第29話 『張り裂けそうな気持』

就任パーティー以来、健斗とは会えないばかりか、連絡を取るのもまらまならず、まるで遠距離恋愛をしているかのようだった。


かれん自身も、夏のイベントに翻弄され、仕事にかまける毎日を過ごしていた。


久しぶりに健斗の部屋に行けることになって、かれんは気持ちがはやるのを抑えきれないでいた。


「健斗!」


「あ……入って」


インターホンの声が落ちついている。

私がこんなに盛り上がってるのに! と理不尽な思いで玄関に入る。

ホールに健斗はいない。

スロープを歩いてダイニングに入った。


「健斗!」


「ああ……」


気のない返事だった。


健斗は視線を合わせないまま、コーヒーを淹れ、テーブルに置いた。


「最近あまり連絡くれないわね、忙しいのはわかるけど……どうして?」


「あ、わりぃやることが多くてな」

「そう……じゃあ仕方ないわね」


健斗は乱暴に座る。

「あのさぁ、俺『JFM』のCEOなわけよ。地位も名誉もあって多忙なんだよね」


「……どうしたの? そんな話」


「そんな俺と居るならさぁ、やっぱかれんには、俺を支えてもらわなきゃいけないって思うんだ」

「どういう事? 何をすれば?」


健斗は立ち上がって、窓の方に進む。

そして窓の手前で外を見ながら話した。


「なあかれん、仕事やめてくれない?」


「え?! なんて……言ったの?」


「だから! 仕事をやめてくれないかって! そしたら結婚してやってもいいよ」


かれんは驚いて、カップを置いた。


「どうして?! どうしてそんなこと言うの?! 私が仕事に対するどんな思いを持っているか、一番わかってくれてるのはあなたじゃないの?」


健斗は依然、振り向かなかった。


「ああ、最初はな。まあ、わかったふりかな?」


「わかったふり?」


「そうさ、でないと付き合えないじゃん。だけどさ、俺、実際『JFM』の仕事もあって、大学の方もあるだろ? それに論文の仕上げもあって、すごい忙しいんだ。そんな俺と付き合おうと思ったら、別の会社の社長やってるお前じゃちょっとな……」


「健斗、冗談よね? あなたがそんなこと言うはずない。絶対変だわ! なにかあった……」


健斗はかれんの言葉を打ち消すように被せた。


「やっぱ女はさ、家庭に入ってなんぼでしょ?そうだ! なんなら、うちの会社で働くか! それで結婚したら仕事をやめて、子育てに専念するってのはどう?」


「やめて! 信じられない。そんなこと言うなんて、健斗らしくないわ!」


「はあ? じゃあ俺らしいってなんだよ?」


健斗が勢いよく振り向いた。

「俺は俺だよ。俺は必要とされてんだ。だから、女のお前が折れてサポートに回ってほしいんだよ」


「ひどい! そんな風に思ってたの?!」

かれんが立ち上がった。


「ま、今はな。悪いな、俺も余裕ないから」


「あなたの気持ちが見えないわ。どうして急に変わってしまったの?」


「まあ、確かに急に変わったように見えるかもな。だけどしょうがないじゃん。俺はもともとそう思ってたんだから。これからは、こういうスタイルでやっていくよ」


かれんの声が涙声に変わった。

「今まで……無理してたってこと……?!」


「そう思ってくれ」


「そんなふうに……思えるわけない」


「じゃあお前は、俺のこと理解できないってことだ?」


「あなたも、私を理解しないと今、宣言したわ」


健斗が再び窓の方を向いた。

「じゃあ俺達、難しいのかな。距離を置いた方がいいかな」


「どうして?! どうしてそんなこと言うの?!」


「率直にそう思ったからさ」


「あなた……本当に健斗なの?!」


「は? 正真正銘の藤田健斗だけど」


「……帰る」


「いいよ。お別れだな!」


「……」


かれんの走る足音と共に、ドアがバタンと音を立てた。

健斗は窓を背にして、その場に崩れ落ちた。


 あいつを……傷つけた。

 しかも一番、あいつの嫌がる、

 悲しい形で。


胸が張り裂けそうだった。

慌てて追いかけるように家を出る。


 あいつ、絶対泣いてるはずだ。


そう思いながら道へ駆け出る。

とぼとぼと歩くかれんが遠くに見える。

肩を落としながら力なく歩いて行くその後ろ姿をみると、全力で走って追いかけて、抱きしめたかった。


全部嘘だと、叫びたかった。


 ごめんかれん、本当にごめん。

 お前をこんなにも傷つけて。

 でも、俺じゃダメなんだ。

 早く忘れてくれ。

 そして、決して15年前の事は、

 思い出しちゃいけない…



健斗は部屋に帰って、力なくリビングの床に座り込むと、携帯電話を手にした。


「天海先生……俺です。俺、今あいつの事、傷つけました。かれんに電話してやって下さい。あいつ絶対泣いてます。お願いです。あいつの事助けてやってください……」


健斗の叫びのような声を、天海は静かに聞いていた。


「藤田くん、君は本当にそれでいいのか?」


「いいわけないでしょ?! でも、俺にはどうすることもできないんです。俺といたら、彼女はもっと傷つく。もし彼女が思い出してしまったら、もう彼女は普通ではいられなくなるかもしれない。……だったら、それなら、俺が消えるしか……ないんです」


天海は言葉を失う。

「お願いです、天海先生! かれんのこと救ってください」


最後はかすれて消えてしまいそうな声だった。


「分かった」


「ありがとう……ございます……」



電話を切った健斗は、大きな声で叫んだ。


ソファーの上のクッションに顔を押し当てて大声で叫ぶ。


机の上の物をひっくり返して、のたうち回って、頭を抱えながら……

何度もかれんの名を呼んだ。



川沿いの道をとぼとぼと歩いて、かれんはただただ、彼の家から離れるように歩いていた。

自分の家までが、こんなに遠く感じたのは、初めてだった。


私、ちゃんと靴を履いているのかな?

そんなどうでもいいことで頭を埋めようとしている。

いつもの美しい緑が、灰色のような情景に映る。


本当に信じられない。

健斗がそんなに変わってしまうはずがない。

まるで中身が全く違う人間になったような…

さっき見せた彼の顔。

心のない、彫刻のような、冷たい表情。

ゆがんだ口元…

どれをとっても健斗のものじゃないように見えた。


 心だけが、どっかにいっちゃう事って

 あるのかな…

 あんなにひどいこと、私が一番

 言われたくないことを…

 あんなに平然と言ってしまうなんて。


通りに出た。

人が振り返る。

私の顔に何か付いているのか……

手のひらを当てて確かめる。

涙で濡れていることに気がついた。


 私泣きながら降りてきたんだ。

 心が辛すぎて、泣いていることに

 気がつかなかった。


でもこの涙を拭う力も残っていない。

亡霊のようにマンションまで辿り着き、

亡霊のように家の鍵を開けて、ソファーの前に座り込んだ。


その瞬間、悲しみが大きな波となって かれんを飲み込んだ。


さっきの目、冷たい目、健斗のものじゃなかった。

蘇ってくる彼の言動や表情が、かれんの心を突き刺してくる。


 嫌だ! こんなの!

 あんなひどいこと言う人じゃない。


 信じたい。

 あれは彼じゃない。

 本当の健斗は誰よりも思いやりがある 

 そのはずなのに…

 元の彼に、今すぐ会いたい。

 会って、全て冗談だと言って

 抱き締めてほしい。


苦しくて苦しくて、胸を押さえた。

一気に悲しみの波がやってきて、嗚咽になってその場にふさぎこんで泣いた。

声を上げて泣いても、悲しみがまとわりついて離れない。

息ができないほど苦しくて、叫んだ。


「健斗やめて、もう言わないでそんなこと、嘘だと、愛していると、言って…」


声にならない声で叫びながら泣き続けた。


携帯電話が鳴った。

健斗だ!

そう思って慌てて出てた。


でも聞こえてきたのは別の声だった。


「健斗?」


「……いや、天海だ。久しぶり」


かれんはあわてて声を取り繕った。


「あ……宗一郎さん、どうしたんですか?」


天海は動揺を隠すように、少し声のトーンを上げた。


「今晩なんだけど、ほら、前にさ『RUDE bar』に行こうって話しただろう? よかったら付き合ってもらえないかなと思って」


かれんが躊躇ためらう。


「あ……今夜ですか……」


「どうしたの? 鼻声? 風邪引いてるなら診てあげようか?」


「いえ、そんなんじゃ……」


「いや、実はさ、ちょっと落ち込むことがあってね。もしよかったら、友達としてかれんちゃんにお酒を付き合ってほしいと思ったんだけど……」


「そう……ですか。私なんかでいいんですか?」


少し声が落ち着いてきていると感じて、更に明るい声で言った。


「もちろんだよ! 一人で飲むのは避けたかったし、かといって『RUDE BAR』のバーテンくん相手に飲むのもね……ちょっと寂しいだろ?」


かれんが少し笑った。


「じゃあ決まり! 何時がいい? 君に合わせるよ」


かれんは、シャワーを浴びた。

今日の記憶も辛い思いも全て洗い流せるといいのにと、そう思った。




「もしもし波瑠です! 健斗さん?! かれんさん、一体どうしたんですか? 今天海先生と来てるんですが、様子がおかしいんです。ボクも、かれんさんにはかなりお酒を控えて出してますけど、すごい勢いで飲んでるし。天海先生に任せてていいんですか? 迎えに来ないんですか?」


ずっと黙っていた健斗が、低い声で話し出した。

「波瑠、俺、かれんと別れたんだ」


波瑠は驚いて受話器を落としそうになった。


「え……どうしてですか?! 嘘でしょ?! 健斗さん……」


「本当だ。なんなら本人に聞いてみろ」


「あり得ないですよ、健斗さん!」


「……とにかく、俺とかれんは別れた。あいつがどうなってももう俺には関係ないんだ」


「なんてことを?! 一体何があったんですか?!」


「うるさい! 俺らのことに口を挟むな!」


「そんな、健斗さん! 健斗さん?!」


電話が切れた。


波瑠はカウンターに戻った。


かれんの姿がない。


「天海先生、かれんさんは?」


「まだ化粧室から帰ってないんだ」


「僕、ちょっと見てきますね」


波瑠が細い廊下に差し掛かると、化粧室の前に座り込んでいるかれんを見つけた。

慌てて駆け寄る。


「かれんさん、どうしたんです?」


「どうもしない……何も聞かないで。でももう何も分からなくなったの。どこに心を置いていいか分からなくて……」


虚ろな目で下を向いたままのかれんが、痛々しくて、波瑠はグッと目をつむった。


「かれんさん、とにかくここに座ってちゃ駄目です。気分悪いですか?」


「ええ、少し……」


「じゃあ、こっちに来てください。さあ立って!」


かれんを抱き起して、その体を支えた。

華奢で力なく立ち上がるかれんの憔悴ぶりを見て、波瑠は健斗に対する怒りさえも感じた。

下を向いて波瑠に肩を借りて歩いてくる かれんを見つけて、天海が走り寄る。


「かれんちゃん、大丈夫か?!」

返事をしない。


天海がさっとかれんを抱きかかえて、ソファーに寝かせる。


波瑠がブランケットを持ってきて、彼女にかけた。

「少しこのまま眠らせよう。かまわないかい?」

「はい」

波瑠は階段を駆け上がって、店のプレートをクローズに架け替えた。



「先生、何か聞いていらっしゃいますね? 健斗さんと何かあったんですよね?」


天海が静かに頷く。


「先生はそれを知っていて、今夜かれんさんを誘ったんですか?」


もう一度頷く。


波瑠が大きくため息をついた。


「どうしてこんなことになるんですか?! かれんさん、幸せそうだったじゃないですか! だから僕だって……」


天海が顔を上げて、波瑠の顔を見た。

波瑠のその目をしばらく見て、確信したように、話し出した。


かれんには聞かれないように、小さな声で慎重に、健斗から聞かされた話を波瑠に伝えた。


波瑠は黙って聞いていた。

そして一筋、涙をこぼした。


「前に一度、藤田くんの家に呼ばれたことがあるんだ。医師としてね。かれんちゃんが倒れてるって。驚いたよ。その時はなぜそうなったのか判明できなかったし、恥ずかしい話だが、彼女が藤田くんと付き合ってる事実を突きつけられて、僕も動転してしまっていてね。後から思えばPTSDの症状が出ていた。本当に偶然だが、15年前に自分が読んだことのある絵本、それも事故の発端となる絵本を手にしてしまって、その時彼女は何か思い出しかけたんだろうな、意識を失って倒れてしまった。いわば、それは開けてはいけないパンドラの箱だ。その時はまだ藤田くんも、彼女が昔の親友の妹だとは知らなかった。でも知ってしまってからは、彼女が思い出すことを恐れてるんだ。思い出してしまったら、藤田くん自身がそうだったように、とてつもない威力で彼女を一瞬にして壊してしまうだろうと、彼は感じたのだろう。だから、別れたんだ。彼女に嫌われようと、心にもない言葉を並べてなじったらしい。かれんちゃんもかなり辛そうだが、藤田くんがどれ程辛いか、計り知れない……」


波瑠がやりきれないと言った表情で、ただただ、強く握った手を見つめていた。


「天海先生、教えて下さってありがとうございました。かれんさんは、起きるまでここで眠らせます。家も知ってるので、起きたらボクが送っていきます。先生は病院に行かないといけないでしょ?」


「でもなぁ…」


「心配いりませんよ。襲ったりしませんから。大丈夫です、ボクは健斗さんを裏切ったりしません」


「そうか、わかった。何かあったらいつでも連絡して」


天海は名刺に携帯電話の番号を書いて波瑠に渡した。



「あれ? ここは?」


「かれんさん! お目覚めですか?」


「波瑠くん?! ……てことは、ここは……」


「RUDE BARです」


「私、ここで寝ちゃってたってこと?!ごめん!波瑠くんに迷惑かけちゃった!」


「いいですよ。あははは」


「え? 何?」


「かれんさん、目がパンダみたい!」


「ウソ?!」

「本当ですよ、化粧室で見てきてください」


慌てて化粧室の方に走っていくかれんを、波瑠は遠い眼で見ていた。


かれんが恥ずかしそうに戻ってきた。


「本当だった! 私……どうしてたっけ? あ! 天海先生は?!」


波瑠が笑い出した。

「何も覚えてないんですか?! もうかれんさん、凄かったんだから!」


「え?! 私、何しでかしたの?!」


「それはもう、口では言えないぐらいの……」


「ヤダ! 怖い!」


また波瑠が笑い出す。

「ウソですよ、ただ単に寝ちゃってただけ。ただし、化粧室の前でですけどね!」


かれんは少しほっとしながらも、反省の顔を見せた。


「ご迷惑かけてすみませんでした!」


「よし! 許しましょう!」

波瑠はそう言って笑った。


「送っていきますよ、かれんさん」

そう言ってたちあがったその後ろ姿に向かって、かれんが言った。


「私……健斗と別れたの」


波瑠の心に、天海先生から聞いた多くの悲しい事実が甦る。

ぐっと目をつぶり、胸を掴んだ。

そして笑顔を作り直し、なんでもない顔で振り向いた。


「なんだ、そんなことか!」


かれんに微笑みかける。

かれんは不思議な顔をした。


「どうせそんなことなんだろうと思いましたよ。健斗さんなんて、やめとけばいいのにって思ってましたもん。ライバルも多いですよ、なんせモテるし。だって今や教授だけじゃなくてCEOでしょ? 無敵ですよ。かれんさん、いいじゃないですか、そんな人やめとけば!」


「波瑠くん?! どうしたの?!」


波瑠はかれんの前にしゃがみ込み、彼女の目を覗き込んだ。


「前々から思ってたんですよ、かれんさんにはボクが合うんじゃないかって!」


「え?」


「ボク、かれんさんのこと、好きなんです。健斗さんと知り合うよりずっと前からですよ! かれんさん全然気づいてくれないから。そしたら健斗さんと付き合っちゃうんだもんな! ポーカーフェイスなボクでも結構つらかったんですよ!」


かれんが唖然としている。


「あはは、なんて顔してるんですか! すぐにとは言いません。でも、ボクはかれんさんを泣かせたりしないんで。ボクとの事もちょっと考えてみてくれませんか?」


「波瑠くん……」


「いいですよ、今何も答えるなくても。さあ帰りましょう!」

波瑠に促されて店の外に出る。


明け方の風は、少し肌寒かった。

波瑠は来ていたジャケットを脱いで、かれんの肩に着せた。


「あ! いいよ波瑠くん、近くだし」


「かれんさん、ボクにもこういうこと、させてください。ずっとこの役がしたかったんです」


波瑠が優しい微笑みをくれた。

凍えるほど冷え切っていた心が、少しだけ、温もりを帯びたような気がした。


「ありがとう……」


かれんは波瑠のジャケットの襟を握った。


第29話 別れの芝居 -終-


→第30話 孤独に耐える

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