第3話 リクルート

私はこのころはすっかり空手とは縁遠くなっていましたが、中川先輩とは年賀状のやり取り程度の付き合いはありました。

しかし高校時代以来、電話をもらったのは初めてで久しぶりに先輩の声を聞きました。


「あ、中川先輩。押忍、ご無沙汰しております」

空手から離れていても中川先輩相手だとつい昔の癖で『押忍』が出てしまいます。


「ああ冨井、久しぶりだな。今度仕事がこっちの駅前の方に移ったのでな、お前とちょっと話がしたくなったんだ」

中川先輩は以前、大手量販店の店長をしていました。おそらくこのころにはもっと上の役職に就いていたと思います。


「ところで冨井、お前明日の仕事は何時に終わる?そうか。では夜8時に駅前の例の牛丼店に来てくれ。じゃあな」

中川先輩は用件を告げると一方的に電話を切りました。


・・・なんなんだ一体?


だいたい長らく疎遠になっていた知人からの突然の呼び出し電話に碌なものはありません。

宗教か、マルチ商法の勧誘か、選挙か・・そんなところでしょう。

気は乗りませんが、翌日会社の仕事を終えてから駅前の牛丼店に向かいました。

中川先輩はすでに店頭で待っていました。


「冨井、こっちだ。まず飯でも食いながら話をしよう」


「押忍」


何か話をするのに牛丼店のカウンターというのが、相変わらず中川先輩らしいです。

注文した牛丼が出てくると、おもむろに中川先輩が話はじめました。


「冨井、話というのは他でもない」

他でもないと言われても、そもそも話がまったく見えてないのに・・・。


「俺は今年この駅前のショッピングモールに転勤してきたんだけどね、実はそれを機に空手のほうは独立して自分の道場を立ち上げたんだ。まだ会派名は決まってないんだけど」

「押忍、そうなんですか。それはおめでとうございます」

・・・なるほど、それで生徒の勧誘をしているわけか。ヤバい話じゃないし、最近運動不足だからアスレチックジム代わりにちょっと通ってみてもいいかもしれない。

牛丼を頬張りながら、私はそんなことを考えていました。


「そこで問題なんだけど、俺は日曜祝日の仕事が忙しいので、なかなか指導に手が回らないんだ。だから日曜祝日の指導員をお前に頼もうと思って連絡したんだ」


・・・え?ええっ!?


「ちょ、ちょっと待ってください先輩。僕は高校のとき以来、空手なんかまったくこれっぽちもやってませんし、指導なんて無理です。だいたいなんで僕なんですか?他に適当な人がいくらでも居るでしょうに」


「いやさ、お前たしか英語が話せたろう?よく外国人道場生と話してたじゃない。ウチも今外国人道場生が数名居てさ、コミュニケーションがなかなか難しいんだ。そこでお前のことを思い出したんだよ」


たしかに私は高校時代には道場に通う外国人たちと仲が良かったです。

でもそれは英語が得意というより、単なる好奇心と話好きで、中一レベルの英会話力と単語力を駆使して勢いだけで会話していただけなのです。


「それにお前、組手はからきし弱かったけど、型とかはけっこう上手かったじゃない。初心者に教えるのは基本とか型なんだから、お前が適任だと思うよ」


「いや、無理です。ブランクが長すぎますし、それに僕は緑帯でやめたんですよ。緑帯の指導員なんて格好付かないじゃないですか」


中川先輩は私の言葉を聞くとニヤリと嫌な笑みを浮かべました。

持っていた鞄に手を突っ込み何やらごそごそしています。


「心配するな冨井。お前にこれをやるから」

手渡されたもの、それは一本の黒帯でした。


「昇段おめでとう冨井。これで問題はすべて解決だな」


「あ、いや先輩!」


「おいおい、これからは先輩じゃなく先生だからな。あーそうだ、会派名だけど中川の中と空手の空を取って中空会ってのにしよう。どうだいいだろ?中空会」


・・・なんだそれは、中身が空っぽって意味か?

とはとても言えなかった。


「じゃあそういうことで冨井、次の日曜日から頼むわ。ここの勘定は俺が済ませとくからゆっくり食って帰れ。またな」


こちらの返答も聞かずに中川先輩・・・改め中川先生はそそくさと牛丼店を出ていきました。

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