第55話 何もしてない





「僕は何もしていないですよ」


「あのとき、あなたが言ってくれなければ、とんでもない深みにはまってしまったかも知れないです」


2年前、誠児は息子のことで悩んでいた。


「大学を辞めたい」


突然言われて、頭がパニックをきたしていた。


せっかく浪人までして入った大学なのに、突然切り出された。


「大学辞めてどうするんだ」


「働く」


「お前は社会のこと分かってない」


「俺は自分の判断で生きてみたいんだ」


けっして進路について強要したことはない。ただ、自分の思う方向に導いていたのではないかという後悔はあった。


ほとんど鬱の状態になったとき、近所に住む先輩に相談したのだった。


「もう一度受験すれば良いじゃないか」


それは考えてなかった。


苦しい浪人時代のことがあり、もう一度改めて受験を薦めるなどということはまったく考えもつかなかった。


その後いろいろあったが、息子は再受験することになり、無事に第一志望に受かっていた。


「あの時は、大学を辞めたらもう子供の将来はないとばかり考えていませんでした。だから、もう一度受験し直すなんて考えはまったくなかったのですが、先輩に言われたことで、体から力が抜けたように感じたんです」


「それは良かった。少しは役にたてたんだね」


そういうと先輩は微笑んだ。



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