第28話 天海に託す
開店前の早い時間、『RUDE BAR』の扉が開いて、ドアチャイムの音が鳴った。
「天海先生……」
「藤田くん、あれからかれんちゃんの調子はどうだい?」
そういいながら階段を下りてくる。
「もう何も起こらなくなりました」
健斗から天海に連絡し、時間を作ってもらったのだった。
「じゃあ、かれんちゃんの疾患についての話じゃないんだね?」
天海は少しホッとしながら、健斗に促された席についた。
「はい、今のところは……」
「え?」
「わざわざ来てもらってすみません」
「いいやいいんだ、僕も君にちょうど話があったんだ」
「では、先生のお話を先に聞かせてください」
「ああ、わかった」
健斗がコーヒーを運んできた。
「君さ、灘高のバスケ部出身じゃないか?」
天海は幾分明るく振る舞いながら話す。
自分のかれんへの思いは払拭したと、そう示そうとしていた。
「そうです」
「やっぱりな! 前回のOB会の時に話が出てね。話聞いてると君に当てはまるから、そうじゃないかなと思ってたんだ」
「先輩だったんですね」
「高校やクラブだけじゃないぞ、大学の先輩でもある!」
「そうだったんですね」
「だからさ、今度のOB会には是非来て、一緒にバスケ……」
「天海先生」
「どうした? 今日はなんだか君らしくないな」
天海は心配な面持ちになって、健斗をじっと見つめた。
「僕がどうして灘高や東大に行って今の生活をしているか、聞いてもらえますか?」
「ああ……わかった」
健斗は、子供の頃に母をなくした話から、密な付き合いをしていた父の友人家族に救われたこと、その息子で自分にとって親友だった人を目の前で亡くし、その妹が記憶を失ったこと、親友の遺志をついで、バスケを諦め、数学者を目指したこと、すべてを話した。
「……そうだったのか。まだ子供でいたい時期に、君は人生を変える決意をしたんだね。すごいよ」
「天海先生、かれんのこと、どう思っていますか?」
うつむきながら、健斗は静かに聞いた。
「どうしてそんなことを聞くんだ? 彼女は今はもう君の恋人だろう?」
「その、記憶を失った親友の妹が、かれんだったとしたら……」
「なんだって?!」
天海は驚きのあまり、一瞬言葉を失った。
「そう……なのか? 彼女が……」
健斗は黙って頷いてから、また話し出した。
かれんがその亡くなった親友の妹であること、辛い記憶がないことで幸せに暮らしていること、かつて自分も母親のように慕っていたかれんの母から、交際も事実を明かすこともを反対されていること、そして何より、自分の存在のせいでかれんから笑顔を消してしまう可能性があることを、恐れている、と。
「なんてことだ……」
天海は吐息のように呟いた。
うつむいた健斗の頬から涙の粒が落ちた。
「でも愛しているんだろう? だったら乗り越えられるよ!」
「ダメです」
健斗は強い視線で前を見た。
「この前、天海先生に来てもらった原因は、後から判ったんですが、かれんが俺の書斎にあった一冊の本を見たからだったんです」
「まさか、それが事故当時に彼女が読んでいた絵本……」
「はい。『リブ・イン・ザ・フォレスト』です。本人は絵本のせいだという自覚がなくて、まだ気付いてはいませんが、書斎に行ったら床に落ちていたので間違いないかと」
「オーバーラップして強いストレスがかかったのか。症状としてはあり得るが……」
「こんな俺でも、かれんが東雲花梨だと知ったときは気か狂いそうになりました。15年間しまっていた記憶の中の親友の死を、少し引き出しただけでもどうにかなりそうなのに、全く記憶がないかれんが……あの悲惨な森に舞い戻ってしまったら、正気でいられるはずがありません。悲しみに暮れるでしょう。自分を責めるかもしれない。彼女にとっては、要らない記憶、思い出してはいけない記憶なんです。だから……」
言葉をつまらせる健斗に、天海は立ち上がらんばかりの勢いで問いかける。
「だからなんだ?! まさか彼女と別れるとでもいうのか?!」
「はい。別れるだけじゃありません。突き放して彼女の中から完全に俺を消そうと思います」
「藤田くん、君はそこまで……」
天海は強く握った拳をテーブルに置いた。
「……どうにかならないのか?」
「俺といたら、いつか必ず思い出してしまうでしょう。それに、俺自身も彼女の家族もそれに怯えて毎日を過ごすんです。そんなことはどうせ長く続かない。それに、もし彼女が思い出してしまったら、それはそれで俺とは幸せにやってはいけない。それならいっそ、記憶がないうちに俺が消えることが、何よりの彼女の幸せに繋がると、そう思ったんです」
「わかるよ言いたいことは。いかにも数学者的発想だ。理屈ではそれがベターなのかもしれないが、気持ちはそんな簡単にはコントロール出来ないだろ?」
「コントロール出来ないかもしれないから、天海先生にお願いしたいんです」
「何を……言ってるんだ?」
「俺、これからひどい男になります。かれんを泣かせてしまうことになるでしょう。だから、天海先生、かれんを支えてやってもらえませんか」
「……君は何を……」
「もう一度聞きます。かれんのことをどう思っていますか? 彼女に惹かれていましたよね? 天海先生なら……彼女を……ちゃんと愛してくれますよね……」
天海は立ち上がって腕を伸ばし、健斗の肩を優しく叩いた。
「……もういい、わかった」
健斗の頬にいくつかの涙が筋を作った。
天海も目を赤くしながら天井を見つめた。
第28話 天海に託す -終-
→第29話 別れの芝居
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