雲の隙間を眺めていると、一羽のカラスが視界を横切った。

最後にカラスを見たのはいつだろう、と思う。しかし、彼らはどこにだっているはずだった。

それ故に、彼らは人間の注意の外に置かれている。

しかし、彼らにとってはその方が居心地がいいのかもしれないと思った。そして『鴉』にとってもそうかもしれない。

僕達は注意したものしか認識することができない。認識したとしても排除される。そういうようにできているんだろう。僕はおそらく、久しぶりに空を見上げた。空は曇って、晴れ間は雲に隠れてしまっていた。


スリーブハウスを出て、昼まで時間があったので、本屋に寄って時間を潰した。そして、本を一冊買って外に出た。

『鴉』がどこに行ったのか、それは全く見当もつかなかった。空を見上げたけど、もうカラスは飛んでいなかった。彼が本当に働きに行ったのかどうかはわからないけど、本当だろうと考える事にした。そして、僕の方はといえば、一年ほど前からアルバイトをしている。大学と家を線で繋いで、そこの中心から垂直に線を引っ張ったようなところにある古い本屋だった。そこでは全くと言っていいほど新しいことは起きなかった。ほとんど毎日、同じような人が、同じような格好で店に来て、同じような本を買って帰った。

そして、そのような人々の中には、時々そこに住み着いてしまうような者がいる。

つまり、僕がそうだった。


大学に友人はいなかった。

だからといって、一時間かけて地元に戻っても、それは変わらなかった。

僕は入学してしばらくは講義に出たり、本を読んだり、時々は一日中家にいたりした。風通しのいい穴の空いたような時間だった。その穴からは時々、爽やかな風が入り込んだし、ときたま湿った不快な風が入り込んできたこともあった。僕は適度にそれらを浴びて、その間にすり抜けていってしまったもの達に想いを馳せた。そうした間にも、時が過ぎて、風は流れた。


そうして、ほとんど一年が過ぎた。


大学に入って二年が過ぎた頃に、その当時僕を夢中にさせた小説の舞台に一人、旅行に行った。当日の空は曇っていた。

思い描いたよりも、実際の景色は色褪せて見えた。


そうして、じきに雨が肩を濡らし始めた。


帰り際、豆の香りに誘われて喫茶店に入った。

雨のせいで、足元は所々に水たまりができて、床板もそのせいで黒ずんでいた。思ったよりもお客が入っていて、僕のような旅行客が談笑したり、常連のお客が店員と言葉を交わしたりしていた。誰もが他人とつながりを持ち、交友を深めていた。そして僕だけが1人だった。

カウンターには、もちろん、コーヒーカップが一つ置かれた。

僕は本を読みながら珈琲を飲んだ。店中に珈琲豆の香りがする。とてもいい香りだ。なのにどうしてこんなにまずい珈琲が出てくるんだろう?僕は珈琲をゆっくりと口に含んで、流し込むことを繰り返した。


その間、本のページがいくらか進んだ。とても退屈な本だった。

進歩がない、といった意味で、退屈な本だった。

その場で忙しく足踏みをしているようなものだった。疲れと焦りだけが頭を支配する。


「……雨はいつか止む。だけど、空はどこへもいかない」


いつの間にか、僕の二つ隣に座っていた男が突然話し出した。カウンターには僕と彼しかいないし、店員は再び常連と話し込んでいた。つまり、今のは僕に言ったということになるのか。僕に同情した優しい人か、或いは『ヤバい人』だ。


「……僕ですか?」


「カウンターに人がいないから、つまりはそういうことになるな。あんたの名前も知らないし。ところで、今のどんな意味を含んでいると思う?」


「……根本的な解決にはならない」


「そう考えることもできる。だけど、正解は『意味なんてない』だ。だって、俺がたった今考えたんだぜ」


「なんのために?」


「あんたがやってみせた通り、意味は後からいくらでも見つかるってことだよ。わざわざ意図しなくてもね。つまるところ、自己弁護の為の後付けなんていくらでもできる」


「僕がここにいることにも?」


「そう」


男は頷いて、珈琲を啜った。そして僅かに眉を寄せながら、僕の手元を見た。


「それ、退屈だよな。もしかして、弁護できないこともあるのかもって、思うよ」


僕は本にしおりを挟まずに閉じて、ポケットにしまった。


「名前は?」


「帰ったら、また大学に行くだろ?講義に出て、頭を上げる。そこで会える」



男はそういうと、千円札を1枚カウンターに滑らせて、店を出ていった。僕はしばらくして、ポケットにしまった本をカウンターに置いて店を出た。雨は止んでいたが、曇り空はそのまま、僕の世界を灰色に染めていた。

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