第25話 『辛く悲しい選択』
いつもの豪華で無機質なホテルの一室……
健斗はシワひとつないベッドに、そのままの格好で倒れ込む。
なにも考えたくない。
しかし、突きつけられた現実が真っ黒の霧のように襲いかかってくるようだった。
とにかくなんでもいい、無になりたい……
電話がかかってきた。
かれんからか?
そう思って身構える。
しかし、見たことのない番号だった。
「もしもし」
その声で、誰か分かった。
15年ぶりに聞くその声……
「さゆりおばさん……ですね?」
束の間の沈黙があった。
「あなたがそう呼ぶということは、私がなぜ電話したのか、分かったということね」
「……はい、ついさっきです。それまでは……知らなかったんです……」
「……そう。少し会いましょうか」
「……はい」
チャイムが鳴り、ドアを開けて招き入れる。
「さゆりおばさん」
「その言い方はよして」
彼女は少しうつむいた。
自分が大きくなったせいで、彼女のことがずいぶん小さく見えた。
母のように慕い、可愛がってもらっていた恩人ような人が、今は身を固くして苦悶の表情を浮かべている。
「この際、回りくどい挨拶は抜きにして本題に入りましょう」
「ええ」
「かれんとは?」
「今年の初めに偶然出会って、そこから何も知らないまま、仕事仲間として付き合っていました。彼女と恋人になったのは、つい最近です」
「そう」
「お互いが
「健斗くん……」
「わかっています。あの事件がどれほど辛く苦しいことか……僕は身をもって知っています。彼女がそれを忘れていると、そう知った時に思ったことは、ショックよりも、むしろ “知らなくて良かった”、という気持ちが強かったんです。あの事件のことは、僕だって忘れられるものなら忘れたい……いや、本心で言うと、あの事件こそがただの悪い夢で、
健斗は拳を握りしめて、うつ向いたまま続けた。
「あんな思いを、彼女にさせたくない……思い出させたくないです。さゆりおばさんが思っていらっしゃるのと、僕の気持ちは一緒だと思います。最初は乗り越えようと思いました。僕が頑張ることで思い出させないようにして、新しい “三崎かれん” という女性の人生の中に、あの事故とは無縁の藤田健斗というパートナーが入れるようになればいいんだと、そう考えました。彼女なしの人生なんて耐えられないと思ったからです。彼女を失いたくなくて、そう思おうとして……でも、今まで僕が知ってる中で、彼女は2回のフラッシュバックを見ています。彼女は、もういつ思い出してしまうとも限らない状況なんです。だったらそれを促進するような刺激を与えたくない……一番の刺激である僕が、彼女のそばを……離れることが……これからの彼女の平穏に繋がるのなら……」
健斗は頬を伝い落ちる涙も拭わずに言った。
「僕は、彼女と別れようと思います。さゆりおばさんもそれをきっと望んでおられる……そうですよね?」
さゆりも涙を流していた。
「健斗くん、私はあなたのこと息子のように思っていた。だからすごく……辛いわ……」
「分かっています。さゆりおばさんが僕に与えてくれた愛情は今も忘れていません。三崎かれんを守るということは、さゆりおばさんが母親として娘を守るのと同じように、僕も律の親友として彼の妹を守る、そういうつもりでいようと……思います」
さゆりはハンカチで顔を覆っている。
「……どうするつもりなの」
「何も方法は浮かびません、ただ僕が彼女に嫌われるように仕向けて別れるしかない……すみませんが、これから彼女に対してひどいことをするかもしれません。彼女を傷つける素振りをするかもしれない。憎まれて嫌われて別れることになるでしょう。本当に申し訳なく思いますが……僕の辛さに免じて……許してください」
さゆりは涙も嗚咽も止められなかった。
「あなたは……健斗くんは、そんなことができるの?! あの子を愛しているのに?!」
健斗は微動だにせず答える。
「できなくてもやります。あの事件を思い出すくらいなら、それの方が随分マシです」
「健斗くん……」
俯いた健斗の頬には、更に何筋も涙があり、顎からポタポタと涙が落ちている。
ふと子供だった頃の彼の姿と重なった。
さゆりにとっても親友だった彼の母、京香が亡くなった時、健斗はその小さな体で悲しみに耐えていた……その姿が甦ってきた。
まるで息子が二人いるかのように、
「健ちゃん……」
なにもかも投げ出して、この子を抱き締めて、すべてを受け入れてしまいたくなる。
感情を抑えきれず、健斗の肩に手をかける。
「大丈夫です、さゆりおばさん。こんな形でしかできませんが、僕が
さゆりはいたたまれなくなり、彼の体を抱き締めた。
大きな体は小刻みに震えていて、その静かな涙が枯れることはなかった……
第25話 三崎さゆりと藤田健斗 -終-
→第26話 森での悲劇 Leave the forest
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