第6話 中川先生の野望
中空会空手道場の指導員になって早くも2年が経ちました。
このころの私は当然ですが平日はサラリーマンとして会社勤めをしていて、休日は空手の指導員という生活パターンにすっかり慣れていました。
プライベートはというと、驚くなかれ。真理子とはまだ交際が続いていました。
彼女が絶対嫌といっていたパートタイムなデートでしたが、それでもまあまあ楽しくやっておりました。
つまりなかなか充実した毎日を送っていたわけです。
そんなある日のことです。
「冨井、ちょっと話がある。今日の稽古の後で付き合ってくれ」
中川先生に声をかけられました。会合場所は例によって駅前の牛丼店。
稽古を終えて牛丼店に向かうと、すでに中川先生が店頭で待っていました。
「冨井、こっちだ」言うなり店内に入ります。
「押忍、先生。話というのはなんでしょう?」
「うん、実は昨日なんだけど、スリランカのデワから国際電話があったんだ」
「ああそうなんですか。デワ元気にやってますか?」
「うん、元気そうだったよ。それでデワが俺に折り入って相談があるって言うんだ」
ここで運ばれてきた牛丼に七味と紅ショウガをたっぷり振りかけて先生は話を続けました。
「実はデワの奴、スリランカで空手道場を開きたいって言うんだね」
「デワがですか?空手道場ってあいつ、空手なんか一年もやってないし、どうやって教えるつもりなんですかね。調子こいてやがるなあ。日本に居たらシメてやるのに」
「いやシメなくてもいいよ。要するにデワはスリランカに中空会の支部道場を作るっていうんだから」
私も牛丼に七味と紅ショウガをたっぷり振りかけながら聞き返しました。
「スリランカ支部道場ですか。しかしそれを先生が認可したとしても、デワじゃ何も教えられませんよ」
「うん、だからね、日本から優秀な指導員を派遣してほしいってんだな」
「へえ、指導員ですか。そんなスリランカくんだりまで行ってくれる奇特な指導員て、先生心当たりでもあるんですか」
「居るじゃん。俺の目の前に」
私は思わず口に含んだ牛丼を吹き出しそうになりました。
「え?えっ?なんですか?それ僕にスリランカまで行けってことですか?」
「だってウチに指導員ていったらお前しか居ないじゃない。派遣するならお前だよ」
そういって旨そうにお茶を飲む中川先生が小面憎くなってきました。
「先生、いったい何考えてるんですか。僕には仕事だってあるし、行けるわけないじゃないですか」
「あのなあ冨井。考えてみろ、中空会の海外支部第一号だぞ。世界に俺たちの空手を広める第一歩じゃないか。チャンスだよ、俺たちの夢がかなう」
・・・いやそれはあんたの夢で、僕はそんな夢見たことない・・・とはなぜか言えなかった。
「いいから考えてみろ。お前このまま一生が終わってもいいのか?悔いは残らないか?平凡なサラリーマンとしての一生で。薄給で女房子供を養うだけの毎日だぞ。それでいいのか?」
大手企業の偉いさんで、安定した生活を営んでいる中川先生に言われたくはないですが、もしかしたらそれは中川先生自身が持っている悔いだったのかもしれません。
「とにかく考えてくれ。返事はすぐにじゃなくてもいいからな。ここの勘定は俺が払っておくからお前はゆっくり食べていけ。じゃあな」
言うなり先生は立ち上がって会計をすませ、そそくさと出ていきました。
それから二日後。
私は中川先生に電話していました。
「先生、例の話ですが、やらせていただきます」
今もってこのときの自分の行動が謎なのです。なんであんな電話かけちゃったのだろう。
この一本の電話で私は平凡だけど安定した人生を失ったのですから。
それと引き換えに得たものは何?このホラ話と、まあまあ面白おかしかった若い日々でしょうか。
とにかくその時の私は自分の好奇心に抗えなかったのかもしれません。
・・・徒手空拳。空手を武器に世界を渡り歩く。なんだかカッコイイかも?・・・
そんなことを考えていたのかもしれません。なんとガキっぽいことを。
だいたい武器にできるほどの空手の腕なんか、まったく持っていないという事実を失念しているし。
まったくバカだったとしか言いようがありませんが、私はすぐに会社に退職願を提出しました。
そして真理子には・・・さんざん罵倒されたあげくきっぱりと別れを告げられたことは言うまでもありません。
こうして馬鹿で間抜けな私の新しい人生が幕を開けたのです。
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