電波女と自殺病

蔦乃杞憂

第1話

「自殺病......ですか。これまた物騒な名前ですね」

「ネットで騒がれるときに使われる俗称だ。正式な名前はない。今の所はな」

若い男の口角を強張らせたぎこちない笑みに初老の男は口にくわえていた煙草を離し、紫煙を吐き出してから言った。吐き出された煙は幾ばくの間もその形を保たずに大気に紛れてどこかへ行ってしまった。

若い男はあぁ、となにかを理解したような声を漏らし、座っているベンチに更に深く腰をかけた。赤いペンキの塗られ飲料メーカーのロゴが入ったベンチがぎし、と軋む。

「精神病の一種だろうが、ここまで症状がはっきりしているのも珍しい。それこそまさに名の通り、自殺の病だ」

しおれた野菜のようになった煙草の吸殻をベンチの近くに置かれた灰皿に押しつけて残り火を消した初老の男。名残惜しそうな目で消えていく煙草の先端の赤い火を眺めていた。

「患者が学生ばかりなのはなぜなのでしょうかね」

「思春期の子どもってのは大人が思ってる以上に複雑に入り組んでいるからな。突拍子もなく大それたことをするのも、臆病になって殻に閉じこもるのも、彼らにとっては同じことなんだよ」

自殺も所詮大それたことの延長、間接的にそう示唆しているような言い回しだった。初老の男はそれ以降口を開かず、ポケットから取り出した薄茶色のカバーのかかった文庫本を開き、目を落とした。


視界が歪んでいる。

ぐにゃりぐにゃり、視界の四隅に黒ずんだもやみたいなものが見え、明瞭なはずの中心は強く歪曲して景色を崩壊させている。

目の前の全てがごちゃごちゃに混じり合ったマーブル模様に見えてきて、僕は吐き気を催してしまった。校内の壁に手をついて呼吸を整える。下を向いて自分の上履きを見ても吐き気は治らず、思わず口に手を当てて走り出した。行き先は......トイレでも保健室でもなく、屋上だった。

埃のかぶった段ボールが積まれた踊り場を抜けて階段を駆け上がる。アルミ製の框(かまち)ドアのドアノブを回して押し込むと、肌を刺す冷たい風と目を細めたくなる量の光が飛び込んできた。

屋上は閑散としていた。生徒の声で溢れ、常に飽和状態にあった教室や廊下と完全に隔絶された別世界。ただ存在だけがあるだけで、余計な物が置かれていないこの殺風景な場所が僕は好きだ。人のために作られたわけじゃない、そんなことを言われている気がした。

気がつくと、吐き気も陽炎のような視界の揺らめきもとうに消えてなくなっていた。吐き気はおろか、今となっては清涼感すら感じている。瞳を閉じて胸一杯に冷たい空気を吸い込むと、体内を瞬時に循環して次第に頭が冴えてくる。これも錯覚だろうけれど。

「キミも自殺しにきたの」

唐突に声をかけられた。人の姿が見えなかったから、よってこの場にいるのは自分だけだと勝手に思い込んでいた僕は完全に虚を突かれて肩を震わせた。

周囲をぐるりと見回すと、僕が今しがた開けたアルミ製のドア、その壁面に鉄でできたU字型のはしごが埋められていて、登った先には教室一つ分ほどの空間が隠れていて、巨大な貯水タンクがいくつも備わって鎮座していた。そのタンクの上に腰かけて、一人の少女がこちらを興味深そうな目で見下ろしているのだ。

学校指定の女物のブレザーの上から赤と白の派手な装飾があしらわれた、彼女の体格より一回り大きいパーカーを羽織り、首にはヘッドフォンをかけている。上履きではなく朱色のハイカットスニーカーを履いた脚をぶらぶらと前後に振って遊ばせていた。桃色と白の混じった髪も相まって、限りなく現実味のない......言ってしまえば痛い印象を受けてしまう。

彼女は身体測定の立ち幅跳びのように体をくねらせてから貯水タンクから飛び降りた。華奢な体が宙を舞い、やがて脚から地面に着地する。短めに折られたプリーツスカートが風にあおられひらりとめくれ、彼女の太ももの付け根が大きく露出した。履いていたのは水色の下着だった。

「ごめん、なんて言った」僕は問う。

「自殺をしにきたの。て言ったんだけど」少女は言った。

同じ場所に立つと僕の方が頭一つ背が高い。少女は一転、僕を見上げる形に落ち着いた。

「自殺なんてしないよ。どうしてそんなこと聞くのさ」

僕の問いかけに人差し指を顎に当てて、いかにも考えているような仕草を見せる少女。このわざとらしい動作も、僕には痛々しく感じた。

「最近、学生の自殺が流行ってるらしいじゃん。時も場所も選ばずイチャつくバカップルみたいにさ、駅でも家でも校内でも、朝でも昼でも夜でも自殺をするらしいからもしかして、と思って。ボクちょっとドキドキしちゃった」

自分のことをボクと呼ぶ少女は若干頰を赤らめて言う。ちらりと見えた八重歯が素敵だった。

「それなら見当違いだね。僕は単に、気分が悪くて風に当たるためにここにきたんだからさ」

僕は目の前の少女から視線を外して空を見上げた。全てが嫌になるくらい、思わず身を投げて自殺したくなるくらい清々しく晴れ渡る空だった。

「ふうん。そうなんだ。残念。あっ、ちょっとごめん、通信」

「通信?」僕が言い終える前に彼女はすたすたと小走りでU字型のはしごを登り、貯水タンクの上に立った。首にかかっているヘッドフォンを持ち上げ耳に当てて、側面の目盛りを指先で何度かいじくっている。通信と言っていたから誰かと電話でもするのかと思ったが、ヘッドフォンのケーブルはどこにも繋がっていないことに僕は気がついた。

「あー、あー、交信成功。私です、どうぞ。え、そろそろ見つけろ? わかってますよ神さま。急いでても始まりませんから。はいはい了解です、近いうちには必ず。じゃあ、ボクは忙しいのでこれで失礼しますね」

若干の空白の後、ヘッドフォンを耳から外して首にかけ直した。


「ねぇ。キミ、自殺する気、ない?」

「ないって言ったでしょう」

「そっかあ」

彼女は残念そうに息を吐いた。

「じゃあキミは、どうして死にたくないの」

「は。なに言ってるんですか」

どうして死にたいの、ならともかくとして、どうして死にたくないのなんて質問どうかしている。目の前の少女は、僕の直観通りどこかおかしいのだろうか。いや、きっとおかしいに違いない。一般からずれているというかそもそも最初から合わせる気などないと断言しているみたいな風だった。

「だって、普通なら死にたくなるものじゃない。こんな世界生きててもつまらないでしょう。つまらないことを避けるのは人として当然だと思うけど」

つまらないのは嫌ですけど、死ぬのはもっと嫌ですと答える僕を見て、彼女は目を丸くし唖然とした態度を貫いていた。僕を爪先から頭の上までを何度も見回してから口を開く。

「死ぬのが怖いから死にたくないの。それとも死ぬのが痛いから死にたくないの。あるいは死ぬのが億劫だから死にたくないの。もしくは死ぬのが退屈だから死にたくないの」

彼女の挙げる理由は、どれもやはり一般の感性とは少しだけ違うものばかりだった。僕は考える。強いて言うなら怖いから、痛いから辺りが理由としては近いかもしれない。

いつか読んだ本で誰かが言っていた。人は死ぬことによる自我の消滅を恐れるから、その象徴たる死を恐れるようになる、と。つまり人は死そのものを恐れているのではなく、死によってもたらされる、自分という存在が消えてなくなることを本能的に恐れていると。

なるほど、と読んだとき思ったが、決して納得はしなかった。僕は消えることに対してさほど抵抗はないから。消えたことがないのだから、それが悪いことと断言することはできない。死後の世界は誰にも観測できないのだから。

「さあ。どれも同じようなものなんじゃないですかね」

「奇遇だね。ボクも言っててそう思ったよ」彼女は僕に笑いかける。とても死について話しているときの表情ではなかった。

少しの間が、沈黙が、空虚が、僕たちをさらっていった。

「生きていれば良いことがある。こんなことを言う人がよくいるじゃない」

「そうですね」

「この言葉すごく使い勝手がいいけれど、すごく軽いよね。生きていれば良いことがあるのは当たり前。鉄砲を撃ち続ければいずれは的に当たるのと同じ。本当に重要なのはその後ろに隠れていて、良いことに巡り会うために一体どれだけの悪いことをその身で受け止めなきゃいけないのかって話だよ。十、百、千それとも万。これだけの不運を重ねた先にある、死ぬほどに渇望した良いことになんの値打ちがあるっていうのさ。あるわけがない。そんなものは一文にもならない」

鋭い目をしていた。忌々しいものを見る目だった。吹いた風が冷たくて制服の裾を握った。

「人にとって......ひいては生物に生き死にっていう概念があるのは、神さまが用意した逃げ道なんだとボクは思うんだ。生きることからの逃走。終わらない災禍と闘争からの逃走。どんな富豪でも貧民でも、悪人でも善人でも、誰しもが真の意味で平等に与えられた権利。それが死」

隣にいる彼女の言っていることは正直あまりわからなかった。わからなかったけど、彼女の言っていることは間違っていない気がするのは考えすぎだろうか。

「逃げることを悪だと考えるのは地球の裏側まで探しても人間くらいだからね。そもそも自分の身に危険だったりが迫ったとき逃げるのが生き物の本能じゃんか。それを悪だって言うんだからやっぱり人はおかしいと、ボクは思うなあ」

彼女の話を聞く一方、僕の頭の中には今まで体験した、そして今現在進行形で受けている苦痛が連続したスライドショーで映し出されていた。

嫌いな食べ物を食べろと無理強い、勉強しろと強要、望んでもいないのに頭のいい大学に行けと強制する、息子を自らのエゴと傲慢で矯正しようと考える両親、数え出しただけで頭が割れそうになる。今までの二十年に満たない人生の中、良かった思い出を呼び起そうとすると必ず悪い思い出が先行して浮かび上がる。

こうあるべき、大人ならこうあってなければおかしい、無意識に脳裏に刷り込まれたマニュアルに少しでもたがえばあいつはちょっとおかしいと不出来の烙印を押される。そんなの大量生産される家電製品と同じじゃないか。そんな一生に価値はあるのだろうか。いや、ありはしない。少なくなったら足すの法則だ。僕がいなくなれば地球は新しい人間を産み出すだろう。原価にして数万円の命。

「あははは。地獄に堕ちた餓鬼みたいな顔してるよキミ。なに考えてんのさ、生きるなら楽しいことを考えてる方が有意義に過ごせるんじゃない」

おちょくるように悪戯じみた笑みを見せてくる。僕の考えていることはおおよそ見当がついているみたいだ。僕はわざとらしくふん、と鼻を鳴らして口元を歪めた。全てを見透かすみたいな彼女の笑顔がこの上なく気に食わなくて、ちっぽけな抵抗のつもりで口を開いた。

「じゃあ、あなたはどうして生きているんですか。価値のない生を謳歌するのはどうしてなんですか」

「ボクは」

いつのまにか彼女から笑顔は消え、言葉を詰まらせて、しばらく思案の表情を見せてその顔に陰を落としていた。

「まだ、やらなきゃいけないことがあるからかな」

「......」

「無意味で苦痛な生を選び続けなければならないくらい大事なこと、なんですか」

無言で彼女は頷き、首にかかったヘッドフォンを手持ち無沙汰に触った。風の音に混じってかちゃかちゃと硬質なプラスチックが擦れる音がした。

「そうともさ。ボクはこう見えて人助けが大好きでね、苦しんででもがいてでも人を助けることに粉骨砕身する人間の鑑ってわけ」

威勢の良さはとうになくなり、目を細めて視線を横に流し口を閉ざして自嘲を含んだ微笑を浮かべていた。その表情にはどこか見覚えがあり、鏡に映った、現実に打ちひしがれた自分の顔によく似ていると気づくのにさほど時間はかからなかった。

思わず頰に手を当てていた。風に吹かれた手の指は寒さで固まっていて肌にも寒さを伝えている。口の端に指先を這わせて思う。今僕はどんな表情をしているだろうか。彼女を見る僕は、どんな顔で話を聞いているのだろうか。地獄に堕ちた餓鬼みたいな顔......餓鬼ってどんな顔をしていただろうか。

「こんな糞みたいな当たり前を今すぐにでもぶっ壊してやりたい、って顔してるぜ」


「あなた、超能力者かなにかですか」

「まさか。ボクは神さまの御使いであって、エスパーなんかじゃないよ。パイロキネシスもテレパシーもクレアボヤンスも使えない。できるのは誰かの助けになるだけ」

「そうですか。......変な人ですね」

「みんなそう言う」

僕と彼女はそう言って互いに吹き出した。なにもかもがどうでもよくなる大きな笑い声が空に放り出されて消えていく。けれどそれは形を失わずにいつまでもそこにある、そんな気がした。


背後から数羽の白い鳥が、体の二倍近くもある羽を器用にはばたかせて僕を追い抜いて飛んでいくのを見た。ばさばさという音は実に小気味よく耳に馴染んだ。白い鳥......鳩は平和の象徴だっただろうか。青い鳥は見れなかったが、代わりとしては十分だろう。

「じゃあ」

「うん」

僕の独り言ともとれる小さな挨拶に、彼女は独り言ともとれる頷きを返した。

そういえば、と僕は立ち止まって振り返る。貯水タンクに登ってこちらを見ていた彼女に向かって呼びかける。

「聞き忘れてた。あなたの名前は」


「............イヴ。ボクの名前はイヴ。覚えといてね」

少し間を置いてからの返答。僕は今度こそと納得して、踵を返した。


「ボクはね、この人の世において絶対的な邪魔者なんだ。均衡きんこうが保たれているものを歪ませるわけ。平均台の上に乗っている人を横から突き飛ばすみたいにね。ボクを罵っても嘲っても貶めても構わない。甘んじて受け入れるよ。ボクの行いが誰かの為になるなら、誰かを救うならどんな罪も罰も軽いものさ」

言い終える頃、貯水タンクに腰かけていた少女の姿はもうなかった。


けたたましいサイレンが鳴り響いていた。ある一箇所を囲む形に黄色いバリケードテープが張り巡らされている。テープを境界線に、腕章をつけた青い作業着を身にまとった男やヘルメットを被った救急隊員が右へ左へと駆けていた。そんな彼らをかいくぐって、若い男と初老の男はバリケードテープの中心、ブルーシートで覆われた場所に足音を立てて入っていった。

幾度となくシャッターの切る音とフラッシュが焚かれ、初老の男は眩しそうに目を瞬かせた。一方、若い男はそのシャッターの向かう先、コンクリートの地面にうつ伏せに倒れている人物に目を向けまたかと小さな声で呟いた。

「こりゃあ、また自殺病がああだのこうだの騒がれるな。世間様にどう説明すりゃいいんだかな」

「さあ。警察がそんな存在すら曖昧な病気を認めるわけにはいきませんからね。学校側に事情を聞かないことにはなんとも」

「決まって学校側は悩みがあるようには見えなかった、って言うんだがな。常套句というか最早定型文だな」

倒れてぴくりとも動かない人物......学校指定の制服に身を包んだその四肢は未だ幼く、大人と子どもの境界といった表現が適当だった。強く打っただろう頭部からは血が溢れて大きな血溜まりを地面に作り上げていた。制服に血は滲み、横を向く顔には右頬部分にべっとりと血が付着して火傷の跡のようにも見える。

若い男はわずかに眉をひそめたものの、すぐに真顔になり膝をついて屈み、死体となった生徒の顔を覗き込んだ。

「......随分」

「なんだって?」近くにいた老いた男はスーツのポケットから煙草の箱とライターを取り出しつつ問う。

「随分、いい表情してるんだなって、思いまして」

「............確かに、穏やかっつうか、やりきった、て顔してんな」

生徒の顔には恐怖の色など一寸も浮かんではいなかった。表情筋は弛緩し、口元は緩んでいた。まるで寝顔のような、少なくとも自殺をした者の顔には到底見えなかった。

「死ぬのが怖くなかったんですかね、この子は」

「さあな。自殺する奴の気持ちなんて本人にしか知り得ない、考えるだけ無駄だ」

煙草の煙を吸い込んで言った。



「そういえば、埼玉と千葉の方で自殺を未然に防いで保護された学生が数人いたんですけど、その子たち皆が口を揃えて『イヴに言われた』って話すそうです。これ、重要な手がかりになるんじゃ」

「どうでしょうね。僕もさっきその話は聞きましたけど、その子たちの間には一切の接点はないらしいじゃないですか。仮に自殺をほのめかした人物がいたとしても、それは現実ではなくネット上で知り合った顔も年齢も知らない赤の他人ですよ。特定のしようがないです」

「自分も同じ意見なんですけど、その割に背格好の情報が一致してるんだよなぁ。『ヘッドフォンを首にかけてワンサイズ大きいパーカーを羽織った女子生徒』。ううん、どうしてだろうな」

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電波女と自殺病 蔦乃杞憂 @tutanokiyuu93

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