第2話 ②
――見渡せば 柳桜をこき交ぜて 都は春の錦 絢爛たり――(『西行桜』より)
「うわあ。もうすっかり春だなあ…!」
冬の間に降り積もった雪をたっぷりと含んだ瑞々しい土と、芽吹いたばかりの草花の青い匂いを、胸いっぱいに吸い込む。長い冬が終わって、あちこちで春がほころび始めて、春の勢いはとまらない。白火は毎年、この季節が嬉しくて仕方ない。
春告げ鳥が鳴いて、山が笑う。
「京での春も、もう何度目だろう」
舞扇を華やかにかざして、白火は空を見上げる。
咲き初めた桜の枝振りがあまりに見事で、空を覆い隠してしまっているので白火の視界はすべて薄紅色だ。
「春ならではの空の色だなあ…」
気持ちも浮き立つ春。厳しい冬の寒さを乗り越えて、心も弾む穏やかな季節の到来に、けれども白火の心は少し痛む。
「――
昨日の夜更け、自室の寝床に腰を下ろした
深夜の今は蝋燭の芯を切って明かりを小さくし、すでに寝床に入っている白火の眠りを妨げないように気を配る。明日の朝は早いのだ。蒼馬としては、白火を今のうちに寝かせておきたい。
白火は
春は能楽一座にとってはうってつけの時期で、興行の誘いが引きも切らない。花形である白火はこれから忙しくなるので、今のうちにできるだけ休ませておきたかった。
長年一座を率いていても、興行を控えた夜は気ぜわしいし仕事も多い。舞人の意識ももっとも高まり、熱っぽい興奮が冷めない。座全体に渦巻くようなこの興奮は、桜が散るまで続く。
「太夫。起きていらっしゃいますか」
襖を隔てた廊下から、ひそやかに声をかけられる。
「
「失礼します」
遠慮がちに襖が開けられ、隼人が手に持っていた結び文を差し出す。
「太夫宛てに文が届きましたので…もしや、お急ぎかと」
仕事の文を持ってきたにしては、隼人の様子がどことなくおかしい。
隼人が携えてきた文は古びたしなやかな青い紙で、きつく折りたたんで結んであって、宛先も何も書いていない。ただ薄様の青さが際立って美しい。
「……
だから隼人がわざわざ人目を忍んで持ってきたのか、と蒼馬は納得する。
「気を遣わせたようだな。悪い」
「やはり、
廊下に片膝をついたままの隼人が、声をひそめながらも小さく笑う。
「驚きましたよ。夕方届いた荷の中に、これが紛れこませてあったんです。青い薄様の文は、以前も大夫に届けたことがありましたから」
だから覚えていたんです、と柚木座の座員は屈託がない。
「返事を出すなら文使いをしますが」
「いや、いい。それより、お前も早く休め。明日も忙しいぞ」
「はい、わかりました。太夫もほどほどで休んでくださいね。失礼します」
隼人が母屋の住み込み部屋へと立ち去る足音を耳にしながら、蒼馬は文に目を走らせる。
瑪瑙が時々、こうやって蒼馬に近況を知らせてくる。土蜘蛛特有の文字で記されているので、一族以外の者には読めない。はぐれ者たちの一族は、大胆であると同時にとても用心深い。他者には読めない文字で文を綴り、ひっそりと届けに来る。
「相変わらず、難航しているようだな…」
重いため息が唇をつく。
土蜘蛛の一族の血が、――秘密ではあるが――蒼馬の身体にも流れている。よそ者、はぐれ者、帝にまつろわぬ誇り高い獣のような一族は全国に散らばり、依然として騒乱の真っただ中にいる。
大江山の根城を治めていた朱鬼が裏切り、帝に忠誠を誓ったことを土蜘蛛の一族は未だ許していない。
裏切り者には死を。
朱鬼はかつての仲間に命を狙われながら、一族を説得するために全国を飛び回っている。瑪瑙はその朱鬼の片腕であり、守り手だ。
蒼馬は手にしていた文をじっくり読みきると、すぐさま燭台の火を移した。文が燃えてただの屑になったのを見届けてから始末をし、自身も寝床に潜り込む。そろそろ寝ないと、さすがに身が持たない。
大きめの寝床は、白火の体温が移ってほこほこと温かかった。
そっと白火の身体を胸に抱き寄せると、とっくに眠っているとばかり思っていた白火が瞼を開いていた。暗闇の中でもわかる蕩ける琥珀のような双眸が、まともに蒼馬の眼を射る。
「蒼馬さま」
「起こしたか?」
「いいえ。さっき、誰か来たような気がして」
「隼人だ」
「何かありましたか?」
不安そうに首をもたげる白火の金茶色の髪を、蒼馬が長い指で梳く。
「瑪瑙から知らせが来た」
「え」
白火の瞳から、とろりとした眠気が完全に消えた。じっと蒼馬の顔を見上げる。
「…お元気でしたか? それとも」
「特に変わりはないようだ。瑪瑙はそう言っていたし、第一朱鬼の馬鹿なら、病のほうが避けて通る」
心配なのはお前のほうだ、と蒼馬が白火の顔を覗き込んだ。
「最近調子が悪いだろう。顔色も良くないし、どうした? 疲れているのか?」
夫婦となって数年経っても、蒼馬の過保護ぶりは全然変わらない。むしろ、一層ひどくなっているような気さえする。
「オレなら大丈夫ですよ。もう。子ども扱いしないでくださいって、何度も言っているのに」
「俺は妻の身を案じているだけだ」
さらりと切り返されて、白火は二の句が継げなくなってしまう。蒼馬の腕の中で身じろぎして、眠りやすいように体の位置を整える。夜の帳の中でひっそりと話をしながらも、蒼馬の手は白火を寝かしつけるために背中を撫でおろしている。すでに癖になっているその動きに、白火がくすりと唇を綻ばせた。
「瑪瑙さん、お元気でした?」
「ああ。先日までは北にいたが、今度は西へ向かう気でいるらしい。北か。相当手こずっただろうな」
「北?」
「蝦夷と呼ばれている辺りだ」
「東国よりもっと北の、雪国ですね」
日輪座のころも基本的に京の近くを回り歩いていたため、白火は雪国に足を踏み入れたことがない。
「北の寒さ厳しい地方では、大人の背丈ほどの高さにまで雪が降り積もると、
「ああ。俺も行ったことはないが、蝦夷には土蜘蛛の一族の中でも、特に猛々しい気性のやつらが巣食っている。雪のように峻烈で険しくて、よそ者を決して受け入れない」
「雪……」
白火には、いまだに土蜘蛛一族のことはよくわからない。
「そう言えばあの辺りは、頭が代替わりしたとか言っていたか……」
蒼馬が記憶をたぐり寄せて呟くと同時に、白火の声が途切れた。
「寝落ちたか。…最近、あまりよく眠れていないようだったからな。無理もない」
腕を伸ばして、白火の身体が冷えないよう衾をかけてやる。
白火の調子が悪いことには、周囲も薄々気づいている。舞いに影響が出ていないあたりはさすがだが、どことなくしんどそうな様子が続いていて、蒼馬や他の座員たちも心配していたところだ。
それでも本人は大丈夫だと言い張って、興行の舞台を休まない。
「まあ、食事は摂っているから、それだけは安心できるか」
まだ調子の悪さが続くようだったら強制的に休ませようと心に決めて、蒼馬も目を閉じた。
「あ。蒼馬さま、おはようございます!」
「早いな、白火。俺が寝過ごしたか?」
「蒼馬さまはいつも通りですよ。ね、白火さん」
隼人が明るく笑う。屋敷の中は、興行の準備で大忙しだ。厨では夜明け前から煮炊きが始まり、手の空いた者から朝食を食べに来る。騒然とした中で、白火が握り飯を頬張っていた。最近の白火はよく食べる。舞人は体力勝負だ。
この分なら大丈夫そうだな、と蒼馬は微笑んだ。
「今日は河原で花見能だ。しっかり食べて体力をつけておけ」
「はい!」
その白火が。
「太夫、どこにも見当たりません!」
「こっちにもいません!」
「おかしいな……白火さんなら目立つから、どこにいても誰かしら目撃しているはずなのに」
明るいうちに花見能が終わってそれぞれほっと一息ついている間に、忽然と姿を消してしまった。
「どこに行っているにしても、引き揚げる刻限までには戻ってくるはずだ」
「お得意さまのどなたかに引き留められて、甘味処にでも行っているのかもしれませんね」
座員のひとりがそう言って、自ら確認しに駆け出していく。
蒼馬は、嫌な予感を隠しきれない。座の人間たちも同じ気持ちのようだった。興行の後片付けを済ませ、座に帰るばかりに支度を整えた。もう夜もとっぷりと暮れて、こんな時間になっても戻って来ないなど、どう考えても異常だ。普通の人間ならそんな気まぐれを起こすこともあるだろうが、あの白火だ。
生真面目で純粋な、柚木座自慢の桜天女、姫太夫だ。
「何せ白火さんには、前科がありますからね……」
隼人が表情を曇らせる。白火は美貌の舞い手であり、幼いころから何度も何度も攫われてきた過去がある。
「
日輪座の寡黙な笛方は、白火の幼なじみだ。忍びの一族に育った過去があり、ずっと前から白火の護衛を兼ねている。白火がこれまで無事でいられたのは、ひとえに彼のおかげだ。
「どうしますか、若太夫……いえ、太夫」
座員たちが落ち着かなげに、うろうろと辺りを見回す。普段一人歩きなどして迷惑をかけるような真似は絶対しないだけに、皆不安そうに眉根を寄せる。興行の直後で疲れているはずなのに、誰ひとりとして先に帰ろうとしない。
「荷物をまとめたら、皆、もう戻れ」
蒼馬が指示を出す。白火のことは気がかりだが、座のことも気を回さなくてはならない。それが太夫の務めである。
「でも、太夫」
「もしかしたら、先に座に戻っているかもしれん」
たまたま白火を見かけて、連れて帰りそうな輩のひとりやふたりには三人や四人くらいは心当たりもある。
心配で、あとを振り返りつつ振り返りつつ、帰路につく。座員たちの、荷車を押す手も鈍りがちだった。
そうして辿り着いた柚木座の館に、白火の姿はなかった。もしかしたら古巣に立ち寄りでもしているのかと、日輪座にはすでに使いを出してある。その日輪座の娘、
「蒼馬さま」
「朧。どうした」
「白火がいないと聞いて、それで」
「矢涼はどこだ?」
「それが、見つかりませんの」
白火と姉妹同様に育った朧が、不安そうに大きな目を瞠る。白火のこととなると他のことが一切目に入らなくなるほどの心配性だが、今日は殊更に心細そうな顔つきをして痛々しい。
「……もしかしてあの子、また誘拐されたのかしら」
ぎく、と座員たちの肩が強張る。
蒼馬としても、否定できないのがつらい。
「興行が終わるまでは確かにいたんだが」
そのあとの白火は、まるで溶けてしまったかのように姿を消した。
朧の中ではもう、白火は攫われたことに決定しているらしい。
「白火ったらもう、何度攫われれば気が済むの……!」
心配しているのを隠しきれず、着物の袂をねじって絞り上げる。
「館に荷物を置いたら、捜しに出る。もし誰かと一緒なら、そろそろ連絡のひとつも来る頃合いだ……」
まだ一同には余裕があった。
なぜなら、朧の夫でもある矢涼がここにいないから。それはつまり、白火のそばにいるということだ。
「矢涼なら、きっとどこにいても連絡をくれると思いますけど、でもあの人時々連絡が遅いから」
連絡の遅い夫に、筆無精な幼なじみ。
「まったくふたりとも、子どものころから全然変わってないんだから……!」
朧が膨れてそう言いながら、はっと顔を強ばらせた。風に乗って、さっと血の匂いがすることに気づいたのだ。
「血の匂い……?」
何気なく振り向いて、その瞳が驚愕に凍りつく。
ふらりと物陰から現れた大柄な人影が、館の手前の往来に、土煙を上げて倒れ込む。みるみるうちに血だまりが広がる。朧の小さな唇が悲鳴を紡いだ。
「矢涼…………!」
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