第3話 ③
矢涼の容態は、筆舌に尽くしがたい凄惨なありさまだった。
全身いたるところに深手を負わされ、打ち身にどす黒く染まっている。
首筋、心臓、太い血管が流れる場所には深く嬲る刀傷が走り。
血を止めない作用のある毒を塗られているのか、深く抉る傷口から失血がとまらない。
傷の痛みを最大限に引き延ばし、苦しませるやり方だ。気を失い、いっそ命を手放してしまったほうがどれほど楽になれることだろう。
「矢涼、お願いよ、がんばってちょうだい…!」
朧が必死に看病をしている。傷口の毒を拭き取り、血膿を取り除く。新たな消毒の痛みに、矢涼が鋭く呻く。
矢涼の普段物静かな面には苦痛が色濃く滲み、目の下が落ち窪んでいる。我慢強い矢涼がうめき声を押さえきれないというのは、相当苦しいのだ。
知らせを聞いて駆けつけてきた日輪座の一陽大夫の顔は血の気がひいて青ざめている。彼は今まで、矢涼を我が子同様に育ててきたのだ。
「――よくまあ、これだけの深手を負って逃げきってきたものだ」
「矢涼でなければ、とうに体力切れで息絶えていただろうな」
一陽と蒼馬が苦しげな表情で頷き合う。
「許せない……いったい誰がこんなことを」
門前で意識を失った矢涼はそのまま柚木座に運び込まれ、蒼馬が医師を呼んで手当をさせた。助かるかどうかはわからない。傷が深すぎる。
「医師殿。矢涼は助かるか…?」
額どころか全身に汗を浮かべて手当に専念していた医師は、難しい顔つきで答えた。
「こんな毒は見たことがありません。嗅いだこともないような香りで…どういった作用があるのかもわからない。一応拭き取りはしましたが」
「それは、どういう意味です?」
一陽も、医師に縋るような目線を送る。
「わからないのですよ。何を塗られたのかわからないから、この毒が単に止血を邪魔だてするだけのものなのか、それとももっと強力な作用がある薬なのか」
「強力な作用?」
「そうです。たとえば、肉を腐らせ骨を溶かす劇薬であるかもしれない」
「そんな…!」
朧が真っ青になったまま、唇をきつく噛み締める。
愁嘆場はいつでも胸が痛い。医師は胸の痛みに耐えながら続ける。
「まるで肉食獣が獲物をいたぶるように、致命傷をわざと外してあります。陰険な毒を使われた可能性はないとは言い切れない」
死なないように手加減をしながら、時間をかけて残虐に嬲り尽くしたのだろう。縄の跡が手首にくっきり残っている。捕まって縛り上げられ、責め苦の限りを尽くされたのだ、と蒼馬は読み取る。
そして恐らく相手は、矢涼が強く体力もあり、すぐには死なないことも知っていた。
陰湿なやり方だ。
苛烈なやり方だ。
こんな卑怯なやり口に、覚えはない。腸が煮えくり返る思いで蒼馬は拳を握る。矢涼の血と泥と苦痛の滲む顔を、朧が両手でそっと包み込んで叫ぶ。
「お願いよ矢涼、負けないで。負けたら承知しないんだから。負けたり、した、ら……っ」
耐えきれなくなったのか、袖で顔を覆って泣き出してしまう。それでももう片方の手は、矢涼の手をしっかり握って離さない。
――祈りよ、届いて。
お願いだから、私の好きな人をこんな無残な形で奪わないで。
朧の必死な声が届いたのか。
朧が矢涼の指先を握り締めて唇をつけると、その指が不意に握り返された。
「矢涼。気が付いたの!?」
「……ああ。泣くな、朧。俺は大丈夫だ」
苦痛に呻きながら、矢涼が少し目を開けた。消耗のあまりしばらく空をさまよった眼差しが、蒼馬を捜してはっきりと焦点を合わせ始める。
「――柚木座の、若は、……どちらに」
「ここだ」
憤怒の感情をおさえきれない蒼馬が、矢涼のそばに陣取る。矢涼の声はかすれて低く、いつもと全然違って力がなかったがそれでも聞き取れた。
「無様な真似を晒してすまない、若」
いや、それは矢涼が謝ることではない、と蒼馬が頭を振る。
「白火を追ったんだな?」
簡潔に問う。ゆっくり聞くほど時間の余裕はないし、第一矢涼も満足には喋れない。身体に力をこめれば余計苦痛が増すのを承知の上で、矢涼は護衛としての務めを忠実に果たそうと気力を振り絞っていた。
「そうだ」
その場にいた全員が、息を飲んでやりとりを見守る。
「どこだ」
「わからない」
仰向けに横たわったまま、矢涼が咳き込む。唇の端から鮮血が溢れ出て、朧の顔が大きく歪んだ。愛する者の苦しむさまを見るのは、身を斬るようにつらい。
「お前は何を見た」
問われて、呼吸さえもままならない中、矢涼は思い浮かべる。見てきたもの。白火のゆくえ。あれはどこだ。白火を追っているうちに愚かしくも捕らえられ、さんざんに拷問をくわえられた場所は。
あれは。
「…………狼」
見て来たものを告げる。早く白火を救い出してほしい。この身体では、もう追っていくことはできない。だから蒼馬に託す。
切れ切れになる意識に鞭打ち、声を絞り出す。今この深い眠りに身をゆだねてしまえば、楽になることは本能的に知っている。けれどまだ眠るわけにはいかない。眠ってしまう前に告げなくては。
今だけは声をしっかり紡ぎたい。あとで二度と喋ることができなくなっても構わないから、今だけはどうか。
全身に焼き鏝を押し当てられるような痛みに脂汗を浮かべつつ、祈るように息を吸い込む。息をするたびに凄まじい痛みが走り、意識が途切れかける。死の淵がぽっかりと口を開けて自分を誘っているのが見えるが、無視する。
痛みがあるのは生きている証拠だ、と、楽になりたがる己の心を叱咤する。
今自分の手を握り締めて泣いている朧のためにも、死ぬわけにはいかない。置いていくわけにはいかない。
たとえ、生き延びることがどんなに苦しくとも。
「狼?」
「黒い…………狼だった」
「黒い狼。それから」
朧が矢涼を案じて、手を握る指先に力をこめる。矢涼だけが知っている、白火のゆくえ。
矢涼は、残る力を振り絞って答えた。
あれは。
「――――黒い、夜叉だ」
浅黒い指先から力がふっと消える。
「矢涼!?」
朧が悲鳴をあげる。
それきり、矢涼の意識は途絶えた。
――大丈夫だ。置いて逝きはしないから。
ただただ深い眠りが、疲弊しきった矢涼を飲み込んでいく。
「矢涼、私はここにいるから。安心してぐっすり眠って、そして」
目を覚まして。お願いだから、そのまま死に引きずられたりしないで。
朧が泣きながら、包帯を巻きつけた大きな手を両手で包み込む。初めて出会ったころを思い出す。白火が行き倒れになっている矢涼を見つけたのだ。あのときも、矢涼は病のほかに深手をたくさん負っていた。
今も身体中にその跡が残っているから、矢涼は人前で着物を脱がない。今はその傷跡すら新しい傷に覆われて見えない。
「朧。矢涼のことを頼む」
看護を医師と朧とに任せて、蒼馬は立ち上がる。矢涼の容態も案じられるが、一刻も早く、白火を見つけ出さなくては。
矢涼は白火のために、命がけで戻ってきた。
――白火。お前は今、どこにいる……!?
矢涼がこのありさまでは、白火も最悪の事態に陥っているかもしれない。焦るあまり、奥歯がぎりぎりと嫌な音を立てて軋む。
ぐっと唇を引き締めた蒼馬の横顔は、怒りを孕んで険しかった。
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