ごめんなさい ―最後の一行―
※テーマは「手紙」のショートショートです。
***
昼間に降っていた雨も上がり、濡れた舗道が月の光を映している。
頬をなぜる風も心地良い。
残業をして遅くなったものの、プレゼン資料を作り終えた充実感が家への足取りを軽くさせた。
角を曲がるとエントランスの明かりが見える。
近くに幹線道路もなく、この時間は特に静かだ。
オートロックのドアを通り、メールボックスに立ち寄った。
入っていた郵便物をチラシと一緒に無造作につかみ取る。
いつものように階段で二階の部屋へと向かった。
鍵を開け、明かりを点ける。
テーブルの上に荷物を置き、上着を脱いで椅子の背に掛けた。
ネクタイを外しながら、ふと一通の封筒に目が留まる。
あの時、もっと注意するべきだった。消印も差出人の名もないことを。
着替える手を止め、封を開ける。
中から便箋を取り出した。
『金井 純也 様』と書いてある。
(俺宛で間違いないみたいだ)
立ったまま読み始めた。
*
金井 純也 様
はじめまして。
突然のお手紙をお許しください。
どうしてもあなたにお詫びの言葉を残したく、こうして筆を執らせて頂きました。
あなたを初めてお見かけしたのは、六年前の三月五日です。
土曜日の午前中、○○町の図書館にあなたがいました。
あの日、私が読もうとしていた「もうすぐ旅立つ愛しい人に」を書棚から取って頂きました。
背の低い私が書棚の前で手を伸ばしているのを見かねてのことでしょう。
(そんなこと、あったっけ)
私は恋に落ちました。
あれから、あなたのことだけを見ています。
ヨツバ通商に勤めていること、
駅までは歩いて通っていること、
会社近くのお蕎麦屋さんに週一回は通うこと、
見かけによらず虫が苦手なこと、
先週の日曜日にアディダスのスニーカーを買ったこと。
あなたの日常は私の至福の時でした。
(こいつ、ストーカーか。全然気付かなかった)
椅子に座り、読み進める。
もちろん、あの女のことも知っています。
あなたが、あの女と結婚することも。
もっと早く、あなたに伝えておけばよかった。
あの女は不倫をしていました。
(美咲のことまで……。それに、不倫って。何言ってるんだ、こいつは)
馬鹿馬鹿しいと思ったが、読むことを止められなかった。
あの女はあなただけでなく会社の上司とも付き合っていたのです。
あなたには辛いことですが、上司の方が好きだったようです。
でも相手が離婚を渋り、自分とは一緒になれないと分かったので、あなたのプロポーズを受け入れたのです。
あなたに伝えるのが遅くなってごめんなさい。
(まさか……。そうだ、こいつの妄想だろう。ストーカーのやりそうなことだ)
胸に湧き上がりかけた疑念を、無理やり消した。
(お詫びって、このことか。くだらないっ)
まだ続きがあるようだ。
最後になるので、食器は洗って片付けておきました。
(えっ!?)
驚いて、手紙を握ったまま立ち上がり、キッチンへ向かう。
今朝、流しに置いていった皿もコップも――そこにはなかった。
「うぉっ……」
何かが後ろからぶつかってきた。
背中が灼けるように熱い。
急にあたりがうす暗くなった。
振り向くと見知らぬ小柄な女が、両手に赤いモノを持って立っている。
膝から崩れ落ちたとき、ガラスを割られた窓が目に入った。
あの先はベランダがある。
そして、握りしめた手紙の最後には……。
あなたの命を奪うことになり、申し訳ありませんでした。
その一行を読むことは、もう出来なかった。
― 了 ―
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