第8話 守りたい

 野口綾香は、とある建物の個室にいた。

クリーム色の壁紙に大きな窓から散々と注がれる太陽の光がゆらめいている。


綾香はローベッドに腰掛けて、その光をぼんやりと眺めていた。


この8畳ほどの部屋にはトイレと洗面台、シャワールームが完備されており、まるでホテルの一室のようだった。


テレビはない。

代わりに音楽プレイヤーが設置されている。


携帯電話はとっくの昔に家に置いてきた。


この部屋にいると、外界からの情報をシャットアウトしているせいか時間の流れがよくわからなくなる。


毎日3食の食事が運ばれてくるため、朝、昼、晩はわかる。しかし、綾香には今、何時何分かがわからない。


ここでは時間など気にする必要がなかった。


だから、あれから何日が経過しているのか正確にはわからない。


ここに来てからの食事の回数を数えればわかりそうなものだが、はっきりと思い出すことはできなかった。


ノックの音がして昼食が運ばれてきた。


“私の担当”の啓子さんがお膳をテーブルの上に置いた。


私は「ありがとう」と啓子さんに礼を言った。


今日の啓子さんは紺色のブラウスにグレーのスラックスを履いている。


この建物内にいる人間は、皆落ち着いた色合いの洋服を着ている。


私はというと、やはりベージュのシックなデザインのワンピースを着ている。


簡易的にではあるが、あまり大きくないクローゼットが備えつけられている。


中には何枚かの洋服が掛けられているが、どれも目立たないシックな色合い、デザインのものだ。


「気分はどう?」


啓子さんは穏やかな口調で私に聞いた。


「うん、とてもゆったりと過ごせているわ。」


ここでは敬語も禁止されている。


啓子さんは40代後半から50代半ばくらいに見える。



私はここで、かくまって貰っているのだ。




私は妊娠している。




 私は親から虐待を受けていた。


父親は少しでも反抗的な態度を取ると、すぐに殴るのだ。


私は自分の意見を曲げるのは嫌だった。

それくらいなら殴られた方がマシだった。


母親は私が殴られ続けるのを見てみぬふりをしていた。

私にとっては母親は父親と共犯も同じだ。


早く高校を卒業して家を出たかった。


それまでは、なんとか我慢しようと考えていた。


半年ほど前のことだと思う。


その日は執拗に何度も殴られた。

あいつは私に謝らせたいのだ。


私は謝る気などなかった。


殴られる痛みのなかでフッと何かが脳裏を横切った。


私は、このままでは父親を殺してしまうのではないかと思ったのだ。


それが一番恐ろしかった。


私は隙をついて逃げた。


その時、私はパジャマ姿で何も持たずに家を飛び出した。


私は繁華街に着いた時、自分が裸足なことに気がついた。


夜の11時の繁華街でパジャマ姿に素足の少女は随分と目立ったことだろう。


警察に補導されるのだろうと思った。

その時は事情を洗いざらい話すつもりでいた。


案の定、後ろから肩を叩かれた。


「君、大丈夫?」


警察ではなかった。


20代くらいの若い男が1人で立っていた。


中肉中背で、これといった特徴のない顔立ちをしていた。

服装はデニムにパーカーで髪も短く、こざっぱりした男だった。


私はこの男に売られるのだろうと思った。


男は私の腕をつかむと半ば無理やり路地裏の小さな建物の中に私を連れていった。


そこは今は空店舗だった。


カウンターがあり、カラオケの機材が置いたままになっていた。


そのカラオケの機材のすぐ近くにドアがあり、

そこから地下へと続く階段が延びていた。


男に連れられて降りると、そこは住居になっていた。広さは10帖ほどで、トイレとシャワーがついていた。小さな洗面台も設置されていたがキッチンはないようだった。


男は私を安そうな古いソファーに座らせると、自分はフローリングに座り下から私を眺めた。


私は黙って大人しくしているしかなかった。


男は口を開いた。


「俺はケイゴ。君の名前は?」


迷ったが本名を言った。


「アヤカちゃん、なんで裸足であんなところにいたの?」


私は全てを正直に説明した。


ケイゴは少し考えてから言った。


「取り引きしない?」


私は思わず「えっ?」と声を漏らした。


ケイゴは話を続けた。


「俺と付き合ってほしいんだ。

俺と付き合ってくれたら、この部屋から学校へ通うといいよ。

お父さんとは少し距離を置いた方がいいと思うしね。」


私は考えてみた。


この見ず知らずのケイゴと名乗る男と付き合うことを。


強引にここへ連れてこられた時は、とても恐ろしかったが、どうやら彼は私に危害を加えることはなさそうだ。


こう、改めてみるとケイゴは、なかなかのイケメンだった。

生理的にも受け付けないわけではない。


私はとにかく家に帰りたくなかった。


「わかった。あなたと付き合う。

でも、教科書も制服も家にある、、、。

第一、家出していることが学校にバレたら家に連れ戻される、、、。」


「それについては、いい考えがあるよ。

まず君は今から、家に電話をかけるんだ。

それで友達の家にいるって言っておけば、とりあえず警察に連絡されることはない。

それから親がいない時に必要な荷物を取り行けばいいよ。」


私は心を決めて言った。


「私、高校はやめる。ここにあなたといる。」


「いいんだね?」


「うん。」


「わかった。とりあえず親が警察に捜索願いを出さないように家には電話をかけよう。」


母は電話で「友達って誰?」「なんとか高校は卒業して!」などと、好き勝手言った。

気がついたら、自分でも恐ろしいくらい饒舌になっていた。


「わかった。明日の昼間に家に制服と教科書を取りに行く。でも、私はもう、あなた方とは暮らさない。社会人の彼氏がいるの。彼の部屋から通うわ。反対したってダメだよ。いざとなったら私がお父さんに受けた虐待のこと、先生とか警察に全部話すから。それは困るでしょ?世間体が崩れるどころか、お父さん逮捕されるかもしれないよ?いいの?嫌なら私の好きなようにさせて。わかった?」


母は泣いていたが、さすがに虐待がバレるのを恐れ、私の欲求をのんだ。


これで私が親に愛されていないことが証明されたわけだ。


両親は私より自分たちを守ったのだ。


だったら、もう、私を守れるのは私しかいないのだ。



 翌日、ケイゴは私を家まで車で乗せていってくれた。

あえて母が仕事に出ている時間を選んだ。


鍵は裏口横の鉢の中にある。


私は自分の部屋へ行くと、制服と何枚かの洋服、下着を出してボストンバックに無造作に入れた。

それから、通学カバンに教科書と筆記用具を詰め込んだ。

チャックが壊れるかと思った。


荷物が、あまりにも重くなってしまったためケイゴに手伝ってもらった。


こうして、私はケイゴの部屋から高校へ通うことになった。


ケイゴは優しかった。


彼の本名は“ 坂岡 啓吾 ” といった。

年齢は25歳だったが20歳と言われても信用しただろう。


ケイゴは仕事をしていないようだったが、亡くなった父親が資産家で、それを相続できたため、お金をたくさん持っていた。

マンションもいくつか所有しているらしく家賃収入だけで生活できるらしい。


ケイゴが私に何かを要求することはなかった。


食事はコンビニの弁当か外食がほとんどだったが、地上1階の元店舗のカウンターに流し台とコンロがついていたため、時々、簡単な物なら作ってくれた。


ケイゴは学校が休みの時は車でいろいろな場所に連れていってくれた。


ケイゴはセンスがよく、私に洋服を選んで買ってくれた。


髪が伸びると器用に切ってくれた。

今まで行っていた美容室も上手だったけど、ケイゴはもっと上手かった。


二人の距離は日に日に縮んでいった。


たまに1人で出かける時があったが、私は特に気にしなかった。


セックスに関しては、彼は1度も自分から誘わなかった。

初めてした時も私から誘った。


大切にされているという実感があった。


そして、、、。

 


私は3ヶ月ほど生理がきていないことに気がついたのだ。


すぐに妊娠検査薬でチェックした。

検査薬は妊娠していることを示していた。


私はすぐにケイゴに打ち明けた。


彼は一緒に育てようと言ってくれた。


不安もあったが幸せだった。


私は未成年のため、出産するに当たって親に言わなくてはならなかったが、ケイゴはそれについては、なんとかなると言った。


「実は未成年者が親に知られることなく出産できる場所があるんだ。」


そんな場所があることが驚きだったが、今の私にとっては有難い話だった。


「もちろん、検診も受けられる。俺の方で手続きしておくよ。」


彼の存在が頼もしかった。


1週間後、ケイゴと病院へ行った。


私の担当医師は “ 佐藤 由紀子 ” という女性だった。

問診票を記入しカウンセリングを受けた後、内診した。


佐藤先生は「おめでとうございます。ちょうど3ヶ月くらいですね。」と言った。


おめでとうと言われたことが、こんなに嬉しいと感じたことはない。


私たちは佐藤先生から名刺をもらって、あの地下の部屋へと帰った。



その日の深夜のことである。


夜中に目が覚めた私はケイゴの姿がないことに気がついた。


上にいるのだろうと思ったがいない。


その時は、たまたま、どこかに出かけているのだろうと考えていた。


しかし、ケイゴは朝になっても帰ってこなかった。

その日は高校へは行かず一日中、部屋でケイゴの帰りを待った。


しかしケイゴは帰ってこなかった。



途方にくれた私は、翌日、佐藤先生に相談してみることにした。


頼れる人が他にいかなったのだ。


産婦人科の前でウロウロしていると看護師に声を掛けられた。

なんて言ったらよいか考えあぐねていると、ちょうど佐藤先生が入り口から出てきた。


「あと30分程、待合室で待っててくれますか?」


佐藤先生はそれだけ言うと診察室へと姿を消した。


思いの外、忙しかったのだろう。

一時間程して佐藤先生が現れた。


「ごめんなさい。遅くなりました。」


私は首を横にふった。


「今日は診察を受けにきたのではなさそうですね、、、5階に食堂があるので昼食を取りながら話しましょう。」



私はこの時すでに軽いつわりがあり、迷わず素うどんを頼んだ。

なぜか、あっさりとした麺類ばかり食べたくなった。

それでも食べれられるだけ、まだ軽い方らしい。


佐藤先生は山菜蕎麦を頼んだ。


私は言った。


「ケイゴが帰ってきません。」


佐藤先生は眉間にシワを寄せ随分難しい顔をしたまま、しばらく考えていたが、やがて口を開いた。


「彼の部屋を出ましょう。新しい滞在先は私の方で用意できます。衣類や生活用品も全て準備できます。

それと、これが1番大事なことでが、、、。」


佐藤先生は苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「高校は辞めることになりますがよろしいですか?」


私に異論はなかった。


私にとって一番大事なことは、お腹の中の子供を守ることなのだ。



こうして私は、今この場所にいるのだ。


お腹の子供と共にかくまられた安全な場所に。

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