第10話 『RUDE bar』かれんの気持ち

健斗が静かに見守るなか、かれんは大きく息を吸う。


「3年前、彼にアメリカについて来て欲しいと言われたの。私に仕事を辞めてついてきてほしいと。ようやくの思いで『ファビュラスJAPAN』を立ち上げた頃よ。それまでも色々話し合って、彼は私の仕事を尊重すると言ってくれていた。それなのに……彼は、私が仕事を辞めることを当然のように言った。一緒にいるのは当然だ、申し訳ないけどかれんが折れてくれと言われて、呆然としたわ。私の仕事が軌道に乗ってきたことも応援して理解してくれていると思ってたの。裏切られたような気持ちになった。やはり彼は私のことをそういう風にしか見ていなかったんだってね。彼と私はきっと合わない。お互いが足枷だとしたら、もう一緒にはいられないんだって、はっきりわかったの。お互いに甘えて生きていたのかもしれない。ただそれを確かめ合うことを避けて、ずっと尊重しているふりをして。 気がつけば相手から離れることばかり考えてた。 追いかけてきて欲しくもなかったし、プライドの高い彼が追いかけてくることもなかった」


かれんは手にもっていたカクテルに口をつけた。


「3年も経ってるのに、まだ虚しい気持ちが残ってるなんて、自分でも驚くなぁ。きっと、誰かのために生きたり、心揺すぶられるような恋愛もしないで、ただ反発するように仕事をして来ちゃったから、心が取り残されたままだったのね」


健斗がそっと話し出した。

「じゃあ……あのジャズバーはちょっとキツかったな」


「うん、辛いっていうほど、強い感情があった訳じゃなかったけど、でも彼と会うのは違うような気がした」


「あっちは忘れられなかったみたいだけど」


「ちっとも変わってなくて、前と同じように私の心に、踏み込もうとしてきたから……だから私は無意識に、それを全力で阻止しようって。そういう気持ちが湧いた。好きとか嫌いっていう感情じゃなくて、彼はもう友達じゃないし、当然、もう恋人にもなりえないし。ただただ、私の知らないところで幸せになって欲しいっていう……そんな思いだけがある」


「あ、なんかそれ、解るな」


「うん。それでもやっぱり別れる時はね、色々あったのよ。仕事が手につかないくらい気持ちを揺さぶられて、恨んだりもした。私が私じゃなかったし。だから、きっと彼も辛かったんじゃないかなって。男の人でもしんどいものでしょう?」


「もちろん、そうさ」


「もう関わっちゃ駄目っていうか、彼自身よりも彼と居た頃の自分のことが嫌いになりすぎて、もう封印したかったのかもしれない。自分とあゆむ相手じゃないと、しっかりそう確信した」


「それが分かれば、十分だ。もう悩むこともないな」


「そうね」


「もうお前は3年前のお前じゃなくて、進歩した新しいお前なんだ。だったら、葉月さんにちょっと刺激されたぐらいで暗い顔する必要なんてないんだよ。引きずってると、思い込んでたのは、お前自身だ」


「ホント、そうね」


「本当のお前は、もう十分前を向いてる。そうだよな?」


「ええ」


「よし! そうとわかったら、飲み直すか!」

そう言ってかれんの方を見た。


「お前……どうした!?」


「何が?」


「お前、泣いてるのに気づいてないのか!」


かれんの目から大粒の涙がぼろぼろこぼれていた。

拭おうとする手を制して、健斗がそっとハンカチを差し出す。


「ありがとう」


「泣きたいなら、ちゃんと気が済むまで泣いたほうがいいよ、俺、ここにいないほうがよかったらあっちで……」


かれんが健斗の袖をつかんだ。

「ううん、ここにいて。何て言うか……言って欲しかった言葉を 言ってもらったような……」

下を向いたままかれんが答えた。


健斗は浮かしかけた腰をソファーに沈める。


「分かった」


しばらく静かな時間が流れた。


かれんが化粧室に立って、健斗は波瑠のもとに水を取りに行った。


「かれんさんは、大丈夫なんですか?」

波瑠が心配そうに尋ねた。


「うん、解決はしてるみたいだ。俺には経験のないことだから、どうしてやったらいいかわかんねぇわ。波瑠ならわかるか?」

波瑠も、うーんと腕組みをする。


「ボクも女性の心はわかんないですね……ただ、聞いてもらうだけでもずいぶん楽になるって、お客さんから聞いたことはあります」


「そうか……あ、戻ってきた」


「はい、これミネラルウォーターです」


「サンキュ」


席についたかれんはすっかり落ち着きを取り戻していた。


「ほら、これ」


「ありがとう。心配かけちゃったわね。ごめんなさい」

そう言ってかれんはごくごくと水を飲んだ。


「やだ、まだそんな顔して。もう大丈夫だってば!」


「……そっか」


「まあ……苦しいのも、感情があるっていう証だから、人間にはたまには必要なのよ」


「シャットアウトしたりしないのか? いつも真っ向勝負?」


「まあ、逃げて心を守らないといけない時も、あるかもなって、最近ようやく思えるようになって来たかな」


「それはわかるかも」


「女が仕事をするのって、意外と大変なこともあるのよ。大学の先生にはわからないかもしれないけどね」


「そんな皮肉を言えるようになったんなら、もう大丈夫だな?」


「お酒の席とはいえ、ご面倒をおかけしました」


「とか言って、お前まだ酔ってんな?!」

ふふっと笑ってみせる。


時計の針が12時に差し掛かろうとしていた。


「おっと、魔法が解ける時間だぞ! 送って行く」


立ち上がりながら、かれんは笑った。

「数学准教授でもシンデレラは知ってるのね?!」


そばに来た波瑠も笑っている。


「俺の書斎にも童話くらいはあるぞ!」


「えー似合わない!」


「でも確かに、健斗さん宅のライブラリーにならあるかもしれませんね!」


「まさか童話を読んでもらわないと寝られないとか?! 似合わないよね?!」


二人して笑っている。


「なわけないだろ! 波瑠、お前まで笑うな! ほら、もう帰るぞ!」


「あはは、じゃあ波瑠くん、色々ありがとうね!」


「ありがとうございました。由夏さんと葉月さんにもよろしくお伝え下さいね」


「家に帰ってからも一波乱ありそうでコワーイ!」


「あはは、お気をつけて。おやすみなさい」


「また来ます。おやすみなさい!」



『RUDE bar』の扉を開けると、冷たい空気が入ってきて、心地よかった。


大きく深呼吸する。

火照った頬を風がスーッと撫でていく。


「なんかごめんね、由夏や葉月の分までごちそうになっちゃうなんて……」


「いいって、彼女達にもいつも世話になってるしな」


「ありがとう」


「また飲もうって伝えといて」


「うん! ねぇ、いつもああやってツケで飲んでるの?」


「あ……まあな」


「変なの」


「そ、それよりお前けっこうフラついてるぞ」


「大丈夫大丈夫、あっ!」

かれんのヒールが溝の金網にはまってよろけた。


とっさに健斗が支える。

「おい、大丈夫じゃないだろ!」


「ああ、またヒールが……」

そういって片方のパンプスを脱ぐ。


「お前! こんなとこで何やってんだ?」


「あ、良かったぁ、大丈夫だった」


「なんだ? 靴の心配か!」


「あなたと初めて会った時にはお気に入りのパンプスが折れちゃったからね」


「早く履けよ、すっ転ぶぞ!」


履きながらまたよろめく。


「おっと! ほら、危ないだろ!」


「あの時の天海先生、可愛かったな」


「天海? あ、あのドクターか。可愛かっただと?! 百歩譲って紳士的とか言うならまだしも」


「私の壊れた靴をテーピングテープで治療しちゃうんだもん、すっごく嬉しそうな顔しちゃって」


「オンナってそういうのにキュンと来たりすんのか? 簡単だな」


「うん、キュンときたかも!」


「お前なぁ……ほら、信号渡るぞ!」


「あなたの家は北側でしょ。渡らなくても……」


「こんな酔っぱらい、放置して帰れるかよ、ほら急げ!」


健斗はかれんの腰に手を回して支える。

渡り終えると二人はすっと身体を離した。


「あのジャズバーでさあ……」


「うん?」


「由夏さんは、もしかしたらお前と彼に未来があるのかもしれないと思って、一か八か会わせてみたんじゃないか? お前が立ち止まってるのを見かねたのかもな」


「うん、そうかもね。昔からそういう子なの、おせっかいっていうか」


「お見合い斡旋おばさん?」


「あはは、そうそう!」


「まあ、白黒つけるきっかけになったんなら、彼女には感謝しないとな」


「そうね由夏はいつも先回りして考えてくれる。ちゃんとお礼言わなきゃね!」


「ええっと、鍵は……」


鞄に手を突っ込んでいるかれんを見て、健斗はため息をついた。


「マジで言ってんの? 由夏さんに鍵を渡したこと、覚えてないのか?」


「あ、そうだった!」


「やべぇな、お前、いったいいつから酔っぱらってるんだ?」


かれんは部屋番号と呼び出しをプッシュした。

「最上階かよ!」


「もう! 見ないでよ!」


何度インターホンを押しても、反応がなかった。


「え? なんで?」


「部屋番号は間違ってないのか?」


「7階はウチ一軒だけよ、間違いようがないわ」


「なら由夏さんも葉月さんも寝ちまったか?」


「ええっ?! そんなの困る!」


更に『701』を呼び出してみるが反応がなかった。


「携帯に電話しても出ないわ」


「こりゃダメだな」


「ダメじゃ困るわ! どうしよう?!」


「……じゃあさ」


「なに?」


健斗は少しうつむいて、後頭部に手をやる。

「ウチ……来るか?」


「ウチって……藤田健斗のあの家?!」


第10話 『RUDE bar』かれんの気持ちー終ー


→第11話 健斗の部屋 1st

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