第2話 追憶

 母親の声で、少年は目を明けた。


「いつまで寝ているの、早く起きなさい!」

「……分かったよ」


 少年はしぶしぶ起き上がり、食卓のある一階へ下りた。テーブルにはパンの入ったかごと、ホットミルクが置かれている。普段と何ら変わりのない、の光景である。少年は気怠そうに髪をかき上げ、のように席に着いた。


「食べたら牛乳を買ってきて」


 母親は少年に背を向け、ミルクパンを洗いながらそう言った。


「は? なんで俺が……」

「そういうこと言わないの……お父さん、しばらく帰って来ないんだから」


 その声にはどこか憂いの感情がこもっている。

 少年はパンにかじりつくのをやめ、母親の方を見た。


「親父が?」

「お国のために……王様が亡くなって、他の国がこの国を狙っているのよ。今は前王と親戚関係のあった風の国の王が一時的に王位を継いでいるけど。他の国はそれをよく思っていない」

「……それで、なんで親父が?」

「自分の国は自分たちで守らなきゃいけない。国民や家族を守るために協力してくれって、今朝方軍の方がいらっしゃったわ」


 少年は無言のまま残りのパンをたいらげ、家を出た。






 牛乳瓶を抱えた少年が橋を渡っていると、人だかりができていた。


「号外!」


 新聞を配る子どもと金を渡す大人たち。辺りは騒然としている。牛乳を買った後で生憎手持ちの金がなかった少年は歩みを止め、その様子を見るにとどめた。


「おい、森の国が攻めて来るぞ!」

「開戦だ!」


 などと叫ぶ人々の声。

 少年が家路を目指し、橋を渡り切った時だった。海の方から爆音が響き渡る。爆音とともに橋が揺れ、先程の人だかりは雪崩のように崩れた。

 音の迫力と揺れに耐えきれなくなった少年は耳を塞ぎ、地に両膝をつく。

 海の方へ目をやると、敵国と思われる船から大砲が放たれていた。それを迎え撃つ船の側面には太陽の国の王家の紋章が大きく描かれている。

 その光景に、少年は瞠目した。


「嘘……だろ?」


 辺りに立ち込める煙と焦げたような臭い。煙にむせながらも、少年は夢中で走った。まっすぐ、自分の家に向かって。

 だが、その道中何かに躓いてしまった。


「いってぇ……」


 少年が起き上がろうとすると、何やら生温かいものが自分の下で横たわっている。


「し、死体?!」


 仰天した少年は慌ててけたが、死体はそれだけではなかった。焦げた臭いに加え、異臭が鼻をつく。


「うっ……」


 あまりの凄惨な光景に耐えられなくなった少年は、鼻と口を手で押さえ、再び家に向かって走り出す。


(もう少しだ……もう少しで家に着く)


 まもなく、母親が家の裏口から飛び出してくるのが見えた。


「母ちゃん!」


 少年は大声で叫んだ。


「来ちゃダメ! 逃げて!」


 今にも喉が張り裂けそうな声で叫ぶ母親の後を、見慣れない軍服の男たちが追っていた。


「逃げても無駄だ! おとなしくしろ!」

「抵抗するな!」


 という男たちの怒声が飛び交い、数発の銃声が響いた。断末魔の叫びをあげ、倒れ込む母親の姿を見た少年は、慌てて彼女の傍へ駆け寄る。


「……母ちゃん?」


 体をいくら揺さぶっても、彼女から反応はない。


「なんでだよ。夢じゃ、ないのか? 誰か、ただの夢だって言ってくれ!」


 少年の目から涙がこぼれる。


「わけの分からないことを言いやがって。コイツ、自分の置かれている状況が分かっているのか?」


 少年が顔を上げると、ナイフを持った男が目の前で立っていた。


「お前も一緒にあの世へ送ってやるよ。家族で仲良く再会しな」


 少年が後ずさりを始めた時には、ナイフで額を切りつけられていた。


「うわああああああっっっ!!」


 かつてない痛みに悶える少年。

 男が再びナイフで切りつけようとした時、爆音が響き渡る。地面は大きく揺れ、男はしりもちをついた。

 その隙に、少年は地を這うようにしてその場から逃げ出した。


「戦争なんか……。俺の日常を……家族を……家を……」


 今朝までは日常。それがわずか数時間のうちに崩れ去った。ということが、どんなにありがたいことだったのか、身に染みて感じる。

 だが、どんなに願おうとも、目の前の現実からは逃れることができない。

 少年は、今までにないほど必死に走った。額から滴る血を何度も服の袖で拭いながら、ひたすら走る。

 そうしてたどり着いた先は、鍾乳洞だった。


「入るなって言われていたけど……そんなことも言っていられない」


 意を決した少年は中へと入った。

 暗闇の広がる鍾乳洞の中を進むと、ぽたぽたと落ちる水の音が絶え間なく聞こえる。


「水……」


 少年は更に奥を目指した。溜池にどうにかたどり着くと、服の袖を破り、何度も水を浸みこませて傷を拭いた。


「クソッ……痛むな。あっ、痛っ!!」


 鍾乳洞の中で声は木霊のように反響した。


「何だ、この感じ……額が、熱い……うっ……」






「痛っ!!」


 バルトロは飛び起きた。


「さっきのは夢か……にしても、今夜は随分と痛むな」


 痛む額を押さえ、バルトロはベッドサイドに置いてある時計を見た。


「三時過ぎたばっかか」


 窓からわずかに差し込む月の光を頼りに薬の入った小瓶を探す。まもなくこれを探し当てると、中から二つ錠剤を取り出し、飲み込んだ。

 ふぅ、と息を吐き、窓の外に目をやる。満天の星空の下、虫の鳴く声の他、「ぽちゃ」という水音が時折響く。


「レーヴか。どうせ痛みが治まるまでには当分かかるからな」


 バルトロは上着を肩に引っ掛け、屋敷を出た。


「まあ、偶にはこうやって星を眺めるのも悪くはないか」


 彼が湖畔でタバコの火をつけると、「ばしゃっ!」という音とともにしぶきが思いっきり彼に命中した。


「へっ、くしゅん!」

「汚い音を立てるな。それから、私はタバコの煙が大嫌いだと何度も言ったはずだぞ、バルトロ」

「そう堅いこと言うなよ……って、文句を言いたいのは俺の方なんだからさ。おかげでタバコの火が消えちまっただろ」

「私の知ったことか!」

「声がでかいって」


 バルトロが小声で言うと、レーヴは我に返る。


「それはそうと、お前がこの時間に来るとは珍しい」

「まあ、色々あってさ。俺だって偶には夜の散歩をしたくなる時だってあんだよ」

「好きにしろ。そのを聞くほど、私も野暮ではない」


 水音がした後、辺りは再び静けさに包まれ、虫の声だけが聞こえている。


「そうかいそうかい、お気遣いありがとうさん」

(この様子だと、湖の中に帰ったようだな)


 バルトロは再びタバコの火をつけた。


「今さら……」


 そう言うと、彼は大きく煙の息を吐いた。


太陽の国あそこに帰るつもりは――毛頭ないさ」


 タバコの煙が、静かに闇の中へと溶けていった。

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時の旅人~外伝~ 櫻井 理人 @Licht_S

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