症例:3 立ちイチの観測

「……こんにちは」

「鳥無さん」


数日ぶりに保健室の戸を開けた。同時に漂ってくるコーヒーの香りは脳を醒まさせてくれるような鮮烈さをもって片眼を出迎える。


「もう、大丈夫そうですか」

「ええ、最初は割とやられてましたけど……まあ直接見たわけでもないですし」


学校を休んだ数日間。片眼は初めて自らを蝕む病に感謝した。

直接死体を見るのとカラフルな矢印に彩られ、隠された死体を見るのとではわけが違うからだ。おかげでショックもすぐ収まり、痛々しい断面もすぐに忘却の彼方に放り込めたのだ。


「あの後、多数の袋から爪と髪の毛、あと人骨が見つかりました」

「……あんまり聞きたくはない話ですね」

「でも気になっているから、来たんでしょう?」

「……」


「学校はこのことを秘密にすると決めたようです。警察の捜査は夜行われるそうで、解決してから発表するんでしょう」


片眼が炉黒の正面に腰掛けると、目の前にマグカップが置かれる。それを一口飲み、ため息をついた片眼は天井を見上げた。


「あなたもあまり考えすぎないほうがいい。いつも通り過ごしてください」



「どうしたの、ぼーっとして」


静香の言葉に片眼は一瞬答えられなかった。

昨日みたものが原因ではない――と思う。どうせ矢印にふさがれていてろくに見えなかったし、不思議とショックもない。ただ、


「いや、理解できないなって」


片眼の脳裏に炉黒の姿が映し出された。素敵だ、興味深い、素晴らしい、と、この目をほめてくれる彼だが、本当にこんなのものが素晴らしいと彼は信じ込んでいるのだろうか。


「先生だって、苦しいはずなのに」


色が見えないというのは少なからず不自由がありそうなものなのに。


「先生? 今先生って言った!?」


恋歌までもが昼食を中断してくる。


「先生って黒淵先生? ねぇ、どうなの?」

「どうって……なにが」

「どこまで行った? キス?」

「はっ?」


まじまじと目の前の少女を注視する。が、見えるのは矢印。諦めつつ片眼は返答する。


「別にあの人とはそんな関係じゃない」

「またまた~」


恋歌が指を鳴らし、得意げな顔つきのまま、


「聞いたよ? 昨日も先生と一緒に仕事したらしいじゃん」

「まあ、委員会の仕事だし」

「今日も一緒にするの? 仕事」

「多分」

「おおっ、私も行っちゃおうかなぁ」

「絶対やめて」


水を得た魚のように顔を輝かせる恋歌に、片眼はため息をついた。



「……どうも」

「こんにちは」


片眼が保健室に入ると炉黒は手に持っていたバインダーを机に置いた。


「ココア、いかがです?」

「あー、いただきます」


ココアを両手で抱え、一口飲み込んだ片眼はため息をついた。


「おや、幸運が逃げてしまいますよ」


そんな炉黒の言葉に片眼は少し驚く。


「そういう迷信、信じるタイプなんですね、ちょっと意外です」

「まあ、茶化すものとしてはとても楽ですから」

「……ああ、そういう」

「黒猫が横切れば不幸、茶柱が立てば幸せ。そんな些細な、根拠もないことで一喜一憂できるのは人類ぐらいなものですよ」

「それはまぁ、そうかもしれませんけど」


その言い方は明らかに人類という種を嘲笑っている――とまでは流石に口に出せない。


「それよりも、なにか悩み事ですか?」

「え?」

「ため息、ついていたようなので」


その片眼の悩みを果たして当事者に話しても良いものなのか。

「あなたと私が恋仲だという噂が立っているんですよ」なんて言ったとき、この男はどんな反応をするのだろう、という衝動を抑え込み、片眼は首を振った。


「大したことでは」

「そうですか、では話したくなったらいつでもどうぞ。私こんなこともしてますので」


首に下げたカードをつまみ、片眼のほうへ提示する。そこには養護教諭の横に“スクールカウンセラー”の文字。


「生徒たちの切実な悩みを聞き、それを解決するやりがいのあるお仕事です」

「……本音は」

「おやおや、私をどんな人間だと思っているんですか」


炉黒は一泊置いて、


「……生徒たちの切実な悩みを聞くというのは、思春期の複雑な精神構造を身を持って体験できて非常に興味深い」

「……端的に言えば」

「楽しいですね」

「本性を現しましたね……」


はは、となんでもないかのように笑うと炉黒は机の上のカルテの山を戸棚に仕舞始めた。


「手伝いましょうか?」


そう言って立ち上がった片眼を手で制し、


「いえ、お気になさらずに」


そう言って再び作業を再開する。


「……凄い量、これ全部読んだんですか」

「ええまあ、一応生徒の健康管理が仕事でもあるので」

「一応……」

「おっと口が滑りました」


人差し指を伸ばして口に当てる。

本当にこの人は……。


「さて、今日のお仕事の時間と参りましょうか」

「お仕事……」


身体を強張らせた片眼を見て炉黒は笑った。


「お仕事と言ってもこちらの方です」


養護教諭のカードが揺れた。



「失礼します。養護教諭の黒淵ですが染白しみしろさんはいらっしゃいますか」


掛け声が響き渡る剣道場。揃った動きで防具を身に纏った生兎達が木刀を振り上げ、下げる。

片眼はこういう体育会系の雰囲気が好きではなかった。この空気に当てられて、頑張らなければという気持ちを抱くのが嫌いだったのだ。


「染白ですか、今呼びます」


顧問が名前を呼ぼうとパイプ椅子から立ち上がると、既に一人の生徒がこちらに歩いてきていた。


「はい、僕が染白ですが」

「お、おお、早いな。聞こえてたのか」


若干困惑する顧問を押しのけて、生徒は前に出る。

防具を取ると、若干童顔な顔が現れた。


「あなたが」

「はい、染白 介しみしろ かいです」

「前任の養護教諭の方から話は伺っています。早めにお話を、と思いまして」

「ご丁寧にありがとうございます……なんですけど、えっと」


彼は背後を振り返る。生徒たちの鍛錬の声が絶え間なく響く。


「その、大会が近くて……」

「ああ、これは失礼」


炉黒は大仰にお辞儀をすると、


「どうですか、変わりありませんか」

「ええ、まあ……去年からなにも」

「……そうですか」


そう言うと炉黒は片眼のほうを向く。


「今日はご挨拶に伺っただけです。私は黒淵、こちらは保健委員の鳥無さんです」


片眼の肩を掴んでずい、と前に出すと炉黒は微笑んだ。


「なにかあれば保健室まで、歓迎しますよ」

「あっ、はい」



「……彼は一時期目の不調を訴えていました」


保健室まで戻ると、炉黒は片眼を座らせ、自身も正面に腰掛ける。

棚に収納されたファイルの中から抜き取った一枚が、彼の指に挟まれひらひら揺れていた。


「具体的な内容は――痛み、視界のぼやけ、短期間の失明……ふむ」

「先生」


片眼は先ほどの光景を思い出していた。染白と名乗った男子生徒のその目を――


「片眼さんも気が付きましたか」

「彼からは“目線”を表す矢印が放たれていませんでした」

「私は眼球の角度です。大きくズレています」

「見えてませんね、あれは」

「ええ、間違いなく」


人が人と会話するとき、必ずどこかを見るはずだ。それは相手の目でなくとも、相手の額だったり、相手の顔の手前の空間だったりするだろうが、目をつぶることはあり得ない。ましてや目を開けているのに“どこも見ない”ことなど。


「片眼さんと同じくらい見えるフリが下手ですね」

「……余計な一言を」


二人は書類を覗き込む。


「染白 介、剣道を始めたのは幼少期のようですね。地区大会優勝、全国大会準々決勝敗退……腕前は相当あるようですね」

「市大会1位、関東剣道会 高校生の部優勝、鍛剣道トーナメント銀メダル……そのすべてが去年の5月から……」

「ふむ……これによれば彼が目の不調を訴えていたのも5月から、ですねぇ」


二人は顔を見合わせると頷き合う。


「私は本部に連絡を入れます、鳥無さんはこちらの資料から剣道部関連のものと染白さんに関連しているものの洗い出しをお願いできますか」

「……結局こっちのほうの仕事になるんですね」


はぁ、とため息をついて片眼は戸棚を開ける。


「それでも手伝ってくれるんでしょう?」

「まあ、そりゃ」


半ば巻き込まれているようなものだが、これが異常症関連の事象だというなら自分にも関係がある。片眼はそう感じていた。

それに、知りたいのだ。この病気を嫌っている自分と、それを賞賛する黒淵、果たしてどっちらが正しいのかを。


「はい、はいそうです。ええ、予定の変更を」


電話をしている黒淵の声が保健室に響いた。本部とやらがどんなにまっとうな組織かは知らないが、まあ今はどうでもよいことだ。

片眼は膨大なファイルから抱えられるだけを取り出すと、机上に広げて整理を開始した。


「ええ、ええ、それでお願いします。まあそう言わず」


電話を切った炉黒が机に戻ると、ちょうど最後のファイルが棚にしまわれたところだった。


「随分長いお話でしたね」

「堅物を説得するので忙しかったもので」


それだけ言うと、炉黒は保健室のレースカーテンを閉める。


「監視班の配属が決まりました」

「監視班……?」


その重苦しい響きに、片眼は困惑した。


「片眼さんを入れても3人、一つのコミュニティにこれほどの異常症患者が現れることは稀です。今度も現れた時に備えて向かいの建物にスナイパーと――」

「――スナイパー!?」


思わず片眼は椅子から勢いよく立ち上がる。それでは重苦しいを通り越して物騒ではないか。


「用心のためです。異常症の中には精神に作用するものもあります」


炉黒が過去に見た事例では強烈な吸血衝動に襲われていた者もいた。そうした者たちにとって日常はえさ場でしかない。


「それに実弾ではなく麻酔弾のみを使用します」


“念のため”の実弾もありません。と炉黒は微笑んだ。こちらを安心させようとしているのは分かるが、不安なものは不安だ。


「こっちが染白の通院記録、これが剣道部の活動報告です。念のためクラス手帳も」

「ありがとうございます」


椅子にもう一度座り、炉黒は整理されたファイルを一つ手に取った。



――誰も居なくなった剣道場で、染白は一人天井を見上げていた。


「……」


1回の瞬きも、1回の身じろぎもしない。電気の消えた暗闇の中、ただ上に顔を向けて黙っている。


「黒淵先生、鳥無さん……それは僕への挑戦ですか?」


返事などあるわけがない。広い剣道場の中心に座る彼の目の瞳孔がキュッ、と開いた。

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