第36話 そしてすべては終わる

「次ですって? 殺人事件の説明はすべて終わったのではないのですか」


 殻橋さんの言葉は、その場に居た全員の思いだった。五味さんは一口タバコを含んだ。


「ああ、オレがここに来てからの殺人事件の説明は終わったよ。だが『一連の事件』の説明はまだ終わってない」


 その挑戦的な笑顔は誰に向けての物だったのか。


「次は下臼聡一郎さんのストーカー殺人事件だ。もちろんこの事件、犯人は捕まっている。実行犯はストーカーの女で間違いない。だがそれを動かしたヤツが居る」

「動かした……?」


 それは風見さんの声。手は動かしながら、顔は五味さんの方を向いていた。五味さんはまた静かにうなずく。


「そう、下臼さんには双子の弟が居る、コイツを殺せばすべてが丸く収まる、とストーカー女に吹き込んだヤツがな。いま世間で騒ぎになってる『双生児事件』を見て思いついたんだろう。マスコミに日月教団の名前が出たとき、地検が近々やってくるのは予想が付いていた。いや、そもそもマスコミにその情報をリークしたのは、犯人だった可能性もある。とにかく検察の目の前で殺人事件を起こせば、自分に嫌疑がかかる危険性は小さい。やるだけの価値はあると踏んだ訳だ。そして、その賭けに勝った。やった事は単純だ。自分たちの部屋にストーカー女を隠し、検察が家宅捜索に入ったのを見て解き放ったのさ。『一と一と三』にこの事件が含まれているのはそういう理由なんだよ」


 五味さんはまたタバコを一口ふかした。


「ちなみに、これはフェアプレー精神でもないし、オレたちにヒントをくれた訳でもない。『一と一と三』をどうしてもこじつけたかった、つまり典前大覚の霊からの予言という体裁を守りたかった犯人の、妥協の産物だ」


「下臼さんは何で殺されたんですか」


 再び問いかけた竹中さんも、私同様圧倒されているように見えた。


「小梅さんと同じ。いや、碧さんも和馬さんも結局は同じ理由だろう。知らんでいい事を知っていた。だから殺した。まあ下臼さんの場合には、それ以前に邪魔だったんだろうがね」

「邪魔?」


 そうつぶやいた殻橋さんを、けれど五味さんは無視した。気付かなかったのだろうか。


「さて、次だ」


 もはや誰も何も問わなかった。五味さんは面白そうに歯を見せた。


「コレで最後だよ。二代目教祖の典前大覚さんが死んだ日の事だ」

「あの日? あの日の事は、私が話した事がすべてでしょう」


 声を上げたのは大松さん。でも五味さんは手を上げて、大松さんを制した。


「あの日、二代目教祖は生死をさまよっていた。集まった信者は、この総本山の建物の周囲を取り囲んでいた。ところで、何で信者の人たちは集まってたんです?」


 五味さんは大松さんを見つめた。大松さんは少し動揺しながら答えた。


「それは、それは朝陽様がなるべく多くの信者に集まるよう願われたと」

「と言って信者を集めたのは誰ですか」


「……若先生ですが」


 五味さんは二回うなずいた。


「結構。そこに三人の人物が呼ばれた。典前朝陽、下臼聡一郎、天成渡のお三方だ。三人は教祖の寝所に入り、そしてスピーカーから大覚さんの最後の『お言葉』が流れ、朝陽さんを三代目教祖に指名した。間違いないですか」


 今度は竹中さんを見ている。


「そうです。間違いはない。それがいったい……」

「残念」五味さんは竹中さんの言葉をさえぎった。「それは間違いなんです」


 唖然とした。竹中さんも、大松さんも、そして私も。五味さんは楽しそうに続けた。


「間違いは二つある。まず第一に、大覚さんが生死をさまよっていたという点。あの日、大覚さんは生死の境になど居なかった」

「そんなはずはありません。父様はずっと病の床にあって生死をさまよっていました」


 私は思わず反論した。だってあのとき父様が死の淵に立っていたのは間違いないのだから。でも五味さんは笑顔で首を振った。


「それは違う」

「何が違うんですか! 父様は間違いなく」


「君の父様はあの日あのとき、すでに死んでいたんだよ」

「……え?」


 何かが、心のどこかで何か大切な物が崩れて行く感覚。音のない静寂の世界で、崩壊が始まった。その世界に、五味さんの声だけが響いていた。


「三人が寝所に入ったとき、すでに大覚さんは死んでいたんだ。おそらく、三人ともそれを事前に知っていた。しかし何故、寝所に入ったのが三人だけだったのか。何故風見さんはついて行かなかったのか。これがオレにはどうしても引っかかった。だが出てきた答えはシンプルだ。打ち合わせ通りの行動を取る事を決めていたから、手話通訳は必要なかったんだ。では三人は何をしたか。マイクのスイッチを入れたのさ。つまり二つ目の間違いは、あのときマイクから流れて朝陽さんを後継に指名した声は、大覚さんの声ではなかったと言う事」


 数秒の沈黙。隣で大松さんか竹中さんが立ち上がったような気配。でもその声は私の耳には届かない。


「その通り。マイクから流れてきたのは、朝陽さんの声でも下臼さんの声でもない。だが大覚さんの声でもない。じゃあ誰なのか。そこに居た信者たちがそれまで一度も聞いた記憶のない、苦しそうな声はいったい誰の物なのか。最後に残った可能性がいかに信じがたくとも、それが真実なんだよ」


 私の目は渡兄様を見ていた。目を閉じている渡兄様を。嫌だ。見たくない。でも目をそらす事が出来なかった。


「まだ信じられないかい。じゃあ一つ証拠を挙げよう。最後の『お言葉』が発せられる前、ハウリングが起きている。覚えてるだろ。ハウリングってのはマイクがスピーカーの音を拾う事で起きる。マイクとスピーカーの角度、もしくは距離によって発生するんだが、あの寝所にはベランダはないから、スピーカーの前にマイクが回り込む可能性はないんだ。ならばハウリングが発生した理由は距離、つまりスピーカーにマイクが近付き過ぎたということ。具体的にはマイクを持ったまま窓際に近付いた。しかし考えなくてもわかるが、死にかけていたはずの大覚さんに、ベッドから窓際まで移動する事は無理だ。ならば当然、『お言葉』を発したとき、マイクを持っていたのは大覚さんじゃない。誰も知らない声を出す事の出来る別の人物。それがすべての事件の真犯人さ」


 ダン! 静寂を打ち破る大きな音。机を叩いた音だと気がついたのは、数秒経ってから。殻橋さんが打ちつけた拳を振るわせていた。


「黙って聞いていれば、何の事はない。結局自分の罪を他人になすりつけるつもりですか」

「代受苦者に犯罪者は居ないってか? それは単なる差別だぜ」


 五味さんは笑っていた。いや、嗤っていた。殻橋さんは火の出るような視線で五味さんを射貫こうとした。


「論理的帰結です。耳が聞こえず、話す事も出来ない者がマイクを持ったからといって」

「何故話す事が出来ないと思った」


「……何」


「天成渡の耳が聞こえないのは事実だろう。だがそれは生まれつきじゃない。十五歳までは聞こえていたし、話していた。ならば、いまでも最低限の発話能力が残っていても、それほど不思議はない。アンタの言う論理とやらは、単なる思い込みなんじゃないのか」


「もし仮に」それは風見さんの声。「それが事実だとしましょう。だとしても、犯人扱いとはどういう事です。渡さんが何故犯罪になど手を染めなければならないのですか」


 風見さんの手は動いていなかった。渡兄様に知らせたくなかったのかも知れない。五味さんはタバコを吸おうとして、もうそれがほとんどフィルターしか残っていない事に気が付き、もったいなそうな顔で灰皿に押しつけた。


「教祖の立場継承についての事は、その場に居た三人の秘密だった。いや、正確には風見さん、アンタも知っていただろうから四人の秘密だな。それが単なる秘密で収まっていれば、何の問題も起きなかったろう。だがそうは行かなかった。下臼聡一郎が朝陽を脅迫したからだ。信者にバラされたくなかったら自分と結婚しろ、とね。そこで天成渡は考えた。下臼を排除するにはどうしたらいいだろう。そう言えばストーカーに悩まされていると聞いた事がある。利用できないだろうか」


 私は下臼さんが死んだと聞いたときの朝陽姉様の顔を思い出していた。「そう」とだけ無表情に口にした姉様を。


「憶測ですね。どこにそんな証拠があると言うのですか」


 風見さんはもちろん納得していなかった。でも五味さんは平然とこう言った。


「物的証拠なんぞ何もねえよ」

「だったら」


「だが状況証拠なら、あるかも知れない」

「状況証拠?」


「ああ、『自白』ってヤツがな」


 五味さんの目は朝陽姉様を見ていた。


「教祖様と天成の旦那に聞いちゃくれねえか。この先の事を喋ってもいいのか、ってよ」

「それはどういう」


 言いかけた風見さんの腕を渡兄様が引っ張った。説明しろというのだ。風見さんは少し躊躇しながら、手話で五味さんの言葉を兄様に伝えた。朝陽姉様は無表情に机を見つめている。でもその顔は青ざめても見えた。


 五味さんはしばらく退屈そうに待っていたものの、不意にこう言った。


「手話に時間のかかるのはわかるが、教祖様は返事くらいしてくれてもいいんじゃねえの」


 朝陽姉様の視線は机から上がらなかったけど、声はしっかりして聞こえた。


「何も答える事はありません」

「あっそ。いや、オレは別にいいんだぜ、この先の話を


 五味さんのその言葉に、姉様は明らかにうろたえた。顔を上げ、五味さんをにらみつけると、次にすがるような視線で渡兄様を見つめた。兄様は難しい顔で風見さんの手話に集中している。その様子に殻橋さんも声を上げられない。静寂が世界を覆い尽くしていた。それを破ったのは。


「聞かせてください」


 それは私自身も驚いた、私の口から出た言葉。


「その先の事を聞かせてください。五味さん、私に言いましたよね。真実が見たいなら考え方を変えろって。だからここに来たんです。考え方が変えられたかどうかはまだわからないけど、前に進まなきゃ変われないと思います。私に真実を見せてください。私を前に進ませてください」


 五味さんは笑っていた。何だか嬉しそうに見えたのは、気のせいだったろうか。


「だってよ。どうする、教祖様方」


 五味さんが決断を迫り、朝陽姉様が泣きそうな顔で渡兄様を見つめた。兄様は苦悩の表情を浮かべていた。そして。


 渡兄様は立ち上がった。二本の足で、車椅子から降りて立ったのだ。


 大松さんと竹中さんは、溜息とも悲鳴ともつかない声を漏らした。殻橋さんも目を丸くしている。


「どういう事ですか、これは!」


「そこまで驚くこたあない」五味さんは一人平然としていた。「車椅子に乗ってる人間が立てないなんてのも、ただの思い込みでしかない。もっとも、コレは周りがそう思い込むよう、十五年の時間をかけて積み上げられたトリックだ。騙されるのも仕方ないんじゃないか」


 殻橋さんはまだ信じられないといった顔で五味さんを見つめた。


「あなた、トリックはないと言いませんでしたか」


「そうだな、アンタには謝罪しなきゃならん。天成渡の声が出せる事と立てる事、二つの思い込みを利用した目くらましは、トリックと言えるだろう。まあ、立てるだけじゃないけどな。首も絞められるし、死体や絵を持ち上げる事も出来る。事務所からエレベーターにまで走る事だって出来る。その事にオレも含めて誰も気付かなかった。それもこれも、十五年という時間の積み重ねの結果だ。まったく恐れ入るよ」


「まさか、十五年も前からこれを計画していたと言うのですか」


 殻橋さんの声に恐怖が垣間見えた。でも五味さんは苦笑して首を振る。


「それはない。さすがに計画は最近立てられたもののはずだ。だが、自分の秘密をいつでも使えるように準備はしていたのさ。すべては教祖様のためにな」


 渡兄様と朝陽姉様以外の目はすべて、姉様に集まった。でも姉様は五味さんの言葉の意味を理解していなかった。ピンと来ていない、そんな顔で疑問の視線を五味さんに送る。五味さんは呆れた。


「おいおい何だよ。アンタ気付いてないのか」

「え?」


 そのとき、突然大きな音が響いた。入り口のドアからだ。誰かがドアを外から叩いている。ドアの前にいた道士の人が「おい、何だ」とドアを開けると、そこから人影が中に飛び込んできた。見れば、ジロー君だ。


「おいコラ、待て」


 道士の人たちが三人がかりでジロー君を捕まえた。でもジロー君は無表情に、機械のように、前に進もうとしている。


「いいんだよ、そいつを通してやってくれ」


 五味さんはそう言うと、殻橋さんを見た。殻橋さんは不審げな顔を見せたものの、相手が代受苦者だからだろうか、道士の人たちに声をかけた。


「通しておあげなさい」


 解放されたジロー君は、五味さんの元に駆けて来た。そして右手を差し出す。そこにはタバコが一箱握られていた。五味さんはそれを受け取り、ニッと笑った。


「おう、ご苦労さん。で、もう一つのお使いは出来たか」


 ジロー君は左手を突き出した。握られているのはスマホ。五味さんは言った。


「相手は何て言ってた。出せ」


 するとジロー君は口を開いた。


「すぐに警官隊がそちらに向かう。君は安全なところに隠れていなさい」


 初めて聞くジロー君の声には、中年男性のような響きがあった。


「そういう訳だ」


 五味さんの言葉に、殻橋さんが怪訝な顔で応えた。


「どういう訳ですか」


「建物の外に出たんだよ。もっと正確に言うなら、ジャマーの効果域外に出たんだ。代受苦者だから、誰も止めなかったんだろう。そこで警察に電話させた。『刑事が二人殺される』ってな。県警の捜査一課に連絡がついたって事だ。もうすぐここに警官隊がやって来る。どうする。逃げるんならいまのうちだぜ」


 五味さんはタバコを一本取り出し、口に咥えた。


「我々が逃げる前に、あなた方が殺されるかも知れないとは考えませんでしたか」


 殻橋さんは凄んで見せたが、五味さんは鼻先で笑った。


「いまさらどういう理由で殺すんだ。自分が馬鹿にされたから、とかカスみたいな理由で人を殺すのか。プライドの塊みたいなアンタが、道士の見てる前で。まさかな」


 そう言ってタバコに火を点けた。


 朝陽姉様が殻橋さんを見つめている。その目には涙が浮かんでいた。


「逃げるのですか?」

「いや、それは」


 押し黙る殻橋さんを見て、五味さんは煙を吐いた。


「連れて逃げりゃいいだろうよ、面倒臭え。アンタらデキてるんだろ?」


 殻橋さんの顔に赤みが差し、朝陽姉様も真っ赤な顔でうつむいてしまった。そこで私はようやく意味を理解して、唖然とした。文字通り開いた口がふさがらなかった。


「ここまで来て、宗教がどうの世間体がどうの言わんでくれよ。ホレたハレたがやりたいなら、とっとと逃げてくれ。オレだって面倒臭いのは……」


 そう言いかけた五味さんの言葉を、絶叫がさえぎった。全員の視線がそこに集まる。叫び声を上げたのは朝陽姉様ではない。風見さんだ。


 立ち上がったその右手には銀色の光。どこから出したのか、ナイフが輝いていた。そして朝陽姉様をにらみつける。怒りと殺意に満ちた視線で。突然の事で理由もわからず、恐怖に身を固くした朝陽姉様に、風見さんは飛びかかった。


「朝陽ィッ!」


 右腕が振られ、ナイフは音もなく胸に突き立った。


 二人の間に飛び込んだ、渡兄様の胸に。


 世界が止まった。音もなく静寂の中に停止した世界で、ただ床に倒れた渡兄様の手だけが動いていた。しかし、その手もやがて止まった。


「どうして……どうして私では駄目だったのですか……どうして」


 震える風見さんの声が私の耳に届いた。

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