容れ物

saica

スリーブハウスの朝

『鴉』は席を立つ。

僕は彼の隣で珈琲を啜っている。

「便所」

「うん」

『鴉』が奥の扉に歩いて行く。

時間は、午前10時前といったところだ。奥のカウンターに座っている女が、黒木と話し込んでいるのが見える。映画の話をしているのが、僅かに聞こえる女の声からうかがい知ることができた。女が話して、黒木が相槌をうつ。そしてまた女が話す。そして黒木が質問をする。女が話す。黒木が相槌をうつ……。その繰り返しだった。


『鴉』は、戻ってくると、椅子にかかった革のジャケットを手に取り、カウンターに千円札を1枚置いた。

黒木がこちらに視線を移して、女と一言二言交わして、僕達に向かってくる。話が途切れたことで、女がこちらを見て眉間を寄せた気がした。僕は目をそらして、こちらに向かってくる黒木に視線を移した。


「もう行くよ」


「今日はこれからどうするんです?」


「もちろん、働くよ。俺もたまには働かなくちゃな」


『鴉』は僕に向かって軽く手を振り外に出た。その後ろ姿を見届けてから、僕は半分ほど残っている珈琲を啜った。


「彼が働いているなんて、知らなかったな」


黒木が静かに笑いながら言うので、僕もつられて笑った。僕の方も、『鴉』が働いているということを知らなかった。冗談だと思ったくらいだった。


「僕も、彼について知らないことが多いんだ。その点については、黒木と同じようなもんだよ」


「へぇ、意外だね」

僕は頷いた。


黒木はほんとに驚いたような顔をした。

実のところ、僕もその事実に驚いていた。『鴉』については、よく知っているつもりだった。僕にとって『鴉』は、いい友人だし、おそらく『鴉』にとっても、僕はいい友人だと思う。しかし、僕が彼について知らないことは、知っていることをはるかに上回っていた。もちろん、彼の方も、僕についてほとんど知らないだろうと思った。僕が彼に話していないことは探せばいくらでもある。意図的に隠しているわけではない。ただ、言わないだけだ。

僕たちの間には僅かに共通するある種の空気があって、それの重なり合うところで、言葉を交わしているに過ぎなかった。その背後にあるほとんどの部分に、僕達は目を向けたことはなかった。たとえ目を向けたところで靄がかかったように一センチ先も見通すことはできないだろう。


「君の方はこれから何かあるのかな?」


「もちろん。僕も、たまには働かなくちゃね」


僕は残りの珈琲を飲み干して、椅子に立てかけたジャケットに袖を通した。


黒木は微笑んで、また来てと言った。僕も微笑んでまた、と言った。

扉を開くと、曇り空から僅かに晴れ間が覗いていた。

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