第9話 僕の店で働いてみない?

 ヨハンは、彼女の身体に触れた。右手の人差し指で、彼女の唇をなぞるように。彼はその表面をなぞると、穏やかな顔で後ろの少女に話し掛けた。

「人間の唇には、多くの神経が集まっていてね、その表面をこうやって撫でると、ほら? 吐息が思わず漏れてしまう。女性の唇は、快感を得るのに必要な場所だ。意中の相手とキスする時にも、そして、その相手と愛を語る時にも。唇の意味を無視してはならない、そこは、人間が快感を覚える最初の場所だからね。

 その快感を満たしたら、次は自分の指にオイルを垂らし、女性の首筋に指を移していく。首の神経も敏感だ。そこにも、主要な血管が通っているからね。その分、彼女の反応を見ても分かるだろう? ベッドの端をこんなに掴んで、とても気持ちよさそうじゃないか? 瞳の方も、ふふふ、こんなに『とろん』としている。まるで飼い主に撫でられる仔犬みたいに。

 今夜は、いつも以上に楽しんでいるようだ。今の場所から指を移しても、ね? 嬉しそうに笑っているでしょう? こいつは、興奮の証拠なんだ。女性はここを触ると……まあ、自分で触った事がある人は分かると思うけどね。堪らない快感が襲う。男の僕では決して味わえない、文字通りの甘美な快感が。

 その快感を満たしたら、ふふふ。次は、いよいよメインディッシュ。店のオイルを使った全身マッサージだ。身体のすべてを丁寧に、かつ、ゆっくりと揉んで。そいつの快感は、本当に最高だ。今までの経験を振り返る限り、それに喜ばなかった人はいないね。今の彼女を見ても分かるように。ふふふ、本気で喜んでいるでしょう? 体中が震えている。

 言葉通りの大喜びだ。普段はこんなにならないけど、うん。今夜は、他人に見られているからね。その喜びもまた、一興。獣もみたいに喜んでいる。『本当に女の子なのか?』って疑いたくなるくらい、今夜の彼女は物凄く綺麗だ。普段の彼女も当然綺麗だけど、今夜はそれ以上に美しく見える。肌の表面に浮かんだ汗はもちろん、その汗が浮かび上がる光景もね。今の喘ぎ声も本当に素晴らしい」

 ヨハンは、彼女の身体を昇天させた。

「基本の流れは、こんな感じかな? 自分の手一つで……店のオイルも使うけど、お客様の快感を満たしてあげる。その技術を覚えるのは、少し大変だけど。まあ、慣れれば大丈夫かな? 何か質問はある?」

「え? 質問?」

 セーレは胸の興奮を抑えつつも、その質問にドギマギしながら答えた。

「と、特に何も。すごく分かりやすかった」

「そう、なら良かった」

 ヨハンはカノンの身体に視線を戻すと、その身体が冷えないように(今日は、そのまま眠ってしまったらしい)、身体のオイルを拭き取ってからすぐ、その上に温かい毛布を掛けた。

 セーレは、近くの椅子に腰掛けた。

「ねぇ?」

「ん?」

「どうして?」

 の続きを何となく察したヨハンは、それを責める事もなく、ただ穏やかに笑った。

「『こんな商売をしているのか』って?」

「う、うん。男の子なら……その、色んな事ができそうなのに」

「うん。でも、これは」

 ヨハンは、自分の足下に目を落とした。

「僕の復讐なんだ。自分の過去に対する」

「自分の過去?」

「うん。僕の母さん、元娼婦でね。今は結婚して、普通の家に入っているけど。昔は、色んな人から傷つけられた。父さんが、母さんの事を好きになったのに。母さんは、その虐めに耐えて、くっ! 僕は、そのイジメが許せないんだ。娼婦の人も、僕達と同じ人間なのに。僕は……救うなんて事は、できないけど。せめて、その屈辱を晴らしたい。性を生業にする人や、自分の性欲に悶々としている女性を。僕はより安全に、性交渉を行う事なく、女性達の快楽を満たしたいと思っているんだ」

 セーレは彼の話に感動こそはしないものの、どこか親近感のようなモノを覚えた。

「あなたは、女性の快楽に奉仕しようとしているんだ?」

「うん」

 ヨハンは、どこか自嘲気味に笑った。

「とても長い道だけどね。でも、僕は諦めない。『快感』は、誰の中にもあるから」

「うん……」

 セーレは、椅子の上で蹲った。

「私ね、『何でも屋』の人にスカウトされているの。でね」

「うん?」

「どうしようか、迷っている。何でも屋に入れば、お金の心配はなくなるけど」

「汚い仕事をしなくちゃならない?」

「うん」

 セーレは、彼の目を見つめた。

「ねぇ?」

「うん?」

「あなたは、この仕事を誇りに思っている?」

「もちろん」が、彼の答えだった。「取って置きのオイルも作れたし。大変な事も多いけど」

 ヨハンは、彼女の前に歩み寄った。

「君は、仕事に誇りを求めるの?」

 セーレは彼の質問に動揺したが、それも長くは続かなかった。

「私は、誇りよりも安心が欲しい。自分がそこで働いて、不快にならないような。それでお金が稼げたら最高」

「なるほどね。その意味では、何でも屋の仕事は気に入らないんだ」

「うん。何でも屋の仕事には、犯罪まがいのモノも多いし。捕まったらお仕舞い。私は、自分の親みたいな人間になりたくないの」

 ヨハンは、「それ」を聞いて何やら考えた。

「ふうん。ならさ」

「ん?」

「僕の店で働いてみない?」

 ヨハンは「ニコッ」と笑って、彼女の目を見つめた。

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