第5話 空手指導員の日常

人間というのはわりとすぐに環境に順応するもののようで、3か月もたつと私の指導員ぶりもけっこう板についてきました。


空手の稽古というのはおおむねパターン化されていまして、準備運動から基本、移動基本、型、約束組手、自由組手とすすむのが一般的です。


こういった稽古体系には生徒たちもすぐに慣れてしまうので、わりと自動的に稽古が進みます。


なので私のようないい加減な指導員でも、せいぜい号令でもかけて、たまに「姿勢をまっすぐにしろ」とか「腰を落とせ」とか言っておけばなんとかなるものです。


私はもともと初段も取らずに空手をやめたものですから、実力的にはここの生徒たちと大差ありません。


たとえば型などもあまりよく知らないのです。


そこで私は図書館で空手の教則本やビデオを借りてきて、それらを見て覚えてから指導するということをやっていました。


真面目に空手に取り組んでおられる諸氏には怒られそうですが、この泥縄式指導法は後に海外で指導する際にも大いに役に立ったものです。


さて、このころ新しい外国人が入門してきました。


インドの南に浮かぶ島国、スリランカから日本の大学に留学しているデワという男です。

中川先生いわく「デワはスリランカのホテル王の御曹司だぞ。大切に扱え」とのこと。


勘の良い方は・・いや良くなくてもお気づきと思いますが、この男こそが後に私を空手バックパッカーにするきっかけとなった張本人です。


大切に扱えと言われても扱い方がわからないので、私はまあ普通に接していました。

しかしこのデワ君、若いのに体がひどく固くてストレッチで開脚などがほとんどできません。


一度、開脚させて背中を軽く押しただけで「トミーせんぱ~い!痛いです。痛いで~す。あああ」と涙を流して号泣されてしまい、困ったほどです。


それでもデワ君はわりと真面目に道場に通い続けました。

体は固いままで、たいして上達はしませんが日本での良い思い出にはなったかもしれません。


指導員になって一年ほど経過したころには、生徒の数も総勢40名近くになり、それなりに賑やかに楽しく稽古していました。デワ君はじめ外国人道場生たちも日本人道場生たちと仲良く和気藹々とした良い雰囲気です。もともとヌルいノリの道場なので、私もすっかり空手指導員という仕事をエンジョイできるほどになりました。


やがてデワ君は日本での学業を終え、スリランカに帰国することになりました。


「トミーせんぱ~い。いろいろとお世話になりましたあ~」


「いやいやデワ君。あまり教えられなくてすまなかったね。またたまには日本にも遊びにおいで」


「せんぱいこそ~スリランカに~遊びにきてくださ~い」


「うん、そのうち機会があればね」


社交辞令のつもりでした。まさか本当にスリランカなんて未知の国に行くことになるとは!

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