第4話 空手指導員デビュー

「それで冨井クンはそのお話、引き受けちゃったわけね」


小さな喫茶店。2人がけのテーブルをはさんで私の向いに座っていた真理子は、私の話を聞き終えるとそう言いました。真理子は私が当時交際していた、いわゆる彼女だった女性です。


真理子は私の勤め先の得意先の社員でした。小柄で華奢で色白で、けっして美人というわけではありませんがかわいらしい顔立ちだったのに一目惚れして、なんとか口説き落とし交際するようになりました。


しかし付き合ってみるとその外見に似合わず気の強い性格で、私はかなり尻に敷かれていたと思います。


「いや、引き受けたというか、ちょっと断れない相手だったもので」


「ふーん、それでその空手のインストラクターってお給料はどのくらい貰えるの?」


「空手の指導員というのは基本ボランティアなんだよね。まあそのかわり会費とかはタダで空手の稽古ができるから、まあお得かなあって」


真理子の眉間に縦に皺が寄るのが見えました。

目の前に置かれたコーヒーには口を付けずに話を続けます。


「すると冨井クンはこれから日曜祝日のたびに、夕方からそのタダ働きをするってことね?」


抑揚の無い冷たい口調なんだか怖い・・・。


「ええと、あと土曜日休みの日は土曜日も」


真理子の眉間の縦皺がキュッと深くなるのを見て、私は視線を逸らしました

「ふーっ」とため息とも深呼吸ともつかない息を吐きだした真理子は、初めてコーヒーカップを手に取り冷めたコーヒーを一気に飲み干しました。


「そう。じゃあもう私に会う時間なんかないわね」


「いや、そんな。ほら今だってこうして会ってるしさ、日曜祝日だって日中は空いてるわけだし」


「私、そんなパートタイムなデートなんか嫌よ。冨井クンとのお付き合い少し考えさせてもらう。じゃあコーヒーごちそうさま」


言うなり真理子は立ち上がり、踵を返すようにして喫茶店のドアを開けて立ち去りました。


・・・もしかしてフラれた・・・?


そんな気まずい出来事のあった週末の午後、私は中川先生の勤めるショッピングモール内にあるスポーツクラブの一室に出向きました。普段はヨガとかバレエ、ダンスなどの教室が開かれている部屋です。


清潔な壁と床、鏡やバレエのレッスンバーも付いているとてもきれいな部屋。

ここが夕方から2時間ほど中川先生の中空会空手道場となるわけです。


ひさしぶりの空手の稽古。しかもこれからは指導員という立場です。

稽古前には入念にストレッチしなければなりません。


10代のころの私は股関節が非常に柔軟で、180度開脚をしたうえで胸を床につけることができるほどでした。そのおかげで私は、回し蹴り、後ろ回し蹴り、飛び回し蹴り、飛び後ろ回し蹴りといった回転を入れた派手な蹴りを得意技にしていたのです。

(見た目重視の私の技はモーションが大きすぎて、組手では一度として相手にヒットしたことがありませんが)


しかし20代以降、ろくに運動していなかった私の身体はすっかり固くなっています。

まずはこれから当分の間は10代の頃の柔軟性を目標にストレッチに励むことにしました。


稽古時間近くになると、ぼつぼつと生徒が集まりはじめました。


生徒たちの多くは中川先生と同じ会社に勤務する人たちの小学生から中学生くらいの子供たち。

あまり「最強」だのを目指すノリではありませんので、その点は気楽です。


しばらくすると今度は留学生でしょうか?数名の若い外国人たちが道場に入ってきました。

人種も国籍もバラバラなようで、お互いに日本語で話し合っています。

・・・なんだ、別に英語いらないじゃない。


稽古開始の時間になったので全員を整列させます。


「オース!みなさん、はじめまして。ええと今日から指導員を務めさせていただきます、冨井です。よろしくお願いします」


「オッス、お願いします!」生徒たちが答えます。


ここからは準備運動など、号令をかける係が決まっているようで私は特に何もしなくても稽古が始まりました。思っていたほど大変というわけではなさそうです。


こうして私はついに空手指導員としてデビューしました。

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