第30話 孤独に耐える

朝の光が眩しくて、起きる。

リビングでそのまま力尽きたらしい。

無意識に隣を意識する。

かれんはいない。彼女の温もりも。

荒れたリビングを見渡す。

酷い有り様だ。

ふらつきながらダイニングまでの階段を上る。


テーブルの上には、昨日彼女が使ったマグカップがそのまま残っていた。

じっと目をやると、彼女がそれを手にとっている残像が浮かび上がる。

この家の中の至る所に彼女の存在が今も色濃く残っている。

どこを見渡しても、そこに彼女が居るように思えてしまう。

俺は一生忘れられないんだろう。

ずっと彼女の残像だけを見て生きていくしかないのか……

そしていつかは、彼女は誰かのもとへ……

不意に心臓をぐっと掴まれたような衝撃が走る。


 俺は耐えられるのか?

 耐えられなくても見守るしかないんだ

 それしか彼女が幸せになる方法はない……


あれから、かれんはどうしただろう……

彼女の泣き顔……

そしてふらふらと川沿いの道を歩く彼女の後ろ姿が思い出された。

また胸が苦しくなる。

きっと天海先生が助けてくれているだろう。


かれんからメッセージが入る。

過剰なほどの自分の反応に嫌気がさす。


「往生際が悪いぞ!」

そう自分に吐き捨てる。


触っちゃいけない。

愛しているのなら。

俺はもうかれんの人生にいてはいけない。

何度も何度も、そう言い聞かせた。


かれんからのメッセージが入る日が続いた。既読はしない。

ただ、そのたびに心臓が高鳴る。


「こんな毎日じゃ、もたねーな」



大学の研究室に、電源を切った携帯電話を置いたまま、授業に向かう。

授業を終えて研究室に戻ると、すぐに携帯を手にしようとする自分を制する。


「だから! 俺は何をやってるんだ?! いい加減にしろ!」


ノックの音がする。

レイラが入ってきた。

「なに? 誰かと話してた?」


「いや」


レイラは攻撃的な眼差しでツカツカと健斗の前にやって来た。

「健ちゃん、最近様子がヘンじゃない?!」


「何の話だ」


「そう! そうやってイライラもしてるけどさ、さっきちょっと健ちゃんの授業覗いたんだよね。この前まで生徒の話もちゃんと聞いてあげてたじゃない? だけどさっさと教室出ちゃって、誰も声がかけられないようなオーラ出しちゃってさ! 一体どうしちゃったの?! 全然健ちゃんらしくない!」


「は? 俺らしいってなんだよ?」


「なんかそういうとこもおかしい! ねぇ健ちゃん、かれんさんと何かあった?」

健斗は何も答えなかった。


「やっぱり! 何かあったのね?!」


「うるせーな。どうでもいいだろそんなこと。お前に関係あるか?」


「そんな言い方しなくても!」


「用がないなら出ていってくれ!」


「ひどい!」


その時、携帯電話が鳴った。


「出ないの?」


レイラも携帯を覗き込んだ。

かれんからだった。


「出ればいいじゃない!」


健斗の手から携帯電話を奪って、出ようとする。


「レイラ! やめろよ!」


「なんでそんなムキになってんの?! 私が出てあげるから!」


「やめろってば! おい…」


レイラは机の向こうに逃げ込んだ。

「もしもし、かれんさん? レイラです……」


健斗はレイラから携帯電話をむしり取って言った。


「なんか用か?」


かれんは黙っていた。

その冷たい言い方に、レイラはびっくりしていた。


「あ、俺さ、レイラと付き合うことにしたから」


抗議するレイラの方を向いて、健斗が口元に指を立てる。黙っていろと。


「俺さ『JFM』のCEOとして、これからは会社の繁栄を考えなきゃいけない立場なんだ。それにはやっぱり企業合併が必要不可欠なんだよ。アメリカに進出を考えてるわが社としては、レイラの親父のヘイスティングス社は打ってつけなんだ。 あそこと手を組めればうちの会社はアメリカでもやっていけるだろう。レイラとはゆくゆく結婚するよ。悪いな、もう遊びには付き合えない。じゃあな」


電話を切った瞬間、レイラがそばに置いてあった分厚い本で健斗の頭を殴った。


「痛って! 何すんだよお前!」


「バカじゃないの! 私がどんな思いでかれんさんに話をしたか!」


「話? 何のことだ?」


「もういい! 今の健ちゃんには関係ないし、そんな価値もない! 何があったか知らないけど本当に最低ね! 言っとくけど私、今の健ちゃんなんかと付き合いもしないし結婚なんて絶対しないからね! お断りだわ! じゃあね!」


レイラは勢いよく出て行った。


床には分厚い本が落ちている。


「レイラめ、こんなゴツい本で殴りがって……」


それを拾い、そばに落ちていた携帯電話も拾った。


もう、かれんからはかかってこないだろう……

本当に俺は最低だ。


その場にしゃがみこんだまま、しばらく動けなかった。



「もう、行かないと……」


大学の駐車場に栗山さんが待っている。


ジャケットを羽織って、研究室をあとにした。



会社に行き、夜は会食に。

帰宅後は論文のブラッシュアップでパソコンと向かい合う日々……

忙しい毎日にこれほど救われたことはない。

それでもどうしても考えてしまう時間がある。



  君と出逢って はじめて知った

   空の青さと 風の匂い

    君のそばで感じる

    海の広さ 月の輝き


  君を失って はじめて知った

   胸の痛みと 息苦しさを

    君のいない無機質な

    部屋の広さ 夜の長さ


     風の囁きさえも 

     君の声に聞こえる


悲しみに暮れる 

この世界が

すべて一夜の悪戯な

夢だったなら



心を無にすることが、こんなにも難しいなんて、知らなかった。

こんなにも苦しいなんて……知らなかった。


騒がしい午後も、かったるい真面目な時間でさえも、あの頃は光の中にあった。


今は……いくら目をこすっても、晴れない霧の中にいる。


この部屋が一人では広すぎると感じるようになってしまったから。

ずっと、一人で過ごせていたのに。

出逢ってしまった……


怒った顔も、笑い声も、泣いた顔も、

星を見上げる横顔も、まっすぐ見つめるあの瞳も。

指も髪も……すべてこの胸の中にある。


胸の隙間に入り込んだ彼女は、いつの間にか、心の大部分を占めるようになった。

今はただ、埋めるものを探して、たじろぐばかり……


もう彼女をの名前は呼ばないでおこう。

この気持ちは一体どこに向かうのか……

もうわからなくなった。


第30話 孤独に耐える -終-


→第31話 それぞれの思い

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る