症例:2 立ちイチの観測
「病気……これが? そんな馬鹿な」
「細胞の過剰な増殖と新器官の形成――患部が現出する前で本当によかった」
炉黒は、かすかに上下に動き続ける生徒のなれの果てを撫でる。
「巻き込んでしまってすみませんでした。鳥無さん」
「黒淵先生、あなたいったい――」
「――もしもし、はい、私です。ええ、確保しました。はい、お願いします」
片眼の質問には答えず、炉黒は電話で誰かに話し始めた。
「はい、はい、それではまた」
「――」
「鳥無さんは私がした話、信じてくれますか?」
「信じるも何も、それしか今は提示されてませんから」
「異常症は未だ詳細が解明されていない病気です。一人一人症状は違い、それらすべては異常な事態を引き起こす」
「……そんなこと話していいんですか? てっきり記憶でも消されるのかと思ったんですけど」
「私たちはメンインブラックじゃあありませんよ? それに」
炉黒は笑い、
「――鳥無さんも、そうじゃないですか」
そう、のたまった。
「――はい?」
自然と歩きだした留雨十に続いて部活棟の廊下を歩く。階段を降りる際に防護服をきた集団とすれ違ったが、炉黒と軽い会釈を交わしたところを見ると一種の後処理係のようなものなのだろう。と片眼は納得した
「それは、どういう意味ですか」
「言葉通りですよ」
炉黒は指を一本立てる。
「改めて。あなたは病気だ。それも、とびきり異常な」
「……冗談を言うようなタイプには思えませんでした」
「おやおや、私自身も私が今冗談を言っているとは初めて知りました」
目に見えない視線が交差する。
「さっきの人みたいなことにはなっていませんよ、私は」
「さっき言ったかもしれませんが、異常症の症状は人によって驚くほど違う。あなたそう――“眼”ですね」
炉黒は突然立ち止まると、片眼にずいと顔を近づける。
「先ほどの彼女と私が何よりの証明です」
「――先生も、なんですか」
「ええ、症状で言えば先ほどの架隅さんに比べるとはるかに軽いものですが」
炉黒は顔を離すと再び歩き始める。
「“眼”のこと、話す気になりました?」
「証拠を、私がその病気を患っているという証拠を提示してください」
炉黒は指を一本立てる。
「一つ、私の顔を見る時にその目線が若干ズレていること」
指を一本立てる。
「二つ、攻撃を行った触手の軌道を事前に理解していること」
指を一本立てる。
「三つ目……も言えたらよかったんですが、あいにく根拠は二つだけです」
「……降参です」
片眼は両手を広げると空を見上げた。そこまでばれてしまっているならもう仕方がない。どうせ秘密にしていてもこの人ならいずれ動かぬ証拠を持ってきただろう。
「――最初は少し見えるだけでした」
視界の端に映ったのは一本の矢印。空中に浮かんだそれは幻覚にしてはリアルすぎるもので、しかしリアルじゃない幻覚なんて見たこともない。
そんなこんなで周りに言うこともできず――気が付けば、見る限りのすべての場所に矢印があった。
赤、黄、緑、橙、紫。色とりどりの矢印が蠢き、動きを表す。頭がおかしくなりそうな景色の中で次第に見えるものが狭まっていく。
3か月が過ぎたころ、ついに私の視界は覆われた。すべては矢印であり、他のすべては存在しない。個人の区別すらつかなくなっていった。
「矢印が“流れ”を表していると気が付いたのがそこくらいです」
「流れ、ですか」
「人の流れ、車の流れ、空気の流れ――なんでもかんでもです」
そこからが一番大変だった。まず個人の区別がつかない、人は矢印にかたどられた輪郭でしか見ることができなかったのだ。だから、身体的特徴や歩き方を覚えた。こうしてみれば一人一人歩き方というのは違うもので、案外早く覚えることができた。
授業中、先生にあてられたときに教科書を読むことができない。だから家で一人、限界まで目を近づけて教科書を読んで覚えた。そうすることで矢印の合間を縫ってなんとか読むことができたからだ。
「そうでしたか……」
片眼が話し終えると、炉黒はたった一言そう言った。何かをかみしめているような声だった。
「先生は?」
「えっ」
「私が話したんです。先生の症状も教えてもらわないと割に合いません」
「……それもそうですね。ただ説明は数行で済みます。数字が見えて、色が見えない」
「え、終わりですか」
「これ以上の説明のしようがなくて」
「数字っていうのは?」
「なんでもです。風速、自転速度、温度、角度、長さ、エトセトラエトセトラ」
「色が見えないっていうのは――」
「こればっかりはなんでなのか……すべての色が白なんですよね」
困ったものです。と肩をすくめた炉黒は笑った。
「私たち、案外似た者同士なんですよ」
「先生と一緒――同意したくはないですね」
「嫌われたものです」
「にじみ出る性格の悪さゆえですね」
「おやおや、これは手厳しい」
夕日が校舎に影を落とす。二人の影は際限なく伸びていく。
◇
「ねえ片眼!」
「な……なに?」
開口一番、片眼の前の少女は目を輝かせた。
「黒淵先生と昨日一緒にいたでしょ、どんな話してたの?」
「あー……」
黒淵 炉黒と出会った翌日。色々と衝撃的な一日だった昨日のことはあまり思い出したくない。
「特には、
「結構広まってるんだよ。ほらあの先生割とイケメンだし」
「え、あの人が?」
イケメンというよりは半イカレ野郎、というのが片眼の中での印象だが実は整った顔立ちなのか。とは言っても片眼にそれを確かめる術はない。
恋歌と呼ばれた少女はますます目の輝きを強くする。
「なになに、昨日なんかあった? もしかして生徒と教師の禁断の恋!?」
「……恋愛脳め」
「ふふーん、命短し恋せよ乙女だもんね」
「恋歌はいつもそればっかりだね」
教室に入ってきた三人目の少女が二人に笑いかけながら言った。
「おはよう
「おはよ、片眼」
「ねえ聞いてよ静香! 片眼が黒淵先生とね!」
「朝から大声出さないでよ……」
中学のころから腐れ縁という鎖によって結びつけられた三人。片眼にとっては数少ない顔を思い出すことのできる人物として、そして大切な友達として、核かけがえのない存在と言っても決して言い過ぎではない。
◇
「ご友人と楽し気に話されていたようですね」
片眼が保健室に入ると、炉黒はちょうどデスクに座ってなにかを書いていた。
「ええまぁ……ストーカーですか?」
「まさか、たまたま見かけただけです」
炉黒はペンを置くと眼鏡を外す。
「さて、何か飲みますか?」
「いえ、喉は乾いていないので」
「そうですか」
丸椅子に片眼が腰掛けると、炉黒はデスク上の書類をしまいながら、
「昨日の彼女、落ち着いたようです。細胞の増殖も止まったようなので今頃は眠っているでしょう」
片眼の脳裏に昨日の一件が浮かぶ。矢印の向こうでもなお存在感を放つ肉塊は記憶に新しいが、何はともあれ嬉しいことではある。
「彼女……ええっと」
「架隅さんです」
「架隅さんはどうなるんですか」
「しばらくは我々の施設で暮らしてもらうことになるでしょう。細胞増殖がこのまま再開しないようであればやっと手術できますし」
「手術するんですか?」
「はい。肉塊の中から彼女を取り出す手術です。そうしてやっと人間の姿を取り戻せる」
片眼は架隅という女子生徒とは一言も言葉を交わしてはない。だが、通常の生活に復活できるという知らせは、彼女が無事だと言われたとき同様に好ましいものに思えた。
「さて片眼さん。可能なら私たちはあなたの検査も行いたいのですが」
「検査……私の眼も治るんですか?」
それは片眼にとって一筋の光だった。彼女にとって自らの視界を覆う矢印はメリット以上にデメリットが多すぎる代物。疎んだことはあれど有難いと思ったことなど一度もない。
「期待はしないでください。異常症が治った例はまだありませんから」
「……そうですか」
「ですが」
落胆した片眼に、炉黒は続ける。
「軽減ができた例はいくつもあります」
「……!」
片眼は思わず顔を上げ、炉黒の目を見つめる。
「薬や手術、それ以外にも方法はいくらでもあります」
「それって」
見えるかもしれない。もう一度、普通の景色が。
「ただ、ですね。検査にも準備が必要です」
炉黒は立ち上がると、ハンガーにかけてあった白衣を羽織る。
「準備ができたらお教えしますので、それまで少し、私を手伝ってくれませんか?」
「……さては最初っから手伝いをさせる気で」
「ギブアンドテイクと言ってほしいですね」
ついてきてください。と言う炉黒。片眼はため息をつくと、それに続いた。
◇
「それで、どうしてゴミ捨て場に?」
膨れ上がったビニール袋が点在する空間。中心の焼却炉は片眼が入学した時点でもう使われてはいなかった。
「用務員さんから相談を受けまして、最近ゴミ捨て場に奇妙なものが捨てられているそうです」
「用務員さん? 新任の養護教諭にどうして用務員さんが相談するんですか」
「ちょっと身の上話や世間話に花を咲かせまして」
「先生、人に取り入るの上手そうですもんね」
「……それ、褒めてませんよね」
「もちろん」
炉黒は咳払いすると、ビニール袋を吟味し始める。
「奇妙な物、というと?」
片眼も炉黒に倣ってビニール袋をあさってみるものの、探すものもわからない状態ではどうしようもない。
「詳しいことはなにも、かなり話しにくい様子でした」
「話しにくいもの……」
話しにくい、なおかつゴミ捨て場に捨てられている物……。
「気が付いたんですけど、私たち探し物向いてない二人組ですよね」
片眼は矢印によって視界のほとんどがふさがれている。炉黒は色が見えず、すべてが真っ白。落ちている何かを探すのに不向きなのは間違いないだろう。
「確かにそうですねぇ……」
どこか上の空の炉黒はビニール袋を持ち上げ、少し離して見回す。色という概念のない炉黒の視界では、少し離して輪郭を捉えるほうがなにかと都合がよいのだ。
一方片眼はビニール袋に限界まで顔を近づけ、視界を飛び交う矢印の間から中に何が入っているかを一つ一つ確かめていく。
はたから見れば、顔を近づけて物を見る女と顔を離して物を見る男がゴミをあさっているという酷い絵面だが作業は滞りなく進む。
普通より遅く、しかし順調にゴミ袋たちが整頓され、仕分けられていく。一時間くらい経っただろうか、ついにすべての袋を分け終えた。
「疲れた……」
「お疲れ様です。鳥無さん」
疲れ切った片眼と、ピンピンしている炉黒。正反対の二人は、中央に置かれた二つの袋を手に取る。
「目ぼしいのはこの二つ、ですかね」
「じゃあ私こっちで」
分担を決め、いよいよ開封に移る。
結び目は片眼が想定していたよりもずっと硬かった。
「先生、結び目固くありませんか」
ちらりと片眼が炉黒のほうを振り向けば、ちょうど三角形で構成された人型の一閃で袋の口が切られたところだった。
「……ズルっ」
「これは私の一部ですから」
「それなんなんですか? 症状……にしては違和感がありますけど」
「これは患部ですね。悪化した異常症に見られる更なる病気の一面ですよ」
「悪化、ですか」
「悪化とは言っても症状が辛くなる人はごく稀です。そんなに考えこまなくても良いですよ」
いずれあなたにも患部が現出するでしょう。と炉黒は続けた。
「こちらは開きました。鳥無さんはどうです?」
「こっちも今開きました」
炉黒は中の塊のようなものを引っ張り出すと、それを開いた。中にはなにもない。ただただ布が詰まっているだけだ。若干拍子抜けした炉黒はもう一つの開封を終えたであろう片眼のほうへ言葉を――
「先生!」
◇
片眼は中の布の塊を引っ張り……出そうとするが、思いのほか重い。なんとか出し切ると膨らんだそれを開こうとして――片眼は気が付いた。
髪の毛が。黒い髪の毛が布の間から覗いている。それは矢印の合間を縫って片眼の脳みそに飛び込んできた。
それは最悪な結果を予想させた。しかし開きだした手は止まらない。次に現れたのは髪の束であり、その先には――
「先生!」
片眼は立ち上がって飛びのいた。炉黒がすぐに片眼と開かれたビニール袋との間に割って入り、視界をふさぐ。
「……これは」
炉黒は携帯電話を取り出すと無言でボタンを押して耳に当てた。
◇
そこからは大騒動だった。警察がやってきて部活中のすべての生徒は下校させられ、すぐにその場は黄色いテープで封鎖された。
片眼と炉黒は第一発見者として聞き取りを。用務員さんも呼び出されて一緒に根掘り葉掘り状況を聞かれた。
――片眼が発見したのは人の生首だ。死後数日が経過しており、ウジ虫が湧き始めたころだったらしい。
用務員さんが言っていたごみは爪のことだった。爪のことを相談したら生首が見つかったという事実が相当ショックだった様子で、片眼と炉黒に対して何度も何度も謝罪をしていた。
そして、なによりも異常だったのは、発見された生首は何者かにかじられた形跡があったことだ。
人の歯形の通りに肉がえぐられており、それは頭蓋骨まで到達している。食べようとはしたものの、食べにくくてやめたような、そんな傷だった。
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