第22話 母の葛藤
夏が近づくと、なぜか人々はわくわくする。
開放的になるからか……
その人々の気質を利用……いいえ! 満たすために、イノベーションのもとニーズに合わせたイベントをご用意する。
春から初夏にかけて、この夏のイベントのための準備を重ねてきた。
イベント会社にとって、夏は勝負の時だ。
かれんにとっても、今年は特別な夏…そんな気がした。
仕事と恋を両立させることに、充実しつつも少しの不安を抱えてはいた。
今日も打ち合わせが長引いた。
健斗とは会えなかった。
何故なら……
彼がついにCEOに就任する。
実際に職に就くのはもう少し先だが、今日がその『JFMコーポレーション』の披露パーティーだった。
彼のお父様に、こんな慌ただしい中に手短にご挨拶申し上げるのは忍びなかったし、由夏の担当と言うこともあり、少しだけ立ち寄って、確認事項を由夏に伝え、居合わせた父の
「あれ? ママ! 帰ってたの?」
「かれん! おかえり。今日はずいぶんお洒落して出掛けてたのね?」
目の覚めるようなロイヤルブルーのプリーツカットソーに純白のタイトスカート、その出で立ちにふさわしくない色気ない表情で、テーブルにつかつかと近寄ってくると、大きなベージュのビジネスバッグをドンとテーブルに置く。
「ああ重たい……。今日は仕事の打ち合わせよ」
母はそれを微笑ましく見ている。
かれんは足早にキッチンに行き、グラスとミネラルウォーターを取ってくる。
「最近忙しそうじゃない? 仕事、うまくいってるみたいね」
「ええ、大忙しよ」
グラスに水を注ぎ、豪快に飲み干すかれんを横目で見る。
「てっきりデートかと思ったわ」
その言葉に、かれんは静かにグラスを置き、母に向き合った。
「ママ、私、好きな人ができたの!」
母は立ち上がって、娘の肩を抱き、頭を寄せた。
「なんかそんな感じがした! かれん、最近すごく充実した顔してるし、なんだか幸せそうだったから、いい人いるのかなって……ちょっと思ってたの!」
「ママ……」
「自分から言ってくれるなんて嬉しいな!」
「いま本当に幸せなの! ようやく本当に好きな人に出会えたって、そう思えて」
「そう! じゃあ、早速お食事にでも行く?」
「うん! 会ってほしい!」
「分かったわ、いいお店、予約するわ! 日程教えてね。楽しみにしてる」
母に祝福されて、本当に嬉しかった。
一人の大人として女性として認められたような気分だった。
同時に、抱いていたほんの少しの不安も、一気に吹っ飛ぶようだった。
彼も多忙の日々を送っている。
だから今日はLINEだけでいいよと、伝えるつもりだった。
でもどうしても、母の言ってくれた事を彼に話したくて、毎日くれる健斗の電話を、今日も心待ちにしていた。
「あ、もしもし健斗? 今日はCEO就任、おめでとうございます。ははは、お疲れさま! 家に戻ったの? あ……まだなんだ……。論文もあるのに…大丈夫? そう。無理しないでね。私? もう寝るところ。ねえねえ健斗、実は今日ね、ママに私達のこと話したの! うん! そしたら会いたいって! 日程教えてって。うん! うれしかった! じゃあ明日相談しましょう! 頑張って! おやすみなさい」
翌日は健斗の家に行くことになっていた。
あの日以来、かれんが先に一人家に入ることは避けていた。
玄関の暗証ボタンを見ると、ほんの少し緊張する自分もいる。
その分、健斗の声に出迎えられると、気持ちが朗らかになる。
「かれん、かれん! 眠っちゃダメだぞ、明日も早いんだろ?」
健斗はかれんの頭に手をやって、耳元で囁いた。
「……ん、そうだった……」
「ほら、水」
そう言ってミネラルウォーターのボトルでかれんの頬を突っつく。
「ありがとう」
半裸の健斗が背中を向けてベッドに座った。
「あれ? 健斗、この傷はなあに?」
かれんが左の脇腹の背中側に残る傷痕を指でなぞった。
「随分痛そうな傷ね……」
「ああ、中学の時に。森で木が刺さちゃってさ」
「ええ! そうなの?!……もうなんともないの?」
「そりゃそうだよ、15年も前の話だ」
健斗は、布団の上にあったTシャツを着ながら話す。
「かれん、今日もお母さん、居るんだろ?」
「うん、帰らなきゃ」
「お母さん、しばらくこっちにいるの?」
「うん、そのはずだけど」
「じゃあ、ご挨拶しなきゃな」
「ホント! じゃあ、今夜ママと約束するわ!」
「わかった、着替えて。送っていくから」
そう言って健斗はベッドルームを出た。
土曜日の昼下がり、かれんと母のさゆりはレストランの個室にいた。
イタリアンの老舗、月に一度は来ているお気に入りの店だ。
かれんはしきりに電話を気にしていた。
「ママごめん、彼今日は大学で論文の中間発表会があるんだけど、長引いてて……来れるかどうか……」
「大学?」
「うん、まだ若いから准教授なんだけどね」
「立派な仕事ね!」
「うん。凄く忙しいのに、それでもママに会いたいって言ってくれて、彼も楽しみにしてたんだけど……」
「いいわかれん、私さえこっちにいればいつでも会えるから、今日のことは気にしないようにって、彼に伝えて!」
「わかった、ありがとう。メッセージ送っとくね」
二人で食事を始める。
「このお店はいつ何を食べても美味しい! 彼も来れたら良かったのになぁ」
「まあ、男はしっかり仕事しないとね!」
「ところでかれん、お名前聞いてなかったわね」
「やだ、ほんとね! 私ったらうっかりもいいところ! 彼の名前は藤田健斗って言うの」
「え! もう一度……言って」
「藤田健斗だけど……ママ、どうしたの?」
さゆりは箸を置いた。
「藤田健斗って……『JFM』の藤田さんの息子の?」
「え、ママ知ってるの?! そう! 彼は帝央大学の数学の准教授なんだけど、今度『JFM』のCEOに……」
さゆりはかれんの言葉を遮る。
「待ってかれん」
「どうしたのママ……」
母のただならぬ雰囲気に、緊張が走る。
「……藤田……健斗は……ダメ」
「なんて……言ったの?!」
「藤田健斗だけはダメなの!」
「なにいってるの?! ねぇママ! どうして?! なぜ彼を知ってるの?」
「かれんお願い! 健斗君だけは……だめなの。諦めてくれない?」
「そんなこと……できるわけないじゃない! 理由を教えてよ! ママ!」
「……ダメ話せない……」
「そんな……どうして! 健斗のこと知ってるなら、なおさら彼が……」
「いいえ、ダメなのかれん……」
かれんが勢いよく立ち上がった。
「そんなの、納得できるわけないじゃない! 最低よ!」
バッグを荒々しく取って退出する。
頭を抱える母……
うなだれたまま、携帯を取りだし、電話をかけた。
「さゆりです。あなた……ずいぶん久しぶりね。実は…大変なことになってるの。会える?」
「君に会うのは随分久しぶりだね」
「そうね」
「元気でやってるのかい? 覚えてる? このバー。あの時は毎週……」
さゆりが東雲の言葉を遮る。
「ごめんなさい、あなたがいつも優しいことはわかってるわ。でも……今回のことは衝撃が大きすぎて、私ももうどうにかなりそうなの」
出されたグラスには、手もつけない。
「さゆり、何があったんだ?」
「私にじゃない、かれんに……」
「かれんが、どうしたんだ?! ついこの前会った時はいたって普通というか、むしろ元気だったぞ」
「……あなたは気付かなかったの?! かれんが付き合ってる相手が、健斗くんだってことに!」
東雲は一瞬言葉を失う。
「まさか……健斗くんと……そんなそぶりは見せなかったが……さゆり、まさか、かれんは何か思い出したのか?!」
「いえ、そうじゃないわ。健斗くんの名前を聞いても『JFM』のことを聞いても、なにも感じていないから、本当に偶然みたい」
「そ、そうか……」
「ひとつ聞いていいかしら? あなたまさか、かれんと健斗くんの仲を許すつもりじゃないでしょうね?!」
「……いや。でも、さゆり、あれからもう15年だ」
「そうよ、15年。でも何十年経ったって、母親にとったら何も変わらないわ。私の中で
「君の気持ちは十分分かってるつもりだよ」
「いえ、わかってないわ! 今度のことは 絶対に許すわけにはいかない! あなたは知っていたの? かれんと彼が出逢っていたこと」
「ああ、仕事でどうも一緒になったっていうのは、秘書に聞いて知ったんだが……付き合ってるなんていうのは知らなかった」
「どうしてもっと早く引き離してくれなかったの! 運命のいたずらなんて悠長なこと言ってられないわ! 何とかしないといけない問題よ!」
「でも考えてみたら、あの二人が惹かれあってもしょうがないんじゃないか。兄妹のように育ち、
「何言ってるの! あなた、私たちがどんな思いで今まで15年間過ごしてきたと?!」
「落ち着くんだ、さゆり。そうだ、私達は苦渋の選択をしてきた、あの子の為だけを思って。すべてを排除した。排除した中に、健斗君も含まれたんだよ。さゆり、よく考えてみろ、健斗君は何一つ悪くない。彼だって大怪我をして死にかけたんだ。なんなら一番の被害者だ! 彼は当時中学生だったんだぞ! そんな子が自分の将来の夢も捨てて、
「背負ったって?! それは……まさか彼が大学の准教授になったことと関係しているわけ……?!」
「そうだ。覚えているだろう、彼はスポーツマンだった、アスリートになるのが夢だったんだ。そんな彼が数学科の准教授だ、博士号も取ってる。これがどういうことか、母親のように彼に接していた君なら、わかるんじゃないのか?」
「だからって……」
さゆりの目に涙が溢れる。
「だからって、
「さゆり……」
「あなたの話も解るわ、私も健斗くんを恨んでいる訳じゃないの。でも私はかれんの実の母親なの。今はまだ何も受け入れられないわ。時間を頂戴。帰るわ」
第22話 母の葛藤 -終-
→第23話 疑問
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