症例:4 立ちイチの観測
視界に深紅が舞い散る。ああ、これは夢なのだと黒淵 炉黒はひどく冷め切った思考の中で気が付いた。なんてことはない、いつもの記憶の断片だ。この先何が起こるのかもすべて分かるし、それで自分自身がどんな感情を抱くのかもすべて覚えている。
「先生」
目の前の少女が血の涙を流す。彼女の顔が苦痛にゆがむ。
「……」
「先生――助けて」
◇
「先生」
反響していた声が急に平坦なものへと変わった。顔を上げた炉黒の目の前には資料を抱えた片眼。
「……私は」
「よくお眠りでしたよ。資料の片づけはほっぽって」
目をぱちくりさせ、炉黒は現状把握に努める。どうやら資料の整理中に眠ってしまったらしい。居眠りとは、ずいぶんと久しぶりだ。
「すみません」
そう謝れば片眼は驚いたように目を真ん丸にした。
「私が謝ったことがそんなに意外ですか?」
「ええ、謝りも誤りもしないような人だと思っていましたので」
「……私はきちんと謝る人間ですとも。それと」
それと、誤りも。
「先生が過ちを犯すところなんて想像しづらいですね。たとえ過ちでもそれを政界に持っていきそう……というか」
その言葉に炉黒は微笑んだ。慈悲深い――というか、なにかを思い返すような笑みだ。
「そうですね。そうあろうと生きてきました」
だが、あの時、炉黒の目の前で行われたことは。
「それでも、どうしようもないことだってあるんです」
◇
沈もうとしている夕日が剣道場の天窓からスポットライトのように、最後の光を投げかけていた。
その中心に正座しているのは染白はただ天井を見上げ、夕日の光が目に入ることすら気にする様子もない。
やがて夕日の命が途絶え、剣道場内にはうっすらと暗闇が忍び寄り始めた。これより始まるは夜。そして――
「こんにちは」
「……遅かったですね。黒淵先生」
――決戦である。
かちりと炉黒がスイッチを押し込むと、剣道場に明かりがともった。暗闇がその歩を止める。
「遅くなりました」
「いいえ、お気になさらず。ですが僕は大会が近いので手短にお願いします」
顧問に、少し剣道場に残れ、と言われた。それで待ってみれば案の定だ。黒淵 炉黒。新任の養護教諭。僕の安寧を、脅かすもの。
「ええ、わかっています」
「なら早くお願いしますよ。僕だって暇を持てましたくない」
この間にも染白は一度たりとも顔も、眼球も動かそうとしない。依然その視線は天井へ――果たして、天井に向けられているのか?
「では単刀直入に」
炉黒は丸めた紙をぱらりと開く。
「これ、見えますか?」
染白はそこで初めて炉黒のほうを向いた。
「からかっているんですか」
「いいえ、立派なテストです」
「試してはいるんですね」
「はい。あなたにはとある病の疑いがあります」
「病?」
ギ、ギ、ギ。ぎこちない動きで染白は首を横へ傾げた。
「精神内面具現化症候群――まあ、これは仮称です。我々は異常症と呼んでいます」
「はぁ、それはいったいどんな病気なので?」
「わかりません」
「えっと……やっぱりからかってるんじゃ――」
困ったように頬を掻く染白は突然首を軽く曲げた。そこを背後から投擲されたテニスボールが通過していく。
「……あなたは……えっと、鳥無さん」
染白のセリフに、テニスボールを投げた片眼は剣道場の隅で軽くお辞儀をした。
「さて、あなたは今、テニスボールを避けましたね」
「ええ、そりゃ」
「なぜ避けられたんです? 普通背後から投げられてあれほどの反射で避けられる人はいません」
「……剣道をやっていると敏感になるんですよ、そういうの」
炉黒はふむ、と考え込むそぶりを見せる。おそらくは癖なのだな、と染白はあたりを付けた。
「では、鳥無さんのことはどうでしょう。彼女はついさっき、裏口からこっそりとこの剣道場に入りました。なぜ彼女がいると?」
「……見たんですよ」
「どうやって? あなたはさっきは天井を、そして今は私のほうを向いている。一瞬も動かず、ひと時たりとも目を離していない」
「……」
炉黒はつかつかと染白に歩みを進める。眼前まで近づいた炉黒は、持っていた紙を広げた。そしてそれを突き付ける。
「これ、読めますか?」
「読め――」
「読めないとは言わせません。こんなにほーら、あなたの目の近くに」
「少し、上にあげていただ――」
「どうしてです? この距離でもあなたは十分見えるでしょう」
炉黒は顔を上げ、剣道場の上を、上層の空間を見つめる。右へ、左へ――
「先生」
いつの間にか近づいてきていた片眼が先生に耳打ちをする。炉黒は再び剣道場全体を見渡した。そして
「見つけた」
「……え」
染白の口からたった一言、動揺が漏れる。炉黒の目線はただ一点を、剣道場の上層空間、その中心部を見つめていた。
「なるほど、こうしてみれば僅かに空間のゆがみが見て取れる。たった0.00数ミリのですから、まったく……鳥無さん様様といったところでしょうか」
炉黒はふう、とため息をついた。
「おっと」
立ち上がり、走り出そうとした染白の首元にひやりとした感触。定規でできた人型が染白を押さえつけている。
「逃げられては困ります」
「……これは」
「あなたの本当の目はあそこにあるんでしょうね」
一点を指さした炉黒は、
「あなたの症状は“自分を第三者視点で見ることになるもの”だ。そうでしょう?」
「……まさか、そこまでお当てになるとは」
染白が両手を上げると炉黒の患部はすぅ、と空間に溶けていった。
「ええ、その通りです。今の僕は目が見えない。その代わりに――あそこから」
炉黒の時と同じ位置に、染白は指を合わせた。
いわく、自分自身を常に第三者視点として見る異常症である。ゆえに首の向きも、目の動きも必要ではない。そういう病だ。
「瞬きはまぁ……していますが」
「素晴らしい。それで剣道の大会の制覇を?」
「はい。一人称よりは格段にやりやすい」
慣れるまでは時間がかかりましたが。そう言って染白は再び腰を床に降ろした。
「最近は次第に顔を動かすのが面倒になって。だってそうせずとも見えるんですから」
聞こえ方さえもだんだんと気にしなくなり、最初のころにしていた偽装も今では面倒なっていた。顔は常に正面か上へ。どうせ目が見えないのだ。
「……それで、どうします?」
「どうする、とは」
「僕をどうするんですか? 脅しますか? それとも捕まえますか」
「ああ、そうですね。もうおわかりかと思いますが私も、そして彼女も異常な病にかかっています」
「ええ、知っています」
三人称の視点を縮小すれば小さくはなるものの、どこまでも見ることができる。観測手段であり、情報入手の最善手だ。
「ですのでこれを」
名刺を染白に差し出した炉黒はおっと、と言ってそれを天井へ向けた。
「ここには私の所属するちょっとした組織の電話番号が入っています。近いうちにうちの者がお伺いいたしますので、あとは検査を受けていただければ」
「……それだけ、ですか」
「ええ、あとは純粋な興味です」
唖然とした染白の視界に、片眼のあきれたような顔が入ってきた。なるほど、そういうタイプの人間のようだ。
「その視界の使用に関して私は一切制限をしません、それはあなただけの才能の一部なのですから」
それだけ言うと、炉黒は歩き去っていく。
興味が失せたから去ったのか? だとしたら本当に好奇心のみで生きているようだ。
「……あの」
染白に恐る恐る話しかけたのは片眼だ。
「あなたは彼についていかないんですか」
染白の問いかけに、片眼は無言で首を振ると、
「その前にちょっとだけいいですか」
「なんでしょう」
「
「……ええ、確かに不便さはありますよ」
人の表情は格段に読み取れなくなった。表情が薄くなったね、なんていわれることも増えた。それでも。
「それでも、試合に勝てなかった僕を救ってくれたのはこの病ですから」
劣等感に打ちのめされそうだった自分を、この病は間違いなく救ってくれたのだ。
◇
「先生」
炉黒はゆっくりと振り返り、歩いてくる片眼を出迎えた。
「はい」
「先生は……なぜ彼に制限を課さなかったんですか」
しばらく、炉黒は黙って片眼を見つめていた。
「制限――異常症の使用についてですか」
「ええ、そうです」
「あの病は彼のものですよ。少なくとも今は彼だけが持つ彼だけの可能性だ」
「でも、それじゃあ――」
それでは、病を持たぬ者はいったいどうなる? 彼だけが持つ三人称という武器は、ほかの誰かが得ようとしても得ることなどできないではないか。
「――なら、彼に剣道を諦めろとでも言う気ですか」
「それは……」
そうだ。彼は病に頼らなければ見えさえしない。
「それに、彼があの病をあそこまで扱えるのだって才能であり、研鑽の果ての結果です。それを否定することはそれすなわち、すべての才能とすべての努力を否定することと相違ないのでは」
「相違ないわけないでしょう!?」
片眼の張り上げた声が、人気がなくなりつつある校内に響いた。
片眼は自身が声を張り上げたことに愕然とする。自分はいったいなにをこんなにイライラしているんだろう。
「……彼はこれからも大会で結果を残し続けますよ」
「ええ、そうでしょうね」
「……彼はずっとあの病に頼って生きていくんですよ」
「ええ、知っています」
「……異常の中で生きていくことが幸せだとでも」
「異常と才能の何が違うんです? 才能とは他より秀でた異常な部分。異常とは才能の種ですよ」
「……本気で、言っているんですか」
ギリ、と片眼はこぶしを握り締めた。痛みは感じなかった。ただ、どこにも向けようのない気持ちの悪さがそこにポツンとあった。
「……異常症とは、病を象った個性の一部です」
「ふざけないでください」
「至って真面目です」
「……私は、納得できません」
「納得する必要はありませんよ」
「……先生は、自身の異常症への恨みはないんですか」
「これは私の一部です」
それだけ聞くと、片眼は無言で炉黒を追い抜かした。口を開かず、こぶしを握り締め続け、
「――先生は、きっと自身の根幹を疑ったことなんて無いんでしょうね」
それだけ言うと、廊下の先へ消えていった。
「……」
炉黒はそれを何も言わずに見送った。笑みを消すと、端末を取り出し、電源を入れる。
「……ありますよ、何度も。そして今も」
その画面には一枚の写真が表示されていた。炉黒は困ったような笑みを浮かべており、その横には少女が付き添うように立っている。歳は片眼と同じくらいだろう。薄緑の髪に蝶々をあしらった髪飾りをしたその少女は満面の笑みで、炉黒の腕に抱き着いていた。
神に至る病 五芒星 @Gobousei_pentagram
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