らしく、汚物の臭いが鼻を突きます。薄汚れた路地裏だと思います。私は何かから隠れるようにしてこの狭い路地裏に逃げ込んだようでした。誰にも見つかりたくない、誰も私の気持ちを理解しないのだから、そんな悲観的な感情が無意識のうちにこの場所を選んだのではないでしょうか。疲れ果てて帰る気力もありません。私はきっとこの路地裏で誰に顧みられることなく、朽ち果てていくのだと思いました。

無気力な気持ちが、私から生きる活力を奪っていきます。家に帰ったって、禄でもないお兄ちゃんと、理解なきお母さんと、無意味なお父さんと、憎たらしいおじさんしかいないのです。そう思うと、私はこの路地裏のネズミと供に朽ち果てる方がましに感じてきました。あの理不尽な日常などに帰りたいとは思えませんでした。私はここで干からびて、塵となって消えてしまいたいと思いました。きっと、私一人が消えたところでこの世界には何の影響もないのだろうから……。私はプリンになりたかった、と絶望しました。

そのときでした、路地裏の奥から物音がたのです。私は涙で滲む視界でそちらを見ました。そして、私はぎくり、と背筋に冷たいものを感じて身震いしました。それはこちらをじっと窺っているようでした。暗闇に浮かぶ二つの赤い光が見えました。その光はふらりふらりと宙を漂っていました。

今まさに、絶望の淵に落ちようとしていた私の意識は強い恐怖を覚えました。なにか途轍もなく厭らしい存在がそこには居ました。ひぃ、という悲鳴が涸れた喉から間抜けな音を出します。それはとても大きくて、禍々しい何かでした。路地裏の奥の闇からぬらり、と姿を現そうとしていました。私は咄嗟に逃げようとして、脚をもつれさせてこけてしまいました。今まで力尽きてここに膝を付いていたのです。私の脚はとっくに限界を迎えていたのです。こけた拍子にゴミ箱をひっくり返して、ゴミを頭から被ってしまいました。

やがて、暗がりの中からそれは姿を現しました。ふらふらと覚束ない足取り、生気の抜けた姿――それはあのイケメンでした。だらしなく開いた口からは夥しい量の涎を流し胸元を汚しています。焦点の定まらぬ目は赤々と充血しており、半ば飛び出していました。衣服は汚れ、むき出しの足からは出血しています。あの厭らしいイケメンはさらに嫌悪感を助長して、呆けた表情を浮かべていました。ああ、かわいこちゃんだー。ぼくといっしょにたのしいことしよー。何事かを呟いたイケメンはその瞬間、想像をはるかに超す速度で私の方に近づいてきました。いけないあそびをぼくとしようよー。イケメンは私の顔に口を近づけて、生臭い息を吐きかけます。私は厭らしさに腰を抜かして身動きが取れなくなります。血走った目と、夢遊病者のような覚束ない足取り……それは狂人病の症状に酷似していました。

友達が数日間休んだことに合点がいきました。イケメンは彼女に暴力を振るい逃げ出したのでしょう。逃げ出したイケメンは狂人病を発症し、路地裏を徘徊していた。きっと、脱走したイケメンを探していたのでしょう。そして、彼女のご両親は、警察沙汰になって、公に人間が脱走したことを知られるのを恐れていたのに違いありません。

しかし、今は冷静に状況を分析している暇はありません。私は今まさにイケメンによって辱めを受けようとしているのです。ことの重大性を理解せず、公共機関に人間の脱走を連絡しなかった責任を友達のご両親は問われるでしょう。私という被害者を出してしまった後で……。

イケメンは私ににじり寄って舌で頬を舐め上げました。ああ、おいしい。おんなのこのみずみずしいはだのだんりょく。はやくたべてしまいたいようー。あまりの恐ろしさに私は声すら上げられません。いったいこれから私はどうなってしまうのでしょうか? 想像するのも汚らわしく恐ろしいです。いやだ、いやだ、こんなことで私の人生が終ってしまうなんて嫌だよう。私は声も上げずに泣きじゃくりました。そして、イケメンの手が私に触れようとしました。これで私の人生も終わりだと思うと、たかがプリンでおじさんのことを怒ったのが馬鹿馬鹿しく感じられました。なんで、おじさんだってプリンを食べたかったのではないか? とあのとき考えなかったのでしょう。もう、プリンなんかで怒ったりしないから、最後にもう一度だけおじさんに会いたいと強く願いました。おじさんに会って謝りたいです。謝って、そうしてやさしく頭を撫でてあげたいです。

ごめんね、おじさん。さよならと直接いえないことをどうか許してください。私は目を閉じて少しでも苦しくないようにと、イケメンを意識しないようにしました。

しかし、イケメンがそれ以上手を出してくることはありませんでした。やめろこのやろーなんだてめー。大声を上げるイケメンに驚いて目を開けた私はありえない光景を目の当たりにしました。

おじさんがイケメンの腕に喰らいついていました。それを必死に振りほどこうとするイケメンが罵声を浴びせます。くそ、くそ、なんだてめーこのくそじじー、はなせー。思い切り振り上げられた腕からおじさんが飛ばされていきます。そんな罵声、気持ちよくもありません。お嬢様のご寵愛を賜れるのはわたしだけの特権です。だれにもゆずりはしません。おじさんは勇猛果敢に錯乱したイケメンになおも飛び掛ります。おじさんのタックルがイケメンの腹に突き刺さります。苦悶のうめきをあげるイケメンはおじさんの薄くなったかけがえのない頭髪を無造作に掴むと引きちぎりました。だけど、それでもおじさんの勢いは止まりませんでした。たとえ、なけなしの髪の毛をなくしたとしても、わたしにはお嬢様の仕置きがあります!! 何事かを声を大にして叫んだおじさんは会心の一撃をイケメンにお見舞いしました。その一撃の下イケメンは力尽きて崩れ落ちます。私はなけなしの力を振り絞っておじさんの下へと向かいます。腕でやさしくおじさんを包んだ私はおじさんにすがり付いてまた、泣いてしまいました。あまりの嬉しさに涙が止まりません。ありがとう、おじさん。私は安心してそのまま泣き続けました。

やがて、騒ぎに気が付いた方たちによって私は保護されました。イケメンは狂人病の疑いがあると、保健所に連れて行かれました。お父さんとお母さんが私のもとへ来て抱きしめてくれます。私の身体が無事だと解ると怒られてしまいましたが、イケメンのときのような恐怖はありません。そこには温かいものがありました。おじさんはイケメンとの戦いで髪の毛をほとんど失ってしまいましたが、大事は無いようです。もともとあってないようなものでしたのでおじさんも別に気にしている様子はありません。狂人病に罹った疑いのあるイケメンから受けた傷は髪の毛のほかには見当たらないようです。万が一、直接的な傷などを負っていたらおじさんも狂人病を発症する恐れがありましたが、その心配はなさそうです。

私はおじさんにプリンを食べたことを許してあげました。それから、おじさんを抱きしめてありがとう、と何度も言ってあげました。

どうかお慈悲を! どうかお慈悲をくださいお嬢様!! おじさんはありがとうという意味を理解できないようで、しきりに何事かを訴えていました。きっと、私のことを気遣ってくれているのではないでしょうか。上目遣いのおじさんから温かな気持ちを感じることができました。


あれから数日が経ちました。友達は遠くの学校へと転校していきました。ご両親がイケメンの脱走を通報しなかったことが原因のようですが、狂人病の人間を野放しにしていたことが知れて世間の目が厳しくなる前にこの町を去りたかったのではないでしょうか。

転校していく友達とは仲直りができました。彼女の方からごめんねと謝ってくれました。きっと、彼女も後腐れない別れを望んでいたのでしょう。

私以外にイケメンに襲われたものも居らず、比較的問題は最小限に抑えられたようです。狂人病に発症してからすぐに発見されたのは僥倖だったと警察のかたは仰っていました。

私とおじさんの関係はとくに変わったことはありませんでした。流石に今回のことを少しは重く考えたのか、前よりいたずらをする事は少なくなりました。その代わり、私は定期的に調教をしてあげることにしました。散歩に連れて行ってあげるよりも、こちらの方がおじさんにはストレスの解消になるようで最近のおじさんは常にてらてらしています。もちろん、節度を守った程度の調教をするように心がけています。調教に関してお母さんもなにか言うこともなくなり、お父さんも私に変なことは訊いてこなくなりました。ただ、夜目が覚めると時々、何ものかの雄叫びが聞こえる程度です。

私とおじさんの間には確かな信頼関係が築けています。イケメンから私を助け出したことで家族からの評価も高くなったように感じます。これからますますおじさんとの生活が楽しいものになるという確信が私にはありました。きっといつまでも、私とおじさんは仲良く楽しく生きていくのだと思います。


季節はもうそろそろ、冬になろうとしていました。

別れなんてものはいつだって突然で、思いもよらない処からやってくるのだ、と訳知り顔で言ってみたところでどうにかなるものでもなく私から色々なものを奪っていくのです。


温かかった夏が過ぎ、秋に移ろって、最近では少し肌寒さを感じる日も少なくありません。この頃、おじさんの様子がちょっとおかしいです。おじさんはいつだって機敏な四つん這いで歩くのですが、時々二足歩行する事があります。うつろな表情で空を見上げたまま呆けているときもありました。決められたトイレで排泄が出来なかったり、餌に目もくれないときが続きました。

私はそんなおじさんが心配でお母さんに相談しました。おじさんはなにか病気になってしまったのではないか? もしかして、狂人病に罹ってしまったのではないかと思ったのです。

しかし、病気ではありませんでした。お母さんは静かな声で優しく私に言ったのです。おじさんは寒くなったら理性を取り戻して人間社会に復帰するのだというのです。そのときの私はまったくいっている意味が解りませんでした。

それではまるで、人間とは、ペットである人間には……立派な社会が存在するみたいじゃないですか。

その意味がとても恐ろしいことのように感じて私はおじさんを連れて家から飛び出してしまいました。おじさんは訳も解らずといった感じで私に引っ張られてました。おじさんは二足歩行で私についてきました。

思わず家を飛び出してしまいましたが、お母さんもお父さんも私を追いかけてくることはありませんでした。私は行く先も解らず、日の傾き始めた河川敷を歩いていました。この時間になると外はすっかり寒くなっていました。おじさんはぶるり、と震えると腕を抱えて暖を取ろうとしていました。それでも、素っ裸のおじさんには大して温かくなることはできないでしょう。私は自分の着ていたセーターをおじさんの肩に掛けてあげました。

ありがとう、お嬢さん。おじさんは威厳のある声音でなにか言いました。川を挟んだ向こう岸に渡ろうとする人間が列をなして舟を待っています。それは渡しの舟です。

本当は知っていたのです。私は総てを理解していたのです。季節が変わり寒さが訪れると、人間は理性的になり人間社会に復帰していくのです。それを私は、おじさんと別れたくないために知らないふりをしてきました。そのせいで結局、まともにおじさんにお別れを言うこともできませんでした。

いつしか、私は両目に涙を溜めて、うつむき、そして何も言えずにそこに佇んでいました。おじさんは人間社会に復帰してしまう。それを、笑顔で見送りたかった……最近の私はなんだか泣いてばかりのような気がします。こんなことではおじさんが安心して人間社会に戻ることが出来なくなってしまいます。

私は顔を上げておじさんに向き合います。今までの間、わたしのような人間の世話をしてくれてありがとう。寒さは人間を理性的にする。そう、また暑くなればわたしは裸のおじさんとしてお嬢さんの下へ帰ってくる。それまで、しばしの別れだ。

おじさんは私に手を差し伸べます。私はその手を握って、声を振り絞って言いました。


また会おうね、おじさん!!

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人間マン 梅星 如雨露 @kyo-ka

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