第3話 悲しい思い出(前篇)

 あの子は、不幸にならなかった。馬車の中から降りる時も幸運だったし、それから屋敷の中庭(正確には、友人の屋敷だが)に向かう時も幸運だった。屋敷の中庭では、友人達が彼女の到着を待っている。テーブルの上にお茶とお菓子を乗せて、今日の天気を「晴れて良かったわ」と喜びながら。

 彼女達は、今日のお茶会を楽しんでいた。そこに「あの子」が現れた瞬間、その全員が「あっ!」と立ち上がった程に。

 少女達は嬉しそうな顔で、お茶会の席に彼女を招き入れた。

「ごきげんよう、ミレイ」

「ごきげんよう」

 屋敷の執事は、彼女のカップにも紅茶を注いだ。とても優雅に、ゆっくりと。カップの八分目くらいまで。執事の少年は彼女に微笑むと、自分の主人を一瞥し、その後ろに引っ込んだ。

 ミレイは、自分の紅茶に手を伸ばした。

「不思議な香り。紅茶の種類を変えたのね?」

「はい、本日は特別に。お気に召さなかったでしょうか?」

「いいえ、とても素晴らしいです。この香りは」

 少年は、その感想に頭を下げた。

「有り難うございます。貴方にそう仰って頂けると」

「ふふふ」と、一人の少女が微笑んだ。「今回は、かなり頑張ったからね」

 彼女は、自分の執事にニヤついた。とても含みのある笑みで。「クスクス」と笑った顔にも……悪意とまでは行かないが、それを笑う悪戯心に溢れていた。お前の心は、お見通し。

 そう読み取った少年は、主人の見ている前で赤面し、そして、あからさまに狼狽えた。

「お、お嬢様! それは、決して言わない約束では?」

「あら、そうでしたっけ? ごめんなさい。つい、うっかり」

「うっかり、ではありませんよ? まったく!」

「まあまあ、そんなに怒らないで。執事の恋愛は」

「恋愛?」と、ミレイは驚いた。「ノリス君、誰かに恋しているの?」

「そうそう! うちのノリスはねぇ」

「ああああ」

 執事もとへ、ノリスは慌てて、主人の口を塞いだ。

「い、いえ! わたくしは、その、恋愛など……。分不相応です。わたくしのような」

「そんな事は、ありません」

「え?」

「恋愛は、個人の自由ですから。誰を好きになったって」

 そうでしょう? と、ミレイは彼に微笑んだ。とても綺麗な顔で。彼女の顔は……カノンほどではないにしろ、とても上品で、かつ、可愛らしかった。スラリと伸びた脚も素晴らしい。

 今はスカートに隠れて見えないが、実際の素足は雪よりも美しかった。年齢はカノンと同じ、17歳。美しい物がより美しく、醜い物がより醜く見えるお年頃である。髪は月を思わせる黄金色で、その毛先には緩いウェーブが掛かっていた。

 ミレイは優しげな顔で、友人の執事に微笑んだ。

 執事はその笑みに赤くなったが、自分の主人に溜め息をつかれると、今までの気持ちを忘れて、半分「え?」と驚きつつ、主人の方に視線を移した。

「アタシがせっかく、協力してやったのに。アンタは」

「も、申し訳ございません。ミレイ様の笑顔があまりにもお綺麗で、つい」

「じゃないわよ。アタシがどんなに」

 主人の顔が暗くなった。自分の気持ちを押し殺すように。その手も……やはりと言うか、彼の言葉に震えていた。悔しげな顔で、執事の顔を睨みつける。

 彼女……アリスは「それ」を保ったまま、テーブルのお菓子に手を伸ばし、そのお菓子を恨めしそうに食べた。

 ミレイは、その光景に首を傾げた。

「どうしたの?」

「何でもないわ」と、応えるアリス。「ただ、このヘタレ野郎に苛ついただけ」

「そ、そう、ヘタレ……でも」

「でも? なに?」

「う、ううん、何でもないよ。私は彼の事、『好きよ』と思っただけ」

「え?」と、アリスは驚いた。「コイツの事が好き?」

「うん。彼は、とても親切な人だし。それに」

「そ、それに?」

「『昔の友達』と似ているから。全部ではないけど、見ていて凄く懐かしい気持ちになる。『彼』が」

 そう、今でも相棒だったなら。彼は、自分の隣に座っていたかも知れない。今日の紅茶を「美味しい」と言い合ったりして。彼は、とても優しい人だった。自分がどんなに無茶なお願い(昔の自分は、好奇心旺盛だった)をしても、その後ろをきちんとついて来てくれる。彼の前でワガママを言った時も、ヨハンは決して自分に文句を言わなかった。

「僕は、君の相棒だからね」と言って。二人の力が合わされば……そう、どんな危険にでも立ち向かって行ける。二人は、二人で一つなのだ。悲しい事があれば、「わんわん」と泣くし、嬉しい事があれば、「やったね」と喜び合える。

 そこには、何の計算も無い。相手の事を「利用してやろう」と言う気持ちも。自分達はただ、お互いの事を支え合っているだけなのだ。人が一人では生きていけないように。彼らの関係もまた、お互いの事が必要不可欠だった。

 どちらも欠けてはならない、文字通りの一心同体。彼らは、その関係を保ち続けた。お互いの家へ遊びに行った時はもちろん、その両親から「行ってらっしゃい」または「良く来たね」と喜ばれた時も。彼らは、その事を心から喜んだ。自分達は、周りの大人から愛されている。屋敷の従僕達から「クスクス」と笑われる程に。

 屋敷の従僕達は……特にヨハンに対しては、家の令嬢以上に丁寧な対応を見せた。彼の服が少しでも汚れれば、それを「本当に汚い子ですね」と言って罵る。彼が屋敷の廊下で転べば、全員でその光景を嘲笑った。「流石は、娼婦の息子だ」と、「娼婦の息子は、屋敷の中で良く転ぶんだ」と言って。

 彼らはミレイに今の言葉を聞かれている事も気づかず、楽しげな顔で彼の前からいなくなった。

 ミレイは、彼らの言葉に首を傾げた。彼らの言っていた言葉、「娼婦」とは一体何なのか。幼い彼女には、それが分からない。分からないからこそ、その意味をどうしても知りたくなった。娼婦の意味さえ分かれば、彼らの態度もきっと改められる。そうなれば、ヨハンへの嫌がらせも無くなるのに違いない。

 彼女は、母親の部屋に走った。

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