家風~黒吉文九郎の一歩~
宮国 克行(みやくに かつゆき)
第1話 序章
秋の声を知らせる蝉の声が聞こえてきた。
いつからだ。いつから聞こえていたのだ、と
意識したからだろうか、急に蝉の声が大きく聞こえ出した。しかも、一匹ではなく二匹三匹が、いや、もっと多くの蝉がつられたように騒々しく鳴きだした。
――ええい。やかましい
文九郎は、胸の内で毒づいた。
途端に額の汗が多く噴き出し始めた。
昼の間に存分に熱せられた大気は、日が傾きかけても容赦なく地上の生きとし生ける者たちを苦しめていた。この道場の中も例外ではなかった。むしろ、外よりも籠っている分、大気は熱いぐらいだ。
八畳ほどのちんまりとした道場であった。床板は、飴色というよりも所々、黒ずんで見える。近づいてよく見れば、それが水玉模様のように点々と重なっている結果だということがわかる。
――先達の血と汗と涙が重なっている証よ
集中が途切れそうになると文七郎は必ず床板のそれらを眺めた。先祖たち、そして、歴代の師範、弟子たちがそれらをこぼして、床板に染みついたものだ。
――儂だけが遣えぬとなれば顔向けできない
唸るように思った。
キッと目の前の人物をねめつける。
文九郎の目の前には、太刀を下段に構えた男がいた。
年のころは、50歳前後だろう。鬢に白いものが混じり、顔のしわも深い。しかし、炯炯とした瞳は、どこまでも澄んでいて、文九郎の殺気などすぐさま吸い込まれて、そのまま飲み込まれてしまいそうであった。
怖気を振り払うように文九郎はさらに睨みつける。
木刀の柄を握りなおす。構えは、横構だ。半身で右腰のあたりに地と平行に太刀を構える形だ。それは文九郎の得意の構えであった。
意識がそれたことにより、ほころび始めた心身を再び統一させようと試みる。無我の境地とでも言おうか。文九郎なりの積み上げてきた術技を今こそ見せる時であった。
わずかに前に出ようと試みる。
男がスッとそれに合わせるかのように対する。
文九郎の顔中、体中に冷や汗が噴出した。
――儂は負けるのか
絶望ともいえる気持ちが頭をもたげ始めた。
文九郎の瞳をかすめて汗の球が幾筋か落ちた。
相対する男の双眸はどこまでも澄んでいた。
蝉の声が一瞬だけ止まった。
微かに床板を叩く音がした。
文九郎の体が吸い込まれるように動いていた。
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