第104話 小競り合い
翌日にチェンマイに発つことになった私は、その日の夕食後、宿で久々にストレッチ中心のエクササイズをしました。
以前は日課にして一日も欠かさなかったエクササイズですが、空手を辞めると決めてからこっちは、これも完全にやめていました。
チェンマイ行きは、別に空手デモンストレーションではないのに、なぜ突然再開したのか?
そのときの心境は特に記憶にないのです。単なる気まぐれだったのでしょう。
しかし、もし人間に第六感というものが備わっているのであれば。
このときの私は後に訪れることになる危険を予知していたのかもしれません。
・・・痛たた。。ずいぶん固くなっているなあ。
時間をかけてゆっくりと全身を伸ばします。
小一時間ほどのエクササイズを終えた私は、シャワーを浴びてからベッドに寝ころびTVを見ます。
タイ語のTVは意味がよくわからなかったのですが、タイのポップスはかなり気に入ったので、音楽番組をよく観ていました。
当時はTATA YOUNGというティーンエイジャーの女の子の新人アイドルがたいへんな人気で、TVをつけると彼女のMVが毎日必ず流れていました。
このときはまさか、このかわいらしいタイ人のアイドルが、後にセクシーなアメリカ人女性シンガーとして来日し、オリコンでトップ10入りするほどブレークするとは夢にも思っていませんでした。
しかしこれはまったくの余談。
TVにも飽きたので、灯りを消して眠りに着こうとします。
しかし、目を閉じるとやはりサトミの顔が浮かんできます。
胸が苦しくなってなかなか眠れません。
自分の弱さがつくづく嫌になってしまいます。
翌日はやや遅めの朝食を摂り、中田さんの部屋に行って検品項目の書類などを受け取ります。
「ではお願いします。静子さんにはトミーさんが行くことを伝えておきましたので、段どりは静子さんの指示に従ってください。それほど急ぐ仕事じゃないので、時間があれば3~4日くらいのんびりしてくればいいですよ。チェンマイはのどかで人もいいし良いところです」
本当はのんびりよりタイトな仕事の方がその時の私にはありがたかったのですが、そういうことならチェンマイでちょっとハメを外して遊んでみようか?
などと、柄にもなく考えたあたりも私は平常心ではなかったのでしょう。
昼過ぎに私はバックパックを背負い、ホワランポーン駅に向かいます。
チェンマイまでは夜行列車の旅です。
タクシーを拾おうと思い、広い車道サイドの歩道に立っていると、突然後ろから声をかけられました。
「お兄さん、ちょっと、ちょっと。お兄さん日本人だよね?」
振り返ると、20歳になるかならないかくらいの2人の日本人の若者が、ニヤニヤして立っています。
ふたりとも真っ黒に日焼けして、だらしなく伸びた髪と無精ひげ、薄汚いTシャツを着てバックパックを背負っています。
もっとも私もまったく同じような身なりでしたので、傍目には同類が3人に見えたことでしょう。
しかし、私はあまり見知らぬ日本人に話しかけられたくない気分でしたので、無愛想に返事します。
「何?なんか用?」
若者のひとり、少しお調子者風の方が話します。こっちがリーダー格のようです。
「お兄さん、タクシーを拾おうとしてるんでしょ?俺たちも乗せてくれないかな?」
「・・・ん?タクシーをシェアしたいってこと?」
「いやそうじゃなくて、俺たち貧乏旅行なもんで、カオサンまでついでに乗せてってくれないかなって」
・・・なんだ、ずうずうしいガキどもだな。
このころはちょっとした貧乏旅行ブームで、こういったとにかくお金を使わずに旅するのが偉いみたいな風潮がありました。
それでたまにこの種のずうずうしい若者に遭遇することもあったのです。
さらに後にお笑い芸人がヒッチハイクでユーラシア横断するというバラエティ番組が始まったときには、この種の若者が爆発的に増えることになります。
「ホアランポーンに行くんだよ。ぜんぜん方向違いだからダメだ」
「そんなこと言わずにさ、いいじゃん。旅行者どうし助け合おうよ」
この言葉に私は一気に頭に血が上りました。
「ふざけんなこのクソガキ!寄生虫みたいなガキが何が貧乏旅行だ?単なる貧乏ゴッコじゃねえか!」
いつになく汚い言葉で、しかもお調子者のすねをゴム草履のつま先で蹴飛ばしながら怒鳴りつけました。
「痛ってえ!何するんだよオッサン!」
「ああ?やるか、コラ!」
私は両手の拳を固めて身構えます。
お調子者は顔を真っ赤にして向かって来ようとしましたが、もうひとりが後ろから羽交い絞めのようにして止めます。
「この人なんかヤバいよ。。行こう」
お調子者も向かって来ようとしたのは単なるポーズだったようで、あっさりと私から離れてきます。
20mほど離れたころに、こちらに向かって言いました。
「オッサン!こんど会ったら覚えてろよ!」
「ああ、なんだとコラ、戻ってこい!今やってやるよ!」
私が拳を見せて威嚇すると、若者たちはそのままそそくさと立ち去りました。
・・・・
言い訳じゃないですが、私は普段は決して粗暴な人間ではありません。
たかが無礼な若者相手に、こんなくだらない小競り合いを起こすような短気な性格ではないのです。
やはり、私はこの頃は普通の精神状態ではなかったと思います。
結局それが、チェンマイでもひと騒動起こしてしまう原因となったのでしょう。
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