第2話 ナムリィ・バン

 それは、純粋な好奇心だった。「女の子はどうして、エッチじゃいけないの?」と。男の人は、みんなエッチなのに? 


 あたし、男の人がエッチな店に入るのを見たんだ。とても嫌らしい顔で。お父さんも、その店をチラチラ見ていたのに。ねぇ、お父さん。どうして、女の子は「そう言う店」に入っちゃダメなの? 


 女の子にだって……と言いかけた瞬間、父親の手が飛んできた。バチンと響く、気持ちの良い音。その痛みに驚いて、少女の声が「キャァ!」と放たれた。

 

 少女はその瞳に涙を浮かべ、悔しげな顔で父親の目を睨みかえしたが、父親の方は「それ」にまったく怯む事無く、肘掛け椅子の上に座り、パイプの先に火を点けて、その口から灰色掛かった煙を吐き出した。

 

 父親は、椅子の背もたれに寄り掛かった。


「子どもがそんな事を考えるじゃない。それにエッチな事は」


「う、ぐっ」


「男の子だけの特権だ」


「なっ!」と、少女の目が見開く。「男のだけの特権?」


「ああ。男は生来、生まれつきエッチなモノなんだよ。良い女を選ぶためにね。自分の子供がより優秀になるように。お前の命も、そうやって生まれたんだ」


 少女はその言葉に驚き、そして、ガクンと項垂れた。たった十歳の子供と言っても……彼女には、今の言葉が平手打ちよりも痛く感じられた。

 

「優秀な子供」を作る為なら、男はどんなにエッチでも構わない。たとえ、余所の女に手を出したとしても。


 官能の世界に飛び込めるのは、男だけが認められた特権なのだ。「女」の自分には、決して認められない。呪いにも似た呪縛。


 少女は、その呪縛が納得できなかった。父の顔に背を向けて、自分の部屋に戻った時も。部屋の中に入った時は、悔しさのあまり、ベッドの上にダイブしてしまった。


「う、うううっ」


 枕の中に顔を埋める。それに合わせて、目から大量の涙が溢れた。


「男の人だけ、ずるい」


 少女は枕の中から顔を上げ、その枕を何度か殴ると、ベッドの上から起き上がり、床の上に立って、両手の拳を強く握り締めた。



 それからの七年は……地獄とは言わないまでも、地獄のような時間を過ごしつづけた。出たくもない社交界に出て、使いたくもないオベッカを使い。


 彼女は所謂美少女だったので、男性からは嫌らしい視線を、女性からは妬みに近い視線を受けつづけた。

 

 少女は……ナムリィ・バンは、その視線が苦痛で仕方なかった。


「官能」に対する好奇心は、未だに健在だったけど。彼らが向ける視線には、その官能が歪んだ形で表されていた。


 男達の官能は、下半身を満たすだけの欲望。

 女達の官能は、それを見せびらかすだけの虚栄心だった。

 

 ナムリィは、それらの欲望、虚栄心が苦痛……なんて言葉では足りない。苦痛を超えた何かに感じされた。


 あたしは、純粋な官能に触れたい。人間の下心に支配された官能ではなく、もっと高尚な、神の力に愛された官能に。彼女が求める官能は、人間でありながら、人間では味わえない官能だった。

 

 彼女は、その官能に夢を抱いた。


 だからこそ! 


 自分の家を飛び出した時は、一つの後悔も無く、その一歩を踏み出す事ができた。夢は見ているだけは所詮、幻である。幻は、現実にはなりえない。

 その幻を現実にするには、鞄の中に必要な道具を詰め込み、お気に入りの財布に全財産を入れ、家の中から出て行く必要があった。


 彼女は必要な分の食料を買うと、自分の夢を叶えてくれそうな店、あるいは「そう言う場所」を探した。だが……。現実は、そんなに甘くない。


 「官能」に関わる店は(すべてではなにしろ)、そのほとんどが男性を満足させる店、所謂「売春宿」と呼ばれる場所だった。


 売春宿の中には言わずもがな、多くの娼婦達がいる。男の劣情を満たすために、その手を、その胸を、そして、その局部を使っているのだ。


 自分の快感は、後回しにして。

 彼女達は自分の身体を使う代わりに、今日の命を得ているのだ。

 

 ナムリィは、その世界から視線を逸らした。


 娼婦達の事は、尊敬していたけれど。自分が「それ」になるのは、どうしても嫌だった。自分は、男の下半身に奉仕したいのではない。

 自分の身体に奉仕したいのだ。自分自身が満たされるために。あたしは、あたし自身を慰めたいのだ。

 

 彼女は真剣な顔で、何日も町の中を歩きつづけた。


 彼女がその店、「快楽屋」を見つけたのは、それから一週間後の事だった。


 髪はボサボサ、顔にも汚れがついて。あれだけ綺麗だった服も、今では浮浪者のようになっていた。

 

 彼女は顔の汚れを拭い、服の汚れを払うと、不思議そうな顔でその店を眺めはじめた。


「ここは?」


 の声に重なって、一人の少年(美少年だ)が店の中から出て来た。


「あれ?」


 少年は優しげな顔で、目の前の少女に微笑んだ。


「この店によう?」


「あ、いえ、ただ」


「ん?」


 ナムリィは、店の看板に目をやった。


「快楽屋って、初めて聞いたから」


 少年の口元が笑った。


「そう。なら」


 の声が、何故か心地よく感じられた。


「試してみる?」


「え?」


 少女の身体が固まる。まるで何かの呪文にでも掛けられたかのように。


 ナムリィは最初こそ戸惑っていたが、少年の放つ不思議な雰囲気にあてられて、気づいた時にはもう店の中に入り、その雰囲気に息を飲んでいた。


 少年……ヨハンは、その反応に「クスッ」と笑った。


「ようこそ。我が快楽屋へ」

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