短編より長編が好きな人間なんてこの世にいねえ

「こんにちは。暑いですね」


 例によってチャイムも鳴らさずに三吉が上がってきた。その手にはコンビニエンスストアの袋が下げられている。


「お湯もらいますね。食事する時間が取れなくて」


 こんなとこ来てるからだろ、と言いそうになったが無視をした。

 台所へ向かい、カップラーメンのお湯を沸かしている三吉が戻る前に、こっそりと出張土産を取り出す。

 やがて湯が湧いた。3分間待てば食べられる人類の英知を両手で運ぶ三吉の眼前に、金赤と黒と黄色が激烈な主張をする菓子を差し出した。


「大阪行ったんですか?」

「10年ぶりのひかりは外国人でごった返していた」

「何しに?」

「仕事の話」


 へえ、とでも言いたげな表情を浮かべながら三吉は床に座った。テーブルの上の書類を片付けるのが面倒だったと見える。


「あっちにお客さんいたんですね」

「ほそぼそとつながってはいた。本当にほそぼそと」

「大口の仕事の話が?」


 三吉はカップラーメンの蓋を開け、液体スープを注いだ。少し床にこぼれているが、どうせ拭かないだろう。


「結果から言うと、仕事の交渉はうまくいかなかった」


 ズルズルと麺をすする音が小さい部屋中に響いている。


「その代わり、大阪に勤めないかという話をもらった」


 ズルズルの音が止まった。


「マジですか」

「マジだわ」

「どうするんですか」


 昨日の今日なのでまだ結論は出していない。

 ここに天秤があるとする。

 おれの方に置かれている重りは、「上司のいない気楽な環境」と「覚悟があれば休みたい時に休める」の2つ。この2つを得るまでにはそれなりの苦労があったが、それはどうでもいい。

 先方が提示してきた重りはというと、「安定した収入」である。これ一つで上記の2つよりも遥かに重たい。


 最近話題になっているが、金融庁が「国民年金は気にせず、貯めた2000万円ほどで株でも買って老後に備えてください。けど徴収は続けます。がんばって納めないとヒドイことをします」と言い出した。どんなに体裁めいたことを言おうが、国家運営が自転車操業になりつつあることをついに暴露しやがったわけだ。

 誰もがわかっていたことではある。なぜならば年金制度は人口が増えること前提で設定し、徴収しているからだ。おれのような結婚もできず子供もいないダメ人間が何かを言う権利はないのかもしれないが、それでも一言だけ、毎月国民年金を納めてきた人間の権利として、短い罵倒だけ言わせてもらう。


「バカか?」


 これ以外に出てくる言葉がない。なんとか生きていくレベルの生活で耐えている身にとっては、今回の暴露で心の骨を丹念に折られた形となった。


「なので迷っている最中」

「そうですか」

「会社が厚生年金に加入しているから、給料もらったら家賃しか気にしないでいいとか……。夢のようだ」

「普通はたいていそういう感じだと思いますけど」


 ふと、会社を辞めた時のことを思い出した。これからは嫌いな上司の顔を見ないで済むとか、満員電車に乗らずに済むといった長所は確かに魅力的だった。安定した生活を捨ててでも欲しい虹色の生活が、そのときには間違いなくあった。

 だが実際にはどうだろうか。夜、一人で酒を飲みながら、手をじつと見て考えてしまうこともある。


 皮肉でもなんでもなく、様々な精神的労苦を抱えて、なお一つの職場に留まる人のことを尊敬する。先のことを考えてるなあ、と真面目に感心するようになった。


 三吉が顔を上げる。


「ところで、最近書いてないんですか。その、小説は」

「短いのをチョロチョロと。忙しいというかなんというか」

「長編書かないとダメなんじゃないですか。読者を呼ぶには」


 おれは「わかってねえな」というため息をつき、少し声を大きくした。


「いいか。短編より長編が好きな人間なんてこの世にいねえんだよ」

「なんですかその極論。というか暴論」

「短編は、仕事の合間とか息抜きで読んでもらえる」

「それはわかります」

「長編だとそうはならない。読んでもらう時間がないと」


 三吉は首をかしげながら言った。


「漫画週刊誌の長編とか見なかったですか」

「見ました」

「待ち遠しくなかったですか」

「待ち遠しかったです」

「じゃあ」

「みなまで言うな」


 おれは立ち上がり、外出する準備を整えた。


「どちらへ」

「コンビニ行って国民年金払ってくる」


 三吉も帰る準備を始めた。本当に食事だけしに来たのだ。


「お土産ありがとうございます。会社で開けず、家で嫁に渡します」

「そうしとけ」

「で、結論出たんですか?」


 当月分の国民年金領収(納付委託)済通知書を手に取り、靴を履いた。


「おれは大人で、これはおれの人生だ。自分の人生くらいは自分で決めるさ」

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