第6話 恋人嬢(下)
休日前の仕事を手早く済ませ、退勤した私はネオン街に繰り出した。この日は
この日の食事は大衆居酒屋よりは少し値の張る、落ち着いたモダンな雰囲気の居酒屋だ。和食がメインで、他に創作料理も出していて、日本酒や焼酎の種類が豊富だ。端的に言えばお洒落である。
そのカウンター席で私はまずビールを飲み始めた。大抵同伴の時は例外なくどの店のキャストも遅れて来る。五分や十分の遅刻なら可愛いもので、平気で三十分以上遅刻する者もいる。それを理解しているからこそ、私はカウンター席で先に一人で飲み始めていた。
「ケンちゃん、今日も同伴?」
「あぁ、まぁ」
「今日はどこの子?」
「スナック」
私に声をかけてきたのはこの店の大将だ。板前姿が随分板についていて、料理の手際は良く、その腕も申し分ない。そしてここは私の行きつけの店でもあるので、私が色んな女を連れて来ることも知っている。だから女が合流してからは無粋なことを言わない。加えて祥子とも通い慣れた店であるので、彼女もまた親しい。
するとその時、カウンターテーブルに置いていた私のスマートフォンが光った。メッセージアプリが通知を知らせたようで、私はスマートフォンに手を伸ばす。それを目で追っていたのか、大将が声をかけてくる。
「そろそろ着くよ、って連絡?」
「いや。他のキャストから」
「ほぇ、器用だね」
大将はそんなことを言うが、私よりも売れっ子のキャストの方が随分器用だと思う。多くの客を抱えており、それぞれに合わせた話題のメッセージを送っているのだから。中にはスマートフォンを二台持っていて、仕事用とプライベート用でメッセージアプリや電話番号を使い分けているキャストもいるそうだが。
「連絡はどこの子?」
「キャバクラ」
私が短くそう答えてビールグラスをテーブルに置くと、大将のくっくっくという笑い声が聞こえた。
今連絡が来て私が返信文を打っている女は正確に言うと、実はキャバクラの元キャストだ。祥子ほどではないが付き合いは長い。キャバクラを辞めて今は昼間の仕事に就いているが、ネオン街で働いていた当時の同業者との交流がまだあって、よく私を誘っては二人でその交流のある店に飲みに出ている。
つまり完全な友人関係で、飲み友達だ。それなりに人気のあったキャストであり、私とは一緒にいる時の波長が合うので、辞めた後も交流が続いている。
彼女とは男女の関係はないし、そのつもりもない。ネオン街を去った後は顧客を切る薄情な元キャストが多い中、こうして交友関係を維持してくれるのだからありがたい限りだ。だからこそ今では友人として慕っている。
「お待たせー」
そんな元キャストとのメッセージを何往復かさせていると、祥子が到着した。デニムのロングパンツにニット姿という、軽装とも言えるべき格好だ。遅刻は十分だが、祥子に悪びれた様子はなく、むしろ十分で済んだから及第点くらいに思っているのだろう。
「何飲む?」
「じゃぁ、ビール」
どうやら私と同じものを飲むようで、その後注文をして私たちは乾杯をした。
その日の仕入れ事情によってクオリティーが変わる店なので、この日の食事は大将のお薦めにてお任せにした。いつものスタイルだ。よく来る店なのでメニュー表を見たところで代り映えがないし、この注文の仕方が一番楽である。
平日ということで店は混んでいないが、カウンター席は半分ほど埋まっている。その中には私たちと同じように男女二人の客がおり、その女の方が厚化粧だとどうしても同伴かなと思ってしまう。尤も確信に近いが。
そんな店内で食事は進み、私も祥子も手元の酒が焼酎に変わっていた。大将は魚を捌きながら他の客を相手しており、私たちの会話は私たち二人の間でしか共有されていない。そんな時に祥子が言ったのだ。
「ケンちゃん、私ね……」
「ん?」
どこか思いつめたようにも感じる祥子の口調だ。そこで私は思い出す。今日は将来に向けての第一歩を言うつもりでいたのだ。だから祥子が今言わんとしていることを聞いたら言おうと考えた。そしてもしかすると祥子もそれに繋がることを口にするのではないかと、少しばかり期待した。
「新しい生活を始めたいと思って」
「ほー、どんな?」
どうやら私の予想と期待は、大きくは外れていないようだ。そろそろ水商売を辞めて将来のことに向き合うのではないかと、祥子から読み取った。
「お店を辞めようと思う」
「辞めてどうするんだ?」
「それはこれから考えていくつもりなんだけど……」
つまり先のことは考えずに今の職から退く意向だ。これが例えば若人なら職を捨てるなど人生を舐め切っていると思うが、相手は三十歳の祥子だ。私は彼女が家庭に入りたい意思を持ち合わせていると信じて疑わず、口を開いた。
「それなら――」
俺のところに来るか? と続けるつもりだった私の言葉は祥子から遮られた。
「それでね」
口調が真剣で強かったので、私の頭に疑問符が浮かんだ。私が口にしかけた言葉は耳に入っていなかったのだろうか? 聞こえていないような気もする。
「もう私とお別れしてほしいの」
「は……?」
今なんと言った? 二秒? 十秒? 一分? 私は時間感覚も失うほど思考が停止した。
「ケンちゃんなら私の次のステップを応援してくれるよね?」
だから、なんと言っているのだ? 次? 次は私のもとで家庭に入るのではないのか? それならば応援もなにも、そういう方向性でしっかり養ってやるつもりなのだが。
「だから今日はお別れを言いに来たの」
その後は祥子の話が耳に入らなかった。思考が完全に停止していたのだ。せっかくのお洒落な内装もモノクロの世界に変わり果ててしまっていた。そんな中、この店での食事の時間は終わった。
「さ、じゃぁ、お店に行こうか?」
なにを言っているのだ? この女は。別れ話をしておいて、同伴は継続なのか? どれだけ図々しいというのだ。私の気持ちがまだ生きているとでも思っているのか? もしそうならば、自分本位の解釈も甚だしい。
もちろんこの店を出た後、祥子とは解散した。この解散でもう二度と会うことはないだろう。しかし私は完全に予定を失ってしまった。ビル風すら吹かない地方都市のネオン街で人工的な明かりに照らされる。実に惨めだ。
するとふと思い出した。そう言えば、祥子と合流するまでキャバクラの元キャストと連絡を取っていたのだと。私はメッセージアプリを開いた。
『そっかぁ、残念』
そんなメッセージが返ってきていたが、それに既読をつけたのはこの時だ。これは彼女が私を飲みに誘ったメッセージによるものだが、つい先ほどまで祥子と同伴をするつもりでいたから断ったのだ。それによる返信だった。
私は急いで彼女に電話をかけた。もう他の誰かと予定を組んでしまっただろうか? それとも一人で帰宅して、もう飲みに出かける気は失せてしまっただろうか? そんな不安を胸に私はコール音を聞いた。
『もしもし?』
「あ、
『どうしたの? スナックの人と同伴じゃなかったの?』
私が電話をかけた相手玲香は、キャバクラの元キャストとは言え友人関係を続けてくれているので、大抵のことは言い合える。だから私がどこの店に行ったとか、キャストと同伴やアフターをしたとかも抵抗なく聞いてくれる。
尤も玲香は既にキャストではないから文句を言わないのだが、そもそも私の指名キャスト時代からそれほど縛るような女ではなかった。それが付き合いやすい理由だ。
「それが流れちゃってさ」
『ふーん』
「もしかしてもう予定入れちゃった?」
『私を空いた予定の穴埋めに使うつもり?』
膨れた様子の玲香の声が聞こえてくる。今までこんな拗ねた態度を取るような女ではなかったのだが。
『ふふ。冗談、冗談。ちょっと揶揄ってみただけ』
「なんだよ……」
そんなことを言うので、安堵して私の肩が大きく下がった。
『私の方が後入りの予定だから気にしてないよ?』
「じゃぁ、今から飲みに行かない?」
『いいよ。三十分くらいでそっちに着くと思う』
「わかった。待ってる」
そんな会話で電話を切った。カノジョに振られたばかりの私だから、一人になるのはメンタルがもたない。こういう時に友達がいてくれることに救われた。
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