第2話 家伝

 剣を握ったのはいつ頃であったろうか。


一番古い記憶でも、すでに木刀を握っていた。木刀を取り落として頭にぶつけて泣いたことがあった。すると母が駆け寄って抱きしめてくれたのを覚えている。その時の母の着物の模様と焚きしめた香の匂い、柔らかな感触はいまだに覚えていた。


 次の記憶では、父に勢法かたを教わっている記憶だ。


 四角い顎に濃いひげの剃り跡が青く、瞳は優しい。痩身ながら全身から精気が満ちていた。そんな父が恐ろしくもあり、また憧れでもあった。


「よいか。文九郎」


 父は優しい声で言った。


「無から有を作れるのは、人ならぬ神仏だけだ。我ら凡夫は、神仏が作られた有から少しずつ学び取らせていただき、そこから先祖代々、勢法を形作ってきたのだ」


 父の話す内容は、まだ幼い文九郎には難しくてわからなかった。それでも、父が大事なことを伝えようとしていることだけははっきりとわかった。


 文九郎はうなずいた。


「その勢法こそが我らの命だ」


 力強くそう言う父の顔には、これまで連綿と伝えてきた家伝の技に対する誇りがありありと浮かんでいた。文九郎もその技を受け継ぐことができる、という興奮と使命感に心が高揚したのを今でも覚えている。


 稽古は、厳しかった。


 朝夕の素振り千本は序の口で、その後、受け身から始まり、家伝の勢法の独り稽古。次は、父が受けをとり、二人で勢法の稽古を繰り返す。獲物は、木刀だが、少しでも気を抜くと父の斬撃を受け損なう。鋭く重い一撃だ。そのたびに、父に叱責された。


「木刀と思うな。今のが真剣なれば死んでいたぞ!」


 確かにその通りであった。


 勢法通りに父の太刀を受けると痛くも重くも感じられない。それが、わずかでも狂うと一気に受けるのも精一杯になってしまう。不思議であった。しかし、それだけ不可思議な勢法を自分は習うことができる。優越感も相まって、いっそうのめり込んだ。


 いつしか慢心していたのだろう。


 ある日、父が袋竹刀を渡して言った。


「好きなように打ってきなさい」


 静かな声だったが、有無を言わさぬ迫力があった。いささか、面食らいながらも心の奥底では、己の技量を試せる絶好の機会だとほくそ笑んだ。


「父上は、袋竹刀は持たないのですか?」


 無手で佇んでいる父に向かって文九郎は尋ねた。


「いらぬ」


 どこか嘲るような声色がにじんでいた。


 文九郎はむっとした。


「さぁ。好きなようにきなさい」


 再度、父が言う。


 文九郎の中で迷いが消えた。一泡吹かせることだけしかなかった。


 三間ほど離れて、文九郎は、袋竹刀を横構えにとる。


 一番しっくりとくる構えだ。


「地星剣か」


 父は、見透かしたように言った。


 地星剣は下段からすくい上げるように斬る技の一つで、変化技を含めると無数に展開できる。


 見事に先を読まれたその動揺を気取られぬために父をにらみつける。


 泰然と立つ父に打ち込もうとにじり寄る。


 父は微塵も動かない。


 その静かな圧力に負けて、小典は大きく踏み出した。


 口からは「おお―!」と大声を上げていた。


 文九郎の袋竹刀は、右下から逆袈裟に父の胴体を襲った。


 だが、次の瞬間、文九郎の左手にふわりと何かが当たった、と思った刹那、


文九郎の視線は、ぐるりと回転した。


 気がつくと父が正座をして、顔を覗き込んでいた。


 先程来の威圧感はなりを潜めて、いつもの慈愛に満ちた瞳が文九郎を見つめていた。


「気がついたか?」


 文九郎は、慌てて起き上がる。ふらりとめまいがした。


「しばし横になっていなさい」


 促されてふたたび横になる。


「文九郎、お主は、今、死んだのだ。これからは、生まれ変わったと思って、なおいっそう修行に打ち込みなさい」


 文九郎は理解した。無手の父に文九郎の袋竹刀は、かすることすらできなかったのだ。己の思い上がりを痛感した。

 

 以後、心を入れ替えて修行に打ち込んだ。


 元服を祝う式の後、父に道場に来るように言われた。


 袋竹刀を渡された。今度は、父も袋竹刀を手に取っている。


「好きなように打ってきなさい」


 初めて袋竹刀を渡されたときと同じであった。


 父の言葉はどこまでも静かだった。


 文九郎は、無言で右八相に構える。


 父も相対するように右八相の構えだ。


 隙を探る。だが、打ち込む隙があるのかないのかすらわからない。


 父は、微動だにしない。ただ立っているだけに見える。だが、怖いのだ。文九郎の身体が動かない。


 いざ、と覚悟を決めたその時、


「半月か」


 と父がぼそりと言った。


 半月は、相手の懐に入り、担ぎ上げるように小手または胴を横になぎ払う技だ。その軌跡が半月のように見えるからそう名付けられた技である。今まさにその技を使おうと考えていたのだった。


 口の中がカラカラだ。全身に汗が噴き出してくる。視界の中、父の姿がとてつもなく大きく見える。


 文九郎は奥歯をぐっとかみしめると「いやー!」と気合いもろとも打ち込んだ。


 父の懐に潜り込むと後は勢法通り、小手を薙ぎ斬る、はずであった。


「あっ」


 文九郎の太刀筋は、父の袋竹刀によって見事に小手を押さえ込まれて止められていた。


 父の太刀筋は、静かでそよ風のようであった。痛みも衝撃もなかった。それなのに、文九郎の袋竹刀は些かも動かすことができなかった。


「修行を続けなさい」


 父は、袋竹刀を納めるとそう言った。


「はい」


 文九郎はそう言うしかなかった。


 十八の歳、嫁をもらった。


 二十三の歳、家伝の兵法の免許皆伝を許された。


 二十五の歳、子どもが生まれた。


 その都度、父と立ち会った。


 文字通り、手も足も出なかった。


 春が来て夏が来て秋が来て冬が来た。


 三十の歳、父は病に倒れた。


 半年後、回復し、すぐに道場で立ち会った。


 その時の父の剣の冴えは神域に達していると言っても過言ではなかった。


 文九郎は足下にも及ばなかった。


 それからすぐに、父は再び病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。


 文九郎はとうとう父に対して、むやみに飛び込むこと以外、一歩も勝つための歩を進めることができなかった。






 






 

 



 





 


 



 


 


 




 




 

 


 

 

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