神に至る病
五芒星
立ちイチの観測
症例:1 立ちイチの観測
「……こんにちは」
扉を開ける。電気のついていない保健室の中にはやはりというか、少女の推察通り誰も居はしなかった。
「留守か……」
保健委員である少女の仕事は決まっている。放課後に備品やらなんやらをチェックするだけ。中に人がいようがいなかろうが関係はない。だが、養護教諭と話すのは楽しいし、コーヒーメーカーも使わせてもらえる、ということもあって少女は気に入っていた。
リストに“不足なし”と書き終えると、少女は保健室から後にしようとする。そんなときに扉が開いた。
「おや」
「先せ――」
入ってきたのは、知らない人だった。
◇
「……転勤」
「はい、今日からは私がこの学校の養護教諭です。
前の養護教諭は優しそうな女の人だった。その人がいなくなってしまったショックは大きいが、それ以上に――とても、胡散臭い。
「私は……」
「
「……はい」
片眼の中での彼への警戒度が一段階上がったところで、炉黒と名乗った養護教諭はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「どうです? 一杯」
◇
片眼はコーヒーを一口飲むと、自分用のコーヒーを淹れている炉黒の背中へ目を向けた。片眼の中での炉黒の印象は“胡散臭い”、の一言に尽きる。常に優しさを振りまいているというのは前任者も同じだったものの、彼のそれはなんというか――非常に薄っぺらい。“他人を信頼させよう”という意思が見えすぎている。それも悪い方向のものだ。
「鳥無さんは保健委員なのですね。今は備品の点検を?」
「……まあ、はい」
今もそうだ。と片眼は再確認する。片眼の名を知っていて、その役目を知らないわけがない。それなのにただこちらに喋らせるためだけに、わかりきっている質問を投げかけてきたのだ。
それが悪いことだとは思わない。むしろ有用なコミュニケーションの手段だとは思う。だが胡散臭さも相まって、片眼の苦手な人種と100%合致するのが彼だった。
「私の前の養護教諭はどんな方でしたか?」
「……どうしてですか」
「ここの生徒さんと円滑なコミュニケーションをするために必要だな、と思いまして」
こうやって自分の策略を悪びれもせずにあけっぴろげにするところも、片眼は苦手だ。
「優しい人でしたよ。……思いやりがあって、人を助けてた」
多分あなたとは違って。と心で付け足して答える。
「……ふむ、なるほどなるほど」
炉黒はしばらく考え込むと、再び顔を上げる。
「次は鳥無さん自身についてお伺いしたいです」
「……なんですか」
「どんなものが好きですか?」
「……アバウトすぎませんか」
「えーと、では食べ物で」
「卵料理は大体」
「では好きなスポーツとか」
「……」
「本とか読みます?」
「さっきからなんなんですか」
胡散臭さよりも段々と気持ち悪さが勝りつつある。
「なに、とは?」
「変な質問ばかりして」
「おや、怒らせてしまいましたね。申し訳ない」
そう言うと炉黒は立ち上がった。
「少し、ついてきてもらえますか?」
「え?」
「手伝ってもらいたいことがありまして」
◇
「……あの、私の仕事はもう終わったんですが」
「飲み物一本おごるので許してください。ほら、ここです」
炉黒が指さしたのは――
「部活棟?」
「はい、ここに用事がありまして」
片眼たちはひび割れたコンクリートを踏みしめ、階段を上がる。老朽化は既に限界に達し、いつ崩れてもおかしくない建物だが、部室を求める学生たちには人気の建物。それがこの部活棟だ。
「それで、なんで私は連れてこられたんですか?」
「それがですね……」
それだけ言うと、炉黒は扉を叩いた。
「
返事はない。というか人自体いないのではないのだろうか、そう思うほどの人気のなさだった。
「この通りです……この中にいる架隅さんは3日前から出てきていません」
「……三日……三日!?」
まずそれだけ校内にいることが許される、というのが片眼にとっては衝撃だった。普通そういうのは無理にでも引っ張り出すものではないのだろうか。
「家にも帰ってないんですか」
「放任主義の親御さんなようで。電話してもまったく出てくれません」
そういうのは放任主義とは言わない。言うなら放棄主義だ。
「とある事情で警察に言うわけにもいかないんですよ。そこで、です」
炉黒は笑顔を更に咲かせると、片眼のほうへ振り返った。
片眼は嫌な予感に襲われながらも苦笑いを浮かべる。
「鳥無さんには彼女に外に出るよう説得してほしいのです」
「なぜ私が、黒淵先生がやればいいんじゃないですか」
「いやぁ試してはみたんですが上手くいかなくて。同年代の子になら話しやすいかな、と思いまして」
「……どっちにしろ私がやる理由が見当たらないんですけど」
「はて……理由は見つけるものではなく見つけ出すものらしいですよ?」
「もっともらしいことを言ってごまかしてませんか」
「それは濡れ衣というものです」
「……」
片眼は確信した、この教師はろくでもない人間だ。とはいえ。
「保健委員の仕事の代わりでいいので、お願いできますか?」
「ここまで事情を話されたら断るのも罪悪感が……」
「そのつもりで言ってましたから」
笑顔のまま炉黒はそうのたまった。
「……性悪教師」
「おや酷い。悲しすぎて泣いてしまいます」
「今すぐ泣いてほしいところですね。大粒の涙を流して」
まあいい。この性根腐敗野郎のことを考えていては心まで腐りそうだ。そう片眼は思い直した。
「……じゃあとりあえず――もしもし」
コツコツ、と片眼の手が扉を叩く。反応はない。
「こんにちは、急にごめんね。私は鳥無 片眼、あなたと同じ2年なんだけど……えっと、架隅さん?」
シン、と静まり返った部活棟の廊下に他教室の生徒の声が響くのみ。返事のへも感じ取れない。
「……先生、いっそのこと鍵で開けちゃうっていうのは」
「それも考えましたが架隅さんのことを考えると少し乱暴すぎるかなと。それに――」
炉黒は懐から鍵束を取り出すと、鍵穴に差し込――めない。
「このとおり、なにかが詰まっているので鍵すら差せません」
「あー、なるほど」
「ありがとうございました鳥無さん。同年代の人ならあるいは、と思っていたのですがあてが外れたようです。お礼は次会ったときにでも」
「え、もう終わりですか?」
「おや、もう少し手伝いたかったですか?」
「い、いや……」
この人なら、「それではこれから毎日お願いします」くらい言うのかと思っていた。
「お礼、欲しいもの考えておいてくださいね? あ、高すぎるのは無しですよ」
それだけ言うと、炉黒は部活棟の廊下を歩いて行ってしまう。
「そうだ最後に、このことは他言無用でー」
呆然と一人残された片眼は目をぱちくりさせるほかなかった。
「……」
目線は閉まった扉に。実は全てあの人の冗談で、なかに人なんていないんじゃないか。そんな疑念から片眼は耳を扉につけ、中の音に耳をひそめてみる。
「――」
何かが動く音がした。少し驚いた片眼は一瞬耳を扉から離し、その後再びつける。
衣類のようなものが擦れる音――確かに生活感のある音。ここに引きこもりのお姫様がいるというのはどうやら本当らしい。
◇
「……なんで私ここにいるんだろ」
引きこもり姫引きずり出し計画の失敗から1日。片眼はまた部活棟に足を運んでいた。なぜかは自分でもわかっていなかった。なんでか気になるのだ。無性に、貪欲に。
「おや、鳥無さん」
「……どうも」
角を曲がればそこにはいけ好かない教師の姿。
「今日も駄目そうですか」
「ええ、お恥ずかしながら……」
扉に耳をつける。相も変わらず誰かが動く音のみが片眼の耳に聞こえてくる。
「返事はあったんですか」
「いえなんにも」
片眼はしばし扉を凝視する。
「喋れない、とか」
「はい?」
「いや喋れない状態とかだったら怖いなと」
「――」
炉黒は面を喰らったような表情を浮かべると、
「それは……考えてませんでした。……いや、もしかして」
そのままブツブツとつぶやき始め、
「――まさか」
炉黒は扉のドアノブを二度三度回そうとするが、それは動かない。
「どうしたんですか先生」
「本当に喋れないとしたら、かなり進行している可能性があります」
「ど、どういうことですか」
「――鳥無さん、あなたは帰ったほうがいい」
「え、え?」
混乱に次ぐ混乱。片眼の頭はぐちゃぐちゃになりかけていた。
「かなり見るべきでないものが――」
扉が、はじけ飛んだ。その向こうから姿を現したのは異形の触手――
「――鳥無さん!!」
炉黒が片眼を抱きかかえてその場を離れると、赤黒い触手が廊下を叩いた。
「な、な……なんですか、あれ!?」
「……病気の末路ですよ」
それだけ言うと炉黒は、片眼を触手の届かない範囲へ下ろし、再び歩み始める。
「どうする気なんですか!?」
「もちろん、架隅さんを助けに行きます」
「もちろんって――」
「――素晴らしい」
大量の触手を目の前にして、炉黒は――笑っていた。
「不謹慎ではありますが言わせてください。架隅さん、あなたのこれは素晴らしい!!」
ねじ外れ。その言葉が適切だ。こうしてみる炉黒は明らかに狂っていて、片眼は実感と共にその狂気を目の当たりにした。
「――さて、と」
その一言と共に炉黒は駆けだした。触手群をくぐりぬけた。しかしそれでも触手たちは後ろから炉黒に殺到する。
「危な――」
片眼は身を強張らせ、次に来る惨劇を待ち構えていた――そのはずなのに。
炉黒の姿がブレた。正確には炉黒の姿が二つにわかれた――それすらも正確ではない。真実は、もう一体、何かが表れたのだ。三角を組み合わせたような人型が一瞬見え、次の瞬間には触手が切断されていたのだ。
咆哮のような音が部室内から響く。片眼にはそれが、悲鳴のように聞こえた。
切断された触手は、断面から赤黒い液体をまき散らしながら、地面をのたうち回る。
「うわ、うわ、うわ」
ぐちゃぐちゃと足掻き、こちらへ近づいてくる切断された触手を避けながら、縦横無尽に駆け回る炉黒を片眼は見つめる。
「――先生後ろ! 3本!」
口をついて言葉が出た。その言葉を聞いてか聞かずか、炉黒は背後から迫る触手を回避する。
「次は右です! その次は上!」
――“視えたもの”をそのままに、片眼は炉黒へ言葉を投げかける。
触手がアーチを描いて頭上から迫る。炉黒はそちらを見ずに、ただ手を振った。それだけで人型の何かが触手をいなす。
「そのまま前へ!――」
視たとおりに、視たものを。
「――そこなら、ちょうど空いてます!!」
「ありがとうございます」
触手たちのど真ん中、狙ってくれと言わんばかりの場所に炉黒は突っ込んだ。しかし触手たちはぎりぎり炉黒には届かない。
「さあ、行きましょうか」
炉黒の背後に現れた人型の姿が、ついに明瞭になる。半透明の三角、半円、長方形がいくつもかさなり、組みあがって形成された人型。よく見れば個々のパーツには全てメモリと数字が刻まれている。
実体があるのかないのかわからない人型がその手――少なくとも手に見える部位を動かすたび、触手は切断されていく。地面に落ち、うねうねと蠢く触手たちは、卵から次々と生まれる芋虫を思わせるような不気味さを感じさせるものだ。
「――やっと、会えましたね」
触手たちはもう動かない。たどり着いた部室の奥で炉黒はそう呟いた。
「先生?」
片眼は恐る恐る立ち上がると、炉黒が入っていった部室の奥を覗き込んだ。
「うっ」
酷い臭いに思わず片眼は口元を抑える。部室内はひどい惨状だった。壁、天井を問わず赤黒い血管のようなものが走り、脈動している。触手になりかけた肉塊が地面をたたき、そしてそれらすべての根源に――
――彼女が、いた。
恐らくそれは誰が見ようと、肉の管とひだによって形成されたグロテスクな塊にしか見えないだろう。だが、その肉のただなかに見える一片の布切れは、女子生徒の制服。途端に肉塊が輪郭を帯び始めるはずだ。よくよく見れば人の形がそこにうずまっている。
「なんです……これ」
片眼は目を見開いて、その様子を肉塊――いや、架隅という名の一人の生徒を見つめていた。目は半分膜のようなもので覆われ、口は肉に塗り固められている。
「――だから、喋れなかったんですね」
「……先生、いい加減話してください。これはいったい、なんですか?」
炉黒はこちらに振り返らないまま、
「人の進化です」
「こんなものが、ですか」
「……誰が何と言おうと、これは進化であり、人の行きつくべき一つの形なんです」
炉黒はこちらへ振り返った。
「私たちは、これを“異常症”と呼んでいます」
病が進化だというのは、なんの冗談なんでしょうね。と続けられた台詞には悲しみとも、焦燥ともとれない感情が秘められているように思えた。
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