『鴉』
大学に戻っても、結局は彼の名前を知ることはなかった。知ろうとすら思わなかった。それに意味なんてなかった。ただ、彼のことはすぐに見つけることができた。講義室の前から三列目、右側の席に陣取っている。ノートを書くわけでもなく、片肘をついて黒板を眺めている。確かに、頭を上げたら会うことができた。
彼は客観的に見ても、目立つ方に見えた。僕より20センチは背が高くて、深い青とも言える黒い髪が襟元まで伸びている。季節に関わらず黒い羊革のジャケットを羽織っていたし、廊下には履き潰されたブーツが一定の間隔で、調子よく床を鳴らしていた。にも関わらず、彼は誰よりも目立っていなかった。彼はあらゆる注意を自分からそらしていた。またはそうすることに長けていたとも言えるかもしれない。だから僕は彼に注意を向けるまで、彼を見つけることができなかった。
そうして、男は僕にとって『鴉』になった。
僕は 『鴉』と出かけることが増えた。
ある時は喫茶店だったし、ある時は隣町のファミレスだった。そして、たまには近所の公園だったりした。
公園のブランコに揺られながら、煙草を吸った。
「旅がしたいんだ」
『鴉』は右手のひらを裏返して言った。そして煙草の先から灰が落ちた。
「どこに?」
「どこでもいいんだ。近場を巡るのにも飽きただろう?ぐるぐるぐるぐるさ、目が回るね」
「足踏みするみたい?」
「そうとも言える。つまるところ、俺は退屈なのかもしれない。……嫌か?」
『鴉』のつり上がった切れ長な目は静かに正面を見つめていた。
その目線を追っても、数メートル先の砂場すら、闇に埋もれていた。
「いや、いいよ。僕も、そろそろ進むべきだと思うんだ」
『鴉』は、瞳だけをこちらに向けて、タバコの火を消した。
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