第29話 私の前では素のままで

 ジェラルド・エルヴェシウス。

 彼と初めて会った日のことはよく覚えている。


 マルセル様に対して熱い視線を向けているのに、同時に何処か諦めたような表情をしていた。

 こいつはこの先ずっとマルセル様に対してそんな視線を向け続けるのだろうか。

 たとえマルセル様が誰と結ばれようと。

 そう思った途端、オレは急にコイツが気に食わないと思ったのだった。


 *


「……」

「……」


 気まずい。

 二つのカップに紅茶を注ぎ終わると、オレと公爵は黙って見つめ合ったのだった。


『これは命令だ、クリス』


 マルセル様の言葉が頭の中で反芻される。

 あんな鋭い視線を向けられるのは初めてのことだった。


 どうやらオレはマルセル様の機嫌を損ねてしまったようだ。

 それは分かるのだが、これからどうすればいいのか分からない。

 今までほぼ完璧に仕えてきたのに。

 どうやって御主人様の信頼を取り戻せばいいのだろう。


 せっかく努力して彼の執事になったというのに。


 あ……クソ、目の前が霞んできやがった。

 こんな奴の前で涙なんか見せたくないのに。


「その……」


 公爵がおもむろにカップを口に運び、紅茶を一口含む。


「今日も、美味しい紅茶だな」


 そして公爵はオレにぎこちなく微笑んだのだった。


「……は?」


 彼は明らかにオレを慰めようとしていた。

 彼がオレを慰めようとしていることと、その慰め方があまりにも下手すぎることに驚いて思わずドスの効いた低音を出してしまった。

 彼はそんな反応が返ってくるとは思っていなかったのか、ビクリと竦む。

 オレもこんな声を出すつもりはなかった。


「ごほん、失礼いたしました。どうも喉の調子が悪いようで」

「いや、いいんだ」


 なんとか誤魔化せたかとほっと胸を撫で下ろし……


「今のが君の素なのだろう?」


 誤魔化せていなかったことを突き付けられた。


 よりにもよってコイツの前でボロを出してしまうなんて。

 きっといつものお小言と同じ調子でこれからオレを説教するのだろう。


 だからオレはコイツが嫌いなのだ。

 生まれた時から家族に存在を認められていて、貴族として教育を受けることが出来て、オレが貧民街から這い上がって必死に形作った執事としての仮面を簡単に引き剥がそうとする。

 オレはコイツの眉間に皺を寄せた険しい顔が大っ嫌いだ。


「その、良ければだが……私の前では素のままの君でいてくれないか?」


 オレは今度こそフリーズした。

 何を言い出すんだコイツは? 何を言っている?

 何を意図しているのかよく分からない。


「その方がリラックスできるかと思って……」


 その言葉に合点がいった。貴族様お得意の傲慢かと。


 おおかた平民は敬語を使わない方が気楽だろうと思っているのだろう。

 とんでもない。貴族相手にタメ口を聞かなければならないなんて、心臓がもたない。

 王城の道化師がどれだけ気を張って一語一語を発しているか知っている。

 このオレに即興で道化師並の芸当を見せろと言うのか。


 今ならば分かる。

 今は引退した執事長は敬語は貴族を怯えさせない為の物だとオレに教えたが、それだけではない。

 敬語というのは貴族から身を守る盾でもあるのだ。その盾を捨てて立ち向かえというのか。


「……分かった。これでいいんだろう」


 仕方なくオレは彼の言葉通りにすることにした。

 ネクタイを緩めながら息を吐く。もうどうにでもなれだ。


「ああ、ありがとう」


 途端に彼がパァっと顔を輝かせる。

 今のオレの言動の何が彼の琴線に触れたというのか。


「マルセルのことはあまり気に病まない方がいい。体調が悪くて言い方が乱暴になってしまっただけだろう」


 そう彼が話す。引き続きオレのことを慰めているつもりなのか。


「元気になればまたいつものようになる筈だ」

「そんなこと、言われなくても分かってる」


 乱暴に目元を拭って彼を睨み付ける。


「……うん、それなら良かった」


 結局、この日のお茶会はそれ以上碌な会話も無く解散になった。

 どうしたんだ公爵は、急に口下手みたいになって。


 * * *


 どうしてしまったのだろう、私は。


 クリスの眦に涙が浮かんでいるのを目にした瞬間、彼は私よりもずっと年下の少年なのだということを思い出した。

 その彼が必死に強がって私を睨みつけている。

 その事実に心臓がドクドクと鼓動して、言葉が喉でつっかえる。


 ただ、ありのままの彼の姿をもっとこの目に焼き付けていたかった。

 この感情は一体、何なのだろう。


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