第2話

「そこまで。交代の時間だ」

もう一度だけ伸ばそうとした手を僕は即座に引っ込めた。引っ込めざるを得ない。

後ろを振り向くと無精ひげを生やした男が、僕の陰に隠れた彼女を見下ろしていた。

彼女をじっくりと眺めているその男を、僕は顔しか知らない。

その人は名前も名乗らず、ただ僕より上の立場であることだけ理解していた。

「お前は調練もロクに出来ないのか、式根しきね。……ガキでも傷物にする藤次とうじよりはマシだが」

その男が手に持っているものは、犬にでもめそうな首輪に、茶色になめされた革のベルト。何をするかなんて想像に難くない。

あんたも大概だろうに。少しだけ息が漏れたのを実感した。

式根しきね、お前巡回に行ってこい。相変わらず紙と水が足りない」

出ていけということだ。こちらも当然願い下げ。

「ええ、分かっています。……それでは」

去り際に少女に向けて別れを告げた。それじゃあね、と言ったその口はしばらく閉じることは無かった。




くすんだ白い色の5階建てのアパート。ほとんどの部屋がシャッターを閉めている中、さっきまで僕がいた402号室からは依然として室内の明かりが漏れている。

時刻は午前11時、木曜日。

このタイミングで巡回を頼まれたのは幸運といえた。今朝は彼女に会う前から発作が酷い。アトピー性皮膚炎というやつだ。右ひざの裏は掻きむしったあまり、赤黒く変色し、ピンと伸ばすことすら満足にできない。

頭もよく掻きむしってしまい、もみあげのところからは体液が滲み出てしまう。

せめて塗り薬ぐらいは『調達』しないとだめだった。

アパートから目的の富俵ふだわら駅周辺までは一本道で行ける。車通りなどあるはずなく、学生の姿も見えない。

道中には、前を向いているのかさえ怪しい老人が、しきりに何か言葉を発しては高架線下の瓦礫に頭を突っ込んでいた。

高架線のその先ーーー僕は勝手に彼岸と読んでいる。人の声も、鳥が羽を休める姿さえそこには見えないから。きっとこのじいさんも彼岸から弾き出された亡霊に違いないのだ。自分に言い聞かせ、目をそらす……。



ノストラダムスは1999年の7月、空から恐怖の大王というやつがやってくると予言したらしいが、人類はそんなに劇的に滅んだりはしなかった。

国が国を許せなくなり、国の中で対立し、突然変異のウィルスができたように悪意が伝染した。僕の頭がもう少し良かったなら、何がきっかけだったのか?もしかしたら踏みとどまる事もできたのか?

そんな事は現在が確保されて初めて考えられることだろう。



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