第4話 ④


 下京しもぎょうの小さな廓街で、近頃噂になっている花魁がいる。

 名を、黒夜叉くろやしゃという。

 魔物のように蠱惑的で魅惑的と評されるが、その素顔は誰も知らない。そして今宵もまた、麗しき女郎蜘蛛の爪に引き裂かれる哀れな獲物がひとり。


               

「ああ、早く噂の女に会いたいものだ」                   金持ちの呉服屋の倅で、金を湯水のように使う放蕩息子と悪名高い利門りもんは、初めて上がった見世の座敷を物珍しそうに見回した。

 少し狭くて造りも古めかしいが、悪くない。風格のある柱にはいくつか傷がついていたり、塗りがひび割れて剥げている部分もあるが、掃除が行き届いているようで不潔な感じはしなかった。 

 もともとあまり羽振りの良くないこぢんまりとした廓だったのが、黒夜叉が売れたことで急激に金回りが良くなったのだろうか。

 飾り棚に置いてある花瓶などは一目で高級とわかる金細工のものであったりして、その癖、座敷に上がるために階段は軋んで音を立てる。

 主の性格が複雑というか――どこか、ちぐはぐな印象を受けた。

 そのことが、かえって利門の好奇心を刺激する。いつもは、もっと京よりの高級遊郭にしか行かないので、このざわざわとした雑多な空気も珍しかった。

「ふむ…この見世は、予想外に掘り出し物かもしれないな。今度、仲間たちにも教えてやるか」

 こういう、抱えている遊女の数も少なく見世構えも小さな廓の方が、案外良い女がいたりするものだ。

 青畳を敷き詰めた二階の座敷の上座に、絹の座布団を幾重にも重ねた席がふたつ。

 ひとつは、この部屋の主である花魁のためのもの。

 もうひとつが、客のための席だ。

 背後には金箔を惜しげもなく貼りつけた屏風が飾られ、煙草盆は蒔絵のついた黒漆仕立てだった。

「『雪狂』の廓が誇る、黒夜叉花魁か。どのような女なんだろう?」

 何しろこの廓と来たら、べらぼうに高い紹介料や座敷代を要求するくせに、花魁の正体はいっさい謎。

 数日前に花魁道中でちらりと見かけた黒夜叉の姿は、すらりと背が高くて、その名の通り、黒髪が見事だった。話題の花魁を一目見たくて人だかりができていたから、かろうじて後ろ姿を見ただけだけれど。

 今をときめく花魁の座敷に上がれるのであれば、と喜び勇んで言われるがままに金を払ったのだから、利門自身、相当な好き者と言うべきか。

 今夜一夜のために払った金で、普通の花魁ならば五人は買える。

 花魁ではなくただの遊女であれば、ひとつきふたつきは豪勢に遊んでもお釣りが来るくらいの額になるだろう。

「旦那さま。花魁は間もなくお見えになりますよ。それまでは、膝を崩してどうぞお寛ぎなんし」

「あ、ああ。わかった」

 廓にあちこちにたくさんいる少女こどもたちは皆、そう躾けられているのか、歌うように節をつけて独特の言葉使いで喋る。

 髪を肩の上で切り揃え、揃いの装束を着ている彼女たちは、大きくなったら花魁になるための修行をしている最中だ。髪に赤い蝶のような飾りをつけ、白粉を形ばかり叩いて、唇にも紅を刷いている。

 絹の座布団を何段も重ねた上に腰を下ろした利門は、落ち着かなかった。

 廓街の中でも、花魁と呼ばれる女は少ない。

 あまたの遊女たちの中で最高の美貌、最高の教養、最高の客あしらいができる一握りの女だけが最高峰の花魁を名乗ることを許される。

 現に、この廓の中で花魁と呼ばれるのは黒夜叉ただひとり。

 先代の花魁が身請けされたあと彗星のように現れ、あっというまに廓街の噂をかっさらっていった、今この花街で一番の売れっ妓である。

「おい」

「はい? なんでございましょう、旦那さま?」

「黒夜叉花魁は滅法酒に強いと聞いているが本当か?」

 少女たちがどっと笑った。

「はい、本当でありんす」

「それは嬉しい。酒を飲むときは、相手がいたほうがいい。それが美しい女なら、一層楽しい。人生、楽しいのが一番だからな。この浮き世では、気晴らしでもないとやっていられない」

 煙管きせるをくゆらせながら、利門は胸をときめかせる。どんな遊びにしろ、気分が高揚するのは良いものだ。人生、刺激がなくては退屈でやっていられない。今夜、この座敷で、いったいどんな甘い夢が見られるのだろう。

 


「うふふ、ふふふ」

 何がおかしいのか、ぱたぱたと行き交う少女たちが袖で口もとを押さえてくすくすと笑う。少女たちは花魁の身の回りのこまごまとした世話や、客の話し相手などが仕事だ。

 赤い紅に彩られた忍び笑いが幾重にも広がっていく。

「さあれ旦那さま、黒夜叉花魁が来なんしたよ」

「黒夜叉花魁の、お成~り~!」

 客の下手側にずらりと揃って座った子どもたちが、一斉に頭を下げる。

 お付きの若い女が開けた襖の向こうから、花街に君臨する女王蜂が姿を現した。

 一気に、座敷を包む空気ごと変わる。男は手にしていた煙管がぽとりと手から落ちたことにすら気が付かない。そばにいた少女のひとりが気を利かせて拾い上げ、もう一度手に持たせてやったことにも全然気づいていない。目を瞠り、呼吸すら忘れて、花魁の美麗な容姿に見入っていた。

「……これはこれは」

 すらりと背が高く、腰が痛々しいほどに細い。

 胸もとをきわどいところまで開け、着物の合わせ目から長い脚が無造作に見え隠れしているのが色っぽい。

 けれど、奇妙な着物を着ていた。

 金糸の刺繍がある艶やかな黒い絹に、髑髏が白く染め抜かれている。髑髏の空虚な目から彼岸花が咲き乱れている。裾の辺りには辞世の句と思しき文字が縫い取られ、豪勢な織りの前結び帯の中では地獄の炎が燃え盛っていた。

 顔立ちが雪女のように冷たげで、触れたら溶けてしまいそうなほどだ。切れ長の形の良い目に、睫毛が邪魔そうに見えるほど長い。白粉を濃く塗り固めて毒々しいくらいだったが、この独特の危うい美貌には、良く似合っていた。

「黒夜叉花魁……美しいとは聞いていたが、これほどまでとは」

 男を破滅させる美しさだ、と、利門は思う。

 この美貌の前に、男たちは明かりに群がる蛾のように吸い寄せられ――そして、燃え尽きてしまうに違いない。

 だがその毒は、抗えないほどに甘い。

 だからこそ蛾は、明かりに引き寄せられずにはいられない。

「まあ、嬉しがらせを仰ること。今宵のわちきの旦那さまは、ずいぶんとお口が上手なようだ」

 黒夜叉花魁が低くかすれる声でそう囁くと、子どもたちがまたしても漣のように笑う。

 さら、と絹擦れの音を立てて、花魁が所定の位置に腰を下ろす。ばさりと裾が乱れるのもかまわず座るので、子どもたちが裾を直し、整える。白い足先は素足で、足袋は履いていなかった。

 当然のように差し出された手に少女たちが煙管を渡し、花魁が深く吸い込み、紫煙が細く吐き出される。その何気ないありさまですら、極上の絵画のようだ。

「黒夜叉花魁の、今宵も美しいこと」

「旦那さま、お楽しみなんし」

 十にもならない子どもたちが、わざと大人っぽい台詞を吐くのがこまっしゃくれて愛らしい。

「旦那さま、御膳をどうぞ」

 花魁と客の前に、赤い塗りものの膳が運ばれてくる。

「さあさあ、たっぷりと楽しみましょうぞ。夜はまだまだ、これからにおざんす」

 目じりに赤い朱を佩いた双眸が、じっと猫のように利門の瞳を見つめる。

 囁く声が思いのほか低く、耳に心地よい。

 豪奢な、目もくらむような絹織物に身を包み、髪を結い上げ、おくれ毛を首筋に悩まし気にまとわりつかせて。

 甘く濃い香を焚きしめた派手やかな部屋の奥にちらりと見える、思わせぶりに敷かれた緋色の褥。

 利門は、そわそわと落ち着かない様子で盃を取った。

「花魁……黒夜叉花魁の座敷には確か、決まり事があるのだったか?」

「まあ、よくご存知でありんすこと」

 子どもたちが注ぐ酒にゆっくり口をつけながら利門が尋ねると、喉を反らして一気に盃を干した花魁が楽しげに微笑んだ。

 長い腕を伸ばし、利門の膝にそっと手を乗せる。

「わちきの趣味は飲み比べ。わちきを見事酔い潰すことができたなら、今宵わちきは、旦那さまのお望みを何でも叶えて差し上げますよ」

 黒夜叉が、思わせ振りにちら、と横目を流して微笑んだ。その微笑みは、ぞっとするほど色っぽい。

「それでこそ、今まで誰にも落とされたことがないと豪語する黒夜叉花魁だ。この利門も酒には強い。今夜で連勝記録は終わったと、明日の朝には瓦版が出るぞ」

「まあ」

 花魁が目を瞠る。どこか退屈そうにしていた花魁が、ぐいと身を乗り出した。

「それはおもしろいこと」

 切れ長の双眸が、いたぶる獲物を見つけた獣のように生き生きと煌めき出す。

「わちきも、今宵は遠慮せずに飲むといたしましょう。どちらが勝つか、楽しみだ」

 次々と空になる酒のお代わりを用意しに、少女たちが慌ただしく廊下を走る。

 盃をいとも簡単に空けて、花魁が首を巡らせる。

「誰ぞ。あの子を呼んでおくれでないか。酒の肴に、あの子の舞いがないとつまらない」

「はい、花魁。ここに控えております」

 花魁が手を叩いて呼ぶと、少女たちが取り次ぐよりも先に、呼応する声があった。


 からりと襖が開いて、少女たちよりは幾分年かさの娘が膝をつき、丁寧なしぐさで頭を垂れていた。

 秋の田に実る稲穂のような淡い色の髪を結い、深紅の着物をまとって金襴の帯を締めている。

「花魁。この娘は?」

「わちきの妹分でありんす……これ、旦那さまにご挨拶を」

「はい」

 滑るような足取りで座敷に入ってきた娘が、ゆっくりと頭を上げる。

 白く小さな顔立ちの中で、蕩ける琥珀のような瞳が宝玉のようだ。

 小さな両手を礼儀正しく膝の前について、涼やかな声が名を告げる。



銀夜叉ぎんやしゃ、と申します」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「花は桜よりも華のごとく」外伝 河合ゆうみ @mohumohu-innko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ